■日々是ゴム消し Log27 もどる

 

 

 

 

 

 朝から安い・早い・仕事きっちりの引っ越し業者の営業マンが来る。のっけから「ホンのご挨拶代わりに」と岩手のひとめぼれ1キロを差し出す。明朗会計といった風の30代くらいの営業マンは、つれあいの実家に近い和歌山・湯浅の出身とのこと。もう一人、おそらく転職組であろう、見習いだという初老の男性がわきで熱心にメモをとっていた。詳しい話は省くが交渉の結果、ほぼ希望に近い額まで下げてもらい、手を打つことにした。エアコンの着脱込みで6万5千円。3トン車に詰めるだけ積んでもらって、予想では10個前後乗り切らないだろうダンボールと自転車2台は自前で運ぶ内容である。それらは近所で自転車屋をやっている親類宅で軽トラを借りようと考えている。それに精密機械であるPCも友人の車で運んでもらおうと考えている。バイクはもちろんじぶんで乗っていく。日にちは予定通り10月の頭。平日の午前。さっそくダンボール50個を置いていった。月末よりつれあいの実家の義母が手伝いに来て、引っ越しが落ち着くまで泊まってくれるそうだ。というわけで月末からまた一週間か二週間ほど、HPの更新も停止となるだろう。数少ない読者の方はその旨お酌み取りいただきたい。

 大阪の職安を覗きに行く電車の中などで少しづつ、中上健次の熊野を題材にした短編集「化粧」(講談社文芸文庫)を読み継いでいる。血がたぎり、肉がわななく。全き個に、冥い根茎の深みに降りていくことだ、とあらためて思う。台所でモリスンと元ちとせの新譜をくり返し聴いている。ときおりサム・クックやディランやブルーハーツやチャボの昔の曲も聴く。モリスンの You Make Me Feel So Free をかけながら台所で娘とでたらめなダンスを踊る。最近大阪の書店で買った「〈狂い〉と信仰 狂わなければ救われない」(町田宗鳳・PHP新書)も読み始めた。そんなふうに一年後の9.11を迎えようとしている。そんなふうに今年の夏も暮れていく。

 

今年もまた、苦虫を一匹噛み潰しただけの夏だった

(10年前の古いノートから)

 

 生きている以上、救いなどどこにもありはない。相変わらず、石くれのように転がっていくだけだ。必要なのはそのための覚悟だ。覚悟を失わないための愚かなまでの単純さだ。ほんとうに必要なものはそれほど多くはない。石くれのように転がっていくだけ。このあがきは終わらない。それでいい。

 

2002.9.8

 

*

 

 引っ越し後に子どもが通うスイミング教室の目星がついた。一時はバスと電車を乗り継ぎ、月に2万円近くの交通費をかけて現在の教室まで通わざるを得ないかと覚悟しかけたのだが、つれあいが図書館で電話帳を調べ、あちこちに電話をかけた結果、JR駅の近くに教室を見つけた。バスで駅まで出てから電車で一駅だから無理せず行ける。予想以上に足の筋肉がついてきたのはスイミングのお陰とリハビリの医師に言われていたつれあいは、これでようやく一息ついた。

 つれあいが図書館へ行っている間、娘を連れてサティへ買い物に行く。途中の公園の芝生の上で彼女はトンボの群れを追う。拾った小枝を片手でふりまわし、なぜかそれでつかまえようとしている。サティの前でハトを追い回す。クリーニング店の屋根に舞い上がったのを、いつまでも待ち続けている。肉屋のガラス・ケースの前でミンチとウィンナーを覚える。ミンチ、食べたい、と言う。大好きな牛乳をカゴに入れる。煙草の販売機に手をつっこみ、釣り銭口から10円玉を拾ってくる。

 

 BBSである人が教えてくれた、同時多発テロのときにNYの現場で事件に遭遇したパレスチナ人のスピーチを読む(「兄弟、もし嫌じゃなければ....」)。しばらく前の夕刊で詩人の長田弘氏が、江戸時代の大阪の学問所について書いていたこんな一節が浮かぶ。

 

「ここに、共に在る」というのは、ここという場を、必要な他者と共にするということです。言い方を変えれば、プルーラル・アイディンティティ(他者のいる、あるいは、他者あっての、独自性)を、すすんでじぶんに担うということです。

 他者と共に、ここに在るという感受性のうえにそだつのは、人の自由です。

(2002.9.4 朝日新聞夕刊 ここに共に在ること)

 

 詩人はさらに、芥川龍之介の無二の友人であった法哲学者の恒藤恭をひいて、次のように続ける。

 

 恒藤が、昭和の幕を上げて自殺した芥川龍之介の、無二の友人だったことはよく知られます。二人は旧制第一高等学校の級友。芥川の自殺を悲しみとともに受け入れて著された恒藤の『旧友芥川龍之介』は、名篇の一語につきる友情の書ですが、芥川という死者/他者とともに在るプルーラル・アイディンティティを、そののちずっと、恒藤はじぶんに担いつづけます。

『旧友芥川龍之介』のなかに、「共に生きる者の幸福について」として、恒藤は記しています。

「『おたがひに一と言も話さないで、おやぢと二人、部屋の中に一緒にゐるときがある。それでゐて、そんな時にいちばん幸福な感じがするんだ』といふやうなことを芥川が話したことがある。これは意味の深い言葉だと思つて、いまでも記憶してゐる。
 ほんたうに親しい間柄の人と人とは、ただ同じ処にじつとして居るだけで、すでに充分に幸福である」(市民文庫版1952年)

 その芥川が姿を消した20世紀のこの国で真っ先に失われていったのは、実は、恒藤がここで名ざしている「共に生きる者の幸福」でした。学校もまたおなじ。「ここに、共に在る」ことを学べるような場所では、とうになくなっています。

 

 まこと現在の私たちが知っているのは、その正反対のどうしようもないほどばらばらの感覚、ばらばらでいながらみなおなじく崩れていく奇妙な崩壊感覚かも知れない。

 私はその場所にはいたくない。どんな嘲笑を受けようと、後ろ指をさされようと、たとえ気狂い扱いされようとも、呑み込めないものを口に入れることはできない。尻尾を巻いてトンズラしたい。

 「兄弟、もし嫌じゃなかったら、ガラスの雲が近付いているから、俺の手を取りなよ、ここからずらかろう」

2002.9.9

 

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 父親が事故で死んだのは、ちょうど私の20才の夏の終わりだった。だから気がつけば、あれからもう17年にもなる。かれは死んだとき50才であったから、生き続けていたら、いま67才になる勘定だ。67才になった父の姿を、私は想像できるような気もするし、できないような気もする。かれが生きていたら、私の辿った風景も自ずと変わったろうか。私はインドなぞ旅しなかったかも知れないし、熊野に憧れてこの地へ移ることもなかったかも知れない。きっとつれあいとも出会わなかったろうし、娘もこの世に生を受けることもなかったろう。かつての使徒たちがイエスのまぼろしを求めて苦難の旅路を辿ったように、人はこの世から立ち去ることによっても、生者の風景を変えてしまう。死んだ者は何であったのか、なぜかれはここにいないのか、と残された者は問うのだ。「ここに、共に在る」という感覚は、何も生きている者ばかりとは限らない。日のなかで目を凝らせば、死んだ者もまた「ここに、共に在る」。いや、生きている者たちは、いまここにあって日の光を浴びることもできるのだから、勝手にやればよい。私はむしろ、死んでしまってここにいない者たちとこそ、共に在りたい。生きていれば67才になる父や、ブッダの亡骸にとりすがって号泣していた弟子たちや、旅客機をハイジャックしてセンタービルに突っ込んだ若者や、「誤爆」によって頭を割られて死んでいった少女や、狂える少年によって生首を校門に晒されたこどもの魂と、共に在りたい。

 もし父が生きていたら、山好きだったかれを私は、きっとこの熊野の山へ誘っただろう。二人でいにしえの修験の道を辿り、この重畳たる山塊を見せてやりたかった。いま、四方を埋め尽くした雄壮な峯々は、どこまでも蒼く、白く、まるで雪舟の水墨画のように見える。あるいは瀬戸内あたりの海に浮かんだ無数の小島のようにも見える。山のなかに大きな海がある(それは本当だ)。海のなかに母があって、それは私たちの根茎である。古来よりこの地方では、魂は死んだ後に山へと駆け上るのだ。

2002.9.10

 

