904. 和歌山・北山村 母方のルーツを遡行する

背中からの未来

 

 

■904. 和歌山・北山村 母方のルーツを遡行する

 


1923(大正12)年頃、16歳の祖母と弟妹たち。弟二人はニューギニアで戦死した。

  今日は朝から雨もあがってじきに快晴になったんで、ひさしぶりに自転車で飛鳥あたりまで走ってこようかなと思っていたのだけれど、風呂場で死んだ伯父が残 していった古いアルバムや手紙の類が満載された箱を整理していたら母方の両親に関わる除籍謄本を見つけちゃってさ、それからまる一日、気分は百年ほどタイ ムトリップ。エクセルで家系図までつくり出しちゃったよ。

わたしの母の両親は共に和歌山県の飛び地の村・北山村の出身。母の父方の祖父、 明治6年生まれの中瀬古為三郎は筏方の総代を経て明治40年には村の筏方組合長になった。明治44年に大逆事件で新宮がゆれていた頃には38歳で脂の乗り 切った頃。当時の筏師は木材を筏に組んで運んだ新宮で散財して財を残さなかったというから、ひょっとしたら大石誠之助や高木顕明らと知り合っていたかも知 れないというのが目下のわたしの最大の浪漫だ。併せてこの謄本をきっかけにした母親との電話会議で、母方の祖母の弟二人が北山村から満州へ出かけて最後に は餓死したという話も判明した。その弟二人はわたしの手元に残された黄ばんだアルバムの中でほほ笑んでいる。また村史によると北山村の中瀬古家は幕末には 大台ケ原の山伏の宿をしていたという記録もあり、山伏自身が土着した例も多かったとか。

母親もことしで82才。最後にもういちど、北山村に連れて行ってやりたいと考えているんで、もう少しいろいろと調べてみるよ。おれのルーツの半分でもあるからね。

◆ 北山川観光筏下り > 筏トリビア
https://www.vill.kitayama.wakayama.jp/.../ikada/rekishi.html
2021.9.9

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  わたしの母方の祖母は戦争中、疎開先の故郷・北山村での肉体労働などもたたって結核になり、戦後の昭和25年に42歳で亡くなった。母は12歳だった。結 核になる前、母は祖母と弟と三人で疎開して、北山村の小学校に数年通った。すでに夫が他界していた祖母の母親もいっしょの生活だった。のちに弟は母親から 結核をうつされて昭和30年頃に亡くなった。ドイツ語が堪能だったという共産党員の祖父は日本通運の墨田川支店に勤めていて、戦後は東京足立区の千住で子 どもたちを呼びよせて暮らしていた。東京と和歌山の北山村、夫婦の間で交わされた手紙がいくつか残っている。祖母が死んだときには祖父だけが北山村へ行っ て葬式の段取りをして帰った。祖母の布団を焼いたこと、村の大工に棺桶(座棺)を注文したことなどが当時の手帳に記されている。娘の死を看取った曽祖母は 北山村の家に一人で住み続け、49日のときには墓に「おにぎりと海苔とお菓子と熱いお茶を供えたから安心してください」と祖父に書き送っている。曽祖母の 手紙はたいてい誰かの代筆で、わずかに残っている自筆の手紙は平仮名とカタカナだけのたどたどしい文字だ。でも、とても情の深いひとだったのだろうと思 う。そういった手紙などを半日めくっていたら、下地 勇のこんな曲をひさしぶりに聴きたくなった。人が生きるのに難しい理屈なんかいらないんだよ。ほんとうに大切なものは、わずかなものだけ。病気や思わぬ事 故や寿命でもたらされる平凡な人の生き死にすらも、あふれんばかりの感情で満ち溢れている。けれど国家による暴力は、それをもっと残酷に寸断する。この国 のすみずみに建つ無数の軍人墓や慰霊碑やあるいはいまだ浮かばれぬ笹の墓標たちはいまも激しく屹立している。なぜつつましく平凡に生きられなかったのか と、なぜ愛する人ともっとたくさんの手紙や言葉をかわせなかったのかと、顫えながら屹立している。
2021.9.10

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  相変わらず明治の除籍謄本をさまよっている。中京大学郷土研究会が1977(昭和52)年に北山村の民俗全般を調査した貴重な報告書。この巻末に、昭和初 期に筏師の仕事に加わった人の聞き取りが載っている。この17才の竹本武千代さんが弟子入りしたのが、わたしの祖母の父親の久保八十次郎が支配人をしてい た久保組。かっこいいね〜 次いでp161に出てくる中瀬古英雄はわたしの祖父の兄。かれも筏方組合長だった父・為三郎を次いで筏師の総代をしていたらし い。そして驚いたのが最後のp163、「大正の筏師が郷土北山川での流筏のみならず遠く明治時代から朝鮮に渡り鴨緑江流筏の先駆者・川辺熊太郎(故人)以 来云々」の熊太郎は、なんとわが曽祖父・為三郎の妻・たつの兄で、婚姻届けをこの熊太郎が提出していたために手元の除籍謄本に名前が記されている。山中湖 の手漕ぎボートですらきっちり船酔いするわたしの先祖は、じつに激流の難所を命懸けで渡って行った日本でも屈指の筏流し集団の中核であった。これは俄然、 おもしろくなってきたぞ。
2021.9.11

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  「満州で餓死」と母が記憶していた祖母の二人の弟は、満州ではなく「海軍兵士としてニューギニアで戦死」だった(「北山村史」の戦没者名簿による)。昭和 19年末頃のニューギニア・サルミの付近は飢えとマラリアにより倒れていった日本軍兵士の白骨がならび、人肉事件も多発したという。まさに餓鬼道。二人の 弟は修羅の死に際に母を思い、姉を思い、北山のなつかしい風景を思っただろうか。
2021.9.16

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 台風せまる夜半。北山村の谷深く奥山にいまも残るという木地師の墓を訪ねたいと山岳地図をたどっている。<葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり>釈迢空
2021.9.17

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 北山村史によると、山深い北山村には「相当古い時代から多くの木地師が住みついた」という。山 窩、木地師、炭焼き、竹細工、蓑直し、山から山へと移り住む一所不在のかれら山民はアンチ平地人の憧憬である。北山村史4章5節「木地師の里」に村内の木 地師の遺跡を落とした地図がある。そのほとんどは人が容易に立ち入り難い深山の谷間で、そこに住居の痕跡や、焼畑農耕の跡、墓石などが残されていると伝え る。いまではもう獣の他は参ることのないその墓石を訪ねたいと思って、山岳地図をひらいてみた。幸い大峰奥駆道の南端といえる北山村周辺は「玉置山・瀞八 丁」(昭文社)にかろうじて含まれる。

  わたしもかつて縦走したことがある弥山(1895m)、八経ヶ岳(1915m)、釈迦ヶ岳(1799m)などの重畳たる峰々を経て、地蔵岳(1462m) から笠捨山(1076m)まで下りくれば、やがて北山村内の谷筋に至る。169号線から出合川を遡上すれば蛇崩山(1172m)と笠捨山に抱かれるような 源流に元禄6年の墓石が残るという八丁河原である。「ここは、北に笠捨山、東に茶臼山、南に蛇崩(だぐえ)など千二、三百メートルの高峰が三方を囲み、さ らに出合川は、西の峯と蛇 崩の山間を蛇行南流して、人も通れぬ嶮しい渓谷となっている」(北山村史)。またおなじ169号線から四ノ川を遡上すれば、やはり峰々に閉ざされた渓流の 奥に、元禄・享保などの氏子駆帳に「紀州室郡四ノ川山」と記された多数の木地屋が生活していた痕跡を残す細谷へ至る。

 惟喬(これたか)親王を祖とする由 緒書を持つ木地師には四つの戒律があったという。「一、木地師は尊い身分であるから他の職業に転業してはならない。 二、この戒律を守るため他の業種の者 と婚姻してはならない。 三、一定の場所に長く停留してはならない。 四、家は掘立小屋とし、礎石、台木の類は使用しない」 人跡絶えた深山で木を伐り、 轆轤を回し、つくった椀を里で売り、山の木が減れば他の山へと移っていく。墓はいわばもどることのない捨て墓である。

