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 ジョージ・ハリスンの死を悼み、ビートルズ時代のかれの曲をひとつ訳してみた。先のメール・マガジンで池澤夏樹氏が書いていたように、この作品はたしかにあの稀代のアルバム(『サージェント・ペパー』)の一角に、かれらしい静謐な「音楽寺院」を構えていた。中学生の頃にいっしょにビートルズを聴いていた友人の一人は『サージェント・ペパー』の中でこの曲だけいつも針を飛ばしてしまうと言い、また別の友人はこの曲だけ何度も繰り返して聴くと言っていた。ともあれハリスンの遺灰が本人の希望でガンジス川に撒かれたというニュースに接して私は、かれはきっとこの曲のような心持ちで静かにこの世界を去っていったのだろうと空想した。不思議だが、どこか爽やかな残像が瞼の裏に残る。ジョージ・ハリスンはビートルズの偉大な日陰者だった。

 

Within You Without You George Harrison 1967

We were talking about the space between us all
And the people who hide themselves behind a wall of illusion
Never glimpse the truth
Then it's far too late when they pass away.

We were talking about the love we all could share
When we find it to try our best to hold it there
With our love, with our love we could save the world
If they only knew.

Try to realise it's all within yourself no-one else can make you change
And to see you're really only very small, and life flows on within you and without you.

We were talking about the love that's gone so cold
And the people who gain the world and lose their soul
They don't know, they can't see
Are you one of them?

When you've seen beyond yourself
Then you may find, peace of mind is waiting there
And the time will come when you see we're all one
And life flows on within you and without you.

 

ぼくたちは ぼくたちみんなを隔てる隙間について話していた
人々は幻想のうしろに自らを閉じこめ
一目たりとも真実を見ようとしない
死んでしまってからではもう遅すぎるのに...

ぼくたちは ぼくたちみんなが分かち合える愛について話していた
手に入れようと必死になって それを見つけたなら
みんなの愛で ぼくたちみんなの愛で
ぼくたちは世界を救える それを知るだけでいい

  すべてはあなたの内に存ることに気づきなさい
  あなた以外の誰も あなたを変えることはできない
  あなたがとてもちっぽけな存在であることに気づきなさい
  生命(いのち)はあなたの内へも外へも流れている

ぼくたちはひどく冷え切ってしまった愛について話していた
世界を手に入れた代わりに魂を失くしてしまった人たち
かれらには解らない かれらには見えない
あなたもそのうちの一人だろうか?

  あなたが自分のかなたを見つめたなら
  解るはずだ 安らぎの気持ちが待っていることを
  やがてその時がきたら あなたは知るだろう
  ぼくたちはみんなひとつで
  生命(いのち)はあなたの内へも外へも流れていることを

 

2001.12.8 夜

 

*

 

 たとえばこの年の瀬に、西成あたりのどこかの公園の簡易テントの中で一人の老人が死んだ。かれは物心ついた頃よりこんな生活を続けてきた天涯孤独の身であったのかも知れず、あるいはあるとき妻子を捨ててこの生活に入った語れぬ過去があったのかも知れない。かれの人生は端から見たらまったく悲惨の連続であったかも知れない。雑踏の中で踏み潰されていく襤褸切れの如きものであったかも知れない。だがその襤褸切れの如き人生をかれ自らが選択したという現実において、ついにそこには肯定されてしかるべき一縷の何かがあるのではないか。私は、断固としてそう思う。もっとやる気があったら更生できたはずだとか、すべては懦弱なその心根故の自業自得だとか、そんなまっとうな二三を云ってみたところで、最早死んだ老人の耳には疾うに聞こえぬ。聞こえたところですでに鼻持ちならぬ。少なくともお前たちからはおサラバできる、と老人はあの世でほくそ笑んでいることだろう。

2001.12.9

 

*

 

 エックハルトを読んでいる。「われわれは何かであることを棄てなければならない。我ということ、それは欺くことである」「不幸が極まったとき、神は不在として現れる」と自らの不幸のうちに独語証言のように語るシモーヌ・ヴェーユはエックハルトを「神の真の友」と呼んだ。

 

 真実の、そして完全な従順こそ、一切の徳にもまさる徳であって、いかなる大事もこの徳なくしてはありえず、またなされ得ない。もしひとが従順からして己れ自身の外に出るならば、その時にはこんどは否応なく神が彼の中に入ってこられるにちがいない。なぜなら、ひとが己れのために何物をも欲望しないときは、神が彼のために欲望し給う---まさに御自身のために欲望し給うかのごとく---に相違にないからである。

 ひとは考える「人間はかくかくの事物から逃れ、かくかくの事物を求めなければならない」と。そしてその事物とはすなわち場所であったり、人間であったり、方法であったり、思想であったり、あるいはまた職業であったりする。しかしそうした事物方法があなたを妨げるというとき、その罪はそれらのものにあるのではない! むしろあなたを妨げるのは、それらのものの中に存在するあなた自身なのである。

 まったくまず最初にあなた自身から逃れるのでないならば、どこへ逃れて行こうとも、行く先々で妨害と不調和とが見出されるであろう。たとえそれが場所であろうと、方法であろうと、人間であろうと、職業であろうと、無宿であろうと、貧困であろうと、汚辱であろうと、その他いかなる飛び抜けた生活であろうと、およそそうした外形的なものの中に平和を求める人々にとっては、それらのものは何の足しにもならず、何の平和をも与えないだろう。

(「神の慰めの書」相原信作訳・講談社学術文庫)

 

2001.12.11

 

*

 

 赤ん坊は今日、大手前整枝学園にて泌尿器の検査。私は風邪が長引いていて、つれあいが連れて行った。結果はモニターによる膀胱の形もよく、柔らかさもよく、また満タンの状態から30分ほど様子を見て排泄の状況も見て貰ったのだがこれも順調で、医師の言をそのまま引けば「異常がないとは言えないが、現在のところ異常は見あたらない」とのこと。ただし尿が大腸菌に感染していて軽い膀胱炎のようなものを起こしていたそうで、つれあいに言わせると前日プールで粗相をしたのが原因ではないかしらと言う。薬を五日間服用したら治るという。あとは毎月一回の尿検査と半年に一回の膀胱検査を続けて様子を見ることになった。とりあえず泌尿器の第一関門は無事突破で、脊髄において泌尿器や排便の神経は足の神経より下部にあるので、それが無事であったら足の神経の損傷にも希望が見えてくる、と言った脳外科のY先生のことばを持ち出し、つれあいはひどく喜んでいる。

 学園にて偶然、夏にいっしょに琵琶湖畔へ旅行へ行ったやはり同じ二分脊椎のMちゃん母娘に会ったらしい。この若いお母さんは自己紹介の時にぼろぼろと涙を流して話を幾度も中断していた。学園で整形とリハビリを受診しているそうだが、つれあいの聞いた話ではMちゃんは何とか歩けるものの、両足の親指がすべて内側へ曲がっている状態であるという。

2001.12.11 夜

 

*

 

 ちょっと風邪が長引いていて、今日はこんな頭の体操でお茶を濁す。前述した内田百間翁の阿房列車よりの一場面である。

 

 それから今度は電気機関車で走り出した。暮れかけている外を眺めていたが、顎のカラの外れの所に蕁麻疹が出来て、痒くて堪らない。爪で押して窓の外の一所を見つめていると、景色の方がどんどん移って行く。山系が隣りからこんな事を云い出した。
「三人で宿屋へ泊まりましてね」
「いつの話」
「解り易い様に簡単な数字で云いますけれどね、払いが三十円だったのです。それでみんなが十円ずつ出して、つけに添えて帳場へ持って行かせたら」
 蕁麻疹を掻きながら聞いていた。
「帳場でサアヴィスだと云うので五円まけてくれたのです。それを女中が三人の所へ持ってくる途中で、その中を二円胡麻化しましてね。三円だけ返してきました」
「それで」
「だからその三円を三人で分けたから、一人一円ずつ払い戻しがあったのです。十円出した所へ一円戻って来たから、一人分の負担は九円です」
「それがどうした」
「九円ずつ三人出したから三九、二十七円に女中が二円棒先を切ったので〆て二十九円、一円足りないじゃありませんか」
 蕁麻疹を押さえた儘、考えて見たがよく解らない。それよりも、こっちの現実の会計に脚が出ている。

