902. お墓

背中からの未来

 

 

■902. お墓

 




  毎年お盆の頃(8月15日)に行われる奈良の大文字焼きはわが家の2階や、母の6階の団地のベランダから見えるのでいつも愉しんでいるが、この高円山の送 り火がじつは「奈良県出身の29,243柱の英霊を供養するため」の慰霊祭であることを知っている人はあまりいないのではないか。

 京都 の五山送り火の始まりは江戸時代まで遡るらしいが、奈良の送り火はずっと新しく、戦後しばらく経った昭和35年、後の奈良市長で当時は三笠温泉鰍フ社長 だった鍵田忠三郎の「敗れた大東亜戦争で戦死戦没なさった2万5千柱の戒名を必ず読上げ大炬火を大文字にたき、霊を慰めると共に、遠く県内各地より、この 火を眺めて下さる人々に、戦死戦没者の霊に合掌してもらう機会をつくりたい」という思いから始まった。第1回の役員には鍵田のほか、奈良市遺族会会長や奈 良県護国神社宮司などが、東大寺長老、大安寺貫主らと名を連ねている。

 行事工程表は4月の「護国神社に英霊数の確認」から始まる。そし て当日8月15日は午後6時50分に「霊記」(29,243柱の戦死者名簿)が高円山に到着。まず春日大社神官により神式の祭儀が行われ、ついで市内30 ケ寺の僧侶による仏式の法要が営まれ、このときに「奈良県出身の戦没者29,243柱のお名前が奉読」される。遺族代表が焼香・拝礼し、その後に送り火が 点火される。

 高円山には碑があり、次のように記されているという。「高円山はかつて聖武天皇が離宮を営んだ地であり、弘法大師の師匠で 大安寺の僧であった勤操が岩渕寺を創建した霊山である。また護国神社のご神体の裏に位置する。こういったことから、高円山に大文字送り火を点火することに した。」

【 大文字行の際の祭文(平成6年時)】
 維時平成6年8月15日此処春日飛火野の聖 域に祭壇を設え明珍達男之命を初め奈良県殉国の神霊29,243柱の英魂を招き奉り奈良大文字保存会 鍵田忠三郎 敬ひ慶んで白す
  顧みれば命たちは去ぬる明治戊辰の役以来日清日露の両戦役近くは第2次世界大戦に於て一身を国家の危急に捧げ 護国の神として高円の丘に鏡り座します 国 破れ時移り代は更ると錐も命たちの大いなる武勲は国家の生命とともに永久に諾え仰かる可きものにして更らず われら縁を得て昭和35年白月15日大文字慰 霊の祀りを高円の山に創め春日の大神をはじめ天神地祇の神助を仰ぎ宇宙萬霊の御加護の下数多同志の協力により命たちの武勲を讃えその霊を慰むるに大文字送 り火を以てするの基を拓きたり 昭和36年この慰霊の行を歳と共に盛んにし永く子々孫々に伝えるため谷井友三郎の主その他同志と相寄り相計り奈良大文字保 存会を結成し、これが行事を継承し年毎の謂れ深き8月15日この高円甲山に第35回の慰霊大文字の聖火を奉行せんとす これ殉国の命たちを始め奉り有縁無 縁の萬霊を慰め祀り恩讎を越えて敵味方供養の炬火を津々浦々に及ぼさんがための微衷なり 希くは英魂大文字送り火の炬火を諾い享けられ永く国家守護の神と して高円の丘に安らかに鏡まり給わらんことを恭しく聖火を捧げ慰霊の誠をいたし国家の繁栄と世界〆平和を祈念し謹しみかしこみて祭文となす     

 神社仏閣が手を携えて「国家守護たる殉国の英霊」を祭り上げる風景は、こと8月15日の高円山の祭事場に於いては戦前の亡霊さながらである。

▼奈良大文字保存会(PDF)
http://www.bunka.go.jp/.../sup.../pdf/katsudo_minzoku_06.pdf
▼「殉国の諸英霊よ、御霊安かれ:奈良大文字保存会40年史」(奈良大文字保存会)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000003587681-00
▼旅 free style 翁の謎F 奈良大文字 送り火 『死者が住む高円山』
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-entry-98.html
▼宝蔵院流槍術>禅小話>
大文字送り火行を創始する・鍵田忠三郎
http://www4.kcn.ne.jp/~hozoin/kagitadaimonji.htm
4大文字行
http://www4.kcn.ne.jp/~hozoin/zen04.htm
▼浄土宗奈良教区青年会
http://narajosei.info/archives/3259
2017.5.1


 先日はからずも訪ねたグアムに配備された日本軍に奈良の部隊があることをお しえてくれたのはFB友の中平さんである。歩兵第38連隊は明治29年に大津 にて創設、翌年に京都深草に移駐して日露戦争、満州派遣などを経て、大正14年に奈良へ転営した。春日大社の南、現在の奈良教育大学の敷地に兵舎があり、 隣接する法務局(奈良第二地方合同庁舎)に「奈良聯隊跡記念碑」がいまも残っている。その後、満州へ駐屯した連隊は昭和12年、上海派遣軍に編入されて、 かの南京攻略戦に参加している。師団長の中島今朝吾は南京占領後に西欧からの猛烈な抗議を受けた軍司令部の調べに対して「略奪、強姦は軍の常だよ」と平然 と答えているように、上海派遣軍(第16師団)は南京に於ける日本軍による虐殺事件で最も代表的な部隊だったと言ってもいい。歩兵第38連隊は津の歩兵第 33連隊と共に、降伏後の南京市内外の「掃討作戦」に従事した。「捕虜ヲ受付クルヲ許サズ」の命令を受けて捕虜や「疑わしき」住民を殺戮し尽くした証言は 多く残っている。その後、中国各地を転戦した歩兵第38連隊は昭和19年3月にグアムへ配備され、7月のアメリカ軍上陸により全滅した。ちなみに昭和47 年に「発見」された横井庄一さんもこの38連隊の陸軍伍長であった。

 南京虐殺を描いた堀田善衛の小説「時間」を臓腑に釘を一本一本打ち込むよう な思いですこしづつ読み進めていったのは年明け、出張で滞在していた北陸のレ オパレスであった。続いて中公新書の「南京事件 「虐殺」の構造」(秦郁彦)で全体像を追った。そしてはからずも、のグアム。南京とグアムとわたしが住む 奈良が「戦争」というキーワードで貫木のように嵌った。それからわたしは休日になると歩兵第38連隊の影を追うようになった。奈良教育大からさらに南、古 市の集落ちかくの丘陵地のしずかな林の中には奈良の陸軍墓地がある。いまでは訪れる人も滅多にないだろうこの墓地(グアムの慰霊塔公苑とおなじような時の 彼方に置き去りにされた空虚な静寂に満ちている)には「満州事変戦没者合同墓碑」(昭和31年5月30日建立)と「歩兵第三十八連隊将兵英霊合祀之碑」 (昭和9年3月建立)の二つの塔、そして寛城子事件(※大正8年、当時の満州の長春で日本人暴行事件に端を発した日中両軍の衝突事件)で亡くなった34人 の兵士たちの墓がある。そのうち将校の墓は巨大な慰霊塔の両脇に立派な台座と共に建ち、下級兵士たちの墓はそこから一段下がった場所に素朴な墓石が並んで いた。印象的だったのはなぜかこの下級兵士たちの墓だけ、墓石のまわりにたくさんの石が積まれていたことだ。故郷の石を遺族が運んだのだろうかと空想し た。はじめてだったが陸軍墓地よりわずかに北方、奈良佐保短大に隣接する広大な敷地の奈良県護国神社も覗いてみた。「奈良県出身の英霊3万柱を祀る」とう たったこの社の背後の峰で点火される、奈良の夏の風物行事でもあるこの高円山の送り火が、じつは「奈良県出身の29,243柱の英霊を供養するため」の慰 霊祭であり、護国神社をはじめとして大安寺、東大寺ら近在の30ヶ寺が参集して「県出身の戦没者29,243柱のお名前が奉読」されることを知ったのもお なじ頃だ。また薬師寺や唐招提寺が建ち並ぶ西ノ京の秋篠川沿いにやはり英霊を合祀した奈良市慰霊塔公苑があるのを知り、自転車で見にいったのはつい数日 前。「英霊」や「散華」といった戦前の化け物が何気ない日常の風景の裏に粘菌のように滲みついているように感じた。そしてこの国では、「戦前」と「戦後」 はけっして断絶ではなく「連続」なのだという思いをいっそう強くした。

 「軍人墓」というものがある。頭部を方錐形にしてたいてい一般の墓石より高 くそびえて建っているから遠目でもよく分かる。1874年(明治7年)、陸軍 省が「陸軍埋葬地ニ葬ルノ法則」により階級により墓碑の規格を統一。以降、軍隊入営中に戦死した者は国や軍隊からの指導により、先祖代々の墓とは別にこの 規格に沿った墓に葬られたという。グアムで全滅したのが奈良の連隊であったと知ってから時折、時間を見つけて自転車で近所の墓地を回るようになった。正面 に軍隊での階級と氏名があり、側面には戒名と「○○○ニ於イテ戦死 二十二才」などの文字があり、裏面は建立者というパターンが多い。簡単に戦死した場所 と年齢だけの場合が多いが、ときに入隊してからの経緯をくわしく刻んだ墓石もあれば、年齢だけで場所を記していない墓もある。ニューギニア、比島、中華民 国、ラバウル、ビルマ、朝鮮沖、蒙古、バシー海峡、マリヤナ群島、南京、沖縄本島など、さまざまな場所で戦死した兵士たちの墓をいくつも眺め、刻まれかす んだ文字を読み、黙祷をしてから次の軍人墓へあるきだす。沁み入るような青空の下でそんなふうに一時間も二時間も広大な墓石の間をさまよっていると、おれ はいったい何をしているのだろう、とも思う。まだじっさいにはお会いしたことはないがFB友で彫刻家の安藤栄作さんはパレスチナのガザで殺された子どもた ちの像を一体一体刻み続けていつの間にか千体を越えた。それに似たものかも知れない。わたしはアーティストではないので、こうしてひとつひとつの墓石を訪 ね、墓石と対峙し、「どこで」「何歳で」死んだくらいしか分からないが、それだけでも重い魂を測りにかけるかのように、戦場における死者をこの不器用な精 神と身体に肉化していく。真昼のひと気のない墓場をあるきまわっているとどんどん体が重くなっていく。そのままずぶずぶと沈んでいきそうな気がする。それ でもわたしは何かに引かれるように墓場をあるきまわる。

 戦争が激化した終戦間際の戦死だったとして、1945年(昭和20年)に 25歳で死んだ青年の母親はもう50歳近いだろうか。2017年の現在では 122歳となる計算だから、これらの墓石の前で知れず嗚咽をした母はもうとっくにこの世にはいない。子孫がおなじ墓域で建ててくれている墓はいい。参る者 もいなくなり、無線仏の石くれの山に積み上げられて、もう名前すら読めない軍人墓もたくさん見た。わたしたちはかれらを「英霊」と讃える連中に預けっぱな しで済ませていたんじゃないだろうか。ひとつの大きな墓石の左右側面に二人づつ、計4人の兄弟たちの名前が刻まれた墓石を見つけたときは呆然とした。昭和 19年9月、中国湖南省。昭和20年5月、レイテ島。同年6月、レイテ島。同年8月、モンゴル。21歳、22歳、25歳、27歳の兄弟の墓である。終戦の 混乱期を耐え抜いて、昭和32年にようやく母親はこの兄弟の合同墓を建立した。父親の名前でないのは、このときすでに夫は他界していたのかも知れない。縁 もゆかりもない見知らぬ家庭ではあるが、わたしはこの兄弟たちと母親がまだ生きていた実時間での歴史の風景が脳髄の奥の方から知れずあふれ出して来て、こ とばを失う。その母も、もういまはこの世にいない。そびえ立つ墓石の先の青空をわたしはじっと凝視する。グアムでの戦死者の墓を見つけたのも、おなじこの 共同墓地だ。25歳の若き軍曹は昭和19年9月30日に大宮島(グアム島)にて戦死していた。かれが歩兵第38連隊だったのであれば、アメリカ軍の上陸が 開始された7月には「かれ」はアガット湾に配置されていたはずだ。ちょうどわたしたち家族がレンタカーで島を回った日の夕方に、地元のスーパーマーケット で買い物をしたあたりの美しい海岸だ。けれども米軍の猛烈な艦砲射撃と空爆により部隊はたちまちに壊滅し、生き残った兵士はジャングルの奥の残存部隊に吸 収された。戦史によれば8月11日に叉木山の最後の司令部の将校たちも自決し、最後の日本兵が降伏して戦闘がほぼ終了したのは9月4日というから、9月 30日戦死の「かれ」はその後のジャングルでの日本軍兵士狩りで殺されたか、あるいは戦死した場所も日にちももはや定かでないから9月の末となったのか不 明だが、後者であるのかも知れない。おそらく遺骨もなかったろう。わたしは「大宮島」と刻まれた文字をそっと指先でなぞった。もうたくさんだ、と思った。 奈良から出征し、南京での悪夢を経て、遠く南方の小島のグアムで散った命が、いま、わたしの手にもどってきた。へんな言い方だが、もどってきたような気が した。

▼歩兵第38連隊 (Wiki) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A9%E5%85%B5%E7%AC%AC38%E9%80%A3%E9%9A%8A

▼歩兵第38連隊 http://www.geocities.jp/bane2161/hohei38rentai.html 

▼奈良歩兵第38連隊の帰還 https://ameblo.jp/fugo0330/entry-10618461112.html

▼「虐殺」命令(歩兵第38連隊兵士の証言) http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/gyakusatu.html#yamadad

▼奈良陸軍墓地 http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-2nara.htm

▼奈良縣護國神社 http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/gokoku-nara.htm

▼大文字送り火行を創始する(鍵田忠三郎) http://www4.kcn.ne.jp/~hozoin/kagitadaimonji.htm

▼奈良市慰霊塔公苑 http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1147087494791/

▼軍隊と戦争の記憶 日本における軍用墓地を素材として(PDF) http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/0007/SK00070L115.pdf 

▼「万骨枯る」空間の形成 陸軍墓地の制度と実態を中心に(PDF) http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0082/BO00820L019.pdf

▼軍人さんのお墓(PDF) http://www.tennoji-h.oku.ed.jp/j-tennoji/jiyukenkyu/DaikyoFTenJH_JiyuuKenkyu_(26)_2001/DaikyoFTenJH_JiyuuKenkyu_(2001)_26_13-18_gunjinsannoohaka.pdf 

▼安藤栄作彫刻展 http://www.tamaky.com/mt/archives/2015/11/andou-eisaku.html

▼グアムの戦い(Wiki) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

2017.5.20


 それでも夕方になればまた自転車に乗って走りたくなる。午前中に歯医者も 兼ねて富雄川沿いから六条山をぬけて西ノ京あたりくをぐるりと走ってきたことも あって、夕方はごく近場を小一時間ほど。いつも車で眺めながら(あの狭い路地へ)入って行きたいと思っていた若槻環濠集落へ。ここは中世までたどれる貴重 な集落。くわしくは下の調査報告所をどうぞ。自転車でしか入れないような入り組んだ集落内の路地をまわり、いい感じにひなびた天満宮とそのまわりの環濠な どを見てまわった。それから菩提仙川の土手を経由して、むかし住んでいたなつかしい県営団地の中をまわり、佐保川の土手沿いにある、むかし娘の幼稚園の帰 りにママちゃりに乗ってしばらく休憩をした土饅頭の墓地にひさしぶりに行ったら河川の改修工事による「無縁墳墓等改葬告知」が出ていて、ああ、ここもなく なってしまうのかとさみしい気持ちになった。大きな木の根元の六体の地蔵などは、これまでさまざまな風景を眺めてきたことだろう。立派な墓石でかためた墓 地より、川沿いの、木の墓標も朽ちて土饅頭だけになって、それでもお盆になれば色鮮やかな花が供えられている、こんなお墓が好きだな。しばらく墓地の中に たたずんでいた。

▼若槻環濠集落(観光ナビ) http://yamatokoriyama.locodoco.net/sightseeing/sightseeing-cate01/117.html#firstPage

▼若槻環濠発掘調査報告書 http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/1155

 下の国土交通省近畿地方整備局 大和川河川事務所のサイトによれば、ここは「埋め墓」らしい。ということは稗田に古い両墓制の集落があるということだ。

▼六地蔵(埋墓) http://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/guidemap/other_03.html 

2017.8.7



 

 

 今日は早朝から仕事で、昼前まで戸外で立ちっぱなし。支給された弁当を家に 帰って食べて、しばらく揺り 椅子でハン・ヨンエの韓国古典演歌集を聴きながらうたた寝をしてから、自転車で多聞城跡を見に行ってきた。東大寺の転害門から少々といったらいいのかな。 西は聖武天皇陵、東は北山十八軒戸のある東之坂だ。いまは市立若草中学校の建つ丘陵地に旧跡の碑が立っているが、かつては西側の聖武天皇陵のエリアも含む 山城だったらしい。松永久秀によって築城、のちに織田信長の命を受けた筒井順慶によって破却。一帯はもともと中世の墓地があったそうで、当時のものと思わ れる瓦、骨壺、石塔、墓石等が校舎敷地から出土しており、それらの苔むした墓石や五輪塔などが校門の東側に集められて供養されている。周辺をしばらく散策 して夕方、佐保川沿いに下った県立図書館でトイレとマグに入れてきた蓮茶を飲んで小休憩。暗くなる頃に帰宅した。走っていると体もぽかぽかして、冷たい空 気が心地よい。代休の明日もまた、どこかへ行こうかな。

◆多聞山城(Wiki) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%81%9E%E5%B1%B1%E5%9F%8E

2017.12.10

  星野道夫の番組で、喋るボブ・サムの映像を見れたのも感激だった。ボブ・サムのことは大昔から知ってい る。20代のころ、ネイティブ・インディアンにはまっていて、一時は本気でかれらのネーションを訪ねようとも考えた。アラスカ先住民の指導者の家系に生ま れたボブ・サムは若いころ、白人たちからの差別のためにアルコールや薬物におぼれた。その後、毎晩のように頭蓋骨が蹴飛ばされ助けてと叫んでいる夢を見た ことから出身地へ帰り、荒れ放題だった先祖たちの墓をひとりでこつこつ修復しはじめた。10年の間、たった一人で。やがて墓地がきれいになっていくにつれ て、住民たちが誇りを取り戻すようになった。ボブ・サムはそれを一人でやり遂げたのだ。この話はそのまま、金城実さんが大阪・住吉にある夜間学校で在日の オモニたちに彫刻を教えたことにもフィード・バックする。最初はやる気のなかったオモニたちは渋々じぶんの母親の像をつくるうちに、いつのまにか母国語が 飛び交い、熱を帯び、朝鮮人民族のアイディンティティを取り戻していったという。そういうものがうつろな頭の中をぐるぐると回っている。

 わたしはボブ・サムになりたい。くだらない周囲のすべてを忘れて、毎日一人 でだれとも会話することもなく、先祖たちの墓場の草を刈り、石を積み、土を運び、そして夕暮れには祈りを捧げて帰宅する。ニセモノでない、じぶんのいのち を見つけたい。

2018.2.11


 土 日に仕事が入ったため、本日代休。ひさしぶりの平日は特に何をするでもなく、三度の食事を担当し(朝、野菜のオリーブオイル蒸し。昼、手製サラダチキン とトマト煮ミックス豆。夜、ホットプレートの定番豚もやし)、午前中はつれあいとコープへ買い物、午後は一人でぶらぶらとごく近所を徘徊した。まずは柳町 5丁目の西向寺にて、かつて東岡町にあった遊郭の娼妓供養碑を確認した。本堂の右手の狭い通路を奥へ入ると、小山のように積み上げられた無線墓に並んでひ ときわ背が高くそびえている。表に「岡町遊郭接待婦之精霊塔」、裏は昭和27年8月の日付で「岡町特殊料理業組合」の名が刻まれている。先日見た洞泉寺の 供養碑は「病没娼妓」であったが、こちらは「遊郭接待婦」である。一人ひとりの顔はなにひとつ見えてこないが、ひざまづいて、手を合わせた。折りしもFB 友の鄭玹汀さんの紹介で取り寄せた曽根富美子『親なるもの断崖』(1992年)を読み始めたばかりだったので、何やらいたたまれなかった。続いて洞泉寺遊 郭の旧川本邸へ寄ってみた。建物の南側を撮ろうと隣接する大信寺の境内へ入ったところ偶然、グアム島戦死の文字が目に飛び込んできた。25才、死者が「育 次」で、墓の建立者が「育三」は、戦後に弟が建てたのだろうか。旧川本邸は「雛祭りイベント」が終わって、遊郭自体の展示が追加されていないかと思ったの だったが、当日は立ち入れなかった3階へ上がれるくらいしか変わりはなかった。その代わりに常駐していた、FB友のアライさんのお知り合いだというボラン ティア・ガイドのSさんが安堵町のガイドも兼ねている人でいろいろと話が弾み、昭和30年頃の遊郭の見取り図などを写真に撮らせてもらった。洞泉寺墓地の 「病没娼妓之碑」裏にあった「石橋屋」の名前もある。遊郭も紡績工場も九州からの女性が多く、中には紡績工場から遊郭へ移ってきた女性もいたとか。市が 「町屋物語館」としてオープンさせてから、かつて客として遊んだというお年寄りがやってくることもあるという。平日なので見学者はほかにだれもなく、内部 はひっそりとしずまりかえっている。3階の三畳の狭い部屋の窓から下をのぞくと、隣接する浄慶寺の墓地が見えた。かつてこの苦界に生きた女性たちも、ここ から立ち並ぶ墓石を眺めて何かを思ったことだろう。誰もいないのをいいことに、しばらくその三畳の愛欲苦界に寝そべって、目を見開いていた。旧川本邸を出 て、最後に向かったのは紡績工場の工女の供養碑があると思われる誓得寺だ。門はすべて固く閉じていて、正面玄関のインターホンを何度か鳴らしてみたが応答 がない。後日にまた来ることにした。何となく手持ち無沙汰で、すぐ隣の良玄禅寺の墓地にも何か紡績工場に関する手がかりがないかと覗いてみた。小春日和の のどかな平日の午後に、どうもおれは墓場ばかりだな、一人苦笑する。ここはだいぶ大掛かりな墓地整理をしたらしい。西面のおなじ境内にある弁財天の堂と道 路との間のすき間に数メートルの高さの塀のような形で無数の無縁墓が積み上げられている。そのひとつひとつを目を凝らして見て行ったら最後、いちばん奥の どんつきの端っこに、扇形をした小さな石仏のような石に刻まれた「矮狗福塚」の文字が気になった。帰って調べると矮狗は「ちん」。かつてこの国では、小型 犬を総称して「ちん」「ちんころ」なぞと呼んでいたらしい。FB友の民俗専門家、歌詠みでもある勺 禰子女史にメッセージで尋ねてみても「わんちゃんのお墓かなあ」とおっしゃる。年代は分からねど、石の見た目から江戸から明治あたりか。家族同様だった愛 犬のために誰かが建てたのかと思えばほほえましい。

