■日々是ゴム消し Log37 もどる

 

 

 

 

 

 

 Tさんは若いころ陸上自衛隊にいてその後、警備畑の仕事一貫でやってきた。現在73歳。競輪場ではいちばんの古株で一目置かれている。小柄だがきびきびとしていて、とても年齢を感じさせない。若いころから山好きで、全国のほとんどの山は登ったらしい。10年ほど前までは西宮の自宅から京都の競輪場まで90ccのバイクで一時間半をかけて毎日通勤していたそうだ。そのTさんと、ふとしたことから大峰山の修験道の話題で盛り上がり、おなじ競輪場仲間でTさんと時折「低山逍遙・宴会付き」を愉しむというやはり70代手前くらいのIさん・Yさんらと月末の休みに、京都の愛宕山へハイキングに行くことになった。空也上人ゆかりの月輪寺を巡る5時間ほどの健脚向きコースとのこと。弁当とお茶と雨具と、それにYさんいわくTさんの「燃料」も同伴で。「このごろマトモな山登りもしてないし、体力も落ちているから、途中でTさんにおぶってもらうかも知れませんよ」と言うとTさん、「70の年寄りに何を言うんじゃあ」と呵々大笑した。私は、この人たちが大好きだ。そういえば親父も生きていたらそんな年齢かも知れない。

 今日はわが二代目の愛車ジェベルが納車された。夜に仕事から帰ってきてさっそく小一時間ほど試し乗りをした。馬力は可愛らしいが、オフロードの体勢も案外と乗りやすい。足つきもまあ問題ない。目線が上になって、車を見下ろす感じ。盗難防止のために新しく専用のバイク・カバーと最新型のチェーン・ロックを購入した。明日の現場の京都の住宅展示場までさっそく乗っていく予定。

 チビは母子分離のプール、二日目。はじめ少しだけ泣いたが、そのあとはもう大丈夫だった。「シノちゃん、もう泣かないから」とコーチに宣言したらしい。「泣き虫のショータくんがいた」とあとで話してくれた。夜、私の机に来て「シノちゃん、もういっかい赤ちゃんになって産まれてきたい」と言う。「じゃあ、お母さんのお腹にもういっかい入ってみたらどうかな」と言うと、つれあいのいる隣の寝室に入っていって「お母さんのお腹に入れて」と言っている声が聞こえてくる。するとつれあいがしずかに答えている。「そうだね。もういっかいお腹に入れて、やり直しができたらいいのにね」 もちろん、病気のことを言っているのだ。

 夜更けにひとり、モリスンのゆったりとした秋の日のきらめきのような美しい小品を聴く。山の中腹にヒースの花々が咲いている。そこでは世界は立ち止まったまま。そんな歌だ。

2003.11.8

 

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 来春県内にオープン予定の巨大複合型ショッピング・センター(駐車台数3.500台) の施設警備の責任者にされてしまい、慌ただしい日々を送っている。毎週大阪の施工者事務所にて定例会議があり、昨日も昼間奈良競輪の仕事を終えてから大阪某所にあるおなじ規模のショッピング・センターに夜勤の研修へ行ってきた。べつに給料が上がるわけでも手当がつくわけでもない。逆に定例会議のためにふだんの仕事が潰れて安い給料がさらに下がってしまうくらいなのだが、乗りかかった船だから仕方がない。その分、休日を削って何とかしのいでいる。けれど身体はくたくただ。

 今日は昼に夜勤が明けて、そのまま大阪の病院へリハビリに来ていたチビたちと合流していっしょに帰ってきた。小一時間寝て、近くのヨーカドーで書類のファイルとつれあいの冬のパンツを買い、食事をして夜遅くに帰ってきた。

 天王寺の書店でインドの女性作家アルンダティ・ロイの 9.11テロ以後の世界に向けたエッセイ集「帝国を壊すために 戦争と正義をめぐるエッセイ」(本橋哲也訳・岩波新書)を買ってきた。帯に次のようなことばが添えられている。

 

 世界がこれ以上悪くなるのを防ぐために、彼女の声に耳を澄まそう。(池澤夏樹)

 その勇気あふれる洞察から見えてくるのは「あきらめて死んでいくことを拒否した」民衆たちの運動の「めざましい闘いぶり」だ。ふたたび届いた、一人の稀有な作家による、心に残る一冊の本。(ノーム・チョムスキー)

 

 とりあえず。

2003.11.11

 

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 昨夜、レンタル屋で借りてきた「パンチライン」という映画をつれあいと見た。トム・ハンクス演じる落ちこぼれの医学生はスタンダップ・コメディアン志望で、毎晩アルバイトで同じような芸人志望者たちが集うコメディ・クラブのステージに立つ。そこで平凡な保険勧誘員の夫を持つ主婦のサリー・フィールドと出会い、スタンダップ・コメディの手ほどきをしているうちに彼女に惹かれていく。恋心を伝えるが平凡で心優しい夫を愛しているのだと言われ、雨の中を哀しいパントマイムを演じて去っていく。家庭とコメディアンの夢のはざまで悩むサリー・フィールドに夫が言う「きみに才能があろうとなかろうと、この家の人間はみんなきみを愛しているんだよ」。最後のシーン。コメディ・クラプにテレビ局が入り、優勝者は有名なコメディ番組への出演を約束される。恋に破れたトム・ハンクスはあまりの毒気に満ちた語りで審査員の不評を買い、自然体のサリー・フィールドが優勝者として選出されるが、彼女はトム・ハンクスにそれを譲り「きみが優勝だよ」と楽屋にメモを届けた夫と二人で仕合わせそうに(結婚当初の愛情を取り戻し)愉しげに寄り添い帰っていく。ステージでは次点のトム・ハンクスが優勝者として表彰されながら、映画は終わる。

 コメディとは人を笑わせ、束の間の幸福に浸すことだ。だが真のコメディアンとは常に「滑稽と悲惨」と背中合わせだ。この映画はどちら側からも見れる。一見、平凡な家庭の笑いに戻っていったサリー・フィールドが主人公であるようにも見れるが、私はどうしてもトム・ハンクスの方に心が傾いてしまう。

 そんなことを考えながらコステロの Good Year For The Roses に心を溺れさせている。この咽に刺さった魚の小骨のような痛みは、心地よい。

2003.11.12

 

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 木曜は二週間ぶりの休日。豆パン屋アポロでお昼のパンを買って、車で橿原市にある橿原市昆虫館へ行った。明日香村との境のなだらかな丘陵地帯を利用した公園のベンチで昼食。昆虫館でチビは、ふくろうの顔のような模様の蝶を指し、コオロギの鳴き声に耳を澄まし、働き蜂の飛び交う巣箱をいつまでも観察したり、遠隔操作のカメラでカブトムシを映したり、広い温室を優雅に舞う蝶の群れを追いかけたり話しかけたり。結構たのしかったようだ。以前さわさんのBBSで“ふりちんさん”が紹介していたタイの昆虫料理の数々も皿に盛ったレプリカが展示してあったけれど、さすがにコオロギやタガメの唐揚げ、カブトムシの蒸し焼きなんかはちょっと私には無理そうだったね。

 昨日は朝から大阪・船場にある施工者本社ビルにて打ち合わせの定例会議。午後からは伊丹の某商業施設にて調べものがあり、資料をもって夜の7時に大阪の事業所本部に帰ってきたところ、急に夜勤の仕事が入り人手が足りないのでこれから行って欲しいとの由。ある人物の身辺警護で、万博公園に近い閑静な住宅街の家の前に車を停めて、そこでもう一人急遽尼崎から呼び出された同年代のOさんと二人で翌朝まで不審者を見張るという内容。エンジンを止めた車の中で防寒服を着込んで株で儲けた金で始めた漫画喫茶を半年で潰してしまったというOさんの失敗談などを聞きながら朝まで過ごし、幸い何事もなく8時半頃に本部に戻って、昼前に家に帰って昼食を食べてから夕方まで眠った。

2003.11.15

 

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 たとえば通勤電車のなかでつらつらと読んだ、こんなくだり。

 

 昨夜、バロダに住む友だちから電話がかかってきた。泣きながら。なにが起こったのか、わたしに説明するのに15分もかかった。用件は、たいして複雑なことではない。彼女の友人のひとり、サイーダが、暴徒につかまっただけのこと。奴らがサイーダの腹を裂いて、そこに燃えるぼろ布をつっこんだだけのこと。サイーダが死んだあと、暴徒のひとりが、「OM (オーム)」(ヒンドゥー教で儀式のさいに唱える神聖な音)と彼女の額にナイフで刻んだだけのこと。

 ヒンドゥー聖典のどこをさがせば、こういう教えが出てくるのか、聞かせてほしい。

 我らが首相、A.B.ヴァシジパイー氏によれば、この事件は、ムスリムの「テロリストたち」がゴードラーでサバルマーティー急行列車を焼き打ちして58人を殺害したことに憤激したヒンドゥーの復讐行為だから、仕方がないとおっしゃる。こんなひどい死に方をしたひとりひとりが、だれかの兄弟、だれかのお母さん、だれかの子ども。あたりまえじゃないの、そんなこと。

 コーランのどの節を読めば、奴らを生きたまま蒸し焼きにしろ、と書いてあるの?

 

 いまわたしたちがすすっている毒杯-----宗教的ファシズムに侵された、傷だらけの民主主義。混じりっけなしの砒素。

 どうしたらいい? なにができるだろう、わたしたちに?