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 新聞やテレビを見れば、9.11の犠牲者を悼むスピーチや華々しい式典ばかりが目につく。ではアフガニスタンの名もなき死者たちはいったい誰が悼むのか。世界はかれらのために黙祷をしないのか。かつて辺見庸が書いていたことだ。この世界では白人一人の命の重みが、非白人十数人のそれと等価である。この反吐が出るほどの非対称。マスコミは相変わらず「対テロ」などといったアメリカ側の受け売りを借用して平気な顔で居る。それはあまりにも白痴的で、あらゆる感受性を根こそぎにしてしまうような、怖ろしいほどの定義だ。薄皮一枚を剥がされ、醜い実相を露わにした世界は何ひとつ変わっちゃいない。相変わらずの白痴野郎どもが、薄汚い尻を温めて澄ましていやがる。私は決してテロを否定はしまい。それはこの一年間ずっと考えてきたことだけれど、結局、いまも変わっていない。私はテロを否定しまい。つまり、さらに緻密で強大で冷酷な暴力が支配している「正義」が大手をふっている世界において、私は決してテロを否定はしまい。否定するに足る確かな言葉を、私はついに私のなかに持たない。テロは確かに毒である。だがいまや、毒によってのみ膿は抽出されるのではないか。むしろ毒によってしか気づけない無関心は、毒よりも耐え難い腐敗臭を放っているのではないか。あの貿易センタービルに突っ込んだテロリストたちが、この世界の「自明なるもの」への憎しみに溢れていたとしたら、私の感性はそれを否定しない。肯定はしないけれど、否定もしない。「誤爆」などといった馬鹿げた言葉の向こうで頭を割られて無惨に死んでいった少女に相変わらず一瞥もしないで取り澄ましているこの世界の自明を、ある意味で私はかのテロリストたちとおなじように激しく憎む。

 

 子どものあたらしい装具が出来てきた。前のものよりさらに頑丈で、ベルトの革なども分厚い。この上に、戸外を歩くときはおなじ革製の袋状のものをかぶせて靴代わりとし、それも今日、型をとって作ってもらうことになった。子どもはじぶんのあたらしい「靴」を、センセイがくれた、とただ無邪気に喜んでいる。今日はリハビリとこの装具の受け渡しと、さらに半年に一度の整形外科の診察、MRの検査などがあったので、私も同行した。以前に祝い返しに貰った図書券があったので、帰りに近鉄百貨店に寄って、子どもに絵本と折り紙の本を買って夕方遅くに帰ってきた。

2002.9.12

 

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 夜、些細なことでつれあいと口論になる。どろどろしたタールのようにくすぶっているから、つまらぬことが気に障るのだ。夜道を子どもとどこまでもさすらいたいと思い、「紫乃さん、お父さんといっしょに散歩しよう」と子どもに装具を履かせにかかる。「こんな遅くに連れ出さないで」とつれあいが子どもを奪い取る。伸ばした腕を叩かれ、余計なことをするな、と怒鳴って子どもを抱きしめている彼女の手を払う。子どもが火のついたように泣き出す。つれあいの腕から無理矢理子どもを引き剥がし、抱いて台所へいく。子どもは泣きやまない。部屋の明かるい方を指さして、あっちへ行く、と言う。部屋に戻り下ろしてやると、つれあいの胸に飛び込んでいく。二人して抱きあっている。

 いきり立った荒馬が暴れている。それを、どうすることもできない。

2002.9.13

 

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 日曜は近所で自転車屋を営んでいる十津川出身の親類宅を訪ねた。引っ越し前に自転車に子どもを乗せるカゴを取り付けてもらおうと思ったのだが、下取りをしたらしい古い型の電動自転車をバッテリー二つと充電器とともに持って行けと言い、荷台に新品のカゴを取り付けてくれた。カゴの料金もそんなものいいからと受け取ってもらえなかった。試し乗りしたつれあいは、坂でもペダルが全然ラクだ、これなら引っ越し先でも重宝する、と大層喜んでいた。子どもは当初は怖がって泣いたが、すぐに馴れて、いまではカゴに颯爽と腰かけ「シュッパツ !!」などと言っている。

 今日は病院。私も朝から同行する。リハビリでは、体の右側に玩具を置いて遊ぶ癖がついているのでなるべく注意して直すように、と言われた。不自由な左側の臀部から背中にかけての筋肉が弱いためらしい。また新しくできた装具を見て、左側だけが若干、踵部分に内向きに角度を加えてある、これは足を前へ出すときに自然に膝が曲がりやすいようにするためだ、と教えられた。続いて脳外科では先週のMR検査の結果を聴く。残された脂肪腫にいまのところ変化は見あたらない。Y先生より私のHPをなかなか面白く見たとのお言葉を頂く。ついでに「けっこう趣味が合うのでは」と先生のご主人が開設しているHPをこそっと教えてもらってきた。これがなかなかイケてるので紹介してしまおう。YAMKINへようこそ! http://ss7.inet-osaka.or.jp/~agorisy/ 今回ははじめてベビー・カーを持たず、子どもを歩かせて連れて行ったのだが、これが結構何かと大変だった。

 

 ひさしぶりに台所でRCのテープをかけて、涙が出そうになる。清志郎のことば遣いというのは、ほんとうに何気ないようでいて、深い。たとえばこのテープはもう10年も昔に私が編んだ特製ベスト盤だが、冒頭に入れたこんなさり気ないラブ・ソングはどうだろう。

 

涙あふれて歌ったら
きっとみんなは喜ぶだろう
だけどあの娘はぼくが泣くのを
とても嫌がるのさ

泣いたことなどないような奴が
涙こぼしてしまったら
めずらしがってみんな笑うけど
だけどあの娘は嫌がる

あの娘はぼくを泣かせたりしない
つらい思いをさせたりしない
ぼくはあの娘を泣かせたりしない
だからぼくは泣かない

(涙あふれて)

 

 それからかつて矢野顕子がベスト・ソングに挙げていた、こんな曲はどうだ。

 

あの娘はズベ公で
ぼくはみなしごさ
とっても似合いの二人じゃないか

あの娘は悪者で
ぼくは嘘つきさ
とっても似合いの二人じゃないか

白い目で見られるのなんか
もう慣れちまったよ
だから本気で だから本気で
あたため合っているんだぜ

汚れた心しかあげられないと
あの娘は泣いていた
きれいじゃないか

(ぼくとあの娘)

 

 ここには毒がある。毒を突き抜けた純真さがある。悲しみがある。ソウルがある。守りたいものがある。ぼくらはそれに触れて、泣き出しそうになる。だから清志郎は本物の詩人だ。

 数あるRCの名曲のなかでも、私が特に偏愛している歌は「まぼろし」「よそ者」そして「お墓」。それはいまも変わっていない。

 

 デカルトの「パンセ」にいわく、「人間は必然的に狂人である。狂人でないことはひとつの他の形において狂人であることになるほどそれほどにも必然的に狂人である」そうだ。生きることは〈狂う〉ことだと思う。問題はそのモノ狂いのうちに何を見るか、だ。一期は夢よただ狂えという、確かそんな狂歌があった。美しく狂いたい。これは覚悟というもの。

 生きることは悲しい。生きることはさわぎだ。生きることはころがる石ころのようなものだ。おまえもその取り澄ました仮面を投げ捨てて、そら、狂え。

2002.9.17

 

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 朝から子どものためにバジル入りの人参スープをこしらえる。昼は小エビとキャベツのクリーム・ソースのパスタ。午後、バイクで職安を覗きに行く。夜はスープと、鶏肉のステーキ、ポテトとセロリ炒めの添え物。

 以前に貰った祝い返しの図書券が少し残っていたので、数日前に大阪でつれあいが子どものために折り紙の本を買ってきた。それでこのごろは毎日のように、折り紙を折るのに忙しい。子どもといっしょに、蛙や亀や蝉やアザラシやかぶとなどを折っている。

 引っ越し費用工面のための借金嘆願書が千葉の伯父宅に届く。実家経由で送金先について「電話されても何を話したらいいか困るからFAXにしてくれ」と言われ、FAXにて郵便局の通帳番号を書き送る。

 モリスンの Georgia On My Mind を聴く。

2002.9.19

 