◆曽根 富美子『親なるもの断崖』 https://matome.naver.jp/odai/2142964407932922301 

◆大阪 DEEP案内「大和郡山市東岡町」 https://osakadeep.info/koriyama-shinchi/

◆町屋 物語館(旧川本邸) https://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/kankou/kanko/info/004886.html 

2018.3.23




  夕食後、娘とつれあいがポータブル・テレビをテーブルの上に乗せて、アスレチック・ゲームのような挑戦番組を見始める。二人で熱心に小さな画面を覗き込 み、笑ったり、小さな悲鳴を上げたり、歓声をあげたりしている。ふだんであったらわたしは、部屋のすみのソファーに二人の姿が見える向きに寝そべって、新 聞をひろげながら彼女たちの声を聴き、ときおり様子を眺めたりしているのが好きだ。それはだれにも邪魔されたくないかけがえのない時間だ。けれども今日は 違った。わたしのなかで何かがうごめいている。食べ終えた食器を洗って、それからじぶんの書斎へ閉じこもった。PCの iTunes でひそやかなクリスチャン・ソング(Audrey Assad)を大音量でかけ、揺り椅子にもたれて、唯一スマホに入れているMLBのベースボール・ゲームを始める。目の前の重みに耐えるために、あえてい ちばんつまらないことで時間をやり過ごすのだ。そのうちにわたしの手は凍りついたようにとまる。スマホを置き、銃を投げて投降する殺人犯のように目を閉じ る。わたしに欠けているのは「神」だろうか。ユングが夢に見たような「大聖堂を排泄物で破壊する」神か。わたしは無力で、ひとかけらの価値もなく、みじめ に消えていくだけのシミのような存在に過ぎない。わたしの内なる存在は何をもとめているのだろう。願ったものはすべてあるはずなのに。今日は休日だった。 娘と二人で昼を済ませてから、紡績工場の女工の供養碑があるという寺へあるいていってインターホンを押したがやはりだれも出てこない。困り果てて思い切っ て寺の向かいの旧家のインターホンを押してみた。初老の男性が出てきて、ここのお寺の住職は橿原の寺に嫁いでいまはここに住んでいないが、週に一二度は法 事や何かでやってくる、水色の軽自動車が停まっていたら寺の門も開いているはずだ、とおしえてくれた。檀家といってもこのお寺さんは墓地がないんですねと 訊けば、ここじゃない、墓はあのイオンへ行く途中の道のはたの田んぼの中にひろがっているところと言うので、思わず「ああ、あの石の鳥居がある墓地です か」と声のトーンがあがった。それで自転車に乗ってさっそく見に行ったのだ。死んだ女工の手がかりの石けらでも残っていないかと。あたたかな小春日和だ。 家族連れが一組、バラックのような四阿(あずまや)でお弁当を食べていた。わたしはうっすらと汗ばむような熱につつまれて黒ずみ、落剥し、倒壊した墓石を ひとつひとつ見てまわった。何も残っていない。残っているはずもない身よりもなく死んだ女工の墓など。風呂に湯を落とし入る。浴槽につかりながら岸和田の キリスト教会にいた朝鮮人のひとびとの聞き取りを読む。「大阪南部の泉南地域には、かつて石綿紡織の零細工場が集中していて、その多くは在日韓国人・朝鮮 人に支えられていた。また同和地区や僻地出身の人々、炭鉱離職者らも多く働いていた。そこには、差別と貧しさゆえに石綿から逃れられない構造があった」   車椅子に座り、酸素呼吸器をつけた李善萬さん(80歳)は、「石綿のほこりが体に悪いという予感があり」他の職場へ履歴書を持っていったがどこでも「朝 鮮人はあかん」とはねつけられた、という。三人の子どもを食わせるために石綿の仕事を続けるしかなかった。李さん夫婦は朝鮮半島南部の出身で日本で結婚 し、つてを頼って泉南に移り住んだのが1950年だ。通称「石綿村」と呼ばれたその地域は日本人より在日が多かったという。戦争が終わってからも、この国 は他国の弱者たちに容赦なかった。まるで鬼のような国だと愕然とする。それでわたしの魂はまたあの昼間の、小春日和ののどかな田んぼの中の墓地へ飛んでい くのだ。いまでは墓か石くれかも分からない黒い団子のようなかけらの前でらあらあらあらあといまも哭いているのだ。

2018.3.26


  午後、自転車で平城京跡の北側あたりをまわってきた。水辺の佐紀神社、釣殿神社。そして山上八幡神社から垂仁天皇皇后日葉酢媛命 狹木之寺間陵、佐紀高塚古墳(孝謙・称徳天皇陵)、成務天皇陵と、このあたりは大きな古墳だらけ、さしずめ「王家の谷」とでもいった様相だ(もうすこし北 へすすめば五社神古墳(神功皇后陵)もある)。これらは佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)と呼ばれ、4世紀後半から5世紀前半につくられた巨大前 方後円墳群だそうだ。平城京跡から古い集落内をゆるやかにのぼっていけば、こどかな丘陵地の桃源郷とでもいった風情だ。平城京跡では毎年恒例の天平祭とや らのイベントで大音量の音楽が流れていたから避けてきた。ここはしずかで心地よい。そんな住宅地のはざまにひょいと見つけた瓢箪山古墳は、なぜか宮内庁の 陵墓指定からはずれているため墳丘に自由にのぼれる。そんな古墳もあるのが面白い。そこから歌姫街道にかけてのエリアは古びた二戸一、三戸一の改良住宅や 団地が多く並び、独特の雰囲気を醸し出している。陵戸との関係もあるのだろうなと思う。そういえば奈良山陵簡易郵便局近くの道沿いの墓地に40〜50基も の軍人墓が密集して建っていたから、つい自転車をとめてやっぱり見てしまった。奈良第38連隊で転戦し大宮島(グアム)にて戦死した陸軍衛生軍曹(25 才)の墓を見つけた。グアム戦死者はこれで県内4人目かな。昭和21年7月にソビエト連邦内の収容所に於いて「消息を絶つ」と書かれた陸軍上等兵や、やは り敗戦後の昭和21年8月に「北鮮にて戦死」と書かれた31歳の陸軍軍曹の墓などもあった。かれらにとってはまだ戦後ではなかったのだ。ついで東側。ヒ シャゲ古墳(磐之媛命陵)、コナベ古墳(小奈辺陵墓参考地)、ウワナベ古墳などを眺め、航空自衛隊奈良基地のフェンスを横目に大きな池の端からふたたび平 城京跡へもどってきたら、はや夕刻だ。そのまま人気が捌け出した平城京跡内を通って尼ヶ辻へ抜けて、西ノ京から三松禅寺近くの園芸店へ立ち寄った。わたし よりやや年下のNさんは一級建築士の資格を持っていていたのだけれど当事失業中で、わたしの会社が入札で受託した地域の見守りパトロールの仕事(雇用促進 事業)に応募してきたのだった。その縁でまだガーデンハウスもできていなかったわが家の庭に、ジューンベリーを植えてもらったのが、娘が小学校4年生くら いだったからもう7〜8年も前のことだ。坂道の途中にある店の奥に声をかけると、Nさんのお母さんが出てきて、じきに奥からNさん本人が出てきた。あのと き、まだ見習い中だったNさんに教えながら秘伝配合の肥料を施してくれたNさんのお父さんは肺がんで闘病中で、いまはNさんが跡を継いでやっているそう だ。「こんどは庭の真ん中あたりにね、娘のリクエストで百日紅(サルスベリ)の樹を植えて欲しいんですよ。花の色はジューンベリーが白だから、百日紅は薄 いピンクがいいそうです」  そんなわけでひとしきりひさしぶりの再会を愉しんで、百日紅を一本、頼んで帰ってきた。夜はつれあいの仕事が遅いので、娘を ラーメン屋に誘った。彩華ラーメンに挑戦してみるというので、数年ぶりの彩華かと楽しみに天理の本店へ行ったら広い駐車場は長蛇の列で1時間半待ち。田原 本店へ行くがやはり待ち列が見えて、国道24号線をしょんぼりもどってきたところ、以前から入りたいと思っていた豚菜館の駐車場が運よく一台だけ空いてい たところへ滑り込んだ。そうそうこの味、あの小松の志いぼの「系列」だ。むかしからある、家族経営的な地域の人に愛されてきた味。チェーン店にはなれない 味。わたしたち二人が食べ始めて10分後くらいに、「チャーシューの肉が切れて本日は終了」となった。

◆佐紀盾列古墳群の概要 http://beauty.geocities.jp/belltechnique/gaiyou/sub3.html

◆大好物のシンプル醤油ラーメン『豚菜館』 http://small-life.com/archives/07/10/3100.php


2018.5.5

 明治33年に死んだ「寄宿舎工女 宮本イサ」の無縁墓がある「来世(らいせい)墓」の真ん中に、かつて小さな堂があって墓守が一人住んでいた。むかしは 土葬だったから葬式が出るとその墓守が穴を掘って埋めた。その墓守は死んでからどこへ葬られたかったって? そういう身寄りのない人間はみんな、火葬場の 無縁さんの供養碑に祀られただろうな。そんな話を互いの犬を連れて散歩をしながら副会長のSさんから土曜に訊いて、さっそくその火葬場を見に行ってきた。 郡山城址の北側、いまもさびれた金魚池ののこる谷筋に古くから稼動している火葬場があって、その入口付近に無縁供羪塔が青空にさみしくつきささっている。 自転車をさらに南へ下らせて、ついで訪ねたのはかつて新木町にあった屠畜場跡だ。むかしの写真集の説明と1970年代の空中写真からめぼしをつけた場所 は、いまは田んぼと池にはさまったフェンスで囲まれた何もない更地だ。平成22年にある建設会社が「と畜場跡残土回収」で入札をしている記録があるから、 それほど遠いむかしのことでもない。もともとはここにあった屠畜場が県の中央卸売市場に近い場所に「食肉センター」として移転したのは昭和の終わり頃だろ うか。場所は変わってもそこで働く人の多くはいまも郡山で有名なNという同和地区の人々であることは変わらない。その屠畜場のあった土地が、かつて古代の 神武東征神話に於いて土蜘蛛として殺された新城戸畔(にいきとべ)を祀る新城神社及び新木山古墳に重なるのはたんなる偶然か。それからのどかな田圃の道を 南へ下ってJRの線路をわたって、これもやはりKという同和地区の北のはずれにぽつねんと切りとられたような小さな森が残っているのが「牛の宮」だ。年季 奉公先で死んだ少年が牛になって残りの三年を務め終えてその牛も死んだという伝説は何を意味するのか。その牛の亡骸を葬ったのがこの「牛の宮」だというの だが、屠畜場からそう離れてもいないことも考えれば、かつての賎視された人々が斃れた牛馬を処理した聖なる草場でありその記憶であるのかも知れない。日曜 の昼のちいさなちいさなツアー。距離は短いけれど暑さでとろけそうなおれの脳味噌は百年も千年もすっとんでいくぜ。教科書にはけっして出てこないようなに んげんの生き様に触れたいんだよ。
2018.7.22



 「前(さき)を訪(とぶら)う」ということばを、FB友の山内さんが送ってくれた「遠松忌法要講演録」(明治の大逆事件で死刑判決を受け、秋田の監獄で 縊死した新宮の僧侶・高木顕明を想うつどい) のなかで知った。親鸞が「教行信証」のなかでひいている「安楽集」に出てくることばだそうで、「何となれば、前(さき)に生まれん者は後(のち)を導き、 後に生まれん者は前(さき)を訪(とぶら)え、連続無窮にして、願わくは休止(くし)せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と」   またおなじFB友の塩崎さんがコメントで記していた。過去を告発するものはもうだめだ、現在の自らを磔にするものでないとだめだ、と。気がつけばいつ の間にやら53度目の夏が来て、ブルーハーツが歌った沁み入るような青空の下で、いまのわたしはそんなことばに躓きそうになる。いや躓きそうになりながら も、そんなことばをみずからに招(お)ぎ寄せようとしている。みずからを磔刑に処するために、前(さき)を訪(とぶら)う。のこされたわずかな時間を、そ のために生きていこう。三輪車と共に被爆し庭先に埋められた幼子の記事を読みながら、癌細胞によって意識が混濁するまで抗い続けた沖縄県知事の死去の ニュースに接しながら、そしていまは無縁仏として眠る紡績工場の女工の墓を思いながら。 
2018.8.9


  小学生のときにいっしょに住んでいた祖父が死んだ。明け方、まだ暗いうちからなにやら家の中がばたばたとあわただしい。おぼろな気配のなかでそう思ってい たら、朝にはもう祖父は動かない人になっていた。バスに乗って、はじめて火葬場というところへ行った。高い煙突からうっすらとした半透明の煙が天へ立ち昇 り、祖父はしろい骨のかけらになった。その火葬場を自転車でさがして、後日に訪ねたのだ。コンクリートの壁の向こうの煙突から煙が立ち昇るのを、そうして 長いこと眺めていた。小学3年生くらいのじぶん。

 夜中の墓地はさすがに行く気にならないが、昼間の墓 地はなぜかむかしから親しい。とくに夏だ。強い日差しを浴びて、むっとするような草いきれに、なにかやわらかな存在が偏在していて、がらんどうのわたしに 寄り添うような心地がする。欲望にまみれた、生臭い息の生者どもの世界よりも、わたしにはいっそ心地よい。かれらはもうきっとこの世には未練はないのだ。 永い永い年月がおだやかに少しづつ、花弁が閉じるようにあらゆるものを諦めさせたのだ。その代わりといってはなんだけれど、かれらにはすこしだけ伝えたい ことがある。がらんどうのわたしに、放心したように墓石にもたれて腰をおろしたわたしに、そのしずかな半透明の思念のようなものがはいってくる。がらんど うのわたしのなかで、ことばが反響する。

 「存在の深みから、亡き者を含む『神さま』たちに照らし出さ れる」ことが石牟礼道子のいう「荘厳」であるなら、百年も前に死んだ見知らぬ紡績工場の女工や殺された朝鮮人や大逆の刻印を穿たれて縊られた者たちの、い までは粉塵のように宙を舞っているにすぎないかすかな足跡をたどりながら、わたしが浴びている光はまさにそれだ。

 

  代表作『苦海浄土 わが水俣病』には「杢(もく)」という名の少年が登場する。彼は水俣病を患い、言葉を発することができない。しかし、耳はよく聞こえ る。当然、良いことばかりが聞こえるのではない。差別の声も聞こえてくる。杢少年の心に、声にならない微細なおもいが蓄積する。だから、彼の祖父は杢少年 のことを「ひと一倍、魂の深か子」と語った。

 若松は言う。「『苦海浄土』には杢少年と同様、語らざる者たちのおもい、言葉になろうとしないうめき の声が響きわたっている」

  石牟礼にとって、書くことは沈黙という声なき声を聴くことだった。彼女の執筆作業は、「語ることを奪われた者たちの言葉をわが身に宿し、世に送り出すこ と」に他ならなかった。だから、彼女は言葉の「器」になろうとした。言葉にならないものに出会うことで、彼女は作家となった。

  石牟礼は、若松と最後に会った別れ際に「どうしたら自分の心を空(から)にできるか考えています」と言ったという。何かを表現することは、自分の思いを吐 露することでも、自分の考えを主張することでもない。大切なのは思いや考えを鎮めること。そして、無音の「声」を聴くこと。そうすることで、人は言葉の通 路になる。言葉は過去や彼方からやってくる。

 『苦海浄土』について、石牟礼は次のように書いている。「(水俣病)患者さんの思いが私の中に入って きて、その人たちになり代わって書いているような気持ちだった。自然に筆が動き、それはおのずから物語になっていった」

 だから、彼女は『苦海浄土』が第一回大宅壮一ノンフィクション賞に内定した時、これを辞退した。真の 作者は自分ではない。自分は言葉の器であるに過ぎない。そんな実感があったのではないかと、若松は推察する。

  若松は、石牟礼がしばしば使う「荘厳(しょうごん)」という言葉に注目する。「荘厳」とは仏教用語で、仏像や仏堂を美しくおごそかに飾ることを意味し、ま た智慧(ちえ)や徳によって仏の身を包むことを言う。しかし、石牟礼がいう意味は、仏教用語に限定されない。「それは存在の深みから、亡き者を含む『神さ ま』たちに照らし出される」ことを意味する。

 私たちのいのちは儚(はかな)く、悲しい。しかし、その悲しみは世界を「荘厳」する。私たちの苦しみ に満ちた世界に光が差し込み、聖なるものに包まれる。

  「荘厳」に包まれた者の悲しみは、語り得ない。この言葉にならないものを言葉によって表現することこそが、石牟礼にとっての文学だった。だから、『苦海浄 土』は「詩」として存在した。そこにあったのは「自らの心情を語ることができないまま逝かねばならなかった者たちの声をどうにか受け止めようとする営み」 だった。

 石牟礼は、常に死者と共にあることを大切にした。私たちの世界は、生者だけで成り立っている のではない。死者を含むメンバーによって構成されている。私たちの日常は、死者たちが紡ぎあげてきた経験知や暗黙知によって支えられている。死者たちが保 持し、歴史の振いにかけられた叡知(えいち)によって、世界は存立している。

 しかし、私たちは傍らにいる不可視の死者を忘れがちである。声なき声を存在しないものとして扱い、生 者によって世界を独占しようとする。だから、私たちは沈黙に堪えられない。常に雄弁によって時間を埋めようとする。

 石牟礼は、いつも沈黙の中で死者たちと対話していた。沈黙は空白の時間ではない。そこには「ある意味 のうごめきが存在」している。沈黙こそが、彼女の語りだった。

(今週の本棚   中島岳志・評 『常世の花 石牟礼道子』=若松英輔・著 毎日新聞2018年8月12日 東京朝刊)

2018.8.14

 昭和4年建立、と刻まれたその「大日本紡績高田工場・合墓」は町の東のはずれの、どこかも のさびしい川べりの市営墓地に大昔の遺失物のように建ってい た。道向かいには古びた葬儀屋が間口を構え、その背後にはひと気のない殺伐とした二戸一の住宅が軒を並べている。町の墓地はたいてい、そんな場所にある。 そそり立った墓石の裏の赤錆びた鉄扉には南京錠がかかっている。このなかにどれだけの寄る辺ない遺骨が眠っているのか、遺骨すらもない魂が暗闇でいまもま んじりともしない顔と顔をつき合わせているのかと思うと足元が底なし沼に吸い込まれていくような錯覚を覚える。錯覚ではないだろう。わたしたちのこの国は これまでいったいどれだけのものを蔑ろにしてきたのだろう。穴を掘り、蹴り落とし、埋めてきた。忘却してきた。わたしのなかにはたくさんのそのような寄る 辺ない魂が堆積してまるで放射能を浴びた皮膚のように焼き爛れ膨れ上がり、わたしはじぶんがいつか見たこともないような奇怪な生物に変わり果てるのではな いかと思うのだ。無数の腕や足や人面を呑み込んで流動する可変動物のような存在になってビルを覆い尽くすほどに巨大化してこの世のあらゆるものに復讐をす る。それもいいかも知れない。そのためにわたしはこうして歩きまわっているのかも知れない。毒を溜め込み、おのれがいつか本物の毒になることを夢見て。そ れでもわたしはこのごろ人間どもの間にいるよりもこうして死者たちの中に佇んでいる方がいっそ心がやすらぐのだ。日は翳っていて、師走の空気は指先に冷た い。斎場のひっそりとした受付で合墓について訊ねたが「シルバー人材」のジャンパーを着た老人は何も分からない、役所の環境衛生課に訊いてくれと答えた。 紡績工場のことは覚えている。むかしの女工はほら、遊郭みたいなものだったんじゃないか。それであなたはいったい何が訊きたいのか、とかれは言った。わた しがほんとうに訊きたいこと。わたしがほんとうに訊きたいことを知ったら、あんたの命は縮まるだろうな。墓地からほど近い土手沿いのラーメン屋に入った。 ふつうの人なら横目で通りすぎるかも知れない掘っ立て小屋のような店だ。土曜日のお昼どきなのに客はわたし一人だけで、芯の強そうなおばちゃんにわたしは テール・ラーメンを頼んだ。メニューはほかにホルモン・ラーメン、油カス・ラーメン、油カス・チャーハン、フクの天ぷらなどなど。途中からおばちゃんの娘 が小学生くらいの孫娘を二人連れて入ってきて、おばちゃんは彼女らにもラーメンをつくりはじめた。骨付き肉が乗ったテール・ラーメンは旨かった。骨の髄ま で温もった。勘定をする際に「すごくおいしかったです」と言うと、おばちゃんははじめてにっこり笑って「また寄ってくださいね」と応えた。何の気取りもな いが、人間の顔のあるラーメンだった。合墓に眠る女工たちにも食わせてやりたい。

