■日々是ゴム消し Log29 もどる

 

 

 

 

 

 先日のことだが、バイクで奈良市に朱さんを訪ねる。喫茶店でエスプレッソ。チビにお古のカーディガンとシャツを頂く。チビとつれあいに朱さんの勤めるお店のパンを頂く。私は食べてはいけないと言われる。オールド・ロックな音楽の話。「ラスト・ワルツ」のDVD版を持ってきてくれたのだが、ハードがないのが悲しい。先月、朱さんたちが奈良寺町のふとんの資料館なる旧家で企画した、島根在住のジャズ・ミュージシャン / 浜田真理子さんの唄会のチラシを頂く。FM802でも人気上昇中とのことで、皆様ぜひ応援してあげてください。家に戻って貸していたMorrisonのCDを開いたら、朱さんのチビくんの「名探偵コナンのテーマ曲集」が入っていたオマケつきで。

 

 これは昨日のこと。居間でいっしょに遊んでいた子どもがふと「シノちゃん、足がワルイの」に続けて「背中がワルイの。お尻がワルイの。お腹がワルイの。頭がワルイの」とひとつずつゆっくりと手で差しながら言い出すので、いつものおふざけだろうと思って「おいおい」と言いながら笑いとばした。ところが後で私からその話を聞いたつれあい曰く、背中は脂肪腫の手術のことであり、お尻とお腹は膀胱直腸障害のことであり、頭は私がときどきからかって「頭ワルイんじゃね--の」と言うからだろう、と言う。病気のことは、はじめて会う人につれあいが説明するのをそばで聞いているのだろう。こんな小さな子どもが喋ることでも、ちゃんとした根拠があり、理由があるのだ。はたしてこの世に、意味のないことばなどあるだろうか。

 

 深夜、この4畳半の部屋にひとり座れば、私は相変わらずディランの歌う Carrying A Torch に耳を傾ける。何度も何度も、くりかえし。砂漠に立ち尽くす、孤独を怖れることのないひそやかな調べに、この私はどれだけ応えることができるか・応えるものをもっているだろうか。墓場まで持っていくことのできないガラクタから離れ、どれだけその調べに近づいてきたのか。気がつけば、私もまたべつの砂漠に立ち尽くしている。

 たとえ百万の人間から批判され、嘲られ、見放されてもよい。それでも私はやはり、そのひとにだけ恋い焦がれ続ける。

2002.11.20

 

*

 

 たましいなら思わず“ああ”と呻くだろう、その呻きが、ことばにならぬものかと思う。この醜いばかりの肉袋の底に、この世のものならぬ光がきれぎれに瞬いていて、私はときにそこにひざまづき、放心する。私は知らず涙で濡れていて、私はいつしか暗闇の一点をしずかに見すえている。

 朝。私といっしょに起きて居間へ行きたい小さな娘が、布団の中で寝ぼけ眼の私の体をゆすり「おとうさん。おきて。シノちゃん、いっしょにいけないよ」と言う。そうだね、いっしょにいこうか、と私は答え、立ち上がる。

2002.11.22

 

*

 

 土曜。朝からふらりとバイクに乗って、月ヶ瀬村を訪ねた。あの事件の集落を見たくなったのである。青年が生まれ育ち、ついに捨てきれなかった故郷の村の風景を。うららかに晴れた暖かな朝だったが、柳生の里を抜けるうねうねとした山間の道は日も差さず、ひどく寒かった。

 事件は1997年の5月に起きた。梅林で有名な村の中心部から川ひとつを跨いだ山間の集落で下校途中の中学2年の女子生徒(当時13歳)が行方不明となり、付近からタイヤのスリップ痕や女生徒の着用していていた靴やジャージなどが見つかった。二ヶ月後におなじ集落内に住む25歳の青年が逮捕され、自供から伊賀上野市郊外の峠で白骨化した遺体が発見された。翌年、青年に対して奈良地裁は懲役18年の一審判決を申し渡したが、検察側がこれを不服として控訴し、2年後に大阪高裁により無期懲役の判決。青年は弁護団のすすめにもかかわらず上告をしないまま刑が確定し、去年の夏、収監先であった大分刑務所の独房内にて自らのランニング・シャツで首を縊って果てた。29歳だった。

 事件は当時、いたずら目的の稚拙な誘拐殺人といったニュアンスで報じられたように思う。だが今年になって雑誌に掲載されたレポート(新潮45・7月号「虐げられた人びと」中尾幸司)や、裁判の係争中に弁護団の一人がある機関誌に寄せた文章(部落解放なら第12号「月ヶ瀬事件と差別」高野嘉雄)などに目を通すと、そこからまた、べつの風景が浮かびあがってくる。

 青年は逮捕後、事件の動機として、集落の住民によるじぶんや家族への差別があったと供述した。月ヶ瀬は現在も与力制度といわれる昔ながらのしきたりが残っている村である。村史を繙くと、慶長年間に幕府が農村支配の末端機関として相互観察・全体責任などの目的のために設けた五人組制度がその源ではないか、という。与力というのは同族組織より選ばれた村の複数の代表のことである。たとえば「区入り」という、村の一員として認められるためには二人の与力の推薦を必要とする。与力には「一家の重要な事柄は喜憂一切」を相談せねばならず、「結婚相談はもちろん、仲人の決定まで与力に相談しないと将来の交際に支障をきたすという」「与力は“縁者は一代、与力は末代”と親類以上に頼りになり、一面言うことをきかねばならぬ権威ある存在であった」(月ヶ瀬村史)

 以下に続けて、これに関連する記述をふたつ引いておく。

 

1. 葬式には運営その他、一切の指揮をとり、家族全員手伝って山仕をつとめたり、会計もつかさどる
2. 家の普請などのときに手伝う
3. 結婚の結納、荷の受領、披露宴などでは、与力が親族代表として挨拶をする
4. けんか・土地の境界争い等の仲裁・調停をしたり、身元引受人になる
5. 出産や祝い事には親類としてつき合い、失火など、他に迷惑をかけた場合などは親類代表として詫びをする

(月ヶ瀬村史)

 

 B地区には与力制度というものがあり、地元民二人の推薦がない限り、区入りができない。区入りができないと区有林を利用する権利等はない。冠婚葬祭は与力が仕切ることとなっているため、又地区内での交際も与力関係の者同志での交際が中心であることから、与力がないと事実上村八分のようになってしまう。区入りの概念は必ずしも法廷では明確にされなかったが、B地区の区長の証言によれば、区入りとは「皆さんと一緒にこれからお付き合いしていくということ」とされている。

 被告人の母の法廷での証言によれば「地区民から、家が焼けたり、人が死んで葬式ができなくても、それだけは村で寄ってやってやる、それ以外はつきあわない、と言われた」というのである。

 他方で、地区の負担金、労働奉仕への参加等の義務の履行は、地区入りしていようといまいと、同じように求められている。負担金については家の「格」により金額が異なり、被告人の家の負担金は最低ランクであった。被告人の父らが、地区での集会等への参加を求められたり、地区役員の選任の機会を与えられたことも全くない。

(高野嘉雄「月ヶ瀬事件と差別」部落解放なら第12号)

 

 ほかにも月ヶ瀬では、集落ごとに税金の申告・支払いをまとめている、という。もちろんこれらは僻地の山村における相互扶助の役割を果たしているわけだが。

 一方、事件を起こした青年の家族は30年以上も前に隣村から移っててきたが「区入り」は果たしていない。村の民生委員を務める、かれがその命を奪った少女の祖父の計らいによって家族は、村はずれの日当たりの悪いじめじめとした傾斜地にかつては物置として使われていたトタン屋根とベニヤ板の壁のあばら屋に住みついた。冬には隙間風に悩まされ、室内にはいつも鼠が走りまわっていた。風呂は薪で、「下水道敷設の分担金が支払えなかった」ために便所はなく、外に掘った穴で用を足していた。内縁関係にある青年の両親は、ともに日本人と朝鮮人の間に生まれたハーフであった。お茶の栽培農家がほとんどを占める村内にあって、二人は行商や日雇いの仕事で家計を支えた。寡黙な父には愛人があり、気が強い文盲の母は子どもに金だけを与えて放任した。毎日、長女がおかずをつくり、それをみなが好き勝手な時間に食べた。会話もない、ばらばらの家族だった。