 FBで知り合った地元の平野さんから、出 合川にいまも残る渓流沿いの小路は朝鮮人の徴用工を使ってできたもので、トロッコの軌道跡もあるとある日、おしえられた。竹内康人氏がまとめた「戦時朝鮮 人強制労働調査資料集」(神戸学生青年センター出版部)を見ると、これまで見過ごしていたが「大勝鉱山」の名が北山村付近の地図上にぽつんと落ちている。 これは四ノ川の方で、Webで検索をするといまでも坑道内で採取した鉱石(コバルト華)がネット・オークションなどで取引されているらしい。拡大鏡を手に山岳地図をたどれば、たしかに四ノ川沿いに「コバルト廃坑」「銅廃坑」の記載がある。「戦 時朝鮮人強制労働調査資料集」の「勝山鉱山」の参考文献として「百萬人の身世打鈴 : 朝鮮人強制連行・強制労働の「恨」」(東方出版)があげられていた。手元にあって、まだ拾い読み程度しかしていなかった、たくさんの強制連行された朝鮮人 の人々の証言が盛り込まれた大部(650頁)の本だ。

 丹念にページをめくっていくと、該当者が二人ほどいた。金文善(キム・ムンソン・1926年生まれ・忠清北道出身)の部分を長いがそのまま引用する。前後の文脈から1944(昭和19)年頃のことと思われる。

 ・・ 父はわたしを捜しに大阪方面に出立していました。隣の山さんはわたしにここで働きながら待つように忠告しました。もっともなことと、わたしは父の友人が いる鉱山で働くことにしました。そこは和歌山県にある鉱山で、500メートル程の隣村が奈良県になり、北山川を挟んで三重県になる山奥の、そのまた山奥に ありました。5月の終わり頃でしたが、午前に出発した木炭バスを終点で降り、そこから北山村にたどり着いたとき、日はとっぷりと暮れ、夕闇が迫っていまし た。鉱山事務所を訪ねて、働く意思を伝えると、すぐに了承してくれました。

  その鉱山は大勝コバルト鉱山(注――この鉱山は確認できない)と呼ばれ、海軍省の管理鉱山でした。コバルトは日本では産出されていなかった貴重な鉱物で、 戦時中ここが唯一発見された鉱山でした。コバルトが海軍の高度な兵器生産に欠かせない希少金属だからこそ、海軍省は狂喜して多大な期待を寄せていたのです が、それにしては施設があまりにもお粗末でした。鉱石運搬はリヤカーだし、杣道、吊り橋もそのままで、とても大量生産に対応できるとは思えませんでした。 わたしが入坑した頃は食料を含め、配給物資は潤沢でした。何しろ飯場では、一人に対して5,6人分の配給登録をしていたのです。だから、一人の配給米を二 合とすれば、一升になる。いくらなんでも一日一升飯は食えません。あまった分は各自の飯場でドブロクにしました。この幽霊登録を後に鉱山長が独占したた め、鉱山長糾弾のストライキが敢行されました。

  わたしが手首をなくしたのは、1944年の盛夏、7月20日のことです。作業は山道拡幅工事でした。先輩二人とわたしの三人の仕事で、わたしはまだ発破に 慣れていませんでした。三発仕掛けた発破は二発が鳴り、残りの一発が鳴りません。先輩二人はのんびりと構え、座り込んでダベッてました。

 経験豊かな先輩は三発目は、導火線の具合で即発しないけれど、今少しすれば発破するか、あるいは不発になるか、時間を計っていたのです。慣れないわたしはそれとは知らず様子を見に行き、不発のダイナマイトを手にして、目を近づけたその瞬間、爆発。

  見えない目であたりを見ると、血のように真っ赤に見える。近視の眼鏡が飛び散り、目がやられていたのです。左手が激しく震えているのに気づきました。手首 がないのです。途端に全身の力が抜けてその場に座り込みました。二人の先輩はすぐ異変に気づいたのですが、動転してなすすべを知らない。そのとき手ぬぐい がわたしの首にぶら下がっていたので、それで腕を縛るように頼みました。本能的に出血死を怖れたのです。

  現場から村まで5キロ程ありました。二人はわたしを中に両手を肩にかけさせて山道を降りはじめました。二人は親方とその子方で、わたしが未成年だったため に、事故の責任はその二人にかかります。村に降りる途中、その親方は、「おまえの面倒は一生見るから、おれの名前は絶対に口外しないでくれ」と哀願しまし た。子方は親方の責任を被って、その日のうちに姿をくらましてしまいました。

  ようやく村に着いたところ、村医者の所在が分からず、鉱山事務所からせしめた酒を駐在と飲んでいるところを捕まえて、応急の手術になりました。翌朝、出発 前に麻酔を打たれ、十時間かけて新宮に出ました。入院先は専門違いの産婦人科病院でした。この病院長が鉱山の株主で、警察への事故報告をなしにするためで した。村の駐在も本署に報告しませんでした。わたしの労働災害は闇から闇に葬られたのです。

  入院すると、院長は左の上膊部から切断するというので、わたしは断固拒否しました。この拒否のお陰で後年大いに助かったのです。東京山谷の日雇い仕事のと き、セメントの手練りや片付けの仕事になくてはならぬ腕となりました。とかく、ヤブ医者程切りたがるものです。十日程は苦痛の連続でした。幸いだったのは 眼鏡のレンズの破片が、目に入っていないことでした。

 もう一人は金圭洙(キムギュズ・1924年生まれ・慶尚南道釜山市出身)。こちらは部分抜粋で、これも1944(昭和19)年頃のことと思われる。

  親父は時分の知っている北山村というところに石原という人がいて、その人が東牟婁郡北山村で飯場を持っているから、そこへ行けというのです。北山村は三重 県と奈良県と和歌山県の県境にあるんです。その奥にコバルトを掘る鉱山(注――住友宝鉱山)があったんです。そこは海軍省指定の鉱山ですから、「そこへ入 れば、徴用も学徒動員もないんだから、そこへ行け」と、勧められたんです。
 それで二十歳のときに、そこへ行ったってわけですヨ。そこには飯場が十何ヵ所もあるんです。でも、そこにいた人はほとんどが朝鮮人でした。徴用とか、募集とか、いろいろの人たちでした。ところが監督する人々、つまり要所々々を締める人たちは皆日本人ですよ。
  わたしは旧制中学校を出ているし、石原さんの紹介ということもあるので、一つの飯場の責任を持つ役割、つまり主任じゃないけど、主任みたいな立場で働くよ うになったんです。わたしの下には三人の女性事務員がいました。ですから、強制連行された人々よりも少々身分が高かったんです。わたしは「天皇の赤子な り」という、コチコチに凝り固まった人間になっていったんですね。

 この金 圭洙氏は鉱山の現場で、徴用工向けの物資を割り当てる「産業報国会」が新宮で配給品をピンハネしているようだという話に頭にきて、朝鮮人全員によるストラ イキを盾に鉱山長と直談判したことによって後日に、亡くなった父親の仏壇を買いに行った勝浦の旅館から警察に連行され、三日目に新宮署へ移送された。

   ・・父の死後、生活をどうするか。わたしの飯場近くに引っ越すことから考えました。母親と二人の妹の四人で、北山村の近くにある大沼の町役場へ行き、交 渉して北山村近くの下笈村に一軒家を借りました。そこに三人を住まわせて、わたし自身はまた北山のコバルト鉱山現場へ帰ったのでした。

