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以前に書き溜めた音楽評の過去ログ

1998.12〜2001.9

 

 

 

 

 

吉田拓郎 / ONE AND ONLY ±1

Ray Charles / That Lucky Old Sun

Weezer

Arthur Louis / Knockin' On Heaven's Door

Van Morrison / Wonderful Remark

Ray Charles / What Would I Do Without You

Eric Clapton / 461 Ocean Boulevard

Glenn Gould 〜Off the Record / On the Record (*Video)

MAVIS STAPLE AND LUCKY PETERSON / SPIRITUALS & GOSPEL

NEIL YOUNG / ROAD ROCK 1

TOM WAITS / CLOSING TIME

THE CLASH / From Here To Eternity

Van Morrison & Linda Gail Lewis / YOU WIN AGAIN

Van Morrison / The Street Only Knew Your Name

THE HIGH-ROWS / Relaxin'

John Lennon / WONSAPONATIME

崔健(cui jian) / 一塊紅布

モーツァルト / ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 K304

B.B.King & Eric Clapton / Riding With The King

Neil Young / Silver & Gold

Lou Reed / Ecstasy

細野晴臣

J. S. バッハ / マタイ受難曲

フォレ / ピアノ五重奏曲 Op.115

The Beach Boys / In My Room

Van Morrison / Waiting Game

Bob Dylan / Rank Strangers To Me

The Best Of Chet Baker Sings

リック・ダンコ追悼

Billy Joel「Cold Spring Harbor」

Georgie Fame「20 beat classics」

Ricky Nelson

Ry Cooder「Show Time」

Albert Ayler「Spiritual Unity」

Joni Mitchell「Blue」

Buddy Holly「Best One」

John Hiatt「Stolen Moments」

吉田日出子&自由劇場オリジナル・バンド「上海バンスキング2」

Arvo Part「Tabla Rasa」

Dire Straits「Dire Straits」

上々颱風「上々颱風 2」

ハナ肇とクレイジー・キャッツ「クレイジー・シングルス」

John Coltrane「Live At The Village Vangurd」

Bryan Ferry(+Roxy Music)「More Than This 〜the best of」

John Lee Hooker「Mr.Lucky」

ケルト音楽

Woody Guthrie「Columbia River Collection」

Otis Redding「The Otis Redding Story」

Jackson Browne「THE PRETENDER」

The Street Sliders「REPLAYS」

ダウン・タウン・ブギウギ・バンド

Neil Young 「Live Rust」

三上寛「中津川フォークジャンボリー」

JAGATARA「それから」

KINKS「To The Bone」

The Band「Music From Big Pink」

高橋悠治「J.S.Bach フーガの技法」

THE BLUE HEARTS

John Lennon「ジョンの魂」

サセル・ラ トーレ ベハル「MANAWANAQ」

Thelonious Monk 「SOLO MONK」

タモリ「タモリ3 戦後日本歌謡史」

忌野清志郎 Little Screaming Revue「冬の十字架」

テレサ・テン「幽幽無情」

TANGLED UP IN BLUES・Songs Of Bob Dylan

ウラジーミル・ウィソツキー

The Staple Singers「the best of..」

大阪人権博物館 / 夏の夜の太鼓コンサート

OKI 「HANKAPTY」(アイヌ楽器‘トンコリ’)

Randy Newman「BAD LOVE」

The Beach Boys「greatest hits」

Tom Waits「MULE VARIATIONS」

Van Morrison「BACK ON TOP」

ベーム指揮ウィーン・フィル / ブラームス交響曲第1番ハ短調

仲井戸"CHABO"麗市「My R&R」

LONE JUSTICE「This World Is Not My Home」

POMERIUMA 「Musical Book Of Hours」(中世ヨーロッパ宗教曲集)

 

 

 

 

 

■ 吉田拓郎 / ONE AND ONLY ±1

 

 拓郎って、聴いたことないでしょ。友人がこちらを見て、ちょっぴり挑発するように言った。あれはもう10年以上も昔のこと、酒を飲みながら「日本のディランは誰か」なんてくだらない話をして、友人は清志郎を、私は三上寛の名をあげた。ん、ないよ。私は友人のことばをさらりと受けながして、別の話題に移っていった。それからときどき、ふいと友人のことばを思い出すことがたまにあったけれど、相変わらず拓郎は聴かずにいた。

 先日、こどもの入院に合わせて借りた大阪のウィークリー・マンション近くの下町の商店街で、2枚組36曲の中古のCDを900円で見つけた。安いな、と思って何気なく手に取り、家の台所でこどもの洗濯物を干しながら聞き始めた。はじめはCD後半の「落陽」「人生を語らず」「知識」「暮らし」などの曲ばかりを繰りかえして聴いた。拓郎はここで声を荒らげていた。「ハード・レイン」のディランのように、のっぴきならない場所から一歩を踏み出そうとしている、その奔放さがしっくりときた。こわばり、沈みかけていたものが、なにくそと抗うような心地だった。ここにも抗っている平凡な男がもうひとりいる、そんなふうに救われた。

 拓郎の音楽は、夏の終わりが似合うように思う。畳まれた海の家のはたで、砂の上の捨てられた花火やサンダルを眺めているような、そんな気がする。そんな情景が心の中にあって、いつも等身大の自分を見失わないためにときには声を荒げて抗うことも、だから正しいことなのだと思う。ひとはたぶん、そんなふうに流れていく。

 素直なせつなさは、仕合わせの別の名前なのかも知れない。「伽草子」の可憐なメロディが柄にもなく胸に沁みる。こんな夏の終わりも、いいかも知れない。はじめて出会った頃のように、二人で夏の終わりのさみしい海を見に行きたい。

 

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■ Ray Charles / That Lucky Old Sun

 

朝おきて 仕事へでかける
悪魔へのツケを弁済するかのように働く
なのにあの幸運の太陽のやつは 何もしちゃくれない
毎日 ただ天国のまわりをうろつくばかり

女房と口論し ガキどもには手を焼くばかり
老いぼれになるまで おれはうめき続ける
なのにあの幸運の太陽のやつは 何もしちゃくれない
毎日 ただ天国のまわりをうろつくばかり

ああ、主よ わたしの泣くのが聞こえないのですか
わたしの目には涙があふれています
希望の光を秘めた雲のなかへと運び
このわたしを 安らぎの地へひきあげてください

あの川のほとりに連れていってほしい
川をわたり すべての苦しみを洗い流してしまいたい
なのにあの幸運の太陽のやつは 何もしちゃくれない
毎日 ただ天国のまわりをうろつくばかり

(まれびと訳)

 

 この曲はディランもコンサートでよく歌っている。かれの好きなリッキー・ネルソンの Lonsome Town や、Rank Strangers とおなじで、最後のひと息のような歌だ。耐え難い魂が雲の合間をゆらゆらと漂っている。send in a cloud with a silver linin' のくだりは、「どんな雲も裏は銀色に光っている (どこかに光明がある)」という諺に由来するらしい。「川」はあるとき眼前に顕われる、何かの象徴だ。いわばこの歌の主人公は与えられたものではない、別の何かを自ら求めて、谷底から特別なもう一歩を歩み出す。

 

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■ Weezer

 見慣れた風景にすがりつこうとするのは停滞の証か。ぼくの場合、音楽はいつも偶然の贈り物のようでいて、実はこちらが心の底で求めていたものが招き寄せる相思相愛の出会いのように思えるときがある。ライ・クーダーが歌ってるあの素朴な伝承曲もそれを言っている。「ジーザスが電話に出ている、お前の欲しいものを言ってみな」

 大阪の会社へ行っていたとき、昼休みは近くの公園でひとり弁当を食べて、それからたいてい松坂屋の6階にある本屋とレコード屋を覗いていた。ある日、店の巨大なモニターが見知らぬ若いバンドの映像を流していた。それが彼らの3枚目のニュー・アルバムからの Don't Let Go というシングル曲だった。何か胸の中で新しい風が吹いたように思った。ポップで、キャッチーで、それでいてどこかせつなさを感じるメロディで、ビートルズの Love Me Do を初めて聴いたときのようなわくわくする爽快さと少しばかりの興奮があった。それから何度か昼休みに、このバンドのCDを手にとって眺めた。

 結局、最初で最後となる給料日の前日の昼休みに買ったのは、最初に耳にした新譜ではなく、94年に出たこのデビュー・アルバムだった。「世界がまわってぼくだけここに取り残された」と歌い、「だってきみはメリー・タイラー・ムーアで、おれはバディ・ホリーそっくりじゃないか」と強がり、「ぼく以外の誰のためにも笑わないような、そんな女の子が欲しい」と言い、「ガレージの中は落ち着ける。誰もぼくのやり方に構わないから。ぼくがこんな歌を歌っても聞こえないから」とつぶやく。ポップで、せつない。これは大事なこと。ぼくはこの名前も知らなかったバンドの音楽すべてに共感できた。こういう感じ、よく分かる。だってこいつらときたら、まるでぼくにそっくりじゃないか。そういえばジャケットの写真は、初期のブルーハーツに似てなくもない。

 プロデュースは元カーズのリック・オケイセック。せつなさが、ポップに疾走している。それって「前向き」なことだろ?

 

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■ Arthur Louis / Knockin' On Heaven's Door

 気分がいいときには身体まで軽くなって空も跳べる。これはほんとうだ。人は不思議なもので、糸の切れた凧のごとくあらぬ方角へ飛んでいってしまわぬための重し(Ball & Chain) が必要なときもあれば、逆にまたその重しから逃れるように軽身になって息を吹き返すこともある。底なしに墜ちていってもう駄目だと思うようなとき、要するにタフでなければ乗り越えられないときもあるし、軽やかでなくては跳び越えられないときもある。そういう単純なことを、ぼくは多くの場合、ある種の音楽を媒介として学んできたような気がする。ジャニス・ジョプリンの水をたっぷり吸った砂袋のような欲望と悲しみに救われるときもあるし、このアルバムのような伸びやかな軽やかさに、支払いなしで自分の居場所を再発見できるときもある。軽やかさ、といってもこのアルバムの場合、それはモリスンの歌う雨に濡れた石畳のようなせつなさとある種の不可欠な真情を含んだようなものなのだが。

 このCDはもう大分以前に、ディランのカバーである表題曲に引かれて買ったのだが、いつもの怠惰で当の曲以外あまり聞かなかったしそれ以外の曲も当時はそれほど良いものとも思えなかった。ところが何の拍子かここ数日、かけっぱなしでいる。そういうことってあるものだ。

 クレジットを読むとジャマイカ出身のブルースを基調としたギタリストで、レゲエ調アレンジのディラン作以外はすべて自作曲で全9曲中ほとんどの曲でクラプトンがゲスト参加、彼らしい主役を盛り立てる渋いサイドメン役に徹している。オリジナル・アルバムは1976年の発表で、1988年にCD化されて再発されたらしい。実はこのアルバムの発売前にクラプトンが同じようなレゲエ・スタイルの Knockin' On Heaven's Door をレコーディングしようとしてトラブルになったらしいのだが、そういう意味ではクラプトン版 Knockin' On Heaven's Door の元ネタということになるのかも知れない。ジャマイカ出身らしい腰のあるイカしたブルース曲もあるが、私が特に好きなのは The Dealer や It Fells Good、Someone Like You といった冒頭に書いた流れるようなどこかせつないフィーリングのレイド・バック調のラブ・ソングだ。なんかチャボ(仲井戸麗市)の曲でも聴いているようで、これがなかなか良いのだよ。ソング・ライターとしても非凡なものを持っているように思うのだが、いまでも活躍しているのだろうか。誰かご存じの方がいたら教えてください。

 

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■ Van Morrison / Wonderful Remark

 

ひとが泣くときに満ちる静けさに
どうして耐えられるだろうか
目の前で噴き出す暴力を
いったいどうしたら正視できるのか

まったくたいしたご意見だぜ
暗闇の中で おれは目を閉じ
百万のため息をつき
百万の嘘を自分に言い聞かせる そう、自分に...

 

 “ That was a wonderful remark... ” 朝の冷たいホームで、あるいは明るい公園の木漏れの中で、肩を怒らせてよくそんなふうに呟いていることがある。この悪癖はきっと生涯、治らないだろう。およそこの世の物とは思えない、サイケデリックなカラーに塗りたくられた難破船に乗って海原を漂っていくのが好きだ。みすぼらしい石ころも、ひそかに黄金を隠し持っている。この歌のリフレインは、それを保持するための呪文だ。

 

いくつかの色を自分の世界に描き加え
星にのってスウィングしているのだと夢見るがいい
まず味見をして それから味付けを加えれば
自分が何者だか分かるだろう

 

 1973年、ヴァン・モリスン。軽快なフルートが瑞々しく魅力的なオリジナルは長らくお蔵入りで、1998年のCD二枚組未発表曲集「The Philosopher's Stone」でやっと公開された。マーティン・スコーセイジーの映画「キング・オブ・コメディ」サントラに収録されたリメイク版も、華やかなブラスとロビー・ロバートソンの腸捻転ものギターが、これまた二日酔いの胃に心地よい。

 

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■ Ray Charles / What Would I Do Without You

 グリール・マーカスの「ミステリー・トレイン」(第三文明社)の中に、この曲のことが出てくる。マーティン・スコーセイジーがヴァン・モリスンのレコードをかけ「“タクシー・ドライバー”の初めの15分はモリスンの“アストラル・ウィークス”をもとにしたんだ」と呟いたあとで、この曲をかける。ロビー・ロバートソンが「ビリー・ホリディの何曲かを除けば、これほどヘロインの入っている音楽はない」と言う、「ヘロインが喉をどうかするんだよ。声をくもらせるんだ。ほら、聴いてごらん」

 

 ぼくらはこれをよく演ったよ。ボブの前、ビッグ・ピンクの前のことだ。だけどぼくらにはうまく演れなくてね。あまにも沈み込んだ曲だったんだ。死んだみたいなものだった。聴いている者はじっと座っているか、どこかへ行ってしまうかだった。

 

 マーカスはスコーセイジーに、その曲をどうやって見つけたのか、と訊く。「〈ハレルーヤ、アイ・ラブ・ハー・ソウ〉のB面だよ。アラン・フリードがかけたのを聴いたんだ。」

 のちにヴァン・モリスンが、80年代に発表したアルバム A Sense Of Wonder の中でこの曲をカバーしているのを聴いた。「ミステリー・トレイン」の巻末の注釈では、この曲は日本では発売されていないという。以来、いつもレコード屋でレイ・チャールズの輸入盤を見かけるたびに、曲目リストにこの曲を探すがいまだ見つけたことがない。

 ときどきぼくは、いまだ聴いたことがないレイ・チャールズのこの曲のことを思い浮かべる。あの That Lucky Old Sun を歌った、悲痛な魂のうめきのようなサウンドだろうか。ヘロインに喉をくぐもらせた“死んだみたいな”音を空想し、身体中をその苦い悲しみで満たしてみる。

 いまだ聴いたことがないために、この曲はぼくのひそやかなフェイバリットであり続けている。

 

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■ Eric Clapton / 461 Ocean Boulevard

 

聖母マリアよ どこにいますか
今宵 この身がふたつに裂けたような心持ちです
空から星々がこぼれ落ちるのが見えました
聖母マリアよ 涙をこらえられません

ああ、このひとりぼっちの夜を乗り切るために
いま あなたの助けが必要です
どうか教えてほしい いったいどうしたら
もういちど自分を見出せるでしょうか

 

 1986年3月、ザ・バンドのリチャード・マニュエルがツアー中のフロリダのモーテルのバス・ルームで首を吊って死んだ。「自分はだめなんじゃないかと思うことぐらい、人間を傷つけるものはない。そういうことを考えはじめたら、大きな深みにはまってしまう」これはその晩に、かれが同じメンバーのリヴォン・ヘルムに言ったという言葉だ。クラプトンは Holy Mother という曲を書いてリチャードの死を痛んだ。同じザ・バンドのメンバーであったロビー・ロバートソンも Fallen Angel という追悼の曲を書いたけれども、ロバートソンの曲が死者を見送る立場から書かれているのに対して、クラプトンの曲は、まさにいまシャワー・カーテンの棒にベルトを巻きつけようとしているリチャードの姿をとらえている。つまりクラプトンの心はリチャードと同じ悲しみに顫え、呻いている。

 リヴォン・ヘルムは後の回想記で、リチャードの死についてこう記している。

 

 しかし、ほんとうの気持ちをすべて話したわけではなかった。ぼくには、リチャードのしたことが分かるような気がした。リチャードは何かを恐れるような人間ではない。彼はただ、まわりのすべてに腹を立て、自分を犠牲にすることで状況を変えよう、それまでいつも彼のなかにあった悲しみ、彼が音楽のなかに表現した悲しみ、その地上の苦しみから自由になろうとしたのだと思う。

 なぜなら、リチャードには深いキリスト教の信仰があったからだ。知っていたか? 彼は、ぼくたちがこの地上でしていることは、神の大いなる瞬き、あるいは聖書にいろいろなことばで書かれているとおりであるのに過ぎないのを知っていた。リチャードはそういうふうに考えていた。

(Levon Helm And The Story Of The Band・音楽之友社)

 

 実はさる人より、クラプトンのフェイバリット・アルバムを何かひとつ、というメールでのリクエストを頂いてこれを書いている。断っておくが、ぼくはブルース・ブレイカーズやクリームやブラインド・フェイセズといった頃の初期のクラプトンはあまり知らないし、ばりばりのクラプトン・ファンというわけでもない。ただ、あの Layla を含む名盤 Derek And Dominos から現在に至るかれの音楽はおよそ耳を通してきた。その中から、はてフェイバリットというと何だろうかとあれこれ悩んで結局選んだのが、粋なギター・アルバムでもないし大セールス作でもない、1974年に発表された素朴なこの一枚である。

 中学生の頃、一時「レコパル」というFM誌を購読していた。そこにアーティストのある曲の歌詞をとりあげるという短いエッセイの連載があって、ぼくは毎週それを読むのが楽しみだった。その中にあった Let It Grow の記事を読んで、ぼくははじめてクラプトンのレコードを買った。それがこの 461 Ocean Boulevard である。 Let It Grow はちょっと「出来すぎ」の曲だなあと思ったりしたが、後に亡きロウエル・ジョージに捧げたという朴訥としたアコースティックの Please Be With Me や、ブルージィな I Can't Hold Out などの語り口に惹かれた。

 何より、ヘロインのどん底の状態にあったクラプトンが書いたという Give Me Strength という曲はこのアルバムの、目立たないが重要なキーになっているように思う。「主よ、私にやり抜くための力をあたえてください」という簡素なフレーズと質素なドブロ・ギターが共鳴するほんの短い作品だが、ぼくはクラプトンの魂は、こういう場所にあるのだと思う。同時にこのアルバムでいちばん好きなのは、一見ざらりとしていて、それでいて触れたら切れてしまいそうな細い糸がおだやかな南の気候で少しだけ撓んで、ふっと心情を語りはじめるようなその空気だ。これは不要な高周波やノイズをカットした冷徹なデジタルより、いっそルーズなアナログで聴くのが相応しい。

 空気、と言ったが、ぼくにとってクラプトンはおそらくそのような存在かも知れない。ざらりとして、いつも悲しみと共感を湛えていて、何かのときにそっと的確なフレーズをそのギターでつま弾いてくれる旧友のようなもの。十年ぶりに再会しても、少しも時の隔たりを感じさせない、きっとそのような。

 

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■ Glenn Gould 〜Off the Record / On the Record (*Video)

 素晴らしい音楽の生まれる舞台裏を覗くというのは、まれに幻滅することもあるがでも大抵は当の音楽でも音楽以外でも、ときにさまざまな刺激をもたらしてくれる。クラッシック音楽でいえば、たとえばいま思い出すのは、あの映画「ウェスト・サイド・ストーリー」を録音しているバーンスタインや晩年のホロヴィッツの映像など。そしてこの度、グールド27歳の折の貴重な姿を映したフィルムを見る機会に恵まれた。ジャケット裏の但し書きにあるように、まさに「グールドの若き日の輝きを凝縮した貴重なフィルム」である。

 約60分の映像は前編と後編に分かれていて、その前編・Off the Record はタイトル通りトロント郊外の別荘でひとり音楽に陶酔し、湖上のモーター・ボートを操り、知り合いの音楽家と議論するグールドの日常。そして後半・On the Record はニューヨークのスタジオにこもりバッハのイタリア協奏曲を録音する一週間をとらえている。

 これまで晩年の映像しか見たことのなかった私にとって、これらのグールドの姿はあまりに若々しくみずみずしい。だがグールドは、やはりグールドである。全編を通じてこの若き才能が、次第に「世捨て人」となり孤独の中でただひたすら音楽という純粋宇宙へ沈潜していったそのやむを得なき萌芽のような場面があちこちに、まるで水面を波立たせる河床の小石のように散りばめられているのが、何よりいちばん印象に残った。やはり人は己が小路を、自分にぴったり合った椅子を抱えて頑なに歩いていくべきだ。それが若きグールドが私に伝えた「輝かしき日々の遺言」であった。

 それにしてもあのイタリア協奏曲の、この世のどうでもいい塵芥をキャベツの千切りのごとく刻んでしまうような小気味よい清冽さよ。ビデオを送ってくださった“まりあさん”に、感謝。紀伊國屋書店、2000。@4,762。

 

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■ MAVIS STAPLE AND LUCKY PETERSON / SPIRITUALS & GOSPEL 〜Dedicated To MAHALIA JACKSON

 クリスマス気分で賑わう年の暮れにレコード屋の棚で偶然に見つけた。魂が渇いて倒れそうだったから、迷わず手にとって、そのままコートの胸の奥にかき抱いてそっと持ち帰った。誰もいないさみしい部屋で、ヘッドホンで聴いた。“そうです、主よ。そうです、主よ” 誰か分からない、じぶんのなかの何かにつぶやいた。涙が出てきた。ああ、よかった。このままボロをまとって、このままもう少しだけ生きていける。

 

 1996年録音、ポリドール。スティプル・シンガーズのメイン・ボーカリスト、メイヴィス・スティプルがかのマヘリア・ジャクソンに捧げる形で、シンプルなピアノとハモンド・オルガンだけをバックに朗々と歌い上げるゴスペル・ソング集。いのちが、息づいている。

 

This Joy That I Have,
The World Didn't Give It To Me

このわたしの歓びは
この世がわたしに与えてくれなかったもの

 

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■ NEIL YOUNG / ROAD ROCK 1

 サンカ(山窩)という山の民の存在を夢見てきた。山中に瀬降り(天幕)を張り、熱した石で風呂を沸かし、自然と交感しながら、そんなふうにこの国の山中を漂泊していく。定住や安定といった価値観とは異なる、そんなまぼろしの国がどこかに在るのだと空想した。人気のない川原に佇んでいると、そんなサンカの娘が繁みから現れて、じぶんを連れて行ってくれると夢想した。どれだけ新鮮な風景も、そこに住めばやがて日常の垢に色褪せてくる。いつも動き続けていれば、色褪せることも錆びつくこともない。映画の中の寅さんは、だからアウトサイダーたる縄文の末裔なのだ。もう一歩、というときに決まって身を引いてしまうのは、かれが男として奥手だからばかりではない。その一歩を踏み出すことによって負わなければならないこの世の価値観を、かれは深い諦念と覚悟によってしずかに、軽やかに拒絶する。おいらにはそれが似合っている、このままでいいのさ..... 。失恋の後の旅の途上で、だからかれが思わず出くわし拾い上げられるのは、おなじこの世のアウトサイダーたる旅芸人の一座の宣伝カーだったりする。

 ニール・ヤングは縄文の猿である。かれの遺伝子には何か別の進化のプログラムが組み込まれているに違いない(あるいは逆にそれは、やさしき欠損であるかも知れない)。ひたすらギラギラに張りつめていた90年代の WELD とは違い、まるで70年代のようなやわらかな手触りもある。だがそれでもこの風景は、前に見た風景とは明らかに違う。昔の風景はすでに色褪せた。またべつの「のっぴきならない」地平なのだ。そこで縄文の猿の遺伝子が奔りながらいまなお「のっぴきならない」夢を見続けている。ああ、こんな音楽がいい。家財を売り払って夜逃げする旅先でラジオから流れてくる都々逸のように、この身を洗い流してくれる。これは ROAD MOVIE ならぬ ROAD ROCK だという。ならばCDケースなど道端に放り捨てて、宵闇の道を、この音楽とともにどこまでも走り続ければいい。

 

and as long as I keep movin'
I won't need a place to stay
動き続けているかぎり
とどまる場所は必要ない

(Motorcycle Mama)

 

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■ TOM WAITS / CLOSING TIME

 

いいときは長く続かないもの
おれはさっさといつもの55号へと向かった
ゆっくりと車を走らせたら とても神聖な気持ちがした
ほんとうに生きている感じがしたのさ

いま 太陽がのぼり
おれは幸運の女神を乗せて走る
フリーウェイ そして車とトラック
星々は消え始め おれはパレードを先導する
もうすこしだけ こうしていたい
ああ、この気持ちはますます強くなるばかり...