 小学生の頃、青年はいくつかの「差別」を受けたと語っている。三年生のときに集落の公民館が何者かに放火されたときには多くの住民がかれを疑い、つき合いを避けるようにと子どもに言い含めた。川原で遊んでいたときに“そんなところで遊ぶな”と石を投げられた。殺された少女の家のビニールハウスが燃えたときや、青年団の祭りのときに現金が紛失したときも疑われた。中学二年のとき、「教師がエコヒイキをし、何かというと体罰をするということがキッカケ」で不登校となる。その間、担任の教師が自宅を訪ねたのはほんの2,3度で、卒業証書はクラスメートに届けさせ、かれは翌日それを破り捨て燃やした。

 ふたたび前掲の高野嘉雄氏の文章を引く。

 

 被告人は、被告人あるいはその家族が受けた仕打ちについて「よそ者」扱いと表現している。そのような対応の根底にあるのは、彼自身が在日朝鮮人と日本人とのいわゆる「混血」であること、両親が正式に婚姻していないこと、田畑を持たず、土木工事や賃雇いが生計の道で、極貧であること、家が狭くて劣悪であること、両親が不仲であること、母が文字の読み書きができないこと等に対する地区住民や教師、級友たちの嫌悪感に根ざしていることを被告人は知っている。

 被告人は、級友が届けた中学校の卒業証書を、届けられた翌日に燃やしている。その際の思いは弁護人らの想像を絶しているというしかない。

 被告人の心の中に社会、人間に対する深い絶望と激しい怒りが確実に刻み込まれていたことだけは疑いがない。

 被告人は中学卒業後に数多くの職業を転々としているが、勤務状況に粗暴な傾向は全く窺われず、むしろおとなしく静かな人とみられていた。前科、前歴は交通違反以外全くない。

 表面的には静かでおとなしい被告人の胸の底で、B地区内で「よそ者扱い」をされ続けてきたことに対する暗い、激しい怒りがくすぶっていたのである。

 

 青年の語った「差別」について、裁判の席において、村の住民も学校の教師もそのことごとくが「そのような差別はなかった」と否定している。だが前掲の新潮45の記事を書いた中尾幸司氏は取材中に聞いた、次のような村人の「嘲笑まじりの」証言を記録している。「村の人間は、あの家族を明らかに見下しとるよ。年寄りが多いから、どうしても古い体質がある。現に私自身も村の人間が“朝鮮がっ ! ”って吐き捨てるように蔑むのを聞いとるしね」 また「部落解放なら」の編集部も「母親はY村の部落民」「父親はYの部落周辺に住めなくなって10数年前にここに移住した」といった村での風評を記している。

 中学卒業後、青年は職を転々とするがどれも長続きしていない。測量事務所のアルバイト、土木作業員、警備員、左官見習い。大阪や東京の飲食店で調理師見習いとして働いたこともあったが、住み込みが性に合わなかったのか、ふらりとまた村へ舞い戻った。そんななかで車は、かれの唯一の安らぎの空間であったようだ。カーステでかけるのはドリカムやチャゲ&飛鳥。「特に初期のドリカムの、都市生活を楽しむ若者たちの屈託ないラブソングがお気に入りだった」(新潮45) 事件のひと月ほど前に買ったばかりの大型四駆「三菱ストラーダ」の走行距離は、事件後に売却される三ヶ月の間に5.300キロに達していた。

 そして事件当日。ここでも修羅は、一見何気ない、のどかなごく当たり前の光景からその首をもたげる。やはりこれも、高野嘉雄氏の文章を引く。

 

 被告人が反抗に至った経過は以下のとおりである。

 被告人は前夜、滋賀県内の、いわゆるソープランドに行き、5月3日の午前中に地元に戻ってきた。うららかな日だまりの中に車を停め、しばし仮眠をした後に目を覚ました。何となくウキウキした気持ちで車を運転していたところ、ふと見るとB地区に帰る途中の被害者が歩いていた。B地区まではまだ距離がある、坂もある、あの子を家まで送っていってやろう、ふとそんな親切心、好意が自然と生じてきた。

 気楽な思いで「乗って行くか」と声をかけた。しかし被害者は被告人をチラッと見ただけで、呼びかけを全く無視し、返事もしなかった。その時の心境は、被告人の調書では、以下のとおりのものとされている。

「顔見知りの私が親切に声を掛けているのですから、せめて、お爺さんが迎えに来ますから結構ですとか、家が直ぐそこですので結構です等と断ってくれれば、私としては腹が立つことは無かったのですが、Aさんが私の親切心を無視し、返事もせず、逃げるように足早で歩き始めたことで、私は俺をよそ者と思っているから無視しよる。返事もしやがらん。○○の者は俺を嫌っており、この女も一緒や等と思うと、それまでの○○の人間から受けていたよそ者扱いの悔しさが爆発寸前になったのです。このようにして自分を無視したAさんとB地区全体の人間に対する憎しみが一緒になり、頭の中がパニック状態になったのです。そんな腹立たしい気持ちで車を走らせている時、完全に切れてしまい、許さん、車を当てて連れ去ってやろう、最低でも身動きできないようにしてやろう、B村の者が一人居なくなれば、村の全員が心配して、恨みが晴らせる絶好の機会や、今がええチャンスやと考え」「待ち伏せしている間も私の頭の中は、親切心を無視された腹立ちと、それまでのBの人間からよそ者として口では言い表すことのできない苦しみを受けてきたこと等が交差し、とにかく頭の中は爆発寸前のパニック状態であり、後先のことを考える余裕等な」かったとされている。

 供述調書を作成するのは捜査官である。衝撃的な事件においては、被告人の心情というものは極めて微妙であり、又当の被告人においても自己の内心を理路整然と説明できるわけではない。そして捜査官は誘拐罪で逮捕していたため、何とか誘拐、連れ去りという言葉を挿入させようとしているため、供述調書の一部に不自然さが感じられる。しかし大筋において被告人の語る動機、心情あるいは本件に至る内心の状況としてこの供述調書は信じるに足ると弁護人は評価する。

 声をかけた中学生は近所の顔見知りの子であった。当然好意に応えてくれると思った。ところが被害者は、何の言葉も発せず、被告人を無視した。その反応は当時の被告人にとっては全くの予想外のものであった。しかし、それは実は、予想外のものではなく、B地区の住民、被告人や被告人の家族に対するよそ者扱いそのものであったのである。

 被害者が示した反応は、被告人、被告人の家族のB地区における冷遇を端的に、そして冷静に示したものであった。直前の被告人のウキウキした心情は、被害者による被告人の無視という行為によって、孤立した、みじめな心情へと転化し、被告人を厳しい現実に引き戻したのである。その落差は被告人にとって絶望的なものであった。

 

 青年は少女の背後から時速30キロのスピードで近づき、そのまま車を衝突させた。だが、いざぶつけてしまうと「憎しみは雲散霧消し、現実に引き戻され」(弁論要旨)、慌てて運転席から降りて、道に倒れた少女を抱き起こし後部座席に移した。少女はハアハアと荒い息をしていた。病院へ連れて行くことも一瞬脳裏をよぎったが、「自分が犯人であることが露見し、自分だけでなく、家族までが村に住めなくなる.... 事件を持って逃げるしかないという気持ちになった。(少女を)発見されにくい場所へ連れてゆき、殺して死体を隠してしまおう」(冒頭陳述) そして二時間後、伊賀上野郊外の山中で、はじめは四重の紐状にしたビニールテープで絞殺しようとしたがうまくいかず、手元に転がっていた人頭大の石(4.9キロ)を数回、少女の頭部に投げつけて絶命させた。死因は左頭蓋底骨折による脳挫傷であった。