「帝国を壊すために 戦争と正義をめぐるエッセイ」(アルンダティ・ロイ・岩波新書)

 

 これは遠いインドでの凄惨な宗教対立の話。だが、このささくれだった陰鬱な空気は私たちに馴染みのないものではない。新聞をちょっとめくれば(遠慮がちで鈍感で差別的な官製メディアの記事にさえ)、そんな空気はそれこそたっぷり詰まっている。連日のように。反吐が出るくらいに。遠いどこかの国でも、私たちのこの国でも。

 夜。チビと二人でテレビの前に寝ころんで草原に棲むプレーリードックたちの興味深い生態を映した番組を見た。こんな野性の動物たちの生き様を見ると、なぜか心がほっとする。

 そういえば先日行った橿原市昆虫館の展示に、みずから音を発することができずに、水や葉に伝えた振動でコミュニケーションを取り合う昆虫たちの話があった。人間もそんなふうであったら、もっと穏やかで優雅で、争いごとも減ったのではないか、と一瞬空想してしまった。

 

 ところでアルンダティ・ロイのエッセイには、こんな一節もあった。

 

 では、残りのわたしたちはどうだろう、メディァによる馬鹿げた宣伝と知りながら、それでもその攻撃を麻痺したように受け続けているわたしたちは? 日ごとに嘘と暴虐を消費するわたしたち、あの黄色い食料袋(*空爆中のアフガニスタンにアメリカが投下した救援物資のこと)と同じように、自らの心に投下される、ピーナッツバターとイチゴジャムにまみれた嘘と暴虐の消費者であるわたしたち。あの黄色い食料袋を食べているのとまったく同じことではないの? 目をそらして食べるのですか、おなかがすいているから? それとも、アフガニスタンという悲惨な劇場で起きていることを、瞬きもせず見つめ続け、そして、ついに吐き気を催して、ほかの人と一緒になって、ひとつの声でこう言えますか、もうたくさんだ、と?

 新しい世紀の最初の年が駆け足で終わろうとしている、そんなとき、人は思わないだろうか-----わたしたちは自分の夢見る権利をどこへやってしまったのか、と? いつかまたわたしたちに、美しいものに思いを馳せる日が、訪れるのだろうか? 太陽の光のなかで、新しく生まれたばかりのヤモリが、ゆっくりと驚いたように目を開けるのを見たり、たった今あなたの耳に何かをささやいたばかりのマーモットにささやき返す------そんなことのできる日が、いったいまた、来てくれるのだろうか-----世界貿易センターやアフガニスタンのことが、頭をかすめることなしに? 

 

 仕事から帰るとばたばたと玄関に走ってきたチビがおかえりも言わず喋り出した。きょうね、シノちゃんね、びょういんからかえってくるときにハッパといっしょだったのお父さん知ってた?

2003.11.17

 

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 チビにあたらしい障害手帳が認可・交付された。これまで「左下肢機能障害」が4級、「右足関節機能障害」が6級で、「身体障害者等級」が3級であったのが、法改正によって「ぼうこう直腸機能障害」の3級が加わり、「身体障害者等級」が2級となった。要するに手帳の総合ランクが3級から2級へランク・アップしたわけだが、この「3級から2級」というのは内容的にだいぶ異なる。目につくものを挙げれると、たとえば医療費の全額無料、駐車禁止除外指定車標章の交付、所得税や住民税の控除額が上がり、自動車税が減免され、鉄道運賃は付き添い一名を含めて半額、バス・タクシー・飛行機の料金は割引があり、有料道路の通行料も半額。税金関係も有り難いけれど、特に日々の生活のなかでは医療費の全額無料と、それに通院時の交通費が鉄道・高速道路共に半額になるというのは何より助かる。毎週のように、ときには週に二へんも三べんも大阪の病院へ通わなくてはならないのでその交通費もバカにならない。

 ところで今回の法改正によって手帳の等級が変わり、より幅広いサービスが受けられるようになるかも知れないということを知ったのは、おなじ市の養護施設に通っていてチビとおなじ病気を持ち「日本二分脊椎協会」なる有料の団体に入会しているKちゃんのお母さんからの情報であった。こういう特殊な情報は新聞に詳しい内容が報道されるわけでもないし、そのような特別なツテがないとなかなか一般市民には分かりようがない。本来なら個別のデータベースを持ち合わせている各自治体なりの行政の側が報せてくれてもいいと思うし、そもそもそれがかれらの仕事ではないかとも思うのだがどうだろう? ちなみにKちゃんのお母さんから教えられて必要書類を揃えて持っていったつれあいに対し、役所の福祉課の窓口で応対した若い男性はそんな話はトンと存ぜぬふうで「申請されても通るかどうか分かりませんよ」と渋々受け取ったそうだ。つれあいは(申請が)通るのは分かっていることだから、相手にせずにトットと出してきたそうだけれど。

 まあしかしサービスが更によくなったとはいえ、チビのあどけない写真が添付された「身体障害手帳」なるものは、やっぱり見るたびに嫌なものだ。複雑な気分になる。税金も医療費も高速代も電車賃も人並みに払っていいから、こんなものなくなっちまえばいいのに、と思う。

 

 今日は夕刻、競輪場での仕事中にふと思いついて家に電話をかけて「ねえ、夕飯はどこかでラーメン食べに行かない?」と誘ったところ、つれあいはパスタが食べたいと仰る。それで雑誌で見た奈良市の旧国道沿いにあるはじめてのイタリアン・レストランに車で食べに行った。チビは途中のトイザラスで、お弁当に持っていくミッフィーちゃんのお箸(いままでフォークとスプーンしかなかった)と、30ピースのアンパンマンのパズルを買ってもらった。

2003.11.19

 

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 いまから18年前の夏。ぼくは陽炎のような京都の町を、鴨川の河川敷や化野の墓石の間や竜安寺の石庭などをボロ切れのように歩きまわって過ごした。学生寮に間借りした通信制の大学で昼間は仏教の講義なんぞを聴きながら。関東の家に帰って数日後には親父が事故で頓死する、そんないまから思えば不思議なあわいのような予兆に満ちた、奇妙に間延びした、それでいてひりひりと心のどこかが灼けついているような寸断した時間の中にいた。そのひと夏の間ずっと、ぼくの心の奥底で鳴り響いていたサウンドは、ディランが Self Portrait というトラディショナル曲ばかりを集めたアルバムの中で歌っている Let It Be Me という曲だった。ディランがまるで後期のプレスリーのように「だから、ぼくをひとりにしないでおくれ」と歌うその瞬間、その甘美な刹那的な一瞬が好きだった。「この世界は通りすぎるもの」という何かのインタビューで読んだディランの言葉が沁みていた。「そしてここは勇気が試される最後の通り」 目に映る風景は何もかもまるで薄衣のようだった。此岸と彼岸が透けていた。だからこそ切なく、愛おしかった。あれは特別な季節だった。あれからたくさんの人たちが死んだ。ぼくが知っている人も、見知らぬ無数の人たちも。それでぼくはまだこちら側にいつづけている。あのとき抗っていたものを、いまも抗いつづけている。世界がどうなろうと知っちゃいないぜ。おれはおれ自身とおれの愛する者たちが大事なだけそれだけだ。あの世でもこの世でもハッピーでありつづけたいだけだ。

 

 爆弾がわたしたちの上に降りそそぎ、巡航ミサイルが空を滑走しているあいだに、契約書に署名がされ、特許が記載され、石油パイプラインが敷設され、自然資源が搾取され、水が私有化され、そしてジョージ・ブッシュが、イラク戦争を画策している。

 もしこのような闘争を、〈帝国〉とそれにあらがうわたしたちとの、面と向かった直接の衝突と考えるのなら、負けているのはわたしたちのように思えるかもしれない。

 でも、ちがう見方だってあるのではないかしら。わたしたち、ここに集まったわたしたちみんなが、それぞれ自分たちのやり方で、帝国を包囲しているのだ、と。

 たしかにまだわたしたちは、帝国の歩みを阻止できていないかもしれない----でも----それを裸にすることはできたでしょう? 帝国の仮面を剥がすことはできた。その素顔を晒させたのは、わたしたち。帝国は、いま、わたしたちの目の前、世界という舞台の上で、その残忍で醜い裸の姿のまま、立っている。

 帝国は戦争をするかもしれない、でも今、それはわたしたちの目の前に引きずりだされている-----自分自身の影を見つめることもできないほど醜悪な姿で。醜悪すぎて、自分の支配する人々を駆りたてることさえできない。アメリカ国民が、わたしたちの同盟者となる日も、遠くない。

 ワシントンでは、25万人がイラク戦争に反対して、行進した。月を経れば経るほど、抗議の声は高まりつつある。

 2001年9月11日以前のアメリカは、歴史に秘密を隠していた。とくに、アメリカ国民には知られたくない秘密を。でも今、アメリカの秘密自体が歴史にすぎなくなってしまった、そして歴史が人々の知識になった。街頭で人々が語りあう事実に。

 今日、イラクに対する戦争を押し進めるために使われている議論のすべてが、嘘であることを知らない者はいない。そのなかでもっともアホらしいのが、アメリカ合州国政府が、イラク民主化に深くコミットしている、というもの。

 独裁者とかイデオロギー的腐敗から人民を救済するために彼らを殺す、これはもちろん、合州国政府お得意のスポーツです。ここラテン・アメリカでは、みなさんよくご存じのとおり。

 サダム・フセインが無慈悲な独裁者で、殺人者であることを疑う者はいない。(その最悪の悪行を支援したのは、アメリカ合州国とイギリスの政府ですけど。)イラク人民にとって、フセインがいないほうがいいことは目に見えている。

 でも、それなら、全世界にとって、ブッシュさんとかいう御仁も、いないほうがいいでしょう? 事実、この御方のほうが、サダム・フセインなんかより、もっとずっと危険なのですから。

 ということは、わたしたちも、ホワイト・ハウスを爆撃してブッシュをたたき出しましょう、ってこと?

