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 部屋がいくつもある広い洋館にわたしはひとり泊まっている。かつてこの家に暮らしていた幼い少女が暗い悪意のために殺され、真相は闇に葬られた。残された両親は最愛の娘の無惨な死に様をこの家に細工として残したのだ。深夜になった。天井が開いて、かつて仕合わせな日々を送っていた少女の日常が機械仕掛けの人形たちによってさかさに演じられる。その人形たちが突然、どれももの凄い形相に変わって陰惨なストーリーを演じ始める。わたしはおそろしさでいくつもドアを開いて逃げ惑うが、どの部屋へ行っても開いた天井から夢魔のような形相の人形たちがさかさにのしかかってくる。最後は水中で幾体もの少女の死体が渦を巻いている圧倒的なイメージだ。わたしは息苦しさで思わず悲鳴をあげる。気がつくと職場の簡易ベッドの上に汗まみれで横たわっている。そんな夢を見た。その夢の意味するものは分からないが、そのときの感覚だけが、まるで洗っても洗っても消えない掌の血痕の幻のように日を経ても拭いきれず残っている。そんな人間に何が書けるだろうか。

2005.7.29

 

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 弁当を済ませて椅子にすわったまま背後の折り畳まれた簡易ベッドに頭をもたげる。エレベーターの非常呼び出しのブザーが鳴り、だれかが応えている。わたしは首にかけたMP3プレイヤーのイアホンを両耳にはさむ。しばらく前まで、そうしてウィリー・ネルソンの敬虔な主への調べを聞いてわずかな心の糧を取り戻すのが日課だった。いまはモリスンの新譜の中のケルトへの哀愁を歌った曲ばかりをくりかえして聞く。それかモンクのソロか、高橋悠治の弾く宇宙のリズムのようなゴールドベルク。4年ぶりの実家でわたしがまずしたのは庭で雨ざらしになっていた机の解体だった。父親が若い頃にじぶんの給料で買い、その後わたしが使い続けた机だ。あっという間に惨めな木片になり果てたその僅かな一部を、わたしは別の形に再生しようと持ち帰ってきた。幼い娘はその後わたしが大量に刈り落とした泰山木の枝葉で、わたしといっしょに庭のすみにホピ族のテントのような家をつくった。様々な草木が一定の自由を与えられた奔放さで生い茂った庭に佇んでいるのは心地よかった。父が死んだ晩、彼の遺体が帰ってくるのを待って明け方まで佇んだ庭だ。その彼が当時はまだ残っていた裏山から植え替えた木もここにはいくつかあり葉を茂らせ花を咲かせている。母親の依頼で庭のすみのいまでは古ぼけた物置の中の父の道具類も整理した。一般の大工道具や皮職人だった父が仕事で使っていた道具類。錆びた錐、型枠、ゴムの塊、長年研ぎ続けて刃がすっかりちびている皮用の小さなカンナ。どれも父の温もりを思い出させた。娘の手をとり、父が親しくしていた近所の老牧師氏の家を訪ねた。80歳の氏は形見だと言ってわたしにフランチェスコの映画のビデオを呉れた。人はこの世で過ぎ去っていくものらしい。その人に会うのも、これがもう最後かもしれない。庭につくったテントのような家の中に、幼い娘は泰山木の厚い茶色の葉を敷き詰め、中央に庭のすみからもいできた純白の紫陽花の一枝を置いて飾った。

2005.7.31

 

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 昼間、子と二人で子が描いたひまわりの絵の判子を彫刻刀で刻む。さいしょの捺印。こんなふうに判子がつくれると知ったときの子の目の輝き。夕方は家族三人、図書館のホールでアニメ映画「ガラスのうさぎ」の無料上映会。戦争資料の展示室に置いていた銃弾に子は眉をひそめる。サン=テグジュペリの「人間の大地」を借りてくる。「精神の風が粘土のうえを吹きわたるとき、はじめて人間は創造されるのだ」 サン=テグジュペリはいまのわたしに必要なものを与えてくれそうな気がする。箱根で立ち寄った「星の王子さまミュージアム」は想像力をなくした大人のためのテーマパークだったけれど。

2005.8.1

 

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○○○○様

お手紙拝読しました。
そういえばいま愛用しているカメラ(EOS)も○○さんに頂いたものでした。
親馬鹿のために子の祝い金でビデオカメラは購入しましたが、デジタルカメラはいまだ所有していません。
物ではなく精神的な糧をわたしは○○さんからは多く頂いてきましたが、それが○○さんのご希望であるのでしたら、喩えは大袈裟ですが、弟子がフランチェスコのマントを譲り受けるように、有り難く頂き、大事に使わせて頂こうと思います。
ただし、すぐにではなく、どうぞ○○さんがもう使うことがないというようになったら、着払いでお送り下さい。

先日は短い再会でした。
いちばん大事な話をし損ねてしまったような心持ちがします。
時間というものはある意味で確実なものではありません。一遍や明恵やチェ・ゲバラやイエスや、会いたい人間は大勢いますが、いまのわたしにとっていちばん会いたい存在はフランチェスコであるような気がします。わたしはいまだ、確たる信仰というものを持ちません。しかし時々病のように一切がその存在感を失い、ただフランチェスコの言葉や伝記から伝わるかれのぬくもりだけが唯一の生きられる世界のように感じるのです。そのうちにわたしは安定を取り戻し、忙しい日常に埋没していきます。そのくりかえしです。それはわたしの無意識の深みに刺さっている矢のように思うのです。わたしはいまはそれを無理に抜こうとはしません。放っておいて、いつかその深みに刺さっている矢が自然に何かを引き起こすかも知れない、ただ、いまのわたしにはそれが何かは分からない、そのように漠として思うばかりです。
精神にとって、現実というのは必ずしも目に見えている世界だけではない。その岐路に、わたしはいまだ多くの迷いを抱きながら立ち続けている。衣服を脱ぎ捨て野に出ていったフランチェスコの確信は、わたしには遙かに遠い羨望です。ただときどきやくざなこの魂がふらふらと憧れ出ようとしてたまらなくなります。
そんな話をひょっとしたら、わたしは聞いて頂きたかったのかも知れません。

またお会いできる機会を愉しみにしています。
どうかお身体、ご自愛ください。

末筆まで。

2005.8.3
まれびと拝

 

2005.8.3

 

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 休日。Yは朝から子をリハビリへ連れていった。わたしが連れていこうかと言ったのだが、大阪で他にも用事があるから、という。CDプレーヤーでジミー・ロジャースをかけながら寝転がって3日分の新聞を読んだ。新聞を放り出してうたた寝をした。Yが用意しておいた昼食を喰い、車で近くのホームセンターに行って子の虫取網を買って戻り、また寝転がって新聞の続きを読んだ。所在がない。と、やおら起きあがり、実家から持ってきた平ガンナを取り出して刃を抜いてみた。かなり錆びている。ベランダに砥石を出して研いだ。刃を戻し、足下に転がっている材を試しに削ってみた。どれ、ついでにあれも、と小刀や、アウトドアの調理ナイフや、ナタをひっぱり出して、ベランダでひとり黙々と研ぎ続けた。なまくらだったナタが切れ味を取り戻した。刃(やいば)にはあやかしがある。胸が騒いだ。このナタで鋭利に削ったおのれの白骨を深山の川原に突き立ててみたくなった。

2005.8.4

 

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 40歳になった誕生日の夜、家族で食事に出た道すがら。片道二車線の国道の高架をキャロルのスピードをあげて登りつめたとき、うっかりよそ見をしていたのだろう、気がつくと目の前に信号待ちの最後尾のBMWの尻が大きく迫っていた。慌ててハンドルを切りながら急ブレーキを踏んだ。Yが悲鳴をあげた。スリップをした車体はコントロールを失って隣の車線へ踊り出た。隣車線の後続車が途切れていたのは僥倖というより他ない。後部座席にいて運転席と助手席の間に立っていた子はとっさの機転で母親が抱きついたため頭部をシート上部にぶつけたくらいで済んだ。タイヤの焦げた匂いがぷんと鼻についた。家族三人が死んでいてもおかしくなかった。別の世界ではきっと死んでしまったのだろう。神の気まぐれのような分岐点のこちら側で、いまあるわたしたちは不思議に生かされた世界の側のわたしたちだ。

 過度な負担がかかったキャロルはミッションがいかれて、修理に35万もかかるという。3日後、Yの従妹がやっている中古車屋へ行き、すこし無理をすることになるが10年は乗るつもりで新古車を探してくれるよう依頼した。予算は百万。伯父が残してくれた内の50万を頭金に、後はローンを組む。Yとあれこれ相談してキューブを選んだ。代車の古いマーチを借りて帰り、明日は子と二人で予定通り山へキャンプへ行く。

2005.8.8

 

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 下市から天川へ抜ける旧道にそれたあたりでYのつくってくれたおにぎりを食べたのが1時頃。先に洞川に寄って水を汲み、天川の上流のいつもの渓谷に着いたのが2時半くらい。先の行者環の林道が閉鎖されていたせいか、みたらい渓谷を過ぎてからは行き交う車もほとんどなかった。車を停めた道から10メートルほど斜面を下る。後に子が「シロクマのような石」と形容した岩盤の間をぬって透明な水が蕩々と流れる、人気のない、わたしのお気に入りの場所だ。「ちょっとテントを張るには狭いけどなあ」「ここでだいじょうぶだよ」「じゃあ、張ってみようか」 テントはわたしが長年ツーリングで使ってきた一人用の小さなやつだ。そこにキャンピングマットと子の要らなくなった布団を無理に並べて敷いた。途中で買ってきたトマトや梨やビールは流れの端を石で囲った「冷蔵庫」に浮かべておく。子は足を浸そうとしてまるく窪んだ滑り台のような岩の上を滑って川に落ちて大笑いしている。「もうみんな脱いじゃえ。だれもいないんだから」 濡れた衣服を手頃な枝に吊しておく。夕方からはカマドづくり。火をおこし、飯盒で米を炊く。買っておいた唐揚げなんかを焙って食べる。カミキリや蛙やいろいろな客人が集まってきて、子はそのたびに大騒ぎをする。花火を終えて、二人で小さなテントにもぐり込む。「あと11回くらいここに来たい」と言う子はなかなか眠れない。樹木の暗い影と星空の見える狭いテントに身を寄せ合って、森や水の話をしたり、わたしがバイクでまわった旅の話をしたりする。「水の流れる音を聴いていたら気持ちよくなって眠ってしまうよ」 子が眠ってからテントを出た。山の深い静かな闇。大地の鼓動のような水の流れ。満天の星を見上げていたら祈りたい気持ちになって自然と手を合わせた。翌日。朝食は買っておいたスティックパンとトマトと梨。「今日もさ、夜になったらテントでお話しようか」「今日はもう帰るんだよ。明日はリハビリじゃないか」「あ、そうか」 昼まで川原で遊び、天川の村営の温泉に入りに行った。隣の食堂でわたしはしし肉うどんを、子はかき氷を食べた。それから洞川を抜け、大峰の行者道と平行する天のハイウェイのような林道を走って吉野山に出て、夜の7時頃に帰り着いた。吉野川沿いを走っているとき何気なくラジオをつけた。流れてきた曲に耳を傾けていた子がうんうんとうなずき「シノちゃん、この歌大好きやねん」と言っていっしょに口ずさみ始めた。それがボ・ガンボスの「トンネルぬけて」。

2005.8.11

 