 事件をめぐる検察側と弁護側の争点は、当初、その動機にあった。検察側は殺された少女の下着が刃物で切り裂かれていたことから、事件は性的ないたずらが目的の誘拐殺人であり、青年は性的異常者であると主張した。それに対して弁護側はそのような性的異常の傾向は認められず、事件は青年の自供どおりに「被告人、被告人の家族に対する月ヶ瀬村住民等による差別の中で、被告人の鬱積した怒りが衝動的な形で暴発したものである」と反論した。もうひとつは「差別」の問題である。一連の公判において、青年の家族を取り巻く村の旧弊さが浮き彫りになったものの結局、裁判所は「被告人のいう差別感情なるものは、何の咎もない中学二年生の被害者に対する本件の犯行動機として、ほとんど酌むべき事情にはならない」としてこれを斥けた。情状酌量の余地はないとして、検察側の求刑通り無期懲役が宣告されたのである。

 最後にもうひとつだけ、高野嘉雄氏の稿より次の一節を引いておきたい。

 

 月ヶ瀬事件で特徴的なのは、被告人は自白に転じた以降、終始一貫して自己の行為を弁解せず、正当化しようとはしていないことである。被告人は動機として月ヶ瀬村の住民による被告人及びその家族への差別があったことを供述しているが、それは何故に本件の如き犯行をしたのかという質問、追求があったため、「事実」として、その経過、内心の感情の推移を説明したのにすぎない。被告人は当然償わねばならない責任はこれを受け入れるべきと考えており、自己の刑事責任を軽くするための一切の弁解、責任転嫁を拒否し、公判廷においてもただ「事実」としての自己の心情を述べたに止まったのである。このことをまず留意すべきである。

 

 そして事件から4年後、前述したように青年は収監先の刑務所内で自殺を図った。Webにあった京都新聞の記事より一部を引く。「奈良県月ケ瀬村の女子中学生殺害で、殺人などの罪で無期懲役が確定、大分刑務所で服役中の丘崎誠人受刑者(29)が自殺していたことが十九日、分かった。  法務省矯正局によると、今月四日午後八時ごろ、丘崎受刑者が自分のランニングシャツを独居房の窓枠にかけて首をつっているのを巡回中の刑務官が発見した。病院に運ばれたが、意識不明の状態が続き八日未明に死亡が確認された。遺書はなかった。  刑務官の巡回は十五分に一回で、当時は就寝前の自由時間だった。」(Kyoto Shimbun 2001.9.19 News) 自殺を図った4日は、かれが殺害した少女の月命日だった。前掲の「新潮45」の記事の中で、高野嘉雄氏は次のような苦渋の胸中を述べている。

 

 誠人君が罪を深く悔いていたことは、接見して直感した。自殺も、おそらく罪の意識からだと思う。かれは最後まで心を閉ざし続けた。刑事や検事はいうまでもなく、弁護士すらも信用していなかった。かれの心をこじ開けられなかったことを、私は弁護士として慚愧に思う。

 

 

 冬の月ヶ瀬は、さながら湖底に横たわった村のようにひっそりと静まりかえっていた。梅林近くのみやげ物屋は軒並み店を閉ざし、観光客の姿もまばらだった。昼寝をしているような観光会館にバイクを停め、置いてあった観光パンフを貰い、二階の展示室でかつてこの地を訪れた文人たちの梅林を愛でる書画をしばらく眺めた。それから梅林の裏手にある尾山代遺跡に立ち寄った。茶畑の広がる丘陵地の斜面が小さな公園のように整備されていて、素堀りの住居と、その隣に四畳半ほどの鍛冶工房の建物が復元されている。室町期あたりに奈良の都の大安寺などに木材を供給していた職能民たちの集落跡だという。北風を避けたなだらかな南の斜面を三段に造成し、上段に前述の住居と工房、中段に食料を貯蔵した穴、下段をゴミ捨て場として使用していたらしい。どこまでも続く低い山並みを眺めながら、いにしえの杣人たちの日々の暮らしを想った。陽が雲間に隠れ、相変わらず寒かった。

 ふたたび中心部の月ヶ瀬橋までもどり、橋のたもとで山頭火の句碑などを眺めてから、青年の生まれ育った集落へ向かった。事件の当日、かれが車を停めて仮眠した村営の駐車場のトイレで用を足した。かれが少女に声をかけた谷間の道も目星がついた。そこからじきに、道は集落に向かう狭い上り坂へと分かれる。日当たりの良い高台に茶畑が広がり、20数戸のわずかな家々が尾根筋の平坦地に身を寄せ合った、のどかな山村の風景だった。人の姿はほとんど見えず、閑としている。集落全体を見わたすことのできる公民館と薬師堂の前にバイクを停めた。もう一方の高台にひときわ立派な土塀に囲まれた屋敷が、あれがおそらく亡くなった少女の家だろうと思った。隣接する神社の珍しい石造りの神殿などをしばらく見物してから、寺の本堂を横切り、反対側の墓地へとゆっくりと歩をすすめた。

 月ヶ瀬はいまも土葬であり、しかも埋め墓と詣り墓(石碑墓)という両墓制の形を残している。村はずれにある埋め墓に遺体を埋葬し、一定の期間祀った後は村に近い詣り墓へ霊魂を移し、以後はそちらへ詣でるのである。薬師堂の境内にあるのはその詣り墓の方で、ここから暗い雑木林の小径を20分も下ったところにあるという埋め墓も覗いてみたい気持ちもあったが、今回はあえて控えることにした。青年が暮らしていて、事件後に取り壊されたあばら屋の跡地も探さない。そう決めていた。ふと足元に、青年によってわずか12歳の命を奪われた少女の墓があった。童(わらべ)のような地蔵が彫られた真新しい白い墓石が生々しく、痛々しかった。手を合わせるには、何を祈ったらいいのか分からなかった。軽く頭を下げ、さり気なく通り過ぎた。居たたまれなかった。

 しばらく薬師堂でぼんやりと村の佇まいを眺めてから、来る途中の観光案内板で見た野口雨情の句碑を探した。案内板の表示ではこの付近だった。通りかかった中年の女性に声をかけると「野口雨情さんって茨城出身の人でしょ、よく知っているわ」と気さくな声が返ってきた。彼女は取手の出身で、土浦にはいまも親類がいるという。道下の民家に向かい「ねえ、○○ちゃん。この人、茨城の人で、わざわざ野口雨情さんの句碑を探しに来たんだってぇ」と呼びかけ、上がってきたこれも気さくそうな夫君が句碑の場所を丁寧に教えてくれた。「雪のふる 夜に鶯は 梅の花さく 夢を見る」という雨情らしい童心に満ちた句で、ダムで水没した場所からここへ移されたという。帰りがけに夫婦は「この村にはね、いろいろ面白い人たちがいるのよ。私たちも大阪から移住してきて、いまはこんなことをしてるの。ここに電話番号も書いてあるから」と一枚の雑誌のコピーを私にくれ、車で立ち去っていった。道ばたにひとり座り込み、目を通した。岡山や大阪で環境調査などの研究に従事していた夫君が長年のアルコール中毒で休職し、その後夫婦でこの月ヶ瀬村に移り住み「縄文の風農場」なる有機農業を、古い農家三軒を借りて都会からの研修生4人と共同生活をしながら営んでいる、という内容だった。「都会から問題をいっぱい抱えて来た私たちを村の人々は温かく見守ってくださった」という一節もあった。複雑な気分だった。

