■日々是ゴム消し Log15 もどる

 

 

 

 

 日曜はまた、朝からバイクに乗って野迫川倶楽部さんのログ作り現場へ押しかけた。現在、作業はログ壁を積み終えて、キャッブログと呼ばれる中二階のロフトやベランダの床下にあたる部分(桁)の丸太を据え付けている。今回は最後の二本の丸太をウィンチで吊り上げ、あとは前回と同じようスクライバーというコンパスで接合部分のいわゆる凹状のノッチやラトラル・グルーブというW字型のホゾを線引きし、それをチェーンソーや電気ガンナやノミを使って加工し、下の積み上げた丸太と組み合わせる。などと書くといかにも格好良いが、私が颯爽とチェーンソーを手に作業するのはまだまだ簡単なごく一部で、あとはもっぱら役に立っているかどうか怪しいKiiさんの補助役である。心優しいご主人のKiiさんは、私が不器用に切りすぎてしまっても「あとで埋めればいいんですよ」と仏様のごとく微笑んでじっと忍耐してくださる。でも二度目でチェーンソーも少しは手に馴染んできた、のかな。

 お昼は朝、近所の家で頂いた「黒豆の枝豆」と、ミョウガご飯(レシピの「いわしのつみれ汁と七色納豆」の項を参照されたし)、Keiさん宅の冬の18番という水菜と油揚げの水炊きである。だしをしっかり取り、塩と薄口醤油を加え、網でよく焼いた(これがポイントらしい)油揚げそして水菜を刻んで入れ、柚子酢(これもポイント)とKeiさん宅でいつも登場する唐辛子や柚子のペーストを加えて頂く。シンプルな構成だがこれが何ともおいしくて、水菜を牛のごとくモリモリ食える。体によくて、簡単で、しかも安上がり。これは料理の三種の神器である。高い材料を使えば誰だってそれなりのものが出来るのだよ。ちなみに水菜は、Keiさんが朝ふつうのお店で買ってきたものと、枝豆といっしょに近所で頂いた地元野迫川産のものとを食したのだが、後者のおいしさが歴然としていて思わず三人で唸ってしまった。朝穫り、種類の違い、野迫川の気候などあれこれ取りざたされたが、それにしてもこの違いは何だろう。また今回は「若い」私に配慮して豚肉もたくさん入れてくれたのだが、鶏肉の方があっさりしていて合うかも知れない、と図々しい私は提言。もちろん基本は水菜と油揚げで、この二品だけでも十分おいしくて、なお肉が欲しいとは思わない。ぜひお試しあれ。

 野迫川倶楽部は通行量は少ないものの村道からすぐ目につく場所にあるので、よくいろんなお客さんが訪ねてくる。そのたびにのどかなお茶会が始まり、ログ作りに燃えている私には少々もどかしくもあるのだが、人の世では交流もまた大事なのである。(私ならきっと煩わしさから入り口に「面会謝絶」とか「当家主人発狂中」とか看板を立てて、孤独な作業に没頭してしまうだろう) 今回は橿原の林業関係のご夫婦。「農業や林業といった一次産業を大事にしない国はけっしてよくならない」というKeiさんの言葉が胸に残った。それからKeiさんたちが野迫川での一番の仲良しだというK氏。大学の教授で60年代安保の世代、原子力の専門家にして反対派、そして反骨の人、Kiiさんいわく「学者馬鹿でないから話していて愉しい」。たまたま私が着ていたTシャツのゲバラをめざとく見つけ、ひとしきり連合赤軍の話をして、こんどゆっくり飲みましょう、と言ってくれた。楽しみである。

 そうそう、それからまだお会いしたことはないが、Keiさんたちが植木の世話になっていてよく話題にのぼる地元のヨシノさん(野迫川で民宿も経営している)という人が、実は熊野在住の作家・宇江敏勝氏の親友だと聞いて驚いた。そういえば氏の著書に植物に詳しいヨシノさんという人物がよく登場するのを思い出したのである。宇江氏は若い頃より紀伊半島のあちこちの山で林業や炭焼きの仕事に携わりながら、主に熊野の自然や歴史、人々の生業などを書き継いできた人で、私は20代の頃、氏のそうした著書に深く魅せられて、ああ自分もこんなふうに山中を経巡る孤独な生活がしてみたい、なぞと憧れたのであった。世間はほんとうに広いようで、狭いものだ。宇江氏はヨシノさんを通じてKeiさんたちのログも訪ねたいと言っているそうだから、いつかお会いできる日があればと夢見ている。

 ところで野迫川倶楽部ではKeiさんたちが町で働いている間、今回もまた先住民たる猪たちが盛大な宴を催したらしい。Keiさんが丹誠込めて植えた庭の植物の多くがその宴の供物に捧げられて、私とご主人のKiiさんがログ作りをしている最中も一日中、Keiさんの悲嘆に暮れたひとりごとが季節はずれのヒグラシのようにカナカナと山のあちこちで響いていた。どなたか良い猪撃退法をご存じの方がいたら、哀れなKeiさんまでご一報ください。

 最後に、前回と今回の作業の様子は野迫川倶楽部の週末開拓民奮闘記の最新ページを。またKeiさんたちご夫婦を紹介した日経関連のサイトNEW50'sのこんなページも、併せてどうぞ。

2001.10.15

 

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 テレビをつけたら瓦礫と化した砂漠の村が写っていた。ベッドに横たわり「4人の家族が死んだ」と言う男や、焼け跡の無惨な死体が写し出された。アフガニスタンのカブールに近いちいさな村。米軍の爆撃(誤爆?) によるもので、タリバンがはじめて外国の報道陣に取材をオープンにしたのだという。ところがそのある民放局のスタジオに集まったゲストたちは一様に「まあ、タリバン側の情報操作ということもあるから、どこまで本当か分からないですねぇ」などと宣う。目の前に焼けこげた死体や家族を失って嘆く人間が現実に写っているのに、だ。私はこうした連中の精神を疑う。心が麻痺しているのだと思う。そのくせ彼らは、アメリカ側の報道はほとんど無批判のまま受け入れて、今後の軍事行動を熱心に予想したり、ビンラディンのおっさんを極悪人と決めてつけて犯罪者呼ばわりしている。情報操作だとか偉そうに言うんなら、アメリカの方だって疑えよ。ビンラディン犯人説だって、おまえらブッシュのおっさんから確たる証拠でも見せて貰ったんかい、おら。そういうぼんくらな手合いが、テレビで偉そうに喋っている。有名な弁護士だったり評論家だったり偉そうな肩書きをつけていたりする。そんな奴らに限って、圧倒的な暴力のもとで無抵抗に殺されていく人間を見ても、涙ひとつ出てこない。おそらくすでに狂牛病の牛でも食して、脳ミソがスポンジ化してしまっているのだろう。哀れなことだ。