2018.12.15


 15年前、兵庫県のある施設でわたしに仕事をおしえてくれたTさんが癌で入院をしたと知っ たのは最近のことだ。退院をして、いまは自宅で小康を保ってい ると聞き、年が明けたら見舞いに行きたいとTさんと親しい同僚にお願いしていたら昨日、亡くなったという連絡がメールで届いた。ムガル帝国の皇帝によって 建設されわずか14年で放棄された北インドの都市・ファテープル・シークリー(Fatehpur Sikri)の城門には、つぎのような碑文が刻まれているという。「イエスが言った。“この世は橋である、わたっていきなさい。しかしそこに棲家を建てて はならない”」 橋はひとによってさまざまだ。ながいながい橋もあれば、ひょいと跨げるようなみじかい橋もある。豪華絢爛に飾った橋もあれば、質素などぶ 板のような橋もある。どんな者であれ、わたしたちはそこをとおりすぎていく。わたりおえてしまえば、どんな橋であったかなど忘れてしまうし、もはや何の価 値もないだろう。けれど橋をわたったその痕跡のようなものがきっと、わずかな匂いか光のささやかな明滅のようなものとして風の通い路にとどまる。残された わたしたちはそれを感じることができる。痕跡も、ひとさまざまだ。

  わたしの住む町にかつてあった紡績工場の「寄宿舎工女」として明治33年に死んだ宮本イサとの出会いについてふりかえりたい。というのも、わたしのささや かな生にあって彼女の存在はいつも中心を占めているからだ。「亡工手之碑」という紡績工場で死んだ人たちの供養碑が残る隣町の寺で、紡績工場の死亡者だけ をまとめた過去帳を見せてもらったのはことしの初夏の頃だったか。本堂の後戸に祀ってあったというその過去帳には明治後半から昭和初期にかけて延べ96人 の戒名などが並んでいた。そのなかで出身地や年齢が分かっているのは30人に満たない。住職によれば引き取り手のない死者は町の火葬場で荼毘に付し、共同 墓地の無縁の納骨所に収めるのだという。96人うち59人が女性で、年齢が分かるほとんどは20代前後の若い女性たちだ。なかには13歳の少女もあり、多 くは九州の山間部の(おそらく貧しい山村の)出身であった。18歳の「朝鮮慶尚南道」出身の少女の名も記されている。

  宮本イサの無縁墓は、かつて平城宮の羅生門があったという佐保川沿いの古い歴史のあるその共同墓地で見つけた。墓地の片隅に積み上げられた墓石の側面に偶 然、「株式会社郡山紡績」の刻字が覗いていたのだ。両隣の墓石にかくれていた部分に「寄宿舎工女 宮本イサ」と「明治三十三年」という文字をかろうじて読 むことができた。彼女の名も戒名も寺の過去帳にはなかった。明治33年というのは明治27年に操業を開始した郡山紡績が業績悪化や社長交代などを経て操業 時間が短縮された年だ。翌年には工場での虐待に耐えかねて脱走した女工2名が大阪にて保護されたという記事が警察の資料として残っている。引き取り手のな い「寄宿舎工女」であれば墓石もつくられずに無縁の納骨所へ収められただろうが、わざわざ会社が墓を建 てたということは特別の事情があったのか。寄宿舎住まいであれば近在の出身ではないだろうと思いながらも、この地元資本で設立された紡績会社がそもそも禄 をうしなった旧郡山藩士の窮状対策として旧藩士の子女を雇ったという記述を読んで、幕末の藩士名簿をめくったりもしたが手がかりはなかった。120年は遠 すぎるのか。わたしは犬の散歩の折にはこの宮本イサの墓に立ち寄り、ときには野辺の花をたむけ、ひさしぶりだねとか、寒くなってきたねとか、墓石に語りか けるようになった。さながら恋人のようだ。もう会うことのできぬ。

 わたしのなかに見知らぬ「寄宿舎工女 宮本イサ」の存在があって、それを胸の奥にしまいな がら、岸和田の広大な共同墓地に眠る朝鮮人女工の墓といわれる ちいさな自然石をさがしたり、尼崎の川で渡船が沈んで死んだ女工たちの供養碑を訪ねたり、あるいは「悔恨と激憤の現場で、いま、わたしたちの行くべき道を 問う」と刻まれた名古屋の軍事工場で地震で生き埋めになった朝鮮人の少女たちの亡くなった現場を歩き、そっと手を合わせた、そのひとり一人が宮本イサであ り、多くは父や母のもとへかえれないまま無縁のほとけとなった寄る辺なき魂である。休日のたびにわたしは自転車で、あるいは電車に乗って、そんな見捨てら れたような場所や墓地を歩きまわった。わたしはなぜ、そんなことをするのだろう。いつしかわたしは「悔恨と激憤の現場で」死んでいった無数の彼や彼女たち の痕跡を巡礼しながら、その寄る辺なき魂がわたしのなかに澱のように蓄積していって、いつかじぶんは人間でない奇怪な生物に変化(へんげ)するのではない か、それを望んでいるのではないかと思うようになった。

 120 年前の明治、100年前の大正、80年前の戦前の昭和すら、いまではたどることが難しい。旧藩士名簿、地方新聞、警察資料、古地図、もろもろの行政資料、 企業資料、個人の手記、埋火葬許可証、県立図書館や国立国会図書館関西館に幾度も足を運び、黄ばんだ資料をめくり、ぼやけたマイクロフィルムをまわし続け ても、出てくるものはほんとうにわずかな断片だけだ。「寄宿舎工女 宮本イサ」がどんな女性で、明治33年にどのような事情で亡くなり、古里の地ではなく 「寄宿舎工女」として参る者もない無縁墓になって忘れ去られたのか、だれもなにも分からない。「金壬守 妹」と過去帳に記された18歳の「金◆順(戒名: 釈尼妙順)」が大正9年に郡山紡績で死んでから遺骨は故郷の「朝鮮慶尚南道普州郡普州面」に帰れたのだろうか。姉妹はどのように異国の地にやってきて、な ぜ18歳という年齢で橋をわたりおえてしまったのか。なにも分からない。無数の「寄宿舎工女 宮本イサ」や「金壬守 妹 金◆順」がこの国のあらゆる場所 に金剛遍照のようにあまねくただよっている。けれどわたしたちはそれを見ない。記憶もしない。死者を送ろうともしない。一輪の花をたむける者もない。「悔 恨と激憤」を溜めたわたしは、いつか人間でない奇怪な生物に変化するだろう。

 夢をたずさえてこの国へ やってきた外国人技能実習生が3年間で69人も亡くなっていたというニュースに接したとき、わたしのなかで120年の時空がストレートにつながった。郡山 紡績についてある大学のゼミの学生が戦後の従業員たちに聞き取り調査をして「郡山紡績に“女工哀史”はなかった」と記したが(住田文「女の街―大和郡山と 紡績工場をめぐる人びと―」関西学院大学社会学部 島村恭則ゼミ)、わずか13歳から27歳までの若い女性たちが毎年10人単位で死んでいく過去帳のデー タは、まさにこの技能実習生たちの異常な実態と同じだ。150年の明治のこの国の負の記憶から、この国の現在がまさに透けてくる。朝鮮人徴用工問題につい ても戦前・戦時中にこの国へ強制的に連れてこられたアジアの人々の「悔恨と激憤」の記憶が、過去も現在もどのように扱われてきたか扱われているか、現地を 歩いてきたら分かる。「女子挺身隊」と呼ばれた朝鮮人少女たちの遺体が瓦礫に埋もれたまま放置された工場跡はいまは明るいショッピング・センターになり、 奈良天理柳本の海軍飛行場にあった朝鮮人慰安婦に関する説明板は「国の意向に合わない」とする市長によって撤去された。人々は口をつぐみ、多くの記録を処 分し、墓石を始末し、土地を整地し、供養碑を拒み、記憶を消そうとしてきた。「悔恨と激憤」はもはや、行き場もない。

  かつて作家の辺見庸はソマリアで見た餓死する幼子について「餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと思考が戦闘化してもいいのではない か」と記した。わたしはみずからの中心に120年前に郡山紡績工場で死んだ「寄宿舎工女 宮本イサ」を置く。そうして見えてくるものは、この国が明治と称 した時代からの百数十年の歴史の実時間の実相だ。無名のまま死んで無縁墓地へ積まれた寄る辺ない「寄宿舎工女 宮本イサ」から見えてくるのは、現在日本の 沖縄、フクシマ、マイノリティへの差別、政治腐敗、教育現場の崩壊、だれも責任を取らない「和」の精神、ヌエのような隠蔽体質、天皇制、歴史改変、そう いったもろもろの諸相である。明治から150年、この国は過去をいちども清算してこなかった。だから150年前と現在と、本質的にはなにも変わらない。外 国人技能実習生が明治の紡績工場の女工たちのように毎年数十人ベースで命を落としていても驚かない。「寄宿舎工女 宮本イサ」もきっと、驚かないだろう。 わたしもそうして殺されたのだから、と言うかも知れない。そしてやがてだれもがわたしのことなど忘れていったのだから、と。

  いろいろ思うことはあるけれど、わたしは橋のことを考える。じぶんの橋のこと、そして「寄宿舎工女 宮本イサ」がわたった橋のことを考える。考えながら歩 いているうちにふと、じぶんの橋と「寄宿舎工女 宮本イサ」の橋が交差する瞬間がある。わたしは「寄宿舎工女 宮本イサ」の橋を思いがけずにあるいてい る。これでようやく彼女に会えるとよろこんでいると、やっぱりそれはわたしの橋なのだった。「餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと 思考が戦闘化してもいいのではないか」と辺見は書いた。しずかな年の暮れに「寄宿舎工女 宮本イサ」の墓のたもとにひっそりとたたずんでこよう。ほかのだ れにもきこえぬささやきのようなことばをかのじょとかわそう。わたしは、そんな大晦日がいい。

2018.12.31



 わずか数百キロ先の東の舞台で昭和11年、二・二六事件前夜の歴史が遡行しているのだが辿り着けそうにない。それでわたしはアントン・ウェーベルンの オーケストラのための六つの小品なぞを聴きながらすばる3月号に掲載された中国の堀田善衛をなんどもめくっている。わずか6頁ほどの文章なのにわたしはそ こにも辿り着けそうにない。「今日あらゆるものが私には或る精神の死を物語る。新しい或は二番煎じか三番煎じのような言葉や、その言葉のもたらす未だ不明 瞭な観念と、その現実化に多く接すれば接するほど、ここで或る一つの精神が死んでゆくのだということが明らかになるばかりである」と冒頭に作家は記す。そ れだけでわたしの日常は重たい錆だらけの楔を穿たれたように顫える。作家はまた「我等の精神の中に重く横っている死者を風化し、これをみのり多かるべき精 神の土壌と為し得る残酷な風の吹き来たる日」を熱望する。死者を風化する残酷な風とは、なんだろう? かれはつづけて「人間は生きているものよりも寧ろ死 んだものから成り立っている」という実証主義者コントの言葉をひく。さらにこうも記すのだ。「人はつねに「意味」のある世界に住みたがるものである。戦時 ならば戦時らしい意味のある世界、ともあれ意味のある世界に住み日々の生活を基礎づけてほしいのであるが、文学を業とする者は、一切が意味を失って了う世 界の瀬戸際までもって行ってみてしかも尚その意味が意味として存在し得るかどうかを試さなければならぬ」  「戦時ならば戦時らしい意味のある世界」 そ う、いまはまさに戦時といえるかも知れない。女たちの陰部に竹やりを屹立させ、刎ねた男たちの首を高々と掲げることが意味となり得る世界だ。「一切が意味 を失って了う世界の瀬戸際」を凝視している。風がふいている。風立ちぬ いざ生きめやも・・・  詩人ポオル・ヴァレリーがそう歌ったのは海辺の墓地で あった。そのとき、まさに死者たちは生者を凌駕している、「しかし 大理石でずしりと重たい夜のなかで 樹木の根に住まうぼんやりとした人々は すでにゆっくりしずかに汝に与する者たちとなっている」・・・  死者を風化 する残酷な風とは、なんだろう?  

「死 者たちは隠されて まさにこの地の中に在る 彼らを再び熱し、彼らの神秘を干すこの地の中に」・・・  無数のカブトガニの死骸をがつがつと踏みつけてあるくように、わたし はきっと現在のこの歴史の実時間のなかを寄る辺なくさまよっている。生きてあるように思えるものはみんな死だ。わたしたちは死者の中からもういちど蘇えら なければならないとわたしはかんがえる。わたしたち自身が縊り、引き裂き、投げ捨てた死者たちのうらめしい、どろどろととけてつぶやきつづけている、おそ ろしいほどの湿気のあいだからわたしはもういちど生まれてこなければならない。1946年の中国の堀田善衛はわたしにそんなあれこれを考えさせる。わたし はわたしを峻別するものが欲しい。たしかに風が立つのを感じられるように。 「閉じられ、聖別され、非物質の火に充たされた、 地上の断片 光に供され た、 この場所は私の意に適う、おびただしい燭光に圧倒され、黄金と石と暗い樹木で構成された場所、 たくさんの大理石がたくさんの影の上で震えている;  忠実な海がそこに眠っている 私の墓標たちの上で!」

2019.3.1

 法 隆寺の裏手、中宮寺墓地で見つけた二基の無縁墓。大きい方は息子(上羽正)の軍人墓。寄り添って小さな両親の墓。仔細を見れば父・上羽兵太郎は大正10年 10月に53歳で亡くなっている(いまのわたしと同じ年齢だ)。その12年後の昭和8年5月、母・キクが42歳で亡くなっている。夫の兵太郎が亡くなった ときにキクは30歳の計算になる。(おそらく一人息子の)正は母が亡くなった6年後の昭和14年に中国へ出征し、翌年の15年1月に「壮烈無比の戦死」を 遂げている。不思議なのはこの上羽正が戦死した翌年に「正」名義でかれの両親の墓が建てられ、また昭和15年に戦死した正本人の墓は勤め先だったのかも知 れない「昭和食料品株式会社」の社長の辻利三郎氏が建立している。あるいは「正」が戦死後に、この辻利三郎氏が「正」名義でかれの両親の墓もいっしょに建 てたのかも知れない。墓石には享年が記してないので分からないが、仮に上羽正が戦死したのが28歳だったとしたら、父・兵太郎が死んだときにはかれはわず か9歳、母は女手ひとつで忘れ形見の正を育て、その母・キクが30歳という若さで亡くなったとき、上羽正は21歳であった。とにかくそうして「上羽家」は みんな死んでしまった。刻字によれば両親の墓を建てた上羽正は、すぐにまたおのれも死んで墓となったわけである。そうしておいて「放置すると無縁墓になり ます。連絡してください」という(状況を現出させている)国家に対して、おれはほんとうに怒りを覚えたよ。春うららかな斑鳩の丘陵地で。
 
追記) あらためて読み返して、30歳の母に息子21歳はさすがに無理だろうと気がついた(^^) 息子(上羽正)の出征が18歳だったとして母30歳の ときに12歳だったらぎりぎりか。しかし、それはそれで若すぎる戦死は、なんて薄幸な家族であったのだろうと思わざるを得ない。もうひとつは母・キクが後 妻であった可能性だろうか。
2019.4.6

私たちはみな
死んでいる
生きているというのは
間違いなのだ
私たちは
みな
死んだ人の
夢なのだから

加藤典洋「たんぽぽ」

  先日ライブを聴いたきしもとタローさんがFBのTLにこんなコメントを寄せてくれた。 「先日、とても興味深い体験をした方に会いました。  ずっと訪れ たかった沖縄の集団自決の地を訪れた際、その場で命を絶ったある見知らぬ女性の人生経験の全て(生まれてから亡くなられる前までの経験)が、その場に立っ た瞬間に、バケツの水を頭からかけられたような衝撃と共に飛び込んできて、そしてその女性が死の一瞬に想い描いた「こういう人生も歩みたかったのに、とい う人生」 …それが何と、今の自分の人生とほぼ一致している、ということに気付かされたそうです。  不思議な体験ですね。」  ユングはかつて、「人が 夢を見るのではない。人は夢の中で見られるのだ。われわれは夢という過程を経るのであり、夢の対象なのだ」と記した。そういうことは、あっても不思議では ないと思うな、われわれがユングが言うような夢の対象なのだとしたら。そして先日亡くなった加藤典洋が書いたように「私たちは / みな / 死んだ人の  / 夢なのだ」としたら。夏の熱に晒されて見知らぬ墓地をさまよいあるくわたしは、おのれの夢の原型をさがしているのかも知れない。そしてわたしという 存在は充分に生きられずに死んでいった者が死に際の瞬間に見た夢なのかも知れない。わたしたちは死者の代わりを生きている。いや、死者たちの夢のつづきを 夢見ている。沖縄を訪ねたその人は、おのれの原型にもどっていったのだろう。ひとがたの蜜に群がっていたまっくろな蝿の群れが一斉に飛び立ち移動するよう に。そのとき、夢をみていたものも、夢それじしんであったものも、きっとたいした違いはない。つまり、いま、たまたまこの世にあるわたしたちは、死者たち の見果てぬ夢を生き切れば良い、ということになる。 わたしたちはみな、原型を夢みている憧れだ。

2019.6.13


 台風一過の蒸し暑い一日だが家で料理をつくってばかりでも豚になるばかりなので、豚は減量 と自由を目指して自転車で走 り出た。行き先は東大寺念仏堂の裏にある英霊納骨堂。奈良の「英霊三万柱」を祀るというが、仏教に於いて、また仏陀の教えに於いて「英霊」とは何ぞやと、 巨大組織にあぐらをかいてすでに腐臭を放っている坊主どもに訊いてみたい。

追記)
 鐘堂に向き合う念仏堂には「毎年8月11日に 戦没者慰霊法要営まれる」と書いているが、背後にある納骨堂についての記載はない。ちょうどすぐ横の寺務所のようなところから若い女性が出てきたので「こ の納骨堂の由来を知りたい」と訊くと、奥からその母親ほどの年齢の女性が代わり、さらに裏手から祖母ほどの年齢の女性を連れてきて、念仏堂の内陣へと招い てくれた。東大寺が戦没者の分骨を置くようになったのはその人の記憶では昭和12年頃という。経緯は分からないが、とにかく彼女の曽祖父が念仏堂の管理を していて、当初は遺骨は念仏堂の内陣の地蔵菩薩を取り囲むように遺骨が置かれていて、まだ幼かった彼女はよくその蓋をあけたりして遊んでいたとか(!)。 引き出しから昭和23年頃と書かれた古びた「分骨名簿」を幾冊か出してくれて、後ろの納骨堂ができたのは昭和30年代、遺族の人たちがお金を出し合って建 てたという。数は減ったが、いまでも遺族の人がここにお参りに来る。護国神社に寄ってからここへ来るのが定番のコースらしい。この念仏堂で個々に法要を し、人によっては納骨堂へ入って分骨にもお参りする。「納骨堂は見られますか?」と訊かれて、一瞬ひるんだが、口は「ぜひ」と応えていた。錠前の鍵を開 け、二重の扉を開くと、一階の間は小ぶりの地蔵菩薩像を中心にさまざまな供養碑や位牌、そして名簿を収めた棚や、小さな分骨を収めた木箱がまるでパズルの ように収められた木枠が足元に広がっている。空母瑞鶴の額縁に入った絵、ニューギニア部隊の慰霊碑、そして昭和16年4月の金沢第四高等学校ボート部の 11名が亡くなった琵琶湖遭難事故の位牌などもある。コンクリートの階段を下りた地下1階と2階は名前順に並んだ引き出しに収められた小さな手の平大の遺 骨の入った棚が図書館の収蔵庫のように並んでいる。昭和16年頃の木箱は中に陶器の骨壺が入っているという。昭和20年頃の木箱は箱をふっても何も音がし ない。氏名が書かれた紙切れが一枚、入っているだけだ。「ほら、こんなふうに」と幼いころに蓋を開けて遊んでいたという老婆がじっさいに開けて見せてくれ る。そうして一時間ほどを納骨堂の中で過ごした。8月11日の法要は朝10時から。一般者でも参列できると言う。仕事の都合がついたら来たいですと言っ て、納骨堂を出た。そしてお礼を言って、二月堂も大仏殿もなにも見ずに、海外からの観光客も多い境内の賑わいをあとに自転車を走らせた。