 集落の裏山の小高い山の上に位置する、乙若城跡という南北朝時代の史跡を訪ねた。史跡というにはお粗末な、草ぼうぼうの猫の額ほどの淋しい場所だった。青年もかつて子ども時分にここでひとり孤独な時を過ごしたに違いない、となぜか思った。逮捕前に青年がマスコミの「(行方不明の)少女を知っているか」との問いに応えて、「おなじ地区だから知っている。小学生の頃は通りがかりに車に乗せてあげたこともあった」と語ったという、そのことばを想起した。幼い頃には無邪気にかれの車に乗り込んできた少女が、ある時から「世間」という得体の知れぬ皮をかぶり、他の大人たちと同様にかれに冷淡に背を向ける。そのときかれは、他人には遂に窺い知れぬ絶望的なほどの「落差」に戦慄を覚えたに違いない。それはいつ果てるとも知れない無表情な自己の否定であり、その暗闇から己を救い出すために、かれは目の前の少女を逆に否定しなければならなかった。私は、そう思ってみる。あるいはまた、鬼だ鬼だと言われ続けてきた者が、ついに本物の鬼となって復讐をしただが所詮、本物の鬼には成りきれなかった。鬼はすべてを黙したまま、自ら縊れた。誤解を怖れず言うならばこの事件にあって、殺した者も、殺された者も、どちらも底無しにただ悲しい。二人はいったい何のためにこの世に生まれてきたのかと思うと、暗澹とした思いに襲われる。足元をすくわれそうになる。ある人はそれを「あらゆる説明が空しい、ただ無明な場所であるということだけ」だと形容した。きっと、そのとおりなのに違いない。荒れ果てた墓地のような、人気のない乙若城跡で、私はその無明の暗い穴ぼこを凝視していつまでも立ち尽くしていた。

 

 このまとまりのない稚拙な文章を、悲しき鬼であったいまは亡き丘崎誠人に捧げる。これを書くのはひどく辛い作業だった。だが物言わぬ鬼のために、記しておきたいと思った。

2002.11.26

  

*

 

 子どもが風邪気味で、咳が少々ひどくなってきたので、自転車に乗せて駅前の小児科へ連れて行く。診察代が足りるだろうかと冷や冷やし、情けなく思う。診察室の壁に金魚や亀の折り紙が貼ってあって、チビはそれを見つけて「シノちゃんの、あたらしいおウチにも、あったねえ」と得意げに言う。「あたらしいおウチ」というのは、彼女のはやり文句である。つれあいは外でそれを言われると、まるで立派な一戸建てでも買ったように思われるのが恥ずかしく、いつも慌てて「いえ、公営住宅に引っ越しただけなんですよ」とそっと付け足すという。私はそれを聞いて、この子は純粋に「あたらしいおウチ」が嬉しいからそう言ってるんじゃないか。「あたらしいおウチ」は「あたらしいおウチ」だ。それを一戸建てだと思われるからとかいう大人の価値観や世間体で訂正するのは実に下らないことだ、と腹を立てる。

 私とつれあいが言い合いを始めると、子どもはその間に挟まれて「おハナシをしているの。おハナシをしているのよ」と、まるで自分に言いきかせているかのように必死で言い続けている。逆に私たちが冗談を言って笑っていると、「なんだか、とてもたのしそうだねえ ! 」と実に嬉しそうな顔をしておどけてみせる。

 親よりも子どもがつらい。いつも小さな胸で、世界の事象を必死に受けとめている。

2002.11.28

 

*

 

 ある日。郡山城址のまっ赤な紅葉の木の下で八木重吉の「聖書」を読む。死の前年、結核の進行を宣告された頃に、かれがはじめて教師として赴任した師範学校の学友会雑誌に寄せた短い一文である。

 

 私は、一人でも聖書を読む人が多ければよいと思ひます。私は、だんゝゝ、自分の感想、考へを人に語ることを恐れるようになってゆきます。静かな心になってみると、自分には善い考へが何もないことが、はっきりと分ってくるからです。それで私は、人と論ずることがありません。たゞ聖書に、私よりずっとよいことが書いてあるから見てくださいとだけ云って黙ってしまひます。

 

 それから詩人は、旧約聖書のはじまりが少々読みにくく、それでつまづいてしまう人も多いだろうが、と断りながら、次のように記す。

 

 でも、すこし行くと、こんな言葉がきっと読者を、ギクッと打つだらうと思ひます。「心の貧しき者はさひわひなり」「哀しむ者はさひわひなり」 そして思はず、力が入って来て、もう一行、もう一頁と、読み進む人があるでせう。「野の百合はいかにしてそだつかをおもへ。つとめず紡がざるなり。われなんぢ等につげん。ソロモンの栄華の極の時だにも、其装この花の一にしかざりき」 -----この言葉に胸をうたれる人はきっと、聖書一巻を読破するだらうとおもひます。

 

 哀しみを知る者、おのれの貧しさを知る者は、詩人自身でもある。その哀しみのなか、貧しさのなかに「聖書一巻を読破する」力、闇を照らす光がじつは潜んでいるのだという。

 

 イエスと云ふ人は、時々、非常な、無理な、到底人間に出来ぬ様なことを人に要求してゐるやうにみえます。それについて私はながい間疑がはれなかった。しかしだんゝゝわかってくる様です。つまりイエスは、右の手に光を持ち、左の手に救ひを持ってゐられたのだと思ひます。右の手の光で、私等をすっかり照らして、私等に自分の底をよく見させ、自分とはこんなものだといふことを知らせ、それから、左の手で救ひとって下さるのだとおもひます。そして、つまりは「汝の信なんぢを救へり」といふ言葉が味はへるのだと信じます。

 

 このような文章は、たとえば親鸞が仏について記したものだと見ても、少しもおかしく思えない。これは多分に仏教的なイメージであって、つまり詩人がおのれの肉において葛藤し、ひとりイエスという存在を消化したことの証であるように思う。誰からおそわったのでない、「独りならば、ただ、ひとりでゆこう」とうたった者のことばである。

 最後に詩人は次のような言葉を記して、結びとしている。それは死を目前にした者の、そして絶え間ざる葛藤を続けてきた者の、虚飾のない、つましい、だが確信に満ちた美しいことばであるように思われる。

 

 そして、私はこのごろ、聖書の中に書いてある一番難しい事を仕ようとは思はなくなってゆきます。かへって一番低い程度の、いちばん小さい事が出来たら、私としては満足だと考へます。前にはさう考へられませんでした。どうせ信ずるなら、他の人に出来ない様な、アッと人を云はせるやうな、信仰のしかたをしようとおもってゐました。食卓にかざられた美味を食べなくともいゝ。台から落ちたパンくづでも、それを食べて生きられさへしたらいゝ。私に出来ること-----それは小さくても、卑しくても私にとっては絶対のことです。

 

 「絶対」。そのようなものを、果たしてこの私は持っているだろうかと自問する。この私に言えるだろうか。小さくて卑しい、だが堂々とした「絶対」が。それは詩人が辿りついた「小さき神の領土」である。そこへ行き着かんために、あるいはそこから離れまいとして、かれは多くの詩句を涙や汗のように書き散らした。

 

 また詩人は、キーツの詩についての覚え書きのなかで、こんなことを書きとめてもいる。

 

 “inspiration”(「霊感」)とは、宇宙の大なる魂への吾々人間の魂の恋慕をいふのだ。だからinspiration(「霊感」)をかんずる瞬間は何となく軽やかなのだ。

 

 ある日。郡山城址のまっ赤な紅葉の木の下で八木重吉の「聖書」を読む。じぶんの子どもにはじめ「桃子」と名づけようと思ったのは、詩人の作品に出てくるその少女がとても愛らしかったからである。「てくてくと こどものほうへもどってゆこう」とうたう詩人のまなざしに「哀しみ」を感じたからである。

 

 

にほひも無く 響もなく
冬の昼間の月のように
弱げでありながら奪うことは出来ぬ

(私の詩)

 

 

あれは夢だったか
どの森もみんな光ってしまって
森の中が明るかった

(病床ノオト)

 

2002.11.29

 

*

 

 来年の春、神戸で3日間にわたり、日本二分脊椎・水頭症研究振興財団主催による二分脊椎・水頭症国際シンポジウムというものが行われる。治療の最先端の報告や将来にわたるケアなどに関しての多数の現場の医師による講演会で、ほかにもクルージングや夕食を兼ねた音楽会などの懇親会も用意されている。先日、手術のときに同室であったK君のお母さん(岡山在住)から電話があり、わが家が出席するならいっしょに行きたいと思っているのだが、という。主要なシンポジウムだけなら近くのホテルで一泊二日、夫婦で行くとなるとそれ相応のお金もかかるので、脳外科のY先生にもぜひと勧められながらこれまでずるずると保留にしていたのだが、なかばK君のお母さんの電話に促されるような形で、やはりそう滅多にない意義のある催しで子どものためだから、と家族三人での参加を決めた。とりあえず参加予約費5千円で、その他の費用は春までに何とかなるだろ。