 今回の空爆でアメリカは、爆弾やミサイルといっしょに3万7500パックの「人道的」食料をアフガニスタンに投下した、という。「中身はビスケットと野菜など、それに薬。英語とフランス語の説明書が添付され、パッケージにはでかでかと星条旗のマークがついていて、Humanitarian Daily Ration と書いてある」 要するに「私たちはアフガニスタンの民衆を敵視しているわけではない。さあ、これがその証(あかし)、心優しきアメリカ国民からの善意のプレゼントです ! 」というわけだ。作家の池澤夏樹氏はかれのメールマガジンでこのマンガのような一件を適切に批判して、最後に「それに、プレゼントというのは投げ与えるものではなく、手渡すものです」とその文章を締めくくっている (新世紀へようこそ・016 )。私は考えてしまうのだが、アメリカのテレビではこの食料投下の映像が爆撃シーンと併せて放送されているらしいが、アメリカの市民たちはそれを見て「ああ、なんて素敵な人道的配慮だろう。さすがアメリカだ」とでも本当に思っているのだろうか。もしそうだとしたら、こちらも相当にイカレている。池澤氏の言うとおり「プレゼントというのは手渡すもの」だ。いっそミッキー・マウスやダンボの旗でも掲げて、本当に手渡しでアフガニスタンまで持っていったらいい。土埃にまみれた彼の地の人々がどんな顔をして迎えるか、自分の眼で確かめてきたらいい。

 ところで今朝の新聞のあるコラムで、ドイツを訪問したイタリア首相のベルルスコーニとかいうおっさんが、今回の一連のテロ事件に絡めて「西欧文明の優越性」発言をして物議を醸しているという記事を読んだ (10月16日付朝日新聞6面「地球儀」)。おっさんいわく「イスラム諸国では人権も宗教の自由も尊重されない、私たちの文明は勝っている」「1400年前の段階にとどまっている国もある」、そしてさらに「西欧は世界を西欧化し、人々を征服する宿命がある」。いやあ、凄いね。この白痴的な尊大さは。でも欧米文明というものは、そんな非白人・非キリスト教文化圏に対する岩のような優越感がどこか深い根っこのほうに拭いがたく存在しているのだと思う。しかしそんな言葉を聞いたら、江戸っ子のあちきも黙っちゃいられねえ。タリバンやひげ親父フセインらとイスラム=仏教のスクラムを組んで、ついでにネイティブ・アメリカンやイヌイット、アイヌや沖縄の人々、シベリアのモンゴロイドたち、これまで西欧文明にさんざ虐げられてきた全世界の民族たちとも結集して、聖なる戦い=ジハードに挑んでやろうじゃないか。っていうのも何か疲れるから、とりあえずうちの近所のマクドナルドに粉末のヴィオヘルミンを入れた封筒でも送りつけておこう。

 そんなわけで、実は昨夜からつれあいがこどもを連れて実家へ泊まりに行っていて、今日は一人分の昼飯を拵えるのが面倒臭く、ああ面倒っちぃ、たまには安くて不味くてどこのもんだか分からない牛肉たっぷりのハンバーガーにでもしちまおうかと一瞬思ったのだが、やっぱり思い直して、家に帰って白菜とミョウガと玉葱入りの味噌仕込みうどんを作ってひとり淋しく食べたのであった。

2001.10.16

 

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 ひさしぶりにつれあいと、こどもの病院へ同行した。リハビリの前にいつも診察を受ける。まだ若い女医のI先生は、ベビー・カーの中で投げ出された赤ん坊の足首を見て、以前よりだいぶ不自然な形がぬけてきたように思う、と言う。左の足首を上に上げる力は麻痺したままだが、足の親指を動かす筋肉が前より少し活発になってきたようだ、と。試しに両足のそれぞれのふくらはぎの太さを測ってもらったら、手術前は右と左の差が約2センチ、手術後に1センチあったのが(もちろん、左の方が細い)、今回は0.5センチまで縮まっていた。それから装具についての相談。長時間付けていると中の靴下が汗で濡れているので通気のための細かい穴を空けられないか、また足の下が畳だと滑りやすいので何か滑り止めを付けられないか、と提案したところ、そういう例もあるので装具の業者に聞いてみたらよい、と。それから、リハビリである。“魔法の手を持つ”M先生も、だいぶ立ち方がしっかりしてきたと言ってくれる。だがまだお腹の力が弱いので、これを鍛えなくては立つことができない。そして家でのやり方などを教示してくれる。リハビリの最後はこのごろ、壁に据え付けられた木製の鉄棒のような器具に両手でつかまり立つ練習なのだが、赤ん坊はこれが嫌いなのだ。要するに腹筋が弱いために不安定で、そのような姿勢に対して恐怖心があるのだ。それこそ泣き、怒り、顔をぐちゃぐちゃにして親の方に助けを求めて泣き叫ぶが、ふだんは優しいM先生もこればかりは容赦をしない。結局、ぎゃあぎゃあと喚きながらも30秒ほど立つことができた。M先生に言わせると、こどもは「かけひき」をしているので、こういう抗議を一度受け入れてしまうと、もう二度とやらなくなってしまうのだという。これも彼女自身の将来のためなのだと、時には心を鬼にしなくてはならないこともある。売店で買った昼の弁当をロビーで慌ただしく食べて、午後からはMRI。脳神経外科で麻酔薬を飲ませ、充分寝入ってから撮影。合間にかつての入院病棟を覗きにいく。再入院したKくんは火曜日のシャント手術もうまくいったらしい。「うちはリハビリ以前の状態ですから」と、若いお母さんは少し悲しそうに言う。掃除や配膳のおばさん、看護婦さんたち、ロビーで出くわした婦長さんや美人のK先生など、みんな紫乃さんを見つけるととても嬉しそうに声をかけてきてくれる。「ここに来ると和歌山の実家に帰ったのとおなじょうな気分になる」とエレベーターの中でつれあいが言う。

 帰りに天王寺で、つれあいは赤ん坊を連れて近鉄へお見舞いの返しの商品券を買いに行き、私はひとりMioの本屋へ。来週、受験資格を得るための実技講習をすでに予約した二級ボイラーの教科書と、最近新聞の書評と広告で見かけた「現代イスラムの潮流」(宮田律・集英社新書)、「食生活の歴史」(瀬川清子・講談社学術文庫)などを購入。やがてつれあいもやって来て、文具売り場で来年のカレンダーを二人で選んだ。買いはしなかったが、武田秦淳・百合子夫妻の娘である武田花氏と、「アフリカ・ポレポレ」の岩合光昭氏、二人の写真家による共に猫の写真のカレンダーが並んでいたのが何故となく面白く思った。花氏の猫は有名みたいだけど。

 夜、ひさしぶりに赤ん坊が湯舟で脱糞。逆さに沈めた手桶の空気を赤ん坊の鼻先にゴボゴボと噴出させたら気違いのように喜んで、それを何度もやったので、あんまり笑いすぎて腹に力が入ったのだろう。固い粒がぽこぽこと浮かび上がってきた。神経の麻痺による直腸障害の疑いがあり、ずっと頑固な便秘状態が続いているから、「出てくれるのだったらどこでも嬉しいわ」とつれあいが言う。今日はMRIの撮影で麻酔を服したから、あるいはその影響もあるのかも知れないが。そうそう、それと書くのを忘れていたが実は数日前に、装具を付けた状態でだが、赤ん坊はテーブルに手を添えてほんの二、三歩だけ、「つかまり歩き」をしたのである。あとで私の母親に「そんな大事なことはすぐに報告してくれなくちゃ」とえらく叱られた。

 