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 何かとばたばたしていて、来週の入居説明会までに揃えておかなくてはならない書類のうち、連帯保証人一名の印鑑証明と所得証明が必要であったことを忘れていた。県内では近所の親類宅しかないが、所得証明まで出させるのはやはり遠慮した方がよいだろう、とつれあいと話した。役場に電話して訊くと、基本的には県内の人間の方が望ましいがどうしてもいなければ仕方がないと言うので、関東に住む私の実家に頼むことにした。ところが実家の母が役所に問い合わせたところ遺族年金は課税対象にならないので、「所得証明書に所得金額があがる方に限る」という条件に値しないことが分かった。つれあいの方の実家はたまたま伊勢へ法要に出かけていて連絡がつかない。それで仕方なく、やはり関東に住む私の妹の家に頼むことにした。来週に母とこちらに来る予定なので、ちょうど印鑑も併せて持ってきてもらえる。妹は快く引き受けてくれたが、念のため職場の夫君にも携帯で承諾を取るようにと勧めた。折り返し電話が来て私が受話器を取ると、「就職していない人の保証人にはなれない」という彼女の夫君の短い言葉が伝えられた。一瞬、何を言われたのか理解できなかった。それからそれが、「おまえは人間として信頼に値しない」という意味だと分かった。ショックだった。ショックだったが、すぐに、それが世間の常識というものだろう、と考え直した。妹の夫君の言うことはしごく尤もなことだと思った。私という人間は信頼するに値しない。実にまったく、その通りなのである。それだけのことを私はこれまで成してきた。そう思うと、こんどはそれが誰から発せられたものでもない、純粋な世間の価値観として私のささくれた根茎に突き刺さった。私はいまさらながら思い知ったのである。この世間において、じぶんには何のアリバイもないということを。いつでも近所で起きた犯罪の容疑者リストに加えられることを。かすかに痺れるようなその感覚は、馴れるとそうまんざら悪いものでもない。

 

 明日はチビの、満2歳の誕生日。

2002.9.20

 

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 連帯保証人は結局、四日市に住む小学校からの友人が二つ返事で引き受けてくれた。感謝したい。人はときに、信頼されることも必要だ。

 子どもの誕生日はケーキの代わりに、サティで月見団子を買って、家族三人でひっそりと祝った。プレゼントもなかったけれど、前述の友人が祝電といっしょにプーさんの人形を送ってきた。

 夜、NHKの教育テレビで「永遠と一日」というギリシャ映画を見る。詩情あふれる、よい作品だった。“明日の時の長さは、永遠と一日” 人は迫り来る死を前にしてもなお、残されたその“永遠と一日”に希望を託すことができる。もういちどはじめから言葉を紡ぎ直す勇気をもつことができる。

2002.9.22

 

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 年齢と共に世俗の波にもまれ、やがては宗教体験と世俗的体験の間にバランスが回復し、非常に円熟した心境に至る。そのような人物像こそ、禅の理想とするところである。ところが、そのような老成の過程を拒否した人物がいる。一休は、一目もはばかることなく僧衣のまま遊郭に通い、晩年には盲目の侍者森女を相手に、すさまじい愛欲生活を展開した。青年時代に人の数倍も厳しい修行を潜り抜けてきた一休は、その潔癖な性格からも、室町幕府という社会体制に組み込まれた禅の虚構性に耐えきれなかったのである。

 サロン化した禅に抵抗しようとした一休は、むき出しのままの禅体験である〈狂い〉を生きることを決意したのである。宗教の本来の目的は、人間を生の拘束状態から無限空間に解放することにある。そのためには、人間の精神をがんじがらめにしている常識を徹底的に断ち切っていく必要があるが、その常識には当然のことながら、道徳も含まれている。破壊行為は、まさしく道徳の破壊であるが、一休はあえてその選択肢をとることによって、世俗的価値に手なずけられる以前の禅の命脈を保とうとしたのである。

(「狂い」と信仰・町田宗鳳・PHP新書)

 

 〈仏に逢うては仏を殺し〉 これはあたかも腹の奥底に埋め込まれた爆薬のようなもの。毒のないものをすべて信じない。真の宗教にもブルースにも、それがある。そもそも宗教もブルースもその始源の風景においては、人々が畏れ、石もて追われるようなものであったはずだ。秩序を脅かす〈狂い〉であったはずだ。毒をもたず、〈狂い〉を知らず、ただ平生の秩序や道徳を語るだけの宗教や芸能は、もはや魂の干からびたガラクタにすぎない。

 さらに、おなじ著者による次のような〈狂い〉の風景はどうか。

 

 そもそも筆者が本書の中で使っている〈狂い〉という概念を思いついたのは、世阿弥の能楽論の中にある〈物狂い〉という言葉からである。世阿弥は、能舞台の主人公であるシテが、親や子、配偶者や恋人と生き別れ、死に別れして、〈物狂い〉を見せるその瞬間に、最高の芸術性があることを突き止めたのである。この世とあの世を貫く掛け橋となっている〈狂い〉の世界こそ、能の「花」を見ていた世阿弥の眼は鋭い。

 人買いにさらわれた我が子、梅若丸を捜し求めて京の都から江戸隅田川までやってきた女に、渡し守は「都の人といひ、狂人といひ、面白う狂うて見せよ、狂うて見せずばこの舟に乗せまじいぞとよ」と非情なことを言う。彼女の心は、子供を追い求めて、とっくに狂おしいまでに乱れているのに、彼女はなおさら狂いの舞いを求められるわけである。発作的に舞い狂った彼女は、渡し守の哀れを誘い、乗船を許される。

 しかも、舟中で耳にしたことは、渡し守が人に語る、対岸で営まれている法要の理由である。ちょうど一年前に、人買いに連れられた幼い子が、その岸で病にかかり、捨てられ絶命えようとするとき、懐かしい都の人が通る道ばたに埋めてほしいと嘆願したという。

 それが我が子であることを知った彼女は、「この土を返していま一度、この世の姿を、母に見せさせ給へや」と、川畔の塚で夜もすがら念仏を称える。そしてとうとう彼女の念仏の声に呼応するように、梅若丸の亡霊が「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えながら見え隠れする。互いに手を交わすが、彼の姿は夜明けとともに消えてしまい、残るは草茫々たる浅茅ヶ原のみというところで、この話は終わる。

 物語の中では最初から狂女扱いされている母親だが、渡し守の話を舟中で聞かされて、涙を流す彼女は決して狂っていなかった。狂女とみまがうほど、彼女は悲嘆にやつれていたのである。そして、狂わんばかりの悲しみの中にひたすら念仏を称え続ける母の、その愛情の深さに応えて浮かびあがる梅若丸の姿は、〈狂い〉に耐え抜いた母が、最終的に自分の思いを遂げたことを意味しているのではなかろうか。もちろん、梅若丸の肉体はもう地上に戻ることがない。しかし、念仏の声に包まれて、彼の魂は母親の魂と完全に合体しているのである。

 

 この世阿弥の代表的な謡曲「隅田川」を、ジョン・レノンは70年代に日本で観た。言葉の分からぬレノンは、ただ涙を流したという。かれもまた〈狂い〉の人であった。かれ自身の〈狂い〉を生きていた。ときに脱輪した。だからレノンの歌は、本物のやさしさに溢れている。

 死に別れた者と再会したいなぞという思いは、すでにして〈狂い〉である。狂わなければ出会えないものもある。毒を呑まねば行けない場所もある。足元の裂け目に手を突っ込んでみたら、それはいつでもそこにある。いや、あちら側から覗けば、すでにこちらも充分に〈狂い〉かも知れぬ。

2002.9.24

 

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 あたらしい装具ができてからしばらくして、義肢制作の会社から、装具の上に履く特別オーダーの革靴が送られてきた。装具が以前よりもややごつくなって、市販の靴では入らないために、病院で装具を付けた上に石膏で型どりをして頼んでおいたものである。費用は装具と合わせて10万円ほどで、そのほぼ全額近くが育成医療の保険から出る。ごつい装具の上に、さらに頑丈な特別仕様の革靴を履いているため、見かけはまるで足元だけミッキー・マウスの着ぐるみでも着ているようで、馴れないせいか、本人もよく転ぶ。いかにも重たげな感じなのである。先日もプールの帰りに出入り口でそれを履かせていたら、やはり奇妙なつくりが目立つのか、幼稚園生くらいのよその女の子が不思議そうな顔をしてじっと覗き込んでいた。しかし本人はこの新しい靴を、「センセイがくれた」と結構喜んでいる。

