■日々是ゴム消し Log42 もどる

 

 

 

 

 

 

 

 年賀状を制作・印刷する。例年通り、わが家とつれあいの実家の分。前職でチラシの制作を手がけていた同僚のYくんの手ほどきのお陰で、イラストレーターもだいぶ勝手が分かってきた。

 チビとつれあいについていった図書館で森達也「「A」撮影日誌 オウム施設で過ごした13ヶ月」(現代書館・2000)を借りて来た。「戦争の世紀を超えて」でのかれの「体温」に親しみを感じて探してみた著作のうちだが、あっという間に読み終えてしまった。面白い。この本については後日、改めて書く。

 職場の“ビルメンテ屋”Kさんよりコステロの新譜 The Delivery Man、小島麻由美「パブロの恋人」、そしてKさんが奄美大島で買ってきたマリカミズキ Song Fruits を拝借する。マリカミズキは奄美大島で大ヒットしているという若い女性ふたりの島唄ユニット。ことばが、たゆとう。正義や真理などといったお題目に着陸することなく、ただ、ことばがたゆとう。

掲示板にてすずき産地さんが紹介してくれたじぷしい農園さんのサイトをしばらく覗く。情報化社会で何を食う?はおすすめ。

 今日は午後から職場の身内数人でささやかな忘年会。ちゃんこ鍋。

2004.12.10

 

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 柿をとりにおいでと呼ばれて、ひさしぶりに訪ねた親類宅からの帰り道。チビの求めで大和川の広い河川敷の土手に車をとめた。うち捨てられたテーマパークのような草ぼうぼうの場所にはりぼてのパンダとライオンとトラがさもさびしげに三頭。それでもチビはしばらくその三頭のまわりを草を摘みながらふしぎな話を物語っていたが、ふとパンダの首元に、誰かが蹴飛ばしたのか大きな穴が開いているのを見つけ、お父さん可哀想だから直してあげてと云う。しばらく思案して葦のような硬く立ち枯れた茎を内側から格子に編み、そこへあたりに咲いていた野花をたっぷり差してやると、わあきれいとにっこり微笑んだ。

2004.12.13

 

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 森達也がオウムの教団施設に広報担当の荒木浩を訪ねたのは、すでに教祖・麻原が逮捕され、上九一色施設の解体が始まり、青山総本部の立ち退きが間近に迫った頃であった。「一切の先入観を排す」というその姿勢の故にTV局から契約解除の憂き目に会い、自腹のレンタル・カメラを片手に信者たちを撮り始めたかれは、あるときふと教団施設の窓から見える景色にカメラを向けていて女性信者から訊かれる。

 

「何を撮っているんですか?」

「外の社会を撮っています」

「……変わった方ですね」

「そうでしょうか?」

森達也「「A」撮影日誌 オウム施設で過ごした13ヶ月」(現代書館・2000)

 

 「A」のDVDを注文した。

2004.12.14

 

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 深夜の2時に帰宅。チビは数日前から気管支炎と中耳炎を併発。つれあいは風邪気味。私は体調は悪くないのだが嫌な咳が続いている。風呂の中で「戦争の世紀を超えて」を読み終える。車の中でチビはサンタさんに「ワンちゃん」をお願いしたのだと言う。つれあいの話では「犬と庭とラッパ」のどれかだと言う。つれあいはチビにこう言ったそうだ。サンタさんはね、シノちゃんが欲しいものじゃなくて、シノちゃんにそのときいちばん必要なものをくれるんだよ。チビは素直に肯いて、サンタさん、何をくれるのかなぁ、と呟いた。缶ビールを呑みながら死んだリック・ダンコの歌を聴く。商標に惹かれて昨夜チビと買ってきた「島唄」という名の泡盛のお湯割りを呑みながらヴァン・モリスンの The Beauty Of The Days Gone By を聴く。明日は午後から職場のビルメンテ屋K氏宅へ歌入れのレコーディングに行ってくる。

2004.12.15

 

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 チビは幼稚園の終業式。午後から教会で母と“みことばの祭儀”。

 私は深夜に帰宅。酔っ払ってネットで注文したモリスンの Avalon Sunset (LPの買い直し)をビールを呑みながらひとり聴く。サウンドに身を浸していると、じぶんにとってほんとうに大切なものが分かってくるような気がする(とても深く、そして身近なところで)。それを大切にしたいと思えてくる。余計なものを脱ぎ去って、清水を呑み干したい。

2004.12.18

 

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 交通隊の若きM君から借りたU2の新譜 How To Dismantle An Atomic Bomb を聴いている。

 ビルメンテ屋K氏より借りたドクター・ジョンの自伝「フードゥー・ムーンの下で」を読んでいる。

 今日はつれあいは朝から大阪の赤十字病院へ、過日に行ったチビの泌尿器科の検査の結果を聞きに行っている。25勤明けの私は幼稚園の終わったチビと留守番。朝食のパンを焼き、歯磨きをさせ、オシッコを摂り、髪を結わえる。二人で“ビデオ券”をつくる。一ヶ月分、10枚。ビデオばかりに夢中になっていると憂慮するつれあいの話から私が考えた。「ビデオが見たいときは“ビデオ券”をお母さんに渡すんだ。いつも見てばかりいるとすぐになくなっちゃうから、“ビデオ券”は大事に使うんだよ」 「千と千尋の神隠し」のDVDをレンタル屋へ返しに行き、駅前の薬局にチビの紙オムツやカテーテルを取りに行き、昼は二人でいごっそのラーメンでも食べてこようか。

 もう一回25時間勤務をこなしたら、クリスマスは私も連休を取り、東京の悪友が泊まりに来ることになった。イヴの日は昼間、友人と三輪山へのぼり、つれあいとチビは家でケーキづくり。夕方にチキンを買って帰り早めに夕食を済ませて、みんなで幼稚園の教会のクリスマス・ミサに行く予定。

2004.12.21

 

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 21日はチビの泌尿器科の検査結果を聞いた。膀胱内の圧力が、これまでは緩やかな上昇線をたどっていたものが酷く乱れてきた。要するに意志とは無関係に随時膀胱が痙攣して排尿漏れが続き、これは膀胱自体にも悪影響を与える。このような症状が出始めた場合、元に戻るという子どもの割合はごく少ない。対処としては、ポラキスなる排尿筋の収縮を抑える薬を日に2回、毎日服用する。この薬はまれに便秘や目眩等の副作用がある。原因のひとつとしては、脊髄繋留症候群が考えられる。つまり1歳の手術時に切除した、神経に固着した脂肪腫が完全に取り切れておらず、それが成長に伴い伸びようとする脊髄に対してひっかかり障害をもたらすもので、この再手術のことは予め言われていた。それでつれあいが子どもを連れて帰郷する日の28日、急遽脳外科のY先生に診てもらった。先生の意見では、膀胱は症状の中でも特に敏感な部分なので、足の方はかなり順調にいっているし、すぐに脊髄繋留が原因であるとは言えないが、一応年明けにMRを撮り、結果次第では春頃にあるいは手術になるかもしれない、と言う。

 

 翌22日夜は、敬愛する伯父が突然死んだ。いつものように酔っ払って風呂に入り溺死したのだ。伯父らしい死に方だと思った。母より一報が入ったのが23日の朝で、ちょうど東京の友人がひさしぶりにわが家へ向かっている最中だった。その晩は友人と深夜までビールとセロニアス・モンクの音楽で話し込み翌日、チビと二人で新幹線に乗り込んだ。子に、人の死というものを見せてやりたかったのだ。二人で行く。白兎のようなコートに身をくるんだチビとの旅は、さまざまな思いを抱えながら、何気ない風景までがまるでロードムービーの小編のようだった。伯父の生涯あるいは人となりをここで要約するのは難しい。父母は和歌山県北山村の出身で、自身は東京の日暮里で生まれた。東京がまだ「東京府」であった時代だ。戦争中は一時和歌山に疎開していた(尾鷲からバスを乗り継いでいくその山道を、後に私はバイクで辿った)。両親を早くに亡くしたため、進学を諦めて税務署へ勤めた。私の母にとって兄であり、父親替わりのような存在であった。若い頃からリュウマチを病み、せむし男のような風体だった。だがこのせむし男はウィットに富んだ古きよき知識人であった。岩波新書を週刊誌のように読み、クラシック音楽を愛し、写真を愛し、酒を愛し、ときにこだわりの餃子やパスタをつくった。仕事の縁で深沢七郎とも親交があり、後に作家の葬儀にも参列した。だが私にとって一番の思い出は、何と云ってもこの伯父と二人で行ったシベリヤでの10日間だ。果てしなく続く大地をシベリヤ鉄道の車窓から幾日も眺め、朽ちた日本人墓地を訪ね、永久凍土の原生林を望んだ。サナトリウムを改築したホテルの部屋で「ヘーゲルを読まなくてはいけない」と断固主張する伯父と深夜まで口論をした。また、伯父からまだ紀勢線が全線開通していなかった時代の熊野や周辺に散らばった親類たちの話を聞くのも好きだった。いつか自分の見てきたものを書き残したいとも言っていた。晩年には耳が遠くなり、ある日泊まりに来た私の実家で酒を呑んだ深夜ダイニングで、昔の話をしながら目にいっぱい泪をためて黙した。伯父も年老いたなと思った。ともあれ私にとっての伯父の存在とは、いま読んでいるドクター・ジョンの自伝に登場するフードゥーの魔術的な雰囲気を湛えたかれの祖母のようなものだった。つまり“リアルな人間”といったものだ。伯父が私に与えてくれたものは計り知れない。母と同じように私にとっても、伯父はもう一人の父親のような存在であったのかも知れない。伯父の家に着いたとき、明け方に浴槽から引きあげられた伯父の体はすでに警察の検死も終え、葬儀屋によってドライアイスを施され、寝間着姿で布団の上に横たわっていた。眠っているような穏やかな死に顔だった。チビと二人で触った額は硬く冷たかった。不思議なことだが伯父の顔を見た瞬間、私には、かれはもうここにはいない、と分かった。ネイティブ・アメリカンのいう伯父のスピリットはどこか別の場所へ去り、私の目の前にあるのはその抜け殻だった。だからさみしくはあったが、かなしくはなかった。涙は出なかった。死んではいない。過ぎ去っただけなのだと私は知っていた。死者を前にしてそのように感じたのは、はじめての経験だった。伯父のスピリットが強烈で分かりやすかったのと、きっと私自身のスピリットも成長したのだろう。伯父自身は徹底的な唯物論者で、そんなものは信じていなかったろうけれども。ひと月ほど前、引っ越しのときに借りていた金をぼちぼち生活も落ち着いてきたので年明けから少しづつ返済したいと伯父に伝えた。借金のことで何となく疎遠になっていたのを気にしていたつれあいが私の背中を押したのだ。同時に伯父の要望でチビのビデオも送った。伯父から手紙が来た。あまり無理するなよ、と書かれていた。それから手紙の中にはこんな記述もあった。死の10日前だ。

 

 しかしつくづく思うよ。せいぜい長生きして80〜90年。岩波新書の「ハップル望遠鏡の宇宙遺産」を読むと、ぼく等の人生なんて なんだ! という気になるから不思議である。天文学者は自分の運命、「自分が死んだらどうなるか?」なんて宇宙の彼方へゴミとして吹き寄せられるぐらいにしか考えていないね。

 

 