 今朝は奇妙な長い夢を見た。夢の中で私はいまのつれあいと離婚したあとだった。それはさりげない、とても悲しい別れだった。それからしばらく私は、別の女性や、同性の見知らぬ男と生活を共にしたがどれも長くは続かず、自分にはやはり彼女がいちばん合っていたのだと別れたつれあいを探してあちこちをさすらった。夢の中では寂寥とした深い喪失感、目覚めてからは「魂のつながり」とでもいったものを感じていた。ほんのしばらく前までは互いに見知らぬ赤の他人であったのだが、気づかぬうちにそんな切り離せぬ存在に変化している、その不思議にうたれた。

2001.10.18

 

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 今日は赤ん坊は昼よりプール。ここ3回ばかり立て続けに、風邪やリハビリ通院で潰れていたので、二週間ぶりくらいになるか。で、プールが終わった後で隣接するサティの二階へ行き、巨大なオモチャを買ってしまった。室内用の滑り台まで付いたジャングル・ジムである。ただしこれは子供のリハビリの一環として購入した。家の中でつかまり立ちをしたり体を動かすというとたかが知れている。ジャングル・ジムは足や腹筋を使う一助になってくれたら、と思ったのである。重い箱をひっさげて家に帰って早速組み立てたら、台所のスペースをほぼ埋め尽くすくらいの大きさになった。狭いわが家がさらに窮屈になったが、つれあいも私も我慢することにする。赤ん坊は完成したジムを見たとたん、“あ--っ”とお得意の息を吸い込むような声で大仰な驚き方をしてみせた。そういうわけで午後は、この新しいオモチャで子供と遊び呆けていた。面白いのは滑り台を自分ではなかなか登れなかった赤ん坊が、夜のミルクを私が意地悪をして滑り台の上に置いたら、ぜいぜいと息をつきながら一気に駆け上ってしまったことである。可笑しくてつれあいと二人で笑い転げてしまった。

 夜、赤ん坊を風呂に入れてからテレビで日本シリーズを見ていたら、四日市に住むわがマック・ドクターの友人から電話が来て深夜まで長話。話題は友人が転職を夢見ている林業のことから、今回のアメリカのテロ事件のこと、仏教のこと、エントロピーのこと、ユングの曼陀羅論、そしてパソコンのこと。友人いわく、食物連鎖の枠を超えて人間がここまで増えてしまったのが諸悪の根源である。ではどうしたらそれを変えられるか。民主主義というのはとても頂けない。今回のテロ事件でアメリカの大統領を80%以上もの国民が支持するのが民主主義の実体なのだから。だから柄谷行人のいうNAMのような、多数の意識を変える民衆運動のようなものも千年経ったって実現はしまい。よって理性的な少数の人間による恐慌政治・独裁政治しか考えられないが、それだって人間のすることだからどうなるか分からない。結局考えついたのは、高度なコンピューターによる統制である。つまり人間の感情や自由意志はフリーにして、自然環境の枠を超える部分に関してはそのコンピューターが人間を抑制する。その考え自体はいいとして、そのような体制にどうやって持っていくのかと私が質し、うん、それが一番の難問なのだと友人は苦笑して結局、互いに笑ってしまった。友人はまたこのようなことも言っていた。生物の状態がひとつの自然な秩序として落ち着くのは、人間が滅亡した後だろうと思われる、と。

 今日は朝方、プランターの紫蘇の種を収穫しながら、思っていた。たった一株の紫蘇にこんなにも多くの種が実るのなら、植物こそこの世界の支配者になれただろうに、と。それをしなかったのはきっと植物の謙虚さに違いない、と。

2001.10.20 深夜

 

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 NHKテレビで「日本人 はるかな旅 第3回」を見る。「海が育てた森の王国」と題した縄文の特集、である。前半の縄文時代の驚くべき技術力より私は、特に千年もの長い間、安定した定住生活を営んでいた青森・三内丸山遺跡の大集落がある時期より忽然と消えてしまった、その凋落以降が興味深かった。人工的な栗林によって安定した食料の供給を得ていたかの地の人々も、気候の変動によって栗の成長が損なわれ、集落を捨てざるを得なかった。解説は、あまりにも栗という単一の食料のみに寄りかかってきたために、海を含めたかつての多様な採取のスタイルを失い、環境の変化に対応できなかったのが大きな理由ではないか、と述べていた。人々はふたたび森の中へと分け入り、切り開かれた大地にはやがてブナなどの落葉樹が育ち、人間たちの営みの後を何事もなかったかのように埋め尽くしていった。ここではヒトも、大いなる自然の一部にしか過ぎない。かの地の人々は、自然を改変し、その改変した環境に安易によりかかることがどれだけのしっぺ返しを食らうことか、思い知ったことだろう。

 その自然の枠をどうしてヒトは踏み越えてしまったのか、そうすることができたのか、と前述の友人は電話口で強調していた。そして、その枠を踏み越えてしまったヒトの意識が、民主主義や大衆運動のようなもので変わることはもはや期待できない、と。私たちの生活はあまりにも自然、さらに言うならいのちから切り離されてしまっているように思える。機械的に飼育し、加工され、パック詰めされスーパーの店頭に並ぶただの無機的な肉片は、自らの手で撃ち取ったアザラシの肉を切り裂き、「あなたのいのちをわたしに与えてください」と祈るあのイヌイットたちの精神からは余りにも遠く隔たりがある。大いなる自然の価値観に支えられた、あらゆる多様な深いいのちの感覚を取り戻すためには、そのようなさりげない、日常の風景が変わる必要があると私には思われるのだ。それから、こどもたちへの教育である。そうでなければどうやって、自然の円環を逸脱し「狂ってしまった」私たち人間が、リアルないのちの感覚を取り戻すことができるだろう。いのちの脈動と切り離された環境で育ったこどもたちが、いのちを実感し学ぶことができるだろうか。そのためにはあらゆる身近な風景が変わらなくてはならない。いまあるシステムが根底から崩壊しなくてはならない。多くのいま所有しているものを手放さなければならない。だがもしヒトの精神に希望があるとすれば、それしかないように私には思えるのだ。

 番組の後半で、日本海沖の海底に没したままひっそりと、いまもその原型をとどめている数千年前の樹木の切り株が立ち並ぶ光景が写し出された。温暖化によって海面が上昇し、そのまま水中に保存されたのである。たしか前にもどこかで書いたと思うが、ある詩人のこんなことばがあった。「ひとは、たった一本の樹の一生さえ見ることができない」 森の中をひとりさまようとき、私は周囲の樹木や植物や土くれのすべてに負けている。いや、勝とうとすら思っていない。ただ心の底で頭を垂れて、神妙にその草いきれを肺の奥まで吸い込むのだ。そしてちっぽけな己を捨ててそのいのちの根茎へそのまま溶けていってしまいたい、と願う。

2001.10.21

 

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 赤ん坊はリハビリ。足首を上へあげるための足首の後ろの筋肉がだいぶこなれてきたという。今回ははじめて歩行器を使ったリハビリを試したが、泣いて駄目だったらしい。先生いわく「まだちょっと早かったかな」と。装具を改良のために業者に預けてきた。通気穴を空けてもらうのと、足の裏に滑り止めを付けて貰うのである。木曜の通院のときに出来上がるので、それまでは足の形をこまめに見てやらないといけない。