朝の6時になって
なんの警告もなしに
おれはわれにかえった
ライトも眩く
トラックがみなおれの車を追い越していく
こうしておれはもといた場所に引き戻される

( Ol' 55 )

 

 この男はきっと、世の中のスピードに乗り切れないさびしい人間だ。つかのまの酩酊がしらじらと覚めてから、さえない顔つきでいつもの道へ向かう。深夜の高速道路を、おそらく50キロくらいのスピードで走らせていたら、瞬間、まぼろしを見たのだ。コマネズミのような慌ただしい昼間の世界が消え失せて、明けの神秘のフリーウェイを、奇妙な聖者の一団のようにゆっくり、ゆっくりと行進していく。そんなはかない、切ないまぼろしに、知らず微笑んだ。ある種のひとびとなら、この歌のようなまぼろしはもう何度も見ている。そのたびに胸を衝かれ、このままこのまぼろしといっしょに消えていってしまえるものなら、と思う。けれど、みな地上に戻ってくる。かすかな微笑みの記憶を抱いて。

 

 酔いどれトムの素朴なファースト・アルバム。傑作でも怪作でもないが、川原で拾いあげた小石のように、こんなささやかで腹に沁みる叙景がさりげなくそこかしこに散らばっている。そう、歌のつましい原質のようなもの。

 

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■ THE CLASH / FROM HERE TO ETERNITY

 反抗心というのは、熱と疾走感だと思う。熱は己のちんけな魂を凍えさせないため。熱すぎても冷たすぎてもいけない。微妙な温度でなければいけない。そして疾走感は錆びついてしまわないため。くだらないごたごたから逃れるため。自分をいつもあたらしくするため。

 家の近くのしけたレコード屋の店頭をひとくさり物色してから、トム・ウェイツの初期のアルバムと、このクラッシュのわりと最近に出たライブ盤のどちらにしようかと迷った。酔いどれトムの初期ナンバーなら、きっといまの気分に相応しくブルージィーな憂愁に心地よく浸らせてくれるだろう。だからあえて、このライブ盤の方を買ってきた。

 実は、クラッシュはそれほど聞き込んできたわけではない。セックス・ピストルズもクラッシュもひととおりは経てきたけれど、パンク音楽というものにそれほど夢中にはなれなかった。クラッシュはデビュー・アルバムを友人にテープに録ってもらったものと、自分で所有しているのはCDの LONDON CALLING -----これはいまでも愛聴しているアルバムだけれど、おそらくクラッシュにしては洗練されたポップな時期の作品だろうと思う。

 家に帰ってさっそくCDを聴いたとき、少々ラフな音源と演奏に、まるでブートレッグ盤でも聴いているような気がした。それほどいいものに思えなかった(ちょっぴり気分が落ち込んで繊細になっていた自分には、ひどく粗野なかたまりのように感じられた)。だが台所で夕飯をつくったり洗濯ものを干したりしているときに彼女のCDラジカセでかけっぱなしにして聴いていたら、そのうち、だんだんしっくりくるようになってきた。(ときには倦みダレたような)熱い疾走感のかたまりのようなものが、少しづつ体の中に浸み込んできた。一見粗野でラフな演奏の合間から、かさぶたが無理に剥がれた傷口のようなやわらかな痛みの感覚が透けてくる。気がつくと、落ち込んでいた自分の心は少しばかりタイトなものになっていた。

 クラッシュの格好良さというのは、「ダサイことが格好良い」ことの格好良さだと思う。ジョー・ストラマーのボーカルは、まるで棒きれで叩きのめされ追い払われた野良犬が哀れな舌をだらりと垂らしてはあはあと息をついているような歌い方だ。けっしてスマートなものでない。そういえばいくつかのサウンドは、当然かも知れないがあのブルーハーツにも似ている。ブルーハーツも「ダサイことが格好良い」ことを体現した熱く疾走するバンドだった。

 じじいになっても、こんなイカした音楽で腰を振っていたい。

 

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■ Van Morrison & Linda Gail Lewis / YOU WIN AGAIN

 「たとえベートーヴェンの素晴らしい交響曲であっても、それを繰り返し聴けば、私たちの感情は機械的になってしまう。多くの貴重で新鮮な体験がこの機械によって破壊される」てなことを書いていたのは、あれはグルジェフについての本の中でのコリン・ウィルソンだったろうか。さしずめ身近なところでの筆頭があのおじさんたちがカラオケで歌う懐メロという奴だ。あるいは森田公一とトップギャランの「青春時代」。女々しい青春がなんたらかんたら言う前に、ヴァン・モリスンは夏の光の中の三千世界の青春、と歌っている。さらにもっと昔にかのホイットマンがその秘密について語っている。つまりコリン・ウィルソン風に言うなら「機械の悪癖を脱して、新鮮な体験を捉えるやわらかな感性(心のつや)をいかに保ち続けられるか」ということだ。十代ですでに老人の奴もいれば、80歳で「青春」真っ盛りのじじいも存在する。「青春」なんてそもそも、小箱に仕舞って懐かしがるものでも珍しい特別なものでもないんだよ。

 というわけで、屈強無比のアイルランドのじじいがこんなアルバムを作ってくれた。ジェリー・リー・ルイスの愛娘と軽快にハモるカントリー&リズム・アンド・ブルースの古典楽集。しかしこれは断じて懐メロではない。たとえばハンク・ウィリアムスの超有名な「ジャンバラヤ」。通俗的なカーペンターズの版ではのどかなカントリーほのぼのソングだったものだが、ここでは小気味でシャッフルの効いた粋のよい上質のロックンロール曲に仕上がっていて、聴いていて実にうきうきする。かつてモリスンはある曲で、ロックが生まれる前夜の刺激的でコントンとした黄金の日々を歌ったものだが、ここに収められた曲はおそらくモリスン自身が若き頃に心を躍らせ夢中になったそうした着火剤の数々、それがロックンロールと名付けられる前の何か未知のものが躍動しいままさに生まれ出ようとしている息吹、きっとそのようなものであって、いまもなおそれは何かを生み出そうとしている。

 つまり、いつでも「いまが新しい始まり」というのがロックの隠された秘密の名前であって、このアルバムはその真摯な実践、軽快に投げられたバトンのようなものかも知れない。

 

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■ Van Morrison / The Street Only Knew Your Name

 

きみのストリートが 豊かだろうが貧しかろうが
いつもそこに立ち戻るべきだ
始まりのときから きみの心の中にある場所
それなくして成就はない

きみがまだとても若かったとき
ストリートだけがきみの名前を知っていた
ああ、きみの尊いその名前を....

 

 昔ブライアン・ウィルソンのソロ・アルバムの中にあった「テレビのなかの暴力にぼくらはとても勝てそうにない」という一節を、一匹の夜光虫のごとく思い起こすことがある。そんな深夜に、たとえば『チベットの死者の書』の中の、またこんな一節を呟いてみる。「汝の身体は習癖を作る力(ヴァーサナー)によってできているのであり、意識からできている身体なのであるから、殺されて裁断されても死ぬことはない。汝は空(くう)それ自体が姿を形づくったものなのであるから、おびえたり、おののいたりする必要はない。空の性質をもったものが、空の性質のものによって損なわれることはないのである」 たとえばニール・ヤングが Helpless をあの魂の粒子で歌うとき、ぼくはただそれを受け入れるだけだ。他に入れ物の余地がないというように、どのような絶望も、孤独の深淵も、煙草の煙のように身体中のすみずみまで沁み渡らせる。他に何ができるだろう?

 ヴァン・モリスンの歌う“ストリート”も、どこかそんな感じがする。“きみがまだとても若かったとき”がユングのいう無垢の「すべての期待が眠っているこどもの領域」であり、“尊いその名前”が空の空たる実存本来のアートマンであるなぞと穿つまでもなく、もっと単純で力強く明瞭な、個としてのゆるやかな根の存在、その聖なる記憶の奪還を示唆する。「思い出せ、おまえの存在の深みまで静かに降りたって」 ヴァンの歌は実はそのどれもが、そうした地中の根を探求した、ある種の永遠回帰の神話である。

 オリジナルは1983年に発表された瞑想的な Inarticulate Speech of the Heart の中の一曲だが、1975年に録音され、90年代に入って膨大なアウトテイク集 The Philosopher's Stone の中で公開されたバージョンの方が、よりソウルフルで、求心的なこの曲の真意に適っているようにも思える。

 始まりのギター・サウンドと、たたみかけるようなヴァンの熱っぽいボーカルとともに、惨めな夜光虫はそのささやかな誇りを徐々に取り戻していく。そう、麦畑の中を闊歩していくようなあの足取りをね。

 

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■ THE HIGH-ROWS / Relaxin'

 それは喩えるならこんな感じかも知れない。

 どこか眠たげな一頭の痩せた驢馬に牽かれたオンボロ馬車で、車輪にはマディ・ウォーターズやサニー・ボーイ、ライトニンなどのステッカーが無数に貼り付けてある。麦藁を積んだ車上には男がふたり。ひとりは未来から来たような銀色の服を身にまとい、涙のつまった大きな袋をかたわらに置き、ときおりボリボリと鼻のあたりを掻きながら居眠りをしている。もうひとりは大きなカウボーイハットをかぶったトム・ソーヤのような男で、こちらはギターを小脇にかかえて「長靴下のピッピ」をさっきから無心に読み耽っている。驢馬の鼻先には人参ならぬぶら下げられたブルース。この馬車は寄り道ばかりしながら、埃だらけの道をときにはのんびりと、ときには暴走しながら、雨の日もおだやかな晴れの日も、寂しいハイウェイも月影の田舎道も走り続けていく。ピカピカのガソリン車には次々と追い抜かれていくが、人工衛星より遠くまで行ける。

 バンドの名前やメンバーや時代が変わっても、この二人は何も変わらない。単純であることを怖れない。追い求める心のつやをけっして失わない。涙が出てくる。

 

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■ John Lennon / WONSAPONATIME selections from Lennon Anthology

 音楽がたんなる趣味や気晴らしであったのは小学生の頃に石野真子や榊原郁恵のレコードを買っていた時までで、ビートルズ、とくにジョン・レノンの音楽に出会ってからの私にとって、音楽は常に「生きること」と同義語、ときにはそれ以上でさえあった。手垢のついた言い回しだがかれの音楽を聴いていなかったらおそらく私は、いまここにこうしているようにはいなかっただろうと思う。かれの毒気に満ちた痛烈な Gimme Some Truth を聴かなかったら、案外自宅の物置で首でも吊ってとっくに果てていたかも知れない。とにかくレノンの音楽は、「生きろ、俺は生きている!!」と鮮烈に叫んでいた。

 大方の人はご存じのように、これは二年ほど前に発売された Lennon Anthology なる膨大な未発表音源を集めたCD4枚組ボックス・セットのダイジェスト盤である。本来ならオリジナルを買いたいところだが、これから何かと物入りでもあり、いつ買えることになるやら分からず、またどうしても久しぶりにレノンの歌が聴きたくなって買ってしまった。

 ここでもやはり一番ぐっと来たのは、かれのソロ第一作である邦題「ジョンの魂」の中からのアウト・テイクである生々しい God や I Found Out などの曲である。洗練された後の公式テイクより荒削りで、まだ曲の仕上がりも中途半端といった感じだが、その分公式テイクには見られない剥き出しの肉声がこのふやけた胸にぐいぐいと突き刺さってくる。特に God のリアルな息遣いは全曲中で最も印象的でありました。そうだよ、このシャウトを聴いて、俺はあの気怠い20代をだらだと生きぬいてきたっていうわけだ。それは簡単に忘れちゃいけない。

 他にも冒頭のオリジナルよりハードなアレンジの I'm Losing You を聴いてニタリとしたり、オルガンの入ったフーガのような Imagine にホホウと頷いたり、ラフで狂おしい Baby Please Don't Go のリフに尻を泳がせたり、軽快な Only You に口笛吹いたり、Grow Old With Me にかぶせられたちゃちなジョージ・マーティンのストリングスに舌打ちしたりと、まあいろいろあるわけだが、とにかく何であれジョン・レノンだ。すんごいよ、やっぱり。レノンの音楽はやっぱり歌詞でも曲でもない、とにかく「声」だ。存在そのもののような「肉声」だ。針金で串刺しにされて虚空に突き刺さったような男根が、雲の向こうでギラギラと光を放ち続けている。いつもタフで、せつなく、やさしく、ハードに、そしてストレートに胸に食い込んでくる。

 それにしてもこうした音源を聴くたびに最後にきまって感じるのは、やはり、もうかれの新しい歌をもう二度と聴くことが出来ないのだという果てしなく寂しい思いだ。

 ジョン・レノンという存在はほんとうにイエス・キリストの生まれ変わりかも知れない。かれの理屈なしの原初のシャウトは、あるいは現代の新約聖書かも知れない。少なくとも私にとっては、確かにそれに匹敵する。

 

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■ 崔健(cui jian) / 一塊紅布

 休日の遅い朝に何気なくテレビをつけると、こんど芥川賞を受賞した町田康(町蔵)が出ていて、じぶんが書きたいのは、ひとびとが前向きに生きていこうと思うなかでこぼれ落ちてしまったようなもの、そんなものを書いていきたい、そんなことを喋っていた。大阪・泉南で起きた一家集団餓死事件。新聞に掲載された奇妙な穴の掘られた庭の写真を見たとき、一瞬、縄文の祭祀遺跡だ、と思った。私の立場は決まっている。「突出した者たち」はけっしてわれわれと無縁なのではなく、むしろ私たちという体内の傷口から出た膿のようなものだ。正常な顔をしている者の方がよほど怖ろしい。その日、中国のロック・ミュージシャン・崔健(cui jian)の“一塊紅布”という曲を、ひさしぶりにCDをプレイヤーに乗せて聴いた。

 

あの日あなたは一枚の紅い布きれで
ぼくの両目を覆い 天を覆った
あなたは聞いた なにが見える?
ぼくは答えた 幸せが見える、と

 

 アジアの魂は呻いていた。デビュー・アルバムで「一無所有・俺には何もない」と歌ったかれは、あの天安門広場でこの曲を「赤い血の色の布で目を覆い、歌った」のだった。政治とはここでは、ひとの魂を標本のように吊り下げ窒息させる、すべてのシステムの総称ではないか。そこからこぼれ落ちたものは何か。紅い布きれで覆われた私たちの目にはいま、何が見えているのだろうか。

 

ぼくは感じる ここは荒野ではない
大地がもはや ひび割れているのが見えない
ぼくは感じる かすかな喉の渇き
けれどあなたの唇がぼくをふさいでいる

ぼくは歩けない そして哭くこともできない
なぜなら 身体がもう枯れ果ててしまったから
ずっとあなたと共にいよう
なぜなら あなたの痛みをいちばん知っているのは
このぼくなのだから.....

 

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■ モーツァルト / ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 K304

 青春時代(ほんとうはこの言葉、あまり好きではないが)というものは不思議なもので、死を間近にした老人がときとして穏やかな表情を見せる逆説にも似て、短絡に考えれば死から最も遠い生命の絶頂期であるべきこの年代こそ、実は最も死の影が色濃く漂う危うい季節なのかも知れない。

 モーツァルトのこの暗く張りつめた緊張感と、逃れ難い悲劇の予感、そしてすべるような果てしない愁いと悲しみに染められた短調のヴァイオリン・ソナタを、私はその季節にこよなく愛した。とくに2楽章の出だしでソロ・ピアノが淡々と小槌を打つように主題を奏でる部分、その戦慄のような瞬間は、長いこと私にとって、ひとが生きること・存在することの通奏低音であった。その響きを聴くたびに、私は身を切るような孤独と諦念と慰みを感じ、訳が分からぬままいつも涙が出そうになった。トーマス・マンの小説で覚えた「滑稽と悲惨、滑稽と悲惨」というのが、その頃の私のお気に入りの呟きだった。

 だが、ひとがのっぴきならない場所に墜ちたとき、喜びよりも深い悲しみの方が、いっそ心の救いになることだってあるだろう。そう考えてみると、モーツァルトのこの曲の暗い想念は、あるいは死に魅せられた私の危うい季節をずっと支えていてくれたのかも知れない。

 ピアノはクララ・ハスキル、ヴァイオリンはアルテュール・グリュミオー。1958年録音の永遠の名演。

 

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■ B.B.King & Eric Clapton / Riding With The King

 以前に図書館でクラプトンの伝記本をしばし捲ったことがある。そのなかで「Journyman」だったか、あのアルバムはもともとブルース曲の多い地味な選曲だったものが、レコード会社の命で、新たに雇った作曲家たちのポップでキャッチーな曲に大半が差し替えられたという内幕が載っていた。あの大ヒットした Forever Young も、皮肉なことにそのうちの一曲であるという。

 私はそのくだりを読んだとき、クラプトンのような大物ミュージシャンでさえ自分の思い通りにアルバムをつくれないものなのか、と多少驚いた。それともうひとつ。ミュージシャンというものはたとえディランのような勝手気ままに見える存在でも、やはりレコードの売り上げというものを実はひどく気にしているし、それと同じくらい、自分のつくりあげた音楽が人々に受け入れられるかどうか、その世評に対して敏感で傷つきやすい。たぶん、そうなのに違いない、と。

 だからクラプトンが古いブルースばかりを集めた「From The Cradle」を発表したときには、ああクラプトンもこんなアルバムをつくれるようになったんだなあ、と思ってどこか嬉しい気がしたものだ。それ以前の、あのフィル・コリンズに触発されてやたらポップになった頃から、個人的にはどうもイマイチ興味が失せかけていたのだが、それでもあのときだってクラプトンは「時流」と彼なりに闘っていた。常に第一線でいるということは、やはりとてつもなく大変なことなのだ。だからその後に出た「Pilgrim」は、内省的なかれの渋いソウルと洗練された今風のサウンドが見事に重なり合って、稀代の名作となった。

 というわけで、御大 B.B 翁と組んだこのジョイント・アルバム。新味なサウンドこそ何もないが、味わいはやはりスルメイカ、その根は深い。冒頭のノリノリ・ナンバーが John Hiatt 作というのもイカしているし、その他も要所を締め緩急取り混ぜた、阪神の星野仙か元オリックスの佐藤かというくらい渋く、かつまた適度に楽しめる。それに、やっぱり感動ものですよ、この二人ががっぷり四つで廻しを取ってりゃさ。ブルースのさまざまなスタイルが楽しめるし、B.B の野太いボーカルのせいか、クラプトンもいつになく重厚、毎日骨太カルシウムだ。あまりにも役者を揃えすぎだと穿ったご意見の方もいるかも知れないけど、まあ、いいじゃないですか。

 昨年のクラプトンの来日公演のときに、うちにもよく遊びに来るつれあいの友達の若い女の子がチケットを取って見に行ってきた。彼女はその頃出ていたベスト盤を車の中で盛んに聴いて予習をして行ったのだが、実際にライブを見たら、ベスト盤の中の曲ばかりやってくれたわけじゃないので、やっぱりギター好きな人じゃないとダメなのかなあ、とちょっとイマイチだったようだ。クラプトンは結構幅の広いファン層がいて、なんかセールスではビリー・ジョエルやエルトン・ジョンといった感じがするときもあるけど、本当は違うんだぜ、あんな寄せ集めのヒット・ソング集じゃ分からないのさ、とおじさんはつい一言、言ってしまいたくなるのです。

 今度はいっそ、全曲アコースティックのソロ弾き語りで、ロパート・ジョンスンのカバー集なんか出して欲しいな。脳髄にがつんと来るような、暗くおどろおどろしいようなやつを。クラプトンなら悪魔と対話したあのサウンドを、きっとやってのけられる。

 

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■ Neil Young / Silver & Gold

 「黄金のこころをもとめて、ぼくは年老いていく」と歌ったかれの Heart Of Gold を聴いたのは、確か高校生くらいだった。その歌はぼくのこころの襞にすんなりと収まった。それはたとえば当時読んでいた「チボー家の人々」のなかの主人公の少年が「誰かがぼくにやさしく話しかけてくれたら、ぼくはすぐにその人のことを好きになっちゃうんだ」と言うセリフと同じように、シンプルであることがいつもいちばん素敵だ、という意味にぼくは受け取った。年老いても、やわらかで、愚鈍なほど単純であること。

 もうひとつだけ、ぼくには信条としているささやかなことばがある。それは「便利になるほど、失うものも多い」というものだ。ほんとうは子供の頃から乗り物酔いで苦しんでいたせいもあるのだけど、20代の後半になって単車の免許を取るまで、ぼくにあるのは自転車と自分の二本の足だけだった。30代になって、いまのつれあいになかば勧められて車の免許を取った。おそらく子供が産まれてそのうちには、小さな車でも買うことになるだろう。

 でも、たとえそうなっても、ぼくのこころは知っている。スピードがあがればその間に見過ごしてしまうものが多くなること。車で通いなれた道を歩いてみたら知らなかった発見がたくさんあること。親愛なる叔父さんはいまも紀勢本線が開通していなかった時代に苦労して熊野の山間の村を訪ねたときの思い出を幾度も語る。目的地には早く着くだけが能じゃないということ。そしてまた若い頃に友人と二人で寝袋を背負って歩いた紀伊半島縦断の旅で学んだことは、寄り道をしなければ出会えないものもあること、ハプニングこそが生きる愉しみであること、一歩一歩牛の歩みのように噛みしめて歩くことの意味、複雑なものから離れ、その単調さのなかに果てしない豊かさのあること。それから何気ない、ふだん忘れていた水の音や風の感触に驚くよろこび。