2019.6.29



 郡山へ来る前に住んでい た河合町の介護施設へ、昼から母と、母のいとこにあたるおばさんを訪ねた。おばさんは当年84歳。もともとは十津川村の出身で、おばさんの母親がわたしの 母の父親の妹になる。若い頃からずっと小学校の先生をしてきて十津川村で6年、結婚をして河合町へ嫁いできてからも54歳まで教師を続けた。おばさんの嫁 ぎ先が地主であちこちに土地とアパートを持っていた。和歌山のつれあいを追って関東から単車に乗ってやってきたわたしは、とりあえずそのおばさんのアパー トに転がり込んだわけだ。さいしょに入った線路沿いのアパートは木造の古い二階建てで、草だらけの空き地を耕してトマトや胡瓜や茄子を植えたりした。つれ あいと正式に籍を入れて次に高台のハイツに移って、そこで娘が生まれた。つまりおばさんはわたしたち家族の恩人といえる。そのおばさんも15年ほど前に脳 溢血で右半身が不自由になってしまった。ホームを訪ねると、おばさんは車椅子に乗ったまま廊下で他のお年寄りたちと簡単な体操をしている最中だった。終わ るのを待って、母と三人でおばさんの入っている四人部屋へ移動した。ひとしきり四方山話をしてから、じつはねおばさん、と先日の東大寺念仏堂で見せても らった分骨名簿の一部のコピーを唯一動く左手に手渡した。そこに記された「昭和19年1月13日に亡くなった歩兵79連隊伍長・十津川村の切畑屋彦九郎」 はおばさんの父親の末の弟だった。「父・虎彦」と書かれた人はおばさんの祖父である。おばさんの記憶では「切畑屋彦九郎」はニューギニアで餓死したと。も ちろん遺骨も還ってこなかった。戦争へ行く前は本宮あたりで学校の先生をしていたという。もう一人、おばさんの父親のキンペイと彦九郎の間にヘイゾウとい う兄弟がいた。ヘイゾウは医者として朝鮮半島に渡っていたが、腸チフスで昭和15年頃に現地で亡くなった。還ってきた遺骨を引き取りに、当時5歳くらい だったおばさんは父親に連れられて新宮へ行ったことを覚えているという。おばさんの母親が、仲の良かった義弟の死に泣き暮れた。彦九郎もヘイゾウも、やん ちゃで村でも優秀な人間だったそうだ。「そんな人間ほど先に死ぬ」とおばさんはさみしく微笑んだ。独身だった二人の墓は十津川の山間にある。20代のわた しはいちど単車でそこに泊めてもらい、静かな山道を歩いてシキビを供えてきたのを覚えている。けれどおばさんは「切畑屋彦九郎」が東大寺の念仏堂に分骨さ れていたことは知らなかった。よくそんなものを見つけたものだ、と笑った。わたしは寺の堂守のおばあさんが引き出しから出してくれた分骨名簿のすべてをめ くったわけではない。そのうちの一冊を何気なくぺらぺらとめくっていて偶然、「切畑屋彦九郎」の名前が目に飛び込んだのだった。それからおばさんの十津川 村での教員生活についてすこし話を聞いた。おばさんが小学校の先生になったのは20歳。6年間で村内の三つの小学校を異動したそうだ。どの学校も家から遠 かったのでそれぞれ学校の近くの教員用宿舎に泊まって、週末に自転車で実家に帰った。「おばさんの青春時代だね」と言うと、そう、とても楽しい6年間だっ たと、おばさんはうなづいた。ところで、昭和31年の消印があるからおばさんが教員生活をスタートしたばかりの頃だ。十津川村のおばさんが東京にいるわた しの母の二番目の兄(省くん)に書いた手紙を最近、死んだ叔父さん(わたしとシベリアを旅行した叔父さんだ)の遺品の中に見つけた。母によれば、おばさん はこの省くんのことが好きだったという。そう言われてみれば便箋二枚に記された当たり障りのない文面の中にほのかな好意の若芽が感じられないでもない。手 紙を見つけたときに「おばさんに見せてあげようか」と言ったわたしに母も、わたしのつれあいも、「そんな手紙ならなおさら、もういまさら見せない方がい い」と断言した。「省くん」はその頃、結核で療養中だった。戦争中、和歌山の北山村の母の実家に疎開をしていたときに母親から感染したという。わたしの見 知らぬ母方の祖母は祖父を戦争にとられ、女手一つで生活を支えるために馴れない土方や運搬などの重労働をして体を壊し、やがて結核の病に臥せって、わたし の母が幼いうちに亡くなったのだった。「省くん」もその後、後を追うようにして亡くなった。叔父さんの遺品の中には、「省くん」が通っていた治療所のカー ドや、家計簿のように当時の買い物をこまごまと記した手帳や手紙などが遺っている。そのおばさんが「省くん」に送った手紙を、わたしはこっそりリュックの 中に忍ばせてきたのだった。そしておばさんの四人部屋を辞してエレベーターの前まで戻り、母がトイレに行った隙に、廊下で車椅子にすわってまだわたしたち を見送っていたおばさんのところへ走った。「あれ、どうした?」といぶかしむおばさんの左手に、わたしは封筒を握らせて「おばさんが書いた、むかしの手 紙。あとで見て」と目で合図を送ってまた走って戻り、ちょうどトイレから出てきた母とそのままエレベーターに乗り込んだ。今夜、おばさんのベッドの上では 64年前の馥郁とした風が舞っているかも知れない。

2019.7.6



  気温33度、湿度70%の中ツ道を自転車で南下する。首がもたげ、足元がゆらぐ。夢で逢ったような気がするのだが、それが誰で、ほんとうに逢ったのかどう かさえ記憶が熱にかすむ。軽い吐き気がして、じぶんが夢から醒めていることを確認する。長柄の駅前をぬけて、たどり着いたのは大和(おおやまと)神社だ。 鳥居のはたに日清戦争の記念碑があり、「約束に背いた清人を皇帝が成敗した」と刻む。この国のあまねく社にヘイトスピーチが息づいている。また別の場所の 忠魂碑には昭和の戦時に亡くなったこの地区の260柱の御魂が息をとめてひそんでいる。八月七日戦艦大和みたま祭。境内の戦艦大和展示室。長大な参道 270メートルは大和の全長とほぼおなじで、幅は参道の5倍と宣う。祖霊社に祀られているという沈没時の死者2,736名はいまもまだ南の海の深海で腹を 食われ眼窩をねぶられているのだろうか。大和(おおやまと)神社はけだし荒唐無稽のまぼろしのような社だ。そこからふたたび西へ移動し、かつて海軍の滑走 路がつくられたというあたりを見当で走る。道幅がむやみに広く、物流の会社が軒を連ねる。スポーツ公園に面した老人ホームの東側の児童公園。その入口近く に顔を剥がされたカオナシが立っている。飛行場の建設のために朝鮮人を含む多くの人々が駆り出され、また朝鮮人の女性が慰安所で働かされていたと書かれた 説明版が「国の見解と合わないから」と市長が撤去したのが2014年だ。全身を包帯で巻かれたかのようなかつての説明版の台座はそのままこの国の恥部をさ らけ出している。そこからさらに南の畑のはたに偶然見つけた三界萬霊供養尊の地蔵がすっくとそびえ立つ。滑走路造設の際に移転した寺の墓地諸霊を供養する と記す。これも夢で逢ったような記憶かも知れない。柳本の駅に出る。駅の南側周辺は海軍施設部が在った。その中央に慰安所が在った。その場所は暗渠のよう な用水路がゆるやかに蛇行する北側の、住宅地に囲まれた畑だった。胡瓜やトマトが成っていた。乾いた土が熱を放射していた、天に向かってあの世の風景に向 かってそれらはゆらゆらと立ち昇った。水筒のハーブティーで唇を湿らせた。この国には英国人兵士や独逸人兵士の墓はあるが朝鮮人労働者や朝鮮人慰安婦や朝 鮮人女工の墓はない。それでもわずかに残った罪悪感のカケラのようにこの場所に家を建てることはできないから畑にするわけだ朝鮮人慰安婦の流した血と汗と 涙が畑の作物を実らせる。もうひとつの「大林組慰安所」と推測された場所にはすでに一般の戸建てが立ち並んでいた。けれどその東側でバラックのような、低 い軒にトタンを張り合わせたような崩れかけた家々が並ぶ一画が在った。家と家が身を寄せ合い、そのすきまに人ひとりがかろうじて通れるような路地が在っ た。閉鎖されたはなれの便所も在った。なかを覗くとなつかしいぽっちゃんの便所が三つ、仕切り板をはさんでならんでいた。ほとんどは空き家のようだったけ れど、一軒だけ洗濯物を出しているところと、それから真新しい発泡スチロールの函を玄関横に積み重ねた家が在った。その家の表札は創氏改名で朝鮮の人がよ く選んだ姓だった。かつて海軍施設部があった場所に敗戦後の混乱期に徴用された朝鮮の人々がバラックを建てて住み着いたというのはあながち見当違いな推測 とも言えないだろう。家々は夏草に占領されていた。ナウシカの腐海のような植物たちが血を吐くような思いを吸い上げ天にもどすのだろう毒気を地に散じなが ら。2014年に撤去された説明板はことし2019年に市民の活動グループの人々によって土地を提供してくれた協力者の田んぼのはたに装いをあらたにふた たび建てられた。それを探しに来たのだが、走り始めてはやくも3時間以上が経つ。この広大な田園風景のどこかにと自転車を闇雲に走らせてそれはようやく見 つかった。けっして通行量が多いとは言えない小さな用水路にかかった橋ともいえない橋のそばの田んぼのへりだった。ともかくそれは在って、慰安婦のまま亡 くなって近在の寺に葬られた女性たちのことも記されていた。こんな広い田園風景の中でこれに気づいて立ち止まってくれる人はどれだけいるだろうか。なぜか の国の人々が徴用工のことも慰安婦のこともいまだこの国を許さないのかおれには分かるよ。だれも弔わないからだ。じぶんたちの国の死者には立派な供養碑や 忠魂碑や慰霊碑を建てて記憶を刻むが、それ以外の死者たちの記憶は打ち棄てられ夏草が生い茂っている。ああ、おれは夢ですらさだかでない記憶のはしくれ で、 一方の端に触れたら他の端が揺らいだようなそのあえかな空間のねじれのなかで、記憶が熱にかすむその場所で、もうとりかえしようもないかれやかのじょたち のいのちにひざをついてただだまっててをあわせたいんだよ。うそにまみれたこちらがわのにんげんどもよりけんめいにいきてそんざいすらけされてしまうかれ やかのじょたちのそばにいるほうがいっそここちよい。

2019.7.29

 

  ひさしぶりに皿を割った。詰まらぬ言い合いから激高して、食卓の菜を庭に叩きつけたのだ。白い食器が夜目に砕けた。世界が安定している姿は嘘だと思う。 ジャニスは言ったものだ。わたしたちは醜いけど、音楽があるわ。神は汚物の地下の黄金だ(ひょっとしたら汚物自身かもしれない)。わたしはわたし自身の荒 ぶる神をどうすることもできない。荒ぶる神をたたえよう。わたしは部屋の揺り椅子に身を沈めてヘッドホンのボリュームを最大にする。そして待つ。静脈に 打った薬が全身にまわってくるのを。だれかがこの身を十字架に打ちつけてくれないかと思いながら。昼間は東大寺の念仏堂の前で催された盂蘭盆(英霊供養) を見てきた。世俗にまみれた坊主どもが高揚するひちりきの響きとともに「散華」と題された声明を唱える。低く高くそのうねりのような波が背後の英霊殿の冷 たいコンクリートに囲まれた地下の遺骨やそれすらもない小石や紙切れだけのかれらに押し寄せるのを感じながらおれたちはこれに勝てないと思った。いくらし たり顔で「英霊」を否定してもおれたちは勝てない。死者は嘘でも慰謝されることを望んでいる。いや生き残ったものたちがそれをいちばん必要としている。わ たしはじぶんが冷たいコンクリートの地下室に置かれて忘れられた小さな木箱のなかの喉仏のような気がする。坊主どもの声明がかわいたこころを浸す。木箱の なかでまるで父や母の声のようにがらんどうのように反響する。気にすることはない、醜くてもおれたちには音楽(声明)がある。おれは木箱のなかの英霊なの かも知れない。ずっとこんなふうにだれかがやってくるのをまっていたのかもしれない。荒ぶる神をたたえよう。 おれたちはどうせだれもが朽ちていく。

2019.8.12



  今朝、夢のなかで、つれあいが先に死んで、娘が自立して家を出ていったら、おれは墓地の真ん中に小さな堂を建ててそこで墓守として暮らそう、それがじぶん のやりたかったことだ、と思っているじぶんがいた。

2019.11.12

 

   昼下がり、映画「野火」を見た。 戦場での兵士の遺体処理、死者儀礼、霊魂の物象化、そんな本ばかりを読んでいるといつか白々と河原 に屹立す る骨の夢まで見る。腹が裂け、脳漿が飛び散り、腕や足がもがれ、皮膚がめくれ、蛆が湧く映画のなかの兵士たちはだれもが平和な日常のなかでは滅多にないま さに野辺送りの死者儀礼とは真逆のだれにも看取られることもない無残な亡骸を野に晒して打ち棄てられるだけの「非業の死者」たちばかりだ。かれらが「うつ くしき眞砂(留魂砂)に天下った英霊」になったとはおれにはどうしても思われない。白骨は屹立したままどこへも辿ることもできぬ鬼となるだろう。その鬼か ら目を背けてうつくしき眞砂を白木の箱に入れ神として祀ることで手を打ったのがこの国の為政者たちでありおれたち卑しき臣民どもだ。その白木の箱を地面に 叩きつけて夢から醒めよ。流浪する鬼を呑み込め。眼裏から気泡のような黒い血を流せ。そして現在につらなるあらゆるからくりから脱出せよ。「野火」はふた たび近い。おれは喰らうよ。

2019.11.14



  JR阪和線富木(とのき)駅南一番踏切はいつか行かなければと思っていた。たまたま手にした友川カズキ「一人盆踊り」(ちくま文庫)にかれの弟の覚(さと る)が大阪行きの上りの回送電車に身を投げたときのことを書いていた。それを読んで、行かなくてはいけない、という気がした。

  車から降りるのももどかしく駆け込むと、花が飾られ線香けむる中に棺があった。 叔父さんは父母に気遣ってか、見なくてもいいんでは、という風に私にまず 見るように促した。 母は「見ねば信用でぎね」と、私のあとをついて来た。 「覚」であった。 顔は半分しかなく眼球も飛び出していたが、ほっぺたと鼻と 唇で確かに「覚」だと判った。 首から下の方はあまりにもバラバラでつなぎ合わせることもままならず、拾い集められたまま詰められていた。 みんなで泣い た。  母は今産み落とした赤子をあやすように「よしよし、よしよし」と何度も頬をさすり、覚をずっと慕っていた弟の友春は目を真っ赤にしながら口に酒を 含み口移しに覚へそれを浸していた。  ガンコで生前覚を叱ることしかできなかった父はハンケチをずっと目頭にあて低い声で「覚、覚」と何度も、何度も呼 び続けていた。 母が「覚、オラ方来たがらもう安心して逝げ、何も心配すな」と言った。 やがてゴオウという炎の音がし、「覚」は旅立った。

  生きている者はふわふわとさだめなく、とりとめがない。死んでしまった者は夏の陽射しに射抜かれた濃い影のように凛として動かない。残された者たちが何を 言おうともゆらぐことがない。わたしはだから、生きている者よりも死んでしまった者が好きなのかも知れない。及位覚(のぞき さとる)が日雇いをしながら 書いて蒸発したアパートの部屋に残されていた詩編をいくつか鞄に入れてきた。それらをほおずきのように口中にふくみながら、わたしは土曜日の昼のさびれた 富木駅南一番踏切にいた。そしてあの枕木に血に染まった頭髪が貼りつき、あの砂利石はそれをみていただろうか、などと考えていた。その間にもその日とおな じように電車の幾本かが駆け抜け、わたしは青い空をなんども見上げ、とりとめのない生者であるわが身をいぶかしんだ。後ろ髪をひかれるように富木駅南一番 踏切からとぼとぼと立ち去りながらわたしの頭にめぐっていたのはやっぱりあの「無残の美」の一節だ。「詩を書いた位では間に合わない / 淋しさが時とし て人間にはある / そこを抜け出ようと思えば思う程 / より深きモノに抱きすくめられるのもまたしかりだ」  詩がかれを呑み込んだのだが、かなしい 苦しい身もだえするような肉体は膨張してクジラの腹から飛び出したヨナのように弾けた。詩を書いた位では間に合わない淋しさとはなんだ。わたしはそれをど れだけ親しい人間よりもよく知っているような気がするのだ。あとはもうただひたすら歩くしかない。「詩を書いた位では間に合わない / 淋しさが時として 人間にはある / そこを抜け出ようと思えば思う程・・・ 」とつぶやきながら歩いた。踏切から西へ西へと歩き続けて、南海本線のガードをくぐったあた り、かつての行基の社会事業に従事した工人たちの子孫の集落でその行基の生誕の地なる碑をさがした。「宮前通」という標識のまま進んでいったらひっそりと 明るい高石神社に出た。その裏手、高師浜駅前で日露戦争の時代の広大な捕虜収容所がこのあたりにあったという説明版を読み、高師浜、伽羅橋、羽衣とワンマ ン電車にゆられて東羽衣からJRで鳳へ。三国ケ丘で泉北高速鉄道に乗り換えて光明池までやってきた。紅葉が目に映える広大な人工池のぐるりを歩きまわって 探したのは、戦前にこの池の造成工事に従事して死んだ朝鮮人労働者のための慰霊碑だった。工事完成後に元請けの大林組が慰霊碑を建てたのが後に四散してい たのを復した、という。ここでも死者たちはゆらがないゆらぎようがないこの国の不実な歴史に於いて。二時間近くさがしまわってすでに日は暮れかけていた。 駅前のスーパーで買ってきたカップ酒を石碑の前に置いた。そしてもう夕焼けがすっかり消えた薄暮の暗い池の水面をじっと眺めながら相変わらず「詩を書いた 位では間に合わない」が頭の中でぐるぐると呪文のように回転しているのをもう一人のわたしが見つめていた。もう一人のわたしはひょっとしたらすでに死んで しまったわたしであるのかも知れない。生者は死者のことを考える。生者は死者に見つめられてゆらぐ。ふわふわとさだめなく、とりとめがない。兄が弟に書い た、「おとうと / 死はあるか / 死よりも近く / 生はあるか」。  それは死んだ弟に書いたのだろうか。すでに死んだ弟では間に合わないか。生者 と死者のあわいはどこにあるだろうか。わたしたちは無数の死者たちに見つめられている。そしてときどきわたしたちはこっそりと入れ替わる。より深きモノに 抱きすくめられる。帰り道はすでに夜の闇だった。雑木林の暗闇をくぐった。生者はついに、死者たちには届かないかも知れない。それでも届けよと必死にその 手を暗闇のなかでのばし続けることが生きることかも知れない。

◆たかいしを歩く〜史跡ガイドマップ(PDF) http://www.city.takaishi.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/31/takaishiwoaruku2.pdf

2019.11.23


 
  葛木(古代でいう葛城・金剛の峰を云う)はいにしえの修験の山である。一方、行基は渡来系の父と母を出自に持つ。どちらも国家にとって“内なる他者”と云 える。それを「異能」と呼ぶ者もいる。もともと山は「異能」が巣食う場所だ。葛城の賀茂の出身である役小角は人々を言葉で惑わすとして流罪となった。行基 もまた「道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑している」として国家の弾圧を受けた。高鴨神社にもほ ど近い御所の、五條市に接する西佐味の集落から金剛山山頂へ向かう小和(こわ)道はかれら修験の古道であった。その道筋、標高550メートルの森閑とした 山中に位置する高宮寺(現・高宮廃寺跡)には山林修行によって修験の法を修める僧たちがいた。「行基菩薩伝」によれば24歳の行基はここで高宮寺徳光禅師 より具足受戒した、とある。691年(持統天皇5年)のことである。「日本霊異記」(上巻第4)には百済の僧・円勢がこの高宮寺に住んでいたとの記述があ り、また「日本書紀」(神功皇后5年3月条)には葛城襲津彦が新羅から連れかえった捕虜が桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしみ)の葛城周辺の村の漢人 (あやひと)らの始祖であるという伝承を記している。葛木は「異能」の者たちであふれていた。わたしは、そのような地の山中で戒を受けた24歳の若き行基 に会いにいきたくなった。わたしも国家に抗う「異能」を授かりたいと思ったから。高宮廃寺跡はいまでは杉の植林にとりかこまれている。が、それがかえって 榛摺(はりずり)一色が天空を目指すような空間を成していて心地よい。往時の金堂の礎石である自然石が物言わぬ戒律のように列びたたずむそのしずかな場所 で、わたしは持ってきたインドの香を焚き、ながいことひとり坐していた。あるいはさらに古道を登った標高750メートルに位置する石寺で修業した僧たちの 山中のつましい墓石に挨拶をして思いを馳せた。ときおり鳥が枝を踏む音がまるでくさむらから熊が現れたかのように響くほど音がない。樹の間から射し込む陽 のあえかな温度まで実感できる。わたしはこのまま石になって落ち葉の衣をまとうだろうか。1300年前、青年だった行基はどんな目をしてこの山道をあるい たろうか。どんな表情で草を食み、乾いた落葉を踏み、水を呑んだか。亡きひとの墓の前で祈ったか。その後のかれがしたことはみずからを「境界」に置き、底 辺の人びとと共に飽くなきこ の世の変革を望んだことだ。