 夕方、つれあいと二人でケーキ作りに奮闘する。明日、はじめて男の子を出産したつれあいの従姉妹のお宅を京都に訪ねる予定で、そのときの手みやげである。先月、野迫川倶楽部さんのログを訪問したときにはじめてレモン・チーズのタルトをやはり前の晩に二人でつくって持っていったので、今回は二度目のケーキ作りとなる。今日のメニューはプレーンとココアのマーブル・パウンドケーキ。さて、うまく出来たかどうか、食ってみないと分からない。ケーキ作りは手順が多く、特別な道具も使ったりするのでレシピの欄では紹介していないが、これがなかなか面倒な作業なのである。それだけに出来上がったときは結構うれしい。草原の少女・ローラや赤毛のアンなどの時代の日常において、家庭での菓子作りというものがささやかな祝祭的彩りに満ちたものであったことが、実感できる。

 出産といえば、つれあいの元の職場の同僚だった若いNさんから昨夜、メールでこちらも男の子無事出産の報せが届いた。おめでたい。これからつれあいと子育て論議に花が咲くことだろう。

 日本シリーズは一勝一敗。近鉄もあのくらいやってくれなきゃ詰まらない、というものだ。まあ、神宮で決めましょ。海の向こうではイチローのマリナーズが負けて、三敗目の崖っぷち。ワールドシリーズでのイチローを見てみたいものだが、やっぱりヤンキースは強いのかな。

2001.10.22

 

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 実家から高校の同窓会名簿作成を請け負っている会社の依頼の往復葉書が転送されてきた。本人が死亡の場合は変更後の住所欄に「物故」と記すよう説明書きがあったのを見ていたずら心が湧き「物故」と書き入れ、死亡の日付をここ奈良に来た年のクリスマスにして投函した。やがて名簿ができたら、ああこのひとは死んでしまったのかと指をとめる人もいるかも知れぬ、なぞと空想してみる。

 ウィリー・ネルソンの歌うゴスペルの敬虔な調べが、砂の上にはじめて書かれた聖句のように流れている。驚きと、ためらいと、あえかな微熱をもった指先が、乾いた砂の上を夢遊病者のように踊る。ついさっきまで赤ん坊はその炬燵のへりに座り、自分が剥がしたパジャマのホックをもういちど合わせようと神妙な面もちでちいさな両手を不器用に動かしていた。

 ああ今夜は、薄暗い土蔵の奥に仕舞われた古い手鏡のようなきれいなお月様だ。今日は一日中雨降りでいまも空は厚い雲で覆われているけれど、とてもきれいで純粋なお月様だ。明日になったら見えるお月様をいまきれいだと言うから、お前はいつもひとに嘲笑される。この世では明日見えるものは明日までとっておかなくてはならぬ。それでもぼくはいまは見えないお月様のこの光を浴びて、ひとりさみしく立っていたのだ。

2001.10.22 深夜

 

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 朝から電車で京都南部の街道筋の町へ、つれあいの従姉妹の出産祝いに。昼に奈良市まで戻り、三条通近くのカプリチョーザで昼食。きのこのトマト・クリームのパスタとライス・コロッケ。その後、興福寺近辺の奈良公園まで出てしばらく赤ん坊を鹿と遊ばせる。無印良品の店でアルバムを数冊。三条通やJR駅前のホテルの店などをぶらぶらと覗いたりして、夕方帰宅。夕食はきのうの残りのシチュー。赤ん坊と風呂に入り、テレビで日本シリーズの第三戦を寝そべって見る。テレビのニュースは相変わらず炭疽菌と狂牛病の話題、それに父親を殺した少年や吉野の山中に埋められていた男や銀行強盗で千枚の一円玉を強奪した男の話、引き揚げられたえひめ丸の見つからない遺体のこと。ヤンキースがマリナーズを下してワールドシリーズ進出を決めた。

2001.10.23

 

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 昨日、今日と奈良市にて、二級ボイラー技師の国家試験受験資格のための実技講習。手弁当のおにぎりを持って単車で通う。最終日は二日空いてこんどの日曜、天理市にある天理教内のボイラー施設にて実習の予定。

 赤ん坊は今日はリハビリとプールの予定だったが、朝、38度近い熱があったそうで大事をとり休ませたという。近所の小児科で診てもらったが、風邪でもなく、大したことはないだろう、と。午後からは熱も下がり、様子もふだんと変わらず至って元気なので、風呂もいつも通り入れた。赤ん坊はそんなこともあるのだろう。

 日本シリーズ、ヤクルトが近鉄を制して優勝。若松監督の胴上げシーンでなぜか赤ん坊も興奮して奇声をあげ、拍手。つれあいは近鉄百貨店の優勝セールが消えて残念そうであったが。

2001.10.25

 

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 当たり前のことだが、夫婦で別々の夢を見た。

 私の方は、夜の淋しい町中である。前にこの項で記したので覚えている方もいるかも知れないが、飲み屋の女性のために多額の使い込みをして失職した知り合いの部落差別の老活動家K氏と通りで偶然再会した。私は近くに自分の書庫代わりに借りたままになっていたおんぼろのアパートがあるのを思い出し、途中で日本酒の一升瓶を買い、K氏をその狭い部屋に誘った。湯飲みを二つ、畳の上で酒を注いで向き合うと、K氏はくたびれた革カバンから原稿の束を取り出し黙って見せてくれた。それは一人の女性(なぜか私のつれあいだった)に思いを寄せて破滅していく老いたK氏自身を描いた小説で、幾度も推敲を加えた後があった。私はK氏の恋の対象がつれあいであったことには、軽い驚きは感じたが嫌な気持ちにはならず、むしろ冷徹に自己を見つめたその手垢にまみれた原稿に一人の裸の男として共感を抱き、K氏の無言の視線を感じながら黙ってそれを読み進めていった。

 一方つれあいの夢は、赤ん坊にあたらしい母親が来た、というものである。私が別の女性と結婚することになり、赤ん坊も引き取ることにしたため、つれあいは私の相手の女性に「くれぐれもこどもの足のことだけはお願いします」と頼み、忙しいときにリハビリや足のマッサージを本当にやってくれるだろうか、と心配で仕方なかった、と。

 考えると深い内容で、笑えない。

2001.10.26

 

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 マイ・ウェイや昴を間違ってもカラオケで歌いたいとは思わないが、それとはちょっと違った意味で、むかし、歌にはドラマがあった。それはたとえば、赤々と燃える暖炉のそばでそっと囁かれる歌や、煙草の煙がもうもうと立ちこめた地下室の酒場で疲れた労働者たちの閉じた瞼の上をモノクロ映画の一場面のように流れていく歌や、戦場で眠れぬ夜を過ごす兵士たちの胸をかき乱し収斂させるような歌たちだ。ときに永遠とも思える切り取られた人生のある風景と感情が、歌によっていくどもその鮮やかな命を蘇生し、ひとのこころの深い琴線に触れ、音もなくはじける。

 

 エヴァ・デマルチクをわたしが最初に聴いたのはラジオだった。その頃はまだ彼女を知らなかったが、目のくらむようなテンポ、滝から落下するような言葉、言葉、言葉が大理石の階段から撒き散らされた真珠のように思われた。その上ひとつひとつの言葉がはっきりと聞き取れるのだった。そして彼女の声。それは一度聴いたらもう決して忘れられない。それがわたしの最初の印象だった。ポーランドの音楽界にあたらしい時代が生まれた。

