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 ○○ママへ

 

大阪お疲れさまでした。

次回は11月の診察とはずいぶん順調でいらっしゃるのですね。

 

先日、幼稚園の入園申し込みを済ませたところです。

公立と私立の両方で考えいてたのですが、問い合わせをしたところ、公立は徒歩通園、定員20名で抽選あり、病気のことに関しては教育委員会を通してくださいとのことでした。

一方、ほぼ等距離にあるカトリック幼稚園にお聞きしたところ、園長先生がとても良い方で導尿も簡単なようであれば、こちらの職員でできるようにしますとまでおっしゃってくれるような具合で、抽選もここ2,3年は児童の数も減り、ない状態、通園バスありの願ったりかなったりの条件。

ずい分詳しく話を聞いて下さり、パンフレットを頂きにあがったときも園長先生自ら幼稚園を案内して下さいました。

夫とも相談した結果、モンテッソーリ教育を基本理念においた、そちらの幼稚園にお世話になることに決めました。

 

入園申し込みの日も伺うと、事務の方に、園長先生がお話があるそうでと言われ、応接室に通されましたところ、ファイルにわが子の名前のページがあり既に色々記入されていて、どうやら二分脊椎のこと、導尿のことなどお知り合いの病院でお訪ね下さったとのこと、勿論私が以前お話ししたことも含め、几帳面に記入なさって下さっていました。今、通院にしている病院、回数などもです。

 

私立だと小学校に上がったときに友達がいないと(○○市は私立は幼稚園だけ)おっしゃる方もいらっしゃいますが、その時はその時かなと思っています。

 

今通っている障害を持った子どもたちが通う○○学園で、週1回だけ母子分離の教室に入れていただくようになりました。

最初はなにがなんだか分からず、泣かずに遊んでいたのですが、鼻血がで、それに驚いて泣いてしまいました。

2回目はもう分かっているので、朝から「おかあさんといっしょ?」となんども尋ねたりしていたのですが、先生に誘われると行かなきゃいけないかのように入ったのですが、しばらくすると「おかあさんのところに行きたいよ〜」としくしく。

20分後には諦めたのか泣きやみ遊び始めました。

その後は泣くこともなく、今5回目ですがひとりぼっちの方が愉しいと言っています。

週3回で、水曜日が母子分離、パズルやお絵かき、粘土遊び、手遊びなどさせてくれます。

月曜、木曜はほとんど手遊び中心、他のお遊びもするのですが人数が多く、しかも元気な子(?)が多く、暴れる、物を投げる、走りまわるなど学級崩壊さながら、子供心にも嫌なのかも知れません。

しのたんのためにもあまり良くないかなとは思うのですが、水曜だけというのも何だか悪いような気がして続けています。

こちらでもシュタイナー教室のようなものがあればいいのですが、特に夫が気に入ってます。

モンテッソーリの教室や、その他保育をしてくれる教室はあるのですが、民間ですから月謝を払ってという形になります。

きっとしのたんには幼稚園の慣らしとしてもそちらの方が良いのでしょうけれど・・・

財政問題もありますし・・・

しのたんは喜ぶこと間違いないですがね。財政、緊迫させてまで行かせる熱意も私自信ないですし・・・

 

最近、ショートステイ、ホームヘルパー制度を受けられることを知りました。

お母さんが病気になったり、その他の理由で子どもの面倒を見られないとき、預かってもらえるそうなのです。

先日、○○学園で二分脊椎の子のお母さん3人でそのことについて話していたとき、私が「病気だけじゃなくて、美容院へ行くとか、お買い物とか、公民館活動とか、映画でも良いんですって」と言うと、一人のお母さんが、顔をしかめて「預けてですかあ〜」と、おっしゃり、3人で大笑いになりました。

楽することばかり考えてる私です。

 

頑張っていない母より

 

2003.7.14

 

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 昼からつれあいが美容院に行きたいと言うので、チビを前述した民俗博物館のある公園へ連れて行く。広場でしばらくボール遊びに興じてから、季節はずれの菖蒲園を抜け、池の端でアメンボウや亀を眺めたりカエルを捕まえたり、移築された古民家を覗いたり。チビは水車小屋の仕組みが面白かったようで、ずいぶん長いこと熱心に眺めていた。

 日・月の連休を利用して、東京の友人二人が連れ立って泊まりに来ることになった。生憎二日間とも私は仕事だが、まあ勝手知ったる連中なので昼間はつれあいやチビらとどこかで遊んできてくれたらいい。どうせおれよりチビが目的だろうよ。日曜には友人らと顔馴染みの、つれあいの若い友人(独身女性)のCちゃんも大阪から来てくれるそうで賑やかな一日になりそうだ。友人の一人から電話が来て、持ってきてもらいたい音楽CDなどをリクエストする。

 近所の古本屋で「被差別民の精神世界 部落史観の転換」(上野茂編・明石書店)と「M / 世界の、憂鬱な先端」(吉岡忍・文春文庫)を買う。100円と400円。前者は法隆寺界隈の竜田神社の祭祀に関わった神人 = 部落民に関するフィールド等があったためで、後者は幼女連続殺人の宮崎勤と酒鬼薔薇事件に取材した大部の労作でいつかは読まなくてはならないと思っていた。

2003.7.15

 

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 午前中、つれあいに代わってチビを“幼稚園”へ連れていく。お弁当持参の「母子分離」の日。先生の方へチビを押し出しながら冗談気味に「泣くなよ !! 」と声をかけると、「もう、お姉ちゃんだもん」と先生に言っている声が聞こえてくる。9時半から12時半までの3時間。薄暗い小部屋のなかで、マジックミラー越しに我が子の姿を眺めながら、すでに顔馴染みの他のお母さんたちと話をする。

 Nくんは、ここの“幼稚園”では多数に入るのだが、自閉症と診断されている一人だ。自閉症というのはご存知の方もいると思うが、環境やしつけといった後天的なものが原因なのではなく、脳細胞の一部(感覚を司る中枢神経だという)に何らかの疾患があって、他人とコミュニケーションがとれなかったり突然暴れ出したりしてしまう病気なのである。ところが見かけは一見ふつうの子どもに見えるので、また自閉症に対する社会的な認識が薄いせいもあって、親の育て方が悪いのだろうとか本人の性格のせいだとか、とかく誤解を受けることが多い。実際に N くんの母親の実家でさえ本当にこの子は病気なのかといまだ疑っていて、お前が少し構い過ぎだからなのではないかと言ったり、逆に病院の診察に行っても嫌な話を聞きたくないという気持ちから一緒に診察室に入って話を聞くということもしないのだそうだし、父親の実家では N くんが暴れたりするので遊びに行ってもレストランなどで食事を共にすることを避けたりしているそうだ。そして口さがない親類の間では自閉症であるということは伏せられていて、法事のあるときには決まって母親か N くんが熱を出すということになっているという。

 そんな話をつれづれと聞いた。

2003.7.16

 

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 その男の顔は黒くつぶれ、ひしゃげていた。小さな二本の足がすっくと地面に降りていた。片方の手が、“定からぬ”といったふうに宙に持ち上げられ、指をひろげている。だがその姿は、岩から滲み出たシミのようにも見えるし、砂漠に焼きつけられた影のようにも見える。「こたえてください」とは、その作品に付された素朴なタイトルだが、答えはどこにもなかった。凝(じ)っと見つめていると、男の姿はまぼろしのようにかき消え、キャンバスにつめこまれた無数の鉱物の粒子がただ悲しみ、きらきらと無辺の光を乱反射させているように見えてくるのだ。

 

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 木曜。チビの装具の手直しのために車で大阪へ出たついでに、神戸まで足を伸ばしてはるさんの個展を覗いてきた。私が絵を見ている間、奥さんがチビと遊んでくれた。4時頃に画廊に入って、6時前に辞した。はじめてお会いしたはるさんとは何やら言葉を交わした気がするが、話したかったたくさんのことは後から思い出した。三宮の駅前のベンチでバングラデシュから来たという留学生の二人連れが携帯電話でチビの写真を撮った。せっかく神戸まで来たのだから夕飯を食べていこうかという話になって、はるさんたちを誘ってみようかと言ったのだが、個展の初日で疲れているだろうからとつれあいに言われ、家族だけでハーバーランドでバイキングの夕食を奮発した。チビは波止場の風景にやけにはしゃいだ。帰り道、眠ってしまったチビとつれあいを後部座席に乗せ、ディランのテープをカーステでひとり聴きながら車を走らせた。

 

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 翌日の夕刻、私は春日大社の叢林の奥にあるひっそりとした紀伊神社の朱塗りの社の前にひとりぽつねんと坐していた。一人の若い白人の青年にココハ何ノ神サマナノカ? と訊かれ、コノ神ハ base of spirit を Protect シテイルと怪しげな英語で説明してやった。社の背後に「蝙蝠窟 道」と記された石標が立っている。勝手にココヨリ人ナラヌ道ナリと解釈した。招ぎ寄せるような深い暗がりが佇んでいたが、私はその先へ進んでいこうとは思わなかった。

2003.7.19

 

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 連休の日・月曜と京都にある住宅展示場にて仕事。日曜の夕方から東京の友人二人が車で来泊。仕事から帰ってから連日おそくまでビールを呑んで馬鹿話に興じた。最終日の火曜は「めえめえ牧場に行きたい」というチビのリクエストに友人らが応えてくれ、二台の車に分乗してふたたび山添村の神野山へ。牧場から山頂へ至る短いハイキング道ものぼり、夕刻に名阪の針インターのパーキングにて夕食を済ませて互いに別れた。