 ・・わたしは毎日拷問にかけられました。その理由はコバルト鉱山で事件の首謀者だと見なされたわけなんです。「他にも首謀者がいるだろう?」 「それは誰だ?」というわけです。「一緒にはかりごとをしたメンバーの名前を全部言え!」
 それが1945年8月2日だったんです。わたしは誰一人の名前も出さなかった ・・・ところが、真夜中に叩き起こされて、竹刀でバンバン殴られるんですよ。8月2日まで十日間も殴りつけられたんですね。
 おれは天皇陛下の赤子として働きその命令に従って来たのに、このおれをこんなにまで無茶苦茶にするのか、よし、分かった。と、そのとき初めて日本のことがよく認識できたんです。
 ソ連が参戦したのはその頃でしたかね。特高警察の人が教えてくれたんです、「ロシアが参戦した」って。そして、「おまえはこんなところでボソボソしてたらあかん。ここを出ろ!」と、釈放してくれたんです。それは8月14日のことでした。
 私は下笈村の母の家へ帰ったんです。そしたら村人たちは「ここは国賊の家や」といって、うちは村八分にされてね。妹らがワンワン泣くんですね。その時初めて「おれの人生って、一体なんだったんだろう」と思い、「やはり宋君の言ったことが正しかったな」と確信したんです。
  その翌日、つまり8月15日に召集令状が来ました。「新潟の何部隊に8月16日に入隊しろ」というものでした。わたしは「計られたな」と、直感しました。 ほんで8月15日に新潟に行く準備をしているとき、ラジオで重要な発表があるというんですね。 ・・・ところが山奥のラジオはガアガアいうだけで、天皇が 何をしゃべっているか全然聞き取れないんですよ。でも、戦争が終わったということは分かったんです。
 それでここにいたら日本人に何をされるか分かんあいと、一刻も早く荷物を包んで逃げようと、一家全員で山を下りたんです。それで勝浦へ行きました。叔父さんは一人して下関へ行き、祖国に向かいました。下関は祖国へ帰る人々でごった返していたそうです。
 ちょうどそんな頃、宋君から連絡が入りました。「今、下関に来るなよ、しばらく和歌山で待っておれ」とね。それで和歌山におることにしたんです。そのまま和歌山にずっとおるんです。(現在、金圭洙氏は和歌山県田辺市で大きな焼き肉店を経営している)


 当然のことながら、こうした歴史はこの国の公式な記録としては何も残されていない。北山村史には朝鮮人の徴用工に関する記述はなにひとつない。かつて金 文善がみずからの手首とひきかえに拡幅した鉱山へ至る山道は、いまは「木馬道」とか「トロッコ道」とか言われて、ときどき懐古的に語られるだけだ。いや、 それすらも忘れられつつある。戦時中、兵器製造に必要な希少鉱物であるコバルトを採取するために、平家の落ち武者の村とも、木地師の里とも呼ばれる山深い 村の山中の谷筋に、多くの飯場が軒をつらね、たくさんの朝鮮人の労働者たちが危険な作業に従事させられていた。金 文善は手首だけで済んだが、命を失くした者もいたのではないか。その者はどこへ葬られたのだろうか。わずかな骨片だけが無縁の骨壇の暗がりに放り込まれた か。昭和19年前後といえば、わたしの母が祖母と共に東京の空襲を逃れて疎開してきたその頃だ。それほど遠い話でもない。けれども歴史の波に翻弄されつつ も、必死に生きたかれらの記憶はこの村では抹殺されている。

 ふと思いついて、村史にあった木地師の遺跡と、コバルト鉱山の場所をグーグ ルの地形図に落としてみた。人里から隔たった深い山中で貴種譚の由緒を伝えた山の民と、異国の地で歴史の波に翻弄されてやがて忘れ去られた労働者のため息 と、両者の場所は奇妙に重なる。わたしはその場所、いつかをひっそりと訪ねてみたいと思った。そこで、かれらの吐いた息を呼吸してみたい。

◆下尾井大勝鉱山
http://blog.livedoor.jp/hami_orz/archives/52369504.html

◆春の巡検 大勝鉱山を探せ
http://c58224.livedoor.blog/archives/1834418.html

◆立合川大滝(吉野 熊野)
https://taki-sawa-unexplored.com/%E8%BF%91%E7%95%BF%E3%81%AE%E6%BB%9D/%E7%AB%8B%E4%BC%9A%E5%B7%9D%E5%A4%A7%E6%BB%9D%EF%BD%9E%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%BB%9D/
2021.9.20

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(9月25日 22:20  · 和歌山県北山村下尾井 おくとろ道の駅)
 さすがに前鬼のあたりは霧がもののけのように地面をはっていた。ネズミより大きく鹿より小さいものを轢きそうになった。ずっと土砂降りの山道を三時間半。車中泊の旅、始まる。百年前の先祖の地から。

(9月26日 7:06 ・北山村神護)
  北山川の難所、太古にマグマの熱により焼締めされた地層を川の流れがV地に削り取った「オトノセ(音乗)」を見下ろして立つ「音乗新水途開墾 祈念碑」。 曾祖父の「中瀬古為三郎」、為三郎の妻の兄で明治の世に筏師70名を引き連れて朝鮮・鴨緑江まで出稼ぎに行った「川邊熊太郎」の名が刻まれる。

(9月26日 9:34 ・熊野川町請川)
  土砂降りの北山村を逃れて(笑) 本宮大社近く、請川の成石兄弟の墓を訪ねた。「明治政府 架空の大逆事件」 「無告の幽魂を弔う」等と刻まれた碑の前 で、しばし瞑目する。おまへは、明確な抵抗の意志を内蔵してゐるか。橋向かいの筌川神社へ立ち寄る。雑草が墓標のように立つさびれた社殿。鳥居の横の斜め に切り取られた灯篭は大逆のからみかとも邪推する。筌とは竹細工の漁具をいう。竹もまた賎視されたものたちの職能である。雨もやんできた。

(9月26日 11:57 ・熊野川町宮井)
  大台からの北山川と十津川からの熊野川が合流する熊野川町宮井に残る、こちらも「大逆の徒」高木顕明が布教に訪れた松沢炭鉱跡。昭和38年の閉山だが石積 みや道、建物の土台など、結構かつての炭鉱夫たちの暮らしの痕跡が残っていて興奮した。ほとんどは廃屋だが奥に一軒だけ、軒につるした鳥籠に文鳥を飼って いるおじいさんがいた。炭鉱へ向かう山手の斜面には蜜蜂の巣箱が竿石のように並んでいる。いったんやみかけていた雨がまたひどくなってきたので、山道の途 中で引き返した。狭い谷筋にかつては建物がぎっしり並び、人々の汗と熱気がこもっていたろうこの路地々々を、顕明もまたあるいたのだと思うとじつに感慨深 い。かれはここから山形の監獄へつながれ、そこで自死したわけだが、もし無告の幽魂というものがあるのなら、このなつかしい炭鉱跡もふらふらと帰ってきて いるだろう。

(9月26日 12:18  · 熊野川町宮井 「黎明」)
 いちおう煮炊きもできるよ う、マナスルストーブや米や簡単な調味料も持ってきてるのだけど、こう土砂降りじゃとても無理です。昼は悩んだのだけど、「昭和のラーメン」に誘われまし た。餃子がやけにちっちゃく、ラーメンも具がさみしい限りだけど、あっさりめのスープはなかなかわたし好みだったよ。成石兄弟の墓の近く。

(9月26日 19:16  · 北山村大沼)
 北 山川を見下ろす墓地をめぐり、ひっそりと死んだような集落をめぐる。百年前のひとびとはにぎやかにそちこちに出没する生きていたころとおなじようなしぐさ で。ニューギニアで死んだ廉平と守、娘の最後を看取ったはん婆さん、結核で故郷の墓に座棺で埋められた祖母。あなたたちの仕合わせだった頃の写真だとスマ ホの画面を墓に見せた。ほそい石段をあがっていくと人様の敷地だった。どこへ行くんだね、と縁側から覗いた老婆が訊ねた。戦時中に母が祖母と疎開して暮ら していたあの家にいきたいんですと答えると、老婆はうれしそうに、行きなさい、行きなさい、ここを通って行ったらいい、とうなずいた。そうして集落と青い 北山川を見下ろす小さな平屋のベランダのような前庭に長いことたたずんでいた。みんなが仕合わせだった頃、悲しかった頃。それらを考えながら集落を見下ろ し、ふいとうしろを振り向くと祖母を看病するはん婆さんが笑っているような気がして、ねえ、はんさん、と思わず言いかけた。ほんとうにひとびとは、いまも この山あいの集落のそちこちを笑ったりうつむいたりしながらにぎやかに動き回っているそんな気がしてならない。
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(9月26日 19:55  · 北山村下尾井 おくとろ温泉)
  先祖の地の写真をLINEでいろいろ送っていたら70年前に疎開していた母が、二日も続けて車の中で寝るな、一泊プレゼントするから宿に泊まれとしつこく 言ってくるので、おくとろ温泉のカウンターで訊いてみると、バンガロー一棟貸しなら当日でも対応可能と言うので、それでお願いした。素泊まりで1万円。お くとろ温泉のレストランで唐揚げ定食の夕飯を済まし、夜の山影を見ながら露天風呂に浸かり、もうすっかり旅行気分ですわ。売店でつまみと缶ビール、太平洋 の小瓶を買って、バンガローってずいぶん離れたところにあるんだな。利用者はほかにだれもいなくて、ちょっとさみしいぞ。布団はまだあるから、だれか来な い?