 エヴァ・デマルチクは、若い作曲家たちにだけあたらしい時代を開いたのではない。彼女の、自分が歌う詩を選択する姿勢そのものが、わたしたちに詩人を聴くことを教えたのだった。それらの詩人たちは若くして戦死したり、殺害された者たちだった。

 それらの若い詩人たちの残酷なまでに美しい言葉に輝きと、かれらの悲劇の深さを表現することに成功したのだ。

エヴァ・デマルチクに寄せて / アンジェ・ワイダ

 

 彼女の歌を聴いてまず思うのは、その驚くほど豊かな歌の表現力だ。(歌唱力ではない、表現力である) それはときにはうねりのような力強いヴィブラートで錐揉みして信じられぬほどの高みへ急上昇し、ときにはカフカの最期の吐息のようないまにも消え入るほどの狂おしい息遣いで (淡々と、しかし確信をもって) 深みへ降りたっていく。表現とは、ある種の苦痛を共有することであり、己の身体を容赦なく切り刻むことなのだ。やがてその癒えることのない傷口から、不思議なことだが、生の決意と欲望に満ちた熱い血潮がとめどなく迸る。

 ちなみにこの珍しいCDは野迫川倶楽部のKeiさんよりお借りした。60年代のポーランドのキャバレーより生まれた、このような音楽に出会えたことを幸運に思う。アンジェ・ワイダの語るように彼女のまさしく「大理石の階段から撒き散らされた真珠」のような歌の一音一音が、この秋から冬にかけての張りつめた深夜に、きっと私の魂を中世の古い鐘のような響きでしばしば連打することだろう。

 Ewa Demarczyk, live. ポーランド Wifon 1992 WCD-015 輸入・発売元:(株)オーマガトキ/OMAGATOKI SC-4105

2001.10.26 深夜

 

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 土曜日は朝から、「ぜひ私めもお手伝いに参加したい」という奇特な友人と二人でみたび野迫川倶楽部さんのログ現場へ。前夜の会社の歓送迎会で二日酔いだという四日市の友人は、珍しく約束の時間に遅れてわが家へ到着。友人の車に私も同乗し(バイクはそろそろ寒さがしんどい)、10時半頃に野迫川へ到着。午前中はログ内に組んでいたパイプの足場を解体し、床に仮止めしていたベニヤ板をはずし、内部を整頓。午後からは庭に積んでいた、処分するところを知り合いより譲って貰ったというコンテナの板を再利用するため、二人でひたすら板をはがし、釘抜きの作業。夕方にはそいつを、すでに二階の床を張り終えて家らしくなったログに並べて、カーペットを敷き、即席の長テーブルを誂え、天井からは作業用のライトを吊し、いざ酒宴の支度も整った。今回はチェーンソーなどを使うこともなく、どちらかというと地味な作業であったが、これはこれでなかなか面白い。特に昼からのコンテナの解体作業などは、さすがに小学校からの悪縁の友人とのチームワークも絶妙で、一枚当たりの作業時間も進むにつれて短縮し、なかなか素敵なペースで捗った。ただ二日酔いで四日市から遠路を運転してきた友人にはやはり少々きつかったか、ログに倒れ込んで夕食まで爆眠したのであった。夜は前に少しだけお会いした大学教授のK氏ご夫婦と、それから近くでやはりログを作っている大阪のKさんご夫婦を交えて賑やかな夕食。Keiさんの味噌煮込み風関東炊き(おでん)に加えて、Kさんご夫婦が謎の“クジラ・マフィア”から入手したという(?)懐かしい鯨の肉の鍋まで登場して、いつもながらたらふくご馳走になったのであった。9時頃に私たちだけ先に退席させてもらい、10時半にわが家に帰宅。赤ん坊はすでに眠っていた。友人はそれから少しだけわが家で休息をして、素泊まり特別料金五千円也の私の申し出をやんわり断って、ふたたび四日市へ向けて車を走らせていった。

 

 空けて翌日、日曜日は、これも朝から天理市で実技講習の最終日の実習。夜中に徘徊した赤ん坊が目覚ましの針を動かしてしまい、つれあいと揃って寝坊をして焦ったが、名阪の高速を使って辛うじて集合時間に間に合った。二手のグループに分かれて午前と午後、天理よろず相談所病院と東棟のそれぞれ地下二階にあるボイラー施設を見学して回った。これは当の天理教の信者の方もなかなか直接に見る機会は少ないのではあるまいか。人々がふだん何気なく歩き回っている地中深くで、巨大な円管式多筒ボイラーとやらが恰も地球のマグマの如くごうごうと低い音をたてて重油を燃やし、蒸気を発生させて、暖房やお湯や電気を地上へ供給し続けているのである。こういう光景は、なかなか一見に値する。重油、と書いたが天理教では現在、それを天然ガスへと移行させている最中であるらしい。東棟ではそのために新しく掘った共同構、直径3メートルほどの各種のパイプを通す巨大な地下通路も見せて頂いた。天然ガスというのはおそらく、都市部とおなじように環境への配慮なのだろう。ともあれ夕方に講習修了の認定状を貰い、あとは国家試験へ向けてお勉強なわけです。

 

 紫乃さんは土曜日はプール。日曜は近くの短大の学園祭につれあいが連れて行って、ポニーと遊んできたらしい。つれあいはバザールでリサイクルの子供の服とピンクの可愛い腹巻き、それに新品の自分の下着などを購入、それと昼に出店で何故かモンゴル料理を食べてきたそうな。

2001.10.29

 

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 ボブ・ディランの古いアルバムに、With God On Our Side という素朴なメロディの曲が収められている。1963年、ディラン、21歳。公民権運動や反戦活動のさなか、時代の寵児として祭り上げられていた頃の作品である。それからおよそ30年の歳月を経てかれは「MTV Unplugged」と題された音楽番組収録用のコンサートのアンコールでこの曲を歌っている。アメリカのあの衝撃的なテロ事件が起こってから (それは奇しくも、ディランの21世紀はじめてのアルバムが発売された日でもあったが)、私はテレビのニュースを見るたびに、米国人であるディランはいまどんな気持ちでいることだろう、としばしば思いを馳せていた。そしてそれはきっと、前述したライブでのかれの演奏に近い気持ちではないか、と思っていたのだった。原曲より、さらにテンポを落として、歌はまるで教会の祈りの聖句のように、さりげなく、だがある種の侵しがたい緊迫感と最後の切実さをもって歌われる。(そう、バトンを渡されるあの厳かな瞬間だ。勇気のあるものは手をのばし、かれの顫える指先からそれを受け取りたまえ ! ) 曲が終わり、気力のすべてを使い果たした歌い手は、ステージの奥へ帰っていく。あとには淋しい残像と問いがひっそりとカケラのように散らばっている。「わたしはひどく疲れ果てた / わたしの感じている混乱は、とても言葉では言い表せない」 それはあの日以来ずっと感じている、わたしの気持ちと同じものだ。だからわたしは今宵、しずかな月夜の晩に、その歌 With God On Our Side を祈りの聖句のように訳した。この歌の語り手とおなじように、私には何ひとつ、なすすべがない。