 友人が残していってくれたミヤゲモノたち。すべて私のリクエストだが、ストーンズの Forty Licks、ポール・マッカートニーの Wingspan、ルー・リードの NYC MAN (それぞれCD2枚組たっぷりの最新ベスト盤)、それにディランのローリング・サンダー・レビュー音源 Bootleg Series 5 : Live 1975。これで当分は音楽に餓えることもあるまい。

 住宅展示場で、見学に来た初老の客が話しかけてきた。「あの家は3階建てなのかな?」「そう、みたいですね」「あんた、こんな家を見てどう思う?」「まあ、別世界ですね」「そうだろう。あんたらにはとても買えないだろうな、高くて」 男は満足げに微笑みながら車に乗り込み、帰っていった。馬鹿野郎め、おれが狙っているのはもっとどでかい何物かだ。お前らには一生見えない何かだ。

 夜更けに、友人が置いていったプレゼントを聴いていると、まだまだいけるぜ、という気持ちがしずかに湧いてくる。おれたちが出会ったのは6歳か7歳の頃で、それから無数のしみったれた風景を共有してきた。死んだ奴もいた。行方知れずの奴もいる。床が抜けるような馬鹿騒ぎもあったし、ひとつだけ多すぎる辛い朝もあった。古い音楽たちが、いまもあたらしい。このいかれた音楽たちがいまも変わらずおれたちの胸を顫わせるように、おれたちの歩いてきた道は何ひとつ間違っちゃいなかった。どこかであなたが見ていたら、それを知っていてくれるはずだ。おれはいまも変わらぬこの出発地点に立っている。何度でもやり直しができる魔法の場所だ。この腐れ縁はおそらく一生続くのだろう。

 積み重ねてきたものは何もない。ただ怖れを知らぬ若葉のようなみずみずしさのカケラがあるばかりだ。

 

 住宅展示場からの帰りの電車の中で、吉岡忍の「M / 世界の、憂鬱な先端」を読み始めた。

2003.7.23

 

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 木曜は車でチビと二人、大阪の病院(リハビリ科)へ。装具の手直しがすでに10回近くにも及んでいて、そのたびに足に傷ができたり装具が使えなかったりの状況が続き、また頻繁に大阪へ通わなくてはならず、業を煮やして「おれがちょっと言ってきてやる」と買って出たのである。装具屋さんとの直接交渉では埒があかないので、急遽リハビリ科の I 先生の予約も取ってもらい、相談をすることにした。I 先生はこちらの経緯を聴き、チビの装具をひとしきり見てから、いっしょに装具屋さんのところへ行ってくれ、もういちど左足の装具だけを元から作り直すように、と指示を出してくれた。その場で石膏の型どりをして、来週に仮止めでふたたび I 先生が同伴してくれることになった。装具屋さんの話では、足の変形を防ぐための矯正をかけるとどうしても不自然な圧力がかからざるをえず、逆に傷をつくらないようにすると矯正を緩やかにせざるをえず、そのへんの兼ね合いが難しいと言う。それも分からないではないのだが。帰りに本町の靱公園近くにある Y さんの事務所に立ち寄り、生憎不在だったために出てきた女性に長らく借りっぱなしだった本とCDをお願いし、山越えの狭く急峻な国道308号線を抜けて6時過ぎに帰宅した。窓から山の暗がりをずっと眺めていたチビはとつぜん、トトロがやってきてシノちゃんの中に入った、会えて嬉しいよとトトロが言ったと言い、私と二人で「夢だったけど、夢じゃなかった !!」を連呼しながら走ってきた。

 金曜の今日は大阪の天神祭の現場の仕事が入っていて、朝からバイクで(というのは、夜11時までの勤務で帰りの電車がないため)首尾良く大阪目指して出発したものの、(最短ルートで、ツーリング気分が味わえるから、と選んだ)生駒山越えの急峻な国道308号の峠付近の人気のない山道で不様なことに転倒してしまい(湿った落ち葉の上でブレーキを踏んで滑った)、前輪のブレーキ・ペダルを見事にへし折ってしまったのだった。バイクを起こして、はじめはそれでも残った後輪のブレーキだけで何とか大阪まで行こうとふたたび走り出したのだが、後輪のブレーキはディスクがすり減っているために以前から利きが悪く、かなり角度のある坂道を下り始めたところで「これはとても無理だ」ととうとう立ち往生してしまった。坂の途中なので進むことも戻ることも儘ならぬ。脇の地面にのりあげてバイクを倒して嘆息した。バイクを置いてしばらく歩いたところに寺があり、そこで電話を借りて担当のFさんの携帯にまず連絡を入れた。電話代をと財布を見ると小銭が100円玉と500円玉しかなく、携帯でだいぶ長いこと話したから100円では足りぬだろうと500円玉を本堂できゅうりを並べて何やら手仕事をさしていた寺のばあさんに差し出すと、それじゃああすこの賽銭箱に入れて無事に山を下りられるようにとお祈りしたらいいと言うのでその通りにした。バイクのところへ戻り、小一時間汗まみれで何とか切り返しをして、寺のばあさんに聞いた、来た道とは別の傾斜のゆるやかなルートをそろそろと下りて無事自宅まで帰り着いた。こんな時期なのにせっかく入った仕事を一日ふいにして私は大層物憂い顔をしていたのだが、つれあいは「幸い怪我もなかったのだから、そのくらいで済んで良かったと思わなくちゃ」と慰めてくれた。バイク屋に問い合わせたところ、早ければ明日には交換の部品が入るかも知れないとのこと。どうもこのごろつまらぬトラブル続きで、厄払いでもしなくちゃならないのかも知れないなぞと思ったり。

2003.7.25

 

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 月曜から3日間、二上山の山麓にほど近い某ホームセンターで、園芸用品などの外売り場の屋根の取り付け工事に伴う警備の仕事に行ってきた。巨大なクレーンで吊り上げた高所の鉄骨の上を鳶の職人たちが颯爽と行き交い、身体をよじ曲げ、ハンマーを叩き、ボルトを締め上げながら汗が滴り落ちてくるその光景を、美しいと思い、ひどく感動した。それに比べて、蛆虫のように地上にへばりついてただ見あげることしかできないこの私の惨めったらしさはどうだ。今回の勤務で私と同僚のYさんには店の裏にあるポンプ室の狭い一角があてがわれた。多分に警備員というものは人並みに扱われない。人格というものなどないのだ。ときに真っ昼間の駐車場の片隅でパンツ姿を晒して着替えをしなくてはならないこともある。昼食のとき、Mさんはコンビニで求めたおにぎりを店から離れた工場の陰でひっそりと喰い、また余所の店で働くKさんは雨の時には傘をさして公園のベンチでひとり弁当を食するという。「情けなくなってくるわ」とKさんは苦笑いをして言う。店のレジメを入れたダンボールが所狭しと積みあげられ小さなテーブルを挟んでひと二人がやっと向き合えるようなコンクリート張りの空間でも有り難いものだと思っていたら、今日は夕方からそこで店長がパートの求人面接を始めて、業務を終えた私たちは荷物とともに体よく追い出された。バックや水筒や弁当箱やヘルメットや畳んで置いていた着替えを両手に抱えて雨の中、私は一瞬呆然と立ち尽くす。「自分はだめなんじゃないかと思うことぐらい、人間を傷つけるものはない」と死んだリチャード・マニュエルが言っていたのは、こんな感覚だったのではないかと思う。

 

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 広い森のなかに黒いウサギと白いウサギが暮らしていた。二匹で愉快にクローバーくぐりをしたり野いちごを頬張ったりするたびに、ふと黒いウサギは悲しい気持ちに襲われる。どうしたの? と白いウサギが訊ねるたびに、ちょっと考え事をしていたんだと黒いウサギは答える。いったい何をそんなに考えているのかと最後に白いウサギに問いつめられた黒いウサギは、「ぼくたちはいつまでこうやっていっしょにいられるのだろうか」と胸の内を告白し、月夜の晩に森中の動物たちに見守られて二匹は聖なる結婚のダンスを踊る。数日前、そんな絵本を寝床でチビに読み聞かせ、「きみがたとえばお母さんやお父さんとずうっとバイバイをしなくちゃならなくなったとしたらどう思う? 黒いウサギさんはきっとそんなことを考えたんだね」と説明してやると、チビは珍しいことだが突然ぼろぼろと涙を流して激しく嗚咽し始めた。横にいたつれあいが慌てて別の話題を話し始めても耳を貸そうとしない。泣きじゃくるチビを抱えてベランダに出て、夜の静寂を黙って二人して眺めていたらやがて気持ちが落ち着いたのか、静かになった。「お星さまはね、昼間はきみの姿を見られないから、明日の夜まで元気でいてくれてるかなっていつもきみのことを見ているんだよ。だからニコッて元気な顔を見せてあげようか」と言うと、いまは笑えないけれどバイバイならできると言ってお星さまにバイバイを言って寝床に戻り、じきにすやすやと寝入ってしまった。翌日も彼女はおなじ絵本をせがみ、「シノちゃんね、白いウサギさんに会いたいなあって思って泣いちゃったの」と説明した。そして「ずっと、ずっと、いっしょにいようねって約束して、黒いウサギさんは元気になったんだよね」とうなずいてみせた。

 

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 東京から友人らが遊びに来た最終日、近くの若い夫婦がやっているお気に入りの小さなパン屋へみなで朝食を食べにいったところ、偶然だが、前に木原さんが贈ってくれた古謝美佐子の「天架ける橋」のCDが店内にかかっていた。訊くと最近買ったばかりなのだという。良い音楽というものはこんなふうに不思議な偶然で円環するものか、と思った。腐れ縁のAがそのアルバムを耳にして気に入ったようなので、帰り際にプレゼントをした。数日後、東京へ帰ったAからネーネーズのベスト盤と古謝美佐子が「娘と呼んでいる」という夏川りみという人のCDが送られてきた。帰りの車の中で「天架ける橋」を聴き続け「これだ ! と思った」。夏川りみの歌う「童神」で涙が出、ことしの夏はこれで乗り切れそうだ、と書いていた。昨日の夕食後、チビとブロックで遊びながら送られてきた CDをかけていたら、「沖縄の歌って、とてもきれいだけど、なんか悲しいよね」とつれあいが呟いた。