 そんなこんなで今年も暮れる。この間、インド洋で地震による巨大な津波が起きて10万人以上もの犠牲者が出た。昨夜には奈良の少女誘拐殺人容疑者の逮捕も報じられた。今朝は朝から雪が舞っている。私はモリスンの Avalon Sunset を聴きながら、炬燵の中で買ってきた「ハップル望遠鏡の宇宙遺産」(野本陽代・岩波新書)を手にとる。今夜は夜勤。同僚のY君の提案で年越しそばの出前を頼む予定。

2004.12.31

 

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 家の中に音が戻ってきた。チビの駆け回る音、笑い声、歌声。

 今日は25時間勤務明けでリハビリに同行。ビデオ撮影をすると、M先生が自著に載せる資料にしたいので画像をメディアでくれないかと仰る。最近はプライバシーの問題があるのでトレースをしてイラストにするのだそうだ。

 帰りに奈良ファミリーでパスタの昼食。本屋でエルネスト・チェ ゲバラ「モーターサイクル・ダイアリーズ」(角川文庫)を買った。

 これからまた夜勤。

2005.1.5

 

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 チビの手術が決まった。3月3日入院。9日に手術。

2005.1.14

 

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 彼女のちいさな身体の断面図。脊髄に寄り添った長さわずか7 .8センチほどの細長いかたまり。脂肪腫は増殖はしていないし、今後大きくなる心配も、もうない。このささやかなかたまりが背中にくっついているかどうかはMRの画像だけでは分からないが、既に膀胱に異常が出ているのなら他に要因は考えられない。ある程度の成長期を過ぎればこれ以上状況が変化することはないから、脂肪腫に限ってはおそらくこれが最後の大きな手術になるだろう。前回のように二度に渡るということはないが、安易な手術でもない。前回、脂肪腫と背中の間に粘着を防ぐためにゴアテックス素材の膜を張ったのだが、体質によってはそれが合わない場合もあるので、その場合は他の部分から筋膜を移植して膜を張ることになる。手術の日取りはちょうど今回のリハビリが終わる3月の頭。検査入院を経て、術後は前回とおなじくうつぶせ拘束状態で約二週間が要。その後、退院へ向けてリハビリ行うので、およそ一ヶ月弱といったところか。三月三日は雛祭りだね。

 

 昨日は幼稚園へお弁当のふりかけを届けた道すがら、近くの安い散髪屋に立ち寄った。どうしますかと訊かれて、すっきりと五分刈りに頭を丸めた。まるで囚人のような風貌になった。

 リチャード・マニュエルが I Shall Be Released を歌っている。

2005.1.15

 

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お久しぶりです 投稿者:東京のM  投稿日: 1月16日(日)18時56分30秒

 

覚えていらっしゃるでしょうか?
実はほぼ毎日のようにこちらを訪れているのですが、なかなかメールとなるとかしこまってしまい全然連絡できずにおりました。

うちのチビはしのちゃんより軽度ながら多少の変形を抱え、靴型装具で2才過ぎより歩き始め今では多少アンバランスながら走ることもできるようになってきました。
泌尿器の方は以前逆流があるということで導尿を開始したものの、その後別の病院にかかり休止。
ドライタイムもあり、トイレに連れて行くとうまく出せることもあり、オムツが外れるかも?という期待をしていたのですが、最近の検査で残尿が多いことがわかり、やっぱり無理なのかも、、などと思っています。
(自力排尿はできるものの、勢いがなく全部は出せない模様。尿意もいまいちです。)

しのちゃんはその後トイレはどうしていますか?
ゴム消しはすべて読んでおり、導尿等なさっていることは知っているのですが、幼稚園などで自分でトイレに行って出すこともあるのでしょうか? オムツはしているのでしょうか? それともきっちり導尿すればそれ以外はドライタイムでパンツでOKなのでしょうか?
うちの子も春から幼稚園に通うことになり、いろいろ心配しています。
また教えて頂けると嬉しいです。

しのちゃんの再手術のお話もひとごとではなく、うまく行くことを心より願っています。

 

 “東京のM”さんよりBBSに書き込み。うちのチビは自力でオシッコはできません。トイレに子ども用便座をつけたり、練習用にオマルを買ったりしたのだけど、(出ないので)どれも長続きしなかった。幼稚園の運動会では途中、トイレタイムで他の子が先生に引率されてトイレに行っているときもひとりテントの下で別の先生と待っていた。よく買い物先で私がトイレに行くと、チビは必ずついてきて人が放尿するのを小便器の横から興味津々で覗き込むのですが、この間は某ホームセンターのトイレで同じようにしながらふと「おとうさんはオシッコが出ていいなぁ」と言うので、私は小便をしながら何だか泣きたくなってしまった。この子も人並みに自分でオシッコがしたいのだろうなと。前述しましたが、膀胱に不規則な痙攣があるのでドライタイムというのはないですね。だから常時紙オムツです。それかパンツに女性用ナプキンのような(失礼)小さな吸収シートを挟むか。パンツ型の紙オムツをうちでパンツと言っているのは母親のささやかな気遣いです。導尿は約3時間おき。“東京のM”さんのところは排便はいかがでしょうか。うちのチビは硬い便なので定期的に浣腸をして出しています。だいたい幼稚園が休みの日曜などにすることが多いから、私も仕事が休みでチビをドライブに連れて出たりすると、車の中で何度かウンコをとるハメになる(^^) センナという便秘に効く薬茶も併用していて、これはもともとおなじ便秘気味のつれあいが愛飲していたものだけれど、泌尿器科の先生がセンナを知らなくて「これはいい」と褒めてくれたとか。つれあいからの又聞きですが、他の(同じ病気の子を持つ)お母さんたちの話では、病気の程度にもよるでしょうが、幼稚園探しがやはり難しいらしい。公立・私立を問わず導尿がネックになって断られる子が随分多いようで、それはつまり「医療行為になるからうちでは対処しかねる」という理由でやんわりとしかし断固として拒否されるようで、うちのように受け入れてくれるばかりか幼稚園中の先生がみんなで導尿を覚えてやってくれるというのは実に稀なことだと、先日大阪の病院で開かれた二分脊椎の勉強会で会ったチビの入院時の婦長さんが言っていたそうです。やはりそこには「キリスト教の精神」というものがあるのだろうと私は考えています。ですから私もつれあいもいまの幼稚園にはとても感謝しているし、話は多少ずれますがやはり人間には銭金や効率や物質だけでなく、そうした高いモラルや理想に支えられた精神が必要なのだと改めて思ったりします。

 

 

 エルネスト・チェ・ゲバラ「モーターサイクル・ダイアリーズ」(角川文庫)を読んでいると、かつて自分が経験してきた様々な旅の場面が思い起こされる。熊野を徒歩で縦断した旅や、東北や山陰や四国を経巡ったバイク旅や、インドやロシアといった異郷での旅の、こまやかな感触に充ちた場面場面が。(たとえば夜中に身を横たえた田舎のバス停の木のベンチや、ビニール袋や残飯が浮かんでいる道端のぬかるみといったものたち) おんぼろバイクで転がっていくゲバラの旅はそれ以上に、まるで南米大陸をまるごと腹の底から吸いこみまた吐き出しながら転がっていく感がある。体中に人間や自然やパンやワインや家畜や労働や貧困がつまり、また出ていくのだ。からっぽになった体はまた精一杯息を吸い込み、次の目的地へ転がり続ける。かれがボリビアの山中で惨めな行軍を続けていたのも、そんな旅の延長であったに違いない。南米大陸をまるごと腹の底から吸いこみまた吐き出しながら転がっていく。

 

 ところで毎年2月6日に新宮で火祭りが行われる。松明を掲げた男たちが神倉神社の急な石段を駆け下りる始源の祭だ。かねてから見たいと思い機を逸していたその祭を、今年はチビを連れて見に行こうかと思案している。十津川の山越えはチェーンのないわが家のキャロルでは無理だから、白浜経由で海沿いを行く。祭が終わってからどこか近場で宿をとるか、あるいは深夜のドライブで帰ってくるか。つれあいは寒いのが嫌だから二人で行ってきてと言っているのだけれど、チビの体の負担にならないか、途中で眠くなったり、飽きたり、怖がったりしないか。幼い心に何が残るか分からぬが、彼女に人間たちが闇の中で畏れ歓喜した始源の風景を見せてやりたい。何より私自身の魂がそんな風景に嬲られたがっているのだ。

 

 モリスンの I'm tired Joey Boy を聴く。

  

Sit down by the river
And watch the stream flow
Recall all the dreams
That you once used to know
The things you've forgotten
That took you away
To pastures not greener but meaner

Love of the simple is all that I need
I've no time for schism or lovers of greed
Go up to the mountain, go up to the glen
When silence will touch you
And heartbreak will mend.

 

川辺にすわって
川の流れを見つめる
かつては明瞭だった夢が
よみがえってくる
忘却がおまえを
痩せてみすぼらしい牧草地へと
連れ出したのだ

まっすぐな愛 それだけでいい
分裂や男女の貪欲に関わっているひまはない
山をのぼり 谷をのぼり
静寂に触れたら
このかなしみも癒えるだろう

 

2005.1.18

 

*

 

 遂に完成。「Dirty Old Town / まれびと and ビルメン屋」(MP3 4.2MB) **公開終了**

 興味のある方は上記リンクよりダウンロードして聴かれたし。次回はプロモーション・フィルムを公開予定。

 

■コード表

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intro

D

Met my love, by the gas yard wall

G D

Dreamed a dream, by the old canal

D

Kissed my girl, by the factory wall

A Bm

Dirty old town, dirty old town

 

****************************************

D

Heard a siren from the dock

G D

saw a train cut the night on fire

D

smelled the breeze on the smokey wind

A Bm

dirty old town, dirty old town

 

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間奏

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D

I'm going to make a big sharp ax

G

shining steel tempered in the fire

D

I'll cut you down like an old dead tree

A Bm

dirty old town, dirty old town

 

********************************************

D

Clouds are drifting on the street

G

Cats are prowling on their beats

D

Springs a girl on the streets at night

A Bm

dirty old town, dirty old town

 

********************************************

A Bm

Dirty old town, dirty old town

A Bm

Dirty old town, dirty old town

 

2005.1.20

 

*

 

 水曜。チビを連れて電車でリハビリへ。つれあいは家で押し入れの整理。M先生が前回撮影したビデオをDVDにして進呈してくれた。昼は天王寺駅ビル4Fの「熊五郎」なるラーメン屋でとんこつラーメン大盛り・天津飯・餃子。シュークリームを三つ、手みやげに。

 金曜。夕方から幼稚園帰りのチビとつれあいに車で送ってもらい天理へ。早く着き過ぎてしまったためひとりで天理の商店街をぶらぶらと。天理教会神殿前で落ち合い、わが交通隊長のTさんと共に、天理教の信者である同僚のYさんに教会の神殿内を解説付きで案内してもらった。原初の生命を授かった場所という、神殿中央の真四角の聖域----玉石を敷き詰めた吹き抜け構造を面白く思った。静寂に包まれた広間で幾多の老若男女が思い思いにひとりびとり祈りを捧げている光景をどこか好ましく、何故か懐かしく感じた。戻ってきた車の中でYさんが学生時代に使っていたという雅楽のりゅう笛と楽譜を見せてくれた。その後、3人してYさんお薦めのおでん屋で軽く一杯(すぎ乃 http://www.sugino.net/)。料理もこだわりの酒も旨い、居心地のいい店で愉しかった。9時頃にTさんの車で家まで送ってもらったら、今日は早めに帰ってくるからいっしょにお風呂に入って布団で本を読んであげると約束していたチビはすでに眠ってしまっていた。