 つれあいはオンラインでドーマン研究所から発行されているドッツ・カードなる「赤ちゃんに算数をおしえる」ための知育教材を注文する。チビはこのごろ風呂の中で、ディズニーのビニール・シートの英語教材を使ったつれあいの「授業」を受けていて、グッバ−−イ ! と言いながら風呂場から出てくる。なんせ神童だから、いろいろプログラムも要るのである。ちなみに私はこれらの件に関しては、ほとんどつれあいのやりたいように任せている。1万5千円の代金は、引っ越しのどたばた等で今年のチビの誕生日のプレゼントを渡し損ねた彼女の実家が出してくれるという。

 つれあいはまた先日行ったヴァイオリン教室に飽きたらず、鈴木鎮一なる人のヴァイオリン教育を受け継ぐ才能教育研究会(スズキ・メソード)のサイトを見つけて、その教室がたまたまうちの近くにもあったことから連絡をとり、本日チビを連れて見学へ行ってきた。図書館で借りてきた鈴木氏の著書「愛に生きる」(講談社新書)を読んで感銘を受けたらしい。私もぱらっと覗いてみたが、何やら幼稚園児たちが野原でヴァイオリンを弾きながら輪になって歩いている写真や、その独特の教育法や子どもたちの生演奏を聴いていたく感動をしたというカザルスのエピソードなどが載っていた。

 ある人から、うちのサイトをリンクしてくれている山梨に住む絵描きさんがいらっしゃる、というメールを頂き、散歩がてらに覗きに行く。榎並和春さん。神戸出身で甲府に住み、地元や東京で個展を開いている。どことなくルオーを思わせるような、近作(「あそびをせんと」「まれびと」)の佇まいが、よかった。しかしキリスト教的というよりはどこかしら仏教的・アジア的なポエジーを湛えている。ふと歩みをとめた愚者のつぶやきのようであり、山川草木に散らばった日だまりの味わいがある。この人も「哀しみ」の人ではないか、と思った。こんな作品を描く人が、私の駄文を見知らぬところでそっと読んでいてくれたことに、うれしく思う。「日々好日」と題された日記の、その温度もいい。

 つれあいの実家からカツオの良いのが手に入ったからと、宅配便が朝に届いた。まるでまぐろのトロのような脂のノリで、刺身が大好物な私は昼と夜にそればかりをたらふく食べ、すこしばかり胸焼けをした。

2002.11.30

 

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 ヴァン・モリスンをはじめて聴いたのは1971年のアルバム Tupelo Honey で、たしか集英社文庫だったと思うが「青春音楽グラフィティ」なる洋楽の入門書があって、その巻末の名盤リストにあったレビューの「魂の叫び」云々といった常套句に誘われたのだと思う。しばらくして1970年の名盤 Moondance も買った。どちらも良いアルバムだったけれど、いわば「それなりにロックの歴史をたどる」といった以上のものではなかった。それと当時は、モリスンの声にある独特の臭みのようなものが気になって、それがいまいち馴染めない感覚もあったのだった。その後も、ライブ盤の It's Too Late To Stop Now (1974) くらいは買ったんじゃないかと思う。

 転機となったのは1986年に出た No Guru, No Method, No Teacher だった。偶然、FMラジオで発売されたばかりの数曲がかかり、きっと何か惹かれるものを感じたのだろう、すぐにレコード屋に走った。そしてたちまち、没入した。何もかもが、その頃のじぶんの心根にぴったりとハマったのだった。モリスンの No Guru, No Method, No Teacher は、ディランがイエスへの赤裸々な信仰を歌った1980年のアルバム Saved と並んで、ロックなどという範疇を大きく逸脱した、私にとっての得難い魂の糧となった。このアルバムの魅力を、そう、何と言ったらいいだろうか。それは一枚の深い瞑想のようなレコードだ。みずからの心根へ下っていくような静謐さと決意と情熱だ。そのタイトル曲を私は後に、通信大学時代からの友人で車椅子の生活を送っている英文科出身のEちゃんと二人で共訳し、当時酔狂で内輪にばらまいていた手製の同人誌のようなものに掲載した。拙い訳だが、そのままここに引く。

 

夏の夕立のあとは
通りはいつまでも雨に濡れている
わたしはきみが立っているのを見た きみが
庭に立っているのを 雨に濡れたその庭に

悲しみのなかで きみは涙をぬぐった
二人して地面へ落ちていく花びらを見つめながら
わたしはきみのそばにすわり とても悲しかった
あの日 その庭で

ある日 きみは家へ帰ってきた
きみはとても有頂天になっていた
きみはじぶんの魂の鍵をもち 開け放った
きみが庭へ帰ってきた その日

なつかしい夏のそよ風がきみの顔に吹いていた
神の光が 恵みを受けたきみの上に輝いていた
両親にかこまれて庭にすわっていたきみは
まるでスミレの花のような色をしていた

夏のそよ風がきみの顔に吹いていた
きみはスミレの花の内側で 夏の約束を心にとどめる
そしてわたしの首から脊柱に戦慄がはしり
はっきりと確実に わたしを燃えあがらせた
その庭で

それからきみは夢幻の中へ入っていき
きみの純真な幻想は とても きれいになった
わたしたちは教会の鐘の音をきいた-----とても愛おしかった
そして永遠の夏の青春の存在を感じた その庭で

それがきみの頬にそっと触れると
きみは生まれ変わり 顔を赤らめた
わたしたちは互いにそっと触れあい
キリストの存在を感じた その庭で

きみに向かって わたしは言った

 グルも 組織も 教師もいない
  ただ きみと わたし
   そして 自然と 精霊と
    父なる神だけだ と

         -------その庭で

(Van Morrison・in the garden 1986)

 

 つまり、そういう瞬間というのはあるものだ。この一枚のレコードによって、私は「ヴァン・モリスンのすべてが分かった」。かれのボーカルに対する違和感はかき消え、ゼムの時代のシンプルで性急なロックンロールも、ニューヨークのジャズメンたちを従えた Astral Weeks の革新性も、何もかもが腑に落ちた。それから私にとってモリスンの音楽は、レノンとディランのそれに並ぶ、なくてはならないもの・魂のパンとなった。Veedon Fleece を聴きながら秋の会津盆地をひとり、どこまでも歩き続けた。暗闇のなかで Saint Dominic's Preview のサウンドをそっと呑み込んだ。1979年の Into The Music に始まり Common One、Beautiful Vision、Inarticulate Speech Of The Heart と続くスピリチュアルな作品にひたすら耳を傾けたのは、ちょうど父親が事故で死んだ季節だった。チーフタンズと組んだ Irish Heartbeat の大地の歌をウォークマンで聴きながら、東京の雑踏を見あげた。鳳凰三山の山行からの帰りの電車のなかでは、美しい Avalon Sunset を聴いていた。Enlightnment を閉じこもりかけていた実家の淋しい自室でつま弾いていた。CD2枚組の Hymns To The Silence が出たのは、品川のアパートでひっそりと暮らしていた頃だった。その音楽だけが唯一のリアリティだった。

 モリスンの音楽は、喩えて言うならば、無骨なハート&ソウルを持った羊飼いが、あちこちへ散らばった羊たちを集めながらゆっくりと、家路をたどっていくような音楽だ。羊は容易に集まってはくれないが、焦ることはない。日はまだあるし、わが家はじきに見えてくる。家に着いたらあたたかいココアを飲んで、暖炉のそばでブレイクの詩集を読む。この魂に必要なものはすべて、そこに揃っている。

 

 No Guru, No Method, No Teacher から数年後に、私は次のような稚拙な詩のごときものをこっそりとノートに記した。それはモリスンの歌に対する、私なりの返歌だった。そしてそれは、私がはじめて「じぶんを生かすために」書いた詩だった。いまでも私は、ときにその拙い自らの想いを読み返す。もちろん、モリスンの音楽とともに。