 おとといから、関東に住む私の母と妹が来ている。家中ダンボールだらけだから、近くのホテルに宿泊して、そこから毎朝二人して通って来るのである。今日は昼からの体操教室に同伴した折に、試しにサティで市販の子ども靴をあれこれ履かせてみたが、やっぱりどれも合わない。まだ子どもが生まれたばかりの頃、そんな靴売り場の前を通ってつれあいとよく、こんな可愛いらしい靴をそのうち履くようになるんだね、と会話していたものだが、そのどれも装具の不自然な膨らみが邪魔をして子どもには履くことが敵わない。子ども用の長靴の売り場で、子どもは黄色いプーさんの絵のついた長靴を欲しがった。長靴も、窮屈な踵部分のカーブで硬い装具がひっかかり、大きめのサイズのものでも入りきらないのだ。それでも母は結局、その履けないプーさんの黄色い長靴を買って帰ってきた。

2002.9.25

 

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 入居説明会。生憎私は大阪での面接と重なってしまったために、保証人を引き受けてくれた四日市の友人が早朝から車で来て、奈良市の会場までつれあいと同行してくれた。書類は無事通り、正式に部屋の鍵を渡され、近くのスイミング教室を覗いてからいったんわが家へ戻り、こんどは子どもと留守番していた私の母と妹たちも乗せ、改めて入居先の団地へ。風呂釜を設置する浴室のサイズ・構造等を測り、夕方に帰ってきた。まずはワン・ステップ進んだが、向こうの鍵を貰ったために、これから引っ越し準備もいよいよ佳境に入る。私も明日から風呂釜の手配等で何かと忙しくなりそうだ。引っ越しついでにプロバイダもYahooBBのADSLへの転居を検討している。あるいは来月当たり、当HPのURLも変わることになるやも。

 ひとつ、嬉しいニュースを聞いた。林業への憧れを抱いて今年の春に長年勤めていた会社を辞めた四日市の友人の就職先が内定したことである。場所は三重県の伊賀上野に近い山村。両親が東京に暮らし、田舎が長野にある友人は、当初は関東での就業を考えていたらしいのだが、四日市よりさらに奈良に近くなり、私たち家族にとっては(友人が大好きなチビは当然)まことに喜ばしい結果である。これが良い船出であることを祈っている。いつか、山中で働く友人の仕事ぶりを覗きに行きたいものだ。というわけで友人の就職祝いにかこつけて、夕食は近くの旨いラーメン屋のメニューを私の母親が奢った。

2002.9.26

 

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 転居後二日目。まだ浴槽が届かないので夕方、旧市街にある銭湯に入りに行く。自転車で10分弱の距離だが、つれあいと義母とチビは近くのバス停までバスで、私だけ電動自転車に乗っていく。ネット検索で見つけた「大門湯」という古びた城下町の一画にある銭湯は、大人350円、子ども70円。浴槽が小さく区切ってあり、普通の湯の他に、超音波風呂、電気風呂(弱い電流が流れている)、麦飯石風呂(?)、水風呂などに別れていて、小さいが露天もある。湯をたっぷり使って、二日ぶりに汗を流し、何とも仕合わせな気分に浸った。やっぱり銭湯はいいなあ。旅先の見知らぬ町の湯屋にぶらりと入ったような気分になる。裸の体を拭っていると、着替え室の隅にある背の低いゾウさんの絵柄の暖簾をくぐり、隣の女湯から髪を濡らしたチビがちょこちょこと這い出てきた。

2002.10.3

 

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 やっと浴槽と風呂釜が設置された。これまでいろいろなモノを買ったが、浴槽と風呂釜を買ったのははじめてだ。真新しい浴槽と風呂釜を改めて眺めて、家を買うというのはこんな気分に似ているのだろうか、なぞとくだらぬことを考える。家の中もそろそろ形がつきはじめて、今日は夕方から郡山城址の広場で「月・城かがり能」と題された入場無料の能舞台が上演されるというので、夕食を早めに済ませて、みんなで自転車で見に行った。演目は狂言「仏師」と能「船弁慶」。暗い木立に冴える鼓の音が心地よい。チビははじめ野外で繰り広げられる舞台を物珍しそうに見入っていたが、やがてそばの飼い犬と遊び始めた。この子にはいろんなものを見せてやりたい。真っ暗な田圃道を自転車で、子どもと唄を歌いながら帰ってきた。帰ってからジャスコで買ってきたインスタントのラーメンをつくってみんなで食べた。

 夜更けにひとりベランダに出て煙草をくゆらせる。あれやこれやと予想外の出費が重なって、手元にはもうほとんどカネが残っていない。まあ、何とかなるだろう。とりあえず週明けから日雇いの仕事でも何でもするさ。昼間ラジカセで聞いた鶴田浩二の「道草」を口ずさんでみる。

2002.10.5

 

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 昼、娘を連れて自転車で近くの売太(めた)神社を訪ねる。祭神は古事記を口伝したとされる稗田阿礼だが、もともとは天皇に仕えた芸能や方位を司る一族の氏神であったらしい。チビは拝殿で「こんちわ」と挨拶をし、柏手をふたつ打って、賽銭をちゃりんと投げ入れる。神社は中世につくられた環濠集落のなかにあり、周囲を幅4, 5mほどの濠がぐるりと取り囲んでいる。それらをしばらく見て回ってから、コスモスや彼岸花の咲き乱れる田圃道をのんびりと走って帰ってきた。チビはたわわに実った稲穂からご飯ができることを覚えた。

2002.10.6

 

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 前記した売太神社の祭神だが、稗田阿礼とともに天鈿女(あめのうずめ)命と猿田彦神が祭られている。もともとはこの二神が主神であったと思われる。天鈿女命は記紀においてよく知られているように、太陽神アマテラスが岩屋戸に籠もり地上に光が失せたときに岩屋戸の前で異様なストリップ・ダンスを踊りアマテラスを誘い出した神であり、稗田阿礼はその子孫であるという。また猿田彦について、古代の氏族のひとつに天鈿女命から出た猿女(さるめ)なる氏があり、「鎮魂祭での演舞や大嘗祭での先行をつとめて天皇に仕え、その職能の関係から女子が中心の氏族であった」といわれている。つまり古代においてこの稗田の地に、そのような芸能・祭祀を司る一族が住んでいて、古事記を口伝した稗田阿礼はその一族より出た。

 天鈿女命の異様なストリップ・ダンスに触れて、町田宗鳳は「〈狂い〉と信仰」(PHP新書)の中で次のように述べている。

 

 これもアマノウズメが公衆の面前で裸体で舞うという〈狂い〉を演じたからこそ、地上に太陽が復活したのであって、〈狂い〉の秘めたる神秘的な力を信じていた古代人の心情を素直に表しているといえる。

 ここでは個々の物語の引用は避けるが、「リグ・ヴェーダ」のウシャス、デーメーテール神話のウボー、「古事記」や「日本書紀」の中のアマノウズメのように、女神が性器を露出するという行為には、閉ざされたものを「開く」という機能と、暗黒の世界に光をもたらすという意味があるらしい。

 ここで私なりの推論をすれば、女性の恥部が最も秘すべきものを象徴しているとすると、それは人間の精神性の奥深く覆い隠されている〈狂い〉のことではないだろうか。人間としての恥じらいや良識がある限り、誰も自分の肉体の最もパーソナルな部分を衆目にさらすことなどしないのであって、それを敢えてするというのは、やはりただ事ではない。

 しかし、性器露出に「開く」働きがあるとすれば、そのような奇行にも積極的な意味があることに気づく。というのは、世界が閉塞状態になったとき、一時的に〈狂い〉を回復することによって、事態を打開する糸口を見出すことができるからだ。そのような真理を古代の神話や伝説は性器露出という形で伝えているのではないだろうか。

 

 また鎌田東二は「新道用語の基礎知識」(角川選書)の中で次のように記す。

 

 天照大神に天の岩戸から出てもらうための祭りにおいて、天鈿女命は槽(おけ)を伏せて踏み轟かして踊り、神懸かりした。宮中の鎮魂祭における所作は、ひとつにはこのときの天鈿女命の俳優(わざおき)に由来し、「古語拾遺」には「凡て、鎮魂(たましずめ)の儀(わざ)は、天鈿女命の遺跡(あと)なり」とある。つまり天鈿女命は鎮魂と帰神(神懸かり)をつかさどるわけで、神と人の通路を開く神ともいえる。

 

 売太神社はこんどのあたらしい家のベランダから東南の方角に鎮守の森をこんもりと繁らせている。いまでは稗田阿礼の語りばかりがクローズアップされて、語り部転じて「童話の神さま」などとも呼ばれているらしいが、夜目に膨らんだその大地の小さなヘソは、私には、古びた秩序を侵犯し、こじあけ、新たな光をもたらす裂け目のように見える。あるいはいま必要なのは、古代においてかれら一族が謡い、乱舞した、まさにそのような〈狂い〉の舞ではあるまいか。