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 お盆である。世間は高速道路の上で忙しく、わたしは仕事で忙しい。Yと子は金曜から実家へ帰省している。昨夜は朝刊と共に帰ってきた。9時過ぎに暑さで目が覚めて、洗濯や食器洗い、米研ぎなどをして、冷蔵庫のカレーの残りを食べ、また布団の上に寝転がって2日分の新聞を読んだ。相変わらずの政治の茶番劇は別として、「終戦」記念日に因んだ記事・論説が多い。戦時中の日記にしたためた永井荷風の冷静な慧眼はすごいね。地方版に載っていた、小豆島で編成されたというベニヤ舟に爆弾を積んだ特攻艇部隊の回想録。「特殊任務」と聞いてみな本望だと色めきだったがひとりだけ「乗りたくない」と上官にかけあい部隊を離れたあいつがいちばん勇気があった、と振り返る老生還兵。人間の集合無意識の奔流には抗しがたい魔力がある。ナチスが席巻するドイツにいたら私も抗いきれなかったろうとユングは後に語った。荷風のようなまなざしはどのような場に拠って立つのか。おそらくそれはひどく孤独な場であるだろう。適齢期を超えてなお、サン=テグジュペリは空を飛び続けたかった。地上にへばりついて眠って生き続けるよりも、死の危険に晒されながらも空を飛び続けたかったのだ。砂漠の上に堕ちても堕ちても何度でも。「人間の大地」の冒頭にかれは書いている。

 

 わたしの目には、アルゼンチンでの最初の夜間飛行の折、星々のように、草原のなかに散在する数すくない灯火がまたたいているだけの、暗い夜の模様が永遠に灼きついている。

 そのひとつひとつは、闇の大洋のなかで、人間の意識の奇蹟を告げ知らせていた。ある家では、読書をしたり、もの想いにふけったり、自己告白をつづけたりしていた。別の家では、おそらく、空間に探りを入れようと努力し、アンドロメダ星雲にかんする計算に夢中だった。あるところでは愛が営まれていた。ぽつんぽつんと、田圃のなかに、それぞれの糧を求める灯が輝いていた。、詩人、教員、大工の灯のような、もっとつつましやかな灯までがあった。だが、それら生きている星々のなかには、なんと多くの閉ざされた窓が、なんと多くの光を消した星があったことか。なんと多くの眠りこけた人間たちがいたことか.....。

 たがいに結びつくように試みなければならない。田園のなかにぽつんぽつんと燃えているそれらの灯のいくつかと通じ合うよう努力しなければならない。

(サン=テグジュペリ「人間の大地」山崎庸一郎訳・みすず書房)

 

 実家の近所に住む老牧師氏よりデジタル・カメラが届いた。もっと古い型を想像していたのだが、なんと最新の高級機種だ。MacOSX対応のキャノンのEOS Kiss。メディアには氏がこのカメラで最後に撮った花々の写真が数枚残されていた。

 

 私は心臓に故障が出たので、今後いつ心筋梗塞に襲われるか分かりません。ある程度覚悟していますし、その時のためにも身辺の整理をしておきたいのです。カメラは○○様にお使いいただくのが一番良いと思いましたので、気軽にお使いいただければ嬉しく思います。

 私は若い時分から確かなものを求めてここまで参りました。見えない次元にこの世で得られなかった“もの”があることを信じて死を迎えたいと希っています。この世には何一つとして“確かなもの”はありませんから...

 後日、こちらにお出での節はまたお立寄り下さい。それまでいのち永らえていたいものです。

 

 たしか数日前の新聞で加藤登紀子だったか、大岡昇平の「レイテ戦記」からのこんな言葉を引用していたな。「大地はそれを聞き取ろうとする者の前では、そこに眠る無数の死者の声を語らせる」 うだるような夏、煮えたぎった鍋のような大地からふつふつと死者たちの声が立ちのぼる。聴く者のいない声が地中で澱み、吐き出されるのだ。地上にはいつくばっているだけのわたしたちには近すぎて見えないそれらは、空から眺めれば哀しく立ちこめるこの星の瘴気のように見えるのかも知れない。

2005.8.14

 

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 月曜夜。Yと子が帰ってきた。お古のプラスティックの虫籠三ヶにそれぞれ雄のキリギリスが一匹づつ。Yの実家で子はその虫籠三ヶをぶらさげて毎日さんぽに出かけたという。眠っている子のかたわらに添い寝し「おとうさんだぞ。ほら、こっちを向け」と耳元に囁くと、ごろんとこちらへ転がり眠ったままうんうんうんと三度うなずいた。

 山田風太郎「戦中派不戦日記」(講談社文庫)と五木寛之「神の発見」(深夜倶楽部)をアマゾンで注文した。

 ハードスケジュールの盆が終わって、明日は久しぶりに休日。

2005.8.16

 

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 今日の新聞。「キーワードで考える戦後60年・アイデンティティー」と題された記事に掲載されていたノーマ・フィールドという人の意見は多くの示唆に富んでいるように思う。

 

 日本の大学で先月、私の著書「天皇の逝く国で」を題材にした授業に招かれた。

 昭和天皇が88年に倒れ、「自粛」という名の自主規制が社会を覆う中で、個人の意見を表明していた少数派の日本人を取り上げた本だ。

 沖縄の国体で日の丸を焼いた知花昌一さん。自衛隊員だった亡夫が護国神社にまつられることに異を唱えた中谷康子さん。「天皇の戦争責任はあると思う」との考えを議会で発言した本島等さん。3人とも「それで日本人か」などと激しい非難を浴びた。

(中略)

 50年代終わりから60年代前半、東京の電車内では、座っている客が前に立つ他人の荷物を持ってあげるという作法が自然に行われていた。また80年代後半には日本では実に多くの庶民が、自身の戦争・戦後体験と自粛現象との「関係」を考えていたと思う。

 今、他人や社会の出来事との関係を拒否することが、新種のアイデンティティーになってはいないか。「関係ないよ」という姿勢を根底に置くアイデンティティーだ。

 これは私自身の問題でもある。今回のイラク戦争の際、私もシカゴ大学の同僚も本気では反対しなかった。異は唱えたし反戦集会にも参加したが、そこまでだった。「関係ないから」だった。

 自分の子が戦場に送られるなら、私たちベトナム反戦世代は仕事を放り投げてでも立ち上がる。だが徴兵制のない現在、実際に戦地に行くのは社会的底辺の若者たちだ。自国の戦争すら「関係ないもの」として処理させる仕組みがそこにある。

 敗戦を境に、民主主義と反戦に日本人は燃えた。だが「60年安保」の直後に政府が出した所得倍増政策は、国民から政治的関心を取り去ることにほぼ成功した。「当事者でない市民が広範に立ち上がる」状況を見る機会は、ほとんどなくなってしまった。

 近年は市場主義的な自由化で、個人はさらに帰属性や関係性を断たれた。いまや「個人が個人として最も輝くのは消費の場」という状態だ。

 国民の圧倒的多数が、自分は経済的成功を遂げた国家の一員だと信じる社会。日本の国民的アイデンティティーの核を作ってきたこの意識は、「不安でぜいたくな時代」とも呼べるバブル崩壊後にも生き続けている。日常にひそむ抑圧を告発する個人は、この多数派から「私は黙ってこの日常を生きているのに」との迷惑意識を向けられる。

 知花さんら3人の意見を圧殺しようとしたものの根に、それがあった。昨年イラクで人質になった3人へのバッシングもそうだ。3人は身近でないイラク人に共感し、個として行動した。それは、無意識の日常を生きたい人々には迷惑なことだった。

 残念ながらこれは、手段であるはずの繁栄が目的化してしまった社会の帰結である。

2005年8月17日・朝日新聞

 

 ディランの Oh Mercy をボリュームをあげて聴いている深夜。ニューオーリンズの深い闇と熱気。川辺にひとり腰かけてレイ・チャールズの That Lucky Old Sun の魂を探し求めているような。子が噛みきれずに吐き出す肉のかたまりのように、呑み込めないものは呑み込めない。

 

 子は家の近くで摘んできたオレンジ色の野花を玄関近くの壁にセロテープで貼ってならべた。台所で私が夕食の餃子をつくっているとき、床に新聞紙をひろげ片手にもった如雨露で壁の花に水を遣ろうとしているので慌ててYを呼ぶ。Yはそんなとき、けっして子を叱らない。「よく考えたねえ。えらいねえ」とたくさんほめてやってから「でも床がびしょびしょになっちゃうから、もっと別の遣り方を考えようよ」と言う。

2005.8.17 

 

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 一度は決まりかけた車の購入が予算上の懸念から白紙に戻り、二転三転として奈良漬けならぬ車漬けのような毎日。「車を選ぶ」といってもそれはある意味金に余裕のある場合に限り、貧弱な低予算ではどれも似たり寄ったりの国産車の、結局さらに限定された狭い範囲でしか選択肢はないわけだ。購入費の安く堅実なマーチにするか、維持費の安い軽自動車にするかとか。先日、子を病院へ連れて行った際に駅のベンチで拾ってきた「デモクラシーの冒険」(姜 尚中&モーリス‐スズキ‐テッサ・集英社新書)に現代の唯一のモラルは「市場」であり、現代の唯一許された自己実現は「消費」の場にしかない、といったことが書いてあったけれど、車の購入もさしずめその代表格か。選んでいるようでいて、所詮はいじましいどんぐりの背比べなんじゃねえか。そんなみすぼらしい「自己実現」の内外をあれこれ飾って、カーナビやテレビでかたつむりの家のように造作し安住するなんて趣味はおれには持てないな。おれが買いたいとしたら五木寛之の小説に出てくるようなアールヌーボーのガラス細工を鼻先にとっ付けたクラッシックカーか、米軍払い下げのようなラフな軍用ジープかな。ところで昨日はYの従弟が奈良市の高級住宅街に建てている新居を見に来た彼女の伯父・伯母を現地まで車で案内したのだが、Yたちがその家を見に行っている間、ひとり別の建築中の現場を眺めていたら施工主の関係者と勘違いした何たらホームのヘルメット被った業者が声をかけてきて、いやいや違うんですよと説明したのだが、しばらくその現場監督らしいおっさんから家の施工や材について話を伺ったのだった。しかし5千万だか6千万だか知らないけど、ベニヤに角材を張り付けた工場仕上げのパーツをネジで張り合わせていく様は何とも安っぽいね。これじゃあ10年建築も納得だ。Yの従弟に悪意はないが、こんな作りの家に5千万も6千万もの金を払う気にはとてもなれない。おれだったら基礎だけつくってもらい、杉や檜の間伐材でもがっちり組んで、こつこつとシロウト作業で時間はかかるだろうけれどじぶんでつくってみせるね。その方が何たらホームよりよっぽど丈夫にできあがるんじゃないの。そんなひそかな自信はある。車でも家でも、モノってのは本来モノなりに生きているもんだろ。それが人の手で作られるものならば。人がそいつに息を吹き込むわけだ。縄文人がつくった土偶や立柱のように。死んでるまがいものがあまりにも多すぎやしないか。

2005.8.21

 

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 「(ヴァイオリンを首に挟む練習のとき)先生が“まだだいじょうぶ?”って訊くと、いつも“ううん”って首を振っちゃうでしょ。シノちゃんはできるんだから、今日は“だいじょうぶ。できる”って言うんだよ」 子は先生の問いかけのたびに“だいじょうぶ”“うんうん”とうなずき続け、最後に、これからは家で音を出して弾く練習をしてもいいという認可をもらって帰ってきた。先生の夏休みとキャンプ行きのキャンセルをはさんだブランクの間、ときにYにせかされて子は弓の持ち方と首にはさむ練習、音符の練習を毎日すこしづつ続けてきた。昼間、「くりすますには ばいおりんをひけるようになるように おねがい」と書いた紙切れを子は、Yの知らぬ間にベランダに干した布団にセロテープで貼っていたのだった。音を出す、といってもまだまだ弦一本分の単音だ。帰ってから子はその弦一本分の練習を早速くりかえした。「明日はきっと、起きたらその話をしてくれるわよ」とYは言う。そんな小さなヴァイオリニストと二人して明日は市内のホールに、チケットを買っておいた京都フィルのこどものためのコンサートを聴きに行く。

2005.8.23

 

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 京都フィルハーモニー室内合奏団の親子コンサート。シュトラウスのポルカ「休暇旅行」がはじまると、子はこちらを振り返り「これが終わってほしくない ! 」とちいさく叫ぶ。