 つまり、そういうことなんだよ。カーナビ付きの最新型の車でハイウェイをぶっ飛ばしながら手元の携帯電話から地球の裏側へメールを送信していても、裸足で土の上を歩く愉しみを忘れていないひと。いつでも子供のように風や鳥の声に夢中になって、道を踏み外してしまうひと。自分にとって何がいちばん大切なのかを見失っていない人。世間で政治話にうんちくを傾けるより、部屋にこもって船の模型をつくっていたりする方が好きなような人。このアルバムは、そういう人の音楽なのだと思う。

 中学の頃の春休み、友人と二人でサイクリングの途中に、知らないうちに都心の高速道路に入り込んでしまったことがあった。周りの車が盛んにクラクションを鳴らしていたけど、てっきり「がんばれよ」と挨拶を送っているのかと思って自転車の上から手を振って、最初のパーキング・エリアまで呑気に走っていた。なんか、そんな感じに似ている。

 

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■ Lou Reed / Ecstasy

 必ずしもルー・リードの熱烈なファンというわけでもない。ヴェルヴェット・アンダーグランド時代のライブ盤が一枚、かれの代名詞たる名曲 Walk On The Wild West を収めた「トランスフォーマー」、そして憂鬱な「ベルリン」、それらを含めた'70年代のベスト盤を一枚、近年ではわりとポップでキャッチーな「ニューヨーク」、ジョン・ケールと共にアンディ・ウォーホールを追悼した「ソングス・フォー・ドレラ」。所有しているアルバムはそのくらいだ。

 大阪の某レコード店の試聴コーナーでこの新譜を耳にしたとき、え、ルー・リードってこんな歌い方だったか、と一瞬思った。かれの歌うニューヨークの混沌としたストリートから紡ぎ出された物語はやはり一目を置いていたが、どこかでその淡々としたクールな語り口に物足りなさを感じていなくもなかった。ところがひさしぶりに聞いたこのニュー・アルバムでは、いつもの静謐な語り口を破って露わな肉声が確かに響いてくる。

 サウンド的には「ソングス・フォー・ドレラ」ではやや粗雑なように聞こえたギターがとても精緻で、無数の表情を見せる女の肌のように心地よく決まっているし、そのシンプル過ぎるほどのバンド構成にさりげなく添えられたホーンやローリー・アンダーソンのエレキ・ヴァイオリンもさり気なく的確でとてもいい。

 曲の内容としては私小説的なプライベートな感情を中心に、かなり切迫した崖っぷちの魂ともいえる場面が、ときには官能的に、またときにはいまにも決壊しそうな悲しみを湛えて歌われる。全体的に気負ったロック調の曲よりもソフトな肌触りの曲が多いのは、熟年ロッカーの余裕のようなものだろう。そしてそれらの曲は、それがしずかなトーンであればあるほど、内に秘めている激しい憎悪や愛情や危機感といったもろもろの叫びが、まるで和紙の裏側からじわじわと滲んでくる体液のように沁みだしてくるのだ。

 圧巻は自らを袋ネズミ(捕まったり驚いたりすると死んだふりをする)になぞらえた18分にも及ぶ腸捻転ものの大作から、ローリー・アンダーソンのエレキ・ヴァイオリンが奏でる美しく短いインスト曲を挟んで、崖っぷちで踏みとどまるポジィティブなサウンドの終曲へと至るラストの部分だろう。二曲ともまるでニール・ヤングのノイジーなギターが乗り移ったようなサウンドで、終曲の有無も言わせぬ根拠なしの疾走感は実にカッコイイ。

 そうだ、ぼくにとってまさしくロックとはこういう音楽だった。惨めで、情けなくて、頑固で、切実で、いつでも根拠なしに疾走していけるような、勇気と涙と鼻水がごたまぜになったような、そして廃墟と建築がない交ぜになったスリルと力強さと危うさに満ちあふれているような瞬間の音楽。敗者だが、まだ負けていない。

 ルー・リード、御年58歳。やってくれます。聞いてください。こんなアルバムを聞いたら、どれだけ複雑な感情に絡まっていても、きっといつでも走り出せる。どんな状況のときだって、自分を手放すことが馬鹿げたことだということが分かる。

 

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■ 細野晴臣

 昨夜(2000.4.24)、NHKのETVで細野晴臣に関する特番「いつも新しい音を探している」の第一回を見た。最近、細野さんの集大成的なCDセットが出たようだから、おそらくそれに合わせた企画なのだろう。

 第一回の今回は、初期のはっぴいえんど前後の活動。自分で曲作りを始めたきっかけは?、と問われ、ボブ・ディランの影響をあげていた。そう、この人はザ・バンドも好きだし、もともとニール・ヤングのいたバッファロー・スプリング・フィールドなどのウェスト・コーストのロック・サウンドから出発した人なのだ。

 高校の頃にY.M.Oが大流行だった。ひととおりは耳には入っていたが、当時ディランやレノン一辺倒だった私には、テクノ・ポップは大して興味も湧かなかった。むしろまだ、演劇的な要素の強いヒカシューの方が面白いと思った。だがだいぶ経ってからY.M.Oの音楽を改めて聞き返すことがあって、無機的なシンセ・ミュージックというよりは、とてもハート・ウォームな体温を感じる音楽だったんだなあ、と思った。

 そう、「ハート・ウォーム」。細野さんの音楽にいつも感じるのは、そんな感覚だ。Y.M.Oのもうひとり、坂本龍一の音楽も結構好きだけれど、かれの場合は文筆家の村上龍や浅田彰、現代音楽の高橋悠治などとの交流も相まって、どちらかというと「評論的」な部分に頭が向いてしまう。その点、細野さんの音楽は、もっと「肉体」に近い音楽のように思えるのだ。

 聞いていないようで、探してみるとアルバムはわりと出てきた。はっぴいえんど以降Y.M.O以前の活動をまとめたベスト盤。アメリカから中国、アジア、日本、沖縄など、これはあらゆる雑種音楽のごった煮のような楽しい蜃気楼の旅。昨夜の番組でご本人はこの時期の音楽を、欧米の植民地的視点から見た、ある種の皮肉に満ちた“どこにも存在しないパラダイスの音楽”と表現していたのも面白い。

 ついで Y.M.O 在籍時に発表された、面目躍如のお遊び的ソロ・アルバム「フィルハーモニー」。「モナド観光音楽シリーズ」第一弾として、奈良県の秘境・天河や戸隠などの聖地をモチーフに制作された、いまお手軽に大流行の“癒し音楽”の先取りともいえるかも知れない、水晶のようにピュアな「マーキュリック・ダンス」。

 私の持っているいちばん新しいところでは、日本の民謡から中東のメロディまでを丸ごと蒸して神秘のスープにしてしまったような、「霊的な乗り合い観光、全方位観光」を意味する「omni Sight Seeing」。そうそう、忌野清志郎や演歌の坂本冬美というメンバーで組んだ、思わずニタニタ笑いが漏れてしまいそうな嬉しい「HIS」なんてユニットもあったったけ。

 日本語ロックの原点ともいわれる「はっぴいえんど」こそ、それほどマトモに聞いたわけではないが、気づくと私はいつの間にやら細野さんの引いたレールに、寄ったり離れたりしながら平行して歩いている自分を発見する。

 そうだ、もうひとつ細野さんの音楽のキーワードがあった。それは「健康」である。細野さんの音楽の、その健やかな肌触り。私はそれに触れるたびに、なんだか一週間の断食道場の合宿へ行って、宿便を出して身も心もすっきりしたような気分になるのである。こんな音楽をつくれる人は、きっと真っ正直であたたかくて、ひどく傷つきやすい繊細な感受性を持った人に違いない。

 というわけで、久々にこれらのアルバムを聞き返しながら、今夜の放送もまた楽しみにしておこう。この項続く、かも知れない。

 

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■ J. S. バッハ / マタイ受難曲

 マタイ受難曲というとある人が、「この大曲を最初から終わりまできちんと通して聴くのは、そう何度もあることではない。生涯にわたしは、あと何度これを聴く機会をもつだろう」と、どこかで書いていたのをいつも思い出す。

 中学の頃にはじめに買ったのは廉価なダイジェスト版のLPで、有名な盤なのだが指揮者もオーケストラもうろおぼえ、国もフランスだったかオーストリアだったか、とにかくヒトラー率いるドイツ軍に祖国が占領される前日に演奏された実況録音盤で、張りつめた雰囲気のなかで、ときおり聴衆のすすり泣きの声が聞こえてくるというリアルなものだった。

 しばらくして正月のお年玉でようやく、レコード4枚組の箱入り完全版を手にした。正統派カール・リヒターの指揮で、値段は一万円。それだけ高価なレコードを買ったのははじめてだったから、とにかく感動に打ち震えた。その後調子に乗って全曲のスコア(楽譜)まで購入したものの、生来オタマジャクシに弱い私には「掌にのせて重さを量るだけのもの」に過ぎなかった。勿体ない。どなたかご希望の方がいましたらお譲りします。

 全曲中のクライマックスは、やはりペテロの「裏切り」の場面だろう。聖書でいうと26章の後半。イエスが罪人として捕らわれた時に、弟子のペテロは離れたところからそれを見ていた。「あなたを知っている。イエスといっしょにいた一人だ」と問われること三度、そのたびにペテロは「自分じゃない。そんな人は知らない」と繰り返し、三度目に否定したときに一番鶏が鳴いた。その瞬間、「鶏が鳴く前に、おまえは三度、わたしを知らないと言うだろう」というイエスの言葉を思い出し、ペテロは嗚咽するのである。

 バッハのマタイ受難曲ではこの場面の後に、行くあてをなくした哀れな魂がさまようようなヴァイオリンのヴィブラートが交錯する、「主よ、哀れみ給え」という悲痛な名曲がつづく。この曲はのちにピアノの独奏曲にも編曲されて、高橋悠治などのそれらの演奏も私は愛聴した。

 また当時は太宰治にいかれていた頃でもあったので、かれが聖書をよく引用していたこともあり、己の弱き心に挫いたペテロの姿を心やさしきモラリスト・太宰の姿と重ね合わせて、聴いていたような気もする。同時にそれは私自身でもあった。

 

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■ フォレ / ピアノ五重奏曲 Op.115

 フォレ (一般表記はフォーレだが、音楽評論家の吉田秀和氏が実際の発音はフォレが正しいと書いていたので、ここではそれに従う) の作品というと、一般には哀感たっぷりのチェロ曲のエレジーや、レクイエム中の静謐で美しいサンクトゥス、あるいはパヴァーヌといったあたりが有名だろうが、ぼくはこのピアノと弦楽器のための晩年の五重奏曲が個人的にはいちばん思い入れが深い。しかも、とくに印象的なその第一楽章が。

 この曲をはじめて聴いたのは、はからずも深夜のテレビで見たある映画の中でだった。後にチャーリー・パーカーを描いたジャズ作品「バード」なども発表した、フランスのベルトラン・タヴェルニエ監督の1984年の作品「田舎の日曜日」がそれで、この映画はその年のカンヌ映画祭で最優秀監督賞にも輝いている。

 とにかく画面が美しい映画である。樹々や芝生や石畳に沁みいるような光がこよなく美しい。それにフォレの音楽が見事に重なる。

 妻をなくし、郊外の屋敷で使用人と暮らす年老いた画家のもとへ、日曜にパリから子どもたち家族が訪ねてくる。妻と三人の子をもつ堅実な長男とうらはらに、パリでブティックを経営する奔放な性格の長女は、たとえば父親の描きかけの絵が気に喰わない。“またこんな、おなじような部屋の隅ばかり描いている”

 屋根裏の古着のなかから偶然、父親の若い頃の絵が出てくる。群衆に囲まれた芸人か何かの絵だ。長女はそれを取り出し“素晴らしい絵だわ、情熱に溢れている”とつぶやく。父親はいっしょに絵を眺め、そっと言う。“そうだね。.だが、見てごらん。この周囲に対する冷淡なまでの無関心.... ”と、キャンバスの隅に描かれた人々を指でなぞる。

 長女は道ならぬ恋をしているようなのだが、老いた父親は何も聞かない。ただ二人でドライブに行った先の森に囲まれたカフェで、娘にこんな話をするのだ。

 自分は若い頃、セザンヌやドガたちの作品を見て衝撃を覚えたが、かれらの真似をしようとは思わなかった。あのとき、かれらのあとをついていったら、自分はきっと駄目になっていただろう。わたしの描く絵はささやかなものだが、わたしの世界だ。おまえも自分の思うように生きればいい。

 長女は涙ぐみ、パパ、踊りましょ、と老いた父親の手をひいて立ちあがり、テーブルに囲まれた中央でまるで恋人たちのように向き合い、しずかにステップを踏む。

 フォレの音楽は一見、優美で繊細な調べだけが強調される向きがあるが、晩年の作品などはもう枯淡の境地、まるでベートーヴェンの後期の弦楽四重奏のような荘厳さと芯の太さが、その優美で繊細な調べをがっちりと支えている。喩えるなら、年老いた哲学者が夕暮れにふと一編の叙情詩を口ずさむような、そんな風情だろうか。

 フォレのこの曲を聴くたびに、秋の美しい森の小径へひとり踏み入るような、得も言われぬ陶酔感に全身を包まれ、思わず、人生は美しい、生き続けることは美しい、と柄にもないことばさえ、つい口をついてこぼれてしまう。

  

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■ The Beach Boys / In My Room

 中学にあがってはじめて与えられた自分の部屋は、部屋と呼ぶのもお粗末なもので、かつての家の裏口を閉鎖して、二畳ほどの細長い上がり框をレール式のカーテンで隣の部屋と仕切っただけの、ささやかな空間だった。そこに机と本棚と36回払いのローンで買った新しいステレオ・セットを置いたら、あとは布団を敷くのが精一杯の穴蔵のような空間。それでも自分だけの部屋は嬉しかった。

 高校の途中で新しい家に引っ越しをし、妹と二階の六畳の部屋をそれぞれ与えられた。壁にはもちろんディランのポスターに、額に入れたジョン・レノンの写真、それからルオーの描いた、寂しい郊外の夕暮れの中にぽつねんと佇むキリストの絵。そこにいれば大丈夫だった。たとえ外の世界で耐えられないようなことがあっても、繭のような自分だけの世界に逃げ込んで、大事なものを守っていけるような気がした。

 

自分のひめごとを
明かすことのできる世界がある
ぼくの部屋の中 それはぼくの部屋の中

そこに籠もってぼくは
すべての不安や怖れを警戒する
ぼくの部屋の中 ぼくの部屋の中で

 

 ブライアン・ウィルソンのつくった、わずか2分ほどのこの美しい小品を聴くたびに、こう思う。傷つくということは、何か大切にしているものがあるからなのだ、と。

 ときには「閉じこもる」ということは必要なことなのだ。なぜなら、それはきっと、何かを守りたいと念ずる姿勢だから。そして問題なのは、そこで何を育んでいくのかということなのだろう。ひとりきりの寂しい部屋の片隅で悪魔を育てるのか、それとも.....

 

南の海の
南の海の
はげしい熱気とけむりのなかから
ひらかぬままにさえざえ芳り
つひにひらかず水にこぼれる
巨きな花の蕾がある...........   
(宮沢賢治)

 

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■ Van Morrison / Waiting Game

 いつもはったりをかましているが、ほんとうはいつも挫けそうになってばかりいる。自分はおよそ無価値な人間だ、全部でたらめなんだ、とすべてを放り出して、しじみの小さな貝殻の中にでも引きこもって、二度と出て来たくないような気持ちにたびたび襲われる。

 夜中に深酒をしてとめどなく酔っ払ったり、凍てつくような冬の夜に単車でうろつき回るような自棄に疲れ果てた後で聴くヴァン・モリスンのこの曲は、いつもしみじみと沁みてきて涙が出そうになる。

 

一瞬一瞬がおなじでない
輝かしい秋の日の再来に
忍耐なくして、純粋な喜びは訪れないこともある
待ち続けるときは、待ちのゲーム

きみの奥深くに宿るある存在
ときにはそれは“燃え上がる炎”ともいわれる
木の葉がはらはらと舞い落ちたら、思い出せ
おれは待ち続けよう、待ちのゲームを
                     

 

 '97年のごく最近のアルバム「The Healing Game」の中の素朴な一曲だが、もう燻し銀の味わいだ。木の葉が舞い落ちるようなバックの美しいピアノのフレーズが、剥き出しになったこころの襞をそっと撫でるようで、もう一度だけ、自分の中の何かを信じてみようという気持ちになる。

 “the leaves come tumbling down”のくだりはおそらく、モリスンの好きなウィルソン・ピケットの In The Midnight Hour の中の一節“my love come tumbling down”のパクリだろう。モリスンはこのフレーズが特にお気に入りのようで、'72年の「Saint Dominic's Preview」に収録されている Listen To The Lion でも借用している。

 はらはらと舞い落ちる“leaves”は、“love”でもあるのだ。

 

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■ Bob Dylan / Rank Strangers To Me

 これはディランの自作曲ではないが、ディランは自分の曲以上にはまって歌っている。ぼくも同じようにはまった。

 これは天国へ半歩踏み出しかけているような歌だ。Ricky Nelson の Lonesome Town や Ray Charles の That Lucky Old Sun のように、「ここにはもういられない、どうかそちら側へわたしを連れて行ってください ! 」、そんなふうに叫んでいる、荒涼としてさびしい風景の歌だ。「この世でわたしは、よそ者にすぎないのです」

 この歌の真意はよく分かる。この地上で、かれをつなぎとめるものはもはや何もないのだ。同じ価値観を共有できる者がひとりとして存在しない。背後から撃たれる年老いたガンマンのようなものだ。かつて親しかった者たちが待っている彼岸へ、かれの足は踏み出しかけている。「どうかわたしを受け入れてください」

 ぼくもディランと同じように、この歌の呪縛から容易に離れられなかった。実家の六畳間の自室で、自分の下手な演奏をテープに録音したりもした。マイクを、エコーのたっぷりかけたギターのエフェクターに通して歌った。そうすると自分の声が、まるで遠い地の底から響いてくる亡霊のように聞こえてくるからだった。

 でもかれはおそらく、「向こう側」へは行ってしまわないだろう。もう半歩を、きっと踏みとどまるだろう。これはそのための歌なのだから。終わりであり、同時に始まりの歌なのだ。

参考・Rank Strangers To Me の対訳

 

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■ The Best Of Chet Baker Sings

 あばずれに恋をした。頭のいかれた美しい女だ。裏通りで捨てられた猫の子のようにうずくまっているのを拾った。手首から血が流れていた。どす黒い気泡を噴いて路面に汚く溢れていた。月に一度、稼いだ日銭を持って女をホテルに誘った。俺はお前が誰と寝ようと構わない、お前の身体だけを愛している。女にそう言った。だが女は俺を愛していると言い始めた。俺の心が欲しいのだと言ってドブ鼠のように泣いた。ある日、ホテルの部屋で女の頸を絞めて殺した。弛緩した女の手首の傷痕が醜かった。そんなのはうんざりだった。俺一人でたくさんだった。

 森閑とした、永遠にも思えるような時間だった。恐怖は過ぎ去った、まるで凍りついて逆さに磔(はりつけ)にされた鏡像のように。後には埋めようもない抜け殻のような、ぽっかりと空いたからからと空虚に響く立ち枯れした樹木の洞(うろ)のような空洞がさびしく残った。だがこの拭い去りようもない生身がたまらなく愛おしかった。それは己の性器を自らの口にあてがい果てた後のような、奇妙に甘美で透徹とした気怠さと落魄感だった。飛び散った精液に土を混ぜ、部屋の壁に描いた。「その石(ラピス)に書き記された意味はこうである。お前の魂はこの世に属していない。お前はこの世で、この世のものは何も与えられない。そしてお前はただお前だけを、執行猶予の付いた死刑判決のように永遠に慈しむ」

 もし女と交わるときの最適なBGMがあるとしたら、それは Sam Cooke と Chet Baker だった。前者が夏の神秘な夜に女のドレスを剥ぎとり、無私な昆虫の交わりのように汗まみれとなって、D. H. ロレンスや偉大なホイットマンのように生命の充溢を謳歌するものだとしたら、後者はセリーヌのような暗く果てしない夜の涯(はて)で、悲しみを吸うように唇を背中に這わせ、溢れ出るいとしさを窒息させるかのように激しく互いの身体を貪りあうようなもの。前者が真昼の光こぼれるロッジで、ステレオのボリュームを最大限に解放するようなものだとしたら、後者は頭からはずしたヘッドホンから微かに漏れ伝わってくるようなあえかな音。

 もうだいぶ以前になるが、テレビでチェット・ベイカーのドキュメンタリーともいえる「Let's Get Lost」という映画を見た。麻薬に溺れ、そのためのトラブルでギャングにすべての歯をへし折られ、世界中のあちこちで女を孕ませ、さながら荒涼とした原野で立ち枯れた一本の樹木のように、どこか醒めたしかし子供のような眼で、人生の深淵を静かに覗き込んでいるような男。堕ちていくことが信仰であり、破綻が美しさであり、狂気がやさしさであるような男。

 それほどコレクターではないが、1986年のロンドンのロニー・スコット・クラブでのライブ盤(「Live At ronnie scot's Lonson」)を持っている。アルバムの最後の一曲であのヴァン・モリスンがステージへあがり、チェット・ベイカーの、まるで病んだ肺がすうすうと息を漏らすような独得のトランペットをバックに、Send In The Clowns という、とても静かなこの世のあわいを漂っていくような歌をチェットに捧げているのも好きだ。

 結局のところそれは、生きることの虚しさ、生きることの醜さ、そして生きることの抗い難い一瞬の美しさのようなものだ。主張するのではなく、ただすべてを黙って己の一身に背負い込む、寡黙で static (静的) なすごみのようなものをかれの音楽に感じる。

 

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■ リック・ダンコ追悼

 リック・ダンコはザ・バンドのリード・ボーカル、ベース、そしてフィドル奏者などだった。1943年にカナダのオンタリオで生まれ、いくつかの素敵な音楽を残して、1999年12月10日に死んだ。56歳、ということになる。

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 ザ・バンドの魅力のひとつに、三つのボーカルがあるように思う。レボン・ヘルムのアメリカ人(ヤンキー)らしい乾いた伸びのある声、リチャード・マニュエルの感傷的な湿度のある声、そしてリック・ダンコの落ち着きのない性急な声。その三つのボーカルが曲によってそれぞれ、あるいは同時に混じり合い、音楽による物語を演じていくところがザ・バンドの醍醐味のひとつであった。

 リック・ダンコのボーカルは、とりわけ若者特有のいくぶん哀愁を帯びた、ぶっきらぼうで切羽詰まったようなスタイルに支えられていたから、後年のかれのボーカルはすでにその声が醜く脂ぎった肉の塊のように割れてしまい、聞いていても辛かったように記憶している。

 かれの死因はいまのところ分からないけれど、後年ぶよぶよと締まりなく太ってきた体型や性格などから察するに、大酒のみで、かれらしい気まぐれな不摂生さが祟ったのではないかと思われてならない。ディランの30周年記念コンサートに出演したときも、ひどく酩酊しているような感じだったし。56歳というのは、やはり若すぎる。

 ともあれ、これで1986年に自ら命を絶ったリチャード・マニュエルに続いて、ザ・バンドの三つのボーカルのうちの二つ目が永遠に失われてしまったわけだ。感慨無量というしかない。

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 リック・ダンコは、デビュー時にしてすでにどこか人生を悟ってしまったような泰然たるザ・バンドの他のメンバーの中にあって唯一、気取り屋で、見栄ん坊で、そわそわと落ち着きがない、やんちゃ坊主のようなキャラクターであった。ザ・バンドの他のメンバーも、そしてぼくも、そんなかれのキャラクターを愛していたし、ぼくはかれのボーカルがリチャード・マニュエルの次に好きだった。

 いちばん好きだった曲は、やっぱりさすらいの哀愁感満ちた It Makes No Differrence だろうか。リチャード・マニュエルが死んだ後に行われた新生ザ・バンドの来日公演で、リック・ダンコがこの曲のテンポをひどく落として、まるでソウル・バラッドのように、なかば涙を浮かべながら歌っていたのを思い出す。きっとリチャード・マニュエルへの追悼曲だったのだろう。

 ほかにも「Big Pink」に入っている Long Black Veil も印象的だし、性急な Stage Fright や Endress Highway などはかれの持ち味がたっぷり生かされた佳曲だろう。The Weight での後半のバース、これはぼくらがバンドで演奏したときにぼくのパートだったから、思いっきりリックのボーカルを真似て歌ったのが懐かしい思い出だ。

 他のたくさんの曲でも、レボンやリチャードのボーカルに交じって、リック・ダンコがときにはせっついたような、ときにはすすり泣くような裏声を使って曲に入ってくる瞬間も好きだった。そうそう、ディランと共作した This Wheel's On Fire もあったし、クラプトンの「No Reason To Cry」でクラプトンとデュエットしている曲も良かったなあ。それに目立たない曲だが、ザ・バンドの最後のアルバム「Islands」に入っているキリストの生誕を歌ったクリスマス・ソング Christmas Must Be Tonight なんかも。ああ、きりがない....