 

 サテ、この話の論旨は何がどうオカシイのか。一寸考えてみたらオカシイのは気付くのだが、それをスマートに説明するとなるとやや難しい。聡明なる読者諸兄の名解答を掲示板にて待つ。

2001.12.12

 

*

 

 先月であったか、わが家に謎の小包みが届いた。裏には「かずじい」の謎の暗号ネームだけ。まさか炭疽菌攻撃ではあるまいなと疑いつつも封を切ると、中からCDが一枚出てきた。何でも謎の「かずじい」なる人物が古道具屋を漁って集めた名品コレクションを、わざわざ低速のコンピューターでCD-Rに焼いたものだという。そいつが何だってわが家へ送られてきたのか? 果たして「かずじい」なる人物の目論見は? 謎は尽きないが、しかしこのCD、炭疽菌より手強いやつであった。ちなみにCDに添えて、こんなご丁寧なる落とし文が一枚。

 

 

「2001年かずじい、秋の気分」というタイトルのCD

 

1.友だちじゃないか 詞曲:トータス松本 演奏:ぢ・大黒堂(ビートたけし、トータス松本、ユースケサンタマリアのユニット、+三宅祐司+g.野口五郎)「楽しいでしょ、おいっ」てな調子で若いのに聞かせるけど、ほとんど無視されるこの曲。トータス君は隣町の出身で、小さい頃お父さんのバイクの後ろに掴まって、西脇のレコード屋さんへ買い物に来たそうです。99.2.5発売のCDシングル、新橋スーパーミュージック

2.ONE FAVER 詞:九條仁里 曲:山崎まさよし 演奏:ぢ・大黒堂、1.のアウトサイド(CDは2曲目が外側にあるので。B面ともいう)

3.セロリ 詞曲:山崎将義 唄:山崎まさよし ご存じスマップのヒット曲。96.9.1発売のCDシングル

4.二人の夏 詞曲:浜田省吾 唄:山下達郎 浜田省吾がソロデビュー前の愛奴(あいど)で唄ってた曲を達郎が95年にカバーしました。

5.ノーノーボーイ 詞:田辺昭知 曲:かまやつひろし 唄:かまやつひろし セルフカバー89年フォーライフレコード。大御所の再レコーディングに、ベテランのロック好きが大勢集まってつき合ったっていうアルバムから。

6.フリフリ 詞曲:かまやつひろし  唄:かまやつひろし 同上。実は私はこういうバックで歌いたい、というスタイル。  

7.ALLORA・・・ 詞曲:かまやつひろし  唄:かまやつひろし KENWOODのCMソング、だったらしい。ブリジット・フォンテーヌみたいに無茶にならないぶん、聞き易い? かまやつのあの声質には、もっと似合う曲がいっぱいあると思うけど、そんな曲はいまんとこ出してくれない。94.9.21発売のCDシングル。インサイド(A面)は園山俊二作詞の「やつらの足音のバラード」でした。  

8.接吻kiss 詞曲:田島貴男 唄:オリジナルラヴ 何年前か、風吹ジュンが初めての浮気というか、結婚して以来初めて抱く他人への恋心みたいなのを、やらしく演じていたTVドラマの主題歌。風吹ジュンが好きなんです。93.11.10 CDシングル 

9.宵待草 詞:竹久夢二 曲:多 忠亮 編曲:中富雅之 唄:マイケル・G う〜ん、雰囲気。90年金鳥蚊取ソング

10.駅 詞曲:竹内まりや 唄:鈴木トオル ちょっと僕の趣味ではないのだけど、時々出してきては聞いてみる鈴木トオル君の声(やっぱ、気持ちいいのかな)。鈴木トオルに歌わせたい曲をファンが投票で決めたというアルバム94.9.28発売から。 

11.抱いて・・・ 詞:松本 隆 曲:David Foster 唄:鈴木トオル 同上、松田聖子さんの曲です。  

12.ステラ 詞:松本明子 曲:吉田拓郎 編曲:吉田建 唄:松本明子 不思議な魅力を持っていると感じる、明子さんです。99.5.12発売CDシングル  

13.メリージェーン 詞:Christopher Lyn 曲:つのだ★ひろ 唄:研なおこ 聞き慣れた曲を、全く違うアレンジで、ボーカルで聞いてみる。ぼくの趣味です。  

14.もう一度ピーターパン 詞:秋元 康 曲:井上ヨシマサ 唄:ゆうゆ 89年CDシングル。長い間、日曜夜7時30分からの30分は夫婦でゆっくりと同じ一つの画面に見入る貴重な時間だった。二人で涙した日もあった。その習慣が崩れたのはいったい、なんのせいだったのだろうか。よく思い出せない。

 

かずじいkaznsa@aol.com 

 まず一曲目の骨太ビートから「おっ、なかなか」と思ったね。ウルフルズのトータス松本と知って「なるほど」と納得した。しかしこんな凄い面子のユニットは知らなかったなあ。歌詞もいい。他にもスマップや松田聖子のヒット曲を別のアーティストが歌っているものもあり、さしずめおぼろ豆腐にココナッツ・シロップをかけたような心地で、これはこれで新鮮に聞こえる。松本明子が吉田拓郎の曲を歌っている。あんなキャラだが実は元アイドルで、性格も結構私は好きだ。歌にもそんなスナオさが出ている。何より個人的に興味を引かれたのはムッシュかまやつの数曲だろうか。5曲目の不思議なふにゃふにゃ感は妙に喉元に残るが、'60年代新宿の風景をことばの羅列で綴った7曲目はチャボなんかも影響を受けたんじゃないかとも想像して刺激的だった。後半は竹久夢二の有名な「宵待草」や研なおこのメリージェーンといったしっとり小唄が続き、最後はゆうゆのお人形さんソングで優雅に締めくくられる。

 噂ではこのけったいな手製CD、心斎橋筋あたりのブラック・マーケットで覚醒剤のオマケに付いてくるとも聞く。う--ん、わがMacにもCD-Rが装着されていたら、さっそく「報復攻撃」に出たいところだが。さしずめタモリやエノケンやショーケンや三上寛をぶちこんで、最後は渡辺美奈代の「いいじゃない」あたりかな。

2001.12.13

 

*

 

 

こんにちは。お久しぶりです。

> 赤ん坊の病気について「 おお!!それは、すばらしい。」の○ちゃんの冒頭の言葉を、私ははじめ素直に受け取れませんでした。

そりゃぁ、そうでしょうね。そんなもんです。

> たぶん、そこには乗り越えなくてはならない距離があるわけですが、それははじめから乗り越えたものではなく、まずは乗り越えなくてはならないものとして存在するのだと思います。

そうだと思います。現在の社会では、障害を持つ人と持たない人の間には、大きな川が流れていて、分断された状態です。でも、「障害を持ってても持ってなくても、一緒やん!」という大雑把な理解で川を越えようとすると、間違い無くおぼれると思います。両者の間に差異があることは確かなのですから、よく、その差異を見つめて、それを受け入れた上で、両者がどう近づいていくかを、じっくり考えていくことが必要だと思います。

> 赤ん坊は毎週大阪の病院へリハビリに通っていますが、やはりある程度の歩行障害は残るようです。この子が将来どのような格好で町を歩くことになるかを考えるのは、やはりいまも、私には正直に言ってひどく悲しい事実であることに変わりはありません。