 

 

in the garden

 

 庭にすわっている。庭にすわっていると気が狂いそうだ、とその人は言う。きみがいるから空間が傷つく。きみがいなければ、全体性が目覚めるだろう。なにもない空間に風だけが吹いている。想像してごらん。

 庭にすわっている。庭にすわっていると時間がかすんでしまう、とその人は笑う。イエスが死んだのはきのうのこと。きみが生まれたのは、先週の水曜だ。だれも死ななかったしだれも生まれてはこなかった。あの夏の日はどうだろう。よびもどしてごらん。

 荒野でどれだけ長いこと、怖れに酔っぱらっていられるだろうか。暴力が国家を動かし、欲望が世界を支配している。ひとびとはゲームに熱中している。きみがさよならを言っても、だれも気がつかないだろう。きみの死は意味がない。だれの死も意味はない。

 庭にすわっている。庭にすわっていると取り戻せそうな気がする、とその人は言う。きみに勝ち目はない。現実は暗闇だから。きみの夢は鉄でできていて、蒸気船の中でさかさに吊されている。でも彼女のいった言葉をおぼえているだろう。「ここは通り過ぎるだけの場所。ここは勇気が試される最後の通り」

 それで庭を出て、ここへ来た。

(1989.9)

 

 一歩を踏み出す勇気。それはいつも、一歩を踏み出す最後の勇気のことだ。

2002.12.1

 

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 午前中、子どもが通っている障害児童のための交流施設を見学に行く。みんなで輪になっての手遊び歌のところで「隣のお友達と手をつなぎましょう」との指示に、うちのチビの隣の母親が「ごめんなさい。うちの子はダメなんです」とつれあいに釈明する。子ども同士で手をつなぐことに拒否反応があるという。また、別の自閉症の3歳の子どもは、言葉も話さず、何に対してもほとんど興味を示すことがない。その子がテレビに映ったNHK「お母さんといっしょ」の人形劇のチョコランタンに対して珍しく指差しをしたことから、母親は100枚に及ぶハガキを投函して大阪のNHKホールで行われる収録会のチケットを当てた。「この子が指差ししてくれたもののためなら、日本中どこへだって行きますよ」と、その母親はつれあいに言ったという。つれあいはそんな話を、まるで我が子のことのように私に話す。

 

 金子光晴の随筆「どくろ杯」(中央公論社)の冒頭で、大正の関東大震災を回想した次のような文章を読む。

 

 ふりかえってみると、あの時が峠で、日本の運勢が、旺(おう)から墓(ぼ)に移りはじめたらしく、眼にはみえないが人のこころに、しめっぽい零落の風がそっとしのび入り、地震があるまでの日本と、地震があってからあとの日本とが、空気の味までまったくちがったものになってしまったことを、誰もが感じ、暗黙にうなずきあうようであった。乗っている大地が信じられなくなったために、その不信がその他諸事万端にまで及んだ、というよりも、地震が警告して、身の廻りの前々からの崩れが重なって大きな虚落になっていることに気づかされたといったところである。

 

 これは平成のあの神戸の地震にも、不思議だがおなじことが言えるのではないか、と思った。

2002.12.2

 

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 火曜。(おそらく)「めばえ学園」の子どもの体操がもとで、つれあいが腰を痛める。もともと背骨がすり減って神経に触る腰痛があって、ときおり何かの拍子で再発するのだが、ほとんど一日を布団の中で過ごす。湿布代をけちり、生姜汁で煮た「コンニャク湿布」をつくって貼る。「体によく効く100の自然療法」(松田有利子・廣済堂)より。

 木曜、夜。つれあいの学生時代の友人で、大学の先生の書生さんをしているOさんから電話。Oさんが先生より引き継いで受け持っている、宇治のある文学サークルの講師役をやらないかというお誘い。土曜の毎月一回、交通費込みで1万2千円の小遣い付き。興味を覚えつつも「人様の前で話をするような器ではないので」とやや腰が引け気味。あとはOさんが最近行ってきたアメリカ西海岸の様子(浮浪者や9.11に関する論調など)や、差別、フェミニズムの話など。長電話は深夜まで及び、最後に大峰山の女人禁制の話でややこじれたまま終わる。「過激なフェミニ」を自称するOさんは「山はパブリックな場所」と言い切り、「古層にある心性まで否定するのは反対」と主張する私を「そのような男女のイメージは古臭い」と切り捨てる。寝床でつれあいが「世の中は“パブリック”になりつつあるのに、○○さんだけ縄文時代のままなのよ」と「解説」をしてくれた。「どうせおれは河島英五の“時代おくれ”だ。“酒と泪と男と女”だ。フェミニがナンボじゃ。」と、ごちて不貞寝する。

2002.12.5

 

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 こんな風の匂いをいつか嗅いだことがある。こんな風の匂いをいつかも嗅いだ。あのベナレスのガートを夕暮れに歩いていたときだったかも知れない。東北の鄙びた寺の境内にひとり佇んでいたときだったかも知れない。熊野の山中のトンネルの端にバイクをとめて雨を見あげていたときだったかも知れない。東京湾の静かな夜景を友人と二人で眺めていたときだったかも知れない。おれは相変わらず徒手空拳で、唾を吐きつづけている。おれは相変わらず、陰気な山の斜面で草を食(は)んでいるくたびれた騾馬のように、みすぼらしく愚かしい。だがこんな風の匂いをいつか嗅いだことがある。こんな風の匂いをいつかも嗅いだ。

 

When you've given up hope & you're down in despair
When you've given up hope & you're down in despair
When you've given up hope & you're down in despair
When you've given up-

And you sit in your room and you're all alone
And you turn to the one and you turn inside
For a while
Say, help me, angel.

Oh, no, never let spirit die.
Oh, no, spirit don't ever die.
Oh, no, never let spirit die
Oh, no, spirit don't ever die.
Spirit don't ever die....

(Van Morrison・Spirit 1980)

 

2002.12.6

 

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 チビの鼻水も咳もなかなか止まらないので、先日あらためて病院で診てもらったところ、気管支喘息と鼻炎アレルギーとの診断。要するに敏感であるらしい。どちらも引っ越してからずっと続いているので、あるいは団地の内装の塗料かとも疑ってみるが、詳しいことは分からない。医者の話では小学校へあがる頃に多くは快復するが、逆にひどくなるケースもあるという。

 今日は朝から、市民会館で催された劇団カッパ座の人形劇「ピノキオ」へチビを連れて行く。なかなか本格的な舞台で、大人も結構楽しめた。もちろんチビは大喜びで、他の子どもらといっしょに歌をうたったり、「ピノキオ、起きて ! 」と舞台に声援を送ったり。終了後、西友のレストラン街でお子さまランチを食べ、それから近くのヴァイオリン教室にて慣らしの見学。小雨の中、カッパを着て帰ってきてから、鉛筆をじぶんの鼻に当ててピノキオの真似をしているので、つれあいがスティックの糊でおなじように真似をしたところ、「それはノリだから、違うでしょ」と訳の分からない窘(たしな)め方をされたとか。

 

 このごろはPCに向かえば、Webで入手した非合法ディラン実況音源ばかりを聴いている。齢60にしてディランは、実に生涯で最高のパフォーマーになったのではないか。それほど演奏はどの曲も優れていて味わい深い。かつての60年代の録音ではなく、2002年の現在進行形のディランに私はシビれ、新しい風をもらうのだ。ディランは60年代が最高だよなぞと最もらしく語って、いまでは重たい管理職の椅子にどっぷりと腰かけている連中は恥ずかしく思えよ。あんたらにとって Maggie's Farm とは何だったのか。Blowin' In The Wind とは何だったのか。The Times They Are A-Changin' の歌の中で追い抜かされる者は、立ち止まったからそうなのであり、不器用でも走り続けていれば誰にも追い抜かされることはないのだ。あんたらのいまの惨めさは、それに気づかなかったところだ。頼むからカラオケで Mr.Tambourine Man なんか懐かしく歌わないでくれ。あんたらはすでに終わっちまってるのかも知れないが、まだ終わっていない男がここにいる。心あるなら、いまからでも遅くはない。いまだ転がり続けている、この男の歌を聴くことだ。