2005.1.22

 

*

 

 今日はほとんど一日PCの前に座って、イラストレーターで事務所に依頼された新しく運用する従業員用のタイムカードの原版作りに没頭していた。それなりに愉しくはあるのだが、きっとそんなので一日の精神の貯金を使い果たしてしまうのだな。25時間勤務を了えて深夜に帰ってきたらすでにくたくただ。幾日か前の晩、夜更けにひとり自室のPCの前に座って「フランチェスコ」の文字を検索していた。「おれも連れていってくれ。天国に至る道を教えてくれ」 コンピュータに神を探してもらおうったって無駄なことさ。映画が始まるとき、チビのちいさな身体はきまって炬燵の中、私の腕の中に滑り込んでくる。Big Fish のラストは思わず泣けてしまいそうになった。父と息子のストーリーは、父と娘のそれと同じくらいに弱い。ましてやそれが父親の今際であったなら。私も父の今際に、あんな言葉をかけてやりたかった。あんなしずかな最期を父と二人で持ちたかった。めちゃくちゃに破壊された車の中の孤独な死ではなく。人はいつか必ず死ぬ。私もいつか、この子を置いて過ぎ去っていく。まことにブッダの言ったように、もろもろの事象は過ぎ去るのだ。なにひとつとしてとどまるものはない。過ぎ去っていくその先は、だが朧ろながら、ゆっくりと確実に、見えてきているような気がする。炬燵の中で、いまという瞬間を、彼女のやわらかな身体を、そっと抱き寄せる。

2005.1.24

 

*

 

 火曜日は福島から妹夫婦が京都観光がてらに半日だけわが家に寄っていった。チビの喜びようは言うまでもない。ハイテンションの連続。夜はお気に入りの奈良市のうどん屋へ連れて行った。水曜は朝7時半に出勤、深夜2時頃に帰宅。今日も朝7時半に出勤、深夜2時頃に帰宅。明日は休日だが、チビが幼稚園から帰って来る3時頃から所用で同僚のY君宅を訪ね、そのまま橿原で警備・設備・事務所・インフォメーション合同の内輪の飲み会なのでチビとはすれ違い。翌土曜日は早朝6時に出勤、深夜1時半に帰宅。数日チビは寝顔でしか会えない。日曜は夜9時に出勤し25時間勤務、翌月曜の深夜0時に帰宅。

 今日は帰ってきたらつれあいがまだ起きていて、百貨店のバーゲンで格安の喪服一万円と大阪の病院でチビのカテーテルをもらってくるときのバッグを六千円で買ってきたと見せてくれた。お陰で迎えの幼稚園のバスを待たせて「すいません、バーゲンに行ってたもので.... 」と舌を出したとか。ちょっといい買い物をしたときのつれあいはとても嬉しそうだし、私もそんな彼女を見るのが好きだ。そんな彼女の顔を見ていると25時間の労働も報われるような気がしてくる。

 

 軽くお茶漬けを済ませててからつれあいを先に寝かせ、風呂の中で中断していた「聖なるものと〈永遠回帰〉」(湯浅博雄・筑摩学芸文庫)をぱらぱらとめくる。

 

 だが、死ぬことは、比類なく独特な、特異な出来事の経験であって、死につつ、死に到達することは不可能なまま、宙吊りとなる経験でもある。切迫する死に向かい合ったまま、〈経験し終わり、完了する〉ということがありえず、限りなくその経験のうちにとどまる以外ない。

 哀悼と喪の過程を完了しないこと、終わることなく喪に服すこと、死者との関係を反復し続けること。

 

2005.1.27

 

*

 

 昨日は汚物まみれになっていたY君を飲み屋のトイレから救い出し、Y君にもらった46GBの外付けハードディスクを抱えてタクシーで二人帰ってきた。Y君宅から唐古・鍵遺跡のある町の古い迷路のような商店街を抜けて終電でわが家に辿りついた。

 

 レイ・デイヴィスが Celluloid Heroes を歌っている、そんな深夜。ぼくらはみんな色とりどりのアドバルーンになれるだろうか。誰もがこんなやさしい夜を抱きしめられるのだろうか。夜更けのハイウェイの聖者のパレードに連なることができるだろうか。jingle jangle morning について歩いていけるだろうか。誰もがみんな。

2005.1.29

 

*

 

 一任された面接。一人は某大手造船所で長年設計技師として勤め、もう一人は法務局と測量事務所で働いてきた、それぞれ50代の男性。人を採用したりとかはねたりとか、人の可能性を推し量ったりとか値踏みしたりとか、嫌な仕事だ。よくよく考えてみたら、このおれにそんなことが出来よう筈もない。

 

 「学校に行かない」と言うと、「どうしてなの?」と訊かれる。「一流大学に入って、一流企業への就職を目指す」と言うと、「どうしてなの?」とは訊かれない。前者は「選択」ではなく、後者は「正当な選択」だ。ディランが「マギーの農場ではもう働かない」と歌うのは、「正当な選択」であり、意志表示ではないのか。引きこもりたければ何年でもナットクのいくまでサナギのように引きこもればいい、と私は思う。毒蛾になるよりは、幾年かかろうとも美しい蝶になって羽ばたけばいい。どのみち人はそれほど長くじっとしてなどいられないさ。

2005.1.31

 

*

 

 朝、一面の雪。ベランダに出している金魚の水槽にも厚い氷が張った。おかあさん、ほら、車も雪を着てるよ。チビは嬉々として幼稚園のバスに乗り込んだ。

 昨日は休日。久しぶりにチビといっしょに風呂に入って、寝床でハイジの絵本を読んだ。おとうさん、車椅子に乗ったクララを指して子が言う、この子はシノちゃんといっしょだね。そうだね、でもクララはお花畑をハイジみたいに走れないけど、おまえは走ることができるだろ。うん、こんなお友達がいたらね、シノちゃん、お花を摘んで持っていってあげる。ふたりで体を寄せ合って9時頃に眠ってしまった。

 つれあいがどこぞの店で浄水器のパンフレットをもらってきた。野口英世財団認証のプラチナ・ウェーブなる魔法のカートリッジを採用していて、いまなら本体が無料でもらえるとかうんたらかんたら。わが家の集合住宅の水道はそれなりのもので、北関東に棲息するわが母親は来るたびに臭いとノタマル。いつからか飲み水はミネラル・ウォーターを購入していた。しかしそんな妖しげなブツはやめなさいと、浄水器協会なるサイトでお勉強したりした後、結局、私の妹宅で使っているブリタというドイツ製のポット型浄水器を採用することにして、さっそく近くのホームセンターで買ってきた。カートリッジ2ヶ付きで3,800円くらい。水がそのままでは飲めないという異常さの中で、私たちは「正常に」暮らしている。見事なもんだ。

 イラクで選挙が実施された。果てしなく分厚くひたすら気の滅入るチョムスキーの「覇権か、生存か・アメリカの世界戦略と人類の未来」(集英社新書)を読んでいると、9.11の頃にインドの女性作家、アルンダティ・ロイの書いた「これでよく解った。豚は馬である、少女は少年である、戦争は平和である」が臓腑に沁みる。歴史の改竄・書き換え、そして無関心。ジョージ・オーウェルの「1984年」は現実の世界であり、まさに私たちが生きているいま瞬間の実時間だ。

 

 民主主義の名残りがあるとすれば、日用品を選択する権利くらいだ。産業界の指導者が昔から説いていたのは、大衆に「無益の哲学」と「人生における目的の欠如」を押しつけ、「流行を追う消費によってほぼ成り立つ表面的な事柄に、人々の関心を向ける」必要性だった。幼児期からそうしたプロパガンダにどっぷりと浸かっていれば、人は無意味で従属的な人生を受け入れ、自分たちの手で物事を掌握しようなどというばかげた考えは忘れるかもしれない。彼らは自らの運命を企業経営者や広報産業に委ね、政治の領域では、権力に仕え、それを管理する自称「知的少数者」に全てを任せてしまうのである。

ノーム・チョムスキー「覇権か、生存か・アメリカの世界戦略と人類の未来」(集英社新書)

 

 6日の新宮・火祭り行がまだ決まらない。チビはいっしょに行きたいと言うのだが、愉しみにしている学芸会の練習を一日休まなくてはならないし、なにぶん長距離なので体調を崩すのも心配だ。風邪をひくとオシッコの薬が飲めなくなるとつれあいは言う。私ひとりが行くとしてもガソリン代、宿代、3月の手術のときもいろいろ散財が予想される。どうしたもんか。

 老眼のことを中国語では花眼(ホァイェン)と言い、花がよく見えるようになったという意だという。「花は細部をじっと見るものではなく、一つの全体を味わうものですから」 昨日の新聞で、僧侶でもある作家の玄侑宗久さんがそう言っていたのがよかった。「体と心は互いにかかわり合う一つの全体性なのに、若い頃は精神を体より気高いと信じ、すべて心の問題にするから体のことがわからない」「元気になるには言語機能を休ませないとだめです。生命体の本質は変化。固定化、つまり言語化できない状態にしなければ」

 最近、チビは母親に歯向かうとき、「そんなことを言うからおとうさんに怒られるんだよ」と言い返すのだそうだ。理屈っぽいところや物の考え方や喋り方が私にそっくりだとつれあいは言う。影響は甚大で、責任は重い。私も花眼のように、もっと全体性を見なきゃね。

2005.2.2

 

*

 

 チビは昨日、幼稚園で節分の豆まき。知らない人のオニさんが来て、タッキーとユキちゃんは泣いちゃったの。それで? シノちゃんはね、ふるえてただけ。ふるえて、豆をひとつだけ投げた。私の仕事の都合で一日ずらして予定していたわが家の節分の豆まきはとりやめになった。

 今朝は職場のY君からの電話で起こされて、久しぶりにチビをバス停まで送っていった。隣の棟のジンちゃんと合流して、ジンちゃんが「シノちゃん、いっしょにいこうよ」と手をとりにくるのだが、チビは黙り込み私の手をぎゅっと握って応じない。何度かジンちゃんに声をかけられて、やっと口を開いた。「あのね、ころぶからイヤなの」 チビの膝はいつも擦り傷だらけだ。きっと、ひっぱられて、ついていけずに、転んでしまうのだろう。それでいいさ。おとうさんとゆっくり歩こう。

 

 

 私は死体を埋める場所を求めて夜の山中を彷徨っている。土の匂い、不安、足のもつれ、焦り、月光、息づかい。不意に目が覚めてほっとする。夢か。だがその「ほっ」の中にほんの何%か、一秒前に味わっていたものを惜しむような感触がある。夢の中で私は私の命に素手で触れていた。だが目覚めた途端、その生々しさは“どこか”遠くへ去ってしまった。

(穂村弘・朝日新聞1月16日書評欄より)

 