 夕方、子と二人で「モンテクリスト伯」の映画を借りてくる。カーステのラジオで朗読をやっていたのを聴いて、子が映画を見てみたいと言ったから。

 台風11号、接近中。

2005.8.24

 

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 いつごろからか、宮沢賢治の「境内」という詩を愛した。「詩稿補遺」として残されたその平明な詩は、孤独な心像スケッチであり、いわばブルースだ。賢治は村の青年団の寄り合いか祭の稽古かに交じって古びた山あいの神社にいる。昼時だ。みなは境内のあちこちに散らばり、“約束をしてもち出した”弁当をひろげているのに、賢治は知らずひとり手ぶらできた。かれは“学校前の荒物店”へ行き、パンでも売っていないかと訊ねるが、店の主に「パンならそこにあったはずだが、ははあ、こいつは喰われない石バンだ」とからかわれる。それは滑稽になり果てた惨めな〈鬼〉へ向けられた世間の視線というやつだ。その乾いた悪意の冷笑は凍らせた寄る辺なき魂を薄い硝子細工のようにぱちんと弾こうとする。こらえようとするには、あまりに痛くかなしく、圧倒的なのだ。

 

主人もすこしもくつろがず
おれにもわらふ余裕がなかった
あのぢいさんにあすこまで
強い皮肉を云はせたものを
そのまっくらな巨(おお)きなものを
おれはどうにも動かせない

 

 賢治はみなから離れて唯ひとり、杉の巨木のうしろに身を隠すように座っている。かれの目に見えるのは「うす光る巻積雲に 梢が黒く浮ゐている」さまばかりだ。それもぼんやりと滲んでいる。やがて昼飯時も終わったか、杉の木立の向こうから威勢のいい銅鑼の音や手拍子が鳴り響く。こらえていたものが奔流のように堰を切って流れ出す。じぶんの影が薄く小さく消えていくような思い。

 

あゝ杉を出て社殿をのぼり
絵馬や格子に囲まれた
うすくらがりの板の上に
からだを投げておれは泣きたい
けれどもおれはそれをしてはならない
無畏 無畏
断じて進め

 

 銀河鉄道もひかりの素足もみな、そのさみしい境内からこぼれおちた。

2005.8.25

 

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 佐保川でいにしえのかわらけを拾った寮美千子さんの話を読み(http://ryomichico.net/bbs/lumi0055.html#lumi20050607232625)ちょいとちかくの川原を覗いてみたくなった。Yは最近通い始めた公民館のパソコン教室へ朝から行っている。家で遊びたいと言う子を「まあ、そんなこと言わずにさ、むかしのお皿のかけらを探してみようよ」と説き伏せ、ママチャリに乗って出かけたものの、どこも護岸工事を施した川ばかりでそもそも砂地が見当たらない。春日の原生林に端を発する佐保川は奈良市から西の京を経て郡山で他の幾筋もの小川と合流する。ないねえ、ないねえと子と言いながらこれまで通ったことのない土手の鄙びた砂利道をのたりくたりすすんでいたら、大きく枝分かれした老樹の根元に石仏が数対。そのうしろは竹林と低い草むらに囲まれた、小さな砂丘のような墓地であった。“砂丘のような”と感じたのは、一面にこっそりとつましく列んだ墓のどれもが土饅頭ばかりであったためだ。墓石のあるものはひとつもなく、卒塔婆一本立っているものでさえ数えるばかりで、多くは朽ちた木片を墓標代わりのちょこんと抱き、ただ、なかば土に埋められた湯呑み茶碗と、盆あたりのものらしい萎れた花を供えた花台はきちんとどの墓も揃えている。墓地のいちばん奥に線香台の転がった石の台座があり、その背後に磨耗して顔も定かでない石仏が一体。台座には「○○村」と刻まれてある。しばらく子とそのこじんまりとした墓地の中をつくつくと歩いた。台座の上のちびた線香を拾って火を点ける。傾いた土饅頭の上の湯呑みをなおしてあげようよ、と子が言う。子はときどき立ち止まって土饅頭に手を合わしている。むかしここでこんなふうに遊んでいた女の子がおばあさんになって死んで埋められるまでをこのお地蔵さんはずっと見てたんだね、そんな話を子とする。なつかしい、妙にここちよい気分だ。強固な石の墓とは違う、土くれにもどっていくここちよさだ。

 午後から子と図書館に行き、郷土資料の棚を漁ってこの墓地のことを調べてみたのだが収穫はなかった。ただ記録では明治21年に当時の○○村が隣村と合併して新村になっていることから、「○○村」と刻まれたあの台座はそれ以前に建てられたものらしい。翌日職場で、奈良文化財研究所でアルバイトをしている学生のM君に寮美千子さんの話を聴かせたら、佐保川に関しては唐招提寺のそばにいまも住んでいる考古学の大先生・直木孝次郎氏と東野治之氏のお二人が権威である、と教えてくれた。M君はまた奈良時代の佐保川は大仏建立の製錬製鉄のために汚染された日本初の公害の川であり、当時は夥しい屍が水葬に附され川原にあふれた髑髏をどうにかして欲しいといった訴状も残されていることなども教えてくれたのだった。

2005.8.27

 

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 朝から子を連れてリハビリの帰り、新世界に立ち寄る。通天閣の真下の王将で昼飯。どこか素朴さの残る目元のすっとした、祭の舞台が似合うような店の女の子がときおり子を愛しげに眺め「おいしい?」などと声をかける。こういう子がいるからラーメン屋のカウンターは好きだな。子は冷麺が食べたいと言うので頼んだのだが、わたしの麻婆豆腐セットについていた串カツが気に入ったようだ。それから動物園に行って、生命の多様性を眺めながら夕方までたっぷりの時間を二人で過ごす。動物園を出て天王寺駅へ向かう階段の上で、道端に座り込み缶チューハイを呑んでいたおっちゃんが子に手を振る。どこかの王妃のように子はおっちゃんのエールを無視する。広場の鳩を追って子は走り出す。「おとうさん見て。遅いけど早いよ。遅いけど早いよ」と嬉しそうに叫びながら。

2005.9.2

 

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 車の購入にあたって印鑑証明が必要になった。引っ越してから印鑑登録をしていなかったことに気づき、役所へ出かけた。しばらく待たされて窓口に呼ばれると「申し訳ないが、この印鑑は登録できない」と言う。印鑑はわたしが自ら彫ったものである。わが家ではこれを実印に使っており、前の町ではちゃんと印鑑登録もしていた。ところが窓口のおっちゃんの説明によれば、登録に用いられる印鑑の規定というものは各自治体に任されており、当市では白抜き(逆彫りともいう・文字の部分を削ったもの)は認められていないと言うのである。そうして見せてくれた小冊子には確かに「白抜きの印鑑はゴミが詰まり陰影が変わりやすいので認めない」と記されている。ただその冒頭に「市条例○条○項に基づき」とある。「この条例というのを見せてくれますか?」 おっちゃんは奥から抱えてきた分厚い条例集をめくり示してくれた。「以下の印鑑は登録を認めない」とあり、その下に箇条書きで「ゴム印」だとか「文字を絵で表したもの」などとあれこれ列んでいるのだが、「で、いまのケースに該当する個所はどれなんでしょうか」と問えば、おっちゃんの指し示した部分は「不鮮明なもの」とのみ書かれた一行。要するにこれを「解釈」したものが先に見せられた「白抜きは認めない」の一文だったわけだ。わたしはおっちゃんにおだやかにセツメイしたのである。ちょっと考えてみてください。白抜きはゴミが詰まりやすいというけれど、たとえばこれを逆に彫ったとしますね。するといま赤く出ている部分が彫りの部分になるわけですが、その部分にもいまの白抜きと同じくらい細い線がたくさん出ることになります。失礼ですがこの条例の「解釈」はあまり意味がないのではありませんか。おっちゃんはしばらく考え込んでからついと顔をあげ、「分かりました。そこまで仰るなら(印鑑証明を)出しましょう」と宣った。「ただしですね」とおっちゃんは付け加える。「私がこの場で別の印鑑に換えた方がいいですよと進言したことはここ(申請用紙の枠外)に書かせてもらってもいいですか」 ああ、これまた何とお役所的発想のことよ。わたしの「セツメイ」に個人では納得したくせにそれには触れずほじらず、ただひたすら保身にまわる。まあ、いいけどさ。わたしはさらに自分の携帯の番号もそこに書かせて「何かあったらいつでもお話は伺います。電話してちょーだい、ピアノ売ってちょーだい」と言い残し、登録カードと印鑑証明書を手に役所の門を後にしたのであった。

2005.9.3

 

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 二大政党、新しい政治の潮流などと新聞やテレビは合唱しているが選挙。あんまり行く気がしないねえ。自民か民主か、コイズミかオカダか。もともと自由民主党は大昔に自由党と民主党がいっしょになってでけたわけだが、こんども自民と民主がいっしょになったらまた自由民主党になるんじゃないんかね。むかしディランのデビュー30周年記念コンサートのステージでスティービー・ワンダーが「次の新しい大統領に求められるのは少数の人の声をくみあげるような人だ」とアジっていたものだが、そんな政治家はいまどこにいるのか。「もっとも不利益をこうむる者が、もっとも発言力をもつ」 そんな政治はいまどこにあるのか。あるのは勝者の論理、強者の論理ばかりだ。イラクの自衛隊員が殺されたとしても、アッパラパー首相の「かれはイラクの復興のために命を懸けた。カンドーした!!」で済まされてしまうようなテレビ的ノータリン社会では、繊細な問題を根気よく話し合っていくなどとといった美しい習慣はすっかり死に絶えている。そもそも政党というのはほんとうに何かを代表しているのか。「まっとうなニンゲンとして生きたい」という誰かの切実な願いを代表しているのか。暗黙の内に「そういうことになっている」ハズなのだが、じつはそういったものはすべて幻想ではないのか。なんにも代表していない。ただおぼろな空気のような上澄みをすくってちびたゲームに興じているだけじゃないのか。そしてわたしたちはみな経済においても政治においても精神においてもたんなるちっぽけな「消費者」でしかない。粋なモノで豚小屋を埋めてささやかな自己実現に浸ろう! むかし若い頃、大江健三郎の「一票に価値はあるのか」みたいな文に感銘を受けたこともあったが、いまではそんな気持ちのかけらも残っていない。

 で、ぼくらにできることは何なのか。爆弾テロか?