 

 チビが巷に溢れているクリスマスの飾りを欲しがったので、西友の百均の店でプラスチックのツリーといくつか付属品を買ってきて、脱脂綿の雪を散らして飾った。オーティス・レディングのクリスマス・ソングをかけて二人で踊った。

2002.12.7

 

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 相米慎二監督の映画「お引っ越し」を見る。あたらめて、53歳の若すぎる死が惜しまれる。両親の別居にけなげな抵抗を示す11歳の少女。だがみずから計画した家族旅行の祭りの夜に、少女は幻想的な琵琶湖の森と湖畔の静けさの中をさまよい、最後に両親の離婚を受け入れ、たくましく成長してゆく。ここには軽やかな、しかし充分に重い、少女のまっすぐな視線に支えられた「あたらしい感覚」がある。荘厳な火祭りの深みに少女の心根を引き込むだけの確かな手腕がある。

 

 風呂の中で「明恵上人伝記」(講談社学術文庫)を読み返す。明恵の輝きとは、ひとえにブッダに対する憧れのただひたすらな純真さである。他のものは目にも入らない、その愚直さである。かれの驚くべき夢日記や神秘的な行状の数々は、(かれ自身も言っているように)その些細な附録にすぎない。あのフランチェスコもそうであったろう。そこには怪しげな神秘は何もない。ただ素朴で単純な、純真なる行為があるだけなのだ。いわば足し算ではなく、引き算だ。私たちは常に複雑な多くのものを抱えすぎているがために、その「素朴な単純さ」に容易にたどり着けない。あの白峰の孤独な大盤石の庵で明恵が己の耳を削ぎ落としたのは、ある意味でかれなりの「激しき引き算」であったと言えるかも知れない。私たちは、すでに両手で持ちきれないほどの無数のガラクタを抱えていながら、さらにより多くのガラクタを求めて虚しくかけずり回っているのではないのか。

 

 「私たち」ではない。「私」だ。他人のことはどうでもよい。そんなものは忘れてしまえ。お前の足元を覗き込めば、虚しいばかりの暗い穴ぼこがぽっかりと口をあけている。己を語れば語っただけ、おまえはあの「素朴な単純さ」から遠ざかる。

2002.12.8

 

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 師走だなあ。ボクは12月になるといつも師走なんだ。というタモリの替え歌・加山雄三を口ずさんで、いつもの如くつれあいに黙殺される。12月というと私にとって、クリスマスよりもジョン・レノンの殺された季節であり、山下達郎の「クリスマス・イブ」よりもシオンの「12月」なんぞをふと思い出す。アコギ一本でラジカセの前でがなっているようなあの曲の、埃っぽいショボくれ様が好きだ。と書いてはみたものの、ほんとうは巷に流れるレノンの曲で「ああ、そういえば」といつも、遅かれ乍ら思い出す。1年365日、レノンの歌はしょっちゅう私のなかで響いているから、特別この日に聴かなくったっていいわけなのだ。だいたい毎年この時期や、あるいはどこかで戦争やテロが起こるたびに、レノンのイマジンがお決まりのように流れる光景は、もう、ちょっと食傷気味だ。あの日、ぼくが中学校から帰ると、家の仕事場でミシンを動かしていた親父が「さっきラジオで、ジョン・レノンが殺されたって言ってたぞ」と教えてくれた。穴ぼこは埋まらない。ターンテーブルの上には「ダブル・ファンタジー」がいまも乗ったままだ。死んでしまったからといって、聖者になったわけじゃないのだ。Instant Karma ! を口ずさみながら、自転車で繰り出そう。おれは今日も元気だ。

2002.12.9

 

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 しばらく前に自転車で20分ほどの市営の公園へチビを連れていった。屋内プールがあって、障害者手帳があると付き添いの親2名まで含めて無料で利用できるというので見学に行ったのである。若草山が眺望できるなだらかな斜面を利用した数十メートルもの長大な滑り台が公園内にあって、チビはそれがいたくお気に召したのだが、帰り際にそんなアスレチック遊戯のひとつに私がよじ登り、てっぺんに据え付けられた鐘を叩いてみせた。たとえばそんな何気ないことを彼女はよく覚えていて、今日、クリスマス・ツリーに飾ったベルから連想して、一生懸命にそのときのことを説明する。はじめは聞いている親が何のことか分からず、ああそうか、アレのことか、とすっかり忘却していた記憶を呼び起こされる。子どもにとっては何もかもが新しく新鮮なことなのだ、と思い知らされる。逆に大人にとっては多くのことが惰性にすぎないのだとも。

 ベネッセ・コーポレーションから郵便にて図書券2千円分が届く。「ご依頼いただきましたご優待品」との同封の文言にしばらくつれあいと二人で首を傾げるが、差出人の「株主優待係」を見てもしやと思い当たり、友人のO氏に電話をすれば案の定。早めのクリスマス・プレゼントで、チビの絵本代に、とのこと。

 

 ディランの対訳をふたつ。といっても、どちらもファースト・アルバムの曲で、ディラン自身の作品ではない。古いブルースや伝承曲のカバーだ。ディランのファースト・アルバムは死の影が濃厚だ。ぷんぷんと匂い立ってくる。それは正しい出発点なのだと思う。歌い、語り継がれてきたトラディショナルな死の光景に、20歳のディランはどっぷりとその身を浸している。

 

 辺見庸の新刊が出た。「永遠の不服従のために」(毎日新聞社 @1429)。「サンデー毎日」連載の「反時代のパンセ」をまとめたもの。

2002.12.9 深夜

 

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 はじめは風邪だと診断を下しながら薬が効かぬとみればこれは喘息だと掌を返す医者が信用できず、チビは今日、脳外科の定期検診ついでに国立病院の小児科も回らせた。結果は、生理的なものだろう、とのこと。幼児だからまだ環境(季節)の変化についていけない部分があって、小学校にあがる頃までには順応できるようになる。咳も、止まらないくらいならともかく、夜には眠れるような程度なら喘息とまでは言えない。脳外科のY先生も、それほど気にかけなくてもいいんじゃないかなあ、といつもののほほんとした答えだったとか。ちなみに近所の小児科医はアレルギーの専門医でもあるとか。これで少しは安心したというか、まだ不安が残るというか、ややすっきりしない複雑な気分でもあるが。

 Y先生より、しばらく前に行った知能を含む生育テストの詳しい結果を伺う。チビの数字は100で、標準では80、70になるとやや劣っているといった目安だとか。ただしチビの100というのは全体の平均値で、運動面が若干それを下げている。言語能力や認知能力はそれぞれ120、108の高得点であったそうな。

 泌尿器科ではいつもの導尿セットのほかに、市に提出する医師の意見書を書いてもらってきた。これは「めばえ学園」で知り合ったおなじ病気をもつ子どもがオムツ代を支給されていると聞き、つれあいが役所にかけあったのである。その子はうちのチビより障害者手帳の等級が上で、役所は当初は渋ったそうだが、導尿摘便の症状はおなじではないかと(珍しく)つれあいが粘り、結局、おなじように月額2万円分(二月分単位)が介護費として現物支給されることになった。ふつうの子どもと違って2,3時間おきにオムツを換えなくてはならず、すべてを紙オムツにするとオムツ代だけでも馬鹿にならないので、これまでずっと布オムツと併用してきた。これでオムツを洗う手間がなくなると思ったら必死だった、とは彼女の弁である。ついでに役所近くの取り扱い薬局にもかけあって、配達の便宜も取りはからってきた。

 このごろの私とチビとのはやりものモ 「愛し合ってるかぁい!?」と私が叫ぶと、「愛し合ってるよぅ!! いえぃ」と元気に答える。愛(う)い奴じゃ。

 