 ブッシュがイラク戦争を実行する決意を固めていることは、明々白々。事実なんて、この人にはどうでもいいのです-----世界の民衆の意思だって、どうでもいい。

 同盟者をリクルートするためなら、アメリカ合州国には、事実を発明する用意だってあるということらしい。

 武器査察官たちに対する見え透いた言い訳も、アメリカ合州国の攻撃手段のひとつで、国際間のエチケットを都合ょく歪曲して、蔑みながら譲歩するふりをしているに過ぎない。まるで、「ペット犬用のとびら」を開けたままにしておいて、そこからぎりぎりで「同盟国」とか、あるいは国連さえも入りこんでくるのを、待っているようなもの。

 でも、意図とか目的とか、いろいろ口先で言われてはいても、イラクに対する新たな戦争は、すでに始まってしまっているのだ。

 わたしたちに何ができるでしょう?

 記憶を研ぎ澄ますこと、自分たちの歴史から学ぶこと、それが、わたしたちにできること。大衆の意見を積み上げつづけて、それを耳をろうさんばかりの叫びとすること、それが、わたしたちにはできる。

 イラク戦争を、アメリカ合州国政府の行き過ぎを暴きだす、ガラス張りの金魚鉢にしてしまうこと。

 ジョージ・ブッシュと卜ニ−・ブレア-----そしてそれに同調する者たち-----の素顔を暴くこと、卑怯な赤ん坊殺し、水に毒を入れる奴、いくじなしの長距離爆撃野郎、という素顔を。

 わたしたちには、市民的不服従を、100万の異なる仕方で、再発明することが可能だ。言いかえれば、わたしたちには、彼らの尻を後ろから、集団でつつきまわして痛めつける、100万の方法がある、ということ。

 ジョージ・ブッシュが、「我々の側につくか、それともテロリストの味方をするか」と言うのなら、わたしたちは、「よけいなお世話」と言ってやる。世界の人々は、「悪逆ミッキーマウス」と「狂人ムッラー〔イスラムの尊師〕」の、どちらかを選ぶ必要なんかないことを教えてやろう。

 わたしたちの戦略、それはたんに〈帝国〉に立ち向かうだけでなく、それを包囲してしまうことだ。その酸素を奪うこと。恥をかかせること。馬鹿にしてやること。わたしたちの芸術、わたしたちの音楽、わたしたちの文学、わたしたちの頑固さ、わたしたちの喜び、わたしたちのすばらしさ、わたしたちのけっして諦めないしぶとさ、そして、自分自身の物語を語ることのできるわたしたちの能力でもって。わたしたちが信じるようにと洗脳されているものとは違う、わたしたち自身の物語。

 大企業による革命なんて、わたしたちがその製品を買うことを拒めば、おしまい。その発想も、それが捏造する歴史も、その戦争も、その武器も、それが信じ込ませょうとする必然性だって。

 覚えておこう------わたしたちは多く、彼らは少ない。わたしたちが彼らを必要としているよりも、彼らのほうがわたしたちを必要としているのだ、ということを。

アルンダティ・ロイ「帝国を壊すために」 “〈帝国〉に抗して”の結び

 

 深夜に、ニール・ヤングの Ragged Glory を聴きながら。

2003.11.20

 

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 雨の一日、事務所にこもって閉店作業計画素案なる文書の作成。夜、書棚の上の紙屑を整理していたらもう十数年もむかしに祖母の死について記した、かすれたワープロ打ちの駄文が出てきた。

 

 

I'TS ALL IN THE GAME  〜 You Know What They're Writing About

 

 

 はじめてインドへきてから10日目の夜。デリー駅の待合室の堅いベンチの上で寝袋にくるまりながら、夢を見た。死んだ父親といっしょに酒を飲んでいる夢だった。それから日を追うごとに、夢はどんどん遡っていった。カルカッタへ向かう寝台車で見た夢の中では、まだ若い母親が、赤ん坊のじぶんを覗き込むようにして私の名前を呼んでいた。

 不思議な国だ、と私は思った。

 夢が、現実よりほんとうであるような気がした。

 

 

 年の暮れが迫っていた。彼女はそこによこたわっていた。両頬がげっそりとそがれ、ちいさな骨格のなかで二つの眼が暗く深く落ちこんでいた。夕べ来た医者がもう一週間ともたないだろう、と言ったという。

 意識は、まだかすかにあった。

 妹が枕元にしゃがみこみ「○○ちゃんだよ。わかる? 」と言うと、かすかに口をうごかし、それから私の顔を不思議そうにじっと見つめた。しずかな、澄んだ眼だった。ちいさな二対の真珠のようだ、と私は思った。

 その眼が何を言おうとしているのか、私は読みとろうとした。だがほんとうは、私でない、べつの誰かの顔を見ていたのかもしれない。

 しばらくすると、布団の下でもぞもぞと手をうごかした。床ずれのところがなかなか直らなくて痒いのだ、と妹が言った。さすってあげなよと妹に言われ、布団のなかに手を入れた。ごつごつとした、それでいて脆いような感触だった。「どう、気持ちいい? 」と妹が訊いていた。彼女は、私にからだをさすられながら、黙ってどこかあらぬところを見つめている。

 

 

 冷たい風が天から吹き降りていた。彼女はそこによこたわっていた。たった一日の間に、さらにちいさくなったように見えた。そして、確実に衰弱していた。

 きのうの夜、東京のアパートにもどったものの、ざわざわと胸が鳴っているようで落ち着かず、朝になってから仕事先へ電話を入れ、午前中の電車でひきかえしてきた。なぜか、明日もういちど行かなければならない、という気がした。

 声をかけても、もう何の反応もなかった。眼がぼんやりと膜を張ったように濁っていた。かすかな、弱々しい呼吸だけが続いている。ときどき、それがふっと止まってしまう、と怯えたような顔で妹が私に言う。

 その日の夕方、彼女は息をひきとった。だれも見ていないときに、ひとりでしずかに逝った。隣の部屋にいた彼女の三人の娘たちが、枕元でそれぞれの涙を流した。長男である私の父親が死んでから、彼女は娘といっしょに暮らしたいと言っていたが、それは遂に叶えられなかった。

 私は、彼女の死に顔を見ながら、〈完璧だ〉と思った。ひとは死んではじめて完全なものになるのだ、と思った。そこには何の迷いも、妬みも、苦しみも、愛憎もなかった。すべてがきれいに脱ぎ去られていた。なるほど、仏になるとはこういうことなのか、と思った。

 

 

 どこかで水の流れる音がしていた。彼女はそこによこたわっていた。いく人かの人間が彼女の枕元に集まっていたが、もう誰にも彼女の姿は見えなかった。何かとても懐かしい気持ちがした。とても遠い風景のように感じられる。

 じぶんは夢を見ているのだろうか、と思う。じぶんはずっと夢を見ていたのだろうか。じぶんはどこからきて、これからどこへいくのか。おそらく、ずっと漂っていく。漂っていくことが許されている。私は彼女を見た。

 やがて、強烈な意識がもどってくると、庭のそとがほのかにあかるくなったような気がした。

 

 

 モリスンが10分もの長大な、場末のカフェの濡れたウインドウに貼りついた妙にぎらぎらした般若心経の文字の一文字一文字のような Take Me Back を歌っているのを聴いている。

 おれはスタンダップ・コメディのように軽やかにこの世界を疾走してやるんだ。きっとそうしてみせる。

2003.11.24

 

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 かもめさんが自身のHPでこんな言葉を引用していた。

 

きょうから ぼくは学校を やめます

みんなとは きょうから あかのたにんです

にらむなら かってに にらんでください

でも きょうから ぼくはふつうの人です

『子どもたちが語る登校拒否』(世繊書房 1993年)

 

 朝日新聞の11月22日付社説「元を断つことを考えよ」

 

 ブッシュ大統領も今回の事件直後に「テロとの戦いを勝ち抜く決意を米英は共有する」と力を込めた。テロとの戦いに勝たなければならないのは、その通りだ。しかし、問題は勝つための方法である。

 テロにたじろいではならないが、テロとの長い戦いに勝つにはテロリストを抑え込むだけでは足りない。政治、経済、社会のあらゆる領域でテロの根を枯らせる賢い戦略、戦術が要る。

 