2005.9.5

 

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 台風のせまりくる深夜。仕事帰りの車のラジオからとつぜんディランの Subterranean Homesick Blues がとびだしてくる。からだの奥で風が吹いたような気持ちになる。夜の底をすべっていく。

2005.9.6

 

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 本書の対話を通じてわたしたちが読者と共に考えたかったのは、デモクラシーに「消費者」なぞ存在しないということであり、デモクラシーは、それを不断によりよく作り変えていく公的な存在としての「デーモス(demos)」によってはじめて生命を与えられるという点だった。この限りで、読者は、書籍市場で本書を買い求め、それを読み、思索し、洞察を深めるだけでは、まだ「デーモス」にはなっていないことになる。

 確かに、自分たちの主要な問題についての知識を広げ、洞察を深めるのは大切な作業である。だが、それが具体的な実践へと踏み込んでいくための生きた動機づけにならなければ、依然として読者は、書籍市場の「消費者」ではあっても、「デーモス」として公的な空間に足を踏み入れていないことになる。わたしたちは、読者が、一ミリでも、一センチでも、具体的な行動に踏み出して欲しいとの願いをこめ、この対話の企画を思い立った。もちろん、こんなわたしたちのメッセージも空ろに響くほど、現実世界におけるデモクラシーの惨状は目をおおいたくなる。

 本書でも何度か言及したように、「デモクラシーの危機」という月並みな言葉では表現できないほど、デモタラシーは瀕死の重病に冒され、死期を迎えようとしているように見えることがある。なぜそうなったのかについてわたしたちは、いろいろなアングルから解き明かそうとした。そのようなデモクラシーの惨状をもたらした原因には、わたしたちが「消費者」に甘んじ、その殻を打ち破ることに臆病だったり、その居心地のよさに慣れてしまった惰性があるように思えてならない。さらに直裁的には、わたしたちを蝕んでいるこの無力感こそ、デモクラシーをこれほどまでに蝕んでしまった元凶だったのだろう。

 もちろん、この無力感にはそれなりの理由がある。なぜなら、現代ほど、わたしたち「デーモス」と権力との距離が近いように感じられながら、現実にはこれほどその距離が大きくなってしまった時代は他にないからである。

 実際、さまざまなメディアを通じ、政治家や有力者、リーダーたちとのヴァーチャルな距離感覚はほとんど消えうせつつあるのではないかと錯覚してしまう。テレビには、まるでお茶の間に自分たちと一緒にくつろいでいるような大統絹や首相たちが親しく映し出される。それこそ複製時代の芸術ではないが、政治からもまた、カリスマ的な「アウラ」(オーラ)は消えうせ、ヴァーチャルな親しみやすい権力者のイコンがメディアを通じて複製=反復される。そしてこの電子イメージこそが、メディア(媒介者)そのものになってしまうことで、メディアに適合するポピュリスト政治家をのさばらせる結果を招いたのである。彼ら彼女らは、多くの人々が観たいと思うものをそのまま投影する「ロールシャッハ・テストのインクの染み」のように、権力とわたしたちの距離を近づけてくれるのである。

 だがひとたび、現実の公的な空間のなかで、「デーモス」として権力者たちに意志を伝えようとしたり、権力者の政策や決定を変えようと試みた隣間、自分たちと権力との距離が目もくらむほど大きいことを思い知らされるだろう。

 その上、およそデモクラシーのルールに従って民主的に選出されるわけでなく、デーモスに応答責任を負うわけでもないさまざまな国際的な機関や組織、グローバル企業などの巨大な影響力を考えると、わたしたちのなかに深い無力感が浸透してきたとしても決して不思議ではなかった。そしてその無力感は、孤立感を生み出し、時には自己嫌悪すら引き起こす。その無力感に根ざす自己嫌悪は、場合によっては自分の外に恐怖や憎しみのターゲットを見出したとたん、それらに対する憤怒や排斥のエネルギーに反転することにもなりかねない。つまり、ここではデモクラシーを否定する「反デモクラシー」のエネルギーの放出によって、自分たちが孤独ではないことを確かめ合う倒錯したコミュニティが作られる可能性がある。

 日本だけでなく、多くの国々に巣くうこのような「内向きナショナリズム」の病理に、わたしたちふたりは、深い危機感を覚えた。それゆえ、この倒錯した「反デモクラシー」のエネルギーをデモクラシーの新たな冒険へと誘うことこそ、わたしたちがこの対話を企画した狙いに他ならなかった。

 比喩的にいえば、デモクラシーにおいて無力感に浸り、「消費者」の立場から脱け出せない人々は、ある意味で「強迫パーソナリティ」に近い状況に陥っているとも考えられる。その顕著な特徴は、無力感の裏返しとしての確実な未来とその保証を要求する一方、デモクラシーの限界を受け入れながらも少しずつでもそれを作り変えていく行動を、頑なに拒否しょうとすることである。そこには、デモクラシーに対する乾いた不信感があるだけでなく、そうしたことに決定的な関わりをもつのを控えたいという防衛機制が働く。

 だが、わたしたちの生において他者への決定的な関わりから身を引き、しかるべき保証なしには飛躍することをためらうのは、新しい試みに対する障害となる。デモクラシーには、予定調和的に和合するとは限らない他者との出会いが必要であり、そうした出会いを通じて絶えず作り変えられていく公的な空間がなければならない。それはすでに整えられてわたしたちの目の前に舞台として設定されているものではない。未来の絶対的な安全や安心、保証を必ずしも約束するものではないが、その舞台はわたしたちが構築する。

 デモクラシーは、決して完成されることがない。絶えず未完成であり続けるはずだ。人間としての限界によって制約されてはいても、デモクラシーの空間にデーモスとして足を踏み入れ、自分たちが公的な存在として相互に認知し合ぅとき、自分は決して無力ではないことをはじめて感じるのではなかろうか。そのためには、不満をもちつつもどこかで無力感と裏腹な居心地のよい「消費者」であることから脱け出さなければならない。

 それでは具体的にどうしたらいいのか。まずわたしたちデーモスが、政治家や専門家たちより、ある意味で「賢い」ことを悟るべきである。正確にいえば、「賢くなる」ことはできるし、また「賢くなる」努力を続けるべきであろう。そのために、法外なエネルギーや時間がかかるわけではない。新開や雑誌、ラジオやテレビに登場する識者や専門家、アンカーパーソンやウォッチャーたちの言説のうち、どれが「まとも」なのか、それを識別する「目利き」の力を養うことである。現実が恐ろしく複雑であるにもかかわらず、それを単純明快なわかりやすさに置き換えるレトリックにはいつも疑いの眼差しを忘れてはならない。わたしたちの生がそうであるように、デモクラシーにかかわる共同の事柄で、複雑さを免れる問題などひとつとしてないからである。この適度の懐疑の目を養えば、いまわたしたちデーモスにとって何が問題なのか、何が優先的に議論されなければならないのか、問題の背後に一体どんな具体的な経験の積み重ねがあったのか、こうしたことが少しずつわかってくるはずだ。

 さらに大切なのは、テレビなどの映像メディアが、実は操作や幻想、偽造などの影響を及ぼしやすいものである点を片時も忘れないことである。映像は決して嘘をつかないのではなく、そうした影響に絶えずさらされている自分をあらかじめ理解しておくことが重要だ。

 こういうと、あれも信じるな、これも信じるなと、なにやら皮肉っぽい懐擬主義者となるよう薦めているみたいだが、決してそうではない。どんなメディアでも、ありのままの現実と世界を映し出すことなどありえないという重要な視点をもつ必要を、強調したいのである。なぜなら、その「目利き」がなければ、わたしたちは、たちまち「観客民主主義」の「消費者」に転落させられてしまうのだから。

 さらに薦めたいのは、やはり大手のメディア以外のさまざまなメディアを少しでも利用することである。わたしたちは、インターネットをはじめ、いろいろなメディアに取り囲まれている。それは、市場の価値増殖と密接にからんでいるのだが、わたしたちの意図次第で、そうしたメディアは、デモクラシーの武器にもなり、またそれを壊す武器にもなりうる。ネット上の議論空間が、どこまでデモクラシーの新しい冒険に貢献することになるのか、定まった図式があるわけではもちろんない。ただそれが、多くの人々との間に「デーモス」のきずなを広げる可能性をもっていることだけは確実だろう。

 時間がないとこぼしている読者には、本書にあるとおり、デモクラシーについての自分のアイデアを一言でも書き込んで発信してみて欲しい。それだけで、すでに読者は、「デーモス」となる扉を叩いていることになるのだから。

 そして投票所に行くことに懐擬的な読者や、「支持政党なし」をあえて意識的に選択している読者は、本書で薦めているとおり、ネット上で「支持政党なし党」の結成でも呼びかけてみてはどうだろうか。

 もちろん、選挙のときには必ず投票所に足を運ぶ「常連」の読者も、本書を通じて自分の投票行動というものについてあらためて考えをめぐらせば、デモクラシーの冒険にはいろいろな実践と方法があることに気づくと思う。そしてそのうちで気に入ったものがあれば、とにかく実際にやってみることをお勧めしたい。

 世界は、戦争が平和であり、隷従が自由であり、暴力が安全であるような、倒錯した現実に向けて転げ落ちて行くように、わたしたちには感じられた。そうしたなかでわたしたちは、対話を通じ相互に啓発し合い、時には身を震わすょうな緊張を強いる議論にたっぷりと時間を費やすことができた。

 帰属するナショナリティも違い、またそれぞれに異なった背景をもつふたりが、こうしてデモクラシーについて熟考と討論の機会を分かち合えたことは、かけがえのない喜びである。と同時にこのような国境を越えた対話が成り立つことに、グローバル・デモクラシーの可能性への予兆のようなものを感じずにはいられない。わたしたちの対話が、グローバル・デモクラシーの未来を語りえたのも、対話そのものが幸運にも越境的な出会いによってかなえられたからである。このような対話は決して偶然が起こした稀な事例ではないのだ。そしてこの対話から、縦横無尽に、伸びやかに、そして闊達にさまざまな出会いと、さらなる対話が発展していくことを願っている。その意味で、わたしたちの対話は、グローバル・デモクラシーに向けた触媒の意味があるに違いない。単なる思索や省察にとどまらず、より実銃的なインセンティプを読者と共に考えたいと思い続けてきたわたしたちのアクチュアルな動機は、結果として本書のなかに生かされていると自負する。

姜 尚中テッサ・モーリス-スズキ 「デモクラシーの冒険」(集英社新書)あとがきから

 

 

 

 

みんなでつくる
デモクラシー・マニフェスト

 

1 もっとも不利益をこうむる者が、もっとも発言力をもつ。

2 デモクラシーは、自宅から始まる。

3 すべての人間は、外国人である。

4 すべての人間は、世間に迷惑をかける権利もある。

5 すべての人間は、権力による抑圧に抗するために、失敗を恐れずに行動する権利がある。

6

7

8

9

10 すべての人間は、自分たちの暮らしをより良い方向に変えられるボタンをもつ。

 

マニフェストの 6 〜 9 の空白は、本書を読まれた方々が、自分自身の言葉で埋めていただけないでしょうか。多くのアイデアが集まって、上記の10項目に収まらず、ぜんぶで 100項目にも 200項目にもなることを望みます。是非ともチャレンジしてみてください。

姜 尚中
テッサ・モーリス-スズキ

 

2005.9.8

 

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 作家・五木寛之氏とカトリックの司教である森一弘氏との対談「神の発見」(平凡社)を読んでいる。

 もともと聖書の言葉はヘブライ語で書かれたが、のちにギリシャ・ローマ世界の影響を受けてギリシャ語に訳された。「はじめに言葉があった」と書き出されるヨハネの福音書の「言葉」は、ギリシャ語のロゴスにあたる。ロゴスの語源は「物事を束ねる・本質を整理する」という意である。ところがヘブライ語の「言葉」を表すダバールは「内側から噴き出してくる生命」という意味が含まれている。

 仏教でいう「慈悲」もまた、ときに英語で Love なぞと訳されることもあるが、「慈」はマイトレーヤ、「悲」はカルナーというふたつの単語から成っている。マイトレーヤは五木いわくヒューマニズムに価するもの、と言う。一方のカルナーは「字引を見ると----思わず知らず漏れ出ずる、ため息のような、呻き声のような感情----などと書いてあって、なにかはっきりしない。本能的で、盲目的で、前近代的なんですね。ひょっとしたら、悲は、聖母マリアに通じるかも知れない」「この悲という感情は、明治以後、ほとんど軽視されてきたような気がするんです。近代化のなかで、慈のもつプラス思考で、明るくてヒューマンでという側面だけが、重視されてきたと。だけど、私はいま、悲のもっているものを、すごく大事にしなければいけないなと思って、悲の効用なんていう話をしたりしているんですけど」

 それを受けて森が日本の聖書に云う「憐れみ」は「断腸の思い」などと使うヘブライ語の「腸」と語源的に同一であると云い、それから「悲」という漢字の語源を調べると上の「非」が羽で下の「心」を裂く、つまり心が引き裂かれるような慟哭が「悲」だ、と云う。「神が人間の気の毒な姿を見て、神自身が、いたたまれなくなって動くというのが悲の原点だと私は理解しています」

 聖書でキリストの云うギリシャ語の「アガペー(愛)」は、ヘブライ語では「ヘン」と「ヘセド」と「セダケー」の三種の意を有する。「ヘン」は悲によって動かされた一回性の行為、「ヘセド」は持続した信頼感に基づいたかかわり、そして「セダケー」は誓いに基づくかかわりかた、である。

 