とにかく、障害を持つ、たくさんの素敵な人々に出会うことをお勧めします。その点ではお手伝いできると思います。いつでも言ってください。

> そうそう。頭では○ちゃんの意見には全く同意するわけですよ。 でも頭より心が変わらなくちゃいけないんだな。これがなかなか難しい。

本当にそう思います。かなり難しいです。
けど、きっと、できますよ。

> つれあいは、いまは「いかに障害と向き合うか」ではなく、「どうしたら健常に近づけることができるか」ということにひたすらこころが向いています。「泣けるだけ泣いたら良い」と○ちゃんは言うけれども、やはり人には心がそれを受け入れるためのふさわしい時期というものがあり、それも大事だと私には思われるのです。とくに家族にとってはね。

そうでしょうね。そうだと思います。家族はそれで良いんだと思います。正直言って、うちの親なんて、まだ抜けられていないと思うし・・・。
私は、障害当事者ですから、まず、本人の味方につく癖があります。家族が障害を受け入れられないことを、責めているわけではないので、誤解しないでね。急に障害児の親になって、ずいぶん戸惑いもするし、たくさんの思いも抱えてるだろうし、世の中には肝心の情報は少ないし、たいへんだろうと思います。

私の親は、本当の意味で、「障害を持つ私」を受け入れることは出来なかったような気がします。そのことが、特に、子ども時代の私を苦しめたことは事実ですが、それでも、私は、今、こうして生きているし、障害を持っている、この人生を楽しいと思っているので、親がどうであれ、大丈夫だとも確信しています。
そして、なんだかんだ言って、私は親には感謝しているし、大好きです。
ただ、親が、障害を受け入れることができて、障害ごと子供の存在を愛することが出来たら、これほど強い味方はいないと思うので、敢えて書きました。
それ以上に、自分自身の中にある抑圧の方が、本人にとっては大きな問題なので、私は、紫乃ちゃん個人に、なにかお手伝いできたらなぁと思います。

とにかく、障害持ってる云々かんぬんは置いといて、○○君と○○さんの愛娘にはやく会わせてくださいよ〜。

> ドイツはどうでしたか?

たいへんでした。体力的には、へろへろでしたよ。
それでも、感じることの多いツアーでした。
東ベルリンと西ベルリンの較差に愕然としたり、優性思想の下に、たくさんの命を奪った歴史をもつベルリンの街は、とても、どんよりと重く私の胸にのしかかってきました。
すごく不安で恐ろしかったです。
でも、それは日本にいても一緒なんですけど・・・。

それでは、また!! 

 

 

こんにちわ。
今回はクイック・レスポンスで返事を送ります(^^)

夏に赤ん坊の手術を執刀した脳神経外科のY女医を囲む患者の会のような催しで、琵琶湖畔に一泊の旅行に行ってきました。知り合いのやはり医師をしている人の妹さんとかが経営している、バリアフリー完備の素敵なペンションでしてね。
そこでこどもを寝かせてから深夜にお母さん同士で話し合いの機会があり、私もつれあいと共に参加したのですが、自己紹介のときにはわが子の病気について話す新米のお母さんたちはもう誰もが涙涙の連続でした。
ともかくそこで明け方までいろいろ話をしたり聞いたりしたのですが、やっぱり古参の先輩お母さんたちはとても親切なのだけど、苦労故に何というか少々凝り固まったような部分もあり、また重度の障害者を持つそんなお母さんはなおさら「まだ脚くらいならマシな方だ」みたいな口調があったりで、私の印象としては、う--ん、やっぱり障害者の会というとこんな「閉じた」感じかなあ、仕方ないのかも知れないけれど、みたいな感想でした。
きっと○ちゃん自身もそういう閉鎖的な雰囲気にはこれまで反撥を感じてきた部分が多少なりともあって解ってもらえると思うのですが。

ですから現在のところはあまり障害者の集まりに参加したいという気持ちは私もつれあいも薄く、それよりも逆にふつうのこどもたちの間で、障害のあることを克服しながら遊ばせたい、という気持ちの方が強いのです。
○ちゃんのいう「障害を持つ、たくさんの素敵な人々」という人たちも、きっとたくさんいるし、これから恐らく巡り会っていくのでしょうけどね。
ただそれらを急いでもいません。
それはひとつには、まだ手術から日が浅く、こどもが小さいために障害の程度が確定していない、つまり最終的にどの程度の障害が残るようになるのか定まっていない、という状況があると思います。
リハビリで脚がどの程度まで治るか、あるいは排泄の障害がどの程度出てくるのか、まだまだはっきりしない部分が多いのです。

「つれあいが「いかに障害と向き合うか」ではなく「どうしたら健常に近づけることができるか」ということにいまはこころが向いている」というのは、それもあります。
これからいろんなことがあるでしょうが、私はゆっくり行こう、と思っています。
あまりはじめから気を張って、いろんなことを急いたりせずに、ですね。

○ちゃんのいう「大きな川」はとても適切な表現だと思いました。
それを無いと思って越えようとしたら溺れてしまう、というくだりも。
確かにそうなのだろうと思います。
私の意識の中で「障害」ということがこれからどのように変容して、あるいは対峙し、または溶けたり、とんがったりしていくのか、そして人の出会いも、そのときどきで自然に立ち現れていくのだと思います。
私はそれを静かに見つめて、自分の中で何が変わっていくのかをじっくり見据えたいと考えています。

いま私がときおり考えるのは、こどもがもう少し大きくなって、自分の体が他のこどもたちと少し違うということが自分で解ったとき、「どうして私は他の子と違うの?」と聞いてくる、そのときのことです。
私はそのときに自分の娘にどんな返事ができるだろうか。
そのときになるべく上手な(適切な)返事をしてあげたい。
上手な返事をしてやれるように、それまで私は自分の中でたくさんの考えや気持ちを熟成させておきたい。
そうできたらいいと、そんなふうに思っています。

振り返ると、このごろ少しばかりはっきり見えてきた感じがしますが、私の興味というものは昔から、世の中の「差異」について考えることが大きな支点のひとつであったような気がしています。
そういう意味では、わが子がこうして「障害」を持って生まれてきたのも、これもひとつの宿命のようなものかも知れないとも思います。
そして遡れば京都で○ちゃんに出会ったのも、準備されたそうしたつながりのひとつのような気もします。
わが子がこれからの人生で、○ちゃんからたくさんのことを得てくれたらいいな、と願っています。
親とはいえ、○ちゃんの方が解ることもあるいは出てくるやも知れない。

ともあれ、また時折メールをします。
話したいことはたくさん有りすぎて、なかなか要領を得ませんが。

 

2001.12.16

 

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 こどもを叱るというのは難しいものだ。感情で叱ってはいけないと思うのだが、冷静に叱っているつもりでも感情が少しも交じっていないとも言い切れない。今日は夕食の席で食べずにぐずぐす遊んでばかりいて、箸置きを汁物の器に投げ入れて飛び散らかした時点でとうとうこちらが堪りかね、「もうそんな子は食べなくていい」と隣室へ抱えて襖をぴしゃりと閉めた。真っ暗な部屋からしばらくすさまじい号泣。可哀相に思って思わずこちらの心も揺らぐ。もういいだろう、と襖を数センチ空けてやるとあとは自分で開いて、涙ぼろぼろの顔で這い出てきた。テーブルわきのつれあいの隣にちょこんと立ち、大人しく食事を食べ始める。それが原因ではなかったろうが、そのあと額に触れたらやけに熱かったので体温を測ったところ38度の熱。ここ数日風邪気味で鼻水がよく出ていて昨日のプールも休ませたのだが、とうとう本格的になってきたらしい。風呂はやめにして、オムツかぶれのお尻だけを浴室で軽く洗った。体の動きがいつもより鈍重で、目がしょぼくれている。つれあいが早めに寝かせつけた。私とつれあいの布団の真ん中あたりに斜めの姿勢で、半ばつまりかけた鼻息を立てて、ぐっすりと寝入っている。はやく元気になれよ、と髪を撫で上げ呟いた。