 またリック・ダンコは、ベース・プレイヤーとしても非常に個性的であったように思う。これもまたかれらしい性急さで、フラット・ベースの上をポンポンと跳ね上がるように移動していく独特なベース・プレイは、個人的にはザ・ビートルズのポールのベースと同じくらいに好きだった。日本では元YMOのベーシストであった細野晴臣が、リック・ダンコのベースに影響を受けたと言っていたのをどこかで読み、ほーそうかあ....と何やら嬉しい気持ちになったのを覚えている。

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 リック・ダンコは15歳で学校をやめてから、リボン・ヘルムのいたロニー・ホーキンスのバンドと出逢うまでの2年ばかりの間、食肉加工の仕事の見習いをしていたらしい。「一日に何頭もの喉をかっ切る仕事ではなく、肉を四つに分けたり、切り身に分けたりする仕事だ。その仕事には、ほかの職人の技術とおなじように、芸術に近いものがあった」

 何年か前に読んだレボン・ヘルムの『ザ・バンド 軌跡 Levon Helm And The Story Of The Band』(管野彰子訳・音楽之友社)という本の中で、レボンが追想しながら書いているこんな場面が何故かひどく心に残った。

 「ある日の午後遅く、昔のレイ・チャールズのレコードを聞いて魅力的なリフを研究していた」レボンのところへ、リック・ダンコから「すぐにジープで来てくれ」と電話がかかってくる。リックとボビー・チャールズの乗った車が山道で一頭の鹿をはねたのだ。レボンのジープで死んだ鹿をレボンの家の裏の林に運び、途中からリチャード・マニュエルもやって来てみんなで鹿を木の枝につり上げ、リック・ダンコが「シムコーの食肉市場を出て以来だな」と解体作業にとりかかるのだが、これがなかなかうまくいかない。液状の鹿の糞をかぶりながら懸命に作業するリックを、レボンやリチャードが野次馬見物さながら腹をかかえて大笑いをしてしている。そんな話である。アルバム「Cahoots」の頃であったという。

*

 リック・ダンコ死亡の知らせを聞いた日の深夜、ぼくはザ・バンドのアルバムではなく、「The Last Waltz」の頃に出たリックの唯一のソロ・アルバムの中の Sweet Romance という切ないバラード曲を聴いた。最後までやんちゃ坊主のようだったリック・ダンコにとって、ザ・バンドの音楽とともに過ごしたその人生は、ひとつの甘美な Sweet Romance であったのかも知れない。

 

 ロビー・ロバートソンの言葉をここで引いておこう。

 

「ぼくらはみんな若かったな。あの頃は、16, 7 だったね。なかにはすばらしいところもあれば、おっかないところもあり、またぞっとするような気味の悪いところもあった。そして、いまに至るまでとてもありがたい、有益だったところもあったよ。

 ナップザックを背中にしょって旅に出て、人生について学ぶ代わりに、ぼくらは五人が一緒になってそれをやることができたんだ。ぼくらはそれぞれお互いに守られていた。お互いを守り合っていたんだ」

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 こんな言い方は柄ではないし凡庸だが、いまごろはきっと、ひさしぶりにリチャード・マニュエルとも再会して大酒をくらいながら、大好きな天国のミュージシャンたちとパーティのようなどんちゃん騒ぎのセッションでも繰り広げているのだろう。地上でプレイしてきたさまざまな音楽を辿りながら。

 

Thank you, Rick, for your music ! 

 

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■ Billy Joel「Cold Spring Harbor」

 たとえば、ネイティブ・アメリカンのこんな言葉が好きだ。

 

わしが子供だったころを振り返ると、やることなすことのすべてがことごとく宗教につながっていた。両親はいつだって朝早く起き、聖なるコーンミールを食べるときには、必ずそれに息を吹きかけて、自分たちがそこにいることを神様に教え、うやうやしくそれを神様に捧げてから、どうか天気にしてくださいとか、雨を降らせてくださいとか、みんなによいことがありますようにと、声を出して祈ったものだった。祈るときにはけして自分たちのためにではなく、いつだってこの世界に住んでいるみんなのために祈っていた。あれは美しいものだったよ。

 

 少年や少女たちが出てくる話が、いまも好きだ。「ハックルベリィ・フィンの冒険」、「長靴下のピッピ」、レイ・ブラッドベリの「たんぽぽのお酒」、ケストナーの「エーミールと探偵たち」、日本では三木卓の「はるかな町」や宮沢賢治の童話など。「赤毛のアン」の映画など、恥ずかしながらいつも途中で涙が出てしまって、つれあいにからかわれる。それらはぼくを初心に帰らせ、もういちど勇気をくれる。いつも驚きに満ちて、感じやすい心をもち、のびやかでひたむきな、けっして挫けることのなかったあの頃の勇気を。

 ときには、いったい自分はどうしちまったのだろう、となぜか無性に涙が出てきてとまらないときもある。醜い哀れな自分の姿を鏡に映して、ひどく遠く離れた場所を、しかも道を間違えて来てしまった、と「汚れちまった悲しみ」にすっかり放心して。でも、大丈夫。たとえ地球の裏側のような遠いところで途方に暮れていたとしても、「あの大切な場所」へはどこからでも、いつでも好きなときにすぐに行ける。ハンク・ウィリアムスのさびしい鉄道ホーボー・ソングを口ずさみながら歩いていくとその先に、モリスンが歌うような youth of the thousand summer の扉がぽかっと開いている。

 音楽を後ろ向きに、つまり現在の自分を貶めるような懐古的な聞き方をするのは嫌いだが、そうではないある種の音楽は、その人のいちばんやわらかだった精神を大切に保存しておく場所のようにも思う。何気ないある種のリフや、音の雰囲気や、歌の肌触りが、昔嗅いだ風の匂いや、岩の上で揺れている葉陰や、なくしたおもちゃのピストルや、麦畑や光の乱舞などを記憶している。そして君に、こう言う。大丈夫、いまでもここにちゃんとありますよ、あなたの中に、と。そう、ぼくらは年をとりながら何かを得るわけではない。必要なものは、はじめからみんな揃っている。

 ビリー・ジョエルのこの初々しいファースト・アルバムは、発売当時はさっぱり売れなくて長いこと廃盤になっていたらしいが、かれのアルバムの中では、ぼくは昔からこれがいちばん好きで、いまでもときおり聴く。

 

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■ Georgie Fame「20 beat classics」

 おそらく通好みのミュージシャン、なのだろう。工房でこつこつと熱い鉄を打ち続ける鋳物師のような存在は、'80年代の一連のヴァン・モリスンのアルバムとライブ・ビデオの映像で知った。キーボード奏者、あるいはバンド・リーダーとしてモリスンの音楽に参加したわけだが、ことにステージでのプレイは職人芸のきめの細やかさと魂の交流といったことばが思わず口に出かかるほど惚れ惚れした雰囲気で、モリスンの大樹のような音楽のその地下茎で荘厳な古代の和音を湛えていたかと思うと、つぎの瞬間に維管束をかけのぼり木の間を雲のような天上のシャッフルで波打ち輝かせる。

 簡単に経歴を記しておこう。1943年イギリス・ランカシャーの生まれ。10代の頃にすでにアメリカから興行に来たジーン・ヴィンセントやエディ・コクランらのバックを務め、後にブルー・フレイムズなるバンドを結成。ロンドンのクラブで黒人相手に R&B、ジャズ、スカ等を演奏していた。'64年にラテン・ジャズのインスト曲をとりあげた Yeah Yeah が No.1 ヒットになるがバンドは解散し、その後はソロとなってジャズのミュージシャンらと共演したり、'70年代にはアニマルズのアラン・プライスとコンビを組んだりもしたらしい。

 折しもかれに興味を抱き始めたころ、久しぶりのソロ・アルバムが出るというので早速聞いてみた。'91年に発売された「Cool Cat Blues」がそれで、プロデューサーのベン・シドランをはじめ、並み居るフュージョン畑の強者どもを配したバックはかれが「R&B でもジャズでもない」そのあわいを駆け抜けてきた独特の存在であることを物語っているし、モリスンやボズ・スキャッグスといった一癖あるゲストの参加やモーズ・アリスンなどの選曲はブルースやソウルも含めたその豊穣な深みを示している。ベン・シドランはアルバムのコンセプトを次のように説明する。

 

 スタジオ入りする際のアイディアは、'50年代半ばの古典的なセッションの現代版をつくりあげるというもので、そこにはジャズやブルース、ジャンプ、スイングといったものがすべてひとつになって非常にヒップな時間が生まれる......

 

 ここでは、その後に買った'60年代の活動をまとめたベスト盤をあげてみた。ポップ・チューンの My Girl や Sunny から、ヴォーカリーズ的な Moody's Mood For Love、MG's の Green Onions、ウィリー・ディクソンの I Love The Life I Live など、どの楽曲もいまだ新鮮で溌剌とし、ポップでキャッチーで渋みもあるかれの素敵なオルガンと自在なボーカルが愉しめる。地中の根をしっかり下ろしながら、ジャンルにとらわれず軽快で、しかも味の良くしみ込んだおでんの大根のような音楽。こういう音楽は人の心をいつも仕合わせにしてくれる。

 

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■ Ricky Nelson

 毎度のことだが小学生のときに好きな女の子がいた。初恋の女の子というわけだ。小柄でちょっとおぺしゃな顔の可愛い子だった。確か4年生の頃に隣町に転校してしまったのだが、中学でまたいっしょの学校になった。クラスはずっと別だったので、彼女と同じクラスにいた友人にかこつけてよく遊びに行っていた。彼女と仲のいいクラスメイトはぼくにこっそり、○○ちゃんはあなたのこと好きなのよ、と言ってくれたが、ぼくは信じなかった。中一のときにラブ・レターを渡して失敗していたからだ。でも彼女はやさしい子で、バレンタインのときも小さな包みをくれた。ぼくは20代の中頃まで、食べずに大事に持っていた。

 あれは中二の頃だったろうか、どういういきさつだったかいまでは忘れてしまったけれど、彼女とぼくと互いの友人の4人で、日も暮れた放課後の教室に残っていた。きっと運動会か何かの準備だったのだと思う。いつしか人気のない教室で二手に分かれて紅白の玉を投げ合い始めた。ぼくが教室の端から投げつける玉を教壇の蔭でよけながら、彼女もいつになくはしゃいで笑っていた。ぼくはこのまま時が止まってしまったらいいのに... と願っていた。仕合わせな気持ちだったけれど、どこかさみしかった。さみしかったけれど、仕合わせな気持ちだった。きっとあれは子供時代の無邪気さの、最後の残り香だったのだろう。

 うまく言えないのだが、すっきりと晴れた休日の朝に台所で食事の支度をしながら、ぼくはよくリッキー・ネルソンのCDをかけたくなる。悪い影などみじんもない、つましい仕合わせの予感を感じるような朝に。あの遠い子供時代の仕合わせでさみしい気持ちのかけらが、いまも自分のなかでひっそりと息づいているのを確認するような朝に。リッキー・ネルソンはずっと Teenage Idol の幻影から逃れようと、素朴で真っ正直な音楽を黙々とやり続け、ある日軽飛行機とともに墜落してしまった。でもかれは自分の好きなものをちゃんと分かっていたし、それを見失うこともなかった。後年の Garden Party にそれが詰まっている。世間の流行なんて気にしなくていいさ、ゆっくりと自分らしく歩いていけばいいんだよ.....

 彼女の転校で中断してしまったけれど、実は小学校のときの学芸会でぼくは彼女のために寸劇の脚本を書いた。内気でひとりぼっちの少年のところへある日、不思議の国から小さな妖精がやってきて少年とともだちになるというストーリーで、近くの土手で何度か彼女を含めたクラスの数人と稽古をした。ダンボールの大きな空き箱から「こんにちわ」と彼女が飛び出してくる場面をいまも覚えている。彼女の演じる妖精は少年の孤独な殻をとりのぞいて、最後にふたたび不思議の国へと帰っていく。「あなたが大人になったらまた会いに来るけど、私を覚えていてくれるかしら?」というのが、妖精が少年に言う最後のセリフだった。

 

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■ Ry Cooder「Show Time」

 レボン・ヘルムの書いた自伝を読むと、ザ・バンドというのはかれのバンドだったんだなあ、と改めて思う。長いことロビー・ロバートソンのキャラクターに魅せられてきたのだが、ロビーは豊かなアイデアと極上のスパイスをバンドに加味した役で、実は素朴で重厚なザ・バンドの中心にはあの陽気で堅気なヤンキー男がいたのだ。そのレボンが映画「ラスト・ワルツ」の中で煙草をくゆらせながら、かれのホーム・タウンについてこんなセリフを言う場面があった。国のあちこちから様々な音楽がちょうど真ん中でぶつかり合って、そしてロックンロールになった、ってわけさ....

 そう、ライ・クーダーの話だった。ライ・クーダーの作ったアルバムなら、ぼくは全部聞いてみたいと思う。なぜならかれはレボンの言う、音楽がぶつかり合うその境界線(ボーダー・ライン)をいつも旅しているミュージシャンだから。つまり音楽が生まれ躍動し始める、そのいちばんオイシイところを知っていて、ボトル・ネックのギターをつま弾きながら、聞いてごらん、こんな素敵なやつがあるんだよ、なんてぼくらに聞かせてくれるわけだ。流行りの文学的用語を用いるなら、クレオール(混成)音楽とでもいえるだろうか。もちろん音楽はすべて、文字の要らないクレオール言語なわけなのだが。

 一時期ブライアン・ジョーンズの後釜としてストーンズのギタリストに請われたなんて話もあったそうだが、ぼくはそうならなくて良かったと思う。かれの音楽はウディ・ガスリーやニュー・ロスト・シティ・ランブラーズなどの1920年代アメリカの不況時代の歌の蘇生に端を発し、それからブルースの南部をうろつき、ジャズの創生期にも寄り道し、さらにメキシコやハワイ、カリブ諸島まで足をのばし、沖縄で喜納昌吉と共演までしてしまった。その旅の途上で多くのミュージシャンたちと交流しながら多様なスタイルを吸収し、決して声高にならない素朴で等身大の音楽の喜びを伝え続けてくれている。

 いつだったかピアノにヴァン・ダイク・パークス、ドラムスにジム・ケルトナー、アコーディオンのフラーコ・ヒメネス、そしてボビー・キングらのゴスペル・コーラス隊といったベスト・メンバーを擁したライブの模様をBS放送で見たのだが、本当に最良の音楽を聞いたという幸福感でしばらくは胸がいっぱいになってしまったほどだった。その代わりというわけでもないのだが、ここでは臨場感溢れるかれの生のステージの素晴らしさを伝えるつもりで、この極上のライブ・アルバムをあげてみた。

 スタジオ録音では「パラダイス・アンド・ランチ」が名盤の誉れが高いが、あえてテックス・メックス風味の「チキン・スキン・ミュージック」のサウンドがぼくは大好きだ。それからランディ・ニューマンやスリーピー・ジョン・エステスが参加しているモノトーンで渋い味の「ブーマーズ・ストーリー」も捨てがたい。ちなみにここで演奏されている、ボトル・ネックのエレキとアコースティック・ギターが絶妙に絡み合うインストゥルメンタルの Dark End Of The Street は、ぼくのライ・クーダーのベスト・テイクだ。またソウルフルな「ザ・スライド・エリア」の最後を飾る哀愁的な That's The Way Love Turned Out For Me も、長いこと涙なしには聞けなかったもの。

 前述した「チキン・スキン・ミュージック」の中に Always Lift Him Up という曲がある。飲んだくれで借金を抱え、一人の友人もなく、落ち込んでいるような男がいたら、どうか彼を見放さないで力づけてやっておくれ、という内容の歌である。ここであげたライブでも演奏されている、貧しい男が生きるにはどうしたらいいのだろう、という歌にも通じている。たんに音楽蒐集家でも卓越したテクニシャンだけでもなく、ライ・クーダーの音楽の真の魅力というのは、こうした素朴な生活者の等身大の悲しみや喜びに寄り添い、痛みを分かち合おうとするその優しさと温もりにあるのだとぼくは思っている。

 

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■ Albert Ayler「Spiritual Unity」

 さあ、朝だ。いまだ汚されていない、充分に汚れちまったうえでいまだ汚されていない、新しい神聖な朝だ。ぼく自身のものは喜びに溢れ、固くそそり立ち、痛みもあるがそれは希望と充溢の裏返しのようなもの。刺すような悲しみもあるが、生まれたばかりの赤ん坊の肌のようなもの。日の出とともに生まれ、日没とともに死ぬ存在。混沌とごつごつした銀の手触りがいまは逆に、遠い郷愁のように狂おしく指先に沁みる....

 アイラーのサックスにぼくは、たとえばランボーが「太陽と肉体」で歌ったような反近代の古代礼讃の響きを聴く。それは素朴な身振りによって繰り広げられる原初的な生命の躍動であり、前衛的な眩いばかりの色彩に満ちた「先端を突き抜けて伝統に帰す」永遠の円還世界であり、あるいはまた、外へ外へと自らを解体していく一方で、同時に内へ内へと回帰していく絶え間ない運動のようなもの。かれのサックスから飛び出す音の粒は、認識以前の物自体がもつ剥き出しの輝きを放出させる。

 黒人詩人のラングストン・ヒューズが、霊歌(スピリチュアルズ)についてこんなことを書いている。

 

 ずっと昔に暗闇のなかから生まれでたひじょうに古いスピリチュアルズは言っています。   年とった羊たちは道を知らず、若い羊たちは道を見つけなくちゃならんのだ。どっちを向いても苦難の十字架、若い羊たちは道を見つけなくちゃならんのだ。

 スピリチュアルズは、力強い歌です。しばしば、威厳のある歌です。そして、ユーモアの色合いがあるときでも、つねに優雅な品位と、外へ外へとむかう魅力と、内的な確信とにみちた歌です。(ジャズの本・晶文社)

 

 アイラーの活動期間は10年くらいの短いものだったらしい。'70年にマンハッタンのイースト・リバーでかれの変死体が発見されたのは、奇しくも日本で三島由紀夫が自害したその同じ日であった。そしてぼくはかれのこのアルバムを、もう生きられない、立ち上がれない、というような朝によく聴いた。かれの奏でる素朴で温かいサウンドのシャワーを全身に浴びて、ふたたび歩き出すための勇気を何度ももらった。それはたとえば、こんな若々しい感覚だ。

 

話しはしない なにも考えはしない
けれどもかぎりない愛が心のうちに湧きあがるだろう
そして遠くへ 遙か遠くへゆこう ボヘミアンさながら
自然のなかを
   女と連れ立つときのように心たのしく

 (アルチュール・ランボー・感覚)

 

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■ Joni Mitchell「Blue」

 樹村みのりと倉多江美という二人の女性漫画家は、私にとって特別な存在である。少女漫画というと長年、せいぜい妹が持っていた「キャンディ・キャンディ」くらいしか馴染みがなかったが、下手な小説よりも文学らしいと思う二人の作品は、私の少女漫画に対する先入観を一変させた。残念ながら両者とも大衆受けをするような作家ではないので、おのずと古本屋巡りをして貴重な過去の作品を発掘していくことになる。少女漫画の棚の前で懸命に目を凝らしている男の姿というものは、それだけで十二分に怪しい。まるでロリコンおやじを見るような女子高生の視線に耐えながら、それでも私は二人の作家の作品に惹かれ続けて来た。

 倉多江美についてはまた後日に書くことがあるかも知れないが、今回取りあげるのは樹村みのりの方である。彼女の作品は、そう何と言ったらいいだろうか、大人になりきれない子供、子供の時の無邪気な感受性を捨てきれずにいるどこか中途半端な大人、そして二つの世界の間で葛藤し傷つきながらもまた歩みはじめる、そんな登場人物が多い。風邪のために学校を休んだ少女の一日の空想、貧乏のためにあらぬ疑いをかけられる少年の話、あるいはまた憧れを求めてヘッセの「クヌルプ」のように漂泊する青年や、年上の女性を慕い肉体関係を結ぶことによって大人へ成長していく若い女性の物語...