◆巡礼の町石道 (小和道) http://enyatotto.com/mountain/kongouzan/owa/owa.htm

◆小和道(天ヶ滝旧道) http://www.kongozan.com/kongo/owa.html
2020.1.4

  風のない、おだやかな連休の初日。生流里(ふるさと)村もまた、ねむりのなかにまどろんでいるような集落だった。東大寺転害門前をぬけ、般若寺の手前あた りから柳生街道へと曲がる。手つかずの原生林が残る奥山ドライブウェイの、さらに東方の奥といったらいいだろうか。満州開拓の夢潰えていのちからがら帰国 した人々がたどりついた第二の開拓地がここだ。村内をぬける標高四百メートルの等高線は、若草山の山頂よりさらに百メートル高い。平地の少ない山あいに ぽつりぽつりと距離をおいて点在する家々はさながら「開拓民の村」といった風景だが、その広さに比べて村を周回する道路が車一台が精いっぱいの狭い道なの は集落がけっして裕福でなかったことを物語っているのかも知れない。「険しい山道を、荷車を押しながら数々の資材を運んだ。ようやく家族が安心して食べて いけるようになったのは、世間が“もはや戦後ではない”と騒いでから十年以上経った、1970年前後のことだ」(エイミー・ツジモト「満州天理村「生流 里」の記憶」えにし書房より)  

  教祖:中山みきの存命中にいくたびの弾圧を受けてきた天理教は、天皇を頂点とする国家神道を掲げる「大日本帝国」の下での生き残りをはかり、本願寺をはじ めとする仏教各宗派やキリスト教団とともに国家への忠誠の姿勢を明確にしていく。日清戦争の際には軍資金1万円(現在の数千万円相当か)を国に献上し、 「東・西本願寺合して一万円を戦費に献上ぜしに、天理教会は独力一万金を献ず、迷信の勢力亦驚くべし」と新聞(東京日日新聞)に報じられもした。 「1940(昭和15)年には、信者組織「一宇会」を発足させ、中国大陸侵略の一大スローガンとなる「東亜新秩序建設」に応えるかのように「天理教興亜 局」を設置している」(前掲書)。天理教団が満州移民、満州天理村の建設といった国策に教団をあげていち早く乗じたのも、これら一連の戦争協力の流れにつ らなっている。1934(昭和9)年、関東軍の全面的なバックアップのもとで、教団は最初の開拓団を満州・ハルピン郊外の土地へと送り込む。そこは武力を 背景に 地元民から安い値段で収奪した土地であり、教会や学校のある村の境界は城壁のようなゲートで囲まれ、各角にトーチカ(陣地)が設置され、鉄条網には五百 ボルトの電流が流れていた。新天地で汗を流しながら教祖の教えを伝道しようと夢見ていた人びとはやがて隣接する731部隊の施設建設にもたずさわり、敗戦 のソ連侵攻時にはマルタと呼ばれた人体実験の犠牲者たちの遺体を焼却する作業をさせられた。「自分たちは、人間を救うために満州に行ったのではなかったの だ。広い土地をもらいたいばかりに、先祖から託されたわずかな土地を売って天理教に入信した。満州人をこき使い、人間扱いしなかった。それでも都合のいい ときには、“天理教の親神様”よ・・・」

  山あいの猫の額ほどの休耕田のはたに車をとめて、集落の墓地へ向かう道をのぼっていった。やがて「満州天理村 一宇・大和 開拓団 拓友の碑」と刻まれた 赤錆色の石碑がなにやらものさびく、ひっそりと屹立している。昭和53年の建立だ。すでに時代から忘れ去られたか、しかし花台には真新しい色花が飾られ、 無数の魂魄はいまだここにとどまっている。その端に数百名の合祀者名が刻まれた銅板がコンクリートの台座にはめられ鎮座している。すべてみな、家族単位 だ。何十という家族の名前。ソ連参戦後、731部隊をはじめとする軍人たちだけが用意された軍用列車で内地へ帰国し、軍からも国家からも見捨てられた開拓 団の逃避行は筆舌に尽くしがたい。さながらそれまで日本人が中国やアジアの人びとにしてきたあらゆる悪が揺り戻されたように、殺し尽くし、焼き尽くし、奪 い尽くされたのだった。

  天理村民の逃避行は《涙無くして語ることをえない》という言葉に値するほど、どの開拓団より凄惨をきわめたといえる。ソ連の開戦と侵攻は、近隣の満州人を 暴徒化させ、これまでの憤怒を晴らすかのように各開拓団を襲撃させた。先に述べたように、天理村は相次ぐ襲撃や戦闘によって、殺戮、略奪、暴行の修羅場と 化した。
  そして、帰国のめども立たないまま、天理村ではこうした悪夢の日々が続き、諦めて満州人の妻となった女性たちや、満州人の家庭にもらわれていく子どもたち もいた。天理村に隣接する福昌号(村)には匪賊が住み着き、危険極まりない状況のもと、人々は息を潜めて日常に耐えていた。

  8月18日、大本営の軍使として満州や朝鮮駐在の軍、開拓者の引揚げなどを善処するためにハルビンにもどった朝枝繁春中佐はその「関東軍方面停戦状況に関 する実施報告」に「内地ニ於ケル食糧事情及ビ思想経済事情ヨリ考フルニ、規定方針通リ、大陸方面ニ於テハ在留法人及武装解除後ノ軍人ハ蘇聯「ソ」ノ庇護下 ニ満鮮ニ土着セシメテ生活ヲ営ム如ク「ソ」聯側ニ依頼スルヲ可トス」と記した。かれらは国によって遺棄されたわけだ。

 銅板の合祀者名簿 の最後に寄せられた文言。「天理教青年会事業にて大東亜戦争の最中 昭和18年3月より大天理村の建設を夢に渡満 昭和20年8月終戦となるや ソ連兵や 匪賊の犠牲 飢と病気に倒れ母国を夢にみつゝ大陸に眠る拓友の霊を鎮め永遠に祀る」  もとよりここには「大天理村」建設の夢と侵略戦争の一端を担わされ た、冥府のような裂け目から立ち上がる声は記されていない。しかし記されていなくとも声は空間に、かれらが生きて二度と帰れなかった山川草木に満ち満ちて いる。

  何百人という人が死んでいる―――しかし何という無意味な言葉だろう。数は観念を消してしまうのかも知れない。この事実を、黒い眼差しで見てはならない。 また、これほどの人間の死を必要とし不可逆的な手段となしうべき目的が存在しうると考えてはならぬ。死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人 ではない。一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にのぼったのだ。何万と一人一人。この二つの数え方のあいだには、戦争と平和ほどの差異が、新聞記 事と文学ほどの差がある…

 何万人、何十万人の不幸には、堪える方法 がない。だから結局は堪えることが出来るということになる。小さな不幸には堪えることが出来ず、大きな不幸には堪える法がない。人間は幸福か。

堀田善衛「時間」(岩波現代文庫)

  ねむりのなかにまどろんでいるような山あいの集落の、子どものお椀のような谷筋のひと気のない墓地に立っているわたしにいったい何ができるだろう。石田伊 勢吉、初枝、小夜子、利信、秋子。銅板に刻まれたひとりひとりの名前をわたしはゆっくりと読んでいった。かつて笑い、泣き、食べ、眠ったひとりひとりとそ の家族の姿を、山川草木に満ち満ちた声なき声からわが身に転写するように読み上げていく。上符初治、捨子、君子、アキヱ、富子。ひとりひとりの名を読み上 げて いくと、会ったこともないかれらの姿がぼんやりと立ち現れて、動き出すようなかすかな気配がする。渡辺政吉、ハルミ、政幸、房子、清江、賢一。岸本政次 郎、ミヨ、加代子、満、浩三。春のおだやかな日の光がまるでどこかにある大樹の花びらのように音もなくふりつもる。かなしみともおえつともていねんともわ からぬような思念がゆらゆらとかげろうのように地面のうえでゆらいでいる。西条知男、たつ、一男、美代子、貞男、悟、公夫。布施猪之吉、イソ、あや子、和 子。何万人ではない、一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にのぼったのだ。交わされた会話、着物の袖、指先、肌におちる月の光。くたびれた騾馬の ような徒手空拳のわたしにできることは、せめて、かれ らを一人一人にもどしてやることだ。ひとりひとりの名前を生きていたときに呼ばれていたその名前を、もういちど読み上げて一人一人をよみがえらせること だ。 そしてひとりひとりのことを想う。この花びらのようにふりそそぐおだやかな春の日の光のなかでわたしは立つ。井上小太郎、たつ、節子、昭子。鈴木壮平、仙 蔵、すえ、幸 一、昭司。中野一三、門二、ヨウ、武夫、清江。吉田庄吉、ヤヱ子、スゞ子、敏一、義輝。高橋イネ、一男、ヒロ子、フミ子。たちつくす。

◆『満州天理村「生琉里」の記憶』書評 証言が問いかける、宗教と個人
https://book.asahi.com/article/11585549

◆満州天理村拓友の碑
〒630-1123 奈良県奈良市生琉里町195

◆満州「天理村」異聞(池田士郎) PDF
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3744/JNK001503.pdf
2020.3.28

  まるで皮膚が鞣(なめ)されたようなあの感覚はまだおぼえている。20代ではじめてインドを旅して、剥き出しの国でもみくちゃにされて日本へ帰ってきたあ の日。成田空港から乗ったバスの窓からひさしぶりに眺めるこの国の景色はなにやら空気がうすい、奇妙に現実感を喪失したのっぺりとした明るいビニールの気 球のなかの世界のようだった。もうひとつの感覚もはっきりとおぼえている。一年後にふたたびインドの地を踏んだときのことだ。やはり空港から夜のカルカッ タの市街へ走るオートリクシャーの上で、あらゆるこの世の夾雑物をたっぷりと含んだような湿気に満ちた生ぬるい風に髪をなびかせて、ああ、おれはかえっ て来たんだ、息のできる場所へ、とこころが叫んでいたあの日。以来、わたしはこの国にそぐわなくなった。皮膚に刻まれた刺青のような違和感がいつもこびり ついてはなれない。額に貼り付いた逆三角形だ。そうして数年後、嗤われて、はじかれて、干されて、こぼれ落ちたわたしは北関東の実家に引きこもり、夜は明 け方までひとり自室のスタンドの灯りの下でユングや聖書をノートに書き写し、昼すぎに起きてバイクで山へ行って道なき山中をうろつきまわり、夜の渓流で焚 き火の炎を見つめて家に帰る、そんな毎日を送っていた。隣家の老齢の主人はそんなわたしにいつも挨拶をしたが、目は冷たくわらっていた。わたしにとって世 間と はその冷たいわらいだった。あのジャック・フィニイのSF『盗まれた街』(The Body Snatchers)のなかの人間の皮をかぶった未知の生物だった。わたしはかれらを憎んだ。そしてフィリップKディックの『ヴァリス』に出てくるこんな 言葉。 一、おまえに同意する者は狂っている。 二、おまえに同意しない者は権力を持っている。それはわたしの鉄の玉条であった。わたしは古い墓地をめぐるのが好きだ。死者は裏切らないからだ。あやふや でも ないし、ひとを冷笑したりもしない。はるか遠い南の島で飢え狂い死にをした兵士、国家権力によって縊られたもの、朝鮮人というだけの理由で嬲り殺されたも の、 紡績工場で死んだ身寄りのない女工、満州の開拓村で殺された家族たち、昏い海の底で引き揚げ船とともに眠っているひとびと、墓石にさえ差異の刻印を畜生と して刻まれたひとびと。かれらを数としてではなく、生であった存在として肉に刻みつけるために、わたしはそのひとつひとつの墓石を訪(おとな)う。見舞い で あり、弔いであり、告解である。そうしてわたしはやはり、あたりまえのなかで挨拶を交わしながら目は冷たくわらっているかれらを許さない。許すわけにはい かない。善人たちのつどう風景とは<悪>である。なぜならかれらは歴史に背を向け、歴史を簒奪するから。真実をやさしい善意 で鞣すから。かれらがおだ やかに語り、微笑むその 日常の連続に不合理な屍が累々と横たわっている。反吐が出る。この腐った果実のような日常のなかで、アフガンで米軍の爆撃を受け脳味噌を飛び散らかせて 死んだ愛らしい少女ナジーラのことは忘れられる。反吐が出る。蒸気がもうもうとこもる紡績工場で使い捨ての部品のように酷使され無縁墓の山に積み上げられ た寄宿舎工女・宮本イサのことは忘れ去られる。反吐が出る。コロナウィルスがあぶり出すもの。それは一見あかるく取り繕い、豊かに見えて、ニセモノだらけ の世界 が背後に隠し 持っていた本物の<悪意だ>。それは黴のように、腐海の胞子のように、ひとのこころをゆっくりと詰まらせる。 近江の古い集落の裏山に伝わる百年前の伝病焼屍場跡を叢のなかにさがした。目に見えぬウィルスによっていのちを奪われた肉親の亡骸を人々はかついでこの昏 い杣道をたどった。遺体を焼く炎が人々の頬を赤く照射した。百年前のそのときの人びとといまのわたしたちは何が違うのか。かれらは世界の終わりを見ていた か ?世界はいつか良くなるだろうと信じていたか?  あれから百年の歳月を経て分断はさらに深く進行したのではないか。今回のコロナ禍によってあぶりだ される風景は、どれもこれも百年前から厚いコンクリートの石棺を侵食していた腐海の臭いだ。政治も官僚も司法 も、 教育も暮らしも階級も、差別に満ちたひとの心も、どれも耐え難い腐臭を放っている。わたしたちの肺はすでにその汚染された空気に侵されている。清浄な空気 の中でわたしたちはもう、生きられない。ウィルスがあぶり出したものはそれらすべての実相である。微笑みの奥の冷たい目が秘めていたものたちだ。腐臭を隠 した花よ りも、剥き出しにされた汚濁の方がいっそ良い。多くの人々が理不尽に死んでいく。パレスチナでもアフガニスタンでもずっとそうだったさ。殺される前に <尊厳>を剥ぎとられて。きみが見てきたものはかれらが見せてくれたものだけだ。あの巨大な津波も原発事故の惨劇もいまでは もうすっかり忘れ 去られてしまった。百年前から繰り返してきたように、いとも容易に歴史を簒奪する。300万人が死んでも何も変わらない。だからこんどもきっと& lt;元 の反吐の出る日常>へ還っていくだろうよ。コロナウィルスに有効な薬が見つかったかも知れないという記事を見ると、ほっとすると同時に、い やいや、 まだ足りない。まだまだ、だめだ。もっともっと多くが死んで、野に焼かれ穴に投げ込まれ、混乱し騒擾し欲望し阿鼻叫喚し、あらゆるものが二度と蘇らぬくら い徹底的に破壊し尽くされるべきだ、ともうひとつの声がしずかに確実に耳元でささやく。

2020.4.12

 
  生まれてはじめて、かぎりなく深い死の淵から、<天皇>が、まごうかたもないみずからの絶対者として、たちあらわれたという ことです。「天皇 のために」死すべき存在としての日本兵士にとって、それはきわめて自然なことです。彼らの<死>は<天皇 >と結びつかぬかぎり、 実体をもちえません。<天皇>もまた、兵士の<死>と結びつかぬかぎり、実体をもちえません。 両者がひとつに結びつくことによっ て、<天皇>と<死>とは、はじめて共に実体を獲得したのです。そうでないかぎり、しょせん、 <死>は<いわ れのない死>にすぎず、<天皇>は<いわれのない神>にすぎません。 (上野英 信「天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序説」)

  兵士の死はそもそも、いわれのない死であった。天皇はそもそも、いわれのない神であった。だれもそれを言いださないはっきりと啖呵のようにきってやらない から、わたしたちは爆弾とともに四肢四散したむごたらしい死を昇華させ言祝いであげ句のはては劇やら芝居やら饅頭やらになるおれたち愚昧どもよ。死んだ兵 士はまずしい木挽きや炭鉱夫や沖仲仕であったのだがどこからかそのうちの一人か二人かが“四つ”だといううわさがまことしやかに流れてその魑魅魍魎は被差 別の同和化に利用され他方では「四つのくせに軍神など畏れ多い」と遺影を砕かれた。上野は記している「彼ら三勇士にまつわる「部落民」説も、一つには恥知 らずの美化に対する、恥知らずの反動であったと私は見る」 恥知らずの国民どもがもちあげ叩き落す。あっちにもこっちにもと勇士の骨を所望された遺族は爆 弾で四肢四散した上に骨までも四散させられるかと悲しんだ。いわれのない、ただむごたらしくただむなしいだけの兵士の死はきらびやかにかざられ、おなじ悪 意でふみにじられる。忘れられない。戦争法案反対国会前デモに参加した翌日、生まれてはじめて訪ねた靖国神社遊就館で物言わずこちらを凝視する無数の「神 (命)」たちの視線とともに見た花嫁人形が帯びたそのすさまじいまでの<いわれのない死>への願掛けを前にこいつにはとても 勝てそうもないと絶望し 立ち尽くした。あの世の花嫁だよ。爆弾三勇士はおれたち愚昧どもの息の臭え臓腑からすえた死臭とともにたちあがってくるおぞましいげっぷだあらゆるすべて を内蔵しているグリコのオマケどころでない。おれたちはまだいちどもその呪縛から解き放たれたことがない。おれたちが橿原神宮や靖国神社の森で古来固有の 居住まいでいのりをささげる そのかたちは江戸時代すら容易にさかのぼらない。巻末解説に阿部謹也が書いている「しかしその国において死がどのようなものとしてとらえられているのか、 人びとが死者をどのように位置づけているのかをみるとき、その国がみえてくるものである」  いわれのない死は天皇のものではなかった。靖国神社遊就館を 出てからのおれは兵士の死をとりもどさなければいけないと思い続けてそれで軍人墓をめぐるようになった。おれはそれほどかしこいわけでもないからなー   考えるよりも肉体にきざむ方が性に合っている。いわれのない死のひとつひとつを名前を歳を死んだ場所を墓石にきざまれた文字をたどっているうちに何かが見 えてくるかも知れない。「何故このような社会の構造が出来上っているのか。ここには明治以来のこの国の共同体的特質と国家権力とのなれ合いの構造が露呈さ れている」 「個人が自分の死を死ぬことができず、自らの死を何らかの別のもので意味づけねばならない構造がいつから生まれたのか」(阿部謹也)  個人 がじぶんの死を死ぬことができない国、おれはそれを断固拒否する。兵士の死をいわれのない死に返せ。天皇をいわれのない神に返せ。おれはおれの死を死にた い。
2020.6.4

 京都・八坂神社の南、親鸞の墓所である大谷本廟からつらつらと尾根筋をのぼって清水寺へ至 るあいだにひろがる東山の広大な墓域はかつて化野や蓮台野とな らぶ平安京の三大葬送地のひとつであった。身分の高い者は荼毘に付され墓がつくられたが多くの死者は野ざらしであった。一説には山の枝に遺体をかけて鳥が 食べやすいように処理して風葬にしたことから鳥辺野とよばれたとも聞く。その鳥辺野墓地の入口に堂々たる軍人墓に囲まれた自然石の肉弾三勇士の墓がある。 「然るに三勇士は実に吾真宗門に出づ。亦以て宗門の栄誉と謂ふべきなり」  沖仲仕や炭鉱夫などの貧しい家の出の若きいのちが四肢四散し軍や坊主や部落解 放の宣伝に担ぎ出され人びとは熱狂し歌舞伎や映画はてはレコードやグリコのおまけにまでなってそのままの電通姿で眠っている。男根の如くそそり立つ軍人墓 は 参道沿いに多かった。三勇士から5,6年後のいわゆる「支那事変」で斃れた奈良の耳成村の兄弟の墓もあった。歩兵38連隊である。「資性温厚篤實ニ シテ慈愛ニ富ム」  「昭和13年11月1日英霊凱旋同月6日村葬」  いつものように報われぬ死者たちの名を読み上げながら鳥辺野一帯をさまよって清水 寺のはたにたどりついてアテルイ・モレの碑に挨拶だけしていこうかと歩をすすめれば拝観料エリアだったために引き返して親鸞御旅所ならぬ御荼毘処など覗い てこんどは鳥辺野の火葬・野辺送りの地であったと伝わる六道珍皇寺門前の六道の辻をくぐればおりしも特別公開中で冥土にくだりて閻魔大王にも仕えたという 小野篁(たかむら)像やかれが使った冥府への井戸も間近に見れてますますこの世とあの世の境が溶けていく心地であった。そのままギャラリー白川を訪ねれば 画廊主の女性と彼女の38年間のギャラリーの歴史をつらぬくジョン・ケージの銅版画やマルセル・デュシャンのサイン便器との馴れ初め話で大いに盛り上がり 人為を排した偶然はめぐりめぐって必然なのだそれが宇宙のリズムなのだと拝聴していたら本個展の今尾さんご本人もやってこられてはるさんの ギャラリーCreate洛以来。今尾さんの作品について画廊主は抽象の奥に具象がひそんでいると言ったがさらに言えば山川草木が細胞レベルの始原にたちも どりもういちどなにかを企てようとしているのだった。つまり肉弾三勇士も阿弖流為も小野篁も親鸞もみな解き放たれた光の粒子であってこの世とあの世を自由 に行き交い明滅している。それはジョン・ケージが企てたチャンス・オペレーション=あそびなのかも知れなかった。気がつけばおよそ一時間半をわたしは今尾 作品であそび、もう一時間半をケージの偶然の必然宇宙の会話であそんですでに昼飯も忘れて3時になっていた。菊乃井本店の裏に道元の荼毘跡を見つけたのよ という画廊主の言葉にさそわれて舗装の果てた草道の奥に道元禅師荼毘御遺跡の碑を見つけ思い出していたのは以前に松本の美術館で見た細川宗英の自由なのか 不自由なのか豊饒なのか欠損なのかすべてをつきぬけて存在が対峙する道元の立像だった。道元のこの世の肉体が炎につつまれてくずれおちる。わたしたちは解 き放たれた光の粒子にまいもどりふたたびのあそびをはじめる。