2001.12.16 深夜

 

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 今日紹介するのはブルースの偉大なお父っつぁん=マディ・ウォーターズの、その名も「The Muddy Waters Woodstock Album」なる作品。1975年、当時すでに解散同然の体を成していたザ・バンドのリヴォン・ヘルムがウッドストックに建てた「農家風の」自宅兼スタジオにマディ・ウォーターズを招いて録音したセッション・アルバムである。バックはザ・バンドより主にリヴォン・ヘルムとガース・ハドスン、ポール・バターフィールドのブルース・ハープ、ハワード・ジョンスンのサックス、それにクレジットにはないがドクター・ジョンも参加しているとか。しばらく以前からずっと探していて先月、梅田のタワー・レコードでやっと見つけて買ってきた。

 マディ・ウォーターズを私がはじめて聴いたのは、あのザ・バンドの「ラスト・ワルツ」コンサートのフィルムであった。マニッシュ・ボーイを豪快にシャウトする大木のような偉大な禿げ親父の姿に私は圧倒され、もし自分がこんな父親を持っていたら一生父親を越えることはできないだろうと空想したものだが、このアルバムもつまりはその偉大なお父っつぁんと息子たちの心温まる交歓セッションなのである。

 ところでザ・バンドの「ラスト・ワルツ」について、リヴォンの自伝「Levon Helm And The Story Of THE BAND」の中にこんなくだりが出てくる。すこし長いが引用したい。

 

 ニール・ダイアモンドが出演すると聞いて、ぼくは訊いた。「ニール・ダイアモンドがどうして、ぼくたちに関係がある?」
 ロバートスンが彼のアルバムをプロデュースしている。ぼくはそういわれた。
「だけど、ザ・バンドの音楽とどういう関係がある?」 ぼくは納得できなかった。
 ロビーは、彼とニールがいくつか曲をつくったばかりであり、その曲をコンサートでやれるかもしれないのだといった。
 ぼくが呼ぼうと主張したのが、マディ・ウォーターズでよかった。

 コンサートの二日前、スタジオのマネージャーがぼくに話しに来た。
「リヴォン」彼はいった。「ゲストを大勢呼びすぎた。何時間も続くコンサートになってしまう! だから、それで、出演者を削らなくてはならない」
 ぼくは機嫌がわるかった。だから怒っていった。「ロバートスンをニール・ダイアモンドのところへやっていわせろ。こっちはあんたが何者なのかもわかってないんだ! って」
 部屋にいたアーカンソーの仲間がこれを聞いて笑った。だけど、ぼくは笑っていなかった。むこうが何をいうつもりなのかがわかった。信じられなかった。
 そのおべっか野郎がいった。「それでみんなでじっくりと検討をし、そして、つまり、だからマディをはずそうということになった」
 ぼくは黙ったまま彼を見つめた。
「そういうことで、きみからマディにそのことをいってほしい」
 約30秒間、おかしな間があいた。ぼくは口を開く前に冷静になろうとした。自分をおさえようとした。映画のせいで、いろいろなことを強制されていた。ラスト・ワルツのほとんどが映画に乗っとられようとしていた。
 咳払いをしてやっと、声を出すことができた。
「いいよ、話すよ」ぼくはどうにか考えをまとめた。「だが、それだけじゃない。マディをつれてニューヨークにもどって、ニューヨークでラスト・ワルツをやるさ。マディとぼくとでね。それで決まりだ」ぼくはさらに続けた。「ああ、話すとも。あんたは根性のくさった最低野郎だ! さっさと消えなよ。でないと、このアーカンソーの連中をけしかけて息の根を止めてやる! 」

 

 実際に「ラスト・ワルツ」コンサートが開かれたのはこのアルバムの翌年で、ちなみにマディ・ウォーターズはその6年後の1982年に死ぬのだが、私はこのアルバムはリヴォン・ヘルムのやりたかったもうひとつの「ラスト・ワルツ」、映画のような派手さも華麗さもコマーシャルもないが、リヴォンの考えていた自分たちの音楽の血脈を互いに確かめ合うひとつの佳き祝祭ではなかったかと思うのだ。凄味のある傑作というものではないが、音楽は深く伸びやかで、一人前になった息子と老いた父親との朴訥として暖かな語り合いを思わせる。ザ・バンド・ファンとしては、ほぼ全曲でリヴォンのあの独特の撥ねるようなドラムが聞けるし、また曲の間からときおり顔を覗かせるガース・ハドスンのザ・バンド的色彩に満ちたキーボードが聞けるのも愉しい。

 ちなみにこのアルバムは1975年度グラミーの The Best Ethnic or Traditional Recoding に選ばれた。CHESS, MCA CHD-9359

 

 赤ん坊は今朝、近くの小児科へ行って薬を貰ってきた。昼間は37度少々だったが、夜になって熱が39度近くまであがってきた。つれあいが早めに寝かしつけたのだが、高熱のせいか寝つけずにすぐに泣き声をあげて起きてしまう。ときおり様子を見に隣室へ入ると、火照った顔を必死にすり寄せてくる。抱き上げて抱っこをしていると、じきに目を瞑るのだが、布団へおろすと目が覚めて火がついたような声で泣いてしがみついてくる。怯えたような、熱い、ちいさな体が痛々しい。今夜は長い夜になるかも知れない。

2001.12.17

 

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 天王寺の職安を覗いたついで、ひさしぶりに新世界まで足を伸ばしてみた。天王寺公園を通り抜ける小径は有名な路上カラオケ店が200メートルおきくらいに点在しているが、さすがに冬は閑古鳥だ。ハマコーによく似たオヤジがひとりだけ、聴衆が誰もいない中で「北酒場」を熱唱していた。市立美術館前から新世界へ渡る高架の歩道には、以前は見かけなかった浮浪者のテントがずらりと並んでいる。簡便に重しだけ乗せてブルー・シートを団子のようにくるめたテントもあれば、きちんと木材で骨組みを作り扉も付けた小屋もある。こういうのはきっと居住者の性格も出るのだろう。小屋の前でベニヤ板をカッターで丁寧に切り取っている男がいた。小屋の壁に食堂の品書きのように自作の俳句を貼り並べているところもあった。歩道の両側を占めている動物園から鳥獣の咆吼が聞こえてきて、何やら奇妙な雰囲気である。通天閣の真下の王将で昼飯を食べた。焼きそばと餃子の日替わり定食を頼み、駅の書店で買った池澤夏樹訳の「ジョン・レノン ラスト・インタビュー」(中公文庫)を開く。レノンの死の二日前のインタビューで、文庫で復刻されたものだ。師走の通天閣は昇る人もほとんどない。揚げたてのコロッケを売っているアーケードの商店街。通天閣の真下で酒を飲んでひとり笑っている陽気なおっさん。「イクまで動いて」とかいうタイトルのポルノ映画の看板を見あげる。壺や古いレコード盤やダビング・ビデオを並べている路上の露店を覗く。じゃんじゃん横町の入り口で、路上に毛布を敷いて座っている婆さんににっこり笑って挨拶をされた。衣類掛けの鉄棒に掴まって鉄アレイを踏んづけている洋品屋の亭主。かつてよく立ち見をした将棋センターは無くなってしまった。ガードをくぐる。前にここで5曲100円のハーモニカを吹いていたおじさんに「上海帰りのリル」をリクエストして吹いて貰った。お、いい曲知ってるね、おにいちゃん、と並んで立っていたおっさんに言われた。大通りに出て、ふたたび駅の方へと引き返す。信号機の下に1500円と書かれた箱に入っている中古の足温器が無造作に置かれている。扉が観葉植物に塞がれたつぶれてしまったライブ・ハウスがある。宝石店のウィンドーから真珠のネックレスを出して貰っている男連れの中年女がいる。道の向こう側にSMプレイ用品と書いた古ぼけた看板が見える。「舶来品 ヤンピー皮 責具 貞操帯 ブラジャー ムチ 電動 空圧 其の他 紳士のプレイ用品」と並んだ文字を書きとめる。少し元気が出てきた。