(9月27日 14:00  · 北山村四ノ川上流)
 そこは谷筋をいくつも重ねた人跡も絶えたさ みしい場所だった。谷と谷が合流する流れの激しい場所をいくどかすぎて、水が生来のたおやかさをたもっている場所だった。長いことその峪に座して、はじめ に浮かんできたのは、「この流れを下っていけば里があり交わりがありゆたかさがある。けれどわたしはこの流れをひとり遡上していく」ということばだった。 このあたりには古き木地師たちの遺跡があちらの谷こちらの山間に眠っているはずだった。それから時間がゆったりとすぎていった。しずかな流れの上に木の間 からいちまいの葉がひらひらと落ちた。水はちいさな石によって無数の文様を描いた。対岸の苔むした岩場にその水のながれを反射した陽がゆらゆらと映えた。 そのすべてがここではうつくしく、思わずなみだが出そうになった。気がつけばわたしはいくどか眠っていたらしい。おぼえていないが、うつくしい夢を見たよ うな心地がする。この流れを下っていけば里があり交わりがありゆたかさがある。けれどわたしはこの流れをひとり遡上していく。

(9月27日 15:23  · 北山村四ノ川上流)
 北山村四ノ川上流。かつての鉱山跡を求めて熊出没の看板が立つ人跡途絶えた源流の林道で、人生初のタイヤ交換。さあ、タイヤ交換が先か、熊に食われるのが先か。

(9月28日 20:00  · 和歌山県 新宮市  · 速玉大社 西村伊作記念館)
新 宮。速玉大社境内の忠魂碑を見に行った。だいぶ奥まったところにあって、いままで気がつかなかった。日清日露の戦勝を祝って地元有志と仏教界により建てら れた。唯一、これに反対した高木顕明はますます地元からはじかれた。かつては何か勇ましい文字が刻まれていたのだろう銅板の大部は消されている。そのまま 残しておくべきだったな。そして顕明一人が反対したこと、熱狂的に賛成して顕明をつまはじきにした連中の名前もしっかり刻んでおくべきだ。

も うひとつの新宮は、これもはじめて訪ねた西村伊作記念館。大石誠之助の甥っ子である。かれが家族のために設計したマイホームを保存・展示しているが、建て られたのは大正3年なので、誠之助はすでに刑場の露となっていた。見たかったろうな。じつにすばらしいわが家で、家具を含めてすべて新宮の大工たちが伊作 の設計をもとにこしらえて、のちに東京の家を建てたときも新宮から大工を呼び寄せたらしい。このステキな建築や伊作については記念館のサイトなどを見ても らうとして、わたしが注目したのは飾られていた熊野川河口の貯木場の絵。まさに長い旅をしてきた筏の終着場の光景を西村伊作が描いている。そういえば山林 王であったかれの実家は下北山なのだ。そこに伊作のおばあさんの家がまだ残っていて、また伊作や林業、筏流しに関する資料館があると聞いたことがあると祈 念館の女性がおしえてくれた。そうだ、伊作と北山村の筏師の線もあった。しかもその上桑原は筏師組合長をしていたわが曾祖父・中瀬古為三郎が若干40代で 亡くなった地でもある(除籍謄本に記載されている)。これは行かなくてはと、あわててオークワ新宮店で中上健次愛飲の清酒・太平洋を二瓶買い込んで車に乗 り込み、念のためにと上桑原にある下北山村歴史民俗資料館に電話をしてみたところ、村の教育委員会が出て、資料館は現在、毎週木曜日の午後1時から4時ま でのみの開館という。伊作の祖母の家はまだ残っていて、西村山林という会社が所有しているので、事務所に言えば見せてもらえるだろうとのことであった。ま た次の機会か。伊作と筏師の件はもうすこし調べてみたい。伊作自身が何か書き残しているものはないだろうか。

その後、たまたま見つけた、かつての中上の「路地」、春日の番地を見つけて、ニコイチ住宅の並ぶそのあたりをうろついていたら雨が降ってきたので、新宮を離れることにしたのだった。あ、川口さんが教えてくれた大逆事件の記念碑、見に行くの忘れた!