 この一見尤もらしく見えながらひどい根腐れをしている倒錯した「良識」の哀れさよ。テロは確かにひどい行為だが(そんなことは当たり前だ)、メディアがブッシュのおっさん垂れる常套文句「テロとの戦い」に見事乗っかってどうすんのよ。「テロとの戦い」ってそんなもの、ホントにあるんか。「貧者の怨念」を糾弾するのなら、世界最大の軍事力と経済力でもって世界中に無数の殺戮の火種を巻き散らかしてきたアメリカ政府のもっと残虐な行為をおなじように糾弾せいよ。米軍のヘリコプターが堕ちて数人の米兵が死んだくらいでいちいち新聞の一面トップに賑々しく載せるんじゃないよ。イラクやアフガンやパレスチナじゃ毎日もっと多くの罪のない女や子どもたちが死んできたしこれからも死んでいくんだぜ。公平な真実を伝えるメディァというものが如何に少ないか。アルンダティ・ロイ氏の等身大で誠実でニンゲン的な文章を読んでいると、その絶望的なギャップがいまさらながら露わになる。腐った「良識」の仮面をかぶっていまだ紳士面してやがるアホ面どもよ。お前らの罪はある意味で爆弾を抱えてバス停に並ぶ罪なき人々の列に突っ込むテロリストよりも罪深く卑怯なことを知るべきだ。自爆テロの方が余程勇気が要る。あんたらに果たしてあれだけの度胸があるのかい。どうせくたくたの一物くらいだろうよ。ならばそのくたくたの一物からなぜ書かないのか。毒にしかならない醜いしたり顔はもうやめてくれ。頭の悪い街宣活動の右翼の方がよっぽどマシだ。

 

 レノンが“頼むからおれにほんの少しの真実をくれ”と叫んでいたときに何も応えなかったような連中がこんどはかれの死を嘆き悲しんでいる、とかつてディランが言っていた。戦争やクリスマスのたびに流れるイマジンやハッピークリスマスなんて糞の役にも立たないぜ。

 

 企業が主導するグローバリゼーションが猛威を振るった過去10年間で、世界の収入総額は毎年2.5パーセント上昇してきた。しかし同時に、世界の貧しい人口も一億人増加した。世界でもっとも経済規模の大きな100団体のうち、51が企業体で、国ではない。世界でいちばん豊かな1パーセントの総収入が、最貧の57パーセントを合わせたのと同じだけの収入があり、その差は広がりつつある。いまや、「テロに対する戦争」という円蓋の下で、このプロセスが加速している。スーツを着た男たちは見苦しいくらい急いでいる。爆弾が降り注ぎ、巡航ミサイルが空を滑るなか、核兵器が貯蔵されて世界をますます平和にしてくれているあいだ、契約書が交わされ、特許が登録され、石油パイプラインが敷設され、自然資源が収奪され、水が私有化され、民主主義が足元を掘り崩されているのだ。

 インドのような国では、企業主導のグローバリゼーションによる「構造調整」計画が、人々の生活をめちゃめちゃにしている。「開発」プロジェクト、大規模な私有化、それに労働「改革」が、民衆から土地と仕事を奪い、歴史上ほとんど類のない野蛮な纂奪状態を引き起こしている。世界中で、「自由市場」が西側世界の市場だけを臆面もなく守り、開発途上国に貿易障壁を取り除くよう強制しているなかで、貧しい者はますます貧しくなり、富める者はますます富をふやしているのだ。地球村では、市民による騒乱が爆発しつつある。アルゼンチン、ブラジル、メキシコ、ポリビア、インドといった国々で、企業グローバリゼーションに対する抵抗運動が育っている。それを押さえるために、各国の政府は支配を強めようとする。抗議をする者たちが「テロリスト」と名付けられて、それ相応の扱いを受ける。しかし市民の騒乱は、グローバリゼーションに反対する行進やデモ、抗議行動だけを意味するのではない。不幸なことに、それはまた過去の歴史が教えるように(そしてわたしたち自身が現在目撃しているように)、犯罪や社会的混乱、あらゆる種類の絶望や幻滅へとおちこむ危険な連鎖をも意味しており、それがしだいに、文化的ナショナリズム、宗教的偏狭さ、ファシズム、そしてもちろんテロリズムといった恐るべき事態を醸成する肥沃な土壌となっているのである。

 こうしたことのすべてが、企業主導のグローバリゼーションと歩みをともにして進行している。

 自由市場が国家の境界をこわし、企業グローバリゼーションの行き着く終着地は、ヒッピーの天国なんだ、そこでは、心だけが唯一必要なパスポートで、ジョン・レノンの歌(「国のない世界をイマジンしようよ」)みたいに、みんなが一緒にハッピーに生きていける、といった概念が信用を得つつある。でもそんなのデマだよ。

アルンダティ・ロイ「帝国を壊すために」

 

 もういちど、冒頭の登校拒否児童の言葉にもどろう。

 

きょうから ぼくは学校を やめます

みんなとは きょうから あかのたにんです

にらむなら かってに にらんでください

でも きょうから ぼくはふつうの人です

 

2003.11.25

 

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 水曜の夜は競輪場の同僚でもある同年代のOさんと研修の夜勤。非常階段下の仮眠所は明け方にけっこう冷え込んだか、寝袋を持参したのだが風邪をひいたらしい。夜勤明けにOさんも付き合ってくれて日本橋の電気屋街へ寄り、予めネットで調べておいた店でデジタルビデオカメラ・キャノンのFV40 KIT を購入(在庫が無くて、大阪で定例会の入っている土曜に受け取り)。これはチビの七五三祝いの金で。念のため周辺の店も幾つか覗いてみたが、やはり1万5千円近く安い。昼は四国出身のOさんの希望で生醤油温うどん。りくろーおじさんのいちごとバナナのまるまるケーキ600円を家への手土産に買って帰った。

 掲示板でオバンドー氏が Rolling Stone 誌の選出した“最も偉大なアルバムBEST500”を紹介していたので、私も戯れに自らの重要洋楽アルバム10枚を選んでみた。こんな感じかな。どうだろ。順不同。

 

・18 Essential Songs, Janis Joplin

・Spirltual Unity, Albert Ayler

・No Guru, No Method, No Teacher, Van Morrison

・John Lennon, John Lennon

・Music From Big Pink, The Band

・The Complete Recording, Robert Johnson

・The Otis Redding Story, Otis Redding

・Bob Dylan, Bob Dylan

・Live Rust, Neil Young & Crazy Horse

・The Beatles 1962-1966/1967-1970, The Beatles 

2003.11.28

 

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 昨日は昼から県内の現地で内装工事施工の説明会があり、その後事務所のF氏と周辺の道路状況などを会社のデジカメで撮って歩き、マックで簡単なうち合わせ。先日電話でチビに「いま忙しいから後でね」とそっけなくあしらわれたF氏が、チビにディズニーのカレンダーを買ってくれた。夕方、小雨のなかをジェベルで帰ってきてから、前の夜勤から引きずっている風邪がどうも治りきらないので近所の病院へ行って点滴を打って貰った。小一時間ベッドに横たわりながら、何となくチビの手術の頃のことを思い出していた。よく点滴を打ってたなあ、あんな小さな腕に。最後にはじぶんで引き抜いちまったなあ、なぞと。

 今日は朝9時から昼の1時まで大阪にて定例会議。しかしなんだね。ああした背広組の仕事ははた目には楽そうに見えるけど、要らぬ気を使ってどっと疲れが出る。私は一日路上に立っている方がずっとマシだな。午後からは本部で図面と睨めっこして閉店作業で使うポップ・スタンドの落とし込み。夕方までに何とか終えて、雨のなか日本橋で注文していたデジタルビデオカメラを受け取り、帰って夕食を済ませてからさっきまで説明書を見ながらあれこれといじくっていた。PCへの静止画像の取り込みも案外とカンタンで、画質はプリントアウトするには粗いがWebで使う分にはわりと充分で、チャチなデジタルカメラとしても使えそうだ。

 帰りの電車のなかで読んだシュタイナー学校のユニークな「点数のない」通信簿についてのくだり。

 

 全体的な教育状況を見たばあい、西ドイツでは日本ほど苛烈な受験戦争やつめこみ授業がおこなわれているわけではないのだが、点数制というものが存在すると、どうしてもこれにとらわれて、その点数がいろいろな尺度につかわれてしまうのだ。1という成蹟評価をできるだけ多く学科にそろえてみたい、などという考えを子どもがおこすと、どういうことになるだろう。テストの解答のなかに、どんな小さなまちがいをしてもいけないのだ。こまかいことをうっかり見おとしてもだめ、思考過程が正しくても計算でちょっとミスをしたらだめ。

 シュタイナー学校の教育は、そういう短絡的な習性を、第二・七年期(*シュタイナーの考え方による8歳から7年間の年齢の子ども) の子どもにぅえつけてしまうことの害をきびしく警告している。もともとこの年齢の子どもにとっては、すでにのべたように情操をめざめさせ、芸術を体験させることが中心の課題であって、抽象的な知識や観念を教えこむことには慎重でなければならないのだ。いわんや、その知識を子どもに試験してためす、などということは、子どものあるべき本性をあまりにも無視することになる。この年齢の子どもにあっては、教師とか、教えられたことというのは、絶対の権威をもってしまうので、この時期につめこまれた教科書的知識は、一生をつぅじて不変に通用するかのような固定概念になりがちだ。

 私たちの生活のなかで、教科書の知識はまさに教科書の知識でしかない。それはじつはさまざまの弾力性をもち、個々のばあいに応用変化しうるものだし、またそうしなければならないものである。このことを、子どもが成長とともにつかみとっていけるようにするには、第二・七年期での知識の教育を、芸術体験としておこなぅべきであって、抽象的に分離しておこなってはならないのである。