 

 天の宇受女(うずめ)の命天の香山の天の日影(ひかげ)を手次(たすき)に懸(か)けて、天の真折(まさき)を縵(かづら)として、天の香山の小竹葉(ささば)を手草(たぐさ)に結ひて、天の石屋戸(いはやと)に汗気(うけ)伏せて蹈みとどろこし、神懸(かむがか)りして、胸乳(むなち)を掛け出て、裳(も)の緒(ひも)を陰(ほと)に忍し垂りき。ここに高天の原動(とよ)みて八百万の神共に咲(わら)ひき。

(古事記 上ツ巻)

 

2002.10.7

 

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 このたびプロバイダを長らく親しんだニフティからADSLとやらのYahoo!BBへ移すことに決め、本日、電話にて申し込みを済ませた。工事完了は約二週間後。よってニフティとの契約も今月一杯で終わりとし、当サイトも Yahoo の Geocities へと転居することになる。申し込みにあたって Yahooで取得したIDが o の抜けた marebit であるため(marebitoはすでに使用者がいた)、あたらしいURLは現時点で http://www.geocities.jp/marebit といった形になる公算が大きいが、決まり次第またご連絡したい。ニフティでの現在のURLは(たぶん)今月で消滅するので、その旨ご了承されたし。

 

 チビは今日はリハビリ。駅までの10分ほどの道のりをつれあいは自転車で通うつもりでいるが、今日は朝から雨模様で、またチビが少々風邪気味でもあるためバスを使った。折しもその行き帰り、先生に引率されて神戸へ研修に行くという近くの盲・聾唖学校の生徒たちといっしょになり、車内は大混雑だったという。ところが、片手に折り畳んだベビーカーとバックを持ち子どもを抱えているつれあいを気の毒に思ったのか、まず引率の男の先生がベビーカーを持ってくれ、女の先生が「私が責任を持ってお預かりします」と笑ってバックを手にし、さらに生徒の一人を立たせてつれあいとチビに席を譲ってくれた。チビは忽ち生徒たちに囲まれてカワイイなぞとちやほやされたが、ベビーカーを他人に持たれたことが不安だったらしい。しばらくして堪らず「シノちゃんのベビーカー!!」と叫ぶと、少し離れたところで男の先生が「ここにあるよ」と人混みの中でベビーカーを持ち上げて見せてくれる。またしばらくして「シノちゃんのベビーカー!!」「はい、ここにあるよ」。そんな車内の光景であったらしい。

 病院では作り直しを頼んでいた装具用の靴が戻ってきて、厚い靴底がだいぶ薄くなった。それでも素材のせいか市販の運動靴に比べるとまだだいぶ硬めだが、あまり柔らかいものにすると今度は耐久性がなくなるという。またしばらくこれで様子を見ることになった。他に小児科で風邪を診てもらい、また皮膚科でしばらく前からできている腕の湿疹状のものを診てもらった。水イボと診断され、塗り薬をもらってきた。

 

 つれあいの実家はもともと伊勢の英虞湾で真珠の養殖をしていた。あるとき慰安旅行か何かで同宿した知り合いの同業者がつれあいの父親の背広から印鑑を盗み、じぶんの借金の保証人の欄に捺した。それからしばらくしてその同業者は破産し、つれあいの実家も身に覚えのない借金を背負わされ、養殖の仕事を畳んで伊勢の地を離れる羽目になった。そうなると、それまで懇意にしていた近在の人たちまでが皆、手の平を返すように顔をそむけるようになった。そのとき、ふだんは寡黙なつれあいの父親は、貧乏にだけはなったらいけない、と呟いたという。そんな話を昨日、義母と二人きりで昼食を食べながら聞いた。

 

 今回の引っ越しにあたり、四畳半の洋室がひとつ増え、そこに机とPC、それにCD・書籍の類をすべて詰め込み、隣の六畳の和室につながる襖をつれあいの頑丈な洋ダンスとスライド書棚で完全に塞ぎ、ほとんど私の書斎のようになった。贅沢かも知れないが、私の小さき城である。額に入れた東寺の両界曼陀羅を置き、レノンの写真と明恵の図像、アシジから届いたフランチェスコの絵葉書、花巻で買った賢治の自筆詩稿(春と修羅)の複製などを飾り、この世で気狂いにならないために、あるいは本物の気狂いになるために、私はここで夜ごと内なる悪魔を育てる。

2002.10.8

 

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 じぶんの赤い長ズボンの上に母親の悩ましい下着を穿いたチビが家中をぺたぺたと歩きまわっているクレイジーな夜。今日は朝から大阪の職安を覗きに行った。Mの豚飯のようなハンバーガーを昼食に、天王寺公園前で野外将棋対決を見つめる浮浪者のおっさんたちに混じって食べた。糞をしに入ったステーションビルの便所の個室で、ああこれは差別じゃないから問題ない、消しといて、といった清掃業者たちの会話を耳にする。死んでくださいお母さん、と田園に死すの三上寛の絶叫のように糞は彼岸へと流れていった。赤いステテコのリボンを結んだ精霊流しをそこに浮かべた。腹上死したババのイソを悲しみながら。いまはクールでタイトな The Lounge Lizards のデビュー・アルバムを聴いている。ナンのこっちゃい。

2002.10.9

 

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 ふたたび町田宗鳳の「〈狂い〉と信仰」(PHP新書)からの引用だが、ときに暴力と性的放縦を伴った祭りの狂気について、かれは次のように記している。

 

 特定の日に、社会の規範や倫理的判断が無効となり、価値観の転倒が起きることによって、それまで停滞していた社会と個人の双方が、ようやく本来の生命力を回復することができるのである。

 

 私にはこの文章が、あの9.11のテロに関して辺見庸が言った「私はそのことに、内心、快哉を叫んだ」といった言葉と重なって見える。

 

 世界は、じつは、そのことに深く傷ついたといっていい。抜群の財力とフィクション構成力をもつ者たちの手になる歴史的スペクタクル映像も、学者らの示す世界観も、革命運動の従来型の方法も、あの実際に立ち上げられたスペクタクルに、すべて突き抜けられてしまい、いまは寂(せき)として声なし、というありさまなのである。あらゆる誤解を覚悟していうなら、私はそのことに、内心、快哉を叫んだのである。

辺見庸「単独発言」(角川書店)

 

 町田は続いて、中世ヨーロッパのキリスト教会に存在していた「愚者の祭り」と呼ばれる慣習について語る。

 

 その祭りでは、下級僧侶が「愚人の大僧正」となって、まるで道化のようにふざけた説教をし、「礼拝式の最中にグロテスクな顔をしたり、女、ライオン、道化役者などに変装したりした仮装者たちが踊りをおどり、聖歌隊は鄙猥な歌をうたい、ミサを行っている祭壇のすみで、脂っこいものを食べ、博打までうちはじめ、古皮でつくったいやな匂いの香をたき、教会中を走ったり跳びはねたりする」者がいたらしい。このような愚行が、教会という神聖空間において、年に一度は許されたのである。

 

 次に語られる言葉は傾聴に値するし、私もまたそれに強く同意する。

 

「愚者の祭り」のような、伝統的宗教の構造主義を一時的にでも破壊する儀礼の存在価値が教会で認められている時代までは、キリスト教もほんとうに魂を救済する力をもっていたのではないか。ところが、プロテスタントが出現して、人間の感性よりも、知性や理性に重心をおいた信仰が普及するにつれて、精緻な神学的議論への関心が高まったにしても、その一方では、魔性めいた情欲と決して離別することのない人間の魂が、どのように救われていくのかという問題が置き去りにされてしまったのではないか。

 

 さらに湯浅泰雄の「ユングとキリスト教」(講談社学術文庫)からの適切なコメントが用意されている。

 

 日常的意識の次元との交流の道をふさがれた無意識領域の力は、くらい情念となって蓄積し、どこかに現れようとする。しかし宗教的儀礼形式はその価値を否定され、あるいは空洞化されているために、そこで情念が宥和される道は閉ざされている。したがって無意識領域からつき上げてくる力は、禁欲的労働(資本主義化)に没頭することによって発散されるか、戦争や革命のような暴力的形態をとって解放される外はない。西欧近代の精神史は、その表面をみれば理性と自我意識の勝利の歴史を意味するが、裏面からみれば、そういう暗黒の情念の理性に対する復讐の歴史なのである。