(9月29日 9:00  · 北山村役場)
最 終日の朝は北山村役場に立ち寄った。262世帯、426人の小さな所帯(2020年統計)だが合併もせずに、じゃばらと筏で独立を守っている村だ。えーっ と総務課、住民福祉課・・ 教育委員会はどこだろうかなぞと入口で考えていると、わたしと同世代くらいの女性の職員さんが「なにか?」と声をかけてくれ た。
「北山のむかしのことを調べているんですが」
「どんなことですか?」
「主には二点です。ひとつは明治・大正期の筏流しについて。もうひとつは戦時中に四ノ川にあったコバルト鉱山について、です」
し ばらくして一人の年配の男性職員に引き継いでくれて、二階の部屋に案内してくれた。わたしはじぶんのルーツの話、とくに明治40年に筏師の組合長だった曽 祖父・中瀬古為三郎について、朝鮮へ筏師を引き連れて出稼ぎに行った為三郎の義兄の川邉熊太郎について、そして戦時中にコバルト鉱山でじっさいに働いてい た朝鮮人労働者の証言などについて説明した。
しかし残念ながら和歌山市の文書館の方が危惧していたとおり、2011年の紀伊半島大水害に於いて、北山村の古文書等を含む資料や村史の在庫などを保管していた旧小学校が水没して貴重な資料はすべて水に浸かってしまったのだった。
「それはもう、乾かして何とかなるとかいうレベルじゃなくて?」
「はい。もうどうにもならなくて、ぜんぶ廃棄されました」
そんな話をしていたら、暑いのに黒の背広を着たちょっとくたびれたジョンリーフッカーのような老人が前の廊下を通りかかったのを職員氏が呼び止めて部屋に招き入れた。
あ とで名刺を頂戴したが、久保姓のジョンリーは村議会の議長であった。ひとしきりわたしの説明を聞いて「なんだ、あんたはそうするとわしの家系にもつながっ てるのか」「そうかも知れませんね」 前の日に立ち話をしたおばちゃんも久保だった。久保がたくさん、みんなだれかとつながっている。
村議会議 長・久保ジョンリーの父親はもともと薬局をしていて、当時、村で唯一のカメラを持っていてじぶんで現像をしていたという。「それで、その写真は」思わず身 を乗り出したわたしに、ジョンリーは「ああ。北山村のあれこれを撮った写真やネガが古い箱にたくさんあって〇〇の畑に置いていたんだがな、わしも数年前に あの世へ行きかけて、戻ってきたんだが、それから終活をしなくてはと思ってつい一年ほど前だ、ぜんぶ焼いてしまった」
ジョンリーは若い頃に北山村を出て都会へ働きに行って、歳をとってから実家へもどってきたので「そういうわけで、わしは北山村に思い入れがもともとないんだよ」 ・・ジョンリー、それでもあんたはいま村議会議長じゃないのか。
い くつか村の風景を撮った写真が区民センターに飾っているというので、見せてもらうことになった。ジョンリーは悲しいブルーズを歌って「わしはこれから法務 局へ行かんといけないので、すまんな」と名刺を置いて出て行った。職員氏が携帯でどこかへ電話して喋っている。「あ、ナカさんかい。すまんね、ちょっと区 民センターに飾ってる写真を見たいという人が来てるんで、鍵を開けておいてもらえるかな」
階下へ降りるとさいしょにわたしに声をかけてくれた女性 の職員氏がいた。「そういえば、この人も川辺さんですよ」と言われ、「先祖に熊太郎さんとか、いませんか?」 なかば冗談めかして言ったのだが、「はい。 わたしの曽おじいさんです」 ストレートど真ん中が返ってきて、わたしは思わず「マジですか!」と叫んでいた。わたしは手元の作成中エクセル家系図を取り 出して「わたしの曽祖父で筏の組合長だった中瀬古為三郎の妻が川邉たつさん。たつさんのお兄さんが熊太郎です」と説明した。相手の女性もとても喜んでくれ て立ち話をして盛り上がったのだが、とりあえずメールアドレスを交換して、あとはメールでやりとりしましょうということになった。熊太郎の写真が残ってい ないか探してみてくれるという。
区民センターは歩いて1分。玄関をあがったすぐの壁に引き延ばしたモノクロの写真がならべてあるが、どれも昭和 20年代30年代の戦後のものだ。青年会の集合写真、旅芸人を招いての時代物の舞台風景、昭和28年テス台風の水害、小学4年生の久保ジョンリーが写った 小学校の写真、ダムができる前の河原での運動会、おそらく最後の頃だろう観光でない筏流しの風景等々。写真を撮らせてもらった。
区民センターから の帰りしなに職員氏が、一時期村長を務めた祖母の父親・久保八十次郎について「村長をやったのだったら、議場に写真があるんじゃないかな」と二階の奥の部 屋へ招いてくれた。教室ほどの大きさの議場で、正面の上壇に右から初代を皮切りに過去の村長たちの写真が額に入れて飾られている。久保八十次郎は第11代 の北山村村長である。八十次郎も筏方の総代で「久保組」を名乗っていた。はじめての対面である。
その後、役場の玄関前で出会ったもう少し若い職員 氏に話をしてくれて、かつてNPO法人が村おこしの一環で活動をしていたときに収集した古い写真のなかに、たしか朝鮮へ出稼ぎに行く直前に撮った記念写真 があったはずだが、とPC内のデータを探してくれた。写真のデータが見つかった。ロープを丸くくくりつけた櫂を手にすっくと立つ若者二人のセピア色の写 真。「大正7年 渡鮮祈念」の裏書が添えられている。コピーを頂いた。
最後にもとの部屋に戻って、職員氏がコバルト鉱山跡へ行く道をおしえてくれ た。この人は村史のからみで木地師の墓の残る立会川上流の八丁河原も行ったことがあるという。林道雨谷線から入って途中まで車で、あとは歩きの杣道があっ たという。「でも最近は山に入る人がいなくなって、道も残っているかどうか」
コバルト鉱山跡については、わたしが目星をつけていた途中から川へ下 る鉄の階段は後世のものでもうすこし先に、林道からは若干見えにくいが吊り橋があってそれで対岸へ渡り、そこから山道を30〜40分ほど登ると廃坑跡があ り、砂利を積んだコンテナのようなものも残っているという。その先の川筋でわたしが見つけた対岸の石積みなども、おそらく飯場などの遺跡ではないかとい う。そして説明につかった詳細な「北山村管内図」を差し上げますんでと呉れた。
9時間もなくに訪ねて、役場を出るときはもう昼に近かった。たくさ んの人が親切丁寧に対応してくださって、収穫は予想以上だった。役場を出る時にはかの熊太郎の曽孫の職員氏は姿が見えなかった。ほんのすこし、日にちや時 間がずれていたら会うこともなかっただろう。これも運命の赤い糸か。帰宅してからメールが届いていた。
「本日はお訪ねいただきありがとうございました。
曾祖父さんと繋がっている人と会えたことにびっくりしていますしものすごく嬉しかったです。
川辺熊太郎の写真を探さないといけないので、申し訳ございませんが少し時間を下さい。
宜しくお願い致します。」

過去を遡上するとぼんやりと見えてくる未来のかたちってあるよね。

(9月29日 13:51  · 奈良県下北山村上桑原)
 下北山村上桑原に残る、西村伊作の実家と墓。実家は現在は西村山林の営業所として使われている。伊作の墓のことを教えてくれた男性は地元の人で、祖父が筏師として満州へ働きに行ったという。

2021.9.30

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 11 日 12:35 吉野、川上村、上北山、下北山の山あいを抜けて北山村に隣接する瀞峡に着く。住所としては奈良県吉野郡十津川村神下だ。北山の中瀬古から 十津川へ嫁いだおばあちゃんがいたが、北山と十津川が如何に近いかが分かる。「瀞ホテル」は大正6年の創業で、当時は「あづまや」という名で筏師の宿で あった。北山川の筏師たちがここを中継地点として利用した。現在の建物は創業当時のものですでに百年余の歴史を有するが、明治の30年代頃にはすでに「プ レあづまや」というべき建物があったらしいから、明治40年に筏方組合長だった曽祖父の中瀬古為三郎や久保組を率いていた久保八十次郎たちも利用したかも 知れない。名勝「瀞八丁」を臨む渓流の高台にそびえる多層建築は、そのレトロな風合いと相俟ってじつに味わい深い。事前予約の季節のご膳と、自家製ジン ジャーエールを手に見下ろす風景は極上のもので、百年の時間などあっという間に跳び越えてしまう。食後、二階の客室部分や、置いていた筏師の竿などの古い 道具を見せて頂く。四代目オーナーとして閉業していた宿を食堂・喫茶として再生させた東さんは「筏師に関する資料をあつめて、いつか小さな資料館のような ものをつくりたい」と言う。北山の源流で釣りをする東さんは深山の木地師の遺跡なども知っていて、先に出た母と妹を待たせて、ついつい話が盛り上がってし まった。資料交換のためにメルアドを交換した。

 11日 15:00 北山村大沼の法蔵寺にて住職と合流する。40代の若い住職は今回の 投宿先であるおくとろ温泉のある下尾井の見福寺という寺の住職で、下北山から北山にかけてのいくつかの無住の寺を兼務しているそうだ。もともとは下北山が 先代住職の実家であるらしい。プライベート・タイムではポテチをつまみながらプレステでも興じてそうな雰囲気、いや決めつけてはいけない。(他の人と併記 している)過去帳は見せられないのでと、本尊の裏手にならんでいる祖父方の中瀬古、祖母方の久保に関連する位牌を持って来て見てくれるのだが、「昭和3年 9月22日 定蔵父松之助 74才。松之助の父親は定蔵ですかね・・」 「いや違うでしょ。定蔵の父親が松之助ってことじゃないですか」と、少々頼りない 住職なので途中からわたしが位牌を書いた板切れをほとんど奪い取ってしまった。位牌は家ごとなので、次男であった為三郎や八十次郎は分家で、元の本家をた どらなくてはならない。為三郎の父親として除籍謄本に記されている「中瀬古為右衛門」は法蔵寺の位牌には見当たらない。他所へ出ていくときに位牌も持出す と寺には何も残らないという。八十次郎の方では「定蔵」という兄(おそらく長男)がいたことと、父親の「松之助」が昭和3年に74才で亡くなっているこ と、「松之助」の父「九十郎(明治28年死亡)」、母「ヤス(明治41年死亡)」までたどれた。調子に乗って「川邉(熊太郎)」家の位牌も為三郎の妻の実 家だからとかこつけて見せてもらって、筏師の朝鮮出稼ぎの先駆けであった川邉熊太郎が昭和18年まで生きていたことが分かったのも収穫だった。71才の、 当時としては長寿の類であった。中瀬古の本家筋、久保のさらに先祖についてなど、もうすこし調べてみて後日に報せてくれるということになった。五条の柿羊 羹とお布施一万円をお礼に。ちなみに先に北山村役場でお会いした父親の撮った貴重な村の写真を終活で燃やしてしまった村議長・久保ジョンリーはどんぴしゃ の本家筋であることも判明した。