 後にこの作家が、ジョニ・ミッチェルの大ファンだと知ったときは、ああ、やっぱりな、という気持ちだった。愛に飢え傷つき、恋をして脱皮していく、常に新しく自由な空気を求めて、したたかで魅力的で創造的な女性像。その裏にはいつも、子供のように自分の感情をさらけ出してしまう脆さと、素直でありたいという無垢な心根、そして無防備ではちきれんばかりの豊かな感受性が隠れているに違いない。この初期のアルバムにはとくに、ジョニ・ミッチェルの女性らしいやわらかな感性と感情と主張がストレートに溢れていて、私はよく女性の知り合いに奨めたものだ。女の海、と形容したらいいだろうか。

 ところでジョニ・ミッチェルといえばもう一枚、愛聴盤がある。'79年に発表された、ジャコ・パストリアス、ハービー・ハンコック、ウェイン・ショーターらの錚々たるジャズ・メンを集めて、あのジャズの巨匠チャールス・ミンガスとの共同作業によって作られ彼に捧げられた、その名も「Mingus」というアルバムである。こちらはまたオーソドックスな弾き語りを離れ、自由奔放で才気に満ち、そしてとてもヒューマンな温かみに溢れた作品で、実家にいたときに私はよく縁側にラジカセを置いて、大音量でこのアルバムを聴きながら庭の草取りにいそしんだ。そんな雰囲気が似合う名盤である。

 もともとジョニ・ミッチェルは、独特の語り口と彼女しかない固有の時間を持ち合わせているアーティストだが、そのベースは案外こうしたジャズ的趣向に深く根ざしているのかも知れない。そしてそれは、精神にとって闊達さと同義語であるように思う。

 

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■ Buddy Holly「Best One」

 「棟梁 !」と、若い新八は云うのである。「いつまでこんな古くさい昔気質の仕事をやってるつもりですか。いまはツー・バイ・フォーの時代ですよ。それにこのラジオの音楽ときたら、ったくもう。アムロの時代に都々逸はないでしょう。棟梁、聞いてるんすか !」 縁台の茶を飲み干し、しきりに鼻毛を抜いていた棟梁は「うん、まあ …仕方あんめえなあ」と生返事をしてから、ふっと指先を吹いた。鼻毛が風に乗って飛んでいく....

 決して懐古趣味やノスタルジーなどではない。それどころか、いつだってリアルタイムの新しい音楽なのだ。ロバート・ジョンソンが殺されたのが昨夜のことで、バディ・ホリーの飛行機が墜落したのは先週の水曜日だった。ぼくは年末に彼から手渡されたこのCDを車に積んで彼が死んだその日に、夜のマリーナ・シティまで彼女とドライブに行った。ゆったりと旋回する巨大な観覧車がとても美しかった。二人で毛布をかぶって、朝まで彼の音楽に耳を澄ませていた。

 ヴァン・モリスンの曲に The Days Before The Rock'n'Roll というのがある。ぼくは歴史学者でもローリング・ストーン誌の記者でもないから詳しい年代は知らないが、そこでヴァンが歌っているのは、たぶんこういう風景なのだろうと思った。こんな、バディ・ホリーのような音楽だ。ロックがまだ市民権も得ず、ケンタッキー・フライドチキンのコマーシャル・ソングにもならず、何が始まるのか分からない、生まれたての、奇抜なアイディアや何かわくわくしたスリルによっていまにも弾けそうな、そんなやわらかな風景...

 それにしてもポール・マッカートニーはバディ・ホリーだったんだなあ、本当に。ロックで、ポップで、芸達者で、センスに溢れていて。あの Yesterday に弦楽四重奏が使われたとき、ロックとクラシックの融合なんて言われたけど、そんなことはとっくの昔にバディ・ホリーがやっていたんだ。そういえばジョン・レノンがかれのオールディーズ集『ロックンロール』で盛んに使っていた変な裏声も、バディ・ホリーのもろパクリだ。そうしてビートルズは Words Of Love をカバーし、ストーンズは Not Fade Away をヒットさせ、リンダ・ロンシュタットは It's So Easy をとりあげ、後のさまざまなアーティストたちが、若干22歳で事故死したこの夭折の若者が残した音楽に、多大な影響と刺激を受け吸収していった。

 いまでも、それは変わらない。玉子の殻にひびが入り、産毛を濡らしたやわらかな音楽の雛がひょこりと顔を出すような、そんな新鮮さに満ちている。'98年のグラミーの授賞式で、ディランはこんなスピーチをした。

 

 16歳か17歳のときに、ぼくはバディ・ホリーのコンサートを見に行った。バディから一メートルも離れていないところで見ていて、…そのときかれが、ぼくを見た。いまぼくは、かれがここにいるように感じている。…とにかくこのレコードを作りながら、いつもかれがそばにいたように感じていた。

 

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■ John Hiatt「Stolen Moments」

 花の高卒である。後年、関西にある某大学の通信教育を受けて仏教学などという怪しげな専攻をとったが、物見遊山の気分で夏のスクーリングに二回ほど出かけたくらいで(寺巡りと、三本立て500円のポルノ映画ばかり見ていた)、単位もろくすっぽ取らずにやめてしまったから、ものの数にも入らない。

 もともとドロップ・アウトの性癖があったようで、中学までは楽しかったものの、都立の高校に入学してからは、ときおり朝から自転車で上野まで行って午前中は国立博物館のミイラの部屋などをぶらついて、不忍池のほとりのベンチで弁当を喰い、太宰や大江健三郎や「ライ麦畑」などを読み散らかしていた。そんなだったから成績も下から数えて4, 5番目で、自分よりまだ馬鹿がいるのかと驚いたくらいである。

 途中で家の引っ越しのために田舎の高校へ移ってからは病状も進み、修学旅行はボイコットしてひとり図書室通いをしていたし(担任が話の分かる人物だった)、途中で一度だけ、親と話をつけて職員室へ中退願いを出しに行ったが、話の分かる担任の教師に説得されてとどまった。でも自分の居場所をつくるのは上手だったように思う。図書委員になって広報誌にSF小説などを書いて一部の教師たちから面白がられ、放課後はブラスバンドの部室にもぐり込んでギターを弾いたりレコードを聴いたりして遊んでいた。

 やがて古巣の東京へ戻り、四畳半の部屋で自炊生活を始めた。週に数回、坂口安吾も通っていたという英仏会話の学校に入り(すぐにやめたが)、お茶の水の病院の地下でクリーニングのバイトなどをして、仕事の帰りに予備校の授業が終った友人を迎えに行ったりした。世の中が自分の大学だとうそぶいていたが、友人が入ったワセダのキャンパスなどをいっしょに歩きながら、大学生活というものに憧れる気分もあった。友人は「大学生活なんてくだらない。来なくて正解だ」と常々言っていたが。そう、でもきっともう一度生まれてきても、やっぱり同じことをするだろうな。

 だから「俺は大学なんて行っていない そんな幸運には恵まれなかったのさ ピックアップ・トラックの荷台に乗って インディアナから出てきた男 田舎町の生活の知恵ぐらいしか 教育と呼べそうなものとは縁がない」(Real Fine Love) と歌うジョン・ハイアットには、一発で共感できた。遅咲きの苦労人の、満開に咲いた桜前線。いぶし銀の輝きに満ちた、もう、最高にゴキゲンな一枚。「いままで天使の一人や二人なら見かけたが だが天使にプロポーズしたことはないぜ」なんてセリフなんか、もう少し早く聴いてたら使わせて貰ったのに!!

 

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■ 吉田日出子&自由劇場オリジナル・バンド「上海バンスキング2」

 こどものころ、いや大人になったいまでもそうだが、風邪をひいた気怠さの中で、あるいは真昼のうつらうつらとした時間に、短い、どこか甘酸っぱく懐かしい、それでいて目覚めてからは定かと覚えていない、いくつかの夢を見た。だがそんな曖昧な夢の方がかえって強烈で、しばらくは周囲の現実の方がぼんやりとした陽炎のように馴染まず、荘子の書に出てくる、人が夢で蝶に変じたというのはこんなことかとしばし放心する。

 「上海バンスキング」は1979年に斉藤隣の脚本と劇団オーケストラの演奏を土台に「六本木の地下の狭い小屋」で初演されて以来、回数を重ね、後に映画にもなった。ぼくはこのサントラ盤を、当時バイトしていたレンタル屋の棚で偶然見つけ、しばらく店内で流したりしていたのだが、それほど借りる人もいなかったので自ら払い下げて、現在に至るまでずっと愛聴し続けている。映画の方も衛星で放送されたのを録画して、何度か楽しんだ。

 アメリカのジャズは大正末からダンス・ミュージックとして日本に入り始め、昭和の初め頃になると東京に多くのボールルームが林立し、日本のジャズメンたちの活躍の場となった。このアルバムで演奏されている曲も、そうした時代にディック・ミネや川畑文子らによってヒットした「古き良き時代」の和製ジャズ、あるいは後に軍国主義の高まりによって散る「徒花の如き儚い夢」の見事な再現である。

 それにしても吉田日出子という人は、ぼくは長いこと女優として認識していたのだが、歌の力量も相当なものだ。あの独特の声調で歌われる、気怠く物憂い、郷愁に満ちた、それでいて芯の通った艶っぽいボーカルは只者でない。音楽というものは不思議なもので、ぼくはかれらの演奏を通じて知らなかった遠い時代を追体験する。それは上海というボーダーレスのクレオール世界でつかの間の自由を享受していた無数のアウトサイダーたちの宴のようなもので、何やらメキシコの地を目指しながら殺されたあのビリー・ザ・キッドにも似た切なさも、じんわりと滲み出てくる。

 いつか機会があったら、舞台の方も見てみたいものだ。

 

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■ Arvo Part「Tabla Rasa」

 20代の終わり頃に親類の叔父とシベリアを旅した。まだその頃は叔父も意気軒昂だったので、最初に泊まったハバロフスクの元結核病棟だったというホテルでは、「ヘーゲルを知らなきゃイカン!」と断言する叔父と何やら抽象的な論議を闘わしていた。その翌日には添乗員の連絡ミスで、ホテルから駅へ運ばれるはずだった荷物の多くを紛失して、シベリア鉄道に乗り込む羽目になった。モンゴルとの国境が見え始めた頃、北朝鮮からの車両が連結され、興味本位でわざわざ見に行った。そんな旅だった。

 長大な客車がイルクーツクの街へ着いたとき、ぼくは団体旅行に少々飽き飽きしていたので、バスでバイカル湖を見に行くという一日、叔父とも別れひとり自由行動にして貰った。町中の通りを経巡り、気がつくと郊外のさびれた車道を歩いていた。河原の茂みでしゃがみ込んで読書している青年と会った。言葉は分からないが、見せてくれたペーパー・バックはドストエフスキーらしかった。その川を渡ると、ロシア正教の小さな教会があった。おずおずと覗き込んでいると、中にいたひとりの僧服の男が黙って招き入れてくれた。こじんまりとした清楚な洞窟のような堂内は、天井まで一面にキリスト生誕の絵が描かれていて、ひんやりとしていた。男は傍らの粗末な木の椅子を指して、そこに坐っていろ、と促した。

 

 かつてソヴィエトのある地方で、ひとりの僧と語り合う機会があった。わたしはかれに、自分は祈りの曲も作曲している、つまり祈りの言葉や賛美歌のテキストに曲をつけているが、それは作曲家としての自分に役立っているかも知れないと言った。するとかれは、いいえ、そんなことはありませんと答えた。祈りの文句はすでにすべて書かれてしまっています。あなたはそれ以上、増やす必要はないのです。

 

 ソ連・エストニア出身のアルヴォ・ペルトの曲を初めて聞いたのは、FMで放送された異才ギドン・クレーメルのリサイタルであった。心地よい静寂と振動と緊張感に満たされたそのヴァイオリンとピアノによる印象的な Fratres は、ここにあげたCDでもジャズのキース・ジャレットとの共演で収録されている。そして非常に美しい、天上的なコラージュのセリー書法によって書かれた「ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌」。かれの音楽は、理知的でストイックな手法と透明な感性によって彫像された豊かな清貧さ、とでも評したらいいだろうか。ラテン語で鈴を意味するその独特のティンティナブリ様式について、次のように語っている。

 

 苦悩にひたっているときには、大事なひとつのことにつきまとうすべて外的なことは無意味そのものにしか思われない。複雑なこと、煩雑なものごとはわたしわただ困惑させるにすぎない。だからわたしはひとつのものを求めざるをえない。

 この様式ではわたしは沈黙とひとつになっていられる。わたしが見出したのは、たったひとつの響きが美しく奏でられるだけで十分だということである。わたしはわずかな音素材、ひとつの声部、またはふたつの声部で作曲する。3和音の3つの音の響きは、鈴の音に近い。

 

 広大な永久凍土の林を擁したシベリアの小さな教会で、食事をしたり息を吐き出すようなあえかな身振りで、数名の若い修道士たちが唱和していた古代の草笛のような調べは、まさにそのような音楽であった。魂の餓えには、金の飾りも銀の食器も要らなかった。

 

あなたはあの聖者たちのことをご存知でしょうか、主よ
かれらは閉ざされた修道院の僧房のなかでさえ
世の笑い声や泣き声が聞こえすぎると感じ
地中深くもぐりこんでしまったのです

そしてひとりひとりがわずかな光と
わずかな空気を穴のなかで享けながら
自分の年も、顔さえも忘れはて
窓のない家のように生きつづけ
死んだも同然で、そのために死ぬ必要すらありませんでした

 (R. M. リルケ/巡礼の書)

 

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■ Dire Straits「Dire Straits」

 マーク・ノップラー率いるダイアー・ストレイツのデビュー・アルバムは、レンタル・レコード屋で偶然見つけてテープに録り、あまりに気に入ったのでその後、当のLPも結局買ってしまった。よくお気に入りのレコードをすすめていた高校時代の友人のS君が、そんなに素敵な作品なのかと思ったらしい、後で自分もレンタル屋で借りて聞いたらしく、「○○くん、アレは分からないよぉ....」と文句ではないのだが、懇願するような口調で言ってきたのが、まるで昨日のことのようだ。

 マーク・ノップラーの妙味あるギターとボーカルのスタイルは、かれの敬愛する J. J. ケールのそれによく似ている。利休の茶道の渋味といったら似合うだろうか。控えめだが、その短いフレーズですべてを言い尽くしている。そして寡黙だが、豊饒。後に J. J. ケールをはじめて聞いたときに、まるでノップラーそっくりだと思ったものだが、英国出身のノップラーの場合は、そのうえに更に知的なエレガンスさを備えているところが大きな魅力で、その形式的な美学が見事に完結したのが4枚目の「Love Over Gold」だが、その後はバンド自体のイメージが巨大になりすぎてしまったような気もする。

 かれらのアルバムの中では、〈自然体〉の爽快さと瑞々しさという点でこのデビュー・アルバムを挙げたが、実は個人的にいちばん好きなのは3枚目の「Making Movies」だろうと思う。冒頭のイノセンスに満ちたロード・ムービーのような Tunnel of love から始まり、ロマンチックな悲恋物語の Romeo and Juliet 、そして夏の夜の高ぶっためくるめく興奮の Expresso love など。どれも豊かな情感に溢れていて、いま聞いても胸がときめく。「少年の悲しい情熱(まごころ)は、花おこぜの如く危惧を夢見ていた..」(金子光晴) 流れるようなロマンチシズム。案外、かれらの神髄はそんなところにあるのかも知れない。

 ちなみにぼくは、デビュー・アルバムから「Love Over Gold」までの、どこか柔軟で瑞々しい Pick Withers のドラムスも好きだった。かれはディランの「Slow Train Coming」でも大役をこなしているが、かれが抜けた時点でバンド自体の音も変わってしまったように思う。ノップラー好みの精緻でよく統制されたサウンドへと変化していったのだが、その分やわらかな奔放さが失われてしまったのではないだろうか。

 これらの音楽を聴いた後、ぼくは牧歌的な田舎の高校を何とか卒業し、ひとり古巣の東京へ戻って自炊生活を始めた。トイレも共同の四畳半のみすぼらしい部屋から、「北国の少女」へぼくは当時愛誦していた立原道造もどきの悲しい手紙を何通も書き送った。部屋は友人たちの溜まり場となり、いつも煙草の煙が充満し、カップ・ラーメンの空の容器とウィスキーの空き瓶が転がっていた。そして唯一の家具らしきステレオからは、いつ果てるともなく「Alchemy」のテープが流れていた。

 

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■ 上々颱風「上々颱風 2」

 このセカンド・アルバムには、舞踏家の麿赤児がライナーを寄せている。芸がなくて恐縮だが、まずはその文章から引きたい。

 

 …神様はよく気軽にその面倒臭さを預かったものだ。その代わりに、神様もまた、人に物を気軽に頼んだ。おい、お前、ちょっと頼むよと、米作りなどを頼んでしまう。頼まれた人間は、気軽に骨身を惜しまず精を出す。神様との良い関係とはそんなものだ。日本人はよく働くというのは、こういうところに根があるのだ。

 近代までは、人々はそういうことをよく知っていた。だから、働くことの意味が豊かに見える。近代になって歯車が狂いだした。神と人間、人間と人間、人間と物事の関係がギスギスと窮屈になってきた。いやしいものになってきた。

 上々颱風の音楽は、そんないやしい近代を笑いとばして抜け出ようとしている。紅龍の空っぽさに、神様はその辺を任せているらしい。この音楽を聴く人達は、そういう近代のいやらしさを知っている人達であろう。働き者で骨身を惜しまない、残り少ない最後の健全さをかろうじて宿した人達であろう。

 

 「裸のこころ」 上々颱風の音楽をひとことで表すなら、そんなことばになるだろうか。裸といっても、砂漠の修道士が深夜に己を鞭打つような裸でも、行者が滝に打たれるような裸の類でもない。むしろ湯気がもうもうと立ちのぼるような下町の銭湯で、いじめっ子だった近所のガキ大将や、顔見知りのちり紙交換のおっさんらと並んで湯舟に浸かり、床屋の爺ちゃんの背中を洗ってあげたり、豆腐屋の角の家のおやじに「おっ、チンチンに毛が生えてきたなあ」なんて言われたりしているような裸である。それにおやおや、これは驚いた。人間ばかりかいつの間に、どこから入り込んだか市中の犬猫まで仲良く湯に浸かっているではないか。

 季節は祭の夏。いつか、ふらりと訪れた見知らぬ里の盆踊り会場のようなところで偶然、上々颱風の音楽に出会ってみたいと思っていた。そんな奇蹟のような出会いではなかったが、昨年の夏、地元・奈良の橿原神宮で野外ライブが催され、はじめて生の演奏に接することが出来た。私はさっそくオリジナル・ロゴの入った日本手拭いを買い求めて頭に締め、松の老木の根本で踊りまくっておりました。いやいや何とも素敵で、心躍り洗われる、祭の興奮にも似た得難い一夜でした。そして私はかれらのステージの中央に、巨大な縄文の石柱が天に向かって屹立しているのを、確かにはっきりとこの眼で見たのだった。

 寅さん亡き後、前近代のハートと未来の体温をもって日本中を経巡ることができるのは、もはや上々颱風しかいない。

 

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 ハナ肇とクレイジー・キャッツ「クレイジー・シングルス」 

 モラリストでロマンチストのチャップリンより、破天荒でナンセンスなマルクス・ブラザーズの方が好きだった。ちょっとインテリなモンティ・パイソンももちろん大好きだけれど、頭でひねった分だけマルクス・ブラザーズの笑いには負ける。既成の価値観を裏返して、秩序を無化し、大きな風穴を開けてしまう非日常的な凶暴さ。笑いとはもともとそのようなものだろう。であればこそ、一世を風靡した芸人の哀れな末路も、ある意味では予定された宿命のような気さえしてしまう。

 だがクレイジー・キャッツは、そうした湿った悲惨さとは無縁だ。その笑いも、どこまでも限りなく乾いている。湿度0%の天下無敵・自由奔放な哄笑。それはかれらが、あくまで“芸人”であることに徹しているからで、そのあたりに逆にふてぶてしさと逞しさ(そして律儀さ、かな)を感じるのだが、だがそれだけでも充分には説明しきれない部分が残る。やはりかれらの笑いは、時代を超えたひとつの奇蹟であったと思えるのだ。

 クレイジー・キャッツ、とりわけボーカル兼ギターの植木等は20代のある一時期、ぼくの絶対的なヒーローだった。音楽もそうだが、一連のシリーズの映画も、これまた何ともイカしていた。♪お〜れはこの世でいちばん、無責任と言われた男♪ と例の鼻歌まじりのC調で歌いながら出世街道をのらりくらりと駆け昇り会社を乗っ取ってしまう平均(平均と書いて‘たいらひとし’と読む)のシュールなスタイルに、あんぐり口が開き、それからじわじわと勇気が出てきた。正体不明でわけの分からない勇気が。

 それから家の留守番電話のメッセージに、ぼくはクレイジーの「だまって俺について来い」を吹き込んだのだが(♪金のない奴あ俺んとこに来い。俺もないけど心配すんな♪ という歌だ)、これは体裁が悪いと一週間足らずで親に差し替えられてしまった。とにかくぼくは、かれらにぞっこんだった。そしてカラオケで酔っぱらってクレイジー・メドレーを歌いながらその裏で、アメリカの有名な劇作家のこんなセリフをそっと自分に呟いていた。

 

きまじめになってはいけないぞ。

死守せよ。だが軽やかに手放せ。

 

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■ John Coltrane「Live At The Village Vangurd」

 ジャズ、特にフリー・ジャズとの出会いは、いまは亡き作家の中上健次との出会いでもあった。つまりぼくの中では、この二人の巨人の邂逅は、強烈に重なっている。

 中上健次と出会ったのはいつであったか、はっきりと思い出せない。とにかく『岬』と『枯木灘』を読み、これはすごい作家だと思った。文章がものと交じりあい、もののなかから魂が滲み出ていた。ものとひととが交感しあう原初の世界。荒々しく淫乱で、それでいて溶け入るような不思議な感覚があった。そんなものを書いた作家はそれまで誰もいなかった。

 それから初期の若々しい、破壊と混沌のエネルギ−に魅せられた。アイラ−が巨大なペニスのサックスで神聖な午前の賛歌を奏で、コルトレ−ンが苦行僧のごとくコ−ドとの闘いに突進し、ランボ−が石の喰い気と永遠をうたう。そんな季節だった。

 ちょうどその同じ頃、高校で同じ部活だった同級生の女の子が交通事故で突然死んだ。ぼくは家に連絡に来た部員のひとりに「どうせ誰もが死ぬんだ。珍しいことじゃないだろう」とうそぶき、葬式の類にはいっさい参加せず、ひとり火葬場の前に広がった田圃の真ん中に自転車を置いて、うっすらと昇っていく煙を眺めていた。たわわに実った稲穂を、風がざわざわと気持ちよく揺らしていたのを覚えている。あの時も、家に帰ってコルトレーンのレコードをひたすら聞き続けた。

 10代の少年にとって、死はまだ身近なものでなく、ぼんやりとした予感のようなものでしか過ぎなかった。そこに死は不可解な凶暴さで荒々しく踏み込んできた。嬲られた傷口にとって、ジャズは心地よい音楽だった。

 コルトレーンの音楽とは、コードとの闘いであったように思う。音楽とはコードの上に成立するものだが、コルトレーンのサックスはそれさえも食いちぎり、音楽が解体してしまうその危うい瀬戸際で己を追いつめ、音楽を追いつめ、もがきあがく。ではコードとは何か。コードとはあらゆる秩序、あらゆる抑圧、中上健次にとっては部落であり、コルトレーンにとっては黒人、そしてこの世に生を受けた存在であるところのニンゲン、そのようなものすべてだ。音はそれらすべてのものの束縛から、自由になる瞬間を夢見てあがき続ける。

 この地上にコードが存在する限り、コルトレーンの音楽は永遠にその価値を失うことはないだろう。

 

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■ Bryan Ferry(+Roxy Music)「More Than This 〜the best of」