2001.12.18

 

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 無数の枯れ葉が落人の臥処(ふしど)のように埋もれている。掌をひらいて墜ち、崩れ、やがて土に還るのだ。乾いたその感触が心地よい。しずかな日だまりの斜面だ。朽ちた倒木が古墳の石室に眠る亡骸のように横臥している。だが石の冷たさはない。凛として静謐だ。ときおり北風が踊り、頭上で木立の枝や葉がこすれ合う音を立てる。熊笹の叢がわさわさと妖しく揺れる。やがて音のあるものは空のかなたにかき消え、またあるものは地面へ呑まれる。静寂がもどってくる。だがさみしくはない。私は携帯用の小さな登山ナイフで何故となく一片の枯れ枝を無心に削っている。息をひそめてただ黙々とナイフを動かし、何か得も言われぬ形を削っている。どこからか見知らぬ異形のモノが現れて、背後からそっとやさしく、私のこの喉元を切り裂いてくれたらいいと思う。

2001.12.19

 

*

 

 10日ほど前であったか、一通の短いメールがフランスより届いた。ディランの Masters Of War の日本語訳を探しているとの内容で、教えてもらったアフガニスタン関連のサイトを興味深く見た。それからしばらくして、そのMさんが翻訳をしているアメリカの月刊誌の記事にオーデンの詩が載っていて、私ならどんな訳をするか見てみたいと仰る。普段は無精で無愛想な私が、なぜか不思議に同意したのである。それでここ数日間、私は手の空いた時間のほとんどを使って、その詩の翻訳にいそしんだ。家人の眠った夜更けにひとり机に向かい、この60年前に詩人が書いた精神に、2001年の師走に生きる私の孤独な魂は完全に同調することができた。とても愉しく、勇気づけられる時間だった。もともと役に立つか解らないMさんのささやかな参考までにと始めた手すさびだが、訳し終えてみれば愛着も湧いてくるのでここにあげておくことにした。

 なお翻訳にあたって、たまたま図書館で見つけた『オーデン詩集』(中桐雅夫訳・福間健二編・小沢書店 1993)を参考にした。この一冊がなかったら、素養に貧しい私はもう少し難儀しなければならなかっただろう。作品中の注釈はこの本からそのまま流用している。最後に図らずもこの素敵な機会を与えてくれた、ジャックダニエルを古き友とするMさんに感謝を。オーデンによって私は少しばかり、粗末なこの魂を取り戻せた。

 

1939年9月1日 *1   W.H.オーデン

*1 ドイツ軍は1939年9月1日、ポーランドに侵入し、第二次大戦はその二日後に始まった。

52番街のとある安酒場に *2
ぼくはすわっている。
卑しくも不誠実な10年間の *3
よい希望さえ息絶える
ぼんやりとした不安。
怒りと恐怖の波が
地上の明るく、また暗い土地々々をめぐり
ぼくらの私生活にとりついている。
口にするのも憚られる死の臭気が
この9月の夜を蝕む。

*2 52番街はニューヨークの通り。安アパートや倉庫が多い。
*3 1930年代をさす。

正しい学問なら
ルターから今日まで *4
ひとつの文化を狂気へと導いた
犯罪のすべてを白日の下に晒すことができよう。
リンツで何が起こり、 *5
どんな巨大な心像が
一人の精神病の神を作り上げたか、を。 *6
ぼくも大衆も承知だ
小学生でも学ぶこと、
悪をなされるものは
悪をもって報いる。

*4 ドイツの文化をさす。
*5 リンツはオーストリアの町で、ヒトラーの父はここで税吏をしていた。
*6 imago/心像は心理学用語で、子供時代に愛されたもの、とくに父母を表象する、無意識に理想化した幻想。psychopathic god/精神病の神はヒトラーをさす。あるいはかれが訴えたドイツ人の精神のうちの病める部分。

追放されたツキジデスはよく分かっていた *7
民主主義について
言論がどれだけのことを言えるか、
また独裁者たちが何をやらかすか、
そして無表情の墓場に語りかける
老人たちの戯言を。
すべてかれの本の中で分析済みだ、
追ん出された啓蒙運動や、
慢性的な苦痛や、
やりそこない、悲嘆。
そうしたものすべてにぼくらはふたたび、苦しまなければならない。

*7 ツキジデスはアテナイの歴史家。透徹した史観と公平正確な叙述で、西洋歴史学の始祖といわれる。簡潔な文体で、ペロポネソス戦後の歴史を書いたが、自身は海軍指揮官としての失敗により、約20年間、亡命生活を送った。

「集団的ニンゲン」の力を示威しようと
(めしい)の摩天楼が
精一杯に背伸びをしている
このくすんだ空へと、
それぞれの言葉が
虚しい力ずくの弁明を殺到させる。
だが誰がいつまでも
仕合わせな夢の中に住んでいられようか。
鏡の中から奴らが凝視している、
帝国主義の顔と
国際的な悪が。

 

酒場にならんだ顔は
世間並みの日常にしがみついている。
灯りはけして消すなかれ、
音楽は絶やすなかれ、
あらゆる因習が共謀して
この砦をまるで
家庭の家具のように装わせている。
ぼくらのいる場所を気づかせたくないのだ、
お化けの棲む森に迷い、
愉快であったことも幸福であったこともない
夜に怯えるこどもであることを。

 

好戦的なノータリンの戯言や
重要人物とやらの叫びにしたって
ぼくらの願望ほど粗野ではない。
狂ったニジンスキーが
ディアギレフについて記したことは
正常な精神にとっても真実だ。 *8
なぜなら、持ち得ないものを渇望することがそもそも
男と女のそれぞれが
もって生まれた誤解なのだから、
万物の愛でなく
ただひとり愛されること。

*8 ニジンスキー(1890-1950)はポーランド系ロシア人で、世界的バレエの名手。病気と狂気のため早く引退した。ディアギレフはロシアのバレエ演出家で、ニジンスキーはかれについて「政治家のうちには、ディアギレフのような偽善家がいる。かれは普遍的な愛ではなくて、ただひとり愛されることを望むのだ」と書いた。

保守的な暗やみから
道徳的生活へと
おしあいへしあいの通勤者がなだれ込み
朝の誓いを復唱する。
「女房に嘘はつくまい
仕事にさらに精を出そう」
無能な亭主どもは目を覚まし
義務的なゲームをくりかえす。
いまや誰が連中を自由にしてやれるのか、
誰がつんぼの耳に届くことができようか、
誰がおしに代わって話してやれるのか?