 

 最後にもういちどだけ、町田の言葉に戻ろう。

 

 ということは、現代の西欧文明と、それに追随する日本などの、いわゆる先進諸国が競いあって、功利性や合理性を追求するうちに、資本主義発展に役立たないとみなされたものは、次第に社会から駆逐されてしまったということでもある。その具体的例をあげれば、アメリカの首都ワシントンでは、高級官僚たちが周辺の田園都市で優雅な生活を送っている一方で、スラム街に取り残された人たちの絶望感が、全米の都市で殺人事件発生率ナンバーワンという数字になって現れている事実がある。

 整然とした都市が作られ、さまざまな社会制度が整備され、生活水準が向上していき、人間の生活に明るい光が差せば差すほど、それとはまったく反対に、暗く重く魔性的なものが、社会の地下深くに潜りこんでいくのである。恐ろしいことだが、そのような人間のもつ〈狂い〉に正しい場所を与えない限り、今度はそれが逆襲へと立ち上がり、人間社会を一方的に蹂躙する機会を窺うことになるだろう。

 

 私は、あの9.11の出来事は、そのような深度をもって語られるべきだと考えている。ユングにいわく「背かれた無意識は刃を向く」 それらは町田の言葉を借りれば、言葉にならぬ「曖昧な要素、たとえばエロス、母性、大地の匂いなど」である。バタイユがニーチェについて言う「〈無動機的な〉祝祭である人間」である。旧約聖書に現れる無慈悲で冷酷な神の似姿である。人間は論理や理性によって考えることのできる葦でもあるが、同時にまた、その内側には古代から変わらぬどろどろとしたマグマのような無明の闇も抱えている。どちらも必要で、どちらも切り離すことはできない。だからこそ、私は己の内なる暴力を容易に否定することはできないのだ。まずそれに向き合うことだ。ロバート・ジョンスンのように、悪魔と連れだって歩くのだ。悪魔にも悪魔の言い分というものがあろう。鬼の悲しみというものもあろう。それに耳を傾け、それとともに狂おしく身悶えすることからしか、始まらないのではないか。

 

存在するということは、ほかでもない荒れ狂うということなのだ。

バタイユ「純然たる幸福」

 

2002.10.10

 

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ラアラアと
只 ラアラアと
月満ちて
碗のようなこの川原を
光の飯粒でいっぱいにする
あな おもしろき、あな たのし

四方の低き峰々より
形なきものたち降り集い
ラアラアと
只 ラアラアと
唱和する
真昼の如き明るさ

いつかの晩夏 熊野・本宮の旧社地で野営して

 

 

*

 

 木曜は脳外科Y先生の手配で、チビは小児科にて二度目の知能テストを受けた。モノの名前を当てたり、カードで神経衰弱をしたり、折り紙をしたり。結果は「大変優秀」であったそうな。前にも書いたが、二分脊椎は水頭症を併発することが多いため、Y先生は念のため知能面への影響を確認したいのだろうと思う。テストを担当した小児科の医師は「前回の時に“この子はもうこれ以上知能テストを受ける必要はない”とY先生へ手紙を書いておいたのですが、もう一度書いておきますね」と笑って言われたそうだ。

 また転居をしたために、導尿に使う消毒薬などを取り寄せてくれる調剤薬局を新たに探さねばならなくなった。しかも乳児医療の保険で落とせるところでないといけない。JRの駅近くで見かけた薬局に先日行って訊いたところ、マスキン水といわれる消毒薬は何とか取り寄せられそうだが、カテーテル(導尿の管)や脱脂綿は難しいとの返答を頂いたので、以前とおなじく、とりあえず消毒薬だけお願いすることにした。カテーテルや脱脂綿については、ほかにもいくつか当たってみるつもり。3歳まで自治体が一部を負担してくれる乳児医療では、大阪の泌尿器科の医師に処方箋を書いてもらい、薬分の料金を薬局に一時的に支払う(後日、自治体より還付される)。4歳以上になると乳児医療がなくなり(年齢は自治体によって異なる。東京に住む従兄のところでは小学生まで適用になるそうだ)、うちの子の場合では18歳まで適用される難病のための育成医療に取って代わるが、これは毎月1,100円が自己負担でそれ以上は国が負担してくれると制度のため、料金を(病院と薬局の)個別に分けると言うことが難しい。どういうことかというと、育成医療に負担してもらって大阪の病院から持ち帰るか、あるいは近所で受け取って自腹で払うかの二者択一になるわけである。おなじ泌尿器科にかかっているよその家では、月に一度の荷物を病院から宅急便で自宅へ送っているという話も聞いた。小さな(しかも歩行に難のある)子どもを抱えて通院する母親にとって、一月分の導尿用具は充分すぎるほどの重荷なのである。わが家ではせめて4歳になる前に車を買って、月に一度それで病院へ行こうかと話している。ちなみにカテーテルと脱脂綿を薬局で取り寄せることが難しいのは、薬として別に点数計算される消毒薬と違い、カテーテルと脱脂綿は診療報酬に含まれているため(医療行為に含まれる)、それだけ区分することが難しいからであるようだ。

 引っ越し疲れか、昨日からつれあいが熱を出して寝込んでいるので、今日も代わりに子どもを寝かしつける。まさに眠る瞬間を目撃する。寝転がってそれまであれこれふざけて喋っていたのが、急に黙り込んだかと思うと、天使のような瞼がすうっと閉じられてそれっきり。そんなものを間近で見たときは、とても幸福な気分を感じる。不思議の国に咲く花々でも眺めるように、いつまでも寝顔を眺めている。

2002.10.12

 

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 午前中、娘を自転車に乗せてジャスコまで買い物に行く。朝から良い日和である。JR駅の近くに外堀緑地公園という、かつての城の外堀を修復整備した石畳の気持ちのいい遊歩道が城下町まで続いていて、買い物の前にしばらくそこで娘を遊ばせようと立ち寄ったら、連休のためか蚤の市が開かれていた。骨董品や玩具、衣類、陶器、雑貨、青果、さまざまな露天が堀に沿った遊歩道にずうっと軒を連ねていて、すでに大勢の人で賑わっている。私はそんな雰囲気は好きなので、金もないのだけれど、入り口に自転車を止めてさっそく覗きに行く。あんパンマン、ドナルド、プーさん、などと指さす娘の手を引いて歩く。「なんかこのお顔に魅せられたから」と値切った木像の布袋さんを買っていくおばちゃんがいる。「いまちょっと主人が出てますけど、500円でいいって言ってましたから」と声をかけられ、1000円の値が付いたバカチョン・カメラをいじりながら「オレもこのごろはデジカメを使っているから」と答えているおっさんがいる。小学生の男の子が水晶のかけらを父親に買ってもらう。中古の子供服の前に母親たちが群がっている。「草餅、どうですか」と品の良いおばさんに声をかけられる。娘が立ち止まったぬいぐるみのミッキーのオルゴールのネジが巻かれる。そうして二人でしばらく歩きまわり、アジア雑貨の店で私は何かの植物で編み棒きれの四つ足が付いたカゴを自室のゴミ箱にと100円で買い、また別の店で「はじめての幼稚園」という絵本を娘にこれも100円で買い与えた。二人でそれぞれ収穫物を抱えて、もと来た道を自転車まで戻った。

2002.10.13

 

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 あさ、目がさめる。半メートルほど先に、チビがおなじように布団に顔をくっつけ、こちらを見ている。「おはよ」「オハヨ」。「よく寝た?」「ヨクネタ」。「オキヨウカ?」 しばらくして、こんどはチビが言う。「うん、起きようか」と私は答えるが動かない。「お母さんにオハヨって言っておいで」と言うと、ひとり立ちあがり、枕元に畳んで置いてあるじぶんの着替えを両手に抱えて、とことこと台所の方へ歩いていく。

 

 昨日から、つれあいの風邪がうつって少々ダウンである。つれあいのつくってくれたホットのレモネードを飲み、ニール・ヤングの Silver & Gold を聴きながら、熱っぽい首(こうべ)を夢うつつに遊ばせている。

2002.10.15

 

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 数日前に Yahoo! BB のモデムが到着して、さっそく接続をする。同じ頃に受付完了・回線工事の手配へ進むとの報せも届く。ところがモデムの説明書きを見たところ、MacOSは 9.1 以上でないと使えないらしい。わが家のOSは 9 で、バージョン・アップのファイルはアップルのサイトからしかダウンロードできず、しかもアナログ回線だと8時間以上かかるとのこと。さっそくお助けMacドクターのO氏に電話して、バージョン・アップのファイルを入れたCDを送ってくれることになった。いやいや、助かります。来週明けくらいには開通となるのではないか。いよいよわが家もジョージ接続である。