 そしていま、家人が寝静まった深夜に私はヘッドホンであらためて古謝美佐子の「童神」をくりかえし聴き続けている。私のやくざな魂は暗い波間にたゆとうている。あてもないが、沈みもしない。

2003.7.30

 

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 ああ、ひさしぶりに山へ行きたくなったな。夜更けに車を飛ばして、あの根の国を目指そう。星々がラアラアと降り注ぐ子宮のようなあの河原に車をとめて、闇と静寂を凝視しよう。虚ろな目をしてむごたらしい幼子の死体を切り刻むのではなく、ぶすぶすと沸き立つような山の瘴気にただこの身を晒そう。皮膚がずるりと剥がれ、肉が崩れ落ちたら、乾いたさみしい白骨を河原に突き立てるのだ。何もこたえがないのなら、百年でも千年でもそうしてそこに立っている。人にはそのような行為が必要だ。行こう。いますぐに行こう。

2003.8.3

 

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 つれあいは現在、役所の児童福祉課にてチビの幼稚園入園を交渉中。道尿をやってくれるという私立のカトリック幼稚園の来年4月からの入園はほぼ決まっているのだが、障害というハンデをもつゆえになるべく早くから子どもを集団生活に馴染ませたいというのに加えて、子どもを預けている間にじぶんも少しでも働いて家計の足しができたらと考えているようだ。しばらく前に講師登録をしていたところから電話で県内の高校の臨時教師の話が彼女にきたのだが、毎日の出勤とあっては断らざるをえなかった。実際に入園が決まったとしても病院やリハビリのためのプールもあるので、彼女の条件に合った職場を見つけるのはかなり難しいだろうと思う。そんなわけで月曜の午後、役所から聞いてきた現在(定員に)空きのある市内の公立幼稚園を二カ所ほど、家族三人で車で見学に行ってみた。ほんとうは役所の福祉課から障害のある子どもを受け入れてもらえるかどうか園に確かめてこちらに伝えるという話だったのだが、つれあいが道順や距離・雰囲気などを見ておきたいというのである。最初の幼稚園ではたまたま居合わせた保険士と園長らしき女性といろいろ話ができたのだが、導尿は医療行為に当たるので無理だろう、ということだった。東大寺整肢学園にいて二分脊椎の子どもにも接したことがあるという保険士のおばちゃんは、私ならやってあげてもいいけれど毎日いるわけでもないからねぇ、と仰る。次に行った幼稚園はすでに夕刻になっていて事務所にいた女性が一人しかいなかったが、返事は概ね似たようなものだった。ただこちらが突っ込んだ質問をすると迂闊なことは言えないと思ったのか、とにかく窓口は役所であって私たちはそれに従うだけですからみたいなことを言う。「では役所からこういう方向でお願いしますと連絡がきたら、導尿の件も努力して頂けるということなんですね」と念を押すと、「まあ、そういうことになりますけれど、とにかく窓口は役所なので、詳しい話はそちらの方へ....」とあとは言葉を濁すばかり。結局、鍵を握っているのは役所の判断で、福祉課の担当者を納得させるのがいちばん効果的なのかも知れない、とつれあいと話しながら帰ってきた。参考まで以下に「二分脊椎のライフサポート」(石堂哲郎・文光堂)からの文章を引いておく。つれあいが他の母親などから聞いてきた話では、大阪や神戸などで稀に導尿をしてくれる幼稚園や学校もあるらしいが、ほとんどは母親が通って導尿行為をするのを認めてくれることさえ有り難いというのが現状のようだ。

 二分脊椎症児にとっては、排泄の問題がいちばん大きいでしょう。現状の教育現場では、導尿の援助はできないことになっていますので、自己導尿ができるまでは母親が保健室などに待機するか、時間ごとに導尿のために出向かなければなりません。この問題は母子分離や友人関係への影響も大きく、ネックとなっているといえます。アメリカでは1984年に「身体障害者の子どもに必要であれば、無菌的間欠的導尿法ができるように学校は準備しなければいけない」と最高裁判所が決めたようですが、わが国では立ち後れています。

「二分脊椎のライフサポート」(石堂哲郎・文光堂)

 

 火曜は泌尿器科の定期検診。つれあいが朝摂りの尿だけを持っていって、チビは私がスイミング教室へ連れて行った。コーチから「シノちゃんのお母さんは水が苦手のようで、子どもといっしょに潜りましょうと言うとお母さんの方が“ええっ”と言われるくらいで、その点お父さんは大胆に接してくれてたいへん結構です」と褒められ、シャワー室では他のお母さんたちから口々に「父親が連れてくるなんて羨ましい。うちでは絶対に考えられない」と称賛される。って、たんに仕事がねえだけだよ。尿の検査の方は、前回からすこしばかり状態が良くないようだ。軽い感染を起こしているそうだが、これは体調不良などもあって原因を特定するのは難しいらしい。薬を飲むほどではないが、なるべくたくさん水分を摂らせ、しばらく導尿を3時間から2時間おきにするように言われてきた。

 泌尿器科でつれあいがよく顔を合わす大学生の女の子がいる。その子はやはり二分脊椎の病気なのだが、小学校のときなどは(自己導尿のために)トイレに長くいるのを友達に不審がられたりからかわれたりするのが嫌でたびたび導尿をサボることもあり、中学や高校の頃までは「なぜこんな身体に産んだのか」と母親をたびたび責めた、と言う。同じ病気の年輩のお母さんたちの話では「いじめは絶対にあると思った方がいい」ともいう。「だから、私もこの子から責められることを、いまから覚悟している」とつれあいは静かな声で言う。

2003.8.5

 

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 前述したチビの入園の件はその後、休暇中だった福祉課の上司とつれあいが交渉した結果、役所の側がかなり前向きな姿勢を見せてくれた。感じの良い中年の女性でつれあいの主張はよく分かると理解を示してくれ、役所内の選考会のようなもの(会議)にかけてみるので必要な書類を用意して欲しいとの旨。住民票や課税証明等のほか、脳外科のY先生の意見書を添え、つれあいは“これはかなり脈ありだと思う”と賃金交渉に勝利した組合員のように満足げであった。選考会の結果は月末迄には出て、それから幼稚園の方へ連絡が行き、型どおりの面接が行われ入園となる。決まればチビは早ければもう9月から、病院やプールの日を抜かして平日は朝から夕方まで、土曜は半日、ひとりで幼稚園にて過ごす。ところが書類を提出した日の夜、夕食後にじゃれまとうチビを膝の上で相手しながら、つれあいは急に「いつもいつも、いっしょだったのになぁ。お母さんは何だか悲しくなって来ちゃったよ」と涙をこぼし、チビに拭われていた。それでも撤回する意志はないそうだけれど。

 

 そんなわけで今日(木曜)は朝からバイクで西大寺の事務所へ行き、チビの入園で必要な私の就業証明を書いてもらってから、奈良の三条通りにある市立中央公民館へ立ち寄った。前日の新聞で目をとめたのだが、奈良市と広島市が共催する「ヒロシマ原爆展」を覗きに行ったのだった。初日のオープニング・セレモニーで、県内の演奏家によるミニ音楽会を聴いた。のっけから女性四人による「さとうきび畑」の歌がこころに沁みて堪らなかった。それから、13歳の女学生のときに被爆をして現在、広島の平和記念資料館で語り部をされているという71歳の女性の一時間に及ぶお話。収容先で再会した顔の皮がずるりと垂れ下がった同級生たち(彼女らはすべて翌日までに死んだ)。祖母が持ち帰ってきた母と妹の遺骨。原爆症のためにその後自殺した父親。「こうした話ができるようになるのに50年かかりました」 それから展示会場へ移り、さまざまな原爆資料を見て回った。熱線を浴びて痘痕面のようになった瓦。どす黒く伸び続けた異形の爪。ひとりでは可哀相だからと子どもの亡骸と裏庭に埋められ、40年後に掘り出された三輪車。足の影が映った形見の下駄。被爆して死んでいった子どもらが身につけていたズボンやワンピースやゲートル。遺体が抱きかかえるようにしていた、食べることなく炭化した母親の手弁当。私はいまだ、ヒロシマを訊ねたことがない。作家の辺見庸は自身の講演会で、アフガニスタンから自ら拾い持ち帰ってきた米軍のクラスター爆弾の「飴のように溶け曲がった」破片を会場内に回した。「爆弾というもののマチエールというか触感を私は説明したかったのだ。戦争が抽象化され血抜きされて語られることに対し、どこまでも冷たい死の質感で反駁したかった」と、かれは言う (いま、抗暴のときに・毎日新聞社)。私は、そのようなモノに会いに行ったのだ。腐ったことばなど突き抜けて無言で迫ってくる、そのようなモノとおのれを対峙させたかったのだった。これは過去ではない。アフガニスタンやイラクではいまもこれらの地獄絵のなかで人々が、無辜の子どもたちが、尊厳を奪われた虫けらのように殺され泣き叫び続けている。そして私たちの奇妙に倦んだ日常のディティールはそんな狂ったような世界の上にだらりと乗っかっている。かなしみの中から怒りがこみ上げてくる。怒りのうちに痛苦がある。それらはやがて得体の知れぬ吐き気となって、臓腑に満ちた。私はそれ以上堪えきれず、のろのろとした足取りで公民館を出てきた。