2020.10.16

 わたしが軍人墓をめぐるようになったのは、例の「戦争法案」反対の国会前デモに参加した翌 日に生涯ではじめて訪ねた靖国神社・遊就館でこちらを見つめる 無数の「英霊」たちの写真を目の当たりにして立ちすくみ、この「英霊」たちをやつらの手からとり戻さなければいけないと思ったからだ。目に入った共同墓地 を訪ねて軍人墓をさがし、名前を読み、墓石に添えられた履歴を読んで、わずかな時間だが失われたいのちに思いを馳せる。記録を残すわけじゃない。いやむし ろ記録など残さない、一期一会の出会いでいい。そうやって何百の「英霊」たちを訪ねたか。シベリア抑留で亡くなった4万6300人の名前を1人ずつ読み上 げて47時間がかかった。米粒で300万ともいう戦没者を数えて掌ですくえば指の間から漏れ落ちる一粒ひとつぶもその残像が眼裏(まなうら)にのこる。わ たしはまだほんのひとにぎりの「英霊」たちに出会ったにすぎない。

2020.10.22

 2020年11月22日(日)の旅の記録。ジオス他を車に積んで7時半に自宅を出発、BGMは藤圭子(iPodをつなげたら、たまたま始まった)。高速 を使って9時前に東近江平田町の福山さん宅に 到着、車を置かさせて頂く。ちょっとそこまでいっしょにと、福山さんも自転車を出して武佐めぐり。宿場本陣跡の馬頭観音や明治19年築の旧八幡警察署武佐 分署庁舎建物、そして福山家の菩提寺・浄厳院へ。墓地の入口の六地蔵の前掛けを交換しているおばちゃんがいて「毎年、替えているんですか?」と訊くと、 「半年にいっぺん。ほら、模様も季節に合わせて」と見ればかわいいモミジの前掛けだ。近江守護の佐々木六角氏の菩提でもある浄厳院は田圃のなかにぽつんと 建ってい る広い境内を有する。墓地も広大で、「ここでテント張って、一日でも過ごせるなあ」と笑う。じっさいに、陽だまりの中で時間が止まっているような空間だ。 この立派な歴史ある寺もいまでは無住だという。福山さんとはここでいったん別れて新幹線の高架をくぐり、近江八幡の中心部をめざす。繩手町、博労町などの 町名を見ながら八幡山ロープウェイ乗り口の八幡堀へ。有名な和菓子屋のたねややクラブハリエの洒落た店が並び、警備員が駐車場の誘導に立ち、観光客が多 い。堀に浮かべた小舟には脇差を差した武家姿のアルバイトが腕組みをしてじッと立っている。一日いくらくらいになるのだろう。十数名のサイクリング・グ ループに もすれ違う。群れるのは嫌だね。混雑を避けて裏手へ回ろうとすれば「シキボウ八幡工場」の額。どこかに赤煉瓦でも残っていないかと見るが痕跡もなし。右手 山中の八幡 山城は叔父の秀吉によって一族郎党を処刑されてみずからも三条河原で晒し首にされた秀次の居城であった。赤煉瓦の煙突が見えて立ち寄る。その名も「赤煉瓦 の郷」という介護施設に隣接した煉瓦造りの窯跡は、江戸期より「八幡瓦」で有名だった同地に明治16年頃、ドイツ人技師フリードリッヒ・ホフマンによって 設計されたホフマン窯で、ここで焼かれた煉瓦が“富国強兵”“殖産興業”の建物に使われていった。貴重な史跡と思うが説明版ひとつないのが勿体ない。同じ ように写真を撮っている折り畳み自転車の夫婦がいたので声をかけると、京都の木津から近江八幡めぐりに来たのだという。いよいよ湖岸だ。八幡公園を横切 り、メインのさざなみ街道からはずれて長命寺港から岬沿いのサブルートへ。これがアップダウンの連続で、けっこうへろへろになった。途中からは湖岸という よりは山道で、木々の間からわずかに湖面の輝きが見える程度。それにしても長命寺、さらに山中に天之御中主神社奥宮を祀るこの津田山一帯は磐座めいた巨岩 が山中 にごろごろしているのが道沿いからでも見てとれる。行者のように琵琶湖を見下ろす山ふところを徘徊したら面白いだろう。地底人や金星人とも交信できるかも 知れ ない。御所山を巻くように厳しい岬越えから下ると、そのまま大同川の河口から伊庭内湖へ向かう土手沿いの広い道で、橋の上から小舟の上の釣り人などを見て いると、こちらもうとうとと眠気を覚えるような心地だ。近江はこんなふうにすっきりとひろがる平地と丸みを帯びた低山、そしてあちこちにつながる水路が魅 力的だ。茶色の大豆畑に分け入って安土城址のある丘にとりつく。このあたり、飛び出しボーヤも信長風。そろそろいい時間になってきたんで西の湖近くの「海 坊 主」で車で来た福山さんと合流。田圃のまんなかにぽつねんと建っている店は、おばちゃんが一人だけで回していて、しかもなかなか流行っていて忙しそうだ。 注文から小一時間ほど待たされるがだれも文句を言わない。福山さんはラーメン、わたしは迷ったのだがちょっと珍しいせせり丼、そして餃子を二人で半分こづ つで。 せせり焼き定食もそそられたが、あまりお腹いっぱいになると走れなくなる。ふたたび福山さんと別れて、あらためて安土城址へ。ただし福山さんいわく、むか しは野趣があってよかったけれど、いまは整備されて登山料も取るので面白くないということで今回は下から見上げるだけにしておいた。じっさいに時間もな かったし。安土城址手前の集落内で新宮大社なるものを発見、茅葺が分厚い土間形式の拝殿が見事であった。拝殿が土間というのは、神に捧げる踊りか芸能をこ こ でやったんじゃないだろうか。もうひとつ、1580年に信長から土地を与えられて開設されたセミナリヨ(神学校)跡を訪ねる。ここでラテン語や声楽などの 勉強に励んだ士族の息子たちは、のちに秀吉のキリシタン弾圧によって九州で処刑されている。階段のついた水路以外は往時を偲ぶものは何も残っていないが、 しばし佇んで聞こえない声に耳を澄ませた。ひこね道からきぬがさ山トンネルを五個荘側へ抜ける。福山さんおすすめの石馬寺へ寄る。高い石段を前に少々めげ る。ここは、墓石が良い。百年千年の時を経て磨り減り玉石のようになった有情無情が苔むしてほとんど地層と化している。あまり人もあがってこない。五個荘 の集落を抜けて福山さんと約束していた小幡地区のサンマイを目指す。サンマイはもともとサンスクリット語の samadhi(サマーディ)が由来で、本来は心を一処に定めて動くことがないの意であるが、中国を経て日本へ伝わった段階で三昧という字をあてられ、や がて墓場を意味するようになった。わたしは墓地を訪ねると心を一処に定めて動くことがないので、正しい三昧をしているわけだ。五個荘の駅前で福山さんの軽 自動車と偶然会い、車について走る。行った先は近江鉄道の五個荘駅から二三百メートル南東に位置する、52号(栗見八日市)線沿いの雑木林のような一画で ある。近江の墓制について調べていたわたしがWeb上で写真を見つけて、福山さんがここじゃないかと目星をつけて連れて行ってくれた。この小幡地区サンマ イについてはあとで別稿を設けるつもりだが、一言でいえば放置された埋め墓の風景、である。かつての木の墓標は倒れて朽ち、自然石で囲った地面があちこち に散在し、もはやどこが墓域の外でどこが内なのか分からない。こんな墓の方が自然なのかも知れない。死んで人は石ころや土く れにかえっていく。それを忘れた頃から人は狂い始めたんじゃないか。その後、薄暮が近づいてきてわたしは自転車を福山さんの車に乗せてもらい、おなじ小幡 地区のもうひとつのサンマイを訪ねた。こちらはわたしがグーグルマップで偶然見つけたもので、現在も使われている埋め墓だ。直立した背の高い木の墓標がま るで 浜に打ち上げられてそのまま腐った鯨の骨のように林立しているさまは、かなり圧巻だ。場所は先のサンマイから南へ三百メートルほど下ったあたりの田圃のま んなかにある。このサンマイでいちばん最近のものは元号が変ってからの94歳のおばあちゃんの墓で、生前使っていたのだろうステッキが墓標のわきに立てら れて いた。わたしたちはこのアラスカの原野の古代イヌイットたちの聖なる墓域のような風景の中をしばらく思い思いに歩きまわり立ち止まりしていた。これでわた しの今回の旅は終わった。車で平田町へ戻る頃にはすでに夕闇だった。福山さん宅で自転車を積み替え、頼んでいた近江米30キロ(玄米)と カッパを受けとり、大根を三本もらい、車の陰でサイクルウェアを着替えてから、いつもの御澤神社までいっしょに行って夜の境内で「神の水」を汲み、そこで 福山さんと別れた。17時半頃。帰りは高速代を節約して信楽から山城へ抜ける山あいの下道をうねうねと。途中のフレンド(スーパー)で近江の納豆「豆力」 を仕入れ、それから半額のお稲荷さんと豆腐の総菜を車内で食べて夕飯とした。以前にこの店で滋賀県でしか売っていないサラダパン(沢庵とマヨネーズがはさ まっている)を置いていたはずなのだが見当たらなかったのが残念。家にたどりついたのがほとんど22時頃であったか。贅沢な旅でした。福山さんも、おつき あい感謝。
2020.11.29

 思いもかけずSNSの縁で近所の寺に無縁墓の残る「島村先生」(「チベット旅行記」の河口 慧海の親友であり、有吉佐和子が「複合汚染」で描いた五條の医 師・梁瀬義亮にも多大な影響を与えた大和郡山の数学教師・仏教者)の縁者の方とめぐり会い、昨夜から恋人同士のようにメールのやりとりを交わしている。向 こうは現在から過去の先祖を遡上して、わたしは百年前の無縁墓から現在へ流れ着いて、そうしてちょうど出会ったんだねと昨夜、つれあいがわたしに言った。 どんなきっかけでもいい。身近な百年を見つけて穴を掘っていけば、この国のいろんな姿が見えてくるよ。わたしの場合はたまたま近所の寺で見つけた紡績工場 の女工たちの供養碑と「島村先生」と書かれた無縁の墓石だった。この数年、百年をめぐる旅はわたしをさまざまな場所へ連れて行ってくれた。そこでわたしは 教科書や歴史の大舞台には出てこない歴史の実時間を生きた人々の生温かい吐息に触れたのだった。そしてまだまだこの旅は終わらない。

そ んなふうに恰も百年前に向かってメールを書いているような錯覚をおぼえながら、ふと密林で20年前、飛鳥の古い造り酒屋の建物で開いたつれあいとの入籍報 告会で、当時大阪の人権博物館の理事長をやっていたKさんから頂いた球磨焼酎「六調子」を見つけてなつかしくなって注文した。あの頃はこんなお酒は高価で とても買えなかった。おいしいおいしいと言っていたら、Kさんは後日にもう一本持ってきてくれたのだった。その「六調子」で、今夜はいろんなことを思い出 しながら、とりあえず「島村先生」と百年の旅に祝杯だ。

2021.1.26

 梅田の東方、天六(天神橋筋六丁目)からもほど近い長柄地区はかつて、いわゆる貧民窟と呼 ばれる一帯であった。町の中央に大阪七墓の一部を統合した長柄 墓地が広がり、鶴満寺(かくまんじ)は近世の一時期にコレラ患者を受け入れた。斎場があり、隣保館があり、内鮮協和会があり、戦後は「罹災者、復員者、外 地引揚者の世話を目的として」宿泊所が設置された。Yさんはその長柄で生まれ、地元の豊崎小学校に通った。長柄墓地と斎場に隣接した小学校はよく焼場の匂 いが窓から入ってきたという。墓地の西側に面した南北の道は「ハカスジ(墓筋)」と呼ばれ、南下したあたりには遊郭があり、街娼が立っていたという。早く につれあい を亡くしたYさんの父親は日雇い人足で、毎朝西成へ仕事をもらいにいった。ふだんはやさしい父親だったが、大の酒好きで、日当が入ると呑んで景気よく使っ てしまう。Yさんは兄と姉の三人で食べるものがないと、近所の祖母の家へ行き、祖母があつらえてくれた食事を家に持ち帰って食べた。毎日が、そんな具合 だった。祖母は父親の兄にあたる長男と暮らしていたが、王冠の内側にポリエチレン樹脂のライナーという裏張りを貼りつける内職をしていたそうだ。ときどき 祖母がやってきて、呑んだくれている父親を「いったいどうすつつもりだ!」と叱った。その祖母はのちに自転車に乗っていて長柄墓地へ向かう野辺送りの車に 轢かれて死んでしまった。Yさんの兄や姉が父親を捨てて出て行ったように、Yさん自身も父親が嫌で豊崎中学校を卒業してから家を出て、最初は生野あたりで 数年を暮らした。それから知り合いにすすめられて八尾の空港近くにあたらしく出来た豆腐やうす揚げの製造工場で働いて、やがて結婚をして子どももできた。 30歳を過ぎた頃、疎遠になっていた兄から父の死を聞いた。54歳で、お酒がもとで死んだという。晩年は兄が面倒を見ていた。父も祖母も一心寺に納骨して 骨仏になり、ときどきお詣りに行く。40代のときに豆腐の製造工 場が倒産して、つてを頼ってこんどは豆乳の製造工場に就職した。だが誘ってくれた社長が死んで会社を継いだ息子との折り合いが悪く、退職してタクシーの運 転手になった。そして65歳で定年退職。そんなYさんの話を聞いていたら、いまはすっかり様変わりしたそうだが、俄然長柄を歩いてみたくなったぞ。

2021.2.12

 奈良県川上村白屋地区。50年の歳月を費やして完成した大滝ダム沿いの斜面に立つこの集落は、ダムの試験湛水の際に亀裂が発生し、全戸の移転を余儀なく された。2003年のことだ。いつか単車で訪ねたことがある、縄文時代よりの来歴をもつ丹生川上神社上社もこの大滝ダムの完成によって水没した。限界集落 の果てに、建物だけが残され朽ちて行き、茶碗や農作業の道具や車のタイヤなどが散在している廃村風景とは異なり、白屋の集落跡は日当たりの良い斜面にかつ て家々を抱いていた石積みとせまい道と石段だけが枯草になかば包まれて整然と佇んでいる。まるで日常のある日にマグマがすべてをきれいに燃やし尽くして流 れ去っていった後の集落のようなのだ。あるきまわっても、生活の残り香はあまり匂わない。ところが集落の北の尾根筋にある墓地は別だ。37戸のうち十数戸 はダムに近い新たな造成地のあたらしい白屋地区へ移転したが、その他は奈良や大阪の都市部へ四散した。住民たちが起こした訴訟のなかで求めた墓地の移転費 用は最終的に認められなかった。そのためか、川上村に残った住民の墓に交じって、おそらくこの地をはなれた元住民の墓や無縁墓はかつての墓域の片隅に墓石 のおもてを上にして一列に並んで倒されているのだった。おさない子どもを祀った石仏もおなじように仰向けに、枯草のベッドの中の赤子のように横たわりほほ 笑んでいる。墓地のいちばん奥に建つ明治時代の立派な英霊塔の前にもいくつかの軍人墓が陪塚のように仰臥していた。祀られる墓と、もはや祀られることを放 棄された墓が、姿勢によって分かれていた。かつての寺と神社の跡地前に車をとめて、テーブルと椅子を出し、昼食とした。祭の日には、この場所も集落の人々 で賑わったことだろう。アルコール・ストーブで湯を沸かし、コーヒーを淹れる。集落の南端のこの場所からは、斜面にへばりついた石積みも、ダムによって堰 き止められた吉野川の紺碧の水面も見える。白屋地区の歴史は800年とも千年とも言われるそうだ。じっさいは丹生川上神社上社のように縄文時代から、この あたりには人々が住んでいた。縄文の人々の住居跡は二千年前には、このいまの白屋集落跡のようだったろうか。そんな古代のマボロシを夢見ながら、組み立て チェアにすわってわたしは先日届いたばかりのもうこの世にはいない岩名監督の「第3舞踏論集 孤独なからだ」の数ページを読んだ。「・・以上のような内容 の踊りであるということになるとなかなか簡単に世間的にアピールしたり有名になったりお金儲けをすることは出来ません。なぜなら世の中というものはいつで も規範を作ってその規範のなかで優劣を作りたがるからです。つまり商売や商品として踊りに値段をつけるのが社会です。ですから私たちの踊りを志す人たちは 有名にならなくてもいい、評価や競争の外にいても構わないという雄大な決心と覚悟がなければ出来ません。それでもこういう踊りをやってみたいという方があ れば一度尋ねて来てください」(2009年2月16日 アテネ)  この古代縄文のマチュ・ピチュのような白屋集落跡で、岩名雅記の踊りを見てみたかっ た。あの世へ、別の空間へ旅立ったあとでも、かれのあたらしいダンスを感じることは可能か? あの仰臥した露光童女の無縁墓のようなダンスを?
2021.2.15


 ジップ散歩。春がちかづいてき て、田圃のへりには色とりどりの野の花々が咲き始めた。タンポポを一本摘んで来世墓の、郡山紡績工場寄宿舎工女・宮本イサ ちゃんの無縁墓をひさしぶりに訪ねた。ずいぶんと手を尽くしたけれど、120年前に死んだたった一人の女工の来歴さえわたしたちは届かない。年老いた女性 がついてきたキャリーカートにすわって田圃をながめている。むかし産婆さんをやっていたという近所のおばあさんだ。たしか90歳に近いともつれあいが言っ ていたけれど、彼女の年齢を遡上しても工女・宮本イサの生きていた時代には届かない。じっと動かないおばあさんは風景に同化してまるで山川草木ほとんど遍 照金剛南無阿弥陀仏のようだ。紡績工場で死んだ工女・宮本イサはきっとおばあさんの1/3の時間も生きられなかっただろう。でも彼女はたしかにこの土地を あるき、この空をながめた。昼間はうごいていれば汗ばむような陽気だけれど、陽が傾けばまだ空気は冷たい。でも植物たちはきたる春を予感して華やぐ。あま ねくひかりというのはきっときみやあのおばあさんたちのことをいうのかもしれない。

2021.3.14

 
 ブレンダ・リーの声には「それ以上の何か」がある。陽炎の ような夏草の陰で石ころの姿になってまだ見ぬ夢を見続けている朝鮮人女工の魂のようなものだ よ。夜になるとそうしたものにからめとられてしまう。それで彼女の声を聞きながら会話をする亡者との会話。夜中にいつもぎりぎりでこの世にかえってくるの さ。草いきれに逢瀬して。この世では会えないから。

2021.3.16

 生がつねに死を孕んでいるように死もまた生とたわむれている。茫々とした墓地にひとり佇めば地面の下で瞑目しているかれらと地上でまなこを見ひらいてい るわたしのどちらが生に近くどちらが死に近いのか、もう分からない。生とたわむれている死はときに生き生きとしているように見える。死を孕んでいる生もま た死に負けじと急いてときどき転げ落ちそうになる。桜のつぼみが内なる生のリズムでふくらみかけている小春日和、かつて奈良のみやこと異界とを隔てる奈良 坂の古い共同墓地の墓石と墓石のはざまにしゃがみこんで線香の束に火をつけていた老人がこうべをあげてわたしに、ようお詣り、と声をかけた。老人は生とた わむ れる死であったかあるいは桜のつぼみをふくらませている何ものかであったか。猿沢の池にほどちかいギャラリーにならんだ Left behind heart (置き去りのままの心)と題された安藤さんの作品たちも生き生きとさんざめいているように見えるがじつは死者たちの世界なのだった。作家は津波で流された 愛犬の「感触を思い、瓦礫をどけながら見つけ出すように彫った」という。そこから生とたわむれる死者たちが生き生きとたちあがった。かつて作家が暮らして い た福島県いわきにもほど近い北関東の田舎にいっとき住んでいたわたしはいわきの海も山もそこに吹いていた風もながれていた雲も知っている。死はときおり生 によって置き去りにされる。わたしは慄然とする。やわらかな陽の射し込む居心地の良い空間(ギャラリー)が突如津波がひいたあとの黒々としたはてしない瓦 礫の原に変化(へんげ)する。作品はその瓦礫の原からふいと幽体だけがぬけ出たかのようにうきあがりゆれている。まるで剥がれ摩耗し苔むした石のほとけの ようにあたたかい。 かつて作家の堀田善衛は、古代ギリシアでは過去と現在が前方にあるものであり、したがって見ることができるものであり、見ることのできない未来は、背後に あるものである、と考えられていた―――という、ホメロスの『オディッセイ』の訳注をみつけて、「これをもう少し敷衍すれば、われわれはすべて背中から未 来へ入って行く、ということになるであろう」(『未来からの挨拶』)と記した。そうであるならわたしがいま夢幻している黒々とした瓦礫の原は前方にあるも のであり、幽体のようにやわらかにただよう作品たちは未来の生とたわむれる死者たちの姿なのかも知れない。かれらのほんとうの姿をわたしたちはまだ、この ような作品というかたちでしか見ることができないというわけだ。だからわたしたちはこれらの作品がどうしようもなくいとおしく、切ない。
2021.3.20