 夢の中でなんどか訪れる場所がある。ああ、またここへやってきた、といつもなつかしい気持ちになる。夢の中で私はその場所の実在を信じていて、かつて訪れたときの記憶もちゃんと残っているのだ。ひさしぶりに来れたなあと嬉しく思う。トトロの森に続くトンネルのように、自らの意志で行けるのではなく、許されたときだけ行ける場所なのだ。山あいの田舎町で、まだ測道が工事中の大きな幹道が走っている。そこから私はバイクに乗って、鄙びた田舎道をうねうねと走っていく。低い山並みに囲まれたちいさな盆地のような山村へひょいと出る。古びた鳥居の前に祭の屋台がぱらぱらと並んでいるが、行き交う人の姿はあまりない。バイクを降りて鳥居を抜けると、もうひっそりとしている。砂利を敷き詰めた参道がまた素朴で美しいのだ。中はひどく広くて、立派な建物などはなにもなくて、ただ砂利道のそちこちに摩耗した石仏や、岩を積みあげた祭祀跡や、賢者のような老樹や、沖縄の御獄(うたき)のような場所がぽつぽつと点在している。それらを私はしずかに覗いてまわる。とてもしずかな心持ちで、心地がいい。そんな場所はこの世には実在しないのだろうけれども、私の世界には存在して息を継がせてくれる。

 

 

 世の中が動かない。止まっている。その現状をこの目で見ておきたいと考え、2年ほどかけて、私は44の道府県を旅行してみたのだが、やはりどの街も元気がない。残りの三つをまわっても、この印象はたぶん変わらない。冷えびえした空気を浴びながら、私は教育のことを考える。学校と、学校教育を支えてきた政治や行政や世間的常識のことを。

 結局、日本の教育は「使われる人間」しか育ててこなかったのではないか。学校はだれかに、あるいは何かに使われるためのトレーニングの場にすぎなかったこと。おとなしくか、要領よくか、有能にか、ともあれわが身を、使われる人間としてしか思い描けない日本人ばかりを育ててきたのではなかったか。

 使われる人間は、寂しい。独りで、はらばらに生きることしか和らないから、リストラや倒産や定年で辞めたとたん、友だちは散っていき、いっきに萎えてしまう。こうした人々の群れが、これからの一年間、この国の底に澱(おり)のように溜まっていくのだろう。

 そこに、十数年来の景気低迷、大規模災害、犯罪の多発、社会保障制度の破綻、米政府に引きずられっぱなしの戦争協力、あるいは日朝・日中関係のこじれなど、難問が次々に押し寄せている。個々ばらばらで、使われることしか知らない人間には、どれも手も足も出ない問題ばかりである。

 自分からは動かない、動きたくない、動けない大人たちは傍観を決め込んでいる。そうでなかったら、子どもたちが頭のなかに飼っている怪物になりかわるように凶悪事件に突き進んでいくのと同様、いつか自分を託せる力強いカリスマが現れるだろうと待ち望んでいる。ここから生じる熱狂はかなりきな臭いがこれもまた使われる人間としての自己の再生産にすぎない。

 若者たちはどうだろう。若年層の10人に1人が失業中だ。学校にも仕事にも研修にも行っていない、いわゆる「ニート」な若者たちに、私もときどき旅先で会う。彼ら一人ひとりは、私ほど露骨な言い方をしないけれど、使われる人間の窮屈さや哀れな末路をたくさん見聞きしている。なぜ無理をしてまで世間に加わらなけれはいはないのか、とためらっている。

 私はこの感受性を健全だと思う。だが、彼や彼女たちの多くも、自力で仕事ややりたいことを作りだす自信に欠けている。ここにも、あいかわらず使われる人間になることしか教えていない学校教育の欠陥が露呈している。

吉岡忍「日本の教育 “自ら動く人間”を育てよう」朝日新聞 2005.1.16付より一部抜粋

 

 ディランの Dignity を聴く。

2005.2.4

 

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 またやりきれない事件が起きた。暗澹とした気持ちになる。仄暗い意識の底に澱のように溜まった悪意がもっとも無抵抗な弱者に向けて暴発するこの国とはいったい何なのか。殆ど壊れかけているのではないか。そしてそんな場所に相も変わらずしがみついているのは他ならぬ私たち自身ではないのか。Aの中で「いまの価値観を引き継いだ社会には戻る場所がない」としずかに語ったオウム信者の言葉は、ある意味で的を射ているのではないのか。

 

 つれあいとチビは仲良くそろって風邪気味。明日、ひとりで新宮の火祭りへ行く。

2005.2.5

 

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 2月6日、午後6時。神倉神社の前に立っていた。狭い境内と民家を隔てる用水路上に朱塗りの太鼓橋というちいさな橋がかかっていて、祭の参加者以外はそれを渡れない。私がいるのは水路のこちら側だ。ちょうど石段を下りきったところの鳥居が正面に見え、ヘルメットに防寒着姿の消防・救急隊員が待機している。右手の社務所の前には警備本部のテントが張られている。その横手に楯を持った機動隊が整列し、太鼓橋を渡った上り子の男たちはその前を通りすぎて暗い石段をゆっくりとあがっていく。みな白装束で腰に荒縄を巻き足は草鞋、手には板木(祈願の墨書や神社の印が押されている)を五角錐の形に組んだ松明を持ち、互いにすれ違うときにそれを打ち合わせて「タノムゼ!」と声をかけあう。バシッと小気味の良い音が響く。松明の空洞部分には長いカンナ屑が詰め込まれていて、頭から出したそれがライオンのたてがみのようにわっさと揺れる。一人の若者がふらふらと仲間内からはずれ、鳥居の下に崩れ落ちる。泥酔しているらしい。仲間が立たせようとするのだがどうにも儘ならずその場に捨て置かれる。しばらくして通りかかった若者グループの一人が彼を見つけ「おっ」と嬉しそうに指を指し歩み寄ったかと思うと、こちらも仲良く並んで崩れ落ちた。仲間たちが二人を無理矢理抱きかかえるようにして登っていった。何が原因であったか喧嘩も始まる。「なんじゃい、ワレ」と声を荒げ、ど突き、もみ合い、松明で叩き合う。石段を登る前から白装束は早くもぼろぼろだ。装束を自らはだけて腕の入れ墨を見せるチンピラもいる。地元の青年団らしいこちらも白装束に身を包んだ男たちが間に割り込んでなだめ引き離す。いったん引き離した片方が、石段の中途の暗がりでもう一方の登ってくるのを待ちかまえていて再びもみ合いになり、二人とも石段から転げ落ちて動かなくなって担架で運ばれることもあった。上でもそんなふうに喧嘩や石段を踏み外して怪我をしたりがあるらしい。やはり救急隊員の担架で運ばれて来たり、腕をかかえたり、血だらけの頭を抑えたりしてふらふらと下りてくる男たちがいる。途中の迂回路を下ってきて、石段の橋で倒れ込み動かなくなる者もいる。自力で歩ける者には救急隊は手を貸さず、鳥居から暗い足下を懐中電灯で照らしてやる。中には応急手当をしてもらい再び上へ上がっていく者もいる。上り子は若者だけではない。年寄りもいるし、子どもたちもいるし、1歳くらいの赤ん坊を背負って上がっていく若い父親も幾人か見かける。山伏姿の僧侶の一団が上がり始め、やがて最後の上り子が太鼓橋を渡り終えると橋は閉ざされ、整列していた機動隊はいったん解除を命じられた。後には静寂と、震えるような寒さが残った。この日、鳥居をくぐって暗い石段を登っていった上り子の数は総勢2,300人。かれらは山の中腹に鎮座する巨大なゴトビキ岩の懐にぎゅうぎゅうに押し込められ、やがて松明に順次火がうつされ熱と煙で燻された後、鉄の門扉が開いて闇に続く石段へと一斉に解き放たれるのだ。

 

 ときおり、山の上から短いどよめきが聞こえてくる。見上げると、樹の間の透けた一点がうっすらと赤く滲んでいる。霊気のようなふわふわとした白煙が石段をたなびき降り、境内を漂い始める。燻した匂いがする。午後8時頃。静寂を破ってさいしょの一人が石段を駆け下りてくる。跳ぶような勢いだ。「めっちゃカッコいい!」と私の背後で女の子が思わず大声を上げる。もう二人。四人。一人が鳥居の下で一回転をしてそのまま走り去る。第一陣の天狗たちが駆け抜けていくと、しばらく間をおいてあとは割合ゆっくりとしたペースでぞろぞろと降りてくる。ワッセワッセと声を上げながら、ときおり消えかけた火を熾すために短くなった松明を石段に叩きつけている。腰に巻いていた縄がほどけて肌を露わにしたり、草鞋が脱げて裸足だったり、白装束もぼろぼろに裂いて泥だらけだったりする者たちも多くいる。しばらく見てから人だかりを離れて路地を抜けた。後部を開いた救急車がバックで入りこんでくる。すでに石段を降りた上り子が駐車場の隅で長い放尿をしている。松明の残骸や燃えかすが路上のあちこちに散らばっている。家々からオバチャンや老人たちが出てきて見上げている。ゴトビキ岩が見えるあたりまで来て、山を仰いだ。山の中腹にうねうねと火の筋が連なり、聞こえぬ声や息遣いが聞こえた。山が生きているようだと思った。嬲られ、嬲り、愉悦の声を漏らしているようだった。しばらく立ち続けてから、寒さと空腹を思い出して町中へと歩き出した。日曜のせいか祭のせいか営業している店はまばらだ。あちこちで家族と合流して、あるいは一人で、家路につく上り子たちとすれ違った。神社の参道と直角に交わる国道の交差点では大勢の若者たちが集まり、拡声器を持った警官が「祭は終わりました。解散しなさい」と繰り返していた。道沿いに楯を持った機動隊が十数人ほどきまじめな顔で整列していて、こちらをちらちららと見る。一軒のさびれた中華屋に入った。予想通りラーメンも餃子も大して旨くはなかったが、温かいスープが冷え切った体に心地よく飲み干してしまった。上り子姿の小学生の子ども二人を連れた年輩の夫婦が店のオバチャンと喋っていて、草鞋を脱がずに上がり框でラーメンを啜っている旦那が「ウチは娘だから、近所の子を預かってきたんじゃ」と笑う。かれらが出て行ってから私も勘定を頼むと、店のオバチャンは釣り銭を寄越しながら「あんたも男なら見てるだけじゃなくて登ってこなきゃ!」と宣うのだった。まったく、そのとおりだった。

 

 翌朝、5時に目が覚めた。身支度をしてホテルの裏口から抜け出た。ひっそりとした神倉神社の鳥居をくぐり、暗闇の中の石段を目を凝らして獣のように黙々と登った。ゴトビキ岩の社殿の前に腰かけて日の出を待った。凍るような寒さと風と、舐るような樹木の暗がり。長く辛い時間を息をひそめてじっと動かなかった。やがて、いつしか空が徐々に白ばみ始めた。熊野灘の地平線が一瞬、薔薇色にくっきりと輝き、薄い雲間からオレンジ色のぷよぷよとした産み立ての卵の黄身のような太陽がゆっくりゆっくりと昇っていった。まるでじぶんが古代の王にでもなった気分だった。目眩がしそうだった。「だいぶ拾えたかい?」「もうすっかり見たよ」 くたびれたパーカーをまとった顔見知りらしい老人の男女が言葉を交わしている。どうやら早朝から祭の“落とし物”を拾いに来たのらしい。見ればそこら中に昨夜の興奮の痕-----松明の残骸やかんな屑、燃えかす、草鞋、荒縄、踏みつけられた煙草や壊れた百円ライター、手拭い、ワンカップの小瓶、使い捨てカメラなどが散乱しているのだった。老婆は私の顔を見て「おはようさん」と乱杭歯を覗かせて笑った。

 

 

御燈祭の動画 熊野街道.COM http://www.kumanokaido.com/movie2/movie2.htm

熊野大辞典 御燈祭レポート http://www.kumanogenki.com/oto_2005/oto_maturi_2005.html

御燈祭見聞 文芸誌「プレアデス」3月号 http://www1k.mesh.ne.jp/ipl/bungei/1999/bungei99_03.htm

そまのおさんぽフォトアルバム http://www.mikumano.net/photo/33.html

2005.2.8

 