 高校のときに住み慣れた花の都・東京から北関東の町に引っ越しをした。転校した学校は田舎の粗雑さが馴染めなかったけど、でもそんなことはじきに忘れてしまった。「女の子」がいたからだ。どこかあか抜けしない親密さと、大きな瞳をもった、背の高い子だった。いっしょに入っていたブラスバンド部の演奏会での朝に、蝶ネクタイを結んでくれたときに恋に落ちてしまった。あのときの一日中落ち着かない気持ちは何といったらいいだろう。今は亡き寅さんなら、きっとこんなふうに言うだろう。

 

「いいか、恋ってのはそんな生易しいもんじゃないんだぞ。飯喰う時だってウンコする時だって、いつもその人のことで頭がいっぱいよ、何かこう胸の中が柔らかァくなるような気持ちでさ、ちょっとした音でも、例えば千里先で針がポトンと落ちても、アッーとなるような、そんな優しい気持ちになって、もう、その人のためなら何でもしてやろう、命だって惜しくない、寅ちゃん、私のために死んでくれないって言われたら、ありがとうと言ってすぐにでも死ねる、それが恋というものじゃないだろうか、どうかね、社長」

 

 気取っているが、実は三枚目である。恋なしには生きられない男である。恋人ができたといっては有頂天になってそこらじゅうを踊り跳ねまわり、失恋したといってはこの世の終わりとばかりどん底にはまり込み、いつまでも女々しく去っていった女のことを考えてため息ばかりついている。そして建物の裏でそっと、好きなディランやレノンやモリスンの切ないラブ・ソングを口ずさんでいる、って俺のことか、こりゃ。

 実はロキシー・ミュージックのレコードを初めて買ったのは、レノン追悼の Jealous Guy のシングル盤であった。あれは、泣けた。ブライアン・フェリーもきっと泣いていたのだろう。名作「Avalon」もいいが、私はかれがソロ作でカバーしている These Foolish Things や Smoke Get In Your Eyes などのスタンダードな楽曲も好きである。洗練されたロキシー・ミュージックのサウンドの裏に、実はこんな素朴なノスタルジーが宿っていたりする。「別れないでいっしょに頑張ろうよ」という夫婦善哉の Let's Stick Together もイカしている。

 ところで、毎度のことだが前述の彼女は、高校を出てしばらくして地元の野郎と結婚してしまった。ぼくはブライアン・フェリーのように女々しく、ときどき彼女と二人で行った冬の海岸に行っては、ブライアンも後日カバーしたモリスンの Crazy Love をさみしく口ずさみ、鼻水を垂らしていた。続いて子供が生まれたという風の便りを聞いたときには、テキ屋になって旅に出ようと本気で思ったくらいだった。

 そうそう最後に、ロキシー・ミュージックでいちばん好きなのは、これまた切ない Oh Yeah というナンバーです。

 

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■ John Lee Hooker「Mr.Lucky」

 奥深いブルースの世界を語れるだけの技量もキャリアもぼくにはとてもないし、実際囓る程度のものしかいまだ聴いていないのだが、しかし歳を取るにつれて(これはいい意味で、だ)ますます最近は華々しいヒット・チャートの世界からは遠ざかり、こうしたリアルで根の深い音楽たちがしっくりと来るようになってきた。うーん、良い傾向だなあ。

 「動いている」ジョン・リーを初めて見たのは、ヴァン・モリスンのライブ・ビデオでだった。不気味な間奏をつなげながら、ヴァンが低い読経のような声で「ジョン・リー・フッカー、この世の果てから来た男だ (Northing but stranger in this world)」と紹介すると、ステージの奥からふらふらと墓場から出てきた亡霊のようにジョン・リーが現れ、黒のサングラスを片手ではずし、両の手をゆっくりと掲げて、まるで自己顕示欲のかたまりのように聴衆の前に立ちはだかっていた。

 そこらのミュージシャンがこんな真似をしたらとても鼻持ちならないだろうが、ジョン・リーがやるとこれが不思議とびしっと見事に決まってしまう。有無を言わせぬ存在感。例え電話帳を持ってマクドナルドの前に立っているだけでも、もうブルースだ。人々は夜中に悪夢の中で見た怪物がいま現実に、目の前に現れたかのように戦慄し、凍りつく。

 アニマルズもカバーした、エレクトリックのイカした Dimples や Boom Boom、ドアーズが「L.A Woman」でとりあげた生々しい Crawlin' Kingsnake、迫真的な Drugstore Woman に No Shoes、深遠な Hobo Blues、そしてミシシッピの暗くぬかるんだ湿地帯をどこまでも歩いていくような圧巻の Tupelo (おそらくヴァンの Tupelo Honey はここから来ているのだろう)。どれもたったひとつかふたつのコードで、しかも叫ぶことなく静かに囁くだけで、ジョン・リーはぼくらの魂を易々とつかみ、見知らぬ荒野へと置き去りにしてしまう。アルバム一枚あれば、悪魔と話もできる。

 ここではあえて '91年に出た「現役作」をあげておこう。ヴァンをはじめ、キース・リチャーズ、ジョニー・ウィンター、ライ・クーダー、サンタナ、ロバート・クレイといった豪華なジョン・リーの「息子たち」が各曲ごとに共演していて、ちょっぴり肩の力を抜いて楽しめる。初めての方はこれが気に入ったら、ぜひ古い曲も聴いてみてください。

 それにしても2000年にしてジョン・リー、83歳。ああ、果たして生で見ることができるだろうか、世紀末のフランケンシュタインじじいを。

 

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■ ケルト音楽

 アイルランド、言い換えるならケルト民族というものは、その通奏低音が日本人の心性と何かとても深い部分でマッチするものがあるように思う。作家でいえば八雲いわくハーン、ジョイス、かのジョン・レノンもアイリッシュの血が混じっていた。

 昨今はやりの安上がりな「癒しブーム」などは嫌いだが、大好きなヴァン・モリスンの音楽と相まって、ぼくもいくつかのケルトの調べにとても深い共鳴と安らぎを感じてきた。ここではそのうちの数枚をダイジェストで紹介したい。よかったら店頭で探してみてください。どれも、いまでもたびたび取り出して聴いている愛聴盤です。

○「ケルト・ミュージック・ナウ/Flight Of The Green Linet」(RIKODISK-RCD20075/発売元・MSI・tel:03-3460-2721)
 アイルランド・スコットランド等の北欧で活躍している現代のミュージシャンたちの演奏を集めた質のよいオムニバスで、入門用にも最適。素朴で粋なトラッドあり、哀愁感漂うフォーク・ソングあり、美しいピアノ曲ありと多彩な内容の全17曲。心地よい夏の光のすがすがしさ。

○Capercaillie「Crosswinds」(MSI30008/発売元・MSI)
 スコットランド出身のバンドのセカンド・アルバム。何といってもこの女性ボーカルの沁み入るような透明さは、聴くたびに魂を奪われて、どこか別の清澄な惑星へと運ばれる。彼女といっしょに暮らしたら、毎晩枕元で歌ってくれるのだろうか。軽快で朗らかなダンス・チューンとの組み合わせも心地よい。

○Alison Pearce:soprano/Susan Drake:harp「My Lagan Love」(Helios-CDH88023/輸入盤)
 最後は、池袋のART VIVANTの店頭で流れていたのをすかさず購入したこの一枚。クラッシック界の歌姫(といっても、もうおばさんだけど)がハープ奏者と共に録音したアイルランドの伝承曲集。ヴァン・モリスンがチーフタンズと共演した名盤「Irish Heatbeat」で取りあげた曲もいくつか入っている。正統派の、おごそかで、香り高き味わい。

 

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■ Woody Guthrie「Columbia River Collection」

 あるミュージシャンが好きになると、その人がどんな音楽を聴いてきたのか、ということに興味がわく。なぜなら、音楽とは素朴なバトンの受け渡しであり、ミュージシャンとは自らが吸収し混成したものを醸成してそこから新たな形(スタイル)を生み出すマジシャンのようなものだから。誰ひとり無から出てきたものはいない。

 だからミュージシャンのルーツを探ることは、ある意味でかれがまだ無名の、誰にも振り向かれないチンケな若者に過ぎなかった頃に、どんなものを食べ、どんな夜を過ごし朝を迎え、どんな道を歩いてきたのか、その道をいっしょにたどりなおすようなものだと思う。そうしてかれの背後に連綿とつながっている、音楽という森の奥へ、その豊かな広がりへ分け入っていく。

 もともとフォーク・ソングを歌うディランから入ったぼくは、ピート・シーガーをはじめとする50-60年代頃のディランを取り巻くフォーク・シーンにも興味を抱き、いくつかのアルバムも囓ったが、やはりディランが師と仰ぐウディ・ガスリーの音楽には最も魅せられた。中古盤や輸入盤のレコードを探し求め、深夜のテレビで放送されたかれの伝記映画に夢中になり、また伝記本やウディ自身が書いた旅の記録などを読み漁った。

 ウディ・ガスリーの音楽に耳を傾けると、一見その素朴すぎるスタイルは様々な音の洪水に馴らされた現代のぼくたちには単調に聞こえかねないが、だがさらによく耳をそばだてると、その単調なコードからはみ出して、声なき人たちの哀しみや喜びや怒りや苦痛や希望といった感情が色鮮やかに、まるで麻袋に染みついた涙や野菜クズの匂いのようにつましくこぼれ落ちてくるのが分かる。それはぼくにとっていつも立ち戻っていく、丘の上にいまも変わらず建っている祖父の家のようなものだ。暖炉の前で熱いミルクを啜りながら、そこでたくさんのたくさんの終わりのない物語を聞く。

 最後にやはりディランの言葉をひこう   「.....偉大なフォークと偉大なロックンロールをもう聞くことはできないかもしれない。馬車がもうなくなってしまったようにね。確かに、馬車の方が車よりも魂がこもっていた。目的地に着くのに時間はかかったし、途中で殺されてしまうこともあったけれども」

 

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■ Otis Redding「The Otis Redding Story」

 ここはひとつ、いま読んでいるチャボのエッセイを真似て、こう言ってみたい。

 オーティス・レディングだった。だんぜんオーティス・レディングだった。はちきれんばかりの、オーティスのシャウトがだんぜんだった。

 オーティスというと、だんぜん忌野清志郎だ。言葉をしぼり出すような独特の清志郎のボーカル・スタイルは、オーティスの歌い方にもっともよく似ている。ずっとオーティス・レディングの音楽に魂を奪われてきた清志郎が、長年の夢がかなって何年か前に、オーティスのバックを務めてきたブッカーT&MG'Sといっしょにメンフィスでその名もずばり「Memphis」という素敵なアルバムを作った。

 そのアルバムも、そして同じメンバーで行われた“来日公演”の模様を収めたビデオでも、清志郎はまるで子供のように無邪気にはしゃいでいて微笑ましい。実際、とても嬉しかったに違いない。あの大オーティスのバンドを率いて、名曲 The Dock Of The Bay まで歌ってしまったのだから。オーティス・レディングというのは、そういう存在なのです。

 オーティスのボーカルには独特の“ぶれ”がある。その“ぶれ”をどのように受けとめるかは、聴く人それぞれによって違うだろうと思うが、とにかく世界と自己との間隙、人と人との間隙、そして存在することの軋轢から噴き出してくる熱い間欠泉のようなものだとぼくは思っている。そのかれにしか出せない独特の“ぶれ”が、ハイ・テンポの曲では豪快な振れを見せ、スローなバラード曲では心の襞に錐もみをしてくい込む。いわば、魂の幅広い振り子だ。

 以前に一度だけ、自分はもう死んでしまったのだと思えたときがあった。感情が枯渇して、何を見ても何も感じなくなった。脱け殻のように生きていた。ある日、ボストン・バッグにオーティスの音楽をつめこんで旅に出た。自分の根っこを探す旅に。東京から熊野の森へ出て、那智滝の奥にある禁足地の原生林をひとり歩きまわった。山中にある自殺禁止の立て札を蹴飛ばし、人跡の絶えた源流を遡った。岩と植物だけの純粋な世界に驚いた。その旅の間中、ずっとオーティスの歌が流れていた。Big Otis の旅、だった。

 コピーやニセモノが溢れかえるこの影絵のような世界で、オーティスの歌は紛れもない本物、ひとが生きることのリアルな感情にまっすぐに根を下ろしている。そしてそれらの音楽たちは、ぼくの餓えをどんなパンよりも確実に満たしてくれる。

 オーティス・レディングだった。だんぜんオーティス・レディングだった。はちきれんばかりの、オーティスのシャウトがだんぜんだった。

 

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■ Jackson Browne「THE PRETENDER」

 ジャクソン・ブラウンの音楽をひとことで言うなら、飾り気のない誠実さ、だろうか。誠実さゆえの不器用さ、だろうか。そして、不器用であることを受けとめた力強さ、であろうか。

 70年代の頃、あるミュージシャンがディランと話をしていて「ジャクソン・ブラウンを聴いたか?」と言われた。後日、かれがディランの家を訪ねたとき、部屋の床の上にはジャクソン・ブラウンのレコードが乱雑に散らばっていたという。

 確かにボブ・ディランとジャクソン・ブラウンの音楽は、モラルという点において深い共通項があるように思う。それは常に、人はどのように生きるべきか、どのようにあるべきなのか、といった自問を繰り返す生真面目なほどの頑なな姿勢だ。「広告が人々の心を狙い撃ちする」世の中を、かれは黒メガネをかけて忘れようとするが、己の心まではごまかせない.....。

 かれの音楽をいちばんたくさん聴いていたあの頃、ぼくが感じていたのはどんな気持ちだったろうか。

 女の子のことで悩んでいた。(男はいつだってそうだ) 彼女と郊外の水門のある静かな場所へサイクリングに行った。パンクをした彼女の自転車を道端で修理した。高い木の上で蝉がじりじりと鳴いていた。やわらかな、針の先で突いたら弾けてしまいそうな気持ち。この世のどんなものからも、彼女を守りたい、と思った。そして彼女の手をとってこのまま、夏の光の微熱の先へ走り去ってしまいたい、と願った。二人だけで.....

 ところで、マーティン・スコセッシ監督の映画「タクシー・ドライバー」で、若きデ・ニーロ扮する主人公のアパートの部屋のシーンに、Late For The Sky の印象的な間奏のギターが使われている。あれはとてもいい選曲だったな。ぼくにとってジャクソン・ブラウンの音楽は、あの映画の中の青年が、過激な暴力の底に秘めていたやわらかな果実のようなもの。だからかれの音楽を、決して過去形で語るような大人にはなりたくない。

 Running On Empty のあの疾走感がいまでも好きだ。以前よりスピードはだいぶ落ちたけどその分、まわりの景色がもっとはっきりと見えてきたような気がする。まだまだ、このままずっと走り続けるよ。爺さんになっても、万歩計を付けて走り続ける。

 

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■ The Street Sliders「REPLAYS」

 あれは何か、新種のウィルスだったのだろうか。

 20代の一時期、スライダーズの音楽にイカれた。イカれただけからまだいいが、とうとう自分がハリーや蘭丸であるような錯誤に陥って、あろうことか妹の道具を借りて、アイラインやアイシャドウの化粧を施すようになったのである。そしてどぎつい色のペイズリーのシャツに、真っ白なジャケットを着て町を闊歩していた。友人たちには最初受けたが、そのうち不気味がられた。

 化粧だけではない。生涯で(おそらく)最初にして最後のパーマも、ちょうどその同じ頃だった。もっともそれは、知り合いの女性がやっていた美容室に、ロッキン・オンに載っていたチャボの写真を持って行ってやってもらったのだけど。私はふだんは、髪型にもファッションにもトンと無頓着な質なので、ほんとうに病気としか思えないのだが、まあそんなことはどうでもいいか。どんな地味な人にも変身願望というものはあるのです。

 ところでスライダーズも一度、当時私が住んでいたある地方の町のホールへ見に行ったんだっけな。ほとんど若い連中ばかりで、ハリーっ! とか 蘭丸う! とか嬌声をあげる女の子たちに交じっておじさんはちょっと居心地が悪かったけど、でもステージの上のかれらは実に無愛想で、なかなかイカしていた。ひどく孤独な姿のようにも見えた。

 スライダーズの音楽を聴いていると、真夜中の郊外の公園に無数の少年少女たちがどこからともなく集まって暴動を起こすその前触れの予兆ような、そんなピリピリと心地よく乾いた空気を感じる。禁欲的な歌詞とソリッドなサウンドは、なかなか他のバンドでは出せない持ち味だが、削ぎ落とした分だけ単調になりかねない危うさもあるように思う。こういうスタイルを保ち続けていくのは相当しんどいことだろうな。

 ちなみに私のフェイバリットは、名曲「のら犬にさえなれない」と、蘭丸の歌うカラフルなシングルB面曲「Daydreamer」です。

 ペイズリーのシャツはそれ以来、着たことがない。

 

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■ ダウン・タウン・ブギウギ・バンド

 はじめて自分の小遣いで買ったレコードは、高田みづえのデビュー・シングル「硝子坂」で、宇崎竜童の作曲だった。正月に親戚の家近くの駅前で貰ったばかりのお年玉で買ったのだが、店内で相当かけていたらしく、針飛びが酷かったものの遠距離のため文句も言えず、カートリッジの上に消しゴムの重しを乗せて聴いた。東京の羽田空港で客席整備のアルバイトをしていたとき、はじめてツナギを着た。サイズが合わなくて、しばらく股ずれが辛かった。高校の時に大好きだった女の子が、「身も心も」が大好きだと教えてくれた。身も心も捧げた甲斐もなく、フラれた。

 ダウン・タウン・ブギウギ・バンドはメンバー全員、ツナギを着てカッコつけてるけど、実は股ずれで悩んでいたに違いない。宇崎竜童だってサングラスを取ったら、つぶらな瞳で、けっこうショボクレた顔をしている。であるからこそ、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドは実に正しいロック・バンドなのだと思う。気取った「カッコマン」に成りきれないところが好きだ。

 パスタやタイ料理やミネストローネなどをさんざ喰った後で、沢庵でお茶漬けを啜るようなものだろうか。洒落た明るい食卓などでなく、家具も何もないオンボロ・アパートの部屋の丸いちゃぶ台の上で、擦り切れたGパンに革ジャンをひっかけた中年男がひとり黙って茶漬けを啜っている。壁には去年のカレンダーと、剥がれかけたボクシングの古いポスターが一枚。西日が畳の上に日溜まりを落としている。そんな風景が、何故かしっくりとくる。

 夜更けに古いカセット・テープを持って、友達の親父さんから借りた中古のカローラでドライブへ。「涙のシークレット・ラブ」や「裏切り者の旅」を口づさみながら、見知らぬ町の幹線道路をあてどなく。「知らず知らずのうちに」のメロウなギター・プレイを聴きながら煙草に火をつけ、「買い物ブギ」や「スモーキン・ブギ」で高速に乗り上げ、待避車線で立ち小便。「夜霧のブルース」を聴きながら家路へ戻る。

 先日、久しぶりにカラオケに行って「沖縄ベイブルース」を歌った。やるせない女の肌に触れたような気がした。演歌だろうがロックだろうが、どちらだろうが関係ない。宇崎竜童の書く歌は“血の流れている音楽”なんだから。

 

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■ Neil Young 「Live Rust」

 20代の頃、狩撫麻礼の『ボーダー』という漫画にはまった。「無為こそ過激」という消費社会に風穴を穿つようなテーゼを掲げ、ボロ・アパートの便所小屋に住む破天荒な主人公を描いた作品だったが、その中で、彼らが屋上のビア・ガーデンでアルバイトのバンド演奏をするというシーンがあった。と突然、驟雨が襲い、屋内に逃げ込む客を尻目にギター奏者が立ちつくし、こんな粒子を旅先で感じた… とつぶやく。ドラマーの主人公と目線を交わし、よし、やるか、と雨の中で彼らが始めたのが、ニール・ヤングの Like A Hurricane だった。

 荒馬が腹の中を駆けめぐるようなときには RAGGED GLORY や WELD を、ヘッドホンのボリュームを耳が割れんばかりに上げて一日中聴く。中途半端だったり、薄汚れてしまった純度の低い頭の中の濁った色彩が、きれいなブラックに還元されていくように思う。また Down By The River の、恋人を撃ち殺してしまった男のことを考える。“彼女ならぼくを虹の彼方に追い払ってしまえたのに…” そしてときおり Tonight's The Night の重たいブルースに深夜まで酔い潰れ、夜明けの空が白ばむ頃に Like A Hurricane のあの不思議な粒子に乗って、もう一度歩み始める。

 それらの混乱と紙一重の危うい、嵐の中を突き進んでいくような曲たちがニール・ヤングの一面としたら、もう一群の曲たちは、繊細で傷つきやすい、無垢な麦穂のような歌たちだ。たとえば Suger Mountain をぼくは永遠に歌い続けていたいと希み、After The Gold Rush のかぼそい歌声を聴きながら、色とりどりの無数のアドバルーンをつかまえている汚れを知らない子供のような気分になる。そして何度でも繰り返す、錆びることのない Heart Of Gold …。

 はじめてニール・ヤングを映像で見たのは、あの The Band の葬式セレモニー「ラスト・ワルツ」の映画でだった。合意の上で離婚する夫婦の最後の夕食のような独特の哀愁と成熟したけだるさの中で、Helpless を歌う彼の目だけがひとり、ギラギラと怪しく輝いていたのが忘れられない。

 子供のような不器用なイノセンスと、混乱を怖れぬ危うい過激さを抱えて、砂漠の月下をひとり彷徨し続けるロック遊牧民の最後の生き残り。それがぼくの中のニール・ヤング。弱さの中に強さがあれば、狂気の中に純心がある。そしてブルーからブラックへと常に立ち返りながら、憧れを求め歩み続けてやまない。そんな男にぼくもなりたい。

 

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■ 三上寛「中津川フォークジャンボリー」

 子供の頃、よくキャッチボールや英語の勉強を見て貰った近所にいたヤクザな大学生の影響のせいか、ぼくの音楽背景は一世代どこかずれている。

 はじめて聴いたこのフォーク集会での三上寛の絶叫は、震撼した。

 ざわざわと体臭が匂い立つようなヤジと嬌声の中で、「おまん◯歌手」と呼ばれたまるで巨大な男根の丸刈りのような男がウルセエ、バカヤロウと唾を吐きながら、下手くそなギターをかき鳴らし、腹上死した60爺や、ヤニで汚れた金歯や、首吊りしたババのイソや、小便だらけの湖や、片目の赤トンボや、そのほかワケの分からない奇怪な呪文を糞や痰のように吐き散らかしていた。

 それ以上に何か、目をそむけたくなるような、しかし臓腑をぐいとつかんで離さない、おどろおどろしいその独特の恨み節と暗い想念が、胸に貼りついて剥がれなかった。ぼくは、これは聴けない、聴けない、と子供のように耳を塞いで友人に笑われたものだ。坊ちゃん育ちの少年が、新宿の路地の暗がりで薄汚い浮浪者に強姦されたような気分だった。それでも幼い身体を貫いた荒々しい男のモノを、知らず愛した。