2001.10.30 深夜

 

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 昨日は私の実家より荷物が届いた。初孫に目の眩んだ母と姪っ子のファン・クラブでも作りかねない妹の二人が、冬のコートや長ズボン、長袖の上着、ハイソックス、腹巻き付きのパジャマなどを、石油ショックのときのトイレット・ペーパーのごとく買い込んで送ってくれたのである。そのなかに、いささか気の早い母の求めた赤い、ちいさな、可愛らしい靴も一足入っていた。試しに履かせてみたが、すこしばかり複雑な気持ちを覚えたのも事実だ。しばらくは飾り物として着けるより他にあるまい。

 今日はいつものリハビリに加え、脳神経外科の診察で先月撮ったMRIの結果が出るというので私も朝から同行した。脊髄の後ろ側に白く浮き出た脂肪の形がいまも残っている。およそ一センチの厚みで。それでも当初の数分の一まで減ったのだが、いっしょに画像を眺めていたY先生は、手術のときの感覚ではもう少し取ったと思っていたのだけれど、と呟く。もし必要でしたら何度でも手術をしてください、それでこの子が少しでも良くなるのだったら、とつれあいが口を開く。だがそれ以外は、脂肪種の癒着のために下へひっぱられていた脊髄神経も成長とともに僅かに上へ伸びているし、足の形や動きも少しづつ良くなってきていて、全体的に術後の経過はかなり良好な方である。神経の麻痺は先天的なものを除けば脂肪種の増大による圧迫が考えられるので、それは手術で解消されている。神経の回復が見込まれるのは一般に術後3ヶ月から半年の間といわれているから、これまで回復が順調に進んでいるように、これからさらに良くなる可能性も充分にある。私もこの画像をもう少し子細に検討して次回の診察のときにさらに詳しい話ができるようにしておきます。如是我聞。Y先生はそのように言われた。

 リハビリ室では、ときどき会う五歳になる男の子が母親に連れられてM先生の指導を受けていた。脳性麻痺のために歩行にやや影響が出ているそうだ。床に二本の紐で長いコースを引き、そこをはみ出さずに歩かなくてはいけないのだが、少しばかり足取りがおぼつかない。紫乃さんはまだまだそれ以前の段階だ。リハビリの最中に、そばで見ている私に向かって嬉々として這い寄ってくる。私の膝に手をかけ、立ち上がるのだが、左の足首が捻れてしまう。M先生は、そのまま自分でその形を直すかどうか待って、しないようなら直してやるように、と助言してくれる。先生によれば、足の裏の感覚が麻痺しているので、足がおかしい形になっているのが分からない。それを自分で認識できるようになるには、目で見て気づくようにならなくてはいけない、と。

 帰りは難波に寄って、先日男の子を出産したつれあいの前の職場の同僚だったNさんにお祝いのリクエストを訊ねたところ、絵本を、と言ってくれたので、二人で数冊ずつ選んで包んでもらった。幸いわりと品揃えのよい書店だったので、ほぼ満足のいくものが買えた。もうひとつ、日頃肩こりと腰痛に悩まされているつれあいのために「ツボ」の本を一冊。

 夜、病院での話を聞きたいつれあいの実家のお義母さんより電話。昨夜、紫乃さんが歩いている夢を見た、という。

2001.11.1

 

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 自分以外の誰かとともに暮らすということは、逃れようのない大きな鏡を一枚、自分の正面に据えるようなものだ。常に己の露わな姿がそこに映る。身近な者を殺してしまうのは、その鏡像の正視に耐えかねるからに違いない。己の醜悪な姿に思わず声をあげ、愛する者を殺めてしまうのだ。鏡像はばらばらに砕けて、自分だけひとり顫えて立ち尽くしている。ニール・ヤングのあの沈痛な Down By The River は、そんな歌なのかも知れない。

 

ぼくの手をとっておくれ
ぼくもきみの手をとろう
ぼくらいっしょに 逃げ出せるかも知れない
この大きな狂気はあまりに酷すぎる悲しみだ
こんなときにはうまくやれっこない

彼女なら虹の彼方までひきずって
このぼくを追い払うこともできたのに
川のほとりで
ぼくは恋人を撃った
川のほとりで
彼女を撃ち殺してしまった

 

 短いうたた寝の間に奇妙な夢を見た。彼女の手引きで、ぼくはひとり暗い夜に電車に乗って彼女の実家の土地を訪ねる。三つ先のさびしい駅で降りて、そこで彼女の従兄弟たちと合流して車に乗り換える。ぼくらの使命は、そこから実家の村へ至る道沿いに何カ所か、見知らぬ村人たちの死体をこっそり埋めて廻ることだ。

2001.11.2

 

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 今日は親子三人揃って寝坊。遅い朝食を食べ、たまたまテレビでやっていた劇団四季のこどもミュージカル「はだかの王様」を赤ん坊といっしょに見る。ようこそ皆さん、やあこんにちわ、の幕開けの歌を聴き、小学生の頃、年に一度くらい学校に劇団 (「ひまわり」だったか?) のトラックが来て、このおんなじ歌を歌っていたなあ、などと思い出した。体育館前の校庭に車からいろいろな資材を下ろしていた風景をいまも覚えている。幼い自分たちにとって、あれも“まれびとの光景”だったのかも知れない。どこか非日常的で、怪しい魅惑に満ちていた。それともうひとつ思い出したのは、ブルーハーツの初期のアルバムに入っていた、王様ははだかじゃないか、と叫ぶパンク・ロックの曲のこと。「見えなくなるより 笑われていたい / 言えなくなるより 怒られていたい / 今夜 僕は叫んでやる / 王様ははだかじゃないか / 王様ははだかじゃないか」 はだかの王様を笑ったのは、何の打算も邪心もない無邪気なこどもたちだった。

 昼前に赤ん坊をプールへ連れて行く。雨のため、デイバックに浮き輪をくくりつけ、片手で赤ん坊を抱き上げ、片手で傘を差して連れて行く。遊泳前の準備体操。コーチ役の若い女の子の乳首が水着の上にくっきりと浮き出ている。赤ん坊の両手をとって動かしながら、これは役得だわい、とこの助平な中年親父の胸はときめくが、ふと下を向いたらもう10年以上も昔の海水パンツの端からこちらも哀れな逸物の袋が信楽焼の狸の如くはみ出していた。情けない。途中、隣同士の親子で自己紹介をし合う時間があるのだが、今日は1歳8ヶ月だという女の子の母と子だった。(その年齢なら)もう歩けるんですか? と母親に質したところ「もちろんですよ ! 」と笑われてしまい思わず、ああそうなのか、と思う。プールの後はサティのカートに赤ん坊を乗せて買い物。お腹が減ってきたのと疲れて眠いのとで、途中からぐずって仕方ない。家へ帰って急ぎチャーハンをつくる。赤ん坊は食事を待ちきれず眠りこけてしまった。

 午後、つれあいと二人で「大草原の小さな家」を見てから、だいぶ前に録画してあった早老症という奇病にかかったスイスの少女の番組を見る。遺伝子の突然変異で出生直後からふつうの数倍の速度で老化が進み、ほとんどが15歳に満たないうちに死んでしまうのだそうだ。番組のはじめ、10歳の少女はすでに老女のような顔つきで、頭の髪は抜け落ちてカツラを付けていた。番組の終わりに少女は12歳で、最後に13歳の誕生日の数週間後(今年の5月)に肺炎で亡くなったというテロップが流れた。あの若い夫婦はいまごろどうして暮らしているだろうか、とつれあいと会話した。