 

ぼくにはたったひとつの声しかない、
包まれた嘘を開いてやる声だ、
好色で平凡な人間の
脳みそに巣くう絵空事の嘘を、
手さぐりで空を求めるビル群の
権威ぶった嘘を。
国家なんてものはありはしないし
誰だってひとりで存在しているわけでもない。
餓えは、市民も警官も
分け隔てをしない。
ぼくらは互いに愛し合わなくてはならない、でなければ死だ。

 

夜のもと、無防備に
ぼくらの世界は呆然と横たわっている。
それでも、 そこかしこで
光のアイロニックな粒が
どこであろうと、正しき者たちが
そのメッセージを取り交わすのを一瞬
浮かびあがらせる。
かれらとおなじように
灰とエロスからできているこのぼく、
おなじ否定と絶望に苛まれているこのぼくに
もしできることなら、
ひとつの肯定の炎を見せてやりたい。

 

(September 1, 1939 W. H. Auden / 2001.12.24 まれびと訳す)

 

2001.12.24

 

*

 

 クリスマスの25日。朝から大阪の病院へ行ったつれあいと赤ん坊を急遽借りられたレンタカーで迎えに行き、そのまま阪和道を抜けて和歌山の実家へ送り届けてきた。プールも病院のリハビリも、今年は仕舞いである。

 脳神経外科のY先生との話は以下に。

 まず手術後の足の経過はかなり良くなってきている。足首の上下運動がだいぶ見られるようになったし、左足裏の感覚もわずかに出てきたようだ。今後は足首の横の運動や指先の動きなどの、さらに細かい部分にリハビリの重点が移っていく時期である。

 先日の泌尿器科の診断で排尿機能に異常が見あたらないというのは朗報である。排尿と排便の神経はおなじところにあるので、前者に異常がないということであれば、後者もあるいは体質的な便秘であるのかも知れない。一般に排尿機能が正常であれば、排便の方も正常であることが多い。

 また脊髄の、足の神経より下部にある排尿排便の神経が正常であるなら、手術部位より下の神経へ影響(ダメージ)が出るので、排尿排便の神経より上に位置している足の神経への影響も軽微である可能性も大いに考えられる。

 心配される脂肪腫の増大については前回伝えたように、2月のMRIでの再検査を待たなければ分からない。増え具合によっては再手術をしてふたたび脂肪腫を切除しなければならないが、軽微な場合はその必要がないか、さらに経過を見て判断する。脂肪腫の増え方には個人差があるが、増えるのは赤ん坊のある一時期のみで、それを過ぎれば成長とともに安定する。

 リハビリ科の医師から再確認された水頭症の有無については、すでに入院時に検査をして異常なしの結果が出ている。検査後に病症が現れるということはないので、再検査の必要はない。二分脊椎の場合、脂肪腫瘤は水頭症を合併することが多いが、紫乃ちゃんのような脂肪腫にはまず合併はみられない。

 (リハビリ担当のM先生から「精神的な発達が遅い」と言われていることについては、笑って) 私にはそんなふうには見えないけどなあ。M先生は採点がちょっと厳しいんでしょう。もし気がかりであるなら、小児科で行われる幼児の知能テストをいちど受けてみたらどうだろうか。(これは2月に受けることになった)

 他に偶然、待合室でいっしょになった同じ病気を持つ知り合いのお母さんから、障害者のこどもを対象にした療育施設の話を伺った。彼女のこどもがかかっている発達心理学の先生に紫乃さんのことを説明したら、できれば通わせた方が良い、と言う。内容は保育園のようなもので、遊びや日常生活で必要なことを学ぶわけだが、障害を専門としたスタッフが適切なケアをしてくれるのが普通の保育園や幼稚園と違う点である。わが家から通える範囲では現在、奈良の田原本と大阪の天王寺に近い長居公園近辺にあるというので、年が明けたらいちど見学へ行ってみようかということになった。

 また午前中に行われたリハビリは、前半はオモチャで大人しく遊び、だいぶ集中できるようになった、とM先生より久し振りにお褒めの言葉を頂けた。だが先生が足をいろいろと触り始めると、どうしても泣いて嫌がる。後半はそんなので、つれあいが見ているのが辛くなるほどの号泣続きであったらしい。どうもリハビリとM先生に対する嫌悪感が大きくなってきているようで、リハビリ室ではふだんの精神状態ではなく、それがM先生の「厳しい採点」につながっているように思えてならない。だが、リハビリを止めるわけにはいかない。

 

 小児科が混んでいたことなどもあり、病院を出たのは3時を過ぎていた。何しろ大阪市内を運転するのは自慢じゃないが初めてである。往きは名阪につながっている近畿道の東大阪南I.Cで降りて下の道を来たのだが、帰りは病院のすぐ前から阪神高速に乗り、近畿道への分岐を間違えていったん降りる羽目になった。そんなことで和歌山の実家に着いたのはもう日も暮れた6時頃だった。

 親類の家で釣ってきたばかりという鰺の刺身などを頂く。紫乃さんは、ひとり先に泊まりに来ていた従姉のSちゃんといっしょにお絵かきなどをして、もうすっかり懐いている。だが私は、まだ決まらない仕事のことがあるので、やはり居心地が悪い。お義父さんは寡黙だ。お義母さんはつれあいの従姉妹になる夫婦が数年前に、両親を白浜の何とかいう会員制の高級ホテルに招待した話などをして、そんな高級旅館に招いてくれなくてもいいがせめて折半で泊まりに行けるようになって欲しいね、と冗談めかして言った。赤ん坊とつれあいを残し、すこし早めに実家を出た。車のカーステでローランド・カークやRCの「BLUE」などを聴きながら、紀ノ川沿いを走る国道の景色をぼんやりと眺めていた。つれあいには言っていないが、正月はここ奈良のアパートでひとりで過ごそうと思っている。いまの自分には、それがふさわしい。

2001.12.26

 

*

 

 

 牧場のモウズイカやタンポポや豆の葉やスカンポや虻やマルハナパチが孤独でないように、ひとは孤独ではない。風見草や北極星や南風や四月のにわか雨や一月の雪解けや新しい家の最初のクモが孤独でないように、ひとは孤独ではないのだ。

ソロー・森の生活

 

 RCサクセションの「BLUE」というアルバムは私の愛聴盤のひとつだが、なかでも「まぼろし」はかけがえのない一曲だった。清志郎の曲はいつもどこか哀しいが、「ぼくの理解者は行ってしまった」と歌い始まるこの曲は、とくにストレートで重い切迫感に溢れている。「だからはやく近くにきてください。いつだって昼も夜もわからず、まぼろしに追われています」 この曲についてどこかで彼は、これは神のことを歌っているのだ、と言っていた。あるいはそうではなかったかも知れない。だがともかく、清志郎は聖書を読んでいた。かれの本『十年ゴム消し』のなかに旧約聖書の詩篇の一節がそのまま書かれている。「まことにひとは影のようにさまよいます。かれは積み蓄えるけれども、だれがそれを収めるかを知りません」 「まぼろし」は地上で理解者を得られなかった者の、神(地上以外の理解者)の到来を待ちわびる歌だ。かれは理解されなかった自分を手放さない。

 数日前に近所の本屋で買った五木寛之の『日本人の心 2』(講談社)の序文で、この国の深層を見つめてきた作家は、たとえばこんなことを書いている。

 

 西欧の才である資本主義には明確な精神がある。アダム・スミスが説いたように、市場原理の背後には「見えざる神の手」が働いているのだ。そこには資本主義の「魂」というものがある。ところが日本はその「魂」を無視して、形だけをいれたにすぎなかった。なぜ、日本の戦後の復興がこれほど速かったかというと、ブレーキなき暴走を続けてきたからだ。「魂」という重荷がないのだから、走りはじめたらこれは速い。

 宗教とは一種の「ブレーキ」にほかならない。日本経済はそのブレーキなしに暴走し、モラルハザード、すなわち倫理的な崩壊を起こして、ついにひっくり返ってしまった。宗教はブレーキで、経済はアクセルだ。経済成長は前年比で加速していき、前へ前へと突っ走っていく。それに対して、政治はハンドルだろう。曲がったり、わずかに方向を変えていくためにある。宗教がアクセルの役割を果たしてしまってはいけない。