広島平和記念資料館WebSite http://www.pcf.city.hiroshima.jp/index2.html

広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアム http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/index.html

2003.8.7

 

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 チビとつれあいは今日、盆休みの里帰りで和歌山のつれあいの実家へ行った。一週間ほど滞在する予定。3時頃に車で出発して、夜に無事に着いたとの電話がきた。台風が近づいているが、幸い大した雨にも遭わなかったようだ。

 昨日の「ヒロシマ原爆展」では、若い人の姿はほとんど見かけなかった。あの戦争を体験した世代の年寄りたちで会場は埋め尽くされ、きっと県内の広島県人会のような団体も呼ばれていたのだろう、語り部の老女の話を聞きながら涙ぐんでいる姿もあった。「記憶」ということを思う。肉体に刻まれた拭い難い記憶。そのような意味において、人の肉体というものは脆いものだ。この国では、もう直にあの悲惨な時代の記憶など萎んだ綿菓子のように霧散してしまうのではないか。いやすでに霧散しかけているのではないか。「M / 世界の、憂鬱な先端」(文春文庫) の中で吉岡忍は、4人の少女を殺害した宮崎勤という人間の中で歴史認識というものが見事なまでに欠落していたことを指摘している。宮崎は精神鑑定の鑑定人との対話のなかで、真珠湾や長崎・広島に投下された原爆のこともおろか、日本がかつてアメリカと戦争をしたことさえ知らぬような受け答えをしている。それは単に、かれ一人の個人的な無関心にだけ帰結され得るものなのだろうか。上野の美術館で見た黒い穴のような19世紀のある絵画と中国における日本の人体実験に触れたある文章のなかで辺見庸は「19世紀の闇がハルビンと山西省の闇を結び、いまに流れこみ、記憶の再生を誘う。忘却を怒る。アナムネーシス(想起)を無言で呼びかける」と記す。作家はその短文に次のような歌を寄せている。「灯を消したたまゆら闇はわが顔を死者のてのひら包むごと冷ゆ」(鈴木幸輔・花酔)

 宮崎勤のことを考えている。考えるというより、千尋に寄り添う哀れな顔ナシの如く私の背(せな)にうっすらと、だが濡れたTシャツのようにべたりと重く貼りついているような心地がする。たとえば、作家が描く次のような瞬間。

 

 私は宮崎勤がこの時期、精神の決壊を起こしていたと思う。

 祖父が倒れ、亡くなって以後にはじまった遺骨を食べる行為、家人や親戚に対する暴言と暴力が示すものは、精神の決壊以外にないと考える。彼は自己をまとめ上げ、統合する力を失い、ハザードを起こし、その勢いを止めることができなくなった。

 思えば、よくここまで持ちこたえてきた。彼は幼児のころから手のひらを上げて、ちょうだい、をすることができなかったから、身近な者たちに甘えたり、親愛な意思や感情を通わせる経験をしないまま成長した。友だちと遊ぶ年頃には、手首のことを気づかれ、いじめられるのではないかとびくびくしつづけた。集団への適応を当然と考える学校教育は、そこに拍車をかけるばかりだった。取り残されたくない、周囲にされたくないと思った高校から短大にかけての数年間、彼は流行っているものに夢中になることで現実に適応しようとした。それはうまくいきそうに見えた。だが、もともと歴史を切断し、現在と未来しか視野に入れないことで成り立ってきた戦後日本社会に生まれたサブカルチャーは、さらにその現在のリアリティーからも浮遊し、忘却と新奇をせわしなくくり返す消費社会に巻き込まれていく運命にあった。

 これらひとつひとつの節目で、宮崎は綱渡りをした。どれだけそのことを自覚していたかどうか、いまとなってはよくわからない。ただタイトロープの上でバランスを崩しそうになると、セーフティーネットのように甘い世界があった。甘い世界にいけば、祖父や鷹にいが自分をつつみ込んでくれる。そのことを彼は知っていたし、まわりも彼が祖父の部屋に入りびたっていたことに気がついてはいた。

 しかし、鷹にいがどこかに連れ去られ、いま祖父もいなくなった。甘い世界は、からっぽだった。

 精神が決壊する。

 真夜中の墓場に行って骨壷を開け、骨を食べる。暴力や暴言がはじまる。周囲の人たちに目撃された異様な行為は、ここを境にはじまっている。私は、それ以前が正常だった、と言いたいのではない。正常と異常のあいだで揺れ動く葛藤やあせりや自覚、なんとかしようという気持ちと、祖父が作ってくれた甘い世界によって、かろうじてここまで持ちこたえてきた精神のまとまりが、ここで決壊したということ。生活史をたどってくれば、その軌跡が浮かび上がる。

(中略)

 私はいま、精神を決壊させ、ばらばらになりながら、あっというまに濁流に飲み込まれていく宮崎勤の姿を見ている。

「M / 世界の、憂鬱な先端」(吉岡忍・文春文庫)

 

 4人ものいたいけな幼子を無惨な死に至らしめた宮崎勤という存在とこの私はどれだけ離れているといえるだろうか。どこかで歯車のひとつが狂っていたらじぶんもかれのようになりはしなかったと果たして言い切れるだろうか。私は、じぶんがこれらの光景と無縁だとはとても思えない。私はいまだ、ときに無明の穴ぐらへと堕ちてしまいそうになる。雨戸を閉め、逮捕時のニュースで流れた宮崎勤の部屋のような空間へ己を閉じこめ、誰とも顔を合わせたくなくなる。いびつな穴ぐらのなかで、いつしか澱んだ空想を育み増殖させ始めたかも知れない。

 ただ私とかれの間で決定的に違うのは、私の場合、常に私という不確かな存在を対象化して客観視させてくれる〈他者〉の存在があったということだ。それはときに腐れ縁の悪友たちであったり、ディランやレノンなどの音楽であったり、妻や娘の存在であったりしてきた。それらが私を、私がみずからを見失いそうになったとき、かろうじてこの世界の端につなぎ止めてくれた。私はかれらの〈眼〉によってみずからの存在を笑い、疑い、突き放し、信頼し、もういちど確かめなおすことができた。世界とのバランスを取り戻すことができた。宮崎勤に悲しくも欠けていたのは、そのような〈他者〉の存在ではなかったかと思う。人はたったひとりでおのれという存在を支えきれぬ瞬間もある。娘が投げかけてくる無邪気な笑顔を前にして、私はときにはっと目を覚ます。夜更けに静かな寝息をたてているつれあいのぬくもりにそっと身を寄せて世界の切れ端をつかむ。

 清志郎がかつてのオーティス・レディングのバックバンド MG'S sと共にメンフィスで録音したアルバムの中に「世間知らず」という曲がある。私はこの曲を、もし叶うことならば、独房でいまはただ蝉の抜け殻のように死刑を待つだけの宮崎勤に聴かせてやりたい。そしてかれに言ってやりたい。このような夢の見方もできたのではないか。ひょっとしたらそんな別の人生もあり得たのではなかったか、と。いまにしてはすでに何もかもが遅すぎるが、それでも言ってやりたい。

 そしてもちろん、私は相変わらずその道を歩き続けるのだ。ときには暗い無明の穴ぐらに足をとらわれながら夢をまだ見てる

 

苦労なんか知らない 恐いものもない
あんまり大事なものもない そんなぼくなのさ

世間知らずと笑われ 君は若いよとあしらわれ
だけど今も夢を見ている そんなぼくなのさ

部屋の中で 今はもう慣れた
一人きりで ぼんやり外をながめているだけ

世間知らずと笑われ 礼儀知らずとつまはじき
今さら外には出たくない 誰かがむかえに来ても

部屋の中で 今はもう慣れた
一人きりで ぼんやり外をながめているだけ

苦労なんか知らない 恐いものもない
世間知らず 何も知らず
夢をまだ見てる
そんなぼくなのさ
そんなぼくなのさ

忌野清志郎・世間知らず 1991

 

大型の台風10号が迫りつつある深夜に

2003.8.8

 

*

 

 昨夜は夜更かしをしたのに明け方早々に目が覚めてしまい、台風の風の音が気になって眠れなくなってしまった。気持ちが妙に高ぶるというか、たぶん人間にはそんな太古の記憶が染みついているのだろう。テレビで台風情報を眺めているうちにすっかり目が覚めてしまい、それから昼近くまで海の向こうのヤンキーズとマリナーズの試合をだらだらと見ていた。

 今日は昼から夜10時までの現場。おにぎりを握って持っていき、帰ってからもういちど簡単な夕食を済ましてシャワーを浴びた。チビもつれあいもいない家の中はがらんとしてひどくさびしい。

 明日は京都市内の現場。電車賃を浮かせるために朝早くにバイクで出るので、今夜は早めに寝ておく。

2003.8.9

 

*

 

 実家から福島の桃が届いた。台所の流しに身を屈めてまるごとかぶりついた。桃はつれあいとチビの帰省に合わせて和歌山へ転送されるはずだったのが、連絡の不備でこちらに届いてしまった。そもそも存在しないはずの桃だった。冷蔵庫で冷やした二つ目をかぶりついた。汁がたらたらと肘をつたって落ちた。むかし、鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」という映画のなかで大楠道代が腐った桃を手に、果物も人も腐りかけがいちばんおいしいのですよ、と妖しくその汁を啜る場面があった。桃はまだ6つある。

 

 昨日は京都の住宅展示場での仕事だった。私よりずっと年若い夫婦たちが子どもを連れ、何百万もするようなピカピカの車に乗って一億円の家を見ていく。私とかれらはいったい何が違うのだろうか、と思う。いや私や宮崎勤のような人間とかれらはいったい何が違うのか。

 