 大学紛争や安保闘争などで日本中の若者が奇妙にざわめき立っていたあの時代の空気を、ぼくは追体験するしかない。他にも岡林信康などのアルバムも幾つか聴いたが、あの「友よ」に代表される当時の連帯感は、どうも嘘臭くてしっくりこない面があった。故郷/東北の青森という土着に根ざした三上寛の絶叫は、そんな〈政治の季節〉とは無関係で、露わな〈個〉に沈殿した分、異彩を放っている。それは青森の地層を突き抜けて、遠い縄文の幻の阿弥陀経のようにも聞こえる。

 一昨年であったか、CDのベスト盤を買って、これらの初期の曲を久しぶりに聞き返した。電車待ちのホームでイヤホンを耳に立っていたところ、漏れ響いた「おどおーっ!」の大絶叫に驚いて、前に並んでいた女性が思わずこちらを振り返った。

 三上寛の怨念は、いまだ晴れない。

 

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■ JAGATARA 「それから」

 JAGATARA = 江戸アケミの音楽をはじめて耳にしたのは、どこであったか。思い出せない。この男はいったい、どこから来たのか。分からない。いや、ひび割れた記憶の亀裂から、いまふいと滲み出てくる。タイトルもストーリーも忘れたが、都心の真ん中の広大な廃墟を、植物が増殖するAKIRAの細胞のように埋め尽くし、そこに住み着いたひとりの風来女が、セックスをしたり、呆けて西瓜を齧ったり、東京で暮らす外国人たちと乱痴気パーティーをしたりする珍妙な映画だった。ギラギラとした、妙にけだるく胸騒ぐ、夏。その女のラジカセから流れていた曲が、巨大な耳垢のようにこびりついて、いつまでも離れなかった。ええい、鬱陶しいわい。役立たずの耳掻きをへし折り、池袋のレコード屋へ行って延べ4枚のCDと3本組のビデオを買ってきてしゃぶりついていた頃、その音の主(あるじ)   江戸アケミと自称する山師のような男は、自宅の風呂場から竜宮城へつながったトンネルを抜けて、この世から霞(かすみ)の如くふいと消え失せてしまったのだった。冗談としか思えない。だが、それが冗談でない証拠に、まるで錆びついたタイムカプセルからこぼれ転げ落ちたような音楽が、この世に遺された。その猥褻ビデオ「ナンのこっちゃい」は、私にとって現代のキリストを待ちわびる異端の旧約聖書のようなもの。そして私のJAGATARAベスト・ソングはこのアルバムに収録された、近田春夫と共に“今が最高だと転がっていこうぜ”とシャウトする「つながった世界」。ジョン・レノンの Working Class Hero に捧げられた日本国中産階級革命歌「中産階級ハーレム」も、捨てがたい。そのセリフは言っちゃいけない。この音楽は廃盤になっても忘れちゃいけない。なぜならこの山師のきわどい音楽は、廃墟のテクノポリスにふさわしい響きをマーチバンドのようにひた鳴らし、その奔放なリズムは未来の透明な裾野に、確かにしがみついているから。受け継ぐものは、誰か。

 

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■ KINKS 「to the bone」

 KINKS は一度だけ、東京の小さなホールで見た。60年代から続けている偉大なバンドがこんなところで? と思ったが、東京ドームで見た米粒大のストーンズやスプリングスティーン、U2なんかより、ずっと素敵なステージだった。ほとんど初期の曲しかまだ知らなかったぼくは、名曲 Lola を聴いたのもそれが初めてで、あとで友人に笑われたけど、でもたぶん、ぼくが見た一番のロック・コンサートだった。

 独特の鼻にかかったようなレイ・デイビスの歌う曲の数々は、ぼくに同じ英国の作家・アラン・シリトーの小説に出てくる登場人物たちの世界を思い出させる。それはあの『長距離走者の孤独』の反抗的な若者の話であったり、壁に掛かった一枚の絵をめぐって夫婦の別離が語られる切ない大人の物語であったり。またときには、つぶれてしまった町のダンス・ホールを回想しながら、さあ姉さん、恋人と踊ってきなよ、なんて言ったりしている。

 それはどこにでもあるような、少しさびれかけた、子供のときからずっと暮らしてきた地方の田舎町で。そう、レイ・デイビスはそんなホームタウンを離れない。だから KINKS は東京ドームなんかで演らなくったっていいのだ。

 ところでこのCD2枚組のライブ・アルバムを、ぼくは先日東京から遊びに来た友人より貰った。輸入盤を待ちきれず先に買って、あとから歌詞が欲しくなって日本盤を買い直したそうなのだが、全29曲たっぷり詰まった、まさに Best Of Best 的選曲のこのフル・ボリューム・ライブ集は、ノリ以上に何か大切なことを伝えたいといったようなレイ・デイビスの気持ちがじわじわと伝わってきて、歌詞見たさに二度買いした友人の気持ちもよく分かる。

 さっそく頂いたCDをかけながら、いつものように夕食の支度にとりかかる。今日は鶏肉をトマト缶で煮込んだカチャトーラ。彼女が帰ってきて、鍋を覗き込んでいると、曲が Come Dancing に変わり、ぼくはふいと彼女の手をとって台所の真ん中で踊り始めた。

 KINKS の音楽はいまもこんなに輝いている。やあ、素敵じゃないか!

 

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■ The Band 「Music From Big Pink」

 The Band は、ぼくにとって思いつく限りの最良のロック・バンド。もし神様がぼくに楽器の才を与えてくれ、どこでも好きなバンドのメンバーにしてくれると言ったら、ぼくは迷わず“The Band のメンバーになりたい”と答えるだろう。

 ぼくの Music From Big Pink のレコードは、マーク・トウェインの『ハックルベリィ・フィンの冒険』やホイットマンの詩集なんかといっしょに並んでいる。乾いた枯れ草の匂いと共に、一抹の風が吹き抜けたら、そら、もうあの見晴らしのいい肥沃な大地に立っている。手づくりの筏に乗ってミシシッピィの川を下りながら、たくさんの危険や狂乱や奇妙な人たちと出会って、生きることの不思議や哀しみや、魔法のような音楽の目眩(めくるめ)く渦に呑み込まれ、ぼくはもう一度、少年から大人へと成長していく。

 ところでぼくたちは、バンドをつくった。たった三人だけの、出来損ないのようなヘボな演奏だったけれど、そんなことはお構いなしで、駅前のちっぽけなスタジオに入って The Weight や I Shall Be Released なんかを夢見心地で演奏した。だって、ニセモノだけど、The Band のメンバーになれたのだから。いまでも引き出しの奥にある、そのとき録ったテープのインデックスには Music From Big Pants と書かれている。

 それから数年が経って、バンドのメンバーはもう一度集まり、東京の小さなホールでリチャード・マニュエルのいない本物の The Band を見た。リチャードが自殺をしてしまった時、もうかれの新しい歌を聴けないと思ったら、とても悲しい気持ちになった。

〈自分はだめなんじゃないかと思うことくらい、人間を傷つけるものはない。そういうことを考えはじめたら、大きな深みにはまってしまう〉

 死の前日にレボン・ヘルムに言ったというリチャードのことばを思い出し、時折ぼくは、かれが I Shall Be Released や You Don't Know Me などの曲を歌っているビデオを夜中に見る。そのサウンドはどこかもの悲しく、やさしく、謎めいていて、ぼくはいまでも自分が、町外れの見せ物小屋をこわごわと覗き込んでいるちっぽけな少年になったような錯覚を覚える。

 

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■ 高橋悠治 「J.S.Bach フーガの技法」

〈まず、あきることだ。あきるから、あたらしいものになり変る〉と、かれはごく軽やかな、いつものはにかんだような口調で、誰に言うともなくささやく。それはまるで秘め事のような、それでいて、そこらへんに転がっている何の変哲もない石ころのようなことばの響きなのだ。

 かの坂本龍一や武満徹でさえ一目置くかれの“市場に乗りにくい”音楽をぼくに教えてくれたのは、当時はまだ名古屋で学習塾の講師をしていた氓ウんで、生まれたときから追っかけをやっているような高橋悠治オタクの人であった。高橋悠治という存在を通して、ぼくはクセナキスやメシアン、ジェフスキー、そして偉大なジョン・ケージといった人たちの〈20世紀の音楽の模索〉を辿っていった。また古典音楽やエリック・サティについての〈あたらしい目〉を与えられ、カフカやウィトゲンシュタインたちの思想に別の四辻から思わぬ再会をしたりもした。その意味では、実に最良の出発点と、経験豊富な良きガイドに恵まれていたと言えるかも知れない。

 〈現代音楽〉がぼくに教えてくれたのは、音楽に限らず、古い因襲から逃れてあたらしいものの見方を獲得すること。閉ざされたリスニング・ルームでひとり聴くのではなく、外の世界のつながりへと音楽を解き放ってやること。人生と芸術の隔てをなくしてしまうこと。

 それから、ぼくもなかば高橋悠治オタクと変じ、東京でいくつかのかれの活動を垣間見た。ハニンガムのダンス・パフォーマンスとの共演や、カフカの日記に材を取ったユニークな音楽劇、宮沢賢治の詩を用いた三絃の曲、時にはぼく自身も参加して馴れない手つきでアジアの打楽器を叩いたこともあった。

 お茶の水のカザルス・ホールで生演奏を聴いた、バッハの自筆スコアによる「フーガの技法」は、そんなかれの多彩な活動の中では珍しくオーソドックスなもののひとつだが、大バッハの宇宙を借りて、ここにはとてもシンプルな形でかれの音楽に対する姿勢が凝縮されているように思う。袋小路に入って、歯車が錆びついてしまったような時に、ぼくはこのCDをよく聴く。すると、まるで潤滑油を差されたように、からからと軽やかに周り始めるのだ。

 ところで冒頭に引いたことばは、ぼくのしょぼくれた20代に大きな影響を与えた、かれの音楽論集の中の一節の書き出しだが、その文章はこんなふうに終わる。

 

  自立の道をえらんだとしたら、きみに起こるのはせいぜい、イノチがなくなるか、牢屋にはいるか、離婚されるか、職をうしなうか、コジキになるかでしかないだろう。大きなくるしみはながくつづかず、ながくつづくくるしみはたいしたことはない。では、出発だ。

(高橋悠治「ロベルト・シューマン」より)

 

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■ THE BLUE HEARTS

 ブルーハーツの歌をはじめて聴いたのは、台風が接近中の真夜中であったように思う。いや、実際は晴れたおだやかな日だったかも知れないが、そう思うのだ。熱帯性の強風が地上のあらゆるものを吹き飛ばそうとしてしまう夜更けに、一隻の巨大な箱舟が嵐で怒り猛る海に出航し、かき集められた種子と鳥や動物たちとともに、一枚のCDだけを手にその船倉に乗り込む。....そんな夢を見た。

 ブルーハーツの歌とは、あえてひと言で表現するなら、肯定の沁みいるようなやさしさ、のようなものである。かれらの音楽を始めて聴いたとき、シンプルで偽りのない、力強い、まっすぐな日本語を、はじめて耳にしたように思った。誰もが忘れかけていたあたりまえの道を、かれらはまっすぐに歩いてみせたのだ。ブルーハーツの歌は、あたりまえの道を、あたりまえに歩けないことへの怒りに満ちている。そしてその道を、まっすぐに不器用に歩いていくことへの勇気と確信に満ちている。

 夏の日であったか冬の日であったか、のどかな山間の道をバイクで走りながら何気なく「リンダ・リンダ」を口ずさんでいるとき、何故か突然、どうしようもなく涙が溢れてきて止まらなくなってしまった日のことを、ぼくは決して忘れないだろう。「愛じゃなくても、恋じゃなくても/きみを離しはしない/決して負けない強い力を/ぼくはひとつだけ持つ」 あれはたんなる感傷などではなかった。もっと深い、心の泉に沈んでいた感情のようなもの。それが堰を切って解き放たれたのだった。ぼくはそのまま歌い続け、泣きながらどこまでもバイクを走らせ続けた。

 いまでも、そうだ。深夜にヘッドホンでかれらの音楽を聴くたびに、ぼくの心は素直にそれと共振し、ぼくは自分が血の通った“まっすぐに生きたいと望んでいる”一個の素朴な人間であることを思い出す。

   「ドブネズミみたいに、美しくなりたい / 写真には写らない、美しさがあるから」

 

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■ John Lennon 「ジョンの魂」

 はじまりは、やはりビートルズだった。小学6年生の時に親戚の兄貴から貰った、LPをダビングしたカセット・テープを、いまも大事に持っている。

 それまでせいぜい、時流に乗った歌謡曲のシングル盤を時折買うくらいだった小学生にとって、それは何か、新しい始まりだった。世界が変わった、とは言わない。ただ単純に夢中になり、そう、その瞬間から、女の子や自転車や野球のグローブのように、生活に音楽がその輝きと共に充ちてきたのだ。

 やがてビートルズのなかでも、ぼくはとくにジョン・レノンの歌に共鳴するようになった。そして中学にあがって買った、このファースト・ソロ・アルバムは、思春期のぼくの脳髄にぐさりと深く突き刺さった。それは額に一生消えない刻印を穿たれた啓示のようなもの。それまでの心地よい音楽とは違う、何か別のごつごつとした肌触り、剥き出しにされた美しさのようなもの。悲鳴を上げ、殻を突き破り、生まれ出ようとしている切実な何か。だからぼくは、このアルバムを、自分の“目覚めのはじまり”と呼ぶ。

 何かが変わったのだ。音楽が世界を変えることはないだろうが、音楽は時として人の人生を変えてしまう。ぼくにとって、このアルバムが、それだった。

 Mother のひきずるような絶叫と鐘の音、英語の辞書を片手に聴いた革命歌 Working Class Hero 、そして Hold On の一節 “きみがひとりのとき、ほんとうにひとりぼっちのき、他の誰にもできなかったことを、きみはやりとげる”.... それらはぼくの心のいちばん深い場所に澱のように沈殿し、やがて何かがそこから生まれ、おずおずと、あえかな羽ばたきを始めていった。

 ジョン・レノンの音楽、それは息が詰まるほどに優しい。そして健やかな、一本の樹木のように、まっすぐで誠実で力強い。ぼくはいつもそこへ立ち戻っていく。だからいつでも、新しく生まれ変わって、やり直せる。

 そこにあるものはいまも、女の子と自転車と野球のグローブと、そしてジョン・レノンの歌。何も変わっていない。

 

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■ セサル・ラ トーレ ベハル / MANAWANAQ

 民族音楽は詳しくはないが好きだ。ときどきテレビや本で見聞した地域の音楽が何となく聴きたくなってレコード屋で探してみたり、偶然耳に入ってきたり、友人知人から回ってきたりするものを、大抵はどんなものも気に入って、しばらくかけっぱなしで聴く。このCDも、つれあいの職場の人(ボランティアのおじさん)がコンサート会場で買ってきたものだと言って貸してくれたのだが、最近よく聴いている一枚である。

 解説にあった演奏者の略歴を少し記すと、1958年、ペルーのクスコで生まれ、竹笛のケーナ、葦笛のサンポーニャ・アンタラ、そして歌も歌う。90年代より来日して、現在関西を中心にソロで演奏活動を行い、神戸の震災や身障者の子供たちのためのコンサートなどにもボランティアで参加しているという。

 おなじ曲解説の中にあったかれのことばを引こう。

 

「私たちはスペイン人が来る前は幸せな生活だった。かれらがうそつきや怠け者、泥棒、殺人を持ってきた。それから国は悪くなりました。だがいまも私たちは誇り高きインディオです。たくさんのモノ、食べ物、立派な家、お金がなくても、それはいつも心の中にあります。白人のことばを私たちは信じられません。“岩は白人のことばよりやわらかい” 固い岩の方がやさしい / やわらかいよ、枕にして休もうか? / ベッドにして眠ろうか?」

 

 民族音楽の中でも特に、太平洋をぐるりと回るネイティブのモンゴリアンたちの音楽がどうもいちばんしっくりと来るらしい。モンゴル、中国、極北の狩人たち、ネイティブ・アメリカン、中南米、どこもいまだ行ったことのない遠い国の音楽なのに、ひどく懐かしい。

 日本でも有名な「EL CONDOR PASA コンドルは飛んでいく」も、アルバムのラストにそっと入っている。すでにインカがスペインの植民地にされていた18世紀、インカ皇帝の流れをつぐトゥパク・アマルが蜂起をおこして敗れ、配下の者とともに処刑された。かれは死んだ後にコンドルに姿を変えて、いまも空からインディオたちを見守っているのだという。

 

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■ Thelonious Monk / SOLO MONK

 

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■ タモリ / タモリ3 戦後日本歌謡史

 新宿・歌舞伎町の人間模様を描いたドキュメンタリー『欲望の迷宮』(橋本克彦・時事通信社)という本の中に、昭和40年代「ジャックの豆の木」なる店に集まった異才たちの、夜毎のフリーセッションの様子が紹介されている。

 「アカサタコメハラソ! マカサネヤカモケラ!」と突然発生したハナモゲラ語が飛び交い、三上寛が誰も知らない青森の警察学校のミサキ先生の物真似をし、山下洋輔が笑い転げ、坂田明がテーブルの上の醤油差しを差して怒り出す。「ん? なんだ? そこにそうしておって、いかにもそうしていていいという、自分についての何の疑問も抱かないで、そうしておる! それがもう通用せんということをいつになったらわかるんだ? またそのような少しばかりの、なさけない自尊心にこだわってそうしておる! 何の進歩もない、昨日もそうしていたくせにまた今日もそうしているということに、どんな意味があるか! こうすればたしかに醤油が出る、だからといって自覚もなしにいつまでもそこに在っていいのか悪いのか!おろかものめ!」

 そういうなかに当時まだ無名だったタモリがいた。くわしくは『欲望の迷宮』を読んでもらいたいが(なかなか面白い本だし)、この戦後歌謡史をパロったアルバムはそれらのギャグを総動員したひとつの集大成ともいえよう。もっとも当時のギャグはもっと過激だったらしいが、とにかく間違っても“ともだちの輪”なんかではなかった。

 「東京ブギウギ」が「入院ブギウギ」になり、「いつでも夢を」が「伊豆でも梅を」になり、“高いバナナですべって それでツワリにしようぜ”と歌われるのがトシちゃんの「パイパイ哀愁デイト」であり、“師走(しわす)だなァ… ぼくは12月になるといつも師走なんだ”と加山堆三が言えば、マイク真木は“ハラをサイタ ハラをサイタ まっ赤なハラを”と三島由紀夫を追悼する。いやあ、こういうのは大好きなんですよ。「スーダラ節」なんて“チョイとセケメのコレハでハラメ ヘケの間にやらホコメ酒”だもんね、訳がわかんなくて笑ってしまう。

 すでに廃盤になっているレコードをもっていない友人は、CD再発で出ないものかと唸っていた。アルファ・レコードさん、御一考を。

 

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■ 忌野清志郎 Little Screaming Revue / 冬の十字架

しぶたに) で、どうでしたか。いろいろ物議をかもした今回のアルバム、結局ポリドールでない別のインディーズ・レーベルより転売されたのだけど、まずその問題作の「君が代」から。

まれびと) しかしあんたも、前戯なしでいきなり来ますね。いやいや、最高でした。このところふと気が付くとよくこの「君が代」を口ずさんでいたりして、これだけ「君が代」に親しんだのは私の生涯で初めてのことじゃないでしょうか(笑)。

しぶたに) わりと単純な曲調・アレンジなのだけど、何か奇妙に強烈なインパクトがあって、そしてどこかやっぱり格好いい。清志郎の歌い方も、いつにもまして皮肉めいていて...

まれびと) うん、すごい毒気がみなぎってる。私は最初に聴いたとき、あの池袋の通り魔のような奴がこんなリズムを刻みながら見知らぬ通行人を刺していったのかな、という気が一瞬しました。だから清志郎が最後まで粘ったように、これは絶対にアルバムから外せないです。ディランの「Highway 61 Revisited」から Like A Lolling Stone を外すようなもので、このブラックホールのような曲からアルバム全体に目に見えないごついエネルギーが放射されてる、とそんなふうに感じました。

しぶたに) ではその「君が代」以外の、他の曲についてはどうでしょう。「人間のクズ」では、川のほとりで自殺を考えたが怖くなってやめた、なんて歌詞があったり、「崖っぷちのキヨシは、いつも感じてた」という歌い出しの別の曲もあります。清志郎も何かあったのかな... と。

まれびと) いや、そういう私生活には特別興味ないです。それはたんなる「追っかけ」になっちゃうから。私は実は、最近はチャボのレコードの方がすごく共感できて、清志郎はあまり熱心な聴き手ではなかったのですが、今回はひさびさに、おっ、何か感じるものがあるぞ、と。それと曲作りもラフになったというか、RCの「シングル・マン」の頃のような手触りも感じて、ちょっといいな、と思いました。「こころのボーナスが欲しい」なんて、清志郎らしいフレーズで、とても好きだなあ。

しぶたに) 先日、本屋で「週刊金曜日」に載っていた清志郎と坂本龍一、それに筑紫哲也も交えた三者対談の記事を読んだのですが、清志郎はちょっと今回の「君が代」事件については慎重な発言でしたね。それでも、何故出そうと思ったのか、との問いに、やっぱり法制化の動きに対してみんな黙ってるのがこれはどうかなと、でレコードを出せば聴いてくれる若い人たちの20〜30人くらいは(笑) s何か感じてくれるんじゃないかと、そんなことを言っていましたが。

まれびと) そうですね。私もその記事は読みましたけど、その清志郎の発言はそのまま素直なものだと思います。それと、「20〜30人くらいが分かってくれれば」というのも、そんなもんでしょう、実際(笑)。ファンというものは大方は幻想と誤解で成り立っていますからね。いくら何万人のスタジアムに客を集めたって、ミュージシャンは孤独で、結局は自分のために演奏するんだし、清志郎もそういうことは充分に分かってる人ですから。己が感ずるものを表現して、世間に投げ出す。投げ出されたものは、仏壇に供えようとゴム毬にされようと、受け手の自由なんじゃないですか、結局。仕様がない。

しぶたに) ただ、理解して欲しいという気持ちはやっぱりありますよね。あるいは、啓蒙というか。そういう観点からすると、今回のパンク版「君が代」は、ある意味で清志郎が反体制というか、政治的立場を表明してある種のアジテーションを試みたもの、と理解していいんでしょうか。それがファンに受け容れられるかどうかは別としても。

まれびと) …あのさあ、政治なんて関係ないんだよ! 反体制とか主義だとか。ただのロックだよ。〈個〉としてのニンゲンが心に感じたことを表現したもの。まあ、それをどう受け止めようと人それぞれで勝手だけどさ、結局は聴いて、感じるか感じないかっつうことだけじゃないの。分からないやつは仕様がないね、何を言っても。ぐだぐだギ論なんかしたって、間抜けな国会の答弁になるだけだよ。ロックをギ論したって、仕方がねえだろ。

しぶたに) まあまあ、そう興奮しないで。どうです? もう一杯… おっとっと

まれびと) いや、どうも。私も今回はいろいろあったものですから、つい。ちょっと酔いが回ってきたかな。反省してます。

しぶたに) (笑)じゃ、対談はこのへんで終いにして、そろそろ本格的に飲みにしますか。ところでさっきから気になってたんですけど、そのヘンテコなオレンジの派手なTシャツは何ですか。