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 新宮行補遺。

 出発の日。日曜で幼稚園が休みだったチビは「行くな」と泣いてしがみつき離れなかった。あまりの激しい泣き様に「こんなに泣くなんて滅多にないのに今日はヘンだね。悪い虫の知らせだったってこともあるからね」とつれあいは平気な顔で不吉な物言いをし、不安になった私は天辻の山越えを止めて田辺経由の海沿いの安全なルートに変え、道中は後続車をすべて先にやって平均50〜60キロの安全運転を最後まで頑なに通したのだった。

 以前のバイクに貼っていたのと同じ御守りのステッカーを新しいバイクにも貼ろうと本宮大社に立ち寄ったら社務所の棚からなくなっていた。いつものように大斎原の真っ白な河原に出て、しばらく魂を呆けさせた。

 前日に予約した宿は、20代の頃に何度か利用した格安なおんぼろビジネス・ホテルだ。自分ひとりならそれで充分。5千円弱でパンと茹で卵とコーヒーの朝食付きで、洗濯機と乾燥機が自由に使え、自転車もサービスで貸してくれる。御燈祭の見物を終え夕食を済ませてから、コンビニでつまみと「熊野川」という地元の生酒の小瓶を買って部屋で呑みながら、テレビで新月の夜に伐採した樹は長持ちするというオーストリアの樵の深夜番組を見た。画面は吉野の山に変わり偶然にも、日本でも昔から旧暦の正月の夜の伐採の伝承があり、それは見事に新月の夜であったというものであった。出演した京大の学者は、生命はもともとすべて海から生まれた。そのときの潮の満ち引きの痕跡を、植物も何らかの形で残しているのかも知れない、と語っていた。

 祭の引けた神倉神社で燃え残った松明を拾って帰った。ふつうの松明は板木を五角錐の形に組んで中は空洞になっているのだが、拾ったそいつは材木を五角錐の形に削り燃えやすいようにノコで刻みを入れたものだった。木刀のようにずっしりと重い。帰ってから御燈祭関係の地元の掲示板を覗いていて、喧嘩用に用意された松明だと知った。こんなのを持って走るんだよ、とチビに渡したら目を丸くしてしげしげと掲げた。

 本宮大社の近く、伏拝におばあちゃんの家があるという職場のY君のリクエストで帰途に湯の峰に立ち寄り温泉水を汲んで帰った。温泉水は10リッター100円なのだが準備不足で近くの煙草屋で急遽求めたポリタンクは650円もした。職場に寄って職場のコーヒー用に2リッター、Y君宅用に2リッターを給水。家に持ち帰ったら、まだ生温かい匂いを嗅いだチビは「くっさー」と鼻をつまんだが呑んでくれた。便秘に効くという。

 十津川役場に隣接する村営物産展の二階にあるそば処・行仙は、初めて入ったのだがなかなかイケる。地元・十津川産と北海道の新十津川村のそば粉を使った一品とか。かつて寝袋・テントを背負って越えた山の稜線を眺めながら食した。

 山路をうねうねと辿っていくことは山を呼吸することだ。深山の大杉や山の中腹に坐す巨石や子宮のような河原の中州に身を置くことは、そこに共に在ることを祝福されることだ。それ以外の何物でもない。

2005.2.10

 

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 ノーム・チョムスキー「覇権か、生存か・アメリカの世界戦略と人類の未来」を読了する。

 

 ブッシュ政権は2002年9月に帝国的で壮大な戦略を発表した時、細菌戦争に対する生物兵器禁止条約に強制措置を加えるべく続けられていた努力を妨げ、更なる議論を4年間できないようにした。その直前には、戦争における毒ガスと細菌の使用を禁じる1925年のジュネーヴ議定書の再確認を阻止していた。

 別の問題を取り上げると、ブッシュ政権は米国経済を害するという理由で京都議定書に反対し、広く批判されている。だが、その批判はある意味で奇妙だ。既存のイデオロギーの枠内では、不合理な決定ではないからだ。我々は新古典主義市場の信奉者たるべく日々教えこまれ、その市場では、孤立した個人は最大の富を追求する合理的存在だ。歪みがなくなれば、市場はドルその他の貨幣で表される「票」に完璧に応えるはずである。個人の利益の価値も同じ方法で測定される。とりわけ、票のない人の利益の価値はゼロで、例えば未来世代がこれに当たる。従って、我々の孫の世代がまともに生存する可能性を破壊するのは、そうすることで我々の「富」を最大限にできるなら、理に適うことになる。つまり、自己の利益の受け止め方は、一心にそれを植えつけ強化する巨大な産業によって作られるのである。今、生存への脅威を強めているのは、市場原理主義のもたらす苛酷な結果を和らげるために作られた制度を弱体化させるのみならず、こうした制度を支える同情と連帯の文化をも蝕もうとする努力なのである。

 これらは全て、恐らくそれほど遠くない未来に起こる惨事のための処方箋である。だが、もう一度言うが、支配的な理論と制度の枠内では、一定の合理性をもっている。

 

 今日の歴史の中に、人は二本の軌道を見出すはずだ。一本は覇権に向かい、狂気の理論の枠内で合理的に行動し、生存を脅かす。もう一本は「世界は変えられる」−--世界社会フォーラムを駆り立てる言葉---という信念に捧げられ、イデオロギー的な支配システムに異議を唱え、思考と行動と制度という建設的な代案を追求する。どちらの軌道が支配するかは、誰にもわからない。こうしたパターンは歴史全体によく見られるが、今日の決定的な違いは、懸けられているのが遥かに重大なものだということである。

 かつてパートランド・ラッセルは世界平和について暗澹とした思いを表明した。

 「地球は無害な三葉虫や蝶を発生させた時代の後、大勢のネロやジンギス・カンやヒトラーを生み出すまで進化してしまった。しかし、これはつかのまの悪夢だと私は信じる。やがて地球は再び生命を支えられなくなり、平和が戻ってくるだろう」

 この予測は、ある意味で我々の現実的な考えよりも正確である。問題は、全てがなくなる前に悪夢から自分を目覚めさせられるかどうかであり、平和と正義と希望を世界にもたらすことができるかどうかだ。そして今、自分の意思で好機を摘もうとしさえすればそれができるところに、我々はいるのである。

ノーム・チョムスキー「覇権か、生存か・アメリカの世界戦略と人類の未来」(集英社新書)

 

参考資料:国連安保理における米国の拒否権行使 1980年から2002年
http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/unscveto.html

 

 

 バイクのパンク修理・オイル交換・チェーン及びスプロケットの交換の際に立ち寄った国道沿いのブックオフで、ビートルズのCD2枚組 Anthology 1 を600円で購入する。

2005.2.14

 

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 もう30分もしたらやっとご帰宅という夜更けに、改装工事中のテナントで工事業者があろうことか天井のスプリンクラーの配管をぶっ叩いたのである。水がしょぼしょぼと漏れ、慌てて馳せ参じた設備のTさんと共にアラーム弁を締め、とりあえず配管内の水を抜き切ってあとは明日、スプリンクラーのメーカーに交換をしてもらうしかないという結論に至ったのだが、現場を見に来たMgよりスプリンクラーの水が抜かれた状態で火災があったらどれだけの対処が出来るのかと突っ込まれ、こちらも泡を食ってすっ飛んできた業者の責任者と談判をし、火器使用を予定していた今夜の作業をすべて中止しますと話を取り付けてまあ何とかかんとか一段落。雨に濡れて夜中過ぎにやっとわが家に帰ってきた。起きて待っていたつれあいを先に寝かせ、風呂の中で散々読み散らかしたディラン本をしばしめくり、ディランのブートレッグ曲を聴きながら黒糖泡盛のお湯割りを啜る。今日はチビが一日どんな様子だったかを僅かさえ聞く間もなかった。もう一日だけ25時間勤務をこなしたら、11日ぶりに寝床で絵本を読んであげられる。明日は彼女はリハビリ。

2005.2.15

 

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 ここではもちろん補償は、願わしいと思われたものが夢みるひとにすでに与えられていたというように起こってはいない。わたしが先にちょっと触れておいた、人生がたえずわれわれのところへ運んでくる問題を、かれはつきつけられたのである。すなわち道徳的価値判断の不確実さ、善と悪とのもつれあった作用、罪と悩みと救いとの仮借ない連鎖という問題である。宗教の原 = 経験へ導くこの道は正しい。しかしこの道を見てそれと識るものがどれほどいるだろうか? この道はかすかな呼び声であり、それははるかから響いてくる。その声はどのようにもうけとれ、疑わしいところがあり、くらい響きがある。そこには危険と冒険が含まれている。それはなんの確証もなく、公式の認可もなく、ただ無償でゆくしかない、あやうい小道である。

C・G・ユング「ユングの象徴論」メルヘンの精神現象学(思索社)

 

 夜更けに仕事から帰るとひとり、ディランのBorn In Time (original Oh Mercy outtake) ばかりを聴いているこの頃。 

2005.2.17

 

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 昨日は幼稚園で「生活発表会」なる催しがあって、招かれた保護者の前で子どもたちが劇や演奏を披露した。チビのクラスは「ねずみの結婚」と、トライアングル・カスタネット・タンバリンなどによる「おつかいアリさん」の演奏。幼稚園のパンフには「子どもたちの演技を一体で味わって欲しいので、なるべくビデオ等の撮影は控えてください」とあった。撮影は園で依頼したビデオ会社が行い、クラス毎に編集したビデオを一本2千円で販売するとのこと。わが家でもご多分に漏れず、一年ほど前にチビの七五三祝いの金で立派なデジタル・ビデオカメラを購入したのだが、サテこのビデオカメラなるもの、どうだろうね。持って行ったらついつい撮影の方に気をとられて、かえってその場の子どもとのリアルタイムなコミュニケーションを阻害しているような気が、最近はしてきたのだ。簡単にいえば、うざったい。大事な子どもの映像をDVDあたりに保存して、100年もったからといってそれが何だろう。色褪せた一枚の写真からさまざまな表情や匂いや音を思い起こす人間の脳の方がずっとすぐれているんじゃないか。出発間際までビデオカメラの充電をしながら迷っていたのだが、結局、今回は幼稚園の先生たちのお言葉に沿うことにした。で、いざ始まってみると、いるわいるわ。幼稚園のパンフなどお構いなしで、観客席から雨後の筍の如くビデオカメラがぞろぞろとおでましになる。私の前に座っていた若いお母さんの液晶モニタが嫌でも視線に入ってくるのだが、当然の如くじぶんの可愛い子どものアップ映像がひたすら続く。そんなのを見ていて思い出したのが、半月ほどばかり前に市の公民館へ見に行ったチビらが幼稚園で制作した作品のことだ。県内の私立幼稚園の園児たちの様々な作品を展示した企画でチビのクラスがつくったのは、先生たちがこしらえた巨大な金魚のハリボテに子どもたちがそれぞれ紙粘土でこしらえたミニ金魚を一面に貼りつけたものだった。誰が誰の作とは判別がつかないが、クジラのような金魚があったり、土瓶のような金魚があったり、メダカのような金魚があったり、見ているとそれぞれ面白い。そんなとき孫を連れた一人のバアさんがやってきてハリボテ金魚を見るなり明らかに興ざめした顔で「あら、これじゃ○○ちゃんのがどれか分からないわねぇ」と嘆息した。ついでに言えば、部分が全体を成り立たせているこの作品の発想を、私は実にすばらしいと思ったのだった。だからこのまるっきり正反対の価値観の吐露に出くわして、私は一瞬とまどった。へえ、そんなふうに思うわけか、と思った。ちなみにわが家のチビに「どれがじぶんのか分かるか」と訊いてみたら「分からない」と言う。それでもみんなで作ったこの素敵な作品の前で彼女は満足げに笑っている。わが子のアップ映像を懸命に撮り続ける若い母親の姿が、そのときのバアさんの呟きと重なる。結局、私個人に限っていえば、今回ビデオカメラを持って行かなかったことは成功であった。先生たちの言葉通り「うざったい」ビデオカメラの操作に気を使うことなく「子どもたちの演技を一体で味う」ことができたし、舞台を飾っている様々な手作りの意匠や、よその子どもたちの表情や個性もたくさん愉しめた。きっとチビのアップ映像ばかりを追っていたら、そんなたくさんのものを見過ごしてしまったことだろう。ハリボテ金魚の中のわが子の作品だけを血まなこになって探す親たち。じぶんの木ばかりを見て、森を見ない人々。おやおやと駄洒落ではすまされない仄暗さがひそんではいまいか。