 11日 16:00 中瀬古、久保両家の墓にお参りして線香を手向けてから、しばし母の過去を遡上する 大沼めぐり。母は東京生まれだが、祖母の美譽惠が1944年(昭和19年)11月から始まる東京への空襲を予感して1944年(昭和19年)9月に子ども 二人を連れて実家の北山村へ疎開した。そのまま敗戦を迎え、戦後の生活苦で荷役仕事によって身体を壊して結核になった美譽惠は1950年(昭和25年)に 亡くなった。その後間もなくして東京の父の元へもどった母は、数年間をこの北山村大沼で過ごし地元の小学校へ通ったことになる。集落を見下ろす墓地からそ のまま山の際を移動すると母が祖母、そして久保の曽祖母(祖母の実母)の三人で暮らした高台の平屋の家に出る。その家はいまは大阪の人が買って、ときどき やってきて泊まるという。前庭のこのすみで夜中に祖母が結核の痰を捨てていた、ここにウサギ小屋があった、家の裏にトイレと風呂場の別棟があった、ここは 柿平先生の家だった、たしかこのへんに井戸があって水を汲みに来たんだけれど、などとあるきながらむかしを思い出して説明する。三百メートルもあるけば村 の中心をぬけてしまう小さな集落だが、かつて林業が盛んだった頃は個人商店が立ち並び、映画館もあった。いまは営業している店は農薬や肥料などを置く農協 の支所の他は一軒もない。十年ほど前には営業していた二軒の旅館(北山館と昭和館)も、おくとろ温泉の影響もあっていまは看板だけがひっそりと残っている (後に昭和館から名前を変えて最後まで営業していた東光荘はあの川邉熊太郎の子孫の家だ)。車のある家は片道一時間をかけて熊野市まで買い物へ行き、足の ない高齢者は週に二回来るという移動販売の車を待つ。下のメイン道路の下りてきて、母がかつてあった中瀬古の家を探すが分からない。たまたま家の前に出て いた高齢の女性に「すみませ〜ん」と母が声をかけて走り出した。「主人の方がくわしいから」と家の中からご主人を呼んでくれたその家も中瀬古で、近いつな がりはないようだけれど戦後に小学校へ入学したというその人は母より若干年下で、為三郎の長男の英雄さんちがやっていた店はあそこのいまは駐車場になって いるところですわ。英雄さんとこは塩と煙草の専売で財を成した。むかしはこの道も軽トラックがぎりぎり通れるくらいで、うちの前も畑だった。戦後に道を広 げたんです。村議をやってる久保さんのお父さんがやっていた薬局はむかしはその向かいのあの辺にあった。久保さんのお父さんは女の人がとくに好きでしたな あ。にんまりと笑って、それからは母と小学校の先生の名前などを言い合ってしばらく盛り上がった。物言いのおだやかなご主人で、細君もその横でうれしそう に話を聞いていた。ひっそりとした集落のそちこちに物言わぬたくさんの人影が動き出したかのような時間だった。いろいろな記憶がよみがえってきて、分から なかった記憶ももどって、もう満足した、これで大沼はもういいと母が言うので、ちょうどチェックインの予定時間になってきたおくとろ温泉の宿に向かうこと にした。
2021.10.14

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  幾日も清涼な山の風景を経めぐっていると細胞という細胞の隅々にKumanoが沁みわたってくるような心地がする。熊野とはなにかと問う、その問いによっ て輝くものが真の熊野である。問いがなければ、熊野もない。かつて中上がそう言ったKumanoがウィルスのように身体に侵入して遺伝子の改変を目論む。 書き込まれたものはしかしうしなわれた遠い記憶であった。草いきれ、贖(あがな)い、ねぶるもの、石、くずれおちた皮膚が自明のものに抗いながら悲鳴をあ げる。人跡たえた源流の河原でわたしは後へのこしていく墓石をなんどもふりかえった。家族の待つわが家へ暗い山中の筏みちを急いだ求愛する鹿の声が遠くで 響いた。この世のすべての縁を断ち切って人知れぬかったい道をさすらった。闇夜にのびる巨人のような山の影がわが身におおいかぶさる。岩に南無阿弥陀仏を きざむ。ニューギニアで狂い死にした少年が姉と石堤のみちをあるいてゆく。丸太を鳶口でひきよせる。鷹が旋回している山頂の王者のように。炎のなかで小石 が爆ぜる蒸気があがる飯の匂いとともに。座棺に入れられた祖母の肉体はどのように腐敗していったろうか。百年、三百年、千年、山々の襞で人びとは生き死に を繰り返した。麦が実り蕎麦が実り血が流れ皮膚が破れる。Kumanoはまるで下からの矢のようだ。それによって人はときに命をうしなうが再生もする。古 来、死んだ人の魂魄は山へのぼった。黄泉還りという魂もある。
2021.10.14

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  終活で日記を整理していたらこんなものが出てきた、と母が死んだ伯父(母の兄)のむかし語りのメモ書きを数枚持ってきた。そのなかに手書きのガダルカナル の位置を描いた絵。明治40年に北山村筏方組合長だった中瀬古為三郎の次男である一益(明治36年生まれ・わたしの母方の祖父)は「餓島」ともいわれた島 へ出征していたのだった。手元の古いアルバムには「大日本帝国海軍」の帽子をかぶった召集当時のほか海軍病院、兵学校など内地の写真しかないので、てっき り戦地には行かずに敗戦を迎えたと思っていたのだが。

 伯父の記述によれば、「2,000名単位の一兵卒として」海軍陸戦隊に編成され、 「昭和18年ガダルカナルへ上陸。アメリカの抵抗に会う(その装備はすごいものだったようだ)。敗走した者で最後に残ったのは10人。雨期のジャングルの 水の中に10日以上浸かって、救出されたとき軍医は「お前らは死人臭い」と云ったそうだ」 「海軍病院のあるラバウルに転送(このとき、マラリヤ罹患)  更に病院で「内地送還の要あり」で、まだ危険のなかった舟で内地へ。そのあとは別府の海軍病院 →海軍兵学校 →敗戦」

 調べてみると海軍 の陸戦隊でガダルカナルへ派遣されたのは「横五特」と略称される横須賀鎮守府第五特別陸戦隊しかない。ちなみにこの「横五特」を率いていたのは安田義達海 軍大佐で、かれは二・二六事件の際には「海軍省警備のため横須賀鎮守府から派遣された陸戦隊の参謀となり、事件当日のうちに東京に上陸している」 (Wiki) もともとこの「横五特」はミッドウェイ島上陸要員としてグアムに派遣されていた。ところがミッドウェイ海戦で日本が惨敗したために行き先が なくなりグアムで待機していたところ、この「ガ島」攻略の命が下ったわけである。同じようにグアムで待機していた有名な一木支隊(陸軍・ガ島で最初に全滅 する)もいったんは内地へ帰還命令が出て、兵隊たちがグアムで貝飾りなどの土産物を買ったなどののどかな話もあるが、「横五特」はそれらと並走している。

 海 軍の設営隊や陸戦隊が駐屯していたガ島に米軍が上陸したのが1942(昭和17)年8月7日(伯父が昭和18年と書いているのは記憶違いだろうと思う)。 戦史によれば「横五特」のうち高橋大尉以下113名は先に8月12日ラバウルへ進出し、15日に駆逐艦「追風」でガ島のルンガ岬西17キロの地点に上陸、 東進して17日に設営部隊らの守備隊と合流している。祖父・一益がいたのは、おそらくこの高橋部隊だろうと思われる。高橋部隊を除いた安田大佐率いる「横 五特」本隊は、輸送の関係で隊を二つに分けた一木支隊の全滅する第1梯団の後を追う形で一木支隊第2梯団と共に上陸予定だったが、その後ソロモン海戦など があり、ガ島周辺の制空権を奪われた日本側は船団での海上輸送が困難になったために上陸は見送られ、結局安田大佐以下「横五特」本隊はニューギニア東部の ブナの守備に配属され、1943年(昭和18年)1月に全滅している。