 「M / 世界の、憂鬱な先端」の宮崎勤の項をやっと読了する。最終章の酒鬼薔薇事件に関する130頁余がまだ残っているが、ちょっと息継ぎをしたい気分だ。

 精神を決壊させ暗い濁流に呑み込まれていった宮崎勤は、まさに急斜面を転がり落ちていく無明の闇と化す。4人目の少女の殺害にいたってかれは、少女の遺体の頭部及び手足を切断してその血を呑み、手首を焼いて喰らい、のちに杉林に放置して白骨化しかかっていた蛆にまみれた頭蓋を洗う。そこで不思議な、何ともいえぬ静謐でいて凄惨な場面が立ち現れる。かれは洗った少女の頭蓋骨を抱いて奥多摩の人気のない山道をのぼっていく。そこは「子どもの頃、おじいさんとピクニックをした甘いところ」で、かれはとある木の根元に腰をおろし、車の座席にあったスナック菓子を食べ、子どもの頃にテレビで見た「ひょっこりひょうたん島」の歌をうたった。

 その「ひょっこりひょうたん島」について、吉岡忍は原作者の井上ひさしがずっとのちになって明かした次のような話を紹介している。

 

 井上は語っている。ひとつは、「この物語には親が存在しないこと」 そう言われてみればたしかにあそこには父親、母親、両親、そういう役割の登場人物は一人も出てこなかった。子どもも大人もひとりひとり、自分のキャラクターで立ち、動き、生きている。物語全体が子ども世界のユートピアを描いていた。

 そのようになった理由のすべてを説明するわけではないだろうが、井上は原作者二人ともが、また担当ディレクターも、両親にたよれない子ども時代を過ごした、という共通の体験があったことを打ち明けている。だから、あそこで「大人たちに絶望した子どもの明るさ」を描こうとしたのだ、と。

 もうひとつは、あの登場人物たち全員が、「じつは死んだ子どもたちです。それは現実問題をクリアして、あの時間にユートピアを求めた。ユートピアとはどこにもない場所で、それを「ひょっこりひょうたん島」に求めたのです」

 死んだ子どもたちの世界だったからこそ、あの島には食糧問題が発生しなかった。その上で、親や大人に絶望した子供たちの明るさ、死んだ人の明るさを描いてみること、それが二人の原作者のひそかな狙いだった、と井上は言う(2000年9月、山形県川西町・遅筆堂文庫生活者大学校「ひょっこりひょうたん島」講座での発言)。

「M / 世界の、憂鬱な先端」(吉岡忍・文春文庫)

 

 「手のこと(障害)に気づいていない小さいころ。知らないころにもどりたい」

 「(女の子が)ひとりぼっちの姿を見て、自分の姿を見てしまうんだ。自分の手に気づいていない、甘いころになってしまう。気づいていない、小さいころの甘い世界になってしまう」

 「自分が自分でいられる(幼女の)姿に惹かれた」

 宮崎勤は精神鑑定の鑑定人たちとの会話で、そう何度も語っている。かれは学校を出てから就職した印刷会社をクビになり、家業の手伝いをすることになったときに、「純粋に部屋に入りたい。社会が入ってこないところに閉じこもろう」と思った、と述懐している。宮崎勤にとって「外の世界」は、じぶんを迫害し脅かす恐怖の対象でしかなかった。世界の何物ともかれはリンクできなかった。そのよそよそしい世界からかれを守ってくれるのは「子どものころの甘い世界」であり、それを支えていた優しい祖父の存在だった。その祖父の死を契機にかれの暴発が始まる。いや崩落と言ったらいいか。

 愉しい夢見心地のピクニック気分で山をのぼり、お菓子を食べ、「ひょっこりひょうたん島」の歌を口ずさんでから、かれは少女の頭蓋をその「おじいさんとの思い出の甘い場所」に置いて、帰ってきた。これはもう精神がバラバラになり、この世からなかば乖離した者の哀れな狂気としか思えない。(** 余談だが、これらの宮崎勤自身が語ったストーリーは、わいせつ目的の誘拐殺人を前提とした警察の調書及び判決文では見事に無視されている)

 もちろん私は宮崎勤が実際に為した所業を擁護したいわけでも軽視したいわけでもない。いたいけな幼子を4人も殺害し、その遺体を辱めた。おなじ年頃の娘をもつ親の立場からも、ほんとうに酷たらしく、許し難いとしか言いようがない。けれど宮崎勤も、(当たり前のことだが)生まれながらの殺人者だったわけではない。むしろ犯罪を犯すまでのかれは、世の中に上手にリンクすることもその中でじぶんの居場所を見つけることもできずにいる、気弱な、コンプレックスに押し潰されそうになりながら押し潰されまいとかれなりに必死でもがいている、一人のおどおどとした青年であったに過ぎない。私は、かれの穴ぐらの窓を開いてやる者は誰もいなかったのだろうか、と思う。あるいは幼少の頃、かれに世界と戯れる術を、そのわずかなきっかけでも与えてあげられるような大人は一人もいなかったのだろうか、と思う。それが残念でならない。かれは両親をあるころから「母の人」「父の人」と呼び、ほんとうのじぶんの親ではないと信じるようになった。

 宮崎勤にとってはこの世で唯一の庇護者であった祖父が死んだ。火葬場で焼かれた亡骸を見て「あれーっ、となった。いままでの考えが180度ひっくり返る思いだった。おじいさんが見えなくなっただけで、姿を隠しているんだと強く思った」 形見分けに集まった親戚の者たちの前に立ちはだかった。「おじいさんのものが盗まれないようにシャッターをおろした。(しかし)みな、持ってっちゃった(と涙ぐむ)。おじいさんのものは私は全然欲しくない。おじいさんのものを盗っちゃいけない、だれも。私がもらいたかったのではない(と声を荒げる)」 祖父の部屋は空っぽになった。かれが心の拠り所としていた「甘い場所」はこの世から完全に消え失せた。そのことをきっかけにかれは「ころっと感情を失ってしまい」、自室に閉じこもりがちになり、家族に暴力をふるうようになった。死んだ祖父の幻を見、骨壺の遺骨を盗み食い、殺した猫を祖父の部屋に運んだ。精神がなだれを打ってバラバラと崩壊していった。

 かれが最初の事件を起こすのは、その祖父の死からわずか3ヶ月後のことだ。埼玉県入間市の団地で一人で遊んでいた4歳の少女に声をかけ、車に乗せ、自宅からほど近い山道をかれはやはり甘いピクニック気分で少女と二人して歩いていく。

 

ピクニック気分はどんな感じなの?
「なつかしい。子どものころが思い出されて、なつかしい。自分が子どもになる」
おじいさんといっしょだったことを思い出した?
「おじいさんと山の斜面で足をのばしたり、近所の子と行ったり.... 甘い気分だった。あと、一心同体だった。私にも自分があったことがあった。その子が自分が自分である姿に惹かれた」
そのとき、時間の流れはどうなりますか?
「まわりがうすぼんやりだから、時間はゆっくりだと思う」

 

 以前に月ヶ瀬の事件のことを調べていたとき(ゴム消し Log29)、ある人から「殺した者も殺された者も、どちらも空しく悲しい。ただただ無明の闇が横たわっている」といったような便りを頂いた。私はこの宮崎勤の事件でも、おなじような感慨を覚え、深く息を震わせる。正直に告白するが、吉岡忍が描く被告人の生活史をともにたどりながら、私は幾度となくこの残虐な犯罪を犯した人間の哀れな心像風景に自らのそれを合わせ鏡のように重ね合わせ、ある部分においては思わず気持ちが寄り添いはからずも共鳴することを遂に否定できなかった。宮崎勤は私とほとんど同じ世代を共有している。かれが生きた同じ時代の空気を私も同じように吸って生きてきた。ある意味でこの事件は、いまだバブルの祝祭に浮かれながらもこの国の全体が音もなく不気味に壊れ始めていく、そのさきがけであったような気がして私にはならないのだ。くり返すが、私は宮崎勤が犯した酷たらしい行為も、そこに至るまでの過程も、擁護するつもりはこれっぽちもない。かれの中にそれらを自制できなかった糾弾すべき弱さも甘えも身勝手さもまごうことなく存在し、それらはおなじように私の中にも間違いなく息づいている。無明の闇を無惨に転げ落ちながらかれが積み重ねていった行為は、当然ながら社会的に容認されるものではないが、かれが望んでやまなかった「甘い世界」も、それらが裏切られたときに噴出するおぞましいほどの暗く絶望的な情念も、ひとつの歪んだ極みとして私たちが生きている社会の病理を映し出しているような気がしてならない。狂気のなかにおいてさえ一抹の理(ことわり)がある。誤解を覚悟で言うならば、宮崎勤には宮崎勤なりの理があった。その身震いするような暗渠をうらうらとたどっていけば、思いもかけず私たちは、正視することも耐え難いみずからの恐ろしい裏の顔に出くわす。私は、そのように思う。

 

 しゃべるな、語るな、沈黙するな。あの声が、また聞こえてくる。穴ぐらから出ていくことで失うものの大きさと、閉じこもることで陥る危険と、その両方を用心せよ、とその声はくり返した。閉じこもることと閉じこもらないことの中間で、この体は宙吊りになっている。

 私は口ごもる。知ったかぶりの啓蒙口調に背を向け、吐き気のように襲ってくる妄想を飲み込んで、とりとめもなくつぶやいている。文章になっていかない単語の羅列。言葉にならない語尾や語頭の破片。私は口ごもり、つぶやいている。時間に追われて書き飛ばし、なにくわぬ顔でしゃべっていたときも、そんなわが身を突き放し、冷ややかに眺めているもう一人の私がいることに気がついていた。