2005.2.19

 

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 シノちゃんはおそく生まれたから足がわるいの? いやいや病院で会ったおなじ病気の子は若いお母さんの子もたくさんいただろ、だからそんなことはカンケイないよ、と慌てて答えたらつれあい曰く、母親の年齢ではなくて幼稚園で早生まれ遅生まれの話が出たりするからそのことだろう、と。そんなこと誰かに言われたのかと子に問えば、ううん、シノちゃんね、じぶんで考えたの、と言う。三月はイヤだなぁ、だってシノちゃん、シュジュツしなくちゃならないから。そんなことも言う。

 昨日はチビと半日、たっぷりつきあった。神経衰弱のカードに積み木崩しにお弁当ごっこ。チビがじぶんでつくった折り紙のロールキャベツやおにぎりやスパゲッティをひろげて奈良公園で花見のシチュエーション、だ。いつも夜勤明けの日や休みの日でさえ睡眠不足を補うために家にいればついつい寝てばかりいるので、チビはよほど嬉しかったのだろう。けらけらと笑い続けてお父さんお父さんと私の後ばかり追って離れなかった。痛感した。昨夜から25時間勤務で今日は深夜に帰宅して、明日はまた早朝から夜中の1時まで勤務だが、そのかわりシフトを変わってもらって明後日から連休を取った。

 チビとまたしずかな山道を闊歩したい。

2005.2.20

 

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 かれは暗い母の国にいたのである。それ相応の犠牲がかわりにもたらされるのでなければ、なにひとつみずからの勢力圏から出てゆかせようとしない無意識の貪婪な狼にひき留められていたのである。

C・G・ユング「ユングの象徴論」メルヘンの精神現象学(思索社)

2005.2.21

 

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 日曜の新聞の書評欄と広告欄に載っていた「シベリア出兵の史的研究」細谷千博(岩波現代文庫)と「中世の非人と遊女」網野善彦(講談社学術文庫)を求めて国道沿いの本屋へ行くが見当たらず、代わりに「言霊と他界」川村湊(講談社学術文庫 @1,100)を買って帰る。前二冊はネットで購入しようと思う。

 駅前でチェーンが外れたというつれあいの自転車を直しに向かう車中で、幼稚園から帰ってきたばかりのチビが、とてもきれいな夢をみた、と言うがどんな夢かは言わない。フランクフルトでアルムの山を焦がれて夢遊病になったハイジの話になり、あれは神さまが「だいじょうぶだよ」って見せてくれたんだねと言うので、夢はそんなふうに困っている人に助言を与えてくれるという話をする。

 深みへ降り下れば、わたしの魂などひとでなしのようなものだ。

 夜、ベランダで煙草を吸っていたわたしを追ってきたチビが西の方を見やり、あそこの人たちももう寝ようとしているね、と言う。明日はつれあいに代わってチビのリハビリに同行する。

2005.2.22

 

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 リハビリの帰り、天王寺動物園でチビと遠いアフリカの響きを聴いた。

2005.2.23

 

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 天王寺公園のゲート前の広場で白ウサギのようなコートに身をつつんだチビが笑いながら円周をなぞりながら一心に鳩を追いかけまわす。ふと浮浪者のおっちゃんが外灯の柱につないでいるややくたびれた犬に気づいて立ち止まり、頭をさすってやる。それからまた鳩を追って駆け出す。白いちいさな歯が冬の空気のなかをころがって回る。まるで天界の景色のようだ。彼女がなぞった円周の分だけ、私の心は不思議と軽やかになっていく。

 

 したがって外から来たある大きい理念がわれわれを掴むとしたら、それは、われわれの内にある何かがそれに近づいてゆき、呼応するからにほかならない、と考えねばならないのであろう。心の用意があることが富なのであって、猟の獲物を山と積みあげることではない。

C・G・ユング「ユングの象徴論」新生について(思索社)

 

 貯えたものをいったい誰が収めるのか。ほんとうに、それ以外の何がわたしたちにできるだろうか。与えられたときに、それを受けとる心の用意ができているということの外に。

2005.2.24

 

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 偽りなく、わたしの内奥に呼応するもの。自律的で、わたしの暗がりからわたしを所有しているわたしの内なる他者。いつの日かわたしを連れ去り、(あるいはひょっとして)遠いかつてわたしと共に在ったもの。わたしを顫えさせ、おののかせ、わたしの一切を剥ぎとり、わたしを蘇らせるもの。わたしのはるかな忘却を埋め合わせるもの。わたしの自意識がついに所有し得ないもの。わたしであってわたしでないもの。

2005.2.26

 

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 冬空の下のお城の祭り ダンスをする少女たち 梅の香 古着市 人混み 輪投げでもらった風船 きんとっと焼き はじめて食べたじぶんの頭くらいある大きな綿飴 だがそんなぜんぶよりも あの日いちばん 小さなおまえの心を惹きつけたのは 路上で踏みつぶされた一匹の太いミミズの死骸だ 行きにはまだぴくぴくともがいていたその身体が 帰りにはアスファルトの上の汚い染みになっていた おまえはその無惨な変わりようにひどく驚き 深刻で ゆがんだ悲しい顔のまま いつまでもそこを離れようとしなかった なんどもなんども地面の動かない染みを覗き込むおまえと母のわきを 先をいそぐ人の波が ときに迷惑そうによけて通り過ぎていった ミミズはわるくない 踏んだ人間が気をつけていなかったのだ と おまえはえらく憤って私に言ったものだ

2005.2.28

 

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 amazon より注文していた二冊が届く。「中世の非人と遊女」網野善彦(講談社学術文庫・@960)、「ネルーダ詩集」田村さと子訳編(思潮社・@1165)。ネルーダは宮内勝典が最近の日記で引用していたのを見て読みたくなったのだ。やはり、すばらしい。

 

 今日はこれからチビとリハビリへ。車で帰りに矢田山へ寄ってお弁当を食べてくる。明日は最後の幼稚園(雛祭りで集合写真を撮る)。明後日の4日はいよいよ入院。

 

 再生医療関連のサイトをいくつかリンクに追加した。

日本再生医療学会 http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsrm/Japanese/

NPO再生医療推進センター http://www.rm-promot.com/

文部科学省 再生医療の実現化プロジェクト http://www.stemcellproject.jp/

BioInfotech http://www.bio-infotech.com/index.php

 

 

 附記

 昨日は幼稚園でチビが導尿をしてもらっている間に、先生がクラスの子どもたちに手術のことを話した。戻ってきて「シノちゃんからも何かお話しする?」と先生に言われ、チビは「手術をします。背中を切ります。でも眠り薬があるからダイジョウブやねん!!」とみんなに言ったそうだ。

 昨日、担任のG先生に手紙を書いた。

 

一年間、いろいろとありがとうございました。

導尿のこと、そしてそれ以外でも、親の私たちが知らない部分でたくさんお世話になったことがあったと思います。

先生方のご理解とご支援のお陰で、妻もずいぶん精神的な負担が軽減したと思います。

なにより子ども自身が、なにがしかのハンディを負いながら幼稚園を、ともだちを、先生たちを大好きになって、毎日嬉々としてバスに乗り込んでいってくれたことが、よかった。

加えて親の私たち自身も、幼稚園のさまざまな活動や催しに接してずいぶん愉しませて頂きました。

生活発表会の余韻もさながら、私が個人的にいちばん印象的だったのは、城ホールに展示された大きなはりぼての金魚でした。たまたま孫を連れたおばあちゃんが「これじゃ○○ちゃんのがどれか分からないねぇ」と大層がっかりした顔を見せたものですが、私の感想は全く逆でした。

シュタイナーという人が、子どもに数や図形を教えるときはばらばらの部分からでなく、「大きな全体」から「小さな部分」に分かれていくように教えることが大事だみたいなことを言っています。そのことによって、子どもは部分が常に「大きな全体」とつながっていることを学びます。

私は、どれが誰のかは容易に分からないけれど、クジラのような金魚があったり、土瓶のような金魚があったり、メダカのような金魚があったりする愉快な集まりたちが、みんなでひとつの大きな金魚を成しているあの作品をとても好意的に感じ、先生方のアイディアをすばらしいと思いました。

きっとわが子も、そのような幼稚園の空気のなかで一年間、だいじなことをたくさん学んでくれたことでしょう。

ありがとうございました。

末筆ながらひとこと、御礼まで

2005.3.2

 

*

 

 雛祭りと、みんなよりすこしだけ早い幼稚園年少組の最後の一日。私も遅くに帰って来たので全部はまだ見ていないが、チビはクラスのみんなから手紙や寄せ書きなどをたくさんもらってきたそうだ。先生たちも手製のふくろうの御守りやみんなのメッセージを入れたカセットテープまで録音して持たせてくれた。今日は幼稚園から帰ってから、おなじ団地のジンちゃんとわが家でいっしょに雛祭りのケーキを食べて、大満喫の一日だったらしい。

 昨日のリハビリでは看護婦のMさんとすれ違って、もう2年以上も経つのにこちらの顔を覚えていてくれて車窓越しに話をした。リハビリが終わってから小児科病棟の婦長さんのところへチビと二人で「またお世話になります」と挨拶に行った。廊下で執刀医のY先生ともすれ違い、これまた「よろしくお願いします」と挨拶をした。いつかつれあいが、この病院へ来るとまるでもうひとつのわが家のような気がする、と言っていた。

 明日、いよいよ入院。

2005.3.3

 

*

 

 3日・木曜は午前中に病室に入り、午後からレントゲンと心電図、採血を了えたら、思いがけず月曜まで何もないから一時退院をしてもよいと言われた。何やら拍子抜け、である。檻のような病室のベッドや目新しい環境が気に入って(3時にはおやつももらえる)一晩過ごしたいと言うチビを説得して、荷物を置いて夕方に車で帰途についた。何も用意していなかったので夕食は新大宮の「元祖にんにく屋」でパスタを食べた。駅前に新装オープンした「ぱふ」というシュタイナー関係の玩具などを揃えた店に寄り、入院中に子が遊ぶためにと曼陀羅の塗り絵と刺繍の子ども用ゲームなどを購入。そのとき女主人と県内のシュタイナー関連の団体の情報や、ウォルドルフ人形制作の話などで結構盛り上がったのだが、詳しい話はまた後日に。夜は採血のときに痛くて少し泣いたというチビの言から、1歳の最初の手術のときにしていた点滴の管の話になり、寝床でそのときのアルバムをひろげ、看護婦さんに抱かれている写真や術後の火ぶくれのような惨めな顔を眺めながら、手術の話をいろいろとしたのだった。