  県立図書館へ120年前の娼妓の証文を撮影に行った折、「観光地・奈良の姿」と題した資料展示を見た。1900(明治33)年。奈良公園の大改良計画の 許可が下りる。若草山の山焼き、夜間実施に変更。大阪鉄道、関西鉄道へ合併。帝国奈良博物館、奈良帝室博物館に改称。奈良公園内に春日山周遊道路完成。ど れも郡山紡績寄宿舎工女・宮本イサが死んだ年のことだ。彼女の無縁墓を見つけて以来、1900(明治33)年がわたしのなかの基点となった。1900(明 治33)年。パリでは万国博覧会が開かれ、中国では「扶清滅洋」を掲げる義和団の外国人排斥運動(義和団の乱)が起きた。日本では足尾銅山鉱毒事件の被害 者農民らが東京へ陳情へゆく途中で警官隊と衝突した川俣事件があり、東京市がペスト予防のため鼠の買上げを開始し、 治安警察法公布された。愛知県の光明寺村の織物工場では女工31名が焼死する事件が起きた。その年、郡山紡績工場は綿糸価格の暴落により操業短縮を余儀な くされ、女工三人が「会社の虐待を恨み」脱走する事件も起きている。すべて郡山紡績寄宿舎工女・宮本イサが死んだ年、彼女が生きて、呼吸し、最後の風景を 見ていた歴史の実時間だ。1900(明治33)年を軸に世の中を考えると、たいていのことはたどれない、と気づく。宮本イサはどこの出身で、どんな生い立 ち で、なぜ死んだのか。どんな人生を送ったのか。なにも分からない。1900(明治33)年を軸に世の中を考えると、わたしはこの世にだれも知り合いがいな くなる。そのくせ、 世の中のすえた匂いはどことなく似ている。わたしはそのまま、2021年の日本で生活しながら1900年にはまだ生きていた郡山紡績寄宿舎工女・宮本イサ と彼女があるいたかも知れない紡績工場のはたの天満宮や佐保川の堤を二人だけであるく。イサちゃん、百年経ったって人間なんぞは猿のままだよ、いやいっそ 猿の方が賢いかも知れないな。わたしの横で彼女はだまって土手の草を抜いている。ぼくは百年前に死んだきみのことをいつも考えている。ぼくはまるで記憶を なくしたにんげんのようだ、じぶんがどこのだれで、いったいどこからやってきたのかすら分からない。きみの顔すら思い出せない。風がわたる。過去からも現 在からも切りはな されてわたしは立ちすくむ。

2021.4.11

  落剝した墓石を前におれは知らず会話をしているわけだ。ドラッグで逝っちまった男が残した曲なんていかしてるじゃないか。むかしからこの世が嫌いだった からあの世と話をしていたんだ。あちら側はもう変わることがない、こちら側はふらふらとあてどなく醜いばかりだ。醜くたっていいじゃないの、あたしたちに は音楽があるわと、じゃにすじょぷりんが云っていた彼女の尖った乳首が好きだった。死者は裏切ることがない。かれらはみずからの死をもってかれらが生きた 真実を語る。イエスがそうしたように、だよ。かれらが残したかったもの・ほんとうにつたえたかったものに目をこらせ。そうでない連中は抜け殻でしかないこ の世の遺体のまわりをうろついては現世の利益に花を咲かせる。おれはうんざりだね、もっとしずかなところへいってひとりですわっていたいんだよ。苔むした 墓石は生者よりもたしかだ。ほんとうはじぶんたちが死んでいて、かれらの方が生きているんじゃないか。そう思うことがあるよ。長い時間、だれもいない共同 墓地にすわって、露の光や幻の夢などと刻まれたわらべの墓石をながめているとそんな気持ちになる。百年前など一瞬だった。おれたちは永遠にじぶんを含むこ の世界が続くと勘違いしている。富をこの世に積むことの卑しさよ。おのれの死の瞬間になにを手離し、なにを残し、なにが伝わるのか。あの世へ持っていくも のなどなにひとつない。古い伝承歌にうたわれているだろ、切符は要らない、ありがとうの気持ちだけだ。もとの星屑へもどるだけ。墓場でひとりすわっている と、もともと手離すものなど、はじめからなにもなかったのだという気がしてくる。

2021.4.27

あの死者たちがならびゆくとき
 あの死者たちがならびゆくとき
 どうかわたしもその列にくわえてほしい
 あの死者たちがならびゆくとき

 郡山紡績工場寄宿舎工女宮本イサが死にゆくとき
 流れ星が彼女を悼み故郷の空をすべり落ちるとき
 わたしもその列にくわえてほしい
 高圧電線に触れた職工鮮人徐錫縦(ソ・ソクチョン)が
 朝鮮慶尚南道から来た18歳の金占順(キム・ジョンスン)が
 異国の工場でさみしく息絶えるとき
 どうかわたしもその列にくわえてほしい

 ドラムが鳴り
 トランペットが響きわたり
 天上の天使たちが舞い降りて
 かれらの魂がこの地上をはなれゆくとき
 わたしもその列にくわえてほしい
 この世に置いていくものは何もない
 どうかわたしもその列にくわえてほしい

 夕闇せまる
 あのさみしい野辺送りの道を
 あの死者たちがならびゆくとき
 だれもかれらにつき添うものがいないとき
 どうかわたしをその列にくわえてほしい
 かれらとともに行かせてほしい
 あの死者たちがならびゆくとき
 あの死者たちがならびゆくとき

(When the Saints Go Marching In - Van Morrison)
2021.6.3

  日本の朝鮮侵略に抗して手りゅう弾を投擲し上海派遣軍司令官他を殺傷した尹 奉吉(ユン・ボンギル)の処刑された遺体は長いあいだ、金沢・野田山墓地の陸軍墓地から一般墓地へ下る階段下の通路上の地面に秘密裏に暗葬された。「暗 葬」とは尊厳をうばい、生きた証をはぎ取り、人々に永久に踏みつけさせることだ。戦後になってようやっと掘り出された地面からは穴の開いた頭蓋骨と血のつ いた衣服と木の十字架が出てきた。いまのこの鵺のような国にあって、尹 奉吉(ユン・ボンギル)のように死んで人々に踏みつけられる者になりたいとわたしはこころから渇望するよ。
2021.7.28


  まず、「終戦」ではない。敗戦だ。かの戦争を終わらせたのではなく、人間も大地も焼き尽くされて無条件降伏したのだ。それをこの国は、ずっと「終戦」だと 言い続けてきた。ここに欺瞞の一が在る。敗戦の半年後に発表された「堕落論」の最後を、坂口安吾はこう結んでいる。「人は正しく堕ちる道を堕ちきることが 必要なのだ。そして人のごとくに日本もまた堕ちきることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」 は たしてこの国は正しく堕ちる道を堕ちきったのだろうか。ここに欺瞞の二が在る。広島の原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬ から」と刻まれている。過ちを行ったのはだれなのか? だれが責任を負ったのか? そして過ちを繰り返さないのはだれなのか? ここに欺瞞の三が在る。 2021年8月15日の毎日新聞朝刊をめくってみる。戦災孤児のつらい戦後があり、大阪・京橋大空襲の慰霊祭があり、池上彰と吉永小百合の対談「朗読に込 める平和」の特集記事があり、平和を祈る戦争体験者の投稿があり、「人命を最優先させる社会に」と題した社説が載っている。奈良版では靖国の遊就館に収め られているという吉野町の特攻隊員15名が寄せ書きをした飛行マフラーについての記事があり、「平和祭」と称した大和郡山市での戦争に関する展示パネルに ついての記事があり、東大寺の坊主どもが「天災・人災犠牲者」のための慰霊法要を行ったという記事がある。展示パネルの主催者は言う。「戦争を繰り返さな いためには、思いを継承していくことが何よりも大事」と。思いは、継承されてきたのだろうか。戦争の悲惨さと平和を謳うことによって失って来たもの。ここ に欺瞞の四が在る。つまり、2021年8月15日の毎日新聞朝刊には、被害の記憶はあまた語られているが、加害の記憶は一行たりとも存在しない。中国前線 で連行させられていた中国人女性の抱いていた赤ん坊を日本兵が谷底へ投げ落とすと絶望した女性もみずから谷へ身を投げた、などという話は8月15日には語 られない。これがあのアウシュビッツ収容所などのナチス・ドイツによる人種絶滅計画を経験したユダヤ国家が現在、パレスチナの人々に同じような残虐無道の 行いを繰り返していることの歴史的回答である。つまり、かつて堀田善衛が、古代ギリシャでは過去と現在が(可視化される)前方にあり、見ることのできい未 来は背後にあると考えられていたと前置きをしてから記した「われわれはすべて背中から未来へ入って行く」ことの回答、「可視的過去と現在の実相」(辺見 庸)を見ぬくこともなく盲目のまま背中から未来へ入って行くわたしたちの「平和がたり」の欺瞞である。いまだにこの国の主要寺社の坊主どもは英霊散華の経 なんぞを唱えては済ました顔をしている。仏教的世界に於いて「英霊」はありうるのか。これもまたあまたある欺瞞の一、要するにこの国の戦後は欺瞞の巣窟で あったわけ だ。みなでそれを許容してきた。 「・・犠牲者の記録などを残す場を「笹の墓標展示館」と名前をつけたのは、まさに死者たちはね、まったく追悼されること もないまま熊笹の下に眠り続けてきたという、そういう意味をぼくらは込めて、そういう名前をつけた、と」 北海道山中の熊笹から掘り起こされた多数の朝鮮 半島の強制徴用・強制労働の犠牲者たちを弔う日本人僧侶の男性のことばこそが、この国の8月15日にふさわしい。戦後80年。いまだに熊笹の下に眠る無数 の死者たちを忘却し、理不尽なむごいだけの死者を「英霊」と賛美し、盲目のまま、なにひとつ未来のイメージを持てぬままで背中から未来へ入って行く日本人 よ。わたしたちの肺腑は、いまだ欺瞞だらけだ。息を吸っても吐いても、白骨がからからとむなしくふるえる音がする。

2021.8.15

  昨日の国会図書館(関西館)、主には金沢の新谷さんから依頼されている尹奉吉(ユン・ボンギル)の大阪での足跡調査であったが、その合間にいつもの紡績工 女に関する新聞記事検索も。

最 近分かったことだけれど、従来の新聞各社データベース検索では拾いきれなかった記事が、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)で検索をするとヒットす ることがある。エル・ライブラリーの方が記事の内容まで検索がかかるらしいのだが、そこから直接元の紙面までは見れないので日付などを控えておいて、新聞 各社データベースと契約している公共図書館などでじっさいの紙面を確認したりプリントすることになるのがチト面倒だ。郡山紡績工場寄宿舎工女・宮本イサが 死んだ1900(明治33)年にしぼってみても、紡績女工に関する悲惨な記事がたくさん出てくる。

誘拐、折檻、逃走などは序の口で、強姦 されたり、遊郭へ売り飛ばされたり、過酷な工場勤めに16才の少女が川に身投げしたり、9歳で連れてこられたという11歳の少女が故郷帰りたさに汽車が通 るのを見ては泣いているという記事など。極めつけは大阪の天満にあった紡績工場で、紡績機械の不具合のために16才の少年職工が巻き込まれ「456回の運 転を継続したることとてあはれ治三郎はその脆弱なる四肢五体を巻き込まれては梁の上なる繋ぎに打ちつけられ巻き込まれては打ちつけられすることまたじつに 456回転したることなれば何かは以って足るべき四肢五体は粉砕微塵となって二三丈四方は肉の雨を降らし血煙立ちて目もあてられず・・・」といった光景に なった。この事故は会社の不注意に起因することからと「治三郎の死体は社葬を以って之を葬り第1号職工残らずをして会葬せしめる事と」なったと記事は結ん でいる。いまは無縁墓とはいえ「郡山紡績工場寄宿舎工女」の名で立派な墓石がつくられた宮本イサも、じつはこうしたいわく付きの社葬ではなかったかと、わ たしは思って瞑目する。

尼崎紡績福島工場で、工女の多くが礼拝しているという寄宿舎の大広間に設けられた仏壇の写真を載せている記事が あった。工女には真宗信徒が多いと書かれているが、これは貧しい地域の出身者と同義でもあるだろう。「中央には金色燦爛たる立派なお仏壇を置き、その〇側 には死亡した工女の位牌を安置してあります」と説明されたこの写真はある意味、すさまじい。宮本イサの位牌も、こんなふうに金色燦爛たる仏壇のかたわらに ならんでいたのだろうか。

2021.8.20

  昨日、ジップの散歩で立ち寄った郡山紡績工場寄宿舎工女・宮本イサの無縁墓がある来世墓で、あんまり隅の方にひっそりとあっていままで気がつかなかった、 わずか16歳の少年・西本清蔵の「軍人墓」。満蒙開拓青少年義勇軍のために「内原訓練所ニテ訓練中殉職」と刻む。ウチハラ、ウチハラ、どこかで聞いたよう なと思ったら、茨城県の内原であった。かの地に昭和13年から敗戦の昭和20年まで、『「第二の屯田兵」とか「昭和の白虎隊」と褒めそやされ、「片手に 鍬、片手に銃」を合い言葉に満蒙で大地主になることを夢』見た15歳〜19歳の青少年たちが農業実習とともに軍事教練を受けた。所長は、関東軍将校で満州 国軍政部顧問の東宮鉄男と共に満蒙開拓移民を推進した加藤完治である。かれのもとから86,530名の青少年義勇軍が満州の地へ旅立ち、そのうちの約 24,200名は悲惨極まる最後をとげた。加藤は敗戦後、公職追放によりA級戦犯となったが許され、『日本国民高等学校の校長に復職したり、旧満州開拓関 係のあらゆる団体や組織の枢要な役職に就いたり、はたまた、様々な会合や講演に招かれて昔ながらの熱弁を振るった』 わずか16歳の若さで訓練所で死んだ 西本清蔵はどんな死に方をしたのだろうか。内原訓練所で訓練生たちによって建設された日輪兵舎といわれた宿泊・研修を兼ねた円形の建物は建築家の古賀弘人 による設計で、日輪を現す円形は加藤完治の皇室崇拝と農本主義を現しているという。全国でこの日輪兵舎は作られていった。佐保川のほとりののどかな共同墓 地の片隅に、こんな歴史の一端が眠っている。

◆満蒙開拓青少年義勇軍 内原訓練所
https://www.asahi-net.or.jp/~un3.../0815-manmou-uchihara.htm

◆加藤完治と戦争責任
https://blog.goo.ne.jp/.../74e5d19af288605e24221117b65de075

◆水戸市・満蒙開拓青少年義勇軍訓練所跡
https://mainichi.jp/articles/20200330/dde/014/040/009000c

◆日輪兵舎 ―戦時下に花咲いた特異な建築
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E8%BC%AA.../dp/43060467452021.9.6

2021.9.6

  幾日も清涼な山の風景を経めぐっていると細胞という細胞の隅々にKumanoが沁みわたってくるような心地がする。熊野とはなにかと問う、その問いによっ て輝くものが真の熊野である。問いがなければ、熊野もない。かつて中上がそう言ったKumanoがウィルスのように身体に侵入して遺伝子の改変を目論む。 書き込まれたものはしかしうしなわれた遠い記憶であった。草いきれ、贖(あがな)い、ねぶるもの、石、くずれおちた皮膚が自明のものに抗いながら悲鳴をあ げる。人跡たえた源流の河原でわたしは後へのこしていく墓石をなんどもふりかえった。家族の待つわが家へ暗い山中の筏みちを急いだ求愛する鹿の声が遠くで 響いた。この世のすべての縁を断ち切って人知れぬかったい道をさすらった。闇夜にのびる巨人のような山の影がわが身におおいかぶさる。岩に南無阿弥陀仏を きざむ。ニューギニアで狂い死にした少年が姉と石堤のみちをあるいてゆく。丸太を鳶口でひきよせる。鷹が旋回している山頂の王者のように。炎のなかで小石 が爆ぜる蒸気があがる飯の匂いとともに。座棺に入れられた祖母の肉体はどのように腐敗していったろうか。百年、三百年、千年、山々の襞で人びとは生き死に を繰り返した。麦が実り蕎麦が実り血が流れ皮膚が破れる。Kumanoはまるで下からの矢のようだ。それによって人はときに命をうしなうが再生もする。古 来、死んだ人の魂魄は山へのぼった。黄泉還りという魂もある。

2021.10.14

  数日前の夜半に夢を見て、それは書きとめておかなければいけない夢だと思って夢のなかでなんども反芻しているうちに目が覚めた。老婆がひとり、秋の田の畔 道を墓参へいく。生きることは<実(じつ)>を憧憬することだ。老婆にとって墓参は<実(じつ)& gt;である。墓参をやめたとき、老 婆は<全き実(じつ)>へ還っていった。寝ぼけ眼で憚りに降りてきたついでに書斎の机の上の紙切れに書き殴ったのがそれだ。 その下に「溶岩」 とだけ記してあるが、何のことかいまとなってはもう判らない。「死者をして語らしめる」ということを文化人類学者の波平恵美子が書いている。「では、「死 者の言葉」が語られ、それが生きている人間に対して何らかの力を持つことはシャーマニズムの信仰体系を持つ文化においてだけなのだろうか。そうではない。 シャーマンの口を通して語られなくても、生者が死者の立場を代弁したり、あるいは、死んでいった者が生者に語った言葉を「死者の言葉」として生者が「語り 直す」場合には、それはシャーマニズムと同じように、「死者をして語らしめる」ことだと考えられる」(波平恵美子編「伝説が生れるとき 死者の語る物語」 (福武書店)  勝俣鎮夫は「日本人の死骸観念」(「生と死 2  東京大学教養講座10」東京大学出版会)のなかで、鎌倉時代に殺された者の遺族が加害者の引き渡しを要求して受け入れられなかった場合、死んだ者の遺骸 をかついで加害者のところへ運ぼうとした例をあげている。つまり「死骸が力を持つこと、意志を持つこと、その意志は尊重されるべきことという観念が読み取 れるという」(前掲「伝説が生れるとき」)。秋の田の畦道をいく老婆は死者の意志を尊重しているのであり、そこへ到達せんと願うことが彼女の& lt;実 (じつ)>であった。歴史をひもとくとき、わたしたちは知らず死者の言葉を聞こうとしている。残されたわずかな手がかり、地にのこされた気 配、埋も れている石くれなどから「死者をして語らしめ」ようと身もだえする。死者は確定している。わたしたちは生きている限り永遠の未完成である。不確定なわたし たちは死者の確定に永遠に憧れ続けるのかも知れない。夢のなかで秋の田の畦道をひとりいく老婆はなんどでも死者を語り直そうとしている。死者の言葉に近づ こうとしている。
2021.11.7