まれびと) あ、これは友人がくれたハイ・ロウズのプリントTシャツです。じゃあ私、このへんで一曲歌いましょうか。今度の清志郎のアルバムの中の「人間のクズ」、これは私のテーマ・ソングでもあるのですが、コードはGでね、この間部屋で歌ってたらつれあいに「そんな陰気な歌はやめてくれ」って言われたんですけど… 

しぶたに) いや、私も遠慮しときます。

参考資料マ 「パンク「君が代」発売中止/ポリドール 忌野清志郎さんのCD 歌手の忌野清志郎さんが10月14日に発売を予定していたアルバムCDが、パンクロック版「君が代」を収録しているという理由で、急遽発売中止になった。決断を下したポリドールは「政治的、社会的に見解の分かれている重要な事項に関して一方の立場に立つかのような印象を与えるおそれもあるため、発売を差し控えるのが適当と判断した」と説明している。/このアルバムは忌野さんが率いる「リトル・スクリーミング・レビュー」の「冬の十字架」。「君が代」は全7曲中の2曲目に録音されていた。歌詞やメロディは原曲を生かしながら、パンクロックに編曲されているという。忌野さんらはレコーディングを始めていたが、国旗・国歌法案審議が大詰めを迎えたころ、ポリドール側から「君が代」を外すよう求められた。(朝日新聞/夕刊記事)

 

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■ テレサ・テン / 幽幽無情

 知り合いの人から貰ったテープだが、このところよく聴いている。何でも台湾語で昔の古詩に曲をつけて歌っている企画ものらしいのだが、これは彼女の真骨頂、ひょっとしたら最高傑作ではないだろうか。

 私はアジアの音楽について詳しいわけではないし、テレサ・テンの波乱の生涯についてもほとんど無知に等しいのだが、彼女の歌声には、あのニホンでのヒット曲 ♪いまはあなたしか愛せない♪ の頃から実は密かに惹かれていた。正直に告白するが、3日間くらいの“ご無沙汰”のあとであったら、私はきっといつでも彼女のテープ一本で、見事“到達”できる自信がある。だが、それだけではないのだ。

 そう、例えるなら果ててしまった後のあの独特なけだるさの中で、しわくちゃのシーツの上にマグロのように横たわり、女の腰や肩のあたりを何故ともなく指でなぞっている、あの充たされたような、ちょっぴり悲しいような、またどこか狂おしいような、そんな感じに似ているだろうか。そして性懲りもなくむらむらと、もう一度あの柔らかな叢(くさむら)に顔を埋めたいという気持ちに駆られてしまうのだ。切なく、沁みいるように、懐かしく...。次の瞬間、ふっと遠い原風景のなかに自分が立ちつくしている.....。

 そんな哀れな男の下半身的思考も、彼女の歌を決して貶めることにはならないはずだ、と思うのである。

 

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■ TANGLED UP IN BLUES・Songs Of Bob Dylan

 House Of Blues というレーベルから出た、ブルース色の濃いディランのカバー曲集。いつものディラン病と興味本位で買ってみたのだが、よくある豪華キャストのお祭り企画とは、これはちょっと違うよ。

 Taji Mahal の小粋な It Take A Lot To Laugh, It Take A Train To Cry で幕を開け、何と Mavis Staple のヒップな Gatta Serve Somebady のカバー(たまらない!)、Isaac Hayes のディープフルで魅力的な Lay Lady Lay と続く。

 Buddy Guy のギター・プレイが光る R.L.Burnside の Everything Is Broken や、シカゴ・ブルース奏者 Luther "Guitar Jr." Johnson の Pledging Time、Alvin "Young Blood" Hart の Million Miles らは、それぞれブルース・フィーリングに溢れたいぶし銀の味わいだし、Muddy Waters や Elvin Bishop らとも共演してきたという James Solberg の Ballad Of A Thin Man 、ミシガンのブルース・ギタリスト Larry Mccray の All Along The Watchtower も、なかなか秀逸な出来映えだ。こうした、ふだんはあまりお目にかかれない、地味なブルース伝道者たちの気合いの入った演奏と出会えるのは嬉しいことだ。

 さらに、復活した Leon Russell の相変わらずのヘンテコな味わいのある、テンポの落とした Watching The River Flow も何やらするめイカに似た味わいだし、The Holmes Brothers というボーカル・グループの素朴な Wallflower も、この佳曲の核をしっかりとつかんでいて心に残る好演。つまり、出演者の名だけの客寄せパンダではなく、意外とこれが、まじめな背骨のしっかり通った、得難くも媚びない好企画盤なのでした。こういう企画モノなら大歓迎だし、私も大変愉しんで聴けました。

 最後に、目玉のひとつであろう新生 The Band で Rick Dako がボーカルをとる One Too Many Mornings は、実はちょっぴり期待していたのだが、66年のディランとのツアーでのアレンジをそのままなぞった感じで、あれだけディランと長きに渡って旅路を共にしたのだから、もうひとひねりが欲しかった、とやや辛口のコメントで。

 さらに欲をいえば、Johnny Winter や Dr.John あたりにも一発、渋いのを決めて欲しかったなあ。こんな企画に、ぴったりだと思うのだけど。

 

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■ В.ВЫСОЦКИЙ(ウラジーミル・ウィソツキー)

 ウィソツキーの音楽に出会ったのは、神田の古書センターのソビエト/東欧輸入専門店で見つけた一枚のレコードだった。

 その後、ロシアのイルクーツクの町中でメイド・イン・チャイナのテープに入ったダイジェスト盤を買った。日本の宝くじ売場のような店の窓口に、ウィソツキー、ウィソツキーとニホンゴ訛りで連呼するのだがなかなか解して貰えず、ようやく店の美人のお姉さんは、ああ、これかしら... というふうにひとつのテープをその場でかけてくれた。彼の独特の野太いだみ声が流れると、おおウィソツキー... といった感じの声が周囲の人混みから漏れて、日本の若者とドストエフスキーの国の人々はしばし彼の歌声にじっと耳をすませていたのだった。

 先日久しぶりに実家へ戻った折り、そのテープを持ち帰ってきた。ロシアの凍てつくような冬の寒さこそ彼の歌声は似合うが、世紀末日本の残暑の宵にも不思議と腹に沁みる。戦場から戻らなかった友人を唄い、山の素晴らしさを唄い、ロシアの朝の凍てつく空気を唄い、ソビエト時代を生きた彼の絞り出すような歌声は常に、空気が薄い、空気が薄い、と叫んでいるようにも聞こえる。

 「国旗・君が代」が法制化され、「盗聴法」が可決され、徐々に息苦しくなっていく思考停止のこの国で、いつか彼の歌をイヤホンで聴く日もそれほど遠いことでもないかも知れない。そんな覚悟を胸に秘めつつ......

 

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■ The Staple Singers / the best of 〜

 こと特に洋楽となると、給料日が来て「さあ、久しぶりに何か新譜でも買うか」とレコード屋へ行くものの、いつの間にやら昔のブルースやカントリー、ソウルやゴスペルなどの棚を物色している自分の姿に気がつく。そんなわけで先日も二時間もの厳しい吟味を重ねた上で(なにせ夏は何かと物いりが多いので沢山は買えない)、到達したのがこのCDでした。

 数あるゴスペル・グループの中でも、かれらの音楽は独自の存在感がある。単純にゴスペルともいえない、ソウル的でもあるし、ファンキーだし、ポップだし、それでいて信仰の暗い影のようなおぽろな〈重さ〉が常に貼りついていて、それが何とも堪らない。

 黒人スピリチュアルのエヴァンジェリスト(伝道師)たる寡黙なポップス父さんが娘たちのボーカルを擁して結成されたかれらのサウンドは、個人的には50年代のヴィー・ジェイ時代がいまでも一番響いて来るが、このベスト盤に編まれた70年前後のスタックス時代は最もポップで“売れた”時期でもある。ここにも収録されているオーティスやザ・バンドのカバー(MG'Sのクロッパーさんのプロデュース!)はかれらのそんな新進性を示していて、後のトーキング・ヘッズ/デビット・バーンやプリンス等との共演もそうだが、時代の感性を読みとる柔軟さに富んでいて、その懐深さがまたかれらの大きな魅力のひとつともなっているような気がする。

 実は私はもう何年か前になるが、東京の小さなライブ・ハウスでかれらの生のサウンドに接した。それは生涯でそう何度もないであろう極上・至福の時間だった。そしてメイン・ボーカルを務める娘のひとり・メイヴィスの声にどっぷり恋していた私はかつて、I'll Take You There や We'll Get Over を聴きながら何度もイッてしまったものだし、また Respect Yourself のどこかかすれた不気味さを湛えたポップス父さんのメッセージを聴きながら人生の深遠さに思いを馳せていたものだ。そのときの魔法のような音楽の感覚はいま聴いても変わらない。

 というわけでかれらの音楽は唯一無二、牛丼の汁が滲みた最後の一口のご飯のようなもの。いやこちらが食べているつもりで、実は私自身がメイヴィス・スティプルの魅惑の唇にすっぽりしゃぶられてしまっているのだった。ああ、そこ...... もうダメ....

 

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■ 大阪人権博物館 / 夏の夜の太鼓コンサート

 浪速区にある大阪人権博物館の中庭で夕刻よりかがり火を焚いて行われる毎夏恒例の催しを、昨年に続いて見てきました。

 今年は兵庫から親子で活動する太鼓衆「弾&豆弾」、香川からは「荊(イバラ)」、そして地元の「怒(イカリ)」の三組が出演。特にトリの「怒」は、皮なめしの被差別部落職能民として長い歴史をもつ浪速で結成され、海外公演のキャリアも豊富なセミ・プロの太鼓集団で、演奏も秀逸でした。かねてから韓国のサムルノリなどの打楽器芸能は好んで耳にしていたものの、日本の和太鼓を直接に生で聞いたのは昨年のこの催しがはじめてで、実に衝撃を受けたものです。

 腹に重く刺さる響き、全身の筋肉が躍動するような鉢さばき、緊張と陶酔、見ているこちらまでぐいぐいと引き込まれそうで、打楽器のリズムとは単純な構造だけに精神の最深部まで届くのではないか、と思われました。はじめは騒いでいた子供なども、いつの間にか魂を奪われたように森として見入っている。解釈も予備知識も要らない、まっすぐに腹の奥の魂を直撃するのだ。また時には、はるか縄文の祭りもこのようなものであったかも知れない、と火の粉の果ての暗い闇を見上げました。そして韓国の恨(ハン)にしろ、この日本の「怒」の演奏にしろ、故中上健次が言った「すべての芸能は差別から発生した」という意味深い言葉が改めて思い起こされました。

 

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■ OKI featuring Umeko Ando / HANKAPUY

 しばらく前にNHKの某番組で、トンコリというアイヌの伝統的な弦楽器との出会いによって自らの出自を再確認した旭川出身のあるアイヌ青年(といっても私と同じくらいの30代か)の模索が紹介されていました。そのミュージシャン・OKI氏が、奈良市の沖縄料理の店でライブを行うという記事を偶然新聞で目にして早速行って来たのです。

 30人ほどでいっぱいになってしまう狭い店内で、沖縄料理をつまみに泡盛のお湯割りをちびりちびりとやりながら見た演奏は、パーカッションに女性のボーカル二人を加え、語りやアイヌ語のレッスンを交え、終いには全員がアイヌのリズムを踊り、アイヌ語のリフで応じる、愉しいものでした。帰り際に置いてきたアンケート用紙に私は「アイヌの響きで、倭人の心が少し豊かになりました」と書いてきました。

 ここで紹介するのはその時に購入してきた彼の3枚目のアルバムです。タイトルのHANKAPUYとはライナーによれば「トンコリとそのリズムはずっと昔にカラフトアイヌによって創造されました。先祖はトンコリを生き物だと言います。だから共鳴のための穴はトンコリのへそといい、ヘソのことをハンカプィと言います / 人はふだんハンカプィのことを考えなくても生きていけるし、なくても平気かも知れない。しかしハンカプィがなかったらさみしいような気がします。私にとってアイヌ文化というのはヘソのようなものです」

 トンコリは素朴な楽器なので、単独で長丁場を持たせるには、現代のあくせくした私たちには辛いところかも知れません。そのためかこのCDでも、トカチコタンの語り部・安東ウメ子さんの歌を配し、パーカッションと、さらに何とRCファンにはお馴染みのあのSax海坊主(失礼!)梅津和時氏を迎えての多彩な演奏となっています。

 泡盛のお湯割りを啜りながら、私はつくづく彼が羨ましいと思いました。文化の名によってアイヌ民族を収奪してきた私たち・倭人には、いまや逆に彼のように還っていく場所がいったいあるのだろうか、と自問したのです。演奏の中で歌われた次のような歌詞が突き刺さります「先祖を忘れた者は、根のない樹のようなものだ」と。

*このCDについての問い合わせはこちらまでモChikar Studio/A-405,Nishino Danchi,Nishino 3-5,Sapporo 063-0033, Tel&Fax : 011-666-1968 / Tel : 090-3507-3497 / E-mail : chikar@tonkori.office.ne.jp またあまりマメに更新していないようですが、彼のホームページ / OKI'S WEB SITE “MAREWREW”もあります。

 

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■ Randy Newman / BAD LOVE

 ランディ・ニューマンの歌は一筋縄ではいかない。でも、彼の素朴なハートはまっすぐに入ってくる。若い女の肌に破滅するやくざな悪徳中年男、少女恐怖症の哀れな男、人生を嘘で塗り固めた会社人間の告白、辛辣な恋に絡められた男、ショウビジネスの罠、時にはカール・マルクスの霊と対話し、西欧の侵略の歴史を講義し、同時に雨の日のさみしいバラッドや別れた妻への切々たる歌もある。

 どれもどこにでもいそうな普通の人々の、悲しく滑稽な独白で、彼はその彼らを決して安易に批判するような描き方をしていない。それが逆に、どんな悪辣な人間や歪んだ人物でさえも心の奥底にさみしい気持ちと、人間らしく生きたいという望みを秘めていることが、じわじわと浮かんでしまうのだ。「私に分かるのは、私たちはみんな容赦のない国に住んでいるということだけ/そしてちょっと嘘をつくだけで、大きな心の安らぎを得られたりする」まるで様々な人物像を短編小説のように紡ぎながら、それらをひとつのつましく素朴な心の糸で織り合わせようとしているかのようだ。

 冒頭1曲目には、彼らしいノスタルジックな田舎のメロディに乗せて、一台のテレビを囲んで家族全員が団欒をしていたアメリカの古き良き光景が歌われる。「これが私の国/私がきちんと理解できる世界/まるで自分の手のひらのように熟知している風景」歌詞に合わせたスパイスの効いたアレンジもまた絶妙。実に11年ぶりの、いつものランディ・ニューマンからの変わらない素朴な贈り物。

 

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■ The Beach Boys / greatest hits

 音楽には人それぞれの「出会いの時期」というものがあるような気がします。いくらこれがいいぞいいぞ聴け聴かんかと強引に勧めてみても、その人の「出会いの時期」とマッチしていなければ暖簾に腕押し・馬の耳に念仏。かつて私はそのような場面を幾度か見てきました。

 正直告白して、私はいままでビーチボーイズというバンドを軽く見ていました。夏・サーフィン・下着、いや水着の女の子・車、そんなイメージでペロペロアイスキャンデーのようになめていました。

 しかし名作「ペット・サウンズ」を買ってから「ん。これはちょっと違うかな」と思い始め、ブライアン・ウィルソンの一連のソロ作で徐々に目を開かされ、今年の夏を目前にして私のビーチボーイズは一気に開花したのでした。いやあ、いいです、ビーチボーイズ。涙が出ます。Surfer Girl,In My Room,Disney Girl...

 何がいいのかはMr.Kのこの文章(省略)をぜひ読んで頂きたい。まったくこの通り。一言で言うなら、イノセンス。ビーチボーイズのベスト盤は、私も店頭で色々見たのだけど、イギリス編集のこのCDが内容も豊富で年代順にまんべんなく選ばれていて一番良いように思います。

 さあ今年の夏はこれでナンパするぞお、って違うか。

 

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■ Tom Waits / MULE VARIATIONS

 トム・ウェイツを初めてみたのはかのMTV華やかなりし頃、In The Neighborhoodのプロモーション・フィルムだった。アメリカのどこにでもあるような田舎町のストリートを得体の知れない行列が練り歩き、まるでフェリーニの映画のような、それは不思議な、それでいてどこか懐かしい郷愁的な風景だった。以来かれの存在は、私の心の大事な場所に居座っている。

 「BIG TIME」あたりから少々演出過剰な感じもしていたのだが、今回は実にベーシックな原点回帰、特に驚くほど素直なブルースへの愛着を吐露している。そして全16曲の楽曲の方も集大成的な彩り。In The Neighborhoodが古い樫の木のロッキン・チェアーなら、この新作は鋼(はがね)に支えられた21世紀のブルース集だろうか。いつになく、ストレートな哀愁感漂うバラッドもたくさんある。

 私が特に好きなのは、アルバムの最後を飾るCome On Up To The House「さあ、うちに来なよ。世界は俺の住処じゃない。おいらはただの通りすがり/人生が汚く残酷で短すぎると思うなら、うちに来な」

 独特のダミ声で歌われるかれの歌の位置とは、つまり世界のすべての片隅が世界の真ん中なのだ、という歌なのだと思う。実に6年ぶりのオリジナル・フル・アルパム、充実・渾身の一作、そしてリュックサックの中の擦り切れたロードマップ。

 

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■ Van Morrison / BACK ON TOP

 ずっと前から「ここに」いたのだ。それなのに彼の歌にはいつも、果てしなく長い旅をしてきたような匂いがつきまとう。Van Morrisonの音楽とはそのような音楽である。

 個々の曲目については言わない。聞けば分かる。ごくごくシンプルなサウンドに、極上のアレンジ(今回は特に粒の際だったピアノと、"すき間"のあるオルガンがよい)、そしていつもの極上のボーカル。大きなうねりのような音楽を感じる。

 心地よい風が吹き、なだらかな丘の上には可憐な草花さえ揺れている。だが土の下には太古の巨大な石造物が埋もれている。そのような風景を思った。

 

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■ ベーム指揮ウィーン・フィル / ブラームス交響曲第1番ハ短調

 年明け頃でありましたか、NHKテレビのETV40周年記念企画で「20世紀の名演奏」と題して三日間にわたり、過去日本に来日したクラッシックの名演奏家たちの貴重なフィルムを放映したものを録画しておいて、最近風邪をひいた折りにゆっくりと見ました。

 かつてFMラジオやレコードで聞いた巨匠たちの生映像。こいつはこんな禿頭だったのか、と関係ないことをぶつぶつ言いながら興味深く見ていたのですが(すいません、そのくせNHKの受信料はいまだ払っていないのです、あの放送終了時の日の丸と君が代が嫌いなので)、なかでも最終日に全曲通して放映された1975年3月17日・NHKホールでのこのベームとウィーン・フィルのブラームスは圧巻でした。

 ブラームスはもともとそれほど好きでもないのだけど、でもこれは最高だった。ああ、オーケストラの醍醐味というのはこれなんだなと今更ながらに実感させられました。

 まさに極上の時間。音を合わせるというのはまさに個を消し去ることで、それは響きの中で出現する恍惚とした忘我の瞬間であるけれども意識は明晰で、それらの音の束をカール・ベームという智慧の賢者たる道先案内人が神の御手に委ねる、そんな幻想を覚えた。そして、うまく言えませんが、タクトを振る老ベーム翁の姿を見ながら私は、人の精神というものに対して微かな希望を与えられたのでした。

 今度大阪へ行ったらCDを探して来よう、っと。

 

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■ 仲井戸"CHABO"麗市 / My R&R

 元RCサクセションのギタリストことわれらがチャボのソロ5作目。

 前作のGREAT SPIRITも最高だったけど、今回も実にいいんだよ、そこのきみ。ほんとうに涙が出てくる。こんな音楽に言葉はいらない。ああ、チャボの歌はいいなあ、いい年のとりかたをしてるなあ、浮き世の戯れ言の向こう側にある歌だなあ。

 'Good Day'や'サイクリング'の、縁側でお茶をすすりながら口ずさむしずかな肯定の歌(生きていくことを選んでいく僕たちは/若さだけではない美しさ いつか知るだろう)

 まるでマーシーが作ったような詩的な'ガルシアの風'(僕らはみんな自由の服に着替えて 冷たい川の水に足を投げ出す/やがて漆黒の夜が訪れたら/ぼくらは盗まれた星たちを取り返しにいく)

 かっこいいサラリーマン哀歌の'プリテンダー'(君のまるめた背中を遙かな星明かりが照らしている/今夜 口ずさむ歌はあるだろうか)

 ごちそうさまの'いいぜBaby'(月明かりを映した真夜中の海はいいぜ/この世のすべて受け入れてるかのようで/ああでも 今夜のおまえはそんなもの以上さ)

 そして大作の'My R&R'(どこでもないどこかからやって来たのなら/どこでもないどこかへ帰っていけばいいさ/ 覚えたことは自由であろうとすること/ことの始まりは例えばそれは俺なら/MISSISSIPPI DELTA BLUES...)

 いつも心に近しい音楽がある。自分の心にぴったりとする歌がいつもどこかで響いている。

「さあ 明日の子供たちよ 海へ 森へ 走れ/世界中のささやかな夕食のテーブルから/おいしいごちそうが消えてしまう その前に」(ガルシアの風)

 

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■ LONE JUSTICE / This World Is Not My Home

 はて、いまどきローン・ジャスティスの新譜?、と思ったら、企画編集もののベスト盤でした。しかし全17曲、初期の若々しい未発表曲や、ライブテイクなど盛りだくさんの内容なので思わず買いました。

 個人的な目玉は何と言ってもオクラいりになっていたボブ・ディラン作のGo Away Little Boy。ディラン自身とロン・ウッドがギターで参加していて、いかにもディラン節の軽快で楽しい曲です。他にゲストといえばヴェルヴェット・アンダーグランド/ルー・リードの名作Sweet JaneのライブでのカバーでU2のボノがボーカルでちょいと歌っている。

 CDの前半を飾る初期未発表曲はどれもかれらなりのアレンジで演奏された瑞々しいカントリー・ロックの風情で、このバンドがさまざまなアメリカ音楽のルーツに根ざしていた正統的な伝承者であったことが改めて知らされる。

 それにしても愛しのマリア・マッキーちゃん! いちどライブでお会いしたかった。Aといっしょに行っておけばよかったな。この企画ベスト盤でいまでもいちばん輝いているのは、やはり、デビュー・アルバムのはちきれんばかりの曲たちでした。これが俺の青春か、ってか。まだまだ若いもんには負けやせん。

 

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■ POMERIUM / A Musical Book Of Hours

 店頭で何気なく見つけて何気なく買ってみました。

 輸入盤のため詳細は分かりかねますが、デュ・ファイなどの中世ヨーロッパの主に宗教曲を集めた静謐なコレクションで、POMERIUMというのはどうやら声楽グループの名で、Alexander Blachlyという人が指揮をしています。一時期はやったグレゴリオ聖歌よりもうすこし洗練されたスタイルで、透明感あふれる音質は聞いていてとても心地よいです。

 炬燵でミカンなどむきながら、祈りを捧げましょう。

 

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