 目の前にいる人間の、みじめな姿に動かされ、相手にこころを開いて手を差しのべるとき、かかわりが生まれていく。そのかかわりが、一過性のものから、誓いに基づく揺るぎないかかわりになっていく。それは、「腸(はらわた)が揺り動かされる」ということからはじまり、誓いに基づく相手に、自らを捧げてしまうかかわりで完成される、ととらえていたということです。

 「神は愛」というときには、自ら誓いを立ててまで、人間にかかわり、人間を救おうとする神の姿をしめすことになるのです。「憐れみ」とか「愛」と訳すだけでは、そうしたニュアンスが見えなくなり、伝わってこないのです。

(森一弘)

 

2005.9.13

 

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 食卓用のテーブルとベンチを制作してから、Yは部屋の雰囲気を変えようと余念がない。「シンプルがいちばん」と食器や雑貨を整理する。サイドボードの上を観葉植物で飾る。子のいらない玩具やじぶんの古い衣類を処分したりリサイクル屋に売りに行ったりする。このところ英国流生活の本ばかり読んでいるYは、かのウィリアムス・モリスの箴言を引くのである。いわく「有益なものと美しいもの以外は家に入れてはいけない」 「じゃ、まずおれが出て行かなくちゃいけないな」とわたしが答えた。

 リサイクル屋でYは身体にぴったりの秋のセーターを一枚買った。「おかあさん、すごくいいねえ」試着したYを眺め子は大絶賛した。「おっぱいもついてるし」

 昨日はYはチビを連れて夕方まで大阪でリハビリと装具の直し。わたしは朝から幼稚園の敬老参観のために泊まりに来る義父母を和歌山まで車で迎えに行き、戻って荷物を降ろしてそのまま、こんどは京都のYの従姉がやっている車屋へ手続きがすべて完了した車を代車と交換しに行った。60万を現金で払い、残りの15万を一年間の分割払い。平成14年の型で走行距離は5千キロ。内外装とも美品で、ほとんど新車に近い。夜は回転寿司屋の駐車場で子とふたり、車内で呆れているYをよそに、新しい車のライトや方向指示器を点灯させて「いいねえ!」と感嘆し合った。

 子はしばらく前にNHKの「生き物地球紀行」で録画した一角獣のビデオにいま夢中だ。なんども見返して「ツノみたいなのはね、あれはほんとは歯なんだよ」「すいめんにそれをだして、いちばんながかったイッカクジュウがオンナをもらえるの」 そんなことを言っている。

 今日はこれから車関係で、警察で身障者の駐車許可証をもらったり、全労済の窓口へ任意保険の手続きをしたり、陸運局で(子の障害者手帳による)自動車税の減免手続きをしたり、役所でETCの登録(これも子の障害者手帳で高速料金が半額になる)をしたり。子の新しい(抽斗付きの)机を制作しようと思っていた三連休も、そんなあれやこれやで終わってしまった。

2005.9.16

 

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 17日。朝6時家を出る。仕事。深夜1時帰宅。18日。朝7時家を出る。仕事。深夜3時帰宅。19日。夜9時家を出る。仕事。20日。夜12時帰宅。

 子は今日は幼稚園で敬老参観日。おばあちゃんの布団で寝ている。

2005.9.17

 

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 ぼくの初恋はハセガワさんだ。ハセガワさんは小学校のときに転校をしてしまったけれど、中学校でまたいっしょになった。けっして美人というわけではない、小柄で、“おぺしゃ”で、気持ちのやさしい女の子だった。埼玉県と東京足立区の境のあたりの郊外の、水門のあるしずかな緑の小径を、ぼくはよく自転車でひとり遠乗りをして走るのが好きだった。そのときのさみしいような胸が躍るような風に吹かれているような気持ちはハセガワさんに抱いていた気持ちとよく似ている。大人になってもぼくはハセガワさんの夢をときどき見た。彼女はときにぼくの横に黙って恥ずかしそうに腰かけ、ときに「わたしは未来から来たの」と言ったりした。そういえば小学生のときぼくは彼女を主役にした寸劇のシナリオを書いて、近くの土手でクラスメイトたちと練習をしたのだった。子が借りてきたビデオ「猫の恩返し」の挿入歌「風になる」を収録した“つじあやの”のアルバムを職場のKさんのご厚意でお借りした。京都出身の若いソングライターのその歌を聴いていたら、あのころの気持ちが鮮やかに蘇ってきた。自転車のペダルをこいでいたあのときの風が蘇ってきた。陽に透いた新緑の葉っぱのように、いまも軽やかに風に揺れている。深夜になんどもくりかえし聴く。

 

つじあやのオフィシャルサイト http://www.jvcmusic.co.jp/speedstar/uraraka/

2005.9.18

 

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 某日。職場のKさんから与論島の蘇鉄の種を頂いた。以下、Kさんの解説メールを転載する。

 

蘇鉄の育て方

【学名】Cycas revoluta
【分布】国内では九州南部〜八重山諸島
【採取地】鹿児島県大島郡与論町茶花

 この間、与論島へ行った時に島内の茶花という場所で自生している蘇鉄から種(下に落ちて転がっている)を拾ってきました。
化石植物と言われる一群の仲間だそうで、昔から形が変わっていないらしい。
自生数が最も多いのが奄美諸島だと思います。(沖縄でも目にしますが奄美に比べると数が少ない)
暖地の植物ですが本土でも極端な寒さがない関東以南では屋外に植えても大丈夫なようです。
学校の校庭にもよく植えられています。

 奄美〜沖縄では「蘇鉄地獄」というのがあって、琉球王朝支配下その後の薩摩の直轄支配、戦後の米軍占領期間に食べ物が無いという危機に直面する事があり(ただでさえ貧しいのに台風の影響で作物や魚が採れなくなる)、その時に蘇鉄の実からデンプン(砥粉)を取り出しそれを食べて飢えをしのいだそうです。
しかし蘇鉄の実には毒があり、毒消し作業(水に何日も晒す)がかなり手間がかかるのだそうです。
この毒抜きが上手くいかないと命を落とす危険性があり、実際亡くなった人もいたようです。
味もそっけなく、あまり美味しいものではないらしい。

 さて育て方・・・

 種は植え付けする前に3〜7日くらい水に浸しておくと発芽率が高まります。
水に浸した種を取り出し「横向き(卵を横にしたように)」にして土に埋めます。
土に埋めるのは半分〜3分の2程度で、極端に土の上に種を置くだけでも発芽します。
水は乾いたらあげるようにしますが、発芽するまでは土を乾かさないようにしたほうが良いと思います。
発芽温度は高め(20℃前後)なようなので日当たりのよい場所へ置いておくほうが早く発芽する筈です。
※若い種は発芽するのに1年以上かかります。
※今回の種は下の土に転がっていたもので、時期的に種が落ちない時期に拾ったものなので1年近くは経過してると思うのですが。

 発芽したら・・・

水やりは土が乾いたらたっぷりあげます。
秋〜冬場は水やりの回数を減らして乾燥気味にしますが、まったく水をやらないと枯れてしまうので時々控えめにあげます。

 植え替え・・・

成長が極端に遅いので植え替えは4、5年に1回、今の鉢より一回り大きいものにします。
植え替える場合は春に行います。

 肥料・・・

春(3月〜5月)に油粕や化学肥料を与えます。
別に与えなくても育つようですが・・・

 害虫・・・

基本的に蘇鉄を食害する虫はいないようです。
南西諸島では蘇鉄を食べるソテツシジミの幼虫が時々つくようですが本土では大丈夫なようです。

 因みに・・・

ウチでは数年前に奄美大島で拾ってきた種を2年近く旅行カバンに入れたままにしてあり、去年の晩夏に発見してから庭にばらまき(まさしくバラバラと撒いた)したら5個のうち3個が発芽し霜にもまけずそのまま生育しています。現在約10cm程度。
画像はウチの庭にある蘇鉄で左上には種の殻(犬が蹴飛ばした)が落ちています。

 

 

 某日。アニメファンの職場のSさんがつじあやの「風になる」のシングル盤を貸してくれた。「猫の恩返し」のエンディングに使われている同曲のアコースティック・バージョンが収録。なんか最近はこればっかり聴いているな。ウクレレのコード表もついている。

 

 某日。子の5歳の誕生日。子は朝から頭が痛いとか何とかごたくをならべて幼稚園をずる休みした。義父母や私やみんながいるから家に居たかったのだろう、とYいわく。「お父さんもよく自転車で海に行ってな、誰もいない海岸で本を読んで、ひろい海を眺めながらお弁当を食べて家に帰ったもんだ。東京にいたときは自転車で上野まで走って、博物館のミイラや化石なんかを見るのが好きだったなあ。それから不忍池という池のはたの公園をぶらぶらしてたら、別の学校に行ってたあっさんがベンチで英語の本を読んでいるのに会ったこともあったよ。ずる休みも時にはいいもんだ」 午後から子は母親とケーキづくり。夕食は何か豪勢なものを(おじいちゃんの奢りで)食べに行こうと思っていたのだが、子は生協の、鰻の小片を胡瓜や卵といっしょにご飯に混ぜるやつが食べたいと言う。それで大人たちも中国産の鰻を急遽スーパーで買ってきて、鰻丼とすましの夕食になった。誕生日のプレゼントは数日前、Yといっしょに近鉄百貨店で選んできた花の形をした洋風電気スタンド。組み立てをし、灯りをともしてみせると子は「わあ--、きれ--い。お嫁にいくときに持っていくものみたい」 おいおい、それはまだ早すぎるぞ。

 

 深夜のベランダでひとり煙草をふかしているとき、身のすくむような恐怖に襲われる。わたしは、死にたくない。消滅したくない。愛する子や妻とずっとこのままでいたい。天文学者の言葉をつぶやき風呂場で死んだ伯父のことをわたしは考える。伯父もまた賢治のうたった「さびしい停車場」を通って「あたらしいからだ」を得たのだろうか。わたしはまた無念な思いを残して死んでいかねばならなかった無数の死者たちのことを考える。得も言われぬ思いで胸が熱くなる。そしてわたしはフランチェスコの身に触れたくなる。「わずかな時間だけ与えられている“領地”と引き換えに、消えることのない遺産を手離す気にはなれない」 この世のささやかな幸福にしがみつこうとすると神の前へ一歩を踏み出していることが不思議だ。

2005.9.23

 

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 休日の日曜なれど風邪。喉痛し。

 終日寝転がって山田風太郎「戦中派不戦日記」を読み、ときどきうたた寝をす。

 のんびりしている。

2005.9.25

 

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 夕方、子と「パピヨンの贈り物」というフランス映画を見る。一人息子を鬱病でなくした老人と母親に疎まれている少女がまぼろしの蝶を探しに行く物語だ。

2005.9.26

 

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 amazon で寮美千子「マザー・テレサへの旅 ボランティアってだれのため?」(学習研究社)Van Morrison の Veedon Fleece (CDでの買い直し・remastered)を購入。

 山田風太郎「戦中派不戦日記」を読み続ける。かれの日常とわたしの日常は薄皮一枚の風景のように思われる。

 離れていると大事でならぬのに、近くにいればつまらぬことばかりにいらつく。それは誰でもない、じぶんがじぶんにいらつくのだ。おのれ自身が途方に暮れて、卑小で、ネズミのように嫌らしいからだ。わたしはこのみすぼらしい魂を、ときに何かに委ねたくなる。

 Veedon Fleece を聴きながらまたあたらしい原野を、雨に濡れた狂おしい緑の中をさすらいたい。重すぎず、軽すぎず。

2005.9.29

 