 これを逆におこなうと、私たちはその子どもの将来の人生をいわば内的に荒れた、乾いたものにしてしまう。そういう精神状態はニヒリズムにつながりやすいし、そのような人間がふえることは社会の病根ともなることである。また第二・七年期の子どもが、知識の授業ばかりを受けていて、この世界のことはすべて完全に知りつくし、理解しうるものなのだと思いこんでしまったら、その子はやがて、自分はなんでもわかる、この世にふしぎなもの、わからないものなどなにもない、という思いあがりをもつことになる。人間性のもっともとうといもののひとつ、それこそがより高い認識にいたる出発点になるものは、「ふしぎさにおどろく」という能力であるはずなのに。自分の知らないことに畏敬の念をもつことのできる人間にしなければいけない。なにもかも知識として教えこんでしまおうとする教育は、子どもをむしろ無能にする。つまりそういう子どもが成長したばあい、自分の知らないことは軽蔑してかえりみなくなるからである。

「自分がわかることしか頭の中にもっていない人間は、なんとちっぽけな人間だろう」

と、シュタイナーはいうのである。

「ミュンヘンの小学生 娘が学んだシュタイナー学校」(子安美知子・中公新書)

 

 「内的に荒れた、乾いた」子どもたちとは、まさにいまこの国の子どもたちのことではないか。シュタイナーの教育論についてはもっとたくさん書きたいことがあるのだが、個人的にはとても多くの魅力的なものを感じている。近くにシュタイナー学校があったなら、迷わずチビを入れたいくらいだ。そのチビは今日は昼間、カッパ座という子供向け劇団の劇を公民館へ見に行ったのだが、冒頭、照明を落とした舞台に着ぐるみのパンダが出てきたところで泣き出して怯えてしまい、結局劇は見ずに帰ってきたそうだ。

2003.11.29

 

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 奈良競輪。詰め所で73歳になるTさんと、人はときに日常を凌駕した山の崇高な風景に浸ることが必要だ、という点で大いに意見が一致した。「なあ、そんな景色の中にいたらもう最高だよ。他に何もいらない」 そんな人とは、酒を呑み交わしたくなる。

 ヴァン・モリスンの水晶のような音楽を今宵も聴いている。日々の諸々の塵芥で肉体も頭脳も疲弊しきってはいるが、落ち葉になかば埋もれた光輝く木の実のように魂はむずむずとあくがれ出ずるのだ、ひりひりと痛み、ひるがえり、出奔するのだ、この世のいずこでもない場所へ向かって、おずおずと、森の中で迷った子どもが不安と驚きの中で歩み始めるように。堆積した落ち葉はやがて菌類たちが土くれへと解体してくれる。地に落ちた木の実はいつかあたらしい新芽を成らすのだ。

 この黄金の季節にサニー・ボーイ・ウィリアムスンがブルース・ハープを吹いている。ジーン・チャンドラーが歌っている----“おれの魂には虹がかかっている” 紛れもなく、ぼくらにはそれが聞こえている。

2003.12.1

 

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 チビは泌尿器科にて膀胱の検査。膀胱内に溜まった尿が50ccを超えても括約筋が開かず膀胱は不自然な形に膨らみ始める。それはやがて膀胱の変形へとつながっていく。毎朝、つれあいがオシッコを摂るときには80ccほど溜まっているそうだ。そのために一度 M先生の勤めている枚方の病院(現在の大手前整枝学園ではその設備がないため)で近々膀胱圧の検査が必要なのと、尿の逆流による影響がないか念のために腎臓の検査をした方がよいとのこと。膀胱圧に関しては薬を呑むことになるかも知れない、と。それともうひとつ、現在の指による掻き出しでは溜まった便がなかなかきれいに出せないので、今後浣腸を併用した形に移行するとのことでその検査とトレーニングのため、これもやはり枚方の病院にて年明けに一週間ほど母親も付き添って入院することになった。

 病院で合流した和歌山の義父母が(膀胱検査の時にベッドに押さえつけるのに人手がいるので)、そのまま今日は車に同乗して、明後日のリハビリまで滞在してくれることになった。夜は布団を敷いたリビングにみなで車座になってあれこれと尽きぬ話をし、チビはうかれて12時半近くまで起きていた。そのときにいちばん受けたチビの話題。もう半月くらい前になるか、通っている“幼稚園”では行くと決まって集中力を養うためかまずパズルをやらされるのだが、ある日チビは周りが気になってなかなか完成できなかったのでとうとう部屋の片隅に目隠しの仕切り板で囲んだ中に閉じこめられてしまった。つれあいはマジック・ミラーのこちらから中でどんな様子だろう・泣いてやしないだろうかとはらはらしていたそうだ。結局お弁当の前になってやっと解放されたのだが、家に帰ってからつれあいがそれとなく「今日は小さなお家に入ってたねえ」と話を向けると、チビは応えて曰く「シノちゃんね、上を向いてたら寝ちゃってさあ。お家が顔にバアンて来たのよ」

2003.12.2

 

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 水曜は午後から県内で打ち合わせだったので午前中、市役所へ行って来た。チビの障害者手帳に関する手続きだが、これまで高速道路での割引サービスを受ける際に料金所で手帳の提示と併せて住所氏名などを記入したチケットのようなものを出して一枚づつ切り取ってもらわなくてはならなかったのが、今度から手帳の提示だけで済むようになったのである。これは煩雑な作業が簡易化されて大変によい。手続きを終えてから、さて、かねてより疑問に思っていた件を応対してくれた中年の男性職員氏に質問してみた。例の法改正によって二分脊椎の膀胱直腸障害がこれまでの4級から3級の認定に変わり、わが家の場合はそれによって手帳の総合等級がそれまでの3級から2級に上がり、すでに書いたように医療費全額無料・電車運賃や高速道料金半額の割引等々のサービスが受けられるようになった。その法改正によって手帳の等級が変わるということを、わが家の場合は「たまたま」おなじ病気の子どもを持ち「日本二分脊椎協会」に入会している知り合いのお母さんから知らされて申請の手続きを取ったわけだが、では一般の人はどうやってそれらの情報を知ったらいいのか、行政側ではそのような告知/広報をしているのか、というのが私の訊きたかったことである。職員氏の話によると、まず手帳の認定をするのは県である。私たちが揃えた医師の診断書などの関係書類はすべて市の窓口から県に廻され県によって判断が下される。今回のような法改正があった場合、県から市へ通達がある。かくかくしかじかの改正があったといった簡略で事務的な文書なわけだが、市の職員はそれを読んでも果たして市内にいる3千人ほどの障害を持つひとたちにどのような具体的な形でそれらが関わってくるのか分からないのだそうである。「ああ、そういう法改正があったのか」と思っただけで、それでおしまい。文書は仕舞われる。「分からなければもっと詳細な内容について県に問い合わせないのですか?」と私が訊くと職員氏いわく、まあそれはもともと県の仕事だし、内容を子細に理解しようとしたらそれこそ専門家を一人置かなくちゃならない、私たちもこの児童福祉課のあらゆる仕事をたった三人で切り盛りしている状態でそこまで手が回らないといのが実情です、ただ市民から問い合わせがあったら応対させて頂いています、と言う。知りようもないものに問い合わせのしようもないじゃないか、と私はごちる。「市の広報誌なりで告知はしないんですか?」と問うと、内容が多岐に渡って具体的にどのように変わるかというのが個々のケースで異なるので文言が難しい、と仰る。「では詳しい内容には触れずに“今回、障害者手帳の認定制度に関する法改正がありました”という簡略な内容だけでも、知らない者には“じゃ、うちに関係があるのかどうか訊いてみよう”というキッカケになるのでは?」と問えば、それをすると電話や窓口に問い合わせが殺到して通常の業務に支障をきたすほどになるし、また最後には必ず「うちの子の手帳はいったい何級に変わるのか」という話になるのでそうなったら認定するのはあくまで県であるから私たちには応えられないんです、と仰る。「じゃあ、“今回、障害者手帳の認定制度に関する法改正がありました。詳しい内容については県に問い合わせてください”という文言じゃどうですか?」と訊けば、それはどうも県に対して遠慮が働くらしい。どうも埒があきまへんな。いったいこの人たちは本当にやる気があるのかな。さらに職員氏の弁明を付け足すと、市を含めた行政の側に不足な部分があるのは仰るとおりなのだが、実情としては今回のような情報は病院での付き合いや患者の会のようなところから入手して欲しいというか、行政がそのへんに下駄を預けている部分もあって、ためにそうした交流会等の活動については平素からなるべく積極的に紹介・協力するようにしている、とのことであった。そんなこと言ったって、患者の会のような類はあくまで任意のものだし、地域によっては支部がないところもあるし(事実、二分脊椎協会には現在のところ奈良支部がない)、病院を通じての付き合いといったって同じ病気の人がいなかったり、性格的にそうした付き合いが苦手な人だっているだろう。そうした人たちは知らされなくても仕方ないというわけなのか。最後に私が「行政がデータを保有し、認定し、交付している障害者手帳の改正について、国も県も市もどこも市民に伝えない。市の職員という立場を抜きにしてぶっちゃけた話、あなたはヘンなことだと思いませんか」と訊くとかの職員氏、ちょっとばかり相好を崩し小声で「いや、私もおかしいと思います」 と、すぐに思い直したように「ただ私もここの窓口に立てば、じぶんの気持ちとは違うことも言わなくちゃならないんです」 わかってください、といったふうであった。なるほど日本的・お役所的だな。こうして日々のルーティン・ワークが進行していくわけだ。これ以上ここで粘っても何も収穫がないだろう。というわけで、できたらまた近いうちにこんどは県の窓口にてこの続編をやりに行きたいと思っている。