 あくまでも宗教はブレーキとして経済成長の加速を減速させる。それは、進歩というものを信奉する側からすれば反社会的な行為ではあるが、ブレーキがあってこそ、車は使えるのである。言いかえれば、現世でプラスのものは宗教ではマイナスに、宗教でプラスのものは現世ではマイナスになる。これが正しい宗教のありかただと思う。キリスト教には「右の頬を打たれたら、左の頬も出せ」という言葉がある。「汝の敵を愛せよ」という言葉もある。その通りにすれば、ビジネスもできず、戦争など成り立つはずもない。

 

 あるいはまた試みに、いまは亡きミヒャエル・エンデさんの、私たちに遺されたこんなおなじような言葉を引いてみたい。

 

 私の考えでは、文化とはおよそ、地球上のどこの文化であれ、どの時代であれ、外の世界を内的世界の尺度にしたがってつくりかえたものにほかなりません。エジプト文化を見てください。ゴシックの時代を見てください。いや日本文化でも同じこと。それらはみな、ある一定の内界諸条件を基礎として形成されたものでしょう。だから逆にいえば、人間の内面世界が周囲の人間環境のなかに再認識できるものだったのです。

 ところが現代では様子がちがってきた。いま私たちをとりまいている外部環境は、なるほど私たち自身がつくりだしたものではあるけれど、そこには私たちの内部世界が見いだせないのです。人間がいきなりふたつの異なる世界に引き裂かれて住むことになったためなのです。つまりひとつは内部世界で、それはもはや外界と似ても似つかないものになってしまった。そして外界は、内界とはまったく別個の観点によってつくりだされてしまった。ちがいますか? 外の環境を見まわしてください。私たちをとりまくのは、ありとあらゆるテクノロジーです。このテクノロジーに対応するものを、私たちの魂のなかに何か見つけだすことができますか? たとえば電話機を詩的な比喩に使うことはどうしてもできません。

 どうにかして外部世界と内的世界を、もういちど相互に浸透しあえるもの、循環可能なものにしていくこと、たがいを鏡として、そこに映しだし、映し返されている姿が見つかるようにならないと、極言すれば、私たちは文化をすっかり失うことになります。

*

 私たちの世界は、いつも「橋のむこうの世界」から送られてくる力があってはじめて成り立っています。それでもひとびとは、そのもうひとつの世界などありえないと思いこんでいるのです。そもそも世界成立を支えている背後の力を完全に否定するというのですから、現代人はパラドックスのなかに生きていることになります。

 

 そう、私の生きられる世界はどこにあるか。私はどこか砂漠の洞穴にでもひそんで、ひとりのたれ死にをした方がよかったかも知れない。あるいは文化の剥ぎ取られたネイティブの末裔に生を受けて、酒とドラッグに溺れ、荒れ果てた祖先の墓守をして一生を過ごすのが相応しかったかも知れない。ネイティブ・アメリカンのこんな言葉がある。

 

 わしが子供だったころを振り返ると、やることなすことのすべてがことごとく宗教につながっていた。両親はいつだって朝早く起き、聖なるコーンミールを食べる時には、必ずそれに息を吹きかけて、自分たちがそこにいることを神様に教え、うやうやしくそれを神様に捧げてから、どうか天気にしてくださいとか、雨を降らせてくださいとか、みんなによいことがありますようにと、声を出して祈ったものだった。祈るときはけして自分たちのためにではなく、いつだってこの世界に住んでいるみんなのために祈っていた。あれは美しいものだったよ。

 

 新聞だったか友人のメールだったか忘れてしまったが、以前にこの国の不況を取材した記事で会社からリストラされたというある失業者が、仕事に就いていないと社会に参加していないという不安感がつのる、といったようなことを話していた。残念ながら私にはそのような感覚は見事なほどに欠如している、と言っていい。「社会」から押し出されればされるほど、私はもっと違うべつの何かへ近づいていく。いや、たとえ押し出されなくとも、自らすすんで出てゆこうとする何かが私のなかに存在している。たとえばコーンミールに息を吹きかけ、祈りを捧げるような世界へと。Van Morrison がかれの若き日の斬新なアルバムのなかで歌っていた。ぼくはこの世界ではよそものにすぎない。ぼくの故郷はあの空の高みにある。べつの時代の、べつの場所に。私はずっとそれを聞くのが好きだった。その矜持のような呪文を自分に唱えるひそやかな瞬間が。そこではとりこぼされたものたちが、まるでこどものように色とりどりのバルーンを空にあげて笑っている。薬草の生えた大地にお金を置いていったり、実が生るまで百年の歳月がかかる樹木を一生をかけて大事に育てたりしている。夢のなかでカラスの魂にとびうつって夜空を翔たり、カリブーに変身して草原を走ったりしている。私はこの世界を否定したいのでもないし、自分がただひとりで生きていると主張したいのでもない。そうではなく、ただおなじ世界を見て、べつの景色を見ている。私は自分がぶざまで充分に無力であることを知っている。そしてそれ故に、私はこの自分を手放さない。「橋のむこうの世界」に向けた、あるひとつの祈りによって。

 

 ----神様 ! 私はまずしい金銭などをもとめはしません。ねがわくば、ただ私がじぶんを裏切りませんように。現在この曇らない目で私に識別のつくかぎり、私の行いがあくまでも潔くありますように。そしてあなたの愛により、次にたいせつなお願いは、かれらがどのように考え、かく希望しましても、あなたのお力によって私が秀でたのだとかれらが夢にも思うことのないように、そして私が大いに私の友人たちを失望させますように。なおまた、私のかよわい手が私の誠とつりあい、私が私の舌で言うより以上のことを生活のうえに実践し、とかくして境遇にやすんじて私があなたの目的を知らずにいたこと、またはあなたの計画を過大視していたことを、まずしい行為により現すようなことのありませぬように。

ソロー・ある祈り (元野義勝訳)

 

2001.12.27

 

*

 

 前述のオーデンの詩を教えてくれたMさんが翻訳した「ロバート・フィスク:文明戦争パート2に備えて、奮起せよ。《合衆国空爆は、ハイジャックによって引き起こされたヨーロピアンとその他の死者より多数のアフガン人をこれまでに殺している。》2001年12月22日」のレポート(英文)の草稿を拝読する。あちらのジャーナリストらしく、なかなかひねりの効いた内容だった。この翻訳はそのうちどこかのサイトに載る、のかな。今回の事件でとにかく私が思うのは、当の事件の衝撃はもとより(ひょっとしたらそれ以上に)、この一連の騒ぎによって見事に露わになった自分をとりまくこの世界の実相である。正直に言ってアメリカの国民があれほど一致団結して盲目になれるとは予想していなかった。はりぼてのようなインチキ臭い「正義」や「自由」がこれほど堂々と大手を振ってまかり通ってしまえるとは思わなかった。そしてこの国の主要なメディアがこぞって、まさかこれほどノータリンであるとは思ってもいなかった。テレビのニュースも新聞も、アメリカ側の報道垂れ流しか、都合の良い、あるいは当たり障りのないことしか伝えない。NHKの土曜の「こどもニュース」も、タリバンが去ってカブールに平和が戻りました、なとどと平気で喋っている。まさに嘘と屈辱にまみれた世界だ。ディランがまさに歌ったように、生きることがまぼろしで、死が銀行の入り口へ消えていく世界だ。だれもほんとうのことを話さない。

2001.12.28

 

*

 

 ディランのあえかな吐息のような Lone Pilgrim を訳した。「Lone Pilgrim は古いドック・ワトスンのレコードで知った歌だ。人がある時点で自分をごまかすという馬鹿げたことをどうやって捨てられるのか、というところにぼくは興味をひかれた。このような歌はもう出てこないだろう。事実、いまもない」

 今朝の新聞に、ある詩の一節が載っていた。図書館で借りてきたオーデンの訳者のものだった。これも不思議な偶然か。

 

新年は、死んだ人をしのぶためにある、
心の優しいものが先に死ぬのはなぜか、
おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ