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午前。会社の営業所近くにあって以前から目をつけていた製材所で、子の机用の天板を購入する。もともとは建材の販売がメインなのだが、客からのリクエストもあり、事務所の向かいのガレージに端材などを小売り向けに置くようになったという。以前にちょいと声をかけた事務所のおばちゃんは愛想が悪いこと甚だしかったが、今回出てきた若い事務の女性は板一枚の客相手にいろいろ親切に半時間も相手をしてくれた。その人が倉庫から探し出し、社長の叩き売り的な値段を付けて持ってきてくれたのが100×50センチ、厚さ2センチのヒノキの一枚板、五千円なり。これだけの幅のヒノキで節ひとつないのも珍しい美品という。ホームセンターで売っている集成材もあるが、一枚板にこだわりたかった。両側に耳を残した無垢板だがせっかくだからこれはそのまま生かしたい。さて、こいつをとくと眺めて、どんなイメージが浮かんでくるか。

2005.9.30

 

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 休耕田を利用した柳生のコスモス畑。棚田をひろげたふつうの山里に曇り気味のふつうの空がひろがりふつうの時間が流れている。集落とコスモス畑を見下ろす田圃の畝にシートをひろげておにぎりを頬張る。これもふつうの忘れかけていた時間。蟻がおにぎりの横を這い、風が田を駆け抜け、透明な水が草の生い茂った用水路を流れていく。「毎日眺めて暮らしたい風景でもないわ」とYが言う。「これまで見たどんな景色の中で暮らしたい?」 「どうぶつえん」と子が言う。車椅子に乗った女の子が若いお父さんとお母さんに引かれて畦道を通る。「しのちゃんと同じくらいの年齢だったね」 野花でつくった花束を道端の野仏に子が添えにいく。摘んできたヨモギの匂いを嗅ぎながら目を閉じて横になる。蛙にバッタに蜻蛉に蝶。土止めの杭の上にまだら模様の太い蛇がとぐろを巻いていた。「これは何だろうね?」「ヒモ」と子。気配を察した蛇がするりと草むらに逃げる。「ヒモじゃなかったねえ」 道沿いで地元のおばちゃんが開いていた野菜の直売所で手作りの蒟蒻と卵を買って帰る。「放し飼いだからね、これを食べたら他の卵はもう食べられなくなるよ」「それじゃ困るわ、毎週ここに買いに来なくちゃ」「そうそう」

2005.10.2

 

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 火曜は予定通り、昼から同僚のTさんと平城京見学。講師は現在大学院で古代史を専攻し、平日は奈良文化財研究所(奈文研)でアルバイトをしている交通隊の若きMくん。さて見学会の始まりと思いきや、平城宮内にあるグランド脇の木陰でMくん、するするとジーパンを脱いでサッカーのユニホームに着替え出した。続いて奈文研から昼飯を終えた研究者たちが同じくユニホーム姿で集まってくる。近所の寿司屋や八百屋のおっちゃんも同じくユニホーム姿で馳せ参じる。これ、奈文研伝統のサッカー部なり。色鮮やかな朱雀門をバックに、昼休みの1時を過ぎても「もうちょっとだけ行こか!」と走り回っている。のどかな光景なり。それから資料館の展示を巡りながらMくんの講義が始まったのだが、しばらくして外はひどい土砂降りとなり、当初はだだっ広い平城宮内を闊歩しながら遺構館、東院庭園、朱雀門等のすべてを回る予定が、資料館で最後まで過ごすこととなった。講義は主にMくんが奈文研で携わっている木簡をメインに進められた。Mくんが「ぼくの師匠」と呼ぶ大学の恩師がこの平城京や藤原京でわんさか木簡を掘り当て、その整理を委ねたのがMくんが奈文研で働くきっかけであったらしい。もともとMくんの卒論は「古代天皇家の親戚関係」のようなものなのだが、このごろは木簡も好きになってきたと言う。「これはいいなあ、これはすばらしい木簡ですよ」と思わず声を上げるMくんは、まるで絶世の美女を賛美するかのようで微笑ましい。ちなみにMくんが現在解読を手がけているのは、奈良市にある旧そごう----現在イトーヨーカドーの敷地にあった悲運の長屋王の邸宅跡から出土した木簡およそ5万点である。忘れてしまうほど無数の興味深い話を聞いたが、たとえば天皇の住まう大極殿の前で臣下の者が勢ぞろいする朝堂なる大広場。これが時代を経るにしたがって規模が小さく狭くなっていった。その理由は、もともと天皇の肉声を響かせるだだっ広い宗教的な効果も含めた音響システムであったのが、文字・文書による伝達に変わっていったためだという説明も面白かったね。一方、資料館の展示でわたしがいちばん気に入ったのは、天皇に服従したかつての被征服民・隼人が儀式の折に使ったとされる赤と黒の渦巻き文様をあしらった木製の盾。これは古井戸に使われていたのを昔の文字資料に精通していたある研究者がほんの数十年前に偶然見つけたものだそうだ。閉館時間までいて、予定通り「熊っ子ラーメン」で夕食。テレビの画面に正倉院展に先立つ「開封の儀」が映っていた。

 

奈良文化財研究所 http://www.nabunken.go.jp/index.html

2005.10.6

 

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 京田辺シュタイナー学校事務局 御中

 

 先日、10月8日の「出会いの会」参加を希望していた奈良のまれびとです。

 残念ながら今回は参加を見合わせましたが、一言申し上げたいことがあり、失礼ながら勝手にFAXを送らせて頂きます。

 

 私はかねてからシュタイナー自身の著作に親しみ、その思想に深い共感を覚えている者です。とくに自身子供が出来てからは、機会があればシュタイナー学校で学ばせたいという気持ちをずっと抱いていました。

 今回、貴校のホームページで編入生募集のための説明会「出会いの会」があることを知り、要項に従いFAXにて応募させて頂きました。氏名、連絡先(住所・電話番号)、子供の年齢等を記し、編入学ではないが学校について知りたいので参加は可能でしょうか、という内容でした。わが家にはFAXがないため、関東に住む実家に頼んで送ってもらいました。

 間もなく貴校よりわが家に電話を頂きました。「出会いの会」はまだ受け付けているので参加できるというお返事でした。個別に質問等があれば、説明会の後で「先生をつかまえて」話してくれたらいいとのこと。また今回の「出会いの会」を受けても、入学時の年度にふたたびその年度の「出会いの会」と「ガイダンス」を受けなければならないと言われましたが、それは承知しているし構わないと答えました。

 それから子供の障害について少々説明させて頂きました。おしっこ・うんこが自分で出来ないため現在の幼稚園では導尿をしてもらっていることを言うと一瞬とまどわれたご様子でしたが、小学校にあがるまでには導尿は自分でできるようにする予定であること、若干、走ったり階段の上り下り等は遅いが日常生活の遂行には支障のないこと、特別に人をつけてくれる必要はないこと等々を説明させて頂き、ただちょっとした配慮やこまかい部分で確かめたりご相談したいこともあるのでお話を伺いたいと言うと納得をして頂きました。要項ではなるべく夫婦で参加・子供は同伴できない旨ありましたが、3時間おきに導尿をしなければならないので夫婦のどちらか片方が子供を見ておくという条件でこれも諒解を頂きました。

 翌日6日は大阪の病院でリハビリでした。妻が子供と夕刻に帰宅すると、家の留守番電話に貴校からのメッセージが入っていました。「出会いの会」の前にもういちど話をしたいので都合の良い時間を教えて欲しい、という内容でした。妻が職場の私に連絡をしてきました。貴校との連絡手段はFAXしか聞いていませんし、それ以外を貴校は公開していません。これについては正確な対応を期すためだと伺いました。私は急ぎ職場からこちらの対応可能な時間を貴校宛にFAXしました。

 翌日7日の午後、貴校より二度目の電話を頂きました。私は仕事で、妻が電話を取りました。内容は、今回の「出会いの会」に参加するかしないかはこちらの判断に任せるがという前振りで、人員的に私の子供のために人一人を配置する余裕が貴校にないこと、それから、今回の「出会いの会」に参加してもらっても入学時の年度にふたたびその年度の「出会いの会」と「ガイダンス」を受けなければならないので(わが家にとって)二度手間になる、というものでした。これは一度目の電話の内容そのままの繰り返しに過ぎず、どちらも私が前回に返答・説明をし、そちらも納得して頂いたものです。また障害のことと説明会の二度手間云々は別の事柄であり、それらの混乱した貴校の説明から明らかに透けて見えるのは「ストレートには言いにくいがハンディを背負った子供の入学は遠慮して欲しい」という姿勢です。「毎朝、生徒全員で縄跳びをするし、皆とおなじように行動できないと授業の進行に差し障るので」といった内容の発言もあったと聞いています。

 現在の幼稚園を決める際、私たち夫婦は教育委員会を始め、通園可能な地域の公立・私立の幼稚園を実際にいくつか訪ねてお話を伺いました。「導尿は医療行為になるのでできない」と言われたところもありましたし、「対応する資格のある人間がいないので」とやんわりと断られたところもありました。「そういうお子さんは養護施設に行かれたらどうでしょうか」と実に素っ気ない対応のところもありました。その中であるカトリック系の幼稚園が「職員全員が導尿の仕方を覚えて対応しますので教えて下さい」と言ってくれました。他の幼稚園に比べて、その幼稚園が人員に余裕があるとか経験があるとか財政的に富んでいるとは思えません。では何が違うのかといえば、要するにそれは「人の気持ち」だと私は思うのです。ただ、それだけです。

 貴校がまだ学校法人の認可を受けていない特殊な状況であることは理解していますし、全日制の形になって日も浅いことも承知しています。教員の数も充分ではないでしょうし、解決しなければならない問題も多々あることでしょう。今回のことについても、多分に話し合い、お互いにさまざまなことを確認する作業は必要であったと思います。しかし実際に私の子供を見ることもなく、詳しい話し合いも持たずに、「障害」という漠然とした先入観だけではなからそれを忌避しようという貴校の姿勢には、私は深い失望を感じました。

 シュタイナーは子供たちに数字や図形を教える際、常にひとつの大いなる全体から部分が分かれていくという教え方をしますね。障害を持った子供はシュタイナーの教育を受けることはできないのでしょうか。シュタイナーの教育とはその程度のものなのでしょうか。今回のことで関東に住む私の妹はこんなメールを寄越しました。「障害があるからじゃなくて、普通という規格以外を受け入れる勇気がないのでしょう」 差異を排除することによってしか成り立たない思想というものは貧弱な物だと私には思えてなりません。

 今回、貴校の「出会いの会」に参加するに当って、私は子供にホームページの貴校の校舎や授業風景などを見せました。子供は「いいところだねえ」と訪問を愉しみにしていました。それが前日に、行かないことになった旨を伝えると、子供は「どうして?」と訊きました。子の問いに対する明確な答えを、私はついに見出せません。

 残念なことですが、今回の貴校の対応に接し、私の中の子供を貴校に入学させたいという気持ちはなくなりました。しかし、もしまた近い将来、わが子と同じような障害を持ったお子さんが貴校への入学を希望してくることがありましたら、そのときは貴校の対応の再考を切に希望するものです。

 

2005年10月10日 まれびと 拝

2005.10.9

 