 陸軍は一木支隊に続いて川口支隊(4,000名)、丸山師団 (20,000名を予定)などを投入して全滅を繰り返し、補給もままならないガ島はまさに敗残兵たちがうごめく「餓島」となっていった。祖父・一益が合流 した海軍の守備隊がその後どんな動きをしたのかは不明だが、「雨期のジャングルの水の中に10日以上浸かって救出された」祖父が生きてガ島を脱出できたの もレアケースであったろうし、またその後ラバウルを経由して内地へ無事に帰還できたのも、まだ昭和17年当時の絶望的な状況になる直前のタイミングが幸い したのだろうと思う。マラリヤに罹患した祖父は温泉のある別府の海軍病院で養生し、召集前は日本通運に勤めていてドイツ語も堪能だったというかれは、 ひょっとしたらそんな才能も買われて戦地へはもどらず、江田島の海軍兵学校へ転属になったのかも知れない。そして敗戦を迎えた。敗戦後の8月23日に兵学 校で撮られた写真は各地へ散っていく同僚たちとの記念写真だったのだろう。

 そんなわけで今日は午後いっぱい、戦争資料の豊富な県立図書館 へ自転車で走りガダルカナルや海軍に関する資料を漁った。ガ島については米軍側の記録や生還した日本軍兵士たちの証言なども目を通したが、あらためてその 悲惨に身も凍る思いであった。祖父・一益は昭和35年に病気のため56歳で亡くなった。過酷な戦地での体験も影響しただろうか。敗戦後、郷里の和歌山に 帰ったかれに祖母はそのまま役場勤めでもして欲しかったようだが、「次男坊だからそうもいかん」と東京へもどり日本通運に復職した。

 三人 の息子たちだけを東京へ呼んで他の家族と共同のような部屋で生活し、暮らしが安定して家のひとつでも借りれるようになったら妻と娘(わたしの母)を呼びよ せるつもりだったのだろうが、祖母は戦後の食糧不足と過労がたたって結核で昭和25年に亡くなってしまった。死ぬ前にせめて一目会いたいと祖母が所望した 末っ子を連れて祖父が和歌山へもどった際に、その末っ子も結核がうつって後に千葉の療養所で亡くなった。そして祖父が内地へ帰還してから、祖母の弟二人が 昭和19年にニューギニアのサルミ島で相次いで戦死している。きっと悲惨な最期だったと思う。まるで生が死で、死が生であるかのような時代であった。

 昭 和25年に和歌山の山深い筏師の村で死んで座棺で埋葬された祖母も、昭和35年にいまのわたしと同じくらいの年齢で亡くなった祖父も、わたしは生前会うこ とが出来なかった。二人を語ることができた伯父もすでになく、終活で身辺整理を始めた母がわたしに託した古いアルバム(開くたびに鼻がぐずぐずする)のな かでかれらは向こう側からこちらを、物も言わずに凝っと見つめるだけだ。
2022.1.22

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  週末の上京にあわせて、大好きな(笑)靖国神社へ電話をしてみた。海軍で出征してニューギニアで戦死したと伝わる祖母の二人の弟についての「御祭神調査」 の件。電話先で代わった担当部署の方へ二人の氏名と本籍地等を伝えると、すぐにデータベースで参照してくれた。以前にいちど、問い合わせを受けて「祭神証 明」のようなものを送付した履歴があるとのこと。場合によっては靖国神社へ出向かなければならないかとも思っていたのだが、あっさりと、郵送してくれると のこと。役所とちがって戸籍などの身分証明も不要で、郵送費用等も要らないようだ。対応も至って丁寧で、ちょっと靖国が好きになったかも(笑)
2022.3.31

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  ここにおいて戦争の聖なる力は、その十全な輝きをもって現れる。(略) このような感情は、文明がその基礎としている諸々の価値、戦争の前夜まで最高のものと思われていた諸々の価値を、粗暴な瀆聖的な仕方で否定するところにお いて、その最高の強みをみせる。平和が必要と偽善にかられて聖なるものとしてきたもの、すなわち節度、真実、正義、生命といったものを誇らかにあざ笑うこ と、これこそが、戦争のもつ聖なる威光の最高の明証である。(略) 祭りのなかに現れる<聖なる違犯>というものの役割を、 戦争が果たしてい るのである。
ロジェ・カイヨワ「戦争論」


 かねてより靖国神社祭儀課に依頼していた件の返答が届いた のは、折しもこの国の地上に於いて桜が満開の時節であった。「さて、御申し出の有りました 久保 守命・久保 廉平命 につきまして調査しましたところ合 祀されて おりましたので、別紙の通り回答申し上げます」  久保廉平と守はわたしの母方の祖母の弟たちである。廉平は1914(大正3)年、守は1921(大正 10) 年に和歌山県の北山村で、筏師「久保組」支配人であり第十一代村長も務めた久保八十次郎のそれぞれ三男と四男として生まれた。北山村史の戦没者リストによ れ ば、二人は共に「海軍」の所属として、戦争末期のニューギニアのサルミで戦死したとある。守は1944(昭和19)年9月29日、享年24歳。廉平は同年 10月15日、享年31歳であった。わたしの手元には、おそらく村のどこかの屋敷だろう石垣の前で、16歳の娘盛りの祖母といっしょに写っているセピア色 の写真がある。幼い二人の瞳はまっすぐにこちらを見つめている。

 今回、靖国神社の祭神調査によってあらたに判明したのは、二人は兵士で はなく海軍「嘱託」であったという事実だ。所属部隊は「第八海軍建設部」である。調べたところ、奈良の県立図書館に「第八海軍建設部始末記 (東部ニュー ギニアに於ける海軍軍属部隊の記録)」(1986、今井祐之介(元第八海軍建設部付 元海軍書記) なる50頁弱の冊子があり、また国立国会図書館関西館 のデジタル文書「濠北を征く:思い出の記椰子の実は流れる」(1956、濠北方面遺骨引揚促進会)の中に「第八海軍建設部の面影 / 遠山親文」なる一節 を見つけて、それぞれコピーをしてきた。「海軍建設部」とは基地施設建築や陣地築城を任務とした部隊で、もとは設営班とも呼ばれたが、編成の外郭団体とし て民間会社が所属していた。前述の「第八海軍建設部始末記」で著者の今井は八建(第八海軍建設部の略称)の使命として「原住民の宣撫ならびに治安維持。現 地軍の自給自足。産業の開発。病院の建設」をあげている。これに参加した進出企業は農業(南洋興発、三井農林、南洋食品)、漁業(南興水産、東北水産)、 林業(林業開発組合(挺身企業体三菱主体))、土建(矢島組)、海運(南貿汽船、日本郵便)などとあり、久保廉平と守はこのいずれかに所属していたと思わ れ る。

  「第八海軍建設部始末記」によれば1943(昭和18)年1月11日、横浜港に集合した八健関係者は輸送船・白山丸に乗船して出港、二隻の水雷艇に護衛さ れて途中、横須賀で別部隊を乗せ、三池で石炭を積み、パラオなどに立ち寄り、西部ニューギニアのマノクワリに到着して民政府の要員や貨物を陸揚げした。映 画「南の島に雪が降る」の舞台になった演芸分隊のマノクワリ歌舞伎座があった町である。目的地である東ニューギニアのウエワクに着いたのは2月11日、 「横浜を出港してから満一ヶ月かかっている。船上から見たウェアワクは、見わたすかぎり鮮やかな緑におおわれ、朝日に輝いて南海にうかぶパラダイスかと思 われた」(「第八海軍建設部始末記」)  上陸してしばらくは平穏で、荷揚げをしてテント張りの宿舎を設け、農業適地の調査をしたり、山中での伐木・製材 作業に着手、土建隊は建物や道路、橋の竣工にあたり、漁業隊がマグロの漁場を見つけて水揚げしたが脂気が少なくあまりおいしくなかったともいう。「日中屋 外は焼けつくように暑いが、屋内はさほどではなく、ワイシャツに長ズボンでも快適にすごせる。夜は涼しく、草むらには内地の秋を思わせる虫の声がしげく、 毛布を一枚かけて寝る位の気候である」