 明日はつれあいとチビが朝、先に病院へ向かいCTスキャンを撮り、25時間勤務を終えて今夜半に帰宅した私は昼より病院へ行って、2時からつれあいといっしょに脳外科のY先生らから手術の説明を受ける予定。夕方に私は先に帰り少々仮眠をして夜からまた25時間勤務。つれあいはチビの夕食を見届けてから帰ってくる。「お母さんはおうちの用事もあるから、夕ご飯が終わったら帰っても大丈夫?」とつれあいが訊いたら、ちびは「だいじょうぶ」と答えたのだという。

 最初の手術のときは私が失業をしていたため、つれあいが朝いちばん(チビが目を覚ます前)に病院へ向かい、私は洗濯などを済ませて昼から二人分の夕食の弁当をつくって持っていき、夜はつれあいが先に帰り、私がチビを寝かせて最終電車で帰るという形で毎日をやりくりしていたのだが、こんどはそうはいかない。手術の日やそのあとには、つれあいの両親や私の妹夫婦などもきてくれる予定なのだが、つれあいは、なるべく家族三人だけでがんばってやりとおしたい、というのだ。チビもがんばるし、おかあさんもおとうさんもがんばる。 

2005.3.6

 

*

 

手 術 承 諾 書

 

1.病状の説明、予後

2.手術の内容、方法の説明

3.手術に伴う危険性、合併症などの説明

 以上の他に、術中、術後思わぬ合併症や薬による副作用が生じることがあります。もちろん、予防や対策は十分講じますが、この点あらかじめご了承下さい。

 

説明内容)

 生下時より腰仙椎部に脊髄髄膜瘤を認め、以前修復術を行いました。術後概ね良好に経過してきました。しかしながら膀胱直腸障害が出現し、脊髄が再び係留している状態です。この病気は、程度によって種々の程度の下肢の麻痺・膀胱直腸障害などを伴います。現在その程度はわかりませんが、今後悪化すると予測される症状を予防するためにも係留を解除する手術治療が必要です。また術後も経過観察が必要になると考えられます。

 手術は顕微鏡下で行い、6−7時間かかる見込みです。また腹臥位(うつぶせ)にして行わなければなりません。この手術で生じうる合併症としては下肢麻痺や膀胱直腸障害の出現・悪化や、髄液漏・感染です。その他、全身麻酔の影響、感染・けいれんを起こすことなどです。以上のほかに,薬による副作用や,予想外の合併症が生じる危険性もありますので,あらかじめご了承下さい。

 以上の内容にご同意いただけるのであれば手術を施行させていただきます。

 

国立病院大阪医療センター  脳神経外科

医師 ******

 

 

私は家族の病状、手術内容、方法、および手術に伴う危険性、合併症、予後についての説明を受け、十分理解し納得しましたので、手術を受けることを承諾致します。尚、手術中に緊急の処置を行う危険性が生じた場合には、適宜処置されることについても同意いたします。

平成17年3月7日 ****** 印 (続柄 父)

 

 

 当日は朝8時半に手術室に入り、9時から麻酔。今回は付着していると思われる背中側の脂肪腫と、左側に残っている脊髄の神経と絡んでいる脂肪腫の繋留を切除、後者に関しては今後の予防的処置として脂肪腫自体を更に切除して小さくする。背中部に関しては前回の手術で貼りつけたゴアテックスの膜がどのように付着しているか(体質によって白い膜がびっしり形成されていることもあり、その場合はそれを少しづつ切除しなくてはならない)、場合によっては付近の皮膜を転用して貼りつける。また今回はこれも今後の予防的処置として、前回の手術時(L4)よりひとつ上の(L3)まで切開箇所をひろげ、繋留部分及び将来的なおそれがないかを見る。前回は脂肪腫がかなり大きく見通しが困難であったため難しい手術だったが、今回は別の意味でやりにくい部分もあると言える。ひとつは乳児期よりも脂肪腫が硬くなって切除しにくいこと。それと成長期を経て、開いてみなければ現状がどのように変わっているか、分からないこと。見込みとしてはおそらく手術は夕方には終わるだろうが、確実なところはやってみなければ分からない。術後にいちど面会ができ、その晩は集中治療室に泊まってもらう。その後、特に問題がなければ翌朝の10時頃には病室へ戻れる予定。

 麻酔と手術の承諾書を提出。

2005.3.7

 

*

 

 7:30 病院着。

 まだ眠っている。枕元に友人のくれたパトラッシュがころがっている。昨夜は夜中にいちど呼び鈴で看護婦さんを呼び、「さみしくなっちゃったの」と言ったとか。

 8:00 目が覚める。

 病院で借りたラジカセで、幼稚園の先生や友だちが歌やメッセージを吹き込んでくれた10分ほどのカセット・テープを聴かせる。枕に頬をつけたまま嬉しそうに聴いている。

 しばらくできないからと抱っこをしてやる。と、間もなく時間。

 看護婦のSさんと友だちのように手をつなぎ、階下の手術室へ歩いていく。手術室の前で扉が閉まる。

 8:30 予定通り。

 

 

 18:15 約10時間が経過。

 ナース室で頼んで手術の状況を問い合わせてもらう。「まもなく終わる」とのこと。

 18:50  手術終了の知らせ。

 ICU集中治療室の前室にて執刀医のY先生から説明を受ける。

 MRでは分からなかったが、脂肪腫が増えていて予想以上に周囲に固着していた。特に背中の部分は一部、縫合していたゴアテックスの縫い目を破って脂肪腫がせり出ていて、ゴアテックス膜を外すと飛び出るくらいに増えていた。ほかに、特に上部において脂肪腫の影響でくも膜が厚くなり炎症を起こしているがこれは案ずるほどではない。ゴアテックスに対する拒否反応は今回見受けられなかった。

 脂肪腫は通常、1〜2歳の間にしか増えず後は落ち着くので、今回の増殖は前回の手術直後のものと思われる。神経を圧迫していたと思われる背中の脂肪腫はほとんど切除した。ただし、今回の目的である脂肪腫の固着による神経の繋留を解除することは、周囲のかなりの部分を切除し空洞状態をつくったものの、固着状態が予想以上に強固であったために、すべてを切り離すということはできなかった。

 今回の発端となった膀胱圧の異常と繋留との因果関係は判明できなかった。一方で足の神経としては良くなっている部分もあるので、繋留が原因であるとは断定できない。繋留が完全に解除できなかったことにより、今後成長に伴い神経がひっぱられて障害が出る可能性は考えられる。ただ脂肪腫の固着があっても障害が出ないまま成長期を終える子どももいる。要はリスクと必要性の問題であり、無理をすれば固着している脂肪腫を完全に切り離すことは不可能ではないが、大きな障害が出ていない現状ではこれ以上深追いをせず、いったんここでとめておいて様子を見た方が良いというY先生の判断である。

 繋留が問題となる時期は年齢的に10歳頃までで、その後は落ち着く。つまり、10歳までにふたたび手術を行う可能性は残されているということである。

 ほかに手術中の異常事はなく、今回は出血も少なかったので輸血も行われなかった。

 

 19:20 ICU集中治療室にてチビと短い面会。

 1歳のときのような酷い顔のむくみ等はあまり見られなかったが、表情はまだうつろで、うつぶせのまま目を開けるのも億劫なよう。どこか痛いところはないかとのY先生の問いかけに、かすれた、ほとんど息だけのような声で、のどがかわいた、と答えた。術後4時間は水を与えられないという。耳元でいろいろ話しかけると、目を閉じたままだが小さくうなずく。頭を撫で、点滴をしていない方の手の指をそっと握った。

 19:30 ICU集中治療室を退出。

 遠くなるベッドをふり返りふり返り出ていく。

 

 

 「現時点で望みうる最高のことを先生はしてくれた」とつれあいは言った。

 私も、そう思う。

2005.3.9

 

*

 

 10日は10時過ぎにICU集中治療室から病室へ戻ってきた。はじめはぐったりという感じで哀れなその姿に義母が思わず落涙する場面などもあったが、何か欲しいものはないかとの問いに「アイスが食べたい」、続いて「チョコが食べたい」。そのあたりから少しずつ表情に生気が出てきて、アイスクリームを更に2つ食べ、メロンパンと牛乳を食し、お婆ちゃんの買ってくれたシールを貼るアンパンマンの絵本をやると言い、冗談に笑顔を見せ、こちらが驚くほど予想以上に元気なふうであった。(アイスを3つも食べたのは恥ずかしいから他の人には内緒にしてくれとのこと) 前回の手術時には40度の高熱が続いたが、今回は37度台の微熱程度。ただ就寝時間になって背中の傷が痛いと言い出した。8時間おきに座薬の鎮静剤を入れているのだが、薬の切れるはざまの時間があるのと、静かになると痛みが余計に意識されるらしい。点滴の管や、俯せを固定するための張り付け着も気になる。消灯後もつれあいは折り紙などを付き合っていたのだが、もう終電だからと帰るときに「お母さん、いかないで」と泣き叫んだらしい。あの声が耳から離れないと深夜、無理矢理に帰ってきたつれあいは私の前で涙をぬぐった。

 それで私も急遽、明日の夜から入っていた25時間勤務を同僚に頼み込んで替わってもらい月曜の夜まで休みをつくり、つれあいが朝一からの早番、私が午後から就寝までの遅番で、子には寝るまで必ずそばにいるからと約束することにした。月曜は私が夜から25時間勤務なので、日曜の夜は近くのビジネスホテルをネットで予約して続きで翌月曜の朝晩に入り、午後からつれあいに交代する手筈にした。月曜からは福島から私の妹夫婦も大阪の宿に3泊の予定で応援に来てくれる。

 今日は私は朝8時から深夜1時までの勤務。2時頃に帰ると寝ていたつれあいが気がつき、布団の中から「今日はシノさんは元気でしたよ」と微笑みつぶやいた。つれあいとチビに、すこし早いがホワイトデイのチョコレートを買ってきた。

 

 拓郎のこんな歌を思い出している。

 

男だったんだと 女がいて気づいた
弱虫なんだと 酒を呑んで分かった

嘘もついていたと 鏡のじぶんに言った
やさしさもあると わが子を抱いて思った

吉田拓郎「暮らし」

 

 この私を一粒の涙に還元するものがこの世にあるとすれば、それは二人の“彼女”だけだ。それ以外の私は徒手空拳だが、それでいい。

2005.3.11

 

*

 

 容態はだいぶ落ち着いてきた。昨日はいちども背中の痛みを言わなかったし、体温も平熱に近づいている。食事もふつうに食べている。座薬の鎮静剤の方は痛がらなければもう使わないという。俯せを固定する張りつけ着は昼間は外しているのだが、本人も理解しているようで、特に愚図ったりもせず大人しく俯せのまま遊んでいる。点滴と導尿のチューブは相変わらず。俯せのままなのでときどき腹部が痒くなるようだ。ベッドでは折り紙を折ったり、絵を描いたり、本を読んでもらったり。昨日は午後から私が義父母を連れて行ったら、つれあいとつくった紫陽花やチューリップの折り紙をベッドの周りに飾っていた。夜は「ぱふ」で買った曼陀羅の塗り絵など。食事をさせ、排尿の薬を呑ませ、歯磨きをし、本を読み聴かせ、眠たくなった頃に張りつけ着の紐をゆるめに結んでおき、背中の手術部分は熱をもって熱いらしいのでその部分を空けて足下に布団、上半身にタオルケットをかけてやる。昨日は昼寝をしなかったので、9時頃にしずかに眠りについた。寝入ったのを見届けてから電車でひとり帰ってきた。今日はまた午後から義父母を乗せて車で行き、私はそのまま近くのホテルに泊。