 夕食は、私の18番の鶏の照り焼き丼と味噌汁をつくる。その間、赤ん坊には大好きなディズニーの英会話のビデオを見せておく。装具を付けた足で炬燵のテーブルにもたれかかり、ときどきビデオの場面につられて、いっしょに手を叩いたりバイバイをしたりしている。彼女は昨日あたりから突然、広い地球上のどこかにひょっとしたら存在しているのではないかとさえ思われる奇妙な言語で、長い話をするようになった。熱のこもった身振り手振りを交えて数分間、「貝塚泉南海南あっかいあっかい」などと蕩々と喋りながら一生懸命、私とつれあいに向かって何かを伝えようと試みている。まるでヒトラーの演説のようなその様子が可笑しくて、二人で腹を抱えて笑ってしまう。

 夜、つれあいと赤ん坊が眠ってから、ひとりテレビでNHKの特集番組「隠された聖徳太子の世界」を見る。中宮寺に、太子の死後に妃の橘大郎女が浄土での太子を偲んでつくらせたという天授国繍帳なる日本最古の刺繍が伝わるが、現在のそれは断片になった一部を江戸時代に張り合わせたもので、その往時の華麗な姿を中国や朝鮮半島での取材を元にコンピューター・グラフィックスで再現するという企画である。しばらく後、焼酎のお湯割りで火照った顔で外の通路の階段上に出て、間近に見える斑鳩・法隆寺あたりの夜景を眺めながら、遙かな古代人にとって浄土とはどのような世界だったのだろうか、としばし思いを馳せる。私はその前半生の政治の舞台での華々しい活躍よりも後年、夢潰えてひたすら仏典の研究にうちこむようになったと伝えられる太子のどこか孤独な晩年の姿に心をひかれている。元の天授国繍帳にも描かれていた、かれの晩年の繰り言であったという「世間虚仮 唯仏是真」のどこかさみしい響きを、そっと口に出してみる。

2001.11.3

 

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 つれあいは出産時より延長していた失業保険の手続きのために職安へ。私は赤ん坊を連れて朝からまず大阪の病院へリハビリ。車中で早速ぐずるので、抱き上げて外の景色を見せたり絵本を読み聞かせたり。診察とリハビリを終え、会計を済ませ、小児科のベッドでおむつを取り替え、ロビーでつれあいのつくってくれたおにぎりの昼食を食べ、急ぎ自宅へ引き返す。10分で支度をして、こんどは近所のプールへ。雨が降ってきたのでベビー・カーにレイン・カバーを被せていく。若いお母さんたちと泳ぎ、サティで簡単な買い物をしてから、そのままやはり近所の小児科へはしかの予防接種。家に戻りインスタント・コーヒーで一服したあと、一時間かけて夕食の支度。先日安い鮭の半身を買っていたので、今夜はそれを使って鮭とバジル、ワカメ、カイワレの混ぜご飯にスダチ付きのサンマの塩焼き、そして味噌汁。食事の後かたづけを終えたらさすがに疲れてしまって、炬燵に足を突っ込んで寝転がり、つれあいの見ていた「快傑えみちゃんねる」を見て笑い、赤ん坊とぐたぐた遊び、「たけしのTVタックル」を見てさらに笑った。その後、予防接種のために今日は赤ん坊が入浴禁止なので、読みかけの新書と蜜柑を持って久し振りにのんびり湯に浸かった。

2001.11.5

 

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 まずは先月末ごろ、新聞のコラムに書かれていたこんな話を紹介したい。アメリカのある中学校の教師が、こんなメールを生徒たちに送ったという話だ。

 

 世界を100人の村に縮小するとどうなるか。その村には「57人のアジア人、21人のヨーロッパ人、14人の南北アメリカ人、8人のアフリカ人がいます。70人が有色人種で、30人が白人。70人がキリスト教以外の人で、30人がキリスト教」に始まってこう続く。

 「89人が異性愛者で、11人が同性愛者。6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍。80人は標準以下の居住環境に住み、50人は栄養失調に苦しみ、1人が瀕死の状態にあり、1人はいま、生まれようとしています」

 さらに「1人 (そう、たった1人) は大学の教育を受け、そしてたった1人だけがコンピューターを所有しています」と続く。そのうえで「自分と違う人を理解すること、そのための教育がいかに必要か」を説く。

 この縮図の数字の根拠ははっきりしない。少々変な数字も交じっているようだ。しかし、こうやって考えてみることの重要さはよくわかる。先生はまた「もし冷蔵庫に食料があり、着る服があり、頭の上に屋根があり、寝る場所があるのなら、あなたは世界の75%の人たちより恵まれています」といった解説を加えていく。

(10月27日付 朝日新聞・天声人語)

 

 ひどく歪んだ世界だ。いまかの地で行われている戦争も、自由を守るだの何なのとほざいてみても、端的に言うならば、世界一富んだ国が世界一貧しい国の大地に爆弾を撒き散らしている、ということに過ぎない。これも歪んだ戦争だ。

 

 「現代イスラムの潮流」(宮田律・集英社新書) を読んだ。この類の本はこのごろ雨後のタケノコの如く巷に溢れているが、これはその中でも量的にわりと手軽で、内容も実直で分かりやすい入門書ではないかと思う。この本でイスラム世界の歴史を辿ると、いかに欧米の文明が自分たちのエゴイズムでかれらの地域をぐちゃぐちゃにしてきたかが、いまさらながら再確認できる。そしてまたかれらにとってイスラム運動とはまず、ナショナリズムや市場経済、資本主義といった西欧文明の価値観によって蹂躙され、貶められた、かつての気高い遊牧民のプライドを取り戻すための精神的な戦い (葛藤) であることも得心できる。著者によるとそもそもイスラム教の教えの本質とは社会的な相互扶助を目指した変革の倫理であり、現実に多くのイスラムの国では政府がないがしろにしてきた教育や福祉の活動を、そうしたイスラム(ムスリム)同胞団が代わりに担い、地道な活動を続けているという事実がある。そうしたイスラムの本来の姿から、わたしたち、欧米のメディアと価値観によってすっかり毒された目は盲になっていないだろうか。

 

 やはり朝日新聞からだが、京都大学で現代アラプ文学を教えている岡真理という人の論説が心に残った。

 

 82年、レバノン。イスラエルの侵攻にともない、9月16日から18日にかけて、ベイルートの二つのパレスチナ難民キャンプ、サブラーとシャティーラでイスラエル軍に支援されたレバノン右派勢力に、2千人を超える難民たちが虐殺された。さらにその6年前の76年には、ベイルート郊外のタッル・ザアタル難民キャンプがレバノン右派勢力に半年間にわたり包囲封鎖され、集中砲火を浴び、2万人いた住民のうち4千人が殺されたという。

 私たちは2001年9月11日ニューヨークを記憶するだろう。人間の歴史に刻まれた悲劇として。「私たち」の出来事として。しかし、1976年タッル・ザアタルの名を、1982年サブラー、シャティーラの名を記憶する者はほとんどいない。