 私はみずからに言い聞かせる-----

 ここが先端だ。

 こここそが世界の先端なのだ。

 世界はみな、いつかここに向かって殺到してくるだろう。

 世界はやがて、この景色に埋めつくされるにちがいない。

 21世紀はそういう世紀なのだ。

 私はそう思いつづけた。薄暗くなま暖かい穴ぐらに閉じこもって、そう思ってきた。20世紀最後の10年間はずっとそんなふうだった。

 私たちは世界の、憂鬱な先端にいるのだ、と。

「M / 世界の、憂鬱な先端」(吉岡忍・文春文庫)

 

 Web上で見つけた「ひょっこりひょうたん島」の主題歌の音ファイルを私はくり返し再生し、じっと耳を傾ける。まるで救いようのないブルースのようだ、と思う。みずからの手で殺害し切断した少女の頭蓋をかたわらに置いて、静かな山道でこの歌をひとり孤独に口ずさんでいたとき宮崎勤は、かれはそのときいったい何を思い、何を感じ、どんな風景を見ていたのか。その情景を思い描こうとしてみるのだが、私はそこで足踏みをしてしまう。この歌の先に、この世界の憂鬱な先端の向こう側から、いったい何が見えてくるのか。私には分からない。分からない。

 

波をジャブジャブジャブジャブかきわけて
(ジャブ ジャブ ジャブ)
雲をスイスイスイスイおいぬいて
(スイ スイ スイ)
ひょうたん島は どこへ行く
僕らをのせて どこへ行く

丸い地球の 水平線に
何かがきっと 待っている
苦しいことも あるだろさ
悲しいことも あるだろさ
だけど 僕らは くじけない
泣くのはいやだ 笑っちゃおう

すすめ ひょっこりひょうたん島
ひょっこりひょうたん島
ひょっこりひょうたん島

「ひょっこりひょうたん島」
作詞:井上ひさし/山元護久 作・編曲:宇野誠一郎
歌:前川陽子

 

Gregoria Allegri の Miserere のCDを聴きながら

2003.8.11 深夜

 

*

 

 

 取材が深まれば深まるほど、事件は一般性から個別性へと特定されていく。そして、この先で、通俗化と、いっそうの特殊化がはじまる。

 先にも述べたように通俗化は、このごろではワイドショーがやってくれる。A少年は不登校だった----やはり問題生徒だったのだ。彼はネコ殺しが趣味だった----やっぱりもともと残酷なやつだったのだ。あいつはホラービデオが好きだったらしい----なるほど、だから男の子の頭を切り落とすようなことをやったのだ。母親がきつかったという----そうか、あの家の子育てに問題があったのだ、その他その他。

 わかりやすい解説やコメントが、視聴者をほっとさせる。事件の気味の悪さや不可解さが消えていき、性格の悪いやつが、きわめつけの悪いことをやったのだ、というわかりやすく凡庸な解釈に流されていく。幼女連続誘拐殺害事件の判決がやってみせたことが、ここでもっと大々的に、おおっぴらにくり返される。

 そして、最後にだめ押しのように登場するのは、精神医学の専門家たちのコメントや精神鑑定書だろう。A少年は幼児期に大切な母親との親密体験が欠如していた、攻撃性をむきだしに突出させやすい環境にあった、それが思春期に入ると性的興奮と結びついた、直観像素質と空想癖が結合し、妄想として発展し、さらにそこに独自の狭隘な哲学が追い風となり……云々。

 たしかにこれはA少年の内部で起きたドラマを理解する道筋ではある。彼の精神鑑定書は公表されているかぎりで判断すれば、細部までよく目配りされているようだし、家裁の決定要旨も過不足なくその趣旨を受け止めている。

 だが、と同時に、これは彼をこの社会から切り離す作業ともなった。その内容を知れば、たいてい私たちは、私の家族はああではないと安心し、私は、あるいはわが子は直観像素質者とかいう記憶力抜群の人間ではないとほっとし、哲学なんてややこしいものは持っていないから、わが家は、わが子は、いや、なにより私自身が大丈夫と考える。

 こうして世の中を震えあがらせた事件はA少年に特異の、彼にかぎって、たまたま彼だけがやったことになっていく。

 この一連の過程こそ、私たちが事件を忘れていく過程となるだろう。事件を最初に知ったときにぞっとした不安が慰撫され、安心感におおわれていく。事態を明確化する努力はモンスターとしてのA少年像を描くことで終わり、いつのまにか関心の希薄化と忘却を促進しはじめる。               

 通俗化と特殊化は本来、反発し合う関係にある。けれども、濁流のように流れるメディアの言語のなかでもみくちゃにされているうちに、両者は同じ役割を演じてしまう。これが事件の忘れられ方、忘却のプロセスとなる。

 

 

 それからしばらくして、別の事件が起きる。

 またみんながぞっとする。

 が、やがてみんなをほっとさせてくれる言葉がやってきて、忘却がはじまる。

 そして、それからまたしばらくして……。

 そのくり返し、またくり返し。

 しかし、どこにもこの、くり返し-----という現象を解く鍵がない。

「M / 世界の、憂鬱な先端」(吉岡忍・文春文庫)

 

 

 ひどく疲れていて、あまり多くを書くことができない。CDの棚から古謝美佐子の「童神」をとり出して耳を傾ける。いま、私に力を与えてくれるものがあるとしたら、この歌しかないように思う。私はやっと机に向かう。

 宮崎勤も神戸の少年Aも、祖父母の死を契機に精神的な不安定に陥っていることに気づいた。そして宮崎は祖父の死を契機に、神戸の少年Aは祖母の死を契機に、小動物を殺し解剖することを始めている。この奇妙な符合はいったい何を意味するのか。両親を飛びこえて祖父母なのだ。私は、かれらにとって祖父や祖母とは「歴史」ではなかったかと思ってみる。歴史を体現したもの・つなぐもの・共同体の名残り・消えゆく秩序、それらを肉体化したような存在ではなかったか、と。

 「M / 世界の、憂鬱な先端」のなかで吉岡忍は、少年少女たちが暴発した町々を経巡り、それらどの町もが、小綺麗でのっぺらとした無個性の、奇妙に似通った新興住宅地であったことを指摘している。以前にテレビで、アフリカかアジアかどこかの少数民族を紹介した番組を見た。かれらの住居はぐるりとつらなり、広場を真ん中にしてきれいな円を描いていた。いわば円形の集合住宅なのだ。それはかれらの神話であり、世界観であり、メンタルな文化を表現し、内包したものだった。そもそも人が住まう場所とは、そのようなものではなかったかと私は思う。

 

 体験は言葉を得て自覚化され、経験になる。

 そうやって蓄積されていく経験が、少しづつ主体を作っていく。

 主体がむっくりと立ち上がる。

 しかし、この先になにがあるか?

 私たちの前には生活圏の町が広がっている。豊かさを求めて走ってきた長い道のりの到達点、清潔さにあこがれてきた歳月の安息の地、因襲を逃れて航海してきた海路がたどり着いた明るい港。人はもう一歩、進もうとする。人はもうひと呼吸、しようとする。人はもうひと漕ぎしようと、腕を伸ばすかもしれない。

 だが、そこに、そんな人間の努力を受け止めてくれる時空間があるだろうか。ここが居場所だ。ここで自由にやっていけと励ましてくれる、あの神話のような時空間が?

 主体が生きている場所の起源を教え、成り立ちを伝え、奥行きと広がりを示しているようなおおがかりなストーリー。無からはじまった主体の人生が、絆や愛といった危ういものにつながり、主体を超えた存在に助けられてかろうじて持ちこたえているのだと告げるシンプルな物語。そういう人と人々を統合していくものが、生活圏の町にはあるだろうか。

 ない----。

 私はそう答える。

 そういうものは、なくてもいいことにしたのだ。

 それこそが私の国の歴史的制約なのだ、と。

 

 

 神話は、人間が作った最初の文化、少なくともそのひとつだった。人々が長い歳月のあいだに作り上げ、脚色し、枝葉を落とし、語り伝えてきた物語である。それは多分に史実ではないとしても、社会の成員のとりとめもない行為に、意味とまとまりと方向性をあたえる役割をになってきた。

 島生みの話はそれを縦にも横にも広がる空間意識を示しながら、ゆるやかにやってみせていた。そこには強制力を働かせるのではなく、人をまとめ、人に居場所を教え、人に生きる方角を指し示し、あとは自由に生きていけと励ます力があった。

 

 

 彼らはみんな関係によって壊されている。関係が切れたとき、気づくのはそのことである。集団と、集団が作りだす現実。そこからの無言の、過剰な期待と、そこへの適応強制。生まれたときからずっと身近にあり、そういうものだと思い込んでいた関係が自分を傷つけ、壊していたのだとわかったとき、どこにも行き場がない。

 不登校、家庭内暴力、非行、引きこもり。

 一人ひとりの少年少女は、個人というものが、いつも落ちこぼれやはぐれ者としてしか存在しないこの国の不幸とゆがみを背負うことになる。

 どれもこれも私の国が経済大国となった以降の、国際化・ハイテク・高度情報化のかけ声すら後景に退いた20世紀最後の10年間、日本中のあちこちの生活圏の町に生きている少年少女や若者たちの姿なのである。

(吉岡忍・前掲書)

 

 宮崎勤がアメリカとの戦争も、日本に原爆が落とされたことも覚えていなかったことを思い出そう。かれにとって歴史などというのは不必要なものだったのだ。それはもう死んでいるものだから。人に秩序を与え、居場所を示し、励ましてくれる生きた歴史は、もうこの国では死んでいるのだ。かれにとってリアルなものは、だから「流行っているもの」・無限に続くビデオの収集だった。

 私はいま、かつてオウムを論じた著書の中で宮内勝典が言った「意識や精神の営みに、なんらかの意味をあらしめようとしても、この社会には受け皿がない」という言葉をあらためて思い出している。結局そこへ行き着くのだ、と私は呟く。私たちに決定的に欠けているのは“聖なるコーンミール”なのだ。