 昨日はモデムに続いて、なんとCD-RWのドライブも宅配便で届いた。これは東京に住む従兄からで、一年前に買ったものの何故か一度も使わなかったという新品同然の代物で、よかったら差し上げます、という有り難い申し出を頂いていたのである(しかも送料向こう持ちという図々しさで)。わが愛しの G3 はフロッピーもなく、MOなどの外付けハードを買う余裕もなく、ずっとバックアップなしの不安定な状況で稼働していたのだが、これでデータのバックアップもできるし、CDもコピーできるし、おや、この MacCDR の説明書を読むとアナログ機器からの録音・CD作成もできるではないか。どれ、一番手に、悪友たちと組んだ15年前の下手くそバンドのテープをデジタル化して永久保存、ゆくゆくはスペース・シャトルに乗せて宇宙人たちへのプレゼントとしようじゃないか。

 PCの話といえば、うちのMacには私がWebからダウンロードした子ども用の無料学習ソフトをいくつか入れていて、チビは私がPCをいじくっているといつも寄ってきてそれらをやりたがるか、「ぼぶ、見たい」と宣う(ディランのCD-Romのこと)。学習ソフトはフリーとは思えないほどのなかなか凝った内容で、ぬり絵や着せ替え、クッキング、シューティング・ゲーム、じゃんけん、形あそびなど、結構多彩である。ぬり絵は画面下に並んでいるクレヨンをクリックして色を選択し、上の絵に色を塗るというものだが、先日、マウスを持たせてこれをじぶんでやらせてみたら、「次はここ。はいクリック。次はここ」という指導付きだが、何とか扱えるようになった。続いて、下に並んでいる三角や四角などの図形をクリックしたまま移動して上のおなじ図形と重ねる形あそびを試してみたところ、やはり「クリックしたまま移動」というのは相当難しいのだが、それでも二つほどはじぶんで何とか引きずっていって見事重ねてみせたのである。やはりうちの子は天才だ、と馬鹿親は驚嘆したのであった。

 ところでわが家のPCモニタは現在、聖人O氏より無償借与して頂いている古いアップル純正モニタを使用しているのだが、先日私とつれあいはこのO氏より、ブラウン管はやはり電磁波が気になるから、チビがPCを扱えるようになったらいま使っていない液晶モニタを借与しよう、という神の声を聴いた。さてO氏よ、この稿を読んでくれたなら、さっそく液晶モニタを積んで奈良へ走ってきてください。

 

 ゾクゾクと送っておいた履歴書がゾクゾクと返ってくる。まったくゾクゾクするぜ、ってこれは風邪のせいか。いや、風邪は徐々に治りつつある。ち。こんな型どおりの薄っぺらな紙一枚で、オレという人間の何が分かるっていうのだ、と相変わらずうそぶいてみる。いやいや分かるんだよ、連中には。何もかもがな。それはたいてい「正しい」判断なのだ。ともかく、この風邪を治さんことにゃ、何も始まらない。

 

 先月末より引っ越しの手伝いでわが家に長期御滞在をしていた和歌山の義母が、今日帰っていった。昨日は迎えに来た義父と奈良で待ち合わせて、つれあいとチビも同行し四人で、東大寺の1250周年とやらの記念行事を見に行ってきた。今日はチビのリハビリがあるので、朝からみんなで家を出て、リハビリを見てお昼を食べて和歌山へ帰る。オバアチャンオバアチャンと連呼していたチビも、ひっそりとなった家をさびしく思うことだろう。

2002.10.16

 

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 午前、風邪で伏せている寝床の中でNHK-FM、ピーター・バラカンのウィークエンド・サンシャインを聴く。GAVIN BRYARS の Jesus' Blood Never Failed Me Yet (イエスの血はわたしを裏切ったことがない) という異色の曲に出会う。これは70年代にロンドンの年老いた浮浪者が口ずさんだ短い“うた”を延々とリピートさせ、そこにアンサンブルを加えた一時間以上もの作品である。70年代に15分ほどの曲として完成されたが、90年代になって作者がさらなる手直しをしているところへ、「70年代に出たあの大切なレコードをなくしてしまった」という手紙がトム・ウェイツから届いた。それが縁で90年代のバージョンには、後半部分で浮浪者の声にトム・ウェイツの歌が重なり絡みあっていく。ピーター・バラカンは1993年度のNo.1レコードにこれを選んだのだそうだ。番組ではサビの部分だけ流れたが、じつに感動したので、入手先を教えてほしい旨のメールを番組宛に書き送った。ちなみに作者のギャビン・ブライアースは、例の大ヒット映画「炊いたニック」の音楽も手がけた現代音楽の作曲家であるそうだ。

 

 数日前、深夜に東京の酔っ払いから「なんにしても、働け! なんの技もないものは。嫌なら、書きたまえ!。」というメールが届いた。酔っ払いにしてはなかなか理に敵ったことを言う。

2002.10.19

 

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 前述した GAVIN BRYARS の Jesus' Blood Never Failed Me Yet だが、その後、何と当のピーター・バラカン氏本人よりメールを頂いて、タワー・レコードのサイトで取り扱っている旨を教えてもらった。番組で「意外と簡単に手に入るサイトがあるので、希望者には教えます」と言っていたので、もうちょっとマイナーなサイトでこっそり入手できるのかと思っていたのだが、単にNHKだから固有名詞を出せなかったってことなのね。ピーターさん、ありがとうございます。

 

 さて、めでたくジョージ接続となっていま現在、私がいちばん嬉しく感じているのは、動画を見られるようになったとか、エロ画像をばんばんダウンロードできるようになったとかいうことではなくて、いわゆるインターネット・ラジオをたっぷり聴けるようになったことである。Mac の iTunes や MS のMedia Player といった無料ソフトを使って、世界各地の臨場感溢れるラジオ音楽を、豪華なBGMとして一日中でもかけっぱなしにしていられる。たとえばこれを書いているいまも、アメリカの Folk Scene Ch1 というトラディショナル・カントリーの番組から偉大な Jimmie Rodgers のホーボー・ソングが流れている。他にも番組はアイリッシュ・ソングやブルースや60.70年代のオールド・ロックや詩の朗読やジャズ、クラッシック、民族音楽、レゲエなど、何でもござれだ。地元プレイヤーのライブ生中継や語り付きのスタジオ中継などもあったりして、音質も接続状況も驚くほど良い。何より日本ではまずお目にかかれないような渋い曲が次々と飛び出てくる。そして有線のような手軽なヒットパレードの類ではなく、もっとごつごつとした手触りがあり、生きて動いている音楽、あるいは人々の記憶の中でいまも生き続けている音楽が、そんな人々の手触りと共に届けられる、その雰囲気がどこか心地よい。まさに新旧含めた巨大な音楽図書館とストリート・ミュージシャンがこの小さな四畳半の部屋に出現したようなもので、これはジョージ接続なればこその恩恵なのである。ああ、CDを買う余裕がなくとも、このインターネット・ラジオがあるだけで私はご馳走で満腹になる。そしてわれらが清志郎が名曲「トランジスタ・ラジオ」で歌ったような、不思議だがアナログな懐かしい幸福感に包まれるのだ。ああ、ボクの素敵なトランジスタ・ラジオ !!