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11日夕、前掲のFAXの件で京田辺シュタイナー学校から私の携帯に電話があった。勤務中であったにもかかわらず約1時間半、話込んだ。生徒の心理的なケアを担当しているという、二度目の電話でYと話したOさん(女性)からは、誠実で真摯な印象を受けた。一度目の電話が事務方の人間であったため、説明が重なったことと引き継ぎに不備があったことを言い謝罪された。また私の送ったFAXについても「書かれているような障害を排除するような意図はこちらにはなかったが、結果として私の物言いが奥様にそのように伝わってしまったのかも知れない。申し訳なかった」とのこと。そしてできればまた機会を設けて学校で詳しい話し合いをしたいと思っていること。「当日も来ていただけるものと思って受付で待ったいた」こと。等々。一時間半の会話をここにすべて記すことは不可能だが、結果として、私たちは和解した。Oさんの話では学校側がいちばん配慮するのは、その子供にとってほんとうにシュタイナー教育が必要であるかという点。そして親がそのことにどれだけ理解を持っているかという点。それらを学校側は、ときにプライベートな家庭の事情も聴取して判断をするという。たとえば、どうしてもシュタイナー学校に行かせたいために学校の近くに家を構え、父親が単身赴任する。それがほんとうに子供にとって良いことなのか、学校側は問いかけ、場合によっては入学を拒否することもある。シュタイナー教育という、いわばふつうの学校とはかなり趣が異なる授業内容ゆえに様々な注意が払われる。そうした中でOさんは子供たちに精神的な負担が現れないかないかを注視する。「いまでも、この子を受け入れたことがほんとうに良かったんだろうかと悩むことがあります。悩みながらやっています」とOさんは言う。シュタイナー学校ではときに激しい運動もする。私の子がそれに遅れたり、できずに取り残されたりすることが子の精神的な負担にならないか。それが苦痛であるなら、むしろ他の学校へ行った方が子供の成長にとっては好ましい。「しかしそれは結局“この子供はここよりも養護施設の方が向いている”と言う人たちと根っこは同じではないですか? 学校が親をそして子を、言葉は悪いが入学前に選別する、“この子供はほんとうにうちの学校に合っているか否か” そんなことが果たして分かるのでしょうか?」 Oさんは幾度かのやりとりの末に「ある意味ではそうなのかも知れません」と呟く。結局、こういうことではないかと思う。Oさんの方としてはじぶんたちの学校というものをセツメイすることに懸命だった。学校の成り立ちと現状、特殊な授業内容、入学の是非を学校側で判断させてもらうこと、その他もろもろ。しかしわたしの妻は、たとえば子が自らの導尿の時間を忘れないように先生が配慮をしてくれるか、そんな具体的な問いかけに前向きな返答を欲していた。二度ほど聞いたが、二度ともはっきりした答えはもらえなかった。それでYは「ああ、これはしてもらえないんだな」と思ったという。また子は跳躍が困難で縄跳びも難しい旨を言うと、「うちでは生徒全員が毎朝、縄跳びをやっています」と、その一言だけが返ってきた。そして会話の中で繰り返し強調される「一斉教育」という言葉。Yが否定的に受けとったのも無理はないと思う。実際、そのようなものはあったのだろう。根っこをたどっていけば微妙な部分だ。分かる面もあるし、容易にうなずけない部分もある。だから前掲のFAXと合わせて、そのまま放り出しておく。

2005.10.12

 

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 何が忙しいのか、この頃はPCに向かう間もない。ナニ、子どもと遊んでいるだけだ。数日前、子が囲碁をやりたいというので、オセロをはじめ囲碁、将棋、チェス等11種の盤上遊戯のできるブツを近所のトイザらスで買ってきた。手始め教えたオセロに子ははまって、毎日そればかりだ。いっちょやるか、と風呂上がりに一局。オネガイシマスと子は三つ指ついてお辞儀をする。父親は手を抜いているでもないが時々負ける。この間は将棋の駒の並べ方を教えてやった。「しのちゃんたちがプリキュアごっこをやっているときにね、ホワイトとブラックがルミナスを守る、それといっしょだよ」風呂の中で母親に、王将に寄り添う金銀の役割をしきりとセツメイしていた。 「日本の歴史〈第04巻〉平城京と木簡の世紀」(渡辺 晃宏・講談社)を買った。著者は先日平城宮を案内してくれたMくんのバイトしている奈良文化財研究所の室長である。深夜の数頁。落ち着かない心根を歴史の足跡に逃す。いつも帰りのヘルメットの中、大声で歌いながらバイクを走らせる。今夜と昨夜はどちらもディランのカバーしている「スペイン語は愛の言葉」と「夜が果てるまでおまえはぶらつきたいんだ」。おとついはクラッシュの「虚しい列車」だったか。流れ星は弾丸のように駆け抜けていく。ひともまた同じく。「いかりのにがさまた青さ 四月の気層のひかりの底を 唾し はぎしりゆきすぎる おれはひとりの修羅なのだ」 まあそれほど大仰なものでもないが。明日は子の運動会。明後日は大阪ドームでの琉球フェスティバル。子は今宵、義父母の間にななめに横たわっている。

2005.10.14

 

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 土曜は子の運動会。和歌山からYの両親、関東からわたしの母と妹夫婦が集結。わたしは他の馬鹿親同様、ビデオカメラを手にあちこち駆け巡る。Yは最初の入場行進からもう涙が出て来たらしい。母親というものはそういうもんなのかな。「ここまで丈夫に育ってくれて、いろんなこともできるようになって」という気持ち。病気があるから猶更だろう。子は駆けっこもビリだったけれども愉しそうに走り、巨大な布でバルーンをつくる競技でもしっかり布の端を握っていた。「一生懸命やってて、みんなの足手まといにもなってなかったね」と後でビデオを見ながらYと会話した。やっぱり、そういうことがいちばん気になる。

 

 明けて日曜は大阪ドームにて琉球フェスティバル。設備屋のK氏、東京から馳せ参じた旧友A、わたし。アリーナの桟敷席にチキアゲ、ミミガー、タコライス、サータアンダギーらにオリオンビール、久米仙(泡盛)を並べて愉しんだたっぷりの6時間。のっけから確信犯の如く登場した余裕のりんけんバンド。鳩間ファミリーの朴とした風情。愛くるしい三代目ネーネーズ。なりたての巫女のような内里美香もよかったね。やっぱり沖縄の大地は女性たちが継ぐものだという気がしてくる。待望の朝崎郁恵は戦時中に沈没した民間船の惨事を悼んで作られた歌詞をしみじみと朗誦した。今回、ときに考えさせられたのは、沖縄という音楽の豊潤な土壌と共に、沖縄という「場所」についてだ。かれら自身の言葉で歌っているときは輝いていた中孝介、下地勇、内里美香といった若いミュージシャンたちが、内地の市場向けにレコーディングした標準語の曲を歌い始めた途端に凡庸になってしまうのはどうしたわけだろう。そこにかれらのジレンマを感じる。三味線とヘビメタをくっつけたようなパーシャルクラブは個人的にはぴんとこなかったな。むしろ憂歌団とビギンの両ギタリストを従え、宮古島の言葉でサンフランシスコ・ベイ・ブルースをディラン風マシンガン速射で歌った下地勇や、奇怪な神話の古層から這い上がってきた蛸入道のような日出克は結構面白かった。知名定男やトリの大御所・登川誠仁が舞台に上がると、何も余計な楽器や趣向など要らない、三味線と素のままの魂があればいい、と思われてくる。知名定男は時は移っても忘れるなかれというように師匠の持ち歌で琉球時代の圧制に苦しんだ民衆の曲を歌い、登川誠仁は歌詞を忘れちゃったからあちこちの歌から持ってきて歌いますとまるで晩年のジョン・リーのようだ。そして凄絶な艶やかさの大城美佐子の声の美しさはどうだろう。これらの深みに、若いミュージシャンたちはいまだ敵わない。だからこそ沖縄なのだ。他にもエイサーの踊りや、会場のそこかしこで優雅に踊る人たちの姿(関西の沖縄出身者も多かったろう)も愉しかった。いや、じつにいい夜でした。たっぷりの6時間、さまざまな沖縄の音楽を浴び続けて、確かに肉の内なる骨の表面がうっすらと何物かに染まった。来年もまた来ようかな。ドームの後、阿倍野へ出て三人で終電までカラオケ。久米仙の酔いもあって何やら弾けてしまったよ。

 

 翌日は朝6時に起きて車で大阪枚方市のH病院へ、子の泌尿科の検査。膀胱圧の測定、膀胱のX線撮影、それに腎臓のエコー検査。じっとしていなくてはならない窮屈な検査を子はよく我慢した。詳しい結果は来週、国立大阪で脳外科のMR検査の結果とおなじ日に聞く予定だが、M先生が漏らした感触では良好なようだ。次は手術の良い影響があるのか否か、現在服用しているポラキスという膀胱圧を抑制している薬を一旦中止して様子を見るかどうか、先生と相談して決める模様。隣接する「ラーメン横綱」で昼を済ませてからぶらぶらと帰ってきた。

 

 

朝崎郁恵オフィシャルホームページ http://www.asazakiikue.com/

りんけんバンドオフィシャルサイト http://www.rinken.gr.jp/

ディグ音楽プロモーション http://www1a.biglobe.ne.jp/dig/index.html

下地勇オフィシャルサイト http://www.isamuword.com/

日出克オフィシャルサイト http://www.studio-hibiki.com/hidekatsu/index.html

中孝介オフィシャルサイト http://atarik.exblog.jp/

キャンパス・レコード http://www.campus-r.com/

2005.10.18

 

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 水曜。午前。バイク屋へ自賠責保険の更新に行く。ついでにオイル交換とチェーンの調整もしてもらう。待ち時間に隣のブック・オフへ。800円の挿し絵入りの函本「オズの魔法使い」を子どもにどうかとしばらく手にとるが、500円くらいなら買うんだがと結局棚に戻す。家に戻り、役所に行っていたYが作ってくれたチャーハンを二人で食べる。Yが訊いてきた子どもの小学校入学の校区選択に関する教育委員会との相談内容を聞く。役所の言い分は本末転倒也とわたし。食後、夜勤に備えて昼寝。夕刻、自転車屋を営む親類宅より中古の電動自転車を要らぬかとの電話。前に同じように貰ったママチャリの電動自転車がバッテリーがいかれて重い車体だけで走っていたので、Yが寝ていたわたしを起こし子と共に報告すると、真っ先に子が「お〜っ!」と手を叩くので早速家族揃って見に行くことに。十津川出身の主としばし店の前で立ち話をし、電動自転車を車に積んでもらって帰って来る。夜は職場のPCで伊勢の宿探し。来月、Yの実家の義父母とYの古里である伊勢に墓参りをかねて一泊旅行に行くことになったため。明けて本日木曜。出勤してきた設備屋K氏に次回のレコーディング用に和訳500マイルのわたしの拙い弾き語りデモ・テイクをMP3ファイルで渡す。今年の正月、一人家にいて憂鬱な気分のときにラジカセに録音したもの。ギターの音やアレンジ等を相談する。午後、駐車場に生後間もない捨て猫有り。警備室で一時預かり「求む、飼い主」の告知を従業員向けに貼り出す。わたしはネットで探した「子猫の飼い方」をプリントアウトし、同僚のT氏は店内に猫用哺乳瓶とミルクを探しに行き、事務所のA氏は新聞紙をちぎってダンボールの中にベッドをつくる。幾人かの女の子たちが警備室へ覗きに来るが貰い手は決まらず。深夜帰宅して、風呂の中で「戦中派不戦日記」を読み続ける。昭和20年7月、若き風太郎は疎開先の信州・飯田で厨川白村「象牙の塔を出て」を読む。「「政府を官僚的などときいた風なことをいうが、日本は民衆そのものがすでに官僚的なのではないか」まさに然り。実に現在の日本をかかる暗澹たるものにせる最大の原因の一つなり」

2005.10.20

 

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 休日。午前。子と二人で矢田の大和民俗公園へ行く。敷地内にある県立民俗博物館で企画展「食をめぐる民俗 アイ(間)とトッキョリ(時折)」を見る。アイ(間=普段)は大和で言うケ、トッキョリ(時折)はハレのこと。ここの展示はじつにマイナーだが中身は濃い。かつてのカマドのある風景、それにまつわる様々な民具、信仰、工夫と装い。大和ならではの茶粥やなれ寿司に関する展示も面白かったが、特にわたしが興をそそられたのはやはり(というべきか)山仕事や田仕事に持っていく葉に包んだ携行食であったり、メンパと呼ばれる素朴な弁当箱であったり、それらを収納するたすきがけの袋=ウチガイであったりする。そうしたひとつひとつのささやかな道具類から共通に感じられるのは、それらが単なるモノ=道具以上の、たとえば収穫や信仰や生死といった精神的なものと強く静かに結びついているある種の「香り」を放っていることだ。考えてみればわたしたちは、そんな多くのモノたちを失って久しい。企画展の他、いつものように子はビデオ室で一刀彫や木材の伐採・搬出風景、民話のアニメなどを見、はたおりの音に耳を澄ませたりした。博物館を出てからしばらくドングリ拾いやボール遊びなどをして昼過ぎに帰ってきた。拾ってきたドングリで、わたしはドングリ豆腐を作って食べようと言うのだが、子はブレスレッドがいいと言う。「食をめぐる民俗 アイ(間)とトッキョリ(時折)」は11月27日まで。