 疲れ切った私はふたたび古謝美佐子の歌に耳を傾ける。「天架ける橋」のなかで彼女は、死んだ母が天へのぼってゆき、先立った夫がそこで手をさしのべて迎える様を歌っている。そしてみまかった母に天から、残る子や孫たちにどうか光を与えてください、と頼む。ここには確かな「歴史」がある。生命の豊かなつらなりがある。

 それこそが私たちの社会が失ってしまったものだ。求めてやまないものだ。何も難しいものではない。単純で素朴なものだ。人間が本来、宿していた力だ。それを私たちは、物質的な豊かさと引き替えに、いつのまにかすっかり失ってしまった。捨ててしまった。そしてたぶん、捨てたことさえ気づかずにいる。

 私はそれらがあったなら、宮崎勤も少年Aも、あのようなことをしでかさずに済んだのではないかと思う。いや、断固としてそう確信する。それはもはや手遅れの、哀しい空想に過ぎないけれど。

 もうすこしだけ、私は古謝美佐子の歌を聴いていよう。宮崎勤が孤独な山中で歌った「ひょっこりひょうたん島」の歌を振り払うように、何度でもくり返し聴き続けよう。そうしてまた明日から、のろのろと歩み出すための力をすこしだけ分けてもらおう。

 

 ここが、先端だ。

 世界の、憂鬱な先端が、ここにある。

 おそらく私の国が歴史を取りもどすことはないだろう。この国を20世紀のまんなかで大陥没させた狂信や残酷さや激しい暴力を思い起こす記憶力を、この社会は持っていない。解離はまだつづいている。それが、私の判断である。

 そうであれば、ひとつの国が、ひとつの社会が、一人の人間が持っている攻撃性の意味を考え、想像し、認識するのは一人ひとりがやるしかない。集団にたよらず、一人で考え、あたえられた関係を離れ、絆を選びなおし、そうやって親密圏を作っていくなかで人間と国家と世界の善と悪を、正と邪を、愛と憎を、美と醜を、真と偽を見きわめ、もう一度理念を作っていくこと。

 しかし、歴史認識を欠いたまま理念を作ることができるだろうか?

 たとえできたとしても、それは脆弱なままではないだろうか?

 そうかもしれない、と私も思う。

 だからこその先端なのだ。

 やがて確実に歴史を忘れていく世界の、憂鬱ではあるけれどもここが先端なのだ。

 私たちは陰惨な事件のたびに驚いているわけにはいかない。メディアの言語に圧倒され、右往左往しているばかりでは、一歩も進めない。妄想と攻撃性が結びついたとき、人は、国家や世界と同じように、どんな残酷なこともやる、やってのけるというリアルな感覚を一方に置きながら、私たちは希望を語らなければならない。

 昔の人なら、その全体を神話と呼んだだろう。

 私たちは世界の、憂鬱な先端で新しい神話を語ることができるだろうか。

 いつか私も神話を語ること、それが21世紀に持っていく私自身の夢である。

(吉岡忍・前掲書)

 

2003.8.12

 

*

 

 2時間の残業で、朝10時から夜10時まで雨のなかを立ちっぱなし。11時に帰ってきて、ラジカセで後期のストーンズをかけながら食事の支度と洗濯。ずぶ濡れの靴に古新聞をつめる。ボロ雑巾のようにくたびれ果てた。ボロ雑巾のように殺伐としている。

2003.8.14

 

*

 

 宮崎勤の魂はあの世で救われるだろうか、と考えてみる。かれに殺された少女たちのちいさな魂はあの世で救われただろうか、と考えている。テレビをつければ、あの汚いイラク戦争に早々と同調したこの国の首相とやらが「戦争で亡くなった尊い人命に哀悼の意を表します」なぞと臆面もなく喋っている。私たちの国は、ひどくさみしい国になってしまった。嘘ばかりだ。嘘ばかり。

 今日も一日、馬鹿どもの車を誘導してから、帰って古謝美佐子の「童神」を相変わらず聴き続けている。何かが溢れ出てきそうになるのだが、じぶんはそれに値しないと思う。

 私たちの全員があの少女たちを無惨に殺し嬲ったのだ。私たちの全員が宮崎勤をあのような場所に追い込んだのだ。私たちこそが彼らの宿主(しゅくしゅ)だ。

2003.8.15

 

*

 

 だれもが赤ん坊だった。だれもが祝福されて生まれてきた。そしてだれもがかつて神に近い純白で汚れを知らぬ魂をもっていた。

 ひとはみな童神だった。天の恵みを受けてよい子になれよと育てられた。

2003.8.16

 

*

 

 月曜(18日)は朝から和歌山へチビとつれあいを迎えに行った。ほんとうは日曜の夜、仕事が終わってから直行しようと思っていたのだが、残業で電車が間に合わなかった。束の間の空いた阪和線は小旅行気分だった。K駅に降りると、売店の主が店番を小学生の孫にまかせ、じぶんは待合室で知り合いのお婆さんと世間話をしている。一人のおばさんが飲み物を求めると値段を教え「ありがとうございますは言ったか」とうながす。そして端の老婆に「このごろはどうも人間の心が乱れているから」などと言い添える。

 昼食後に昼寝をして、チビと二人で裏の墓地へ参ってから、港に下りた。近所のこどもたちが糸の先に針だけをつけて釣りをしていた。岩場にはりついた貝をそこらに転がっている金属のパイプで叩き潰して取りだし餌にするのだ。チビと二人で眺めていると、魚の名前を口々に教えてくれる。湾に添った低い堤防のところでは、やはり近所の老人たちが思い思いに寄り集まり、潮風に吹かれながら四方山話をしている。そういえばこんな光景を見なくなって久しいな、と思った。

 つれあいは今回の帰省中に、いろいろなことがあったようだ。いちばんの親友の幼馴染みが離婚をした。同級生の一人が突然半身不随となって船の借金で首が回らなくなった。二つ年下の幼馴染みが自殺をした。東京で家族で暮らしていたのが、お盆の帰省中に実家の近くにある木材置き場で首をくくったのだ。なつかしい人もいきなり訪ねてきた。彼女が地元の博物館に勤めていた頃に知り合ったお爺さんのボーイフレンドで、もともと和歌山の旧家の出らしい。陶芸や木工、その他さまざまなオブジェを制作している人で、いちど近江の風情のある料亭に連れて行ってもらったこともあった。とても品のある老人で、つれあいのことを気に入っていたらしい。その人とはつれあいが私と奈良へ出奔したあおりで音信も途絶えていたのだが、風の便りでこどもができたと聞き、いろいろと調べて実家を探して来てくれたのだった。チビにと持ってきてくれた自作の木製玩具が、なんと今回、宮内庁からの依頼で制作・献上した「愛子さま」のものとおなじ玩具であるという。素材や接着剤など、条件が厳しくて苦労したそうだ。チビにはもう、すこしばかり幼いものだが、ともあれわが家もこと玩具に関しては皇室に並んだということかい。

 

 昨日は友人のO氏から中古の液晶モニタの無償提供品が郵パックで届き、さっそく接続した。これまでWebはアップルのちいさな12インチ画面で見ていたのだが、実際14インチで実質17インチを写すという今回の液晶で見たらひどく視野がひろくなって、うちのサイトのデザインも何やらいびつであることに気がついた。「それが一般の視線なわけですよ」とは苦笑ながらのO氏。旧モニタの上にプリンタを載せいたので、百均の店で工作用の板と小物箱を買ってきて、スキャナの上に即席の棚をこしらえてそちらに移したら机の上がじつにすっきりとした。

2003.8.20

 

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 城下町の古びた狭い路地の一角にその店ができたのは、私たちがこの町に越してきてしばらく経った頃だったろうか。ある日、チビをうしろに乗っけて自転車で帰ってきたつれあいが「あたらしいパン屋さんができた」と報せた。「豆パン アポロ」というのである。それから時折つれあいがそこのパンを買ってくるようになり、二人とも大変気に入ったのだが、しばらくして私もバイクでひとり買いに行く機会があった。店の構えは自転車で急いで走っていたらうっかり見落としてしまいそうなくらいに小さい。黄色い、どこかアジアの雑貨屋ふうのミニ看板。正面にガラス張りの工房があって、そのわきの入り口をぬけるとこじんまりとしたログ風の店内と、奥に猫の額ほどの庭がある。矢野顕子の曲がかかっていた。そこだけ時間が朽ちたような古い柱と、旧式の扇風機。壁に廃屋のガレージのような写真が一枚飾ってあって、訊くとこの店の改装前の姿で、薬屋を閉じたのがずっと空き家の儘で放置されていたという。レジに立ったチャーミングな店の細君はどこか波長が合うような気がして、なにが発端であったか、ひとしきり明日香の藍染織館に関するウンチクなどを披露して帰ってきた。それから後にひょんなことから分かったのだが、私とほぼ同い年のこの店のご主人、私の知り合いのさる麗しき女性(Eさん)が勤めている奈良市内のパン屋の職人さんだったというのである。まこと世間は狭いものだ、と驚いた。高給取りのサラリーマンだったご主人はパン職人になりたくて仕事を辞め、Eさんの店などで数年修行をしてから、この古びた城下町の一角にじぶんの店を構えた。先日、東京から友人たちが転がり込んできた折、みんなでこの「豆パン アポロ」へ朝食を食べにいった。店の片隅にご主人手づくりの木のテーブルがあり、チャーイや黒豆茶などを飲みながらパンを食べられるのである。店には偶然、細君が最近買ったばかりだという古謝美佐子のCDがかかっていて、年中ハートブレイクな心労を煩っているわが友人のAはその歌声に心惹かれ、のちに東京に帰ってから古謝美佐子やネーネーズのCDを大量に買い漁り「これでことしの夏は乗り切れそうだ」と言い、「それにしてもあのときあの店で古謝美佐子のCDが流れていて、もどってからきみの部屋に飾ってあったおなじCDのジャケットを見たのは、あれは偶然だったのだろうか」とメールで書いてきた。私はそのように、たとえば音楽や絵画や詩が、おなじような心根を抱いている者たちのゆるやかな関係のはざまを、ときに不思議な交差をみせながらふいと流れていくさまを見るのが好きだ。そうしたものがいつも見えるようでいたい。パンもおいしいし、とてもいい雰囲気のお店だった、と友人は満足げに言った。こんなことを書くと頭の固い人には叱られるかも知れないが、私は、銀行や大手のスーパーなんぞはいくら潰れても構わないが、こういう店はずっと頑張って在り続けて欲しいと思う。もしも、どこでも似たような無個性のコンビニやハンバーガー屋やチェーン店ばかりが栄えて、こういう店が潰れてしまうのだとしたら、それはその町自体が死んでしまっているのだと思う。その町に住んでいる人々の心が死んでいるのだ。というわけで話がやや大仰になったが、最近 店のホームページもできたらしい。詳しい場所やメニューなどはどうぞこちらを見てください。味の方はさわさんも絶賛保証済みである。お近くに来られましたら、ぜひ。かつて藤原新也が「メメント・モリ」のなかで