2003.12.5

 

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 寝室に入ると枕元のスタンドの灯りがつけっぱなしで疲れた顔をしたつれあいが絵本を片手に寝入ってしまっている。チビが図書館でみずから選んできた野尻湖のナウマン象の発掘についての本だ。布団のなかでまだ眠れずにいたチビが頭を起こし「おとうさん。シノちゃん、お水が呑みたいの」と言う。冷蔵庫から持ってきた冷たいコップの水をおいしそうに呑んでから何故となく、彼女がまだ母親のお腹にいたときに私が赤ん坊にはじめ「もも」という名前をつけようと思っていた話などをする。「ももちゃんでもよかった」と彼女は言う。「さあ、もう寝る時間だよ」と布団をかけなおし静かに目を閉じた小さな頭を撫でてやる。そうしながら、彼女が将来受けねばならない苦労や辛い経験のもろもろが頭に浮かんできて、ああこの子の体がよくなるものならば私はじぶんの片足くらい呉れてやるのに、と思う。

2003.12.6

 

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 ひさしぶりにまたザ・バンドの Jubilation を深夜に聴いている。ワンパターンだと思われるだろうが、本当の心根に触れる音楽というのは変わらないんだな。匂いなんだよ。この麦畑のような感触だ。この音楽はじぶんのすべてを知っている。おなじ思いを持っている。おなじ悲しみと、おなじ憧れと。明日の仕事のことなんか忘れて、いつまでも起きていて、酔っぱらって、ふらふらとどこかへさまよい出たくなる。これを歌っている男はもうこの世にはいない。とても不器用で、愉快で、ほんとうにいい奴だったんだ。素敵な人生を送った。こんな心に沁みるサウンドを遺していったのだから。ザ・バンドのメンバーになりたかった。このおれをどこかへ連れていってくれないか。この音楽がいまも鳴り響いているリアルな場所へ。

2003.12.6 深夜

 

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 昨日は午後からチビのプールがあって、さっそく買ったばかりのビデオカメラを持っていってたっぷり40分、わが子が嬉々として水に戯れる様を二階の観覧席から撮影した。いまでは水に顔もつけられるし、飛び込み台からひとりで飛び込むこともできる。望遠もかなり効くし、デジタルとあって画質もやはり良い。隣に座った、以前にプールでもいっしょになったよそのお母さんと子育ての話なぞをしながら。着替えの時に水着の中に粗相をしていて、慌てて処理をした。

 夜からは新人二人を連れて伊丹で研修夜勤。私よりひとつ年下のSさんは長年大阪の料理旅館で料理長をやっていたという人で、仕事の多忙が原因で最近離婚をしたという。4歳と7歳の子どもがいて、奥さんが引き取ったらしい。厳格な縦社会の出のせいか、私が煙草をくわえるとすかさずライターを点けてくれたりして「あまり気を使わないで呉れ」と断るのに苦慮する。もう一人の46歳で未婚のIさんは結婚式場で働いてきて、4年ほど精神病棟のある病院の夜勤警備の経験もあるという。動作がやけに緩慢で、事前警備の図面の説明をしている最中に「このへんに墓地がある」なぞとぽつりと呟いたりして、ちょっとオタクっぽくとらえどころのない変な人。二人とも新しく出来るショッピングセンターの近辺の住人で事務所のFさんが面接して防災センター要員の候補として採用したのだが、ダイジョブかね、おい。伊丹店の自称エロ・インターネッターのYさんに AUTO CAD の海賊ソフトを借りるが、マックには対応していないようなので事務所の PC に入れるしかないかな。

 昼前に勤務を終えて尼崎で二人と別れてそのままリハビリの入っているチビの病院へ向かうと、出がけに消したばかりのストーブでチビが火傷をして急遽皮膚科で診てもらうことになりリハビリは中止になったという。装具を付けていなかったので足元が不安定で、ストーブの横のじぶんの本棚近くで片づけをしている最中に足がもつれて転んだらしい。左手の手首部分が赤くなっていて、一部皮膚がちいさく破れている。消毒薬と軟膏薬を出して貰った。皮膚がふさがる一週間くらい、プールは中止。少々痕が残るらしい。つれあいが乗ってきたキャロルを運転して阪神高速から第二阪奈経由で帰ってくる。去年まで設置していたストーブ周りのガード柵をことしはもう大きくなって分かっているから大丈夫だろうとつけていなかったのだが、帰ってからさっそく再設置した。

 夜まで少々仮眠をして、夕食を済ませてからチビと車でジャスコへ私の焼酎を買いに行く。文房具売り場でチビは「明日のナージャ」のお絵かき帳を買ってもらう。たまたまつけたカーステ・FMラジオで流れていたベルリオーズの劇的交響曲ロメオとジュリエットを聴きながら、車の中で二人で指揮者の真似をして盛り上がった。

 夜、事務所のFさんから電話で今月のスケジュール通達。ことしは正月休みもなく働くことになりそうだ。今月も休みは二日くらい。まあ仕事があって、家族が何とか食えて、チビの笑いがあったらそれでいいさ。それでいい。ザ・バンドがジョン・ハイアットと共演している Bound By Love を聴いている。彼女が笑うさまといったら、まるで生まれたてのロックンロールのように跳ねるんだぜ。

2003.12.9

 

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 チビの主治医のご主人であるYさんより以下のメールが届いたのでここに紹介しておく。興味のある方は utsuboclub@cwo2.bai.ne.jp までお問い合わせを。うつぼ地球くらぶ http://utsuboclub.hp.infoseek.co.jp/

 

*お久しぶりです。
この前紹介したうつぼ地球くらぶが動き出します。

 

=うつぼ地球くらぶニュースNo2=
<12/23 集まってください!!>

*12/23(火)午後5時から”うつぼ地球くらぶ”のオープン会をしますので、ご参加をお願いします。

名称  うつぼ地球くらぶ オープン会

場所  大阪市西区靭本町 クリエイトビル 2階
     地図があります →
http://utsuboclub.hp.infoseek.co.jp/

内容  くらぶの紹介 音楽演奏(二胡 リコーダー) 会食
    費用  1人1000円
飲食  各自持ち込み

 

<準備状況報告> 

*11月に部屋を借り、荷物を入れて、12月から最低限使える状況になっています。

*ホームページでの案内を始め(上のアドレス)、メ−ルアドレスも新設しました。

*12/6に音響設備の設定を行い、ソファベッドも入りました。

お願い:使わない、要らないテレビのある方(13〜15型程度)、ビデオ、DVD、レ−ザ−ディスク用画面として使わせてください。連絡お願いします。     

++++++++++++++++++++++

*遠いので、23日は無理かもしれませんが、いろいろとやっていこうと持っていますので、参加、協力をお願いします。

*集まりに利用してもらうだけでなく、レコード、ビデオ等、良いものを保存・保管し安く利用しあうシステムを考えています。

レコード鑑賞会やら民俗音楽のミニコンサート・・・とイメージは膨らんでいます。

2003.12.10

 

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 午後から営業次長のOさんと二人、橿原の現地にて施工者との打ち合わせ。現地は交通の便が悪いのでOさんの帰りの足を配慮してキャロルで行く。2時間近く待たされた。次回、土曜日の大阪本社での打ち合わせまでに閉店作業計画を提出しなければならず、私の空いている金曜に大阪の本部でいっしょに手伝ってくれないかと言われ、とうとう今月は休みが一日になってしまった。チビが春日大社の若宮御祭の稚児さん行列に参加する日だけ。Oさんをキャロルで近くの近鉄の駅まで送る。往復の車の中でチャボの旧譜とブルースのオムニバス・テープを聴く。帰って施工会社のホームページをはじめて覗いてみたらディベロッパーとかいう言葉が飛び出してきた。ディベロッパーってそりゃいったいなんのことじゃ。おれは丘の上で野グソでもして、草はらの斜面でくたびれた騾馬のようにひとりフルートでも吹いている方がいいんよ。

 モリスンが Geogia On My Mind を歌っている。この空気は噎せ返るほど濃厚でリアルだ。少なくともこのおれにとっては、この地上に魂を繋ぎ止めてくれる手綱だ。

2003.12.10 深夜

 

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 昨日は大阪。昼も食わずに二時近くまで会議。次回の現地会議が来週の水曜と決まり、結局チビの若宮御祭は行けなくなった。帰りに天王寺の吉野屋で遅い昼食をひとり食べ、駅ビルの書店やレコード屋をしばし覗くもとりたてて欲しいものもなく、人いきれに頭痛までしてきて夕方に帰ってきた。帰りの電車の中で読んだエックハルトの一節が何やら病床のうわごとにようにも聞こえる。

 

 かれは飲むこととは別のことをやっているかも知れない、また別のことを思考しているかも知れない、しかしおよそかれがどんなことをなしどんな仲間と一緒にいようと、いかなる目論み、いかなる思考、いかなる仕事においてあろうとも、渇きがつづくかぎり飲むもののかたちはかれから消え去らない。そして渇きがいよいよ激しければ激しくあるほど、飲むもののかたちはいよいよ痛烈に切実になり、ありありと現前し、それがますます持続的になる。

M.エックハルト・教導説話

 