2005.10.23

 

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 暗い奈落の底へ突き落としてくれるような音楽がいい。この奇怪な臓腑を暴いてくれるような音楽がいい。レイ・デイヴィスの歌うやさしい Celluloid Heroes を聞くと思わず涙がこぼれそうになる。チャボの歌う「いつか笑える日」にじっと耳を傾けていると、踏み堪えられそうな気がしてくる。じぶんが誰のためにもよい存在でないとしたらどうだろう。目の前で誰かが苦しんでいても黙って背を向けるような卑怯な人間であったら? ウィリー・ネルソンの In The Garden に心を澄ませても何も響かないときがある。心が錆びついている。今朝は国道に無惨に轢かれた狸の死体が横たわっていた。あんなふうに臓腑を晒け出した方がいっそ救われるときもある。

 とうとう戦争が終わった。日本は負けた。いや、「戦中派不戦日記」のことだが。

2005.10.24

 

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 午後、大阪の病院で検査結果。昼に車で幼稚園へ迎えに行く。子は園庭の端にぽつねんと座って待っていた。「みんなとお昼が食べられずに残念だな」とふると「いいねん。しのちゃん、給食嫌いやから」 「なんでや」とこちらも関西弁に切り替え問えば「嫌いな野菜が出てくるから」 家で慌しくオムライスの昼食を食べ、阪奈道で大阪へ。脳外科のMRの結果は異常なし。脊髄空洞症の兆候もなく、手術で切り取った脂肪腫付近もすっきりして増えている気配はない。Y先生としばしインターネット上で治療過程や病院についての記述を公開する際の配慮等について話し合う。続いて泌尿器科の検査は尿もきれいで、前回乱れていた膀胱圧のグラフも安定している。M先生によればこれは前回の検査後より服用している膀胱圧の抑制剤と手術の効果の両方だろうと言い、抑制剤ついてはこのまま3月頃まで服用を続け、一度服用を中止して様子を見てみようかとのこと。Yは副作用が心配なので、できたら薬を飲まずに済むようになれたらいいのにね、と言う。生協に寄って買い物をしてから夕刻に帰宅。Yが夕食の支度をしている間に子が言う。「お父さん、オセロ、いっちょやろうか?」 何かの事件にまきこまれたらしいという兄弟の葬儀に行っていたKさんとJちゃんたちが韓国から帰ってきた。海苔やチョコレート、カルシュームキャンデーの如き土産をもらう。夜、Yの実家から電話。Yの従兄弟のお嫁さんの弟が肺癌で死去。会社の健康診断で見つかってから4ヶ月だったとか。享年48歳。じぶんであったら子が13歳か、と独語する。

2005.10.25

 

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 湯舟のなかわたしの腕のはざまで戯れてわらう裸の子はたったいま天国からこぼれ落ちてきたかのように何と無邪気で可愛らしいのだろう。夜の臥処でわたしの背に指をさまよわせ顫えている彼女はどれほど無心で蜜のようにかぐわしく夜空のワタリガラスのように神秘的なことだろう。それに比べて深夜に白々と目覚めひとり座しているこのわたしは何とむなしく、汚らしく、小賢しいのだろう。かれらのまっすぐな存在の明瞭さに比べたら、わたしの言葉などまるで暗渠に澱み腐った水のようだ。不明瞭で、いつも理由もなく苛立ち、冥(くら)くおぞましい。ふらふらとさまよい出でて、行くあてもない。

2005.10.26

 

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 朝、Yに誘われて家族三人で子の幼稚園に隣接する教会の日曜礼拝へ参加する。賛美歌と説教。オーストラリア出身という恰幅の良い神父さんの声はテノール歌手のように朗々と響く。聖体拝受の儀式を子はまじまじと見ている。耳元で「あのパンがイエスさまの身体で、ワインが血の代わり。あれを食べてイエスさまが体の中へ入っていくんだよ」と教えてやる。その後、神父さんが部外者のわれわれも祝福してくれると仰るのをわたしだけ丁重に断り、子とYの二人が祝福を受ける。帰ってから子に教会の感想を訊くと「きれいな声ばかりだったねえ」と返事が返ってきた。

 夜、テレビで美空ひばりの2時間の特番を見てから出勤。

 多谷千香子「「民族浄化」を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷から」(岩波新書)を購入。

2005.10.30

 

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 先日の教会で、礼拝を終えてから、祝福をひとり断ったわたしのもとへ神父氏がいつの間に近寄り、にこやかにわたしを軽く抱擁して、すっと出ていった。わたしは後で、「ああ、あの人はいつもこんなふうに、じぶんを拒否する者でさえ受け入れているのだろうな」と思い、軽い感動を覚えた。わたしは、どうも駄目なのだ。善い人たちばかりの集まりの中にいると、どうにもすこしばかり居心地が悪くて仕方がないようなのだ。

2005.10.31

 

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 「朝のブルース」しの with まれびと (1MB MP3)

2005.11.1

 

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 しかし、非論理はついに非論理であり、不合理は最後まで不合理であった。

 さて、この新聞論調は、やがてみな日本人の戦争観、世界観を一変してしまうであろう。今まで神がかり的信念を抱いていたものほど、心情的に素質があるわけだから、この新しい波にまた溺れて夢中になるであろう。----敵を悪魔と思い、血みどろにこれを殺すことに狂奔していた同じ人間が、一年もたたぬうちに、自分を世界の罪人と思い、平和とか文化とかを盲信しはじめるであろう!

 人間の思想などいうものは、何という根拠薄弱な、馬鹿々々しいものであろう。もっとも新聞人だって、こういうことは承知の上で、いまの運命を生きのびてゆくためにこういうことをぬけぬけと書き出したのであろう。そして国民はそれに溺れる。

(昭和20.9.1)

 

 

「彼らは新しい責任を予感する。あたかも自分達が最後の人間であり、自分の生命を、損われた預り物のように、出来るだけ修復した姿で創造主の手に返そうとしているかのようであった。彼らは大言壮語を口にすまいとかたく誓った。愛、自由、英雄精神、これらの言葉を、彼らはもはや口にすることを悦ばなかった。それらはすべて蛹となって冬の深淵に眠っているものと考え、執拗な呼声を以て原始の諸力の神聖な祭壇を撹乱することを憚れるのであった。彼らはたとえどんなにささやかなものであろうとも、心の声の示すところを実現しようと欲した。これを以て、彼らは墓の懸燈を潤おす油とした。かくて、ただ日常的なもののうちにのみ、時として彼らに、より高き世界が現われるのであった」

(ハンス・カロッサ)

 

山田風太郎「戦中派不戦日記」より

2005.11.3

 

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 本日より三連休。今日は朝からバイクで竹ノ内街道を越え、設備屋K氏宅へ。夕刻まで部屋にこもり PP&M の 500miles 意訳盤を録音。K氏のプログラミングしたドラムス、“Dylan の Born in time 風”ベース、サイド・ギターに私のボーカルをかぶせる。ギターの音を選んだり、あれこれ案外時間を食う。ボーカルはどうせ下手糞なので2テイク目でさっさと決まりにしたが、リズム・ギターのオマケにつけたエンディングの私のギター・ソロがどうにもまともに弾けず疲労困憊する。ああ、偉大な先人たちもこんな苦労を重ねて来たんだろうな。まるで死刑執行前の独房のようなものだ。あまりに酷いんで没にしてくれと言ったが、後はプロヂューサーK氏の判断次第。残るはK氏のリードを入れたら完成です。さあ、オリコン・チャートを駆けめぐるぜ。

 宮古島のハイビスカスの苗をもらって、夜7時頃に帰ってきた。

2005.11.7

 

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 8日、火曜は予定通り平城宮見学会の第二回。今回は最近、泉鏡花文学賞を受賞した作家の寮美千子さんと、現在奈良で漆塗りの修行をされているご主人、それと神戸から寮さんの友人であるSさんとスイス人のご主人の計4名が加わり、大変賑やかな顔ぶれとなった。こちらは前回と同じくわたしと同僚のTさん、急に木簡の撮影作業が入ったというMくんは1時間遅れて合流した。大陸的によく晴れた冬空の下、みなで広い平城宮内を、忘れ去られた都を望郷する亡国人のように西から東へぞろぞろと練り歩き、夕刻になってから奈良町に近い寮さんのご主人のお宅に座を移して酒宴となった。これは寮さんのお誘いでおいしいワインの他、たくさんの手料理を用意してくれていた。はじめてお会いした寮さんは、小柄な身体のどこにそれだけのパワーがあるのかと思えるくらい快活で饒舌で気さくでチャーミングな人。わたしよりまだ若いハンサムなご主人からは、とくに漆塗りの興味深い話をたくさん伺った。部屋の電気を消して、蝋燭の明かりで浮かびあがった漆塗りの器はじつに味わい深かった。かつて数本の自主映画にも主演し、スターレットのCMにも出たことがあるというSさんはとぼけたユーモアのある美人。日本語が堪能のまだ20代のご主人は60年代のディランが好きとのことでもう少し話したかったな。話といえば寮さんとも、もっとアイヌやネイティブの先住民や、インドのこと、宮沢賢治のことなど、話したいことはたくさんあった。翌日早朝から勤務のTさんは早めに辞し、神戸からのSさんご夫婦も奈良駅へと急ぎ、寮さんのご主人は途中から眠ってしまい、わたしとMくん、寮さんの三人だけが喋り続けている。一人暮らしのMくんはテーブルに残った鯛のアラ炊きを温め直してもらい、食い足りないのか白ご飯までご所望だ。気がつけばわたしとMくんは見事に終電を逃してしまい、結局、寮さん宅で泊まらせてもらうことになり、Mくんと二人して朝帰りとなったのであった。

 寮さんから著書を一冊頂いた。「イオマンテ めぐるいのちの贈り物」(パロル舎)。サインをしてもらうのを忘れたな。イオマンテとはカミの国からの客人であり賜り物である熊の魂を、ふたたびカミのもとへ送り返すアイヌの儀式である。おのれが喰らうモノをおのれの手で屠り、肉を魂のように抱き、痛みを祝祭に乗せ、天に祈る。殺される熊が幸福なはずはないのだが、小熊の頃から育ててきた少年の述懐と、花矢に送られ母なる国へ帰っていく熊自身の言葉が交互に語られる構成は巧みで、イオマンテという儀式の核心をこれだけ見事に物語った作品をわたしは他に知らない。生きるためには他者の命を奪わなければならない。いや、痛みと共に魂をつなぐのだ。そのひりひりと続く痛みによって、生命の円環をたどるのだ。家に帰った日の晩、布団の中でさっそく子に読み聞かせた。短くはない物語の一頁一頁を、子は最後まで食い入るように見つめた。読み終えて、布団の中に顔を埋めていたのを何か思いだしたようにふいと出して「コグマがころされたときにね、ナミダがでるくらいかなしかった」と悲しげな顔でひとことだけ言って、また布団にもぐりこみ眠った。

2005.11.10

 

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 昼。役所回りのYに代わって昼食をつくる。豚肉と野菜の炒め物。塩と先日大正駅近くの沖縄物産展で買ったフィファというヒハツの香辛料を故障代わりに使い、片栗粉でとろみをつけた。帰ってきたYは、本格的な中華みたい、と喜んで食べた。ヒハツはコーヒーに入れても独特で、ジンジャーを入れるインドのチャーイや、様々な香辛料を入れたイスラエルのコーヒーにも似ている。

 東京の友人Aが送ってくれた The Byrds の Younger Than Yesterday と、設備屋K氏に借りた奄美の放浪歌手・里国隆の A Street Singer From Amami を聴いている。

2005.11.11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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