 

ひとがつくったものには、ひとがこもる。
だから、ものはひとの心を伝えます。

ひとがつくったもので、ひとがこもらないものは、寒い。

メメント・モリ(藤原新也・情報センター出版局)

 

 と書いていたけれど、そういう「こころある」パンだな。ちょっと褒め過ぎか。でも、どこぞのハンバーガーにはそんなカケラもないよ。寒いものばかり食ってると心が壊れていくぜ。

 

豆パン アポロ  http://www.urikire.net/apollo/index.html

JR大和路線・郡山駅踏切から西へ徒歩2分
639-1132 奈良県大和郡山市高田口町40-4
Tel/Fax 0743-52-8106

開店時間 7:30〜18:00 定休日 毎週水曜日

2003.8.21

 

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 夜、家族三人で「火垂るの墓」を見た。チビは兄妹が死んだことを呑み込めなかったらしい。いや、死んだことは知っている。ただきっと、呑み込みたくないのだ。映画が終わってから寝床で「あの女の子は蛍になっちゃったのかも知れないね」と私が言うと、「蛍が、女の子を助けてくれたんだね」と言う。「そうかも知れないね」と私がなかば曖昧に応えると、「きっと、そうだよ」とはっきりとうなずき、やがてくたびれ果てたようにすぐに寝入ってしまった。彼女なりに重い内容だったのだろう。

 関東に住む知り合いの老牧師さんに、チビの写真を添えた短い返礼のハガキ。「残暑見舞いを有り難うございました。イラクでもパレスチナでも暴力の連鎖が終わることなく、この国も何やらキナ臭い空気が漂ってきました。作家の辺見庸が言っていた歴史における「実時間」ということを考えつつ、抗っていきたい気分です。最近、幼女4人を殺害した宮崎勤事件に取材した「M/ 世界の、憂鬱な先端」(吉岡忍・文春文庫)という優れたレポートを読みましたが、ふり返るにあの頃からこの国のタガが弛み始めたような気がしてなりません。Mは私と同世代ですが、“私たち自身がかれの宿主なのだ”と、先日私はHPに記しました。吉岡のいう“憂鬱な先端”から歩み始めるよりほかに、希望の種子をみつけることもできないだろうと感じています」

 「火垂るの墓」だが、作品の終わりで高層ビルの立ち並ぶ現代の町並みを死んだ兄妹がじっと見下ろしている。あれは死者たちの記憶・歴史の記憶というものだろう。思えばこの国のあちこちの場所場所には、そのような無数の死者たちの記憶が貼りついていて、こちら側をじっと見つめ続けている。私たちはそのように、いつも死者たちの視線に晒されている。私たちは生きている者たちだけで“いま在る”わけではないのだ。それを忘れてはいけない。

 しずかな寝息をたてて眠っている娘にあの映画の中の少女の姿が重なり、思わず強く抱き寄せたくなる気持ちに駆られる。

2003.8.22

 

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熊野

山上に海がある。樹々が波のように逆立ち、山々のあわいに子宮がある。人は生まれ生まれ生まれて、死に死に死んでいく。死ぬことが生きることである。かったいが聖(ひじり)である。ある者は牛車に曳かれ、ある者は舟で流され、ある者は白装束で山谷を餓え、果てしなくさまよう。熊野とは黄泉の回廊である。ある日、玉置神社の鬱蒼たる境内で杉の巨木を見あげた。あの世の、父であった。またある日、本宮旧社地の中州でラアラアと唱和する幻の声を聴きながら眠った。あの世の、母であった。修験の暗い山中の道なかばで突っ伏したこの身を、植物たちがそのぬらぬらとした舌で舐(ねぶ)った。あの世の、兄妹たちであった。いつになったらあなた方といっしょになれるのか、と問うた。叢の奥で鬼〈モノ〉が嘲笑った。おれたちのようになったらだ、と答えた。皮膚が落ち、肉が腐り、白骨が乾いてがらんどうのような淋しい音を響かせるようになったら、お前もいつかここへやってくる。

 

2003.8.24

 

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 月曜。家族で天川村へ川遊びに行ってきた。早起きをして6時に車で出発。下市のコンビニで朝食のパンを買う。下市と天川を結ぶトンネルのひとつがパトカーで閉鎖されていた。あとで黒滝の「道の駅」でバスの運転手から聞いた話では、未明に地元の若者たちの乗った車が側壁にぶっかって炎上したのだそうだ (後に新聞で4人死亡と知った)。お陰でぐねぐねとした旧道を走る羽目になったが、山道に弱いチビもよく頑張った。途中、丹生川上神社下社にて小休止。寺や神社へ行くとチビはもう手慣れたもので、じぶんから黙って合掌をする。地下水を汲み上げた神水を呑み、神木に頬を寄せ、境内で飼っている孔雀や烏骨鶏などをしばし観察した。先に洞川へ寄ってゴロゴロ水を汲もうと思ったのだが、土砂崩れの影響のようで取水禁止となっていたために近くの役行者の母を祀った堂のわきに流れていた水をポリタンクに汲む。その後御手洗渓谷の遊歩道をしばらく散歩してから、行者環林道へつづくさらに奥の人気のない渓流へ。チビにすこしでもキャンプ気分を体験させたかったので、小枝を集めて焚き火をして飯盒で湯を沸かし、即席の味噌汁と紅茶を煎れて、持ってきたおにぎりとでお昼を食べた。川の水は予想以上に冷たかった。水着を持ってきていたのだが三人でズボンの裾をまくって足だけ涼を愉しんだ。チビは石を投げたり、岩の上に掌で水の朱印をぺたぺたと。むかし子どもの頃、父親や親類の家と行った富士五湖の川で従兄たちと石を積んでダムをつくったのを思い出して、なつかしくなり真似てみた。チビもいっしょに手伝い、やがてお尻まで水に浸かって嬉々として熱中している。今日は大好きな“幼稚園”を休んできたのだが、幼稚園よりも愉しい、と言う。河原でのんびり遊んでから、村営の温泉「みずのは湯」へ。昼寝をして、五条経由のコースで帰ってきた。

 

 今日は近所の店で安い古本を三冊ほど購入。「ユング 地下の大王」(コリン・ウィルソン・河出文庫)はユングの存在を、その生涯の歩みと合わせてあらためて感じなおしてみたいと思い。「7歳までは夢の中 親だからできる幼児期のシュタイナー教育」(松井るり子・学陽書房)は本屋や図書館でも見かけていたが、100円だったので買ってみた。「ビートルズで英語を学ぼう」(林育男・講談社文庫)も100円で、じつは10代の頃に愛読していたのだけれど、もういちど高校英語から軽くおさらいしてみようかな、などという気になって。

 夕方、チビを連れてクリーニングの受け取りとジャスコへ78円の卵と牛乳を買いに行く際、かねてから渡そうと思っていたケルト音楽のCDをもって豆パン屋アポロへ立ち寄ってみたら、何と麗しのエリコさんがつい30分ほど前まで来ていて、店中のパンをあらかた食い尽くしていったあとだという。しかも私宛に持ってきたCDを、引っ越し後の電話番号を失念したからと無責任にも店に置いていったという。私が所望していた The Be Good Tanyas の Chinatown と、エリコさんおすすめの安里勇「海人 八重島情唄」の二枚。しばらく四方山話なぞをしてから、チビのおやつのパンを買って店を辞した。

2003.8.26

 

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 “幼稚園”帰りのチビとつれあいを車で迎えに行き、そのまま豆パン屋アポロにて昼食。エリコさんより指令のあったCD2枚を渡してきた。つれあいは店の細君と気功の話などで盛り上がり、私はご主人から手こねでつくっているという神戸の老舗のパン屋さんの話や店を構えるまでの経緯などを伺い、ずいぶんと長居をしてしまった。チビは色のカケラが散りばめられたビー玉をひとつ貰った。お店に置いていた大島保克「我が島ぬ うた」という島唄のCDをお借りしてきた。昨夜は東京の友人Aより嘉手苅林昌の「BEFORE/AFTER」という3枚組の、名盤の誉れ高いCDを沖縄のショップから取り寄せたので送るというメールも来て、何やらこのごろ一気に沖縄づいている。そんな風が吹いている。

2003.8.28

  

 

 

 

 

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