 画家の渡辺淳さんからメール。「今月20日頃迄に、樹立社から(ピンクの空を見てみたい)森岡みのり の絵手紙集が出ます、小学3年生の時から現在中学1年、其の間1日も休まず絵手紙が届きました。今日もきています。本屋で見て下さい。」

 今日はつれあいとチビは若宮御祭でつれあいが着る着物を取りに車で実家へ泊まりに行った。夜、チビが電話に出て「おじいちゃん、いる。おばあちゃん、いる」と嬉しそうな声を弾ませていた。明日の午後、義父母を乗せて帰ってくる。私は明日から数日、事前警備の新人指導で早朝7時から夜10時までの勤務。

2003.12.14

 

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 17日、若宮御祭のお渡り式は無事了。私は橿原での会議が昼過ぎまで続いてやはり見ることはできなかったけれど。つれあいに言わせると「日本の人口の半分が三条通に集まったような」もの凄い人の波であったそうで、その中を急遽即席カメラマン役を任せられた義父は路面を舐めたりレンズの蓋の暗闇を疾走したりしながらもじつに頑張って撮影してくれた。終了後もチビはたくさんの人のカメラに写り、フィリッピンから来たという子どもたちといっしょにレンズに収まったりもした。どなたかベストショットが撮れてたら送って下さい。稚児行列でいちばん可愛かったのがうちの子です。その夜であったか若狭の渡辺淳さんから電話があり、受話器を取ったつれあいと私の二人で合わせて小一時間ほどお話をした。一滴文庫でお会いしてからもうかれこれ6, 7年は経つのか。すでに触れたが、淳さんと絵手紙の交際をしている東京の小学生の女の子の絵手紙集の本がこんど出版されること。それからひょんな出会いで意気投合した本田成親さんという東大教授と数年前に「なるべく金を使わずなるべく辺鄙な路を通る」車で寝泊まりの東北旅行のことなど(この旅行の模様は本田氏の「マセマティック放浪記」中の“奥の脇道放浪記”で読める)。ほんの数時間、旅先で訪ねた一滴文庫のあちこちを案内して貰い立ち話をしただけなのにこれも何かの縁か。淳さんはお年寄りに町が配布したパソコンでじぶんの名前を検索していて私のHPの記述を見つけたそうだ。ところで昨日は小雪のちらつく今年いちばんの寒さだったな。戸外に立ちっぱなしの私はそれこそホッカイロを貼りまくったよ。休憩時間に暖をとりにいった近くの本屋でバロウズの「ジャンキー」(河出文庫)を買った。訳者の詩人・鮎川信夫氏があとがきで、ルー・リードがこれがバロウズのベストだと言っている、と書いていたからだ。仕事を終えて帰ってきたら淳さんから小包が届いていた。筆による絵付きの丁寧な手紙と、私への謹呈書きを記した淳さんのエッセイ集「山椒庵日記」だが、これについてはまたあとで書く。

2003.12.21 朝

 

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 一日戸外の立ちん坊に疲れて夕食を済ますと横になり新聞の三面記事もろくに読まぬうちにときおり身体に乗っかってくる子どもの重みを感じながらうつうつと眠った。身体に覇気がなくひどく気怠い。2時間ほどもして子どもが寝室で母親に読んでもらう絵本を頭のあたりでどんどんと打つので本をとりあげて叱ったら涙をぽろぽろとこぼして泣く。このごろはいつも私の帰りを待ちくたびれてあちらが眠ってしまうか、帰ってきたこちらがくたびれ果てて眠ってしまうかでまともに遊んでやることもできず、この子も不憫だと思うとますます気が塞いだ。淳さんの「山椒庵日記」のなかに「うつむく」と題された一枚の絵が載っていて、それはまだ淳さんが無名の時代、谷の砂防工事で働いていたときにセメント袋に書きつけた作品で後に鼠に食いちぎられた痕さえあるのだが、その画は飛翔という名の硬い魂を抱いた繭か人の正しいはじまりの形であるようにも思われる。そんなことを思いながら風呂の中で金子光晴の「どくろ杯」を読んでいたら次のような文章が目にとまった。「ぼやぼやしているうちに、売喰いの品物もなく、質草もなくなっていた私は、全く生計のめども立たなくなり、風待ちをする舟のように、ただ、あてのない運命のうごき出し、偶然の誘いのあるのを待つだけであった」 「風待ち」と洒落てみても外には冷たい木枯らしが吹いているばかりである。うつむいたまま歩き出す。

2003.12.21 夜

 

*

 

 

Gimme that old time religion
Gimme that old time religion
Gimme that old time religion
It's good enough for me

あの昔ながらの信仰心をおくれ
あの昔ながらの信仰心をおくれ
あの昔ながらの信仰心をおくれ
おれにはそいつがいちばん

 

 風邪気味で寝ころんでザ・バンドの「ラスト・ワルツ」のビデオを眺めた。演奏の合間のインタビューでロビーとリックが酔っぱらったようなこのトラディショナル曲をやっていた。若かった頃には長くて退屈だったマディ・ウォーターズにいまは釘付けになる。ニセモノだらけの世の中で心はだんだん麻痺してくる。誰かこんな本物の音楽をおれに聴かせてくれよ。こんな本物の音楽はいまはいったいどこにあるんだい。ロバート・ジョンスンのあの四辻あたりを犬のようにうろついているのか。ザ・バンドの音楽で決して勘違いしちゃいけないのは、かれらは素朴で誠実な伝承者であったということだ。つまり大人だったということだ。そしてかれらを大人にしてくれたのがマディ・ウォーターズたちのような音楽だったということだ。ガキの音楽じゃねえんだぜ、ロックってえのはよ。おれはころがる石、本物の男になりたい。ただしこのいかれた世の中の価値規範で測られた男じゃなくて、ロバート・ジョンスンのあの四辻に立ち尽くすような本物の男にだ。「どんな気持ちかわかるだろう。親切気のないこの土地でよそ者だって気持ちがさ」 ときどきどうにもつらすぎるんじゃないかと思うようなとき、おれは夜更けにバイクに乗って熊野の闇の中へ向かいたくなるよ。おれの喰うものが何もなくて、この咽の渇きを満たすような何物も長いこと見つからずにぶっ倒れてしまいそうなときには。あの玉置山の杉の老樹の足元で苔のように白い玉石のように眠りたくなる。おれが欲しいのは最新のテクノロジーじゃない。おれたちが蔑み捨ててきたあの「昔ながらの素朴な信仰心」だ。杉はあらゆる木のなかでもっとも霊力の強い樹木なのだそうだ。おれは奇怪な夢を見て眠る。ニンゲンの言葉ではない、石もて追われた鬼たちの呪詛の囁きを。ところでリチャード・マニュエルは何だって自殺なんかしちまったんだ。本物の男は自殺などしないはずだ。死んじゃいけないんだ。どんなときでも死んではいけない。「知っていたか? 彼は、ぼくたちがこの地上でしていることは、神の大いなる瞬き、あるいは聖書にいろいろなことばで書かれているとおりであるのに過ぎないのを知っていた。リチャードはそういうふうに考えていた」 さあ、おれはもう行くよ。こんな悲しい場所はもううんざりだ。善人ばかりが早死にするようなこんな場所は。きみが平気でいられるその気持ちがおれには理解できない。あの四辻に立ってこの哀れな魂を売り飛ばしてくるんだ。

 

 汝自身をあらゆる人間より離在してあらしめよ、汝をすべての外来の像によって混乱せしめず純粋に保持せよ、贅念をもたらし執着心と思い煩いとを喚起するものすべてより汝自身を自由ならしめよ、汝の心を不断に溌剌たる直観に向わしめよ、その直観において汝の胸奥に神を心眼を離れぬ常住の対象として抱くべきである。

M.エックハルト・離在について

2003.12.22

 

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 某ホームセンター駐車場での仕事。こんな仕事をしていると嫌なことばかりが目に入ってくる。店の敷地内の片隅に20数台もの古い自転車がずらりと並んでいる。何だと思う? 店で新しい自転車を買った連中が置いていったミヤゲというわけさ。広い駐車場には他にもさまざなものが捨てられていく。取り替えたバッテリーやオイル缶やダンボールや家から持ってきた空き缶や生ゴミや発砲スチロールの大量の塊やレジスターや、中にはおそらく車の中で取り替えたオムツが車が出た後の駐車スペースの上にぽつんと残っている。おれは誘導棒の先っちょでそいつをつついて、てめえの赤ん坊の糞尿だろう、こんなところに野ざらしにしていったい恥ずかしくないのか、おい、と思わずぼやいてしまう。こんな親は将来じぶんの子どもに殺されたって仕方がないと思うのはこのおれだけか。この国のモラルはどうなっちまったんだよ。よその国の平和だとか安定だとか偉そうに口出ししてる場合か。車の誘導をしていたってそうだよ。相変わらずほんの少し他人のために譲る余裕のカケラさえなく、てめえ勝手な輩ばかりだ。出入り口で誘導をしていて車道まで車が溢れてきたので何だと思って見に行ったら、入ってすぐの通路で一台のおばちゃんの運転する軽自動車が流れを遮蔽している。うしろが詰まっているから奥へ流れてくださいと言うと、そこの車がもうじき出るのを待っているんだとヒステリックな答えが返ってくる。いくらじぶんの後ろで何台もの車がストップして、溢れた車が一般車道まで塞いでいたって一向にお構いなし、平気のへいさだ。こういうやつらは本当に、いっそまとめてガス室でも入れて殺しちまった方がどれだけ世の中のためになるかとおれは本気で思うね。馬鹿ばっかりだよ。至るところ馬鹿だらけ。