きのうはあすに・中桐雅夫

 

 師走の雑踏のなかで立ちすくむ。

2001.12.29

 

*

 

 かつてギリシャの作家による聖フランチェスコの伝記小説を読んでいたとき、思いがけずイタリアへ旅行に行ってきたという知り合いの女性から土産に、フランチェスコの絵葉書とアシジ産のオリーブ油をもらった。飛鳥で藍染織館を開いているW氏がその話を聞き、それは大事なサインだ、と私に言った。そのおなじ女性から今日、小包が届いた。開けてみると、それは数年前に彼女に貸してすっかり忘れていた聖フランチェスコとニジンスキーの映画のビデオ、それに古本屋で手に入れたニジンスキーの晩年の狂気に彩られた手記であった。オーデンの詩に登場したあのニジンスキーだ。これもまた「橋のむこうの世界」からのサインか。おもむろにページをめくってみる。

 

 私は羊と豚が殺されるのを見たので、肉が食べたくない。見ていて、彼らの苦しみを感じた。彼らは近づいてくる死を感じていた。私は彼らが死ぬところを見ないようにそこから立ち去った。耐えられなかったのだ。私は子供のように泣きじゃくった。丘の上に走っていった。呼吸が出来なかったのだ。窒息しそうだった。私は羊の死を感じた。人気のない丘を選んで登った。私は嘲笑されるのがこわかった。人間はたがいに理解し合っていない。私はひとを理解し、悪いことがないよう念じている。私は人々を悪から救いたい。彼らは救われたくないのだ。だから私はいらぬおせっかいをしたくないのだ。いらぬおせっかいをすれば、彼らを救ったことにならないだろう。私も救われたい。私の星が私に囁くがなんであるかも知っている。生は生であって、死ではない。私は疲れたので書けない。眠りに眠って疲れたのだ。いま書きたい。神が眠れと命令するなら眠るだろう。私は耳を傾けるだろう。私は神の内にいる。神、神、神。

「ニジンスキーの手記 肉体と神」(市川雅訳・現代思潮社 1982)

 

 ビデオにはBSなどから録画した他の映画も入っていた。記憶しているものもあれば、忘れてしまったものもある。「ニジンスキー」、聖フランチェスコの生涯を描いた美しい「ブラザー・サン、シスター・ムーン」、「ブラジルから来た少年」、マルクス・ブラザーズの「マルクス一番乗り」と「マルクス兄弟珍サーカス」、それに心理学者の河合隼雄と作家の柳美里によるNHKの対談番組「14歳・魂の再生の物語を求めて・なぜ人を殺してはいけないのか」。

 

 ゆうべは寝床に入ってから、ユングの「ヨブへの答え」(林道義訳・みすず書房 1988) の序章だけ読んだ。昨日、大阪で買ってきたものだ。「好意的な読者へ」と題したその短くはない文章の中でユングは、旧約のヨブ記というこの「宗教的信仰の神聖な対象」に自らのメスを入れるにあたって予想される中傷や無理解に対して、あらかじめ自己の信念を説明している。かれは言っている。この世には物理的な真理があるように、心的な真理というものがあるのであり、それらは自然科学の分野には入らない類のものだ、と。「こころは自律的な要因であり、宗教的発言はこころ(ゼーレ)の告白であって、それは最終的には無意識的な・つまり先験的な・働きに基づいている。この働きは物理的に知覚することはできないが、しかしその存在はそれに対応したこころ(ゼーレ)の告白によって証明される。こころ(ゼーレ)の発言は人間の意識を通して伝達される、すなわち具象的な形式を与えられるが、この形式はこれはこれでまた外的内的な雑多な影響に曝されている。それゆえ、宗教的内容について語るとき、われわれは言葉では表現しえないものを指し示すイメージの世界と関わり合っているのである」 そしてかれは「心理主義の嫌疑をかけられる危険をも顧みず、聖書の記述をもこころ(ゼーレ)の発言とみなす」と書く。ユングがこの冒険的な書において試みるのは「神の証明」ではなく、数千年前に物語られた人と神の壮大なドラマに躍動している「こころの実在の証明」なのだ。それは私たちの分別を越えた「橋のむこうの世界」より生起する生き生きとした自発的現象である。「なぜなら意味とはつねにおのずから示されるものだからである。キリストの意味や精神はわれわれの内にあり、奇跡によらずとも感じ取ることができる。奇跡は意味をつかみ取ることのできない人々の知力に訴えるだけである。奇跡は精神の実在を理解できないときの代用品にすぎない」 こうした「こころ(ゼーレ)の証言」についてかれは、ある古代の神学者のことばを引いている。

 

 これらのこころ(ゼーレ)の証言は、真実であればあるほどそれだけ単純であり、単純であればあるほどそれだけ皆に親しまれ、皆に親しまれれば親しまれるほどそれだけ共通のものとなり、共通のものであればあるほどそれだけ自然であり、自然であればあるほどそれだけ神に近い。こころ(ゼーレ)の権威のおおもとである自然の荘厳さを考えてみるならば、誰もこの証言をとるに足らない無意味なものとは思えないであろう。教師に授けられているものは弟子にも与えられているはずである。自然は教師であり、こころ(ゼーレ)は弟子である。教師が教えることや弟子が習うことは神から与えられたものであり、神こそは教師の師そのものである。こころ(ゼーレ)がその最高の師から自らの内に受け取ることのできるものを、あなたはあなたの内なるあなた自身のこころ(ゼーレ)を通じて理解することができる。あなたの感情を揺り動かさず、そのこころ(ゼーレ)をこそ感じとりなさい。こころ(ゼーレ)は、未来を暗示する出来事に対してはあなたの予言者であり、前兆に対してはあなたの解釈者であり、結果に対してはあなたの保護者であることを思いなさい。神から授けられたこころ(ゼーレ)が人間に予言することができるとしたら、なんとすばらしいことではないか。こころ(ゼーレ)が自分を授けた神を認識するとしたら、もっとすばらしいことではないか。

(こころ(ゼーレ)の証言について・テルトゥリアヌス)

 

 さて、今日は午後に炬燵に入り、作りかけのこどもの積み木に色を塗りながら、CDラジカセでひさしぶりにU2のベスト盤をずっと聴いていた。そうして色を塗り終えてから、こんどは机に向かって曲をひとつ訳した。

 

ぼくはもっとも高き山にのぼった
広い野原を突きすすみもした
ただあなたと共にあらんがために
ただあなたと共にあらんがために

ぼくは走った
ぼくははいずりまわった
そして街々の壁をよじのぼった
ただあなたと共にあらんがために

だがぼくはまだ
求めているものを見つけていない

 

ぼくは甘いくちづけをかわし
彼女の指先に癒される
炎のようにもえあがる
この焼けつくような情欲

ぼくは天使のことばで語り
悪魔と手をにぎった
まこと夜のぬくもり
そして 石のような冷たさ

だがぼくはまだ
求めているものを見つけていない

 

ぼくは天国を信じている
そこではすべての色が
ひとつにまじりあうだろう
だからぼくはいまだ走り続けている

あなたは足枷をひきちぎり
鎖をはずし 十字架を負った
ぼくの恥辱である十字架を
そうだ、ぼくはそう信じている

だがぼくはまだ
求めているものを見つけていない

だがぼくはまだ
求めているものを見つけていない

I Still Haven't Found What I'm Looking For, U2 1987

 

 私はこの歌のフィーリングを信じる。この愚直なほどストレートな歌の持っている熱を。「神」を信じるのではなく、私のひそやかなこころの証言を。かつて私のなかでそうであったものが、いまも変わらない。

 

but I'm listening only to my heart
だが私はただ自分のこころにだけ耳を傾ける

I And I, Bob Dylan 1983

 

2001.12.30

 

 

 

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