2002.10.20

 

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 引っ越し前の先月に録画しておいたNHKの「沈黙の村」と題された番組を見る。第二次大戦さなかの1941年、ポーランド北東部にあるイェドヴァブネという小さな村でユダヤ人の大量虐殺が行われた。これは長い間、ナチス・ドイツが起こした事件とされてきたが、社会主義に決別をしたポーランド政府が自国の過去の人権侵害の調査を行っているときに偶然見つかった資料から、60年前の事件の定説は次第に覆されていく(番組では触れられていなかったが、2000年にニューヨーク在住のポーランド人学者ヤン・トマシュ・グロスが出版した『隣人―ユダヤ人の町の絶滅の歴史』という著書がきっかけだったという記事もある)。その後の丹念で地道な調査により政府の調査機関が辿りついた結論は、「事件当時、ナチスは村には僅かな数の憲兵しか配置してなく、かれらは事件を黙認しただけだった。実際に虐殺を行ったのはおなじ村に住む多数のポーランド人の住民たちであった」という衝撃的なものであった。

 ポーランドでは数百年も昔から多数のユダヤ人がポーランド人と共に暮らし、共存してきた。しかし1939年9月、ドイツとソ連の密約によって突然、ポーランドはその東半分をドイツに、西半分をソ連にと分割される。ソ連の支配下に置かれたイェドヴァブネ村では、多くの知識人や地主、反体制的とみなされた者たちがシベリアへ連行されていった。このとき、ユダヤ人が密告をしているという噂が流れたという(実際のソ連側に残された記録では、密告者の多数はポーランド人で、ユダヤ人は僅かな割合だった)。1941年6月、ナチス・ドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ連支配下のポーランドに攻め込み、イェドヴァブネ村もソ連支配より「解放」された。虐殺が起こったのは、それから2週間後のことである。数百人(1,600人という説もある) の村に住む無抵抗なユダヤ人たちが倉庫に集められ、殴り倒され、焼き殺された。「おそらく積もり積もった復讐心から起きたもので、ほとんどの知識層がシベリアへ連れて行かれてしまっていたことも民衆の間で歯止めを効かなくさせていた要因のひとつと思われる」と調査の担当者は言う。

 番組では国の調査と平行して、当時の村の中心人物のひとりであった亡き父親の事件への関与を独力で探ろうとする初老のポーランド人男性の姿が描かれる。父親は腕の良い仕立て職人で、ソ連支配下では粗末な武器を持って闘い、戦後は村の福祉にも心をくだいたが、「おまえにいつか話しておきたいことがある」と言い続けて急な病で死んだ。尊敬していた父親の心の闇に触れんとする男性に、ひさしぶりに訪ねた故郷の村人たちの反応は頑なでよそよそしいものばかりだ。家の食卓では赤ん坊を抱いた娘に「いまごろ何故そんなことをほじくり返さなくちゃならないのか」と詰問され、思わずハンケチで目頭を押さえる。番組の終わり頃、政府の調査結果の発表から間もなくして、当時を知る顔見知りの老人が男性を自宅に招いた。「いまでも煙を見るとあのときの情景が目に浮かぶ」「あれはおれたちの正義だったんだ」 そして、お前の父親もその現場にいた、と伝えられる。「ずっと知りたかったことを、あなたがやっと話してくれました」と男性は答える。「真実を知って、お前の気持ちは楽になったのか」 かれは、答えない。

参考資料「イェドヴァブネの闇 ―ユダヤ人虐殺とポーランド住民」
http://www.e.okayama-u.ac.jp/~taguchi/kansai/jedwabne.htm 
*ただしこれは1年前のレポートで、最新の調査結果は含まれていない。

 

 ヤゾーさんのサイトで目にも心にも鮮やかな熊野のセブリ風景を見る。いやあ、いいねえ。羽があったら飛んでいきたい。

2002.10.21

 

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 リハビリのチビとつれあいに同行する。診察の I 先生に、新しい装具になってから子どもが以前ほど歩きたがらなくなった。すぐにダッコをせがみ、前より転ぶ回数も増えた。装具はもちろん必要だろうが、そのために歩くことを嫌がるようになってしまっては本末転倒だろうから、もう少し改良をしてもらえないだろうか、とお願いをし、装具とその上にかぶせる革製の外履きを三たび、修理に出すことになった。業者の日程の都合で明日、もう一度病院へ行って、実際に装具を履いた状態で計測してもらわなくてはならない。

 

 それから私だけふたたび地下鉄に乗りこみ、西区の靱公園横にあるYさんの事務所を訪ねた。Yさんというのは娘の手術をしてくれた脳外科のY先生のご主人で、これは以前にも書いたが、ひょんな話からY先生にご主人のHPを教えてもらった私がそれをきっかけにYさんに昔見逃したエンデさんの地域通貨に関するテレビ番組のダビングを厚かましくもお願いし、逆に私の拙いサイトを見てくれたYさんが「いちど、お会いしましょう」とこの若造を誘ってくれたのである。

 Yさんはもともと私とおなじ東京の出身で、この国の学生が最も熱かった時代のさなかに関西の大学に来て、そして不思議な縁だが私のつれあいがかつて勤めていた人権博物館が建っているまさにその地で部落解放の運動に身を投じ、それからさまざまな紆余曲折を経、しばらく前に脱サラをして、主に再生医療の勉強会を中心とする現在の事務所を立ち上げた(詳しくはYさんのページを参照されたし)。「あなたとおなじで、私も若い頃に出会ったビートルズとディランのお陰で、その後の人生を踏み誤ったクチですよ」と、そんな表現ではなかったかも知れないが、そのようなことを言ってYさんは微笑む。

 事務所のステレオで一枚のCDを聴いた。これはYさんがご自身のHPでも紹介しているが、阿炳という中国のニ胡と琵琶の演奏家の貴重な音源(1950年の録音)で、おなじオフィス内に別の事務所を構えているTさんが自ら中国で見つけてきたものだという(もちろん日本では手に入らない)。街々を流して歩いた盲目の放浪芸能民であった阿炳は、その晩年に再発見されたときにはすでに楽器さえ手放していた。そこで楽器を与えられ、練習をしてから何とか数曲を録音し、「もう少し練習をして、うまくなってくる」と言い残してふたたび雑踏のなかへ消え、しばらくして死んだ。残された曲は、生涯にそのときのわずか6曲だけ。しかもそれらの曲は、いまでは中国の演奏家たちの誰もが取り上げる古典的名曲となっているという。Yさんからそんな説明を聞き、なかば雑音混じりのその演奏を聴いたとき、私の魂はたちまち魅了された。そして、これは中国のロバート・ジョンスンだ、と思った。きりきりと食い込むような琵琶の鉢さばきは日本でいう高橋竹山の津軽三味線に似ているが、それよりももっと深い。もっと強烈で、リアルで、ざらついていて、求心的で、クールで、生命の躍動感に満ち溢れている。まさにロバート・ジョンスンのブルースのような悪魔的魅力に満ち、人間の心に闇に喰らいつき、何かを突き動かすような力がある。いちど聴いた者は、その音色を二度と忘れられないだろう。そんな音楽だ。帰りがけにYさんは居合わせたTさんにCDの借用を訊いてくれたのだが、「これは二度と手に入らないものだから、ダメダメ」とのことであった。その気持ちはよく分かるし、軽率なお願いをしたのは私の方であった。いつか私も中国を旅して、かれの音楽をきっと手に入れたい。そんな旅をしてみたい。(**阿炳についてのTさんのページ)

 ダビングをお願いしていたエンデさんのビデオの他に、Yさんは最近読んで刺激を受けたという「引き裂かれた声 もうひとつの20世紀音楽史」(平井玄・毎日新聞社) という本を貸してくれた。目次をちらっと覗いただけで、モンクやアイラー、ザッパにディラン、ケルアック、クルト・ヴァイル等々と、私好みの項目が並ぶ。それともうひとつ。これもYさんがHPで紹介しているが、「ウルティカリアへの旅 /演奏・ベログエト」という現代ケルトの才能集団のCD。これらについてはおいおい、この稿で感想を書くつもりでいる。

 待ち合わせの11時から1時間半を事務所で話し込み、それから場所を靫公園の反対側にあるとても居心地の良いこじんまりとしたフランス料理店(ベントーザ) に移して気取らない仏風家庭料理を食べながらまた1時間半。果たしてYさんにとってこんな徒手空拳の青二才との会話が有意義なものであったか甚だ疑わしいが、少なくとも私には大変刺激的で愉しい時間であった。Yさん、どうもお邪魔しました。またよかったら、遊びに行かせてください。

 

 ところでチビであるが、リハビリの帰りにつれあいが立ち寄った天王寺の書店で「つかんで離さない」という実力行使で「大きなかぶ」という古典的絵本を買ってもらった。その後、つれあいの冷え性の薬を調合してもらっている王寺の漢方薬を使う病院に途中下車して立ち寄ったときに、待合室でその新しい絵本を2.3度くり返し読んでもらったのだそうが、しばらくしてつれあいが受付で精算をしたり看護婦から話を聞いているとき、何やら長椅子の方でひとりぶつぶつ喋っているのが聞こえてきた。折しも長椅子の横には、ちょうど適当な高さのカラー(花の名)の鉢植えが置いてあった。そう、賢明な読者はもう察しがついたかも知れない。チビはその鉢植えの花の根元をひっぱっりながら、「うんとこしょ。どっこいしょ。まだまだかぶはぬけません」と言っていたんだそうな。

2002.10.23

 

 

 

 

 

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