  しかし当時、大本営はすでにガダルカナル島を放棄し、ついでブナも玉砕、東ニューギニアは最前線 となりつつあり、4月9日、ついに連合軍の本格的な攻撃が始まったのであった。「その後、ウエワク地区における敵空襲は連日におよび、来襲する機数もだん だん増加し、飛行場、ウエワク台上、洋展台、周辺のジャングル、入港中の船舶等に猛烈な爆撃を加え、緑に覆われたジャングルは赤土の原野に変わってしまっ た」 このような状況なので「開発作業は現状維持が精一杯で、前進などは思いもよらなくなった。労働力の原住民は逃げて中々寄りつかず、反対に、防空壕掘 りや、空襲被害の復旧に人手をとられる有様となり、山から出す木材は身を守るためにのみに使用される。農産物は野菜類が自給自足にようやくで、米は軍需部 から受ける有様、漁船の水揚げも段々と遠のくという状況になった。このような状況では、八健進出の意味がなく、かえって戦力のマイナスでしかない」  戦 局の悪化のため「タイピストとして配属されていた女子職員十数名を」「また看護婦十数名も内地から交代要員が到着したのに伴い帰還がきまり」、11月に帰 国。12月後半には「百機以上の空襲を連日うけるようになり」、年が明けた1944(昭和19)年2月頃から「敵機の来襲は熾烈の度を加え、次々と施設が 破壊され、ついにウエワクにおいての業務遂行が不可能となった」。

  このような第八海軍建設部の状況について、今井は次のように総括する。 「八健が進出しようとした時期は、敵が反攻企図を示し、ガダルカナル方面に侵攻し てきた頃であった。そして戦況は我に不利な徴候を示していた。このような時期に、作戦部隊でない開発部隊が敵飛行機の行動範囲内で、速成し得ない生産物を 出そうというのは無理である。開発というような地についた仕事は、安定した状態で、資材も充分あって初めて成果を期待し得るものである。事実は全く逆で あった」  その後は敗走につぐ敗走である。敵に追いかけられながら、まだ戦況が幾分かマシであった西ニューギニアのサルミを陸路によって目指したが、ほ とんど食糧も持たず、着のみ着のままの悲惨な逃避行であった。「ホーランジアの西方には、二千三百米を超す山を主峰とする山岳地帯があり、人跡未踏の地で ある。多くの者は、これを越えて西に向かってサルミを目ざしたが、道はもとよりなく、ジャングルの中を山を越えて行かなければならない。太陽によって方向 を定めて進むが雨の日が多く、方向を失って山中をさまよう形となった。地形は極めて峻険であり、昼なお暗いジャングルには、巨大な倒木が行く手をさえぎ る。一つの山を越えると、その先にまた山がある。赤道に近い熱帯の地であるが、高い山の中では夜は寒くて耐えがたい。この山岳地帯を越えるまで、食糧とな るものは全く得られない。転進の際身一つで出発したため、食糧、医療品の携帯はなく、その補給ももとより全くないので、大部分の者は山中で餓死してしまっ た」

 東ニューギニアのウエワクから西ニューギニアのサルミまで、ためしにグーグル・マップ上でルートを設定しても道がないので計測出来 ない。目安、直線距離で600キロ以上はあるだろう。その道なき道をすすみ、祖母の二人の弟たちは、かろうじてサルミまではやってこられたが、そこですら もはや安全な場所ではなかった。4月後半から5月にかけて「逐次」サルミに到着した八健の転進者は5月20日の段階で830名となり、陸軍の第三十六師団 の指揮下に入った。「その内、485名は、師団現地自活挺身隊としてトル河上流ブファレに農場を開発することになり、5月7日夜出発、矢島組の中72名は 木場構築作業に従事し、患者192名はサルミに残留することとなった」  ところがじきに「敵が上陸してサルミ地区が戦闘地域となったため、海軍軍属はす べて同地区外に退去を命ぜられ、5月20日マノクワリ方面へ向けて再度転進を開始した。八健関係者約800名の内一部は極度の衰弱マラリア等のため、フエ ルカム河以西マテワル付近に留まり、その他はマンベラモ河方面に陸攻転進を続けた。この間には、すでに食糧、医薬品とも全く無くなっており、そのため餓死 する者、病死する者が多数出た。 マンベラモ河に到着できた者は約500名であったが、その内約200名はさらに前進することを断念し、再びサルミ方面に 引き返した。約300名は、6月4日、6日、10日の三回にわたって陸軍の大発で渡河しマノクワリに向かって転進をつづけた。しかしながら、マンベラモ河 以西は、人跡未踏ともいうべき大湿地帯であり、海岸線は、いたる所に巨木が横倒しになっていて、踏破するには大変困難であり、あまつさえ食糧は全くなく、 疲労困憊その極に達して先行者がバマイ付近に到着したのは18日頃であった。当時その付近一帯は敵工作班の活動が著しくなっており原住民が頻々ととして我 々を襲い、そのために犠牲者が続出した。さらにマラリア、アメーバ赤痢などの疾病と餓えのため斃れ殆ど全滅の状態となった」 

 祖母の二 人の弟たちがサルミで亡くなったのは、残された記録によれば9月末と10月中旬であるから、二人はすでにサルミ到着時点で「患者」として残留した192名 の内であったか、あるいはマノクワリを目ざして断念し引き返してきた200名の内であったかも知れない。もうひとつの資料「第八海軍建設部の面影」(遠山 親文)も、このあたりはほぼ同じような記述だが、こちらは敗戦後まだ間もない時期(1956年)に出版されたもののせいか次のような哀切な一節も伺える。 「・・この間において、糧食、医薬品皆無のため、餓死者が、続出したが、我が身一つを持ち運ぶことが精一杯というのが当時の実情であったので、僚友の死体 を埋葬することができず、心を残しながら遺体を踏み越え踏み越え、物につかれたようにひたすら前進を続けるという状態であった」  最後の瞬間を、二人は どのように迎えたのかと思うのだ。弟の守が24歳で9月29日に先に逝き、兄の廉平は10月15日に31歳で後を追った。廉平は弟の最後を看取ることがで きたのだろうか。二人は死にゆく際に、熊野の豊かな山と川の風景、そこで待つ母や姉たちの姿を思い出しただろうか。1,641名の第八海軍建設部関係者の 内、戦没者は1,104名、行方不明者は264名、帰還者はわずか273名であった。  「第八海軍建設部始末記」の最後を今井は次のように締めくくっている。「・・これらの人々の遺骨の大部分は、人跡未踏のジャングルの山奥に眠っており、そ の場所には、おそらく、今後数千年に亘って、再び人類が足を踏み入れることは無いであろう。如何にも悲惨な結末であった」

  カイヨワはその「戦争論」において、祝祭のような戦争がその高揚の頂点に於いて人間を呑み込み消費し、そのなかでひとの個の独立性は一時棚上げされ、「個 人は画一的に組織された大衆のなかに溶けこんでしまい、肉体的、感情的また知的自律性は消え去ってしまう」と記す。遠い南の島のジャングルで惨めに死んで いかねばならなかった久保廉平と守は、「国家」によって消費される非人間的なパーツであった。本来、人が生きるためのかりそめの集合体にすぎない「国家」 が、徴兵という血の儀式によって人間に「国家」への奉仕を強制する。かりそめの「国家」は人間を超える「至上の存在」として立ち上がる。その抗い難い至上 の存在を前にして、二人は「それを自分の運命として受け入れ、泥の中を這い、虫のように死んでいかざるを得ない」(西谷修「ロジェ・カイヨワ 戦争論」 100分e名著)  「平和が必要と偽善にかられて聖なるものとしてきたもの、すなわち節度、真実、正義、生命といったものを誇らかにあざ笑」った戦争の 顔をした「国家」が国を守るためにいのちを賭せと言い、「英霊」になることを強要する。廉平と守の墓は筏師の里ともいわれる熊野の山中の集落を見下ろす高 台にあって、長兄によって二人の名が刻まれているが、おそらく二人とも遺骨はなかっただろう。今井が記したように「今後数千年に亘って、再び人類が足を踏 み入れることは無いであろう」人跡未踏のジャングルにいまも眠っているのかも知れない。二人は「消費」され、「国家」は永続する。かれらの死に、わたしは 抗いたい。

2022.4.21

 







 

 



 

 

 

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