 もんむーさんは以前、BBSにて私の書いた拙い小論「差別あるいは差異化についての覚書き」に対するコメントを頂いたことがあった。先日、あらためてメールで丁寧な感想を書いて送ってくださった。ひょんなことから12月より「主にひきこもりの人を対象にしたフリースペース」を運営することになったという。峠の茶屋通信(http://mommoo.que.ne.jp/) それを引き受けた背景には私の拙文の影響もあったと記されているが、それはもんむーさんなりの心遣いというものであろう。とまれ嬉しい便りであることは相違ない。とても内容の濃いメールであったので、ご本人の承諾を頂いた上でサイトの紹介がてら、全文をここに紹介しておく。

 

まれびと様

春頃にBBSに書き込んだことのあるもんむーこと○○○○です。その時には「差別、あるいは差異化についての覚え書き」の感想を送りたいというようなことを書いたと思うのですが、私事でいろいろと抱え込んでしまったことと、差別という問題の奥の深さにとまどったことなどが重なり今日に至ってしまいました。どうもすいません。

私事ながら12月より、主にひきこもりの人を対象にしたフリースペースを運営することになりました。とある相談施設の2階を借りてやります。よろしければホームページをご覧ください。http://mommoo.que.ne.jp/

僕自身フリースペースを運営するのは初めてで、ひょんなことから運営を頼まれた時には、正直面食らってしまったのですが、それでもひきうけようと思った背景にはまれびとさんのウェブページやその中の「差別、あるいは差異化についての覚え書き」の影響がありました。

その中にあったまれびとさんの知り合いの女性の言葉「これからの新しい価値観というのはたぶん、いままで弱者の立場にいて排除されて来た者、障害者や、自閉症の若者や、いじめにあって自殺を図った者、不登校児、社会に適応できない者、そうした中から出てくるのかも知れない」。この言葉が印象に残っていて僕を後押ししてくれたように思います。ひきこもりの問題はある種の暗さを抱えこんだ世界ではありますが、活動を通してその背後から新しい光も見えてくるような気がしています。

「差別、あるいは差異化についての覚え書き」の感想を書こうと思っていた時に、フリースペースの話も降ってわいてきたので、どうしても差異化というものと「ひきこもり」の問題を重ね合わせて考えてしまいます。自分と他者との違いが明らかになった時(差異化)に、その困惑から他者とのコミュニケーションのチャンネルを失ってしまうという事態がひきこもるということなのだと考えています。

差別と差異化の問題はこれまで社会制度の文脈の中で語られてきたことですが、今日では極めてパーソナルな問題になりつつあるように思います。社会制度としての差別は対象が特定の人に限られていますが、他者との差異が露わになりやすい情報化社会の今日ではおのおのが自分の環境と情報に基づいてあらゆる他者を差異化し差別するという、差別の自由化ともいうべき状況が現出しているように僕は感じています。

僕もサンカへの興味をきっかけにして中世に関する網野善彦や赤坂憲雄などの本を読んだのですが、網野氏らの描く無縁や公界の世界を通して、僕は中世という時代にある種の多様性の豊穣さを感じています。中世は他者との差異が当たり前のものとして受け入れられていた時代であるといえるでしょう。そこにはもちろん差別に基づく不当な扱いも存在したのでしょうが、人間が仮想的に均質化した現代より多様であることにもっとおおらかだったのではないでしょうか。

他者との差異を自覚するということは差別を誘発するけれども、一方で他者と関わりあう契機ともなりうる分水嶺のようなものではないでしょうか。さきほども書きましたが、情報化社会は仮想的に均質な市民という幻想を破壊して他者との差異を露わにします。

既存の共同体が崩壊し、内部とは自分一人のことであるとするならば、赤坂憲雄の言うように内部/外部という強迫的な二元論に呪縛されていない狩猟採集を基調とする遊牧民のようなスタンスがこの社会を生きていく上で有効になってくるのではないかと考えています。

先日山岸俊男氏の「安心社会から信頼社会へ」という本を読みました。山岸氏はこの本で安心に基づく集団主義的な社会の崩壊を踏まえて、その先にあると考えられる信頼に基づく人間関係や経済活動を論じています。これからの「信頼社会」では集団の人間関係の地図を持たずにその場その場で周囲の人たちの人間性を見極めて関係を結んでいく能力つまり他人を信頼する能力が必要であると説いています。またはなから他人に不信感を持つ人は社会的機会を喪失していくだろうとも言っています。

日本型社会システムへの不信が広がる中においては集団から解き放たれた個人として、いかに有益な他者との関係性を構築していくかがキーポイントになっていくのではないでしょうか。

まれびとさんの文章を読んでいろいろなことを考えさせられました。このような機会を与えてくださってどうもありがとうございました。まれびとさんのゴム消し、毎日楽しみに読んでおります。また掲示板にたわごとを書き込むかもしれませんが、よろしくおねがいします。

(もんむーさんのメール)

 

2002.12.10

 

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 ボブ・ディランの対訳などということを始めたのは、そもそも私が粗末なHPを立ち上げた当初に酔狂で、それまで好きで個人的にこっそりと訳していた数名のアーティストの曲の私訳をアップしたところ、その中にあったディランの every grain of sand の訳を見たきはらさんから「ぜひディランの全曲訳を」とのリクエストを受けたのがきっかけであった。そのとき私はきはらさんと「全曲訳が達成した暁には、ご褒美に(きはらさんの地元の美しい)棚田の一枚を頂く」という約束を交わしたのだが、きはらさんの方はもうとっくにそんな話は忘れているかも知れない。ちなみにボブ・ディランの作品は、公式なものでも優に四百曲近くある。

 誤解されると困るのだが、私は英語に関してはまったくのトウシローである。つれあいは中学の英語教師の資格を持っているが、私は高校英語どころか中学レベルでさえ怪しい。昔インドのホームで「Is It Train go to Calcutta ?」と言って、同行したワセダ出の友人に笑われたくらいだ(Does It 〜 が正しい)。そんな私だから、ごく簡単な単語でもこまめに辞書を引いて確認する(だから時間がかかる)。つれあいに言わせると、それが大事なのだという。翻訳に馴れた者ほどうっかり見過ごしてしまうものがあると言うのだ。実際に訳していて、シロウトでも分かる単純な誤訳が結構多いことに驚かされる。もうひとつ、私にはディランの対訳における自分勝手な矜持があって、それは日本語の感覚・センスである。だいたいレコードに付いている対訳というのは粗雑なやっつけ仕事が多くて、そもそも私が苦手な英語に取り組んでまでもディランの私訳をつくりたいと思ったのは、そんな既成の訳詞に対する不満もあったのだった。不遜を承知で言うならば、読むに値する文学作品のように、ディランの歌詞を訳したかった。

 よくディランの歌詞は難解だということばを耳にする。「あれはそもそも非現実的な幻想だから訳しても意味がない」などというノータリンの意見まであって、私は断固として反撥する。ディランの歌詞は難解でも非現実の絵空事でもない。私はこれまで一度たりともそんなふうに思ったことはない。ディランの詞はリアルな現実、リアルな感情なのだ。たとえば「わたしが裸になり跪く前のことで覚えているのは / 汽車いっぱいの愚か者が磁場にはまりこんでいたこと」(Senor)という歌詞が、あるとき、これ以上じぶんの心根に当てはまるぴったりな表現はないといった具合に、突然降ってくる。つまり、かつてディラン本人が言っていたように「私の曲はすべて私が体験した現実のことを歌っている。私とおなじような体験を持ったことがない人だけが、私の曲の歌詞を難解だと思うのだろう」-----これに尽きる。いわばディランの歌とは、鮮やかに切り取られた人生の一場面、そこに込められた深い〈生きて在る〉情感なのだ。だからこそ、それは時代を経ても錆びつくことがない。私にとってディランの歌は、いつも明快で直截だ。

 ディランの詞を訳すことは、ひとつの大きな歓びである。しこしことオナニーをするかのごとく辞書をめくりながら、私はその曲をリアルに体験する。サウンドの中にあり、また作品が産み出されるまさにその現場に立ち会う。得難い旅をしてきたような気分になる。そんな歓びを与えてくれるものは、私にはかれの曲よりほかにない。

2002.12.11

 

 

 

 

 

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