(10月29日付 朝日新聞・私の視点)

 

 岡氏はそれを「この記憶の偏在と地球規模の富の偏在は、同じ一つの暴力的な構造に由来している」と書き、それが「私たち」から見た「かれら」の死の遠さであり、そのようにして「私たち」が歴史の外部に「かれら」の記憶を暴力的に葬り去り続けるかぎり、その暴力は別の形で「私たち」を復讐する、そして「数千人の死を贖(あがな)いうる術がもしあるとしたら、記憶の埒外に棄ておかれ、不条理に殺され続ける難民たちの死を私たちが悼み、その出来事を「私たち」の経験、人間の歴史として、私たちの記憶に刻むことによってではないのだろうか」と結ぶ。

 ここで指摘されているのは、自衛隊を派遣するしない・弾道ミサイルの発射は戦争行為か否かといった、上っ面だけの下等な論議を繰り返しているこの国の国会でのノーテンキな論議よりももっと根の深い、ある意味で神話的ともいうべき「死者の記憶」に関する人間の内的な精神のあり方である。その意味で私には、あのナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺の記憶を丹念に取材した映画「ショアー」を思い起こさせる。

 

 続けてふたつ、心に残った理性的な言葉の発信をここに記す。

 

 これ以上に皮肉なことがあるだろうか、アフガニスタンを破壊し直すためにアメリカとロシアが手を結び合うなんて? 質問、あなたたちは破壊を破壊できるのですか?

 9月11日の攻撃はおそるべきひどい状態になった世界からの途方もない挨拶状だった。そのメッセージはビンラディンが書いたのかもしれない (だれが知ってるの?)、そして彼のお供が配達したのかもしれない。でも、それはアメリカのかつての戦争による犠牲者たちの亡霊によって、署名されているにちがいないのだ

(インドの女性作家アルンダティ・ロイ氏が「ガーディアン・オブ・ロンドン」紙に発表した文章の一部)

 

 ...いよいよグローバル・スタンダード (世界基準) として強行され始めたアメリカ的価値基準 (正しくはアメリカ共和党的か?) に対する真っ向からの異議申し立て、劇的な疑問提出ではないか。その疑問はビンラーディン個人のものでも特定の戦闘的宗教組織『タリバン』だけのものでもない。

 私の個人的な言葉を使えば、人類の無意識の意識が、いまとても不安にざわめき波立ち始めたのだ。このままだと人類の未来が危ない、と。

(「すばる」11月号掲載の作家・日野啓三氏による短篇連作『新たなマンハッタン風景を』の一部)

 

 ふと思ったのは、あの孤独で勇敢で変わり者のT.E.ロレンス、いわゆるアラビアのロレンスのことだ。あの長い映画は好きで何度も繰り返し見て、私の20代のある時期の狂おしい精神の支え、いま思えば旧約聖書的な世界だった。ロレンスの葛藤は、高貴で自由な遊牧民としてのアラブ的なものに己の精神が憧れ共感しながらも、遂にアラブ人になりきれなかったことだ。白人が黒人の音楽であるブルースを演奏することの苦悩に似ている。その歪みがかれを自閉的なスピードに追い立て、疾走するバイクにまたがったままあの世へ走り去らせた。かれがアラブの大義を信じ戦うなかで、母国イギリスは政治的な駆け引きでアラブ世界を裏切っていた。つまりふたつの異なる文明のはざまで、ロレンスは己の身体を引き裂いてしまったのかも知れない。

 そのように私はロレンスのことを想う。アフガニスタンで行われている戦争は、けっして遠い国の対岸の火事ではない。歪んだ私たちが暮らしているこの世界・文明のひずみがぎりぎりと嫌な音をたてて露わな亀裂を走らせようとしている、そんな戦争なのだと思う。「文明の衝突」ではなく、「文明の自壊」に、私たちはいままさに立ち会っているのかも知れない。

2001.11.7

 

*

 紫乃さんをリハビリへ連れて行く。最近よくする練習は、たとえばこんな具合だ。リハビリに使う高さ40センチ程の文机様の台をふたつ、ハの字に配置する。そのひとつに赤ん坊をつかまり立ちさせ、玩具などで誘って立った状態のまま、僅かに離れたもうひとつの台へつたい歩きをさせるのである。その場合、赤ん坊は右方向への移動はわりと無難にこなすのだが、左方向への移動は麻痺の強い左足が軸となるためどうしても不安定でよろけてしまう。

 家でも、たとえばベビー・カーに乗っているときなど、右足はよく動いて前の枠の上に乗っけたり、自分でぶらぶらとさせたりしているのだが、左足はたいてい内側へ折り畳まれて大人しくしている。ハイハイからつかまり立ちへ移行するときも、最初の一歩はいつも右足で、右足で踏ん張って上体を持ち上げた後で、左足はあとからついていく形である。おそらく左が不得手であることを身体が知っているのだろう。

 今日はそれからその台の上に、両足を前方にぶらりと下げた姿勢で赤ん坊を座らせ、M先生が背後からお尻の両側を支えながらすこしづつ上体を後ろへ傾けていく。バランスをとるために自然、赤ん坊はお腹に力が入り、そのはずみで足がもちあがる。右足は以前から反応していたのだが、最初の頃はほとんど反応を示さなかった左足が、このごろは右足ほどではないがすこし上がるようになった。これはお腹の筋肉が付いてきた証拠で、M先生によるとヒトが二足で立つためには、このお腹と背中の筋肉が重要な働きをするのだそうだ。

 ただし、持ち上がるのは足の全体で、足首から先はだらりとしている。つまり (指を含めた) 足首を上へ上げる神経が働いていないのだ。どうもこの部分の障害は残りそうだ、というのがM先生の現在の見解である。歩けることはほぼ間違いなく歩けるだろうと思う。ただ足首と指の神経に強い麻痺が残っているために、普通の人のように歩行の時に踵から着けずに、左足の先をぺたっと置くような、やや不自然な格好になる。たとえばこんな感じで、とM先生が歩いて見せてくれたのは、左だけ、ヒトの足というよりは、やや誇張して言うなら、アザラシがペタペタと這い進むような、そんな光景に一瞬見えた。それを矯正するために左足だけ、歩行時に装具を付ける必要があるかも知れないが、大人になって最終的にどんな形になるかというのはいまの段階ではまだそこまでは分からない、というのがM先生の説明である。

 大阪の病院から戻り、30分で急いで昼食を済ませて、またプールへ連れて行ったのだが、たとえばこのプールでは、ほぼみんな同じくらいの年齢のためほとんどの赤ん坊は自分で立ってよたよたと歩き回ることができるので、練習の過程でプールサイドに立たせてそこから飛び込ませたり、水中に沈ませたベンチの上を歩いて進んだりするようなときに、紫乃さんだけがそれをこなすことができない。私は赤ん坊を抱えて進んだり、別の動作をさせたりしてやり過ごす。そんなふうに「差異」は少しづつ、露わな形で出始めてきている。

 やがて幼稚園にあがり、小学校にあがり、大人になって、彼女がどんな姿で町中を歩いているか、それを想像するのはまだ私には酷く悲しいことなので、どこか心の奥で私は、それを考えることを怖れ、知らず避けている。

2001.11.8

 

 

 

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