 グリール・マーカスの「ミステリー・トレイン」を風呂の中で読み返していたら、おれのキンクスのフェイバリット曲について記しているこんな一節があった。

 

 ディヴィスが自分自身に向けて作った賛歌がそれを最もうまく説明している。それは〈サニー・アフタヌーン〉のB面に入れられた恐ろしい、凶暴なハード・ロック曲で、アメリカのLPでは7年後になってやっと出たのだった。つまり、〈アイム・ノット・ライク・エヴリバディ・エルス / ぼくはみんなとは違う〉である。

 ディヴィスはこの歌を、病弱な男の子が悪漢の一団(つまり、その男の子以外の者すべてである)によって壁に押しつけられている場面ではじめている。そして次にこの歌は、彼が仕えたくない、組みこまれたくないと思っている世の中全体を否定する激怒でわっと大きくはじける。最後の激しいコーラスのところにくると彼は自由になっている。聴き手がつねに自由に彼を無視していたのと同じように、自由に聴き手を無視するようになっているのだ。

(三井徹訳・第三文明社)

 

 この歌の拙訳は以前にも書いたけれど(ゴム消しlog20・2002.3.22)、もういちどここに紹介する。

 

奴らの言いなりにはなりたくない
このしかめ面を微笑みに変えるつもりはない
無抵抗ですべてを受け入れるつもりもない
調子のいいときには街へくり出すんだ

なぜって、ぼくは他のみんなとは違うから
ぼくは他のみんなとは違う
ぼくは他のみんなとは違う
ぼくは他のみんなとは違うんだ

他のみんなのようにこの人生を生きたくはない
他のみんなのように駄目にされたくはない
他のみんなのように仕事を得たくはない
なぜって、ぼくは他のみんなとは違うから
(歌ってくれ、歌ってくれ。きみはいったい何だ?)
ぼくは他のみんなとは違う

ダーリン きみを心から愛しているよ
きみが望むことなら何でもしてあげよう
きみが望むなら、これまで犯した罪のすべてさえ告白しよう
でもひとつだけできないことがあるんだ
なぜって、ぼくは他のみんなとは違うから
ぼくは他のみんなとは違う
ぼくは他のみんなとは違うんだ

(Kinks・I'm Not Like Everybody Else)

 

 この歌のお陰で今夜のおれはとてもいい気分だ。馬鹿どもの頭の上であぐらをかいて座っている裸の王様のようにいい気分だ。このハード・ロックをBGMに朝まで一緒に踊らないか。馬鹿げた祭のすべてを自由に無視してやる。

2003.12.23

 

*

 

 クリスマス。夜勤を終えて、大阪の本屋で「ピンクの空を見てみたい 森岡みのり絵手紙集」(森岡みのり・渡辺淳 樹立社 @1000)と「ビートルズは眠らない」(松村雄策・ロッキンオン @1500) を買って帰った。

2003.12.25

 

*

 

 チビとつれあいが実家に旅立つ日。前日に急に休みを言われて朝から車でチビと二人、奈良の三条通にある和菓子屋へ手みやげを買いに行く。猿沢池わきに違法駐車をして、一時間ほど二人で池や興福寺周辺をほっつき歩く。チビが鹿や鳩と戯れたり賽銭を投げ入れるさまをビデオに撮る。帰りはエリコさん宅へ長らく借りていたCDの返却に立ち寄ると、携帯電話にて熱を出して寝込んでいるというので会わずにポストに入れてくる。帰って家でお好み焼きを焼き、支度をしてから夕方、二人は車で出発する。「おとうさん、ひとりでさびしいなあ」と言うとチビは「すぐにおばあちゃんと迎えに来るからだいじょうぶだよ」と応える。居間で寝ころんで毛布をかぶり松村雄策の「ビートルズは眠らない」をつらつらと読む。暗くなってから起き出して、つれあいが仕込んでくれたおでんを夕食にひとり喰う。

2003.12.28

 

*

 

 松村雄策のビートルズ本に触発されて、深夜にレノンのCDを聴いている。そう、ジョン・レノンを聴いているんだよ。中学生のときのあのスタート地点にぼくはいまもいるんだ。ビートルズが始まりだった。カーテンで仕切っただけの物置のような狭い二畳ほどの自室のオーディオ・セットで Mother や God や I Found Out や Working Class Hero に耳を傾けていた。

 レノンの声には始まりにふさわしいすべてが備わっている。そうだ、こんな夜だったよ。こんな空気があたりに満ちていた。ぼくは砂漠で開いた聖書のページのように一音も聴き逃すまいとレコードに耳を凝らしていた。飛び方を学ぶ巣立ちのときの雛のようにかれの歌に耳をすませていた。

 始まりはこんな具合だった。いまもその場所にいる。

2003.12.28 深夜

 

*

 

 明日31日は休みで、元旦も休みだったらつれあいの実家へ行って正月を過ごそうと思っていたのだが、今日、競輪の隊長のMさんから出てこれないかと打診された。Mさんはとてもマメな隊長さんで、昼に味噌汁をつくって隊員にふるまったり、ときには鮭を焼いたり、野菜炒めをつくったり、甘酒をつくったり、菓子を並べたり、クリスマスの飾り付けを詰め所に飾って「老人ホームのお飾りだ」などととぼけたりしている。離婚をしたらしいとかで、いまは奈良町に近い市営団地にひとりで住んでいる。背の高いスキンヘッドの話好きな性格で、ぼくはこの人が好きだ。で、じゃ、出ましょうか、と答えたのだった。というわけで元旦から仕事始めとなり、たった一日の休日を和歌山からとんぼ返りするのも億劫なのでこのままひとり、ここで正月を迎えることにした。

 深夜にひとり、オーティス・レディングを聴いている。渾身絶品のバラッド、For Your Precious Love。それにビールをもう一缶。誤魔化し続けてきた一年の終わりに、ただ空漠なだけのじぶんと向き合っている。切実に何かが欲しい。何かが足りない。いや、語るに価する何物もこのじぶんにはありはしないのだ。ジョン・レノンがかれのファースト・ソロ・アルバムをつくったとき、閉じこめていたかさぶたをかれは剥ぎ取ったのだった。ほんとうの感情というもの、生きるに価する本物の感情というものをおまえはいったい持っているのかとオーティス・レディングの音楽は問いかけてくる。それを感じられる道の上にいまもおまえは立っているか。それ以外はすべて空しいガラクタに過ぎないのだからと。

 明日はバイクでどこか、人気のない山道をひた走ってくる。

2003.12.30

 

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 数年前に実家に録画を頼んでそのまま長らくほっぽっていた「ピアソラ '84〜'86」という番組のビデオを見た(NHK衛星第2放送・1998.8.27)。86年のインタビューを挟んで84年のモントリオール・ジャズ・フェスティバル、85年のケルン放送交響楽団との共演のステージを収録した2時間もの。はじめて知ったのだが、ピアソラは一時クラッシックの作曲家になろうと思ったらしい。ところがあるとき、膨大な自作の楽譜を持ち込んだ西洋音楽のある女性教師に「どれも上手にできているが、ここにはあなたがいない」と言われた。遠回りをして、かれはバンドネオンとともにタンゴの世界へふたたび舞い戻った。その旅路の途上でかれが手にしたのは、みずからの根であるタンゴを外の世界から眺め再構成する感覚であったかも知れない。オーケストラとの共演はいまいちしっくりこなかったけれど、ピアノとギター、ヴァイオリン、ベース、そしてバンドネオンの五重奏団によるステージは、ひさしぶりにわくわくとするような、斬新でいてシャープで熱い、極上の現代音楽を堪能させてくれた。タンゴという大樹の枝の上でピアソラは自由に、ときに格闘し、ときに激しく、あるいは切なく、過去と未来の時空を翔け回る。そういえば今朝の新聞で読んだ、こんな言葉を思い出す。「おお亡びゆくもの …それはいまの私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう」(知里幸恵・アイヌ神謡集) ところで番組の最後にピアソラは、私と音楽とは別のものだ、と語っていた。実際の私は明るい性格でスポーツが好きだし昼間の太陽や花や森が好きで、一方タンゴは正反対の夜のいかがわしい世界、売春宿やジゴロや麻薬といったゆがんだものたちだ。ブエノスアイレスの売春宿で生まれたタンゴはそうした底辺の下層社会の人々の匂いがたっぷりしていて、そのようにこれからもタンゴはかれらのものであり続けるだろう、と。こういう謎は永遠に解けないのかも知れない。(参考・日本のピアソラ・サイト http://www.yoshimura-s.jp/astor/)

 大晦日といっても特別なことは何もない。豚汁の残りと半額で買ってきたハマチの刺身でひとり夕食を食べて、ディランの30周年記念コンサートのビデオを眺めた。ジョージ・ハリスンももうこの世にいないんだな、と思った。テレビをつけたら紅白歌合戦で坂本冬美がデビュー曲の「あばれ太鼓」を歌って泣いていた。これでよし、とテレビを消した。いまは友人が送ってきた Howlin' Wolf のCDを聴いている。あした、競輪場で会おうぜ。三連単大穴を当ててしばらくこのダーティ・ワールドからトンずらしよう。

2003.12.31

 

 

 

 

 

 

 

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