 

 

 深夜、モリスンとマニュエルのスピリチャルな曲をいくつかヘッドホンで聴き続ける。Be Thou My Vision、Carrying A Torch、Hard Times、Georgia On My Mind。渇きを覚える。

 

 比較的未発達なまたは古代の宗教にはすべて、「魂の危うさ」と神々の危険さ、信頼のおけなさを感じとる鋭敏さがある。いい換えれば、これらの宗教は、ほとんど知覚されないにもかかわらずきわめて重要な、目に見えないところで生じているできごとに対するたしかな魂の本能というものをまだ失っていないのである。こういうことは現代文化についてはもはや言うことができない。

C・G・ユング「ユングの象徴論」新生について(思索社)

 

 

 設備屋のKさんと2曲目のレコーディングを目論んでいる。PP&Mの 500 miles の日本語ヴァージョン。これはかつて清志郎がHISでやったものだが、かれとは別の歌詞を書く。漂泊する癩病者やエセひじりの独白のような歌にしたい。

2005.3.13

 

*

 

 チビ、昨夜は8時半に就寝。これまでほとんど動きのなかった左足指がすこし動くようだと午前の診察で。足首も心なしかだいぶ動くようになったような気がする。神経を圧迫していた脂肪が取れたからかも知れないと巡察にきたY先生。谷町筋の吉野屋で夕食を済ませて予約していたホテルへ。ビジネスマンが多い。部屋のサービスビデオで深夜1時頃までアメリカのB級映画を2本。今朝は7時からのおにぎり・味噌汁・コーヒーの朝食を済ませて行くと、チビはすでに目を覚まして隣のベッドのRちゃんと話をしていた。Rちゃんは3歳。白血病だそうだ。昨夜は仕事でたまにしか来れない母親が帰る頃に大泣きをして泣き疲れて眠ってしまった。見舞客のいる他のベッドを見るのが嫌なのか、いつもナース室で食事を食べる。チビの向かいのベッドは小学生のTくん。勉強もスポーツも万能で「出来すぎ君」というあだ名を付けられていたかれは突然、脳腫瘍で左脳を出血してしまった。話しかけてもにっこり肯くだけで、母親が見舞いに来ていないときは病院食も手つかずのままずっと横になっている。もうひとつのベッドはチビと同じくらいの女の子で、こちらも脳腫瘍らしい。ときどき大きな叫び声をあげる。両親ともに台湾の人で会話はあまりない。チビは今朝は朝食のクロワッサンを二つとも食べたので、昼前にもういいでしょうと点滴を外してもらった。何やら薬臭い桃のゼリーも安物の杏仁豆腐も口をつけようとしない。熱は36度8分。朝食後、看護婦さんが体を拭いてくれて、パジャマを着替えした。いつものように昼まで本を読んだり、絵を描いたり、プレイルームから持ってきた積み木をしたり、Rちゃんとベッド越しに歌を歌ったり。1時頃に義父母とやってきたつれあいと交替し、彼女の乗ってきた車で帰る。高速代をけちって下道を通った市内がひどい渋滞で閉口する。石切から第二阪奈。4時から3時間ほど炬燵で昼寝。義母が用意してくれたおでんを食べ、弁当をつめ、今夜は25時間の勤務。明後日は休みなので、また病院へ行ける。

2005.3.14

 

*

 

 朝9時頃に起きて、つれあいに頼まれていた車の洗車。10時半にバイクに乗って家を出た。まだ冬の気配は残っているが、ぽかぽかとしたほどよい陽気。生駒山系の北側をなめる阪和道を抜けて大阪側へ。バイクだと市内も軽やかだ。ちょうど12時頃に病院へ着いた。14日から私の妹夫婦がつめている。そのせいではしゃぎすぎたのか、昨日は背中が痛いと言って座薬を入れてもらったという。また一昨日の夜から夜が眠れないらしい。うつぶせのストレスが溜まってきたのか。昨夜は深夜に看護婦さんがかけてくれたビデオを見続けて、ほとんど眠っていない筈だという。そのために私が着いたときは昼寝の最中であった。つれあいと妹の旦那を誘って谷町筋にあるラーメン屋・封で昼食。夜勤明けの寝不足でその後、チビのベッドに上がり込んで夕方まで昼寝をしてしまった。夕方、脳外科のY先生が来診。明日あたり背中のガーゼを換えて、様子次第ではすこし抜糸をしようか、と。続けてリハビリのM先生も来診。今回の手術でよくなった部分があるとしたら退院後に出てくるだろうとのこと。2週間も寝ていると足の、とくにお尻の筋肉が衰えるので抜糸後の歩行のために足を背後に上げる訓練をしておくように、と。6時過ぎに病院を出る。帰りは険しい山越えの308号線。急峻なところはギアを1stでやっと登るくらい。夜の暗掛峠は有名な心霊スポットだそうだが、大阪側はやはり雰囲気があるね。道の溜めこんだ雰囲気のようなものが。峠を登りつめたあたりでバイクを止め、眺めた生駒の夜景と頭上の星空はなかなかナイスだった。暗い山道を越える中世の旅人のような錯覚を覚えた。平群から矢田丘陵を迂回して、法隆寺の裏庭を抜けて7時40分に帰り着いた。夜気はまだまだ冷える。

2005.3.16

 

*

 

 妹夫婦は昨日、福島へ帰っていった。妹から届いたメールによると、チビはその前の晩も深夜にビデオ鑑賞をしたようで眠そうだったそうだ。看護婦さんも忙しいので子守歌代わりにビデオをつけていくのだが、チビの場合は逆に見入ってしまうのだ。本人曰く「昼間は忙しいから夜しかビデオを見られない」と宣ったとか。背中の傷がときどき痛痒いらしい。

 昨日は手術後のMR検査や背中のガーゼ交換(一部抜糸も?)や整形のH先生の検診やら、いろいろ重なって予定が入っていたのだがどうなったものやら。夕べは深夜の2時近くに家に帰ったらつれあいがトイレに起きてきたのだが、はやく寝るよう言ったのでろくに話もしていない。彼女は相変わらず朝いちばんの電車で病院へ向かい、チビを寝かしつけてから暗い田圃道を自転車で帰ってくる。もう体調も落ち着いてきたのだから付き添い時間をもうすこし短くしたらどうかと言うのだが、ずっとついていてやりたいのだという。

 私は今日も夜から25時間勤務で、明日の夜中に帰ったら翌日は朝8時から深夜4時頃まで。日曜で映画館の終了時間が延びるため。

 今日は昼前からつれあいに代わり、幼稚園での来年度の説明会を聞きにいく。終了後、チビのいないクラスでささやかなお別れ会。母親というものはこういう場面で泣いてしまうのだな。駅前で買い物をして、図書館でチビのリクエストだという絵本を何冊か借りる。午後から少し仮眠をして、夕方から花粉症の薬をもらいに行った耳鼻科で2時間待たされる。待合室でネルーダの詩を読む。硬質で誇らかな遥かマチュ・ピチュの歌を。

2005.3.18

 

*

 

 昨夜、というか今朝は明け方の4時に帰って5時に就寝。布団にすべり込もうとした途端、つれあいの目覚ましが鳴って「おや、もうお目覚めですか」「あら、いまからご就寝ですか」。二人で苦笑した。

 昼前に起きて簡単な食事をとり、車で図書館へ。チビとつれあいの本、十数冊を返却し、ふたたびチビの絵本を適当にみつくろって10冊ほど。私も2冊、網野善彦「日本中世に何が起きたか 都市と宗教と「資本主義」」(日本エディタースクール出版部)、中沢新一・赤坂憲雄「網野善彦を継ぐ」(講談社)を借りた。そのまま阪和道をぬけて病院へ。3時頃に着いて早々、隣のベッドの白血病のRちゃんがひどい下痢をしたらしく、感染予防のために隣の病室に引っ越し。ひさしぶりにチビに会ったのに寝不足のせいか頭痛がして夕方までチビの横で居眠り。チビは体や腕や頬に湿疹ができて痒いらしい。うまくいけば明日あたり、抜糸をして俯せから解放か。

 今日は二人いるせいか、チビは10時頃にやっと就寝。他のベッドで泣いている子がいると「お母さん、見てきてあげて」とせっつく。つれあいを乗せた夜の阪和道はちょっとドライブ気分。11時過ぎに帰宅した。

2005.3.21

 

*

 

 生駒山を越える車の中で久しぶりにウィソツキー(Vladimir Vysotsky)のテープをかける。イルクーツクの小さなスタンドで買ったやつだ。いつからか、かれの歌声が腹にすっと入ってきた。ロシア語は解さないが、とくに好きな曲は女性のアルピニスト(登山家)を讃えた高揚感のある歌、それから戦場から帰ってこなかった友人を語った寂寥感あふれる一曲。野太い独特のだみ声は凍てつくような冬の冷気がふさわしい。その声は大地があらゆる理不尽なものに抗っている呻りのように聞こえる。社会主義下のロシアで「空気がうすい、空気がうすい」と叫び続けたかれの歌が、自由な資本主義とやらが一人勝ちしたいま、なぜこんなにも切実に響いてくるのだろうかと考えた。大阪の市内へ降りてからは鶴田浩二のベスト曲集。「傷だらけの人生」「日陰者」「道草」。RCやブルーハーツはこれらを受け継いでいる。わたしの中ではロックも演歌も区別はない。心に寄り添うかどうかだけだ。鶴田浩二を聞きながら、強制撤去で消えてしまった天王寺公園の青空カラオケ店のことを考えた。あすこで昔、鶴田浩二を歌って居合わせたおっちゃんやおばちゃんたちから熱烈な拍手をもらったのだった。

 

 深夜、風呂の中で李芳世(リ・パンセ)の詩集「こどもになったハンメ」をめくった。「パッモゴンナ(ごはん食べたかあ)」と題された、こんな素朴な一編はどうか。

 

パッモゴンナ
誰彼となくいう
ハルモニの口癖
学校にも行けず
字も知らず
ただこの一言に愛を込めた

子どもの頃
食べるものがなく
お腹を空かせて泣きじゃくった日々が
骨身に染み
辛くて悲しいことは二度と御免だと
会う人 会う人に食事を勧める
それが一番の喜びだと
それが一番お腹いっぱいになることだと

パッモゴンナ
貧しくともコビルなと
心のパッ(ごはん)をしっかり食べろと
あなたの声が今日も響く
ぼくの胸を打つ

李芳世(リ・パンセ)「こどもになったハンメ」(遊タイム出版 2001)

 

2005.3.22

 

*

  

 「............ 」

 「もしもし。 シノちゃん、抜糸が済んで、もう自由に動けるようになりました。でもまだちょっと座るのもできないような感じです、もうふらふらで。“這ってる”というような状態です。でも一応できましたので、今日はこれからプレイルームに行きます。じゃあ、失礼します」

 「バイバイ」

 16時22分、仮眠の間に留守電。

2005.3.22 18:50

 

*

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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