& nbsp; 相可様

  「「ヒロポン」と「特攻」」を拝読し、昨夜のエルおおさかでの講演会も拝聴させていただきました。戦争の馬鹿らしさについて、戦前戦後とつづくまやかしに ついて、また天皇制、特攻、教科書問題等々について、ときに仁王の憤怒すら覗き見えるような相可さんの苛立ちに、わたしはやはりニンゲンというものは Web上の文字ではなく生の声を聴き表情を見体温を感じないと駄目なのだと、それが今日奈良から大阪までこの講演会を聴きに来たじぶんのいちばんの理由 だったと得心しました。講演が夕方からということもあり、日中はひさしぶりの大阪の町を無軌道に徘徊していたのですが、1891(明治24年)の濃尾地震 で倒壊した浪華紡績工場にて死んだ無名の女工たちの供養碑を正蓮寺の境内の片隅に積み上げられた無縁墓に仰ぎ見、また周辺の日本初の鋳綱所(現住友金属) 発祥の地(1899(明治32)年)、鴻池財閥の旧本店建物(1910(明治43)年)、そして鴉宮境内にそびえ立つ明治三十七八年戦役祈念碑などを見な がら京橋へ移動、造幣局前の大塩の乱を物語る石碑(1837(天保8)年)や大逆事件で縊られた菅野須賀子が洗礼を受けた(1903(明治36)年)天満 教会を横目で見ながら京阪天満橋の駅ビルを対岸に眺める公園のベンチにたどりついて、すでに日も暮れて紅葉した木々が曼荼羅のように色鮮やかにライトアッ プされていましたが気がつけば夜気もせまり、じぶんがもし宿なしであったらいまこの場所で眠れるだろうかと考えていたらすでにすぐそばの奥まったベンチに 自転車を止めて蚕のように夜具にくるまっている浮浪者の姿を見つけたのでした。そうしてきらびやかな街の灯りを対岸から眺めながら小一時間を過ごしたあと で会場へ向かいました。前のメールですこしばかり書かせて頂きましたが、わたしが墓地の軍人墓を巡るようになったきっかけは、数年前に家族で行ったグアム 旅行でした。レンタカーを借りて一日、観光客の行かない戦跡を巡り、そこで奈良の部隊(歩兵第38連隊)がこの地で全滅したこと、二万に近い日本兵がリ ゾート地と化したこの島で死んでいることなどを知りました。また戦時中に日本軍によって斬首された神父の眠る教会や、チャモロの地元住民が虐殺された丘な ども訪ねましたが、そこには日本人の影すらもありませんでした。日本へ帰ってから近所の寺の墓地でグアムで戦死した兵士の軍人墓をたまたま見つけたことか ら、週末に自転車で奈良盆地のあちこちの墓地に眠る軍人墓を見て歩くようになりました。それらはまさにエピタフ(epitaph・墓碑銘)、「生者によっ て死者を語り直す」物語です。戦後十数年を経ておそらく母親の名で建てられた息子3人の合同墓もあれば、生い立ちから語り始める墓もあります。見知らぬ異 国での詳細な死に様(頭部貫通、腹部裂傷)、あるいは死んだ場所を記述する(K村東北500m)墓があれば、君が代を歌い天皇陛下萬歳を叫んで死んでいっ たと刻まれた墓もありました。敗戦後にシベリアや中国奥地で死んだ日付けの墓もあれば、満蒙開拓団青少年義勇軍の国内の訓練所で死んだ少年の墓もありまし た。そのひとつひとつが重く圧しかかるそんな死がまさに「水漬く屍/草生す屍」のごとくこの国のあちこちに無数に横たわっている。なぜこれだけたくさんの 若いいのちが不条理に奪われなければならなかったのか。相可さんの憤怒を垣間見ながらわたしがまず思い出したのは上野英信が「天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序 説」で記した次のような言葉です。「彼らの<死>は<天皇>と結びつかぬかぎり、 実体をもちえません。<天皇>もまた、兵士の<死>と結びつかぬかぎり、実体をもちえません。 両者がひとつに結びつくことによっ て、<天皇>と<死>とは、はじめて共に実体を獲得したのです。そうでないかぎり、しょせん、 <死>は<いわ れのない死>にすぎず、<天皇>は<いわれのない神>にすぎません」  デモと いうものにはじめて参加した2015年8 月、戦争法案反対の国会前デモの翌日にこれも生れてはじめて行った靖国神社の遊竣館でこちらを凝視するあまたの「英霊」たちの眼。あれらを一人びとり <いわれのない死>に還してやらなければならない、それがわたしがいまもなお各地の軍人墓を巡る旅を続けているもうひとつの 理由かも知れませ ん。靖国の「英霊」たちは深夜の招魂斎庭で名を呼ばれその霊璽簿と共に御羽車(おはぐるま)に乗せられ本殿へすすむ。その幽冥たる世界にわたしたちは死者 を置き去りにして戦後を過ごしてきてしまった。そんな忸怩たる思いがあります。特攻という外道の戦に出発する若者にヒロポン入りの菓子を与える。その菊の 紋章の付いたヒロポン入りの菓子を勤労奉仕の女学生たちが包み箱詰めする。まさに外道にふさわしいそれらの風景を語り続けることが幽冥たる世界に住む「英 霊」たちを不条理な<いわれのない死>へ還すことのまたひとつの方法だとも思われるのです。もうひとつ講演のさなかにわたし が思い出したの は、しばらく前に見た「緑の牢獄」という台湾人の監督による沖縄県・西表島にあった旧西表炭鉱史に迫るドキュメンタリー作品のことでした。通貨すら握られ た奴隷のような密閉空間で、台湾から連れて来られた坑夫たちは阿片漬けにされる。奇跡的に島から逃れられても、阿片欲しさにまたもどってくる。そのドキュ メンタリーで暗示される歴史の暗部は、おなじようなヒロポンの裾野もじつはもっと広範囲だったのではないかという疑いに連なります。「タチソ」のような軍 事機密施設あるいはまた山中の閉鎖された軍部による鉱山開発現場などでの突貫作業などにヒロポンは使われていなかったか。日本人だけでなく中国人や朝鮮 人、台湾人などの徴用された労働者たちが残した証言にそれらの痕跡は語られていなかったか。外道の風景は特攻の兵士のみならず、かれらのような異化された 他者たちにこそより強く立ち上がるものだからです。そしてこの国はそれらすべてを黙殺する。今朝の新聞で作家の五木寛之氏が母親を亡くしたみずからの満州 引揚体験と重ね合わせて、人をおしのけて生きのびた者、ソ連の兵士へ日本人女性を差し出した者たちを念頭に、「だから優しい人は日本に帰れず、帰ってきた 人間はみんな悪人である」と言って「随分叱られた」ことを語っていました(毎日新聞・11月21日朝刊)。舞鶴の引揚げ記念館に決定的に欠けているのはそ の視点です。戦後のこの国が黙殺してきたのもやはりおなじ視点です。わたしたちは「帰ってきた人間はみんな悪人である」というところから、もういちど始め なければいけないのではないか。そうした思いを一層つよくさせられた二時間あまりの熱のこもった講演でした。ありがとうございました。ヒロポン入り菓子を 女学生たちが箱詰めしていた学校跡、多くの朝鮮人労働者が過酷な労働を強いられ虐待されていた「タチソ」の地下施設、そして地蔵院裏の共同墓地に眠ってい るという当時の朝鮮人労働者の墓を近いうちに訪ねて、外道の風景を語りつづけ<いわれのない死>をとりもどす孤独な覚悟につ いて考えてみたい と思います。

2021.11.21


  墓に、参る。花を立て、線香に火を点け、手をあわせて瞑目する。そのとき、意識はどこへ向けられているか。地表に立った石塔(墓石)ではないか。だから墓 石を磨いたり、水をかけたりもする。地下の納骨スペースに収納された遺骨ではなく、目の前の墓石がまるで故人であるかのようにわたした ちは振る舞い、ときに墓石に話しかけたりするわけだ。そして「お墓」といえば、わたしたちはその墓石を想起する。ところがその墓石(石塔)の下に、かつて 死者たちは 眠っていなかった。

  「墓」がカロウトとよばれる地下の納骨スペースを持つようになったのは、ごく最近のことだ。いや、そもそも「墓」が、わたしたちがふつうに思い浮かべ るような墓石を持つスタイルになったのも、じつはそれほど長い歴史を有しているわけではない。鎌倉時代に作成された「六道絵」のひとつ「餓鬼草子」には、 平安〜鎌倉時代にかけての墓域の様子が描かれている。火葬した遺骨を埋葬して石を積み上げた「集石墓」が二基、土葬部分を土盛りした「土坑墓」が三基。そ のうち石塔である五輪塔が置かれているのは一基だけで、残りは卒塔婆や、ささやかな樹木が植えられているにすぎない。さらにその間には蓋の開いた木棺の遺 骸が一体、野ざらしの遺骸が三体横たわり、餓鬼や獣たちに食い散らかされている。京都の東山や化野の異界には、このような光景がひろがっていたのだろう。 出典は失念したが、京都の公家か誰かがじぶんの伯父の墓を探したが、すでに卒塔婆も朽ちて場所が分からなくなっていたという日記のくだりを読んだ記憶があ る。「墓」はやがて不明になるもの、であった。

 柳田民俗学によって定着した日本社会の「霊肉分離の観念」(「一定の年月を過ぎると、祖 霊は個性を棄てて融合して一体になる」先祖の話)の説明として、村はずれの遺体の埋葬地点(埋め墓)と集落内に設けられる石塔(参り墓)を有する「両墓 制」がその典型例として位置づけられてきたが、「「お墓」の誕生 死者祭祀の民俗誌」(岩波新書)で岩田重則はそれに疑義を呈している。地下のカロウトに 一族 縁者の遺骨が並べ置かれる現代のスタイルになる以前の「墓」は、火葬であれ土葬であれ、石塔(墓石)の下に遺骨はなかった。従来でいう「両墓制」のような 離れた場所であれ、墓石の隣接地であれ、遺体や遺骨の埋葬地点とは異なる地点に、しかも時間的な隔たりの後に石塔は置かれた。埋葬の後に、何らかの事情で 石 塔が置かれないままの場合もあった。柳田民俗学がいう「固有信仰」としての先祖祭祀の象徴である石塔(墓石)が日本の墓制の歴史に於いて現れるのは近世以 降、 2004年の「大和における中・近世墓地の調査」(国立歴史民俗博物館)などによれば、現代の「お墓」につながる「石塔一基における複数死者祭祀」の角柱 型石塔が出てくるのが1800年頃からであるから、わずか200年程度の歴史しか持たない。「“固有”と呼べるほどの歴史的蓄積がないことはいうま でもない」と岩田は前掲書で記している。

  岩田はさらに出棺から埋葬地への葬列、墓掘り、埋葬後に土をかけた上に枕石や草刈り鎌を置き、割り竹や玉垣でそれらを囲うような設営がすべて集落内で選ば れた「葬式組」によって行われ、そこに僧侶の関与が一切ないことに着目する。キリシタンの取り締まりのために寺檀制度として「宗門人別帳」などの寺単位の 登録簿が整備されていくのは江戸時代、前述した石塔(墓石)の出現や変遷の歴史と重なる。「いわば、この遺体埋葬地点の世界は非仏教的存在であった。「葬 式仏教」の言葉に代表さ 考えてれるように、もともとは外来文化である仏教が葬送儀礼を通して民間へ浸透していることは確実であるが、その「葬式仏教」に よって浸潤されていないのが、この遺体埋葬地点の世界であった」(「「お墓」の誕生 死者祭祀の民俗誌」)  柳田民俗学は石塔(墓石)に日本社会固有の 「霊肉分離の観念」を見たわけだが、岩田は石塔以前、「「葬式仏教」によって浸潤されていない」遺体埋葬地点の世界に仏教以前からの死霊祭祀の名残りを見 ている。

 1936年の「岡山県下妊娠出産育児に関する民俗資料」(桂又三郎)は、出産前あるいは出産直後に死んだ嬰児の埋葬地に床下・ 軒下・土間などの家屋内が多いことを記録している。「死産は男の子の場合は家の入口の内側へ、又女の子の時は入口の外側へ埋めていた。又家の軒下へ埋める こともあった」(小田郡新山村) これはたとえば縄文時代の住居跡の入口付近にしばしば「甕の形をした深鉢形の土器」=埋甕が見つかることと酷似してい る。「それによると当時の人たちは,死んで生まれたり,あるいは生後すぐに死んでしまった赤ん坊を特別に憐れんで,住居に住むその母親がいつもまたいで通 る場所に,逆さにした甕に入れて埋葬した.そうすればその甕の上を母親がまたぐときに,死んで埋葬された子の魂が股間から体内に入って,また妊娠し生まれ てくることができると信じられていたからだという.母の胎内に帰りまた生まれてほしいという願いを示す一種の呪術的行為と考えられる」(渡辺誠「再生の祈 り―祭りと装飾」)。  アイヌの人々もかつて、同じような理由から「幼児の遺体は大人とは別に家の入口のところに埋められ,人がよく踏むようにして,早 く次の子になって再生することを願って葬られ」た(梅原猛「縄文土偶の謎」)。

 またムソバという共同墓地への埋葬が行われていたという 記述もある。ムソバというのは「他国の変死人及び犬猫等総て其場限りにて後を弔わないものを葬る場所」である。これらは「江戸に流入してきた庶民の埋葬実 態が示されている」という東京・新宿区「黄檗宗圓應寺跡」にて発掘された非檀家の「墓標なき墓地」の光景と重なる。それは「狭隘な空間に重複して埋葬さ れ、副葬品はほとんどなく「早桶」に入れられ」、「木製の卒塔婆はあるが、石塔は建立されていない。いわゆる「投げ込み」同様」の墓域である。出産前後の 嬰児はそのような場所に、寺の過去帳や人別帳に記載されることもなく葬られた。これらはまた前述した「餓鬼草子」の中世の墓域の光景にも似ていないだろう か。岩田は「こうした子供の墓の現実を見たとき、子供の墓には、石塔が建立されるようになる前の、日本の墓制が残存していたと考えることができそうであ る」と記している。

 僧侶の関与が一切ない埋葬地点の世界は仏教以前の中世、場合によっては遠く縄文時代まで遡るかも知れないこの国の人 々の死霊祭祀の残滓を宿していた。一方でわたしたちが一般的に「お墓」であると認識している石塔(墓石)の世界は、「もちろん中世には存在せず、近世に発 生した石塔からの発展形態であった。近世社会からの連続性の上に成立してはいるものの、近現代社会で形成されてきているものであり、それは、現在進行形で ある。このような「お墓」の形成をめぐる歴史的現実を見たとき、「お墓」とは前近代的残滓でもなく、はたまた、伝統的といえるほどの生活習慣でもなかった ことは明らかであろう」。 「そして、こうした現象の背景には、近世社会の政治支配の影響、近世幕藩体制下における「葬式仏教」の浸透による「〇〇〇〇居 士」「〇〇〇〇大姉」、あるいは「〇〇家先祖代々之墓」「〇〇家之墓」と刻まれた石塔の普及があった。いわば、一般的常識における現代の「お墓」とは、 「葬式仏教」の浸透および近世の政治支配の残影が、生活世界に巣食っている現象にほかならないともいえる」。

 考えてみれば天皇制神話、 国家神道、靖国神社、天皇陵、わたしたちは「“固有”と呼べるほどの歴史的蓄積がない」古びた衣装にどれだけ惑わされていることだろう。わたしたちが一般 的に思っている古い慣習やしきたり、文化、歴史のなかには、じつはそうでないものが多く混じっているのかも知れない。「お墓」同様に、それらは案外とあた らしいもので、現在進行形である。古そうに見えるものは、ときに「日本固有の歴史的蓄積」の衣装をまとい偽証する。歴史を偽証するものは政治的なたくらみ を持っている。

 わずか二〜三百年の「お墓」(石塔)の歴史をばらしていけば、そこにはキリシタン禁圧に端を発して整備された権力者によ る民衆の支配体制が透いて見えてくる。戸籍や檀家制度、付随する「葬式仏教」に寄生してきた坊主たちなどがそれだろう。それらを無自覚に、日本人固有の歴 史的蓄積を有する古くからの慣習として受け入れているわたしたちがいる。全国で「〇〇家先祖代々之墓」の墓が維持できなくなり、墓仕舞いが流行り、葬式や 埋葬が多様化しつつある現在において、「お墓」の在り方とともに、歴史を偽称するものたちについて再考することは良い機会かも知れない。

2022.1.5



   Webでたまたま見つけた小論「木津観音堂と木津郷惣墓」(田中淳一郎)を読んだら、にわかに現地をあるいてみたくなった。その周辺だけだと1〜2時間 で済んでしまうので、せっかくだから自宅からあるいていこうか。郡山から木津まではJRではわずか三駅(郡山=奈良=平城山=木津)だ。グーグル・マップ で計測すると約12キロ、徒歩2時間半くらいの行程か。ちょうどいい。城下町をぬけて奈良口のむかしの街道筋の出口で、いままで気づかなかったが地蔵堂の かたわらに「招魂碑」を見つけた。昭和43年建立、18名の名がならんでいる。中支、ソロモン諸島、ルソン島、満州、比島、マリヤナ島、ミンダナオ島、ダ バオ島、ビルマ、北支。題字の「大僧正凝胤」は当時、薬師寺長老だった橋下凝胤(ぎょういん)だろう。かれは薬師寺の奥の院にあたる龍蔵院にあった頃、六 条のハンセン病施設・西山光明院の最後の患者だった西山なかを看取っている。その薬師寺の東西の塔や唐招提寺の森、県の戦没者慰霊公苑などを横目に都跡の 集落をぬけて三条大路に出る。かつてセキスイの化学工場があった広大な敷地が更地になり、いつの間にか平城京跡の駐車場として整備されている。ここには敗 戦後の一時期、米軍向けの巨大な歓楽施設「奈良R・R・センター(NARA Rest And Recuperation Center)」があって、周辺には米兵相手のあやしげな店がたちならびパンパンと呼ばれた売笑婦がたむろったが、それを記憶する人はいまはほとんどいな い。ひさしぶりに朱雀門から大極殿へとかつての政治中枢のうつろに広大な痕跡をあるく。わたしがこころを寄せるのはけれど、もっともっと周辺の都も果てた 外縁を粗末な衣に身を包みただよっている人々だ。佐紀町の交番前から歌姫街道へ。奈良時代には平城京の中心・朱雀大路から京都の木津・山城へつながる主要 な街道だった。歌姫の名は「平城京の宮中で踊り、雅楽を演奏する女性たちがこの街道沿いに住んでいたことを示す「雅楽姫」にちなんだもの」ともいわれる が、都の真北に位置するこのあたりは巨大な古墳群が群れを成しさながら王家の墓域といったエリアだ。観光ルートからはなれている集落中央の添御県坐(そう のみあがたにます)神社のもともとの祭神は記紀には登場しない武乳速命(タケチハヤノミコト)。富雄の三碓にもおなじ添御県坐神社があり祭神もやはり武乳 速命であるが、古老の伝えではこの武乳速命は神武に滅ぼされた長髄彦だという。やはりどこか、敗者の匂いを否めない。集落をはなれて道はやがてのどかな山 あいの下り坂になるが、すぐにならやま大通りをくぐって朱雀・右京の住宅地へ入って行く。山を削って開発された新興地に沿った緑の多い遊歩道をすぎるとだ だっぴろい農地がひろがり、京都と奈良をむすぶ高速道路の高架がよこたわっている。ここから先は京都府木津川市。後付けのバイパスはあるいていても面白み がないので、皿池の北端からゆるやかにカーブする鄙びた松山川の堤をすすむことにする。鮮やかな鈴をぶらさげた蜜柑、そして無患子(ムクロジ)。ぶらぶら と1キロもあるけば、そろそろ目的の木津の町の西のはずれに到達する。予定通り、ここまでちょうど2時間半。時刻は1時。山松川をはなれて町中へ東進する と白山宮があり、「木津町役場跡」の石碑を抱いた中央図書館がある。交差点を左折すれば「木津城破却後の近世初頭にできた三代目の奈良街道」という軒の低 い家並みがつづく。学園都市線の線路をまたぐと、自治会で維持・管理している無住の小さな寺の本堂裏に和泉式部の墓がある。もっとも和泉式部の墓とつたわ るものは全国にたくさんあるらしい。植込みのなかに「関東但馬丹後大震火災死者 大菩提」と台座に刻んだ大きな石塔があって、写真を撮っていると近所の人 らしい老婆が立っていて立ち話をする。どこから来たのかと問われて、郡山からあるいてきたと答えると、小柄なばあちゃんは大層のけぞって驚いてみせた。奈 良の御所から嫁いできた、向こうに実家の家もあるが空き家で、墓参りもこの頃は行けていないと言う。ばあちゃんと別れてからそのまま道を東にすすみ、国道 24号線の高架をくぐればじきに木津川の土手だ。JR奈良線と土手がクロスする斜面の下の民家の向かいに平清盛の五男・重衡(しげひら)首洗池がひっそり と佇んでいる。頼朝はこの重衡が気に入って助命するつもりだったようだが、東大寺・興福寺焼き討ちの首魁として南都の坊主たちから引き渡しをせまられ、 けっきょく重衡は木津川の河原で斬首され、首は奈良坂の般若寺にさらされた。29歳。たぶん奈良坂の非人たちも手伝わされたのだろう。先日は水俣病の講演 を聞きに行った滋賀の野洲市でも清盛の三男・宗盛(むねもり)の胴塚及び首洗池を見たが、どうもこのごろ首洗池に縁が深い。心無し、首が寒い。ところで昼 も疾うに過ぎ、いい加減お腹がぐーちゃんだ。ふたたび国道をくぐって、木津の中心部へ向かう。警察署の前を通り、目指すは木津川市役所の向かいの大黒軒な る定食屋。四人掛けのテーブル席が六つ。奥のカウンターの下の板戸がひらいて、障害物競走のように店主がそこをくぐって出てきた。メニューはじつにリーズ ナブルでわたし好みだ。スパゲッティ350円、親子丼400円、オムライス500円、ほとんどが500円前後だが、そのなかで3千円のビーフステーキだけ が異様な存在感を放っている。サービスランチ600円も誘われたのだが、ちょっと今日は重いなと思って、肉丼500円を注文した。10分ほどしてこんどは おばちゃんがカウンター下の秘密基地から出てきて配膳してくれた。肉丼は牛であった。素朴に旨い。木津に来たら、また来よう。そしてこんどは並ランチ 600円とサービスランチ600円の違いを解き明かすのだ。愛しの大黒軒から百メートルも南へくだると小さな水路が東西に流れている。応仁の乱から山城国 一揆に至る文明年間(1469−87)、木津氏によって町を取り囲む形で「木津庄カマエ」が構築された。水路はそのときの「木津郷の南を限る環濠として開 削されたもの」で、その外側に墓域が形成された。これが今回の目的地、じつに七百年もの歴史を有する木津郷惣墓の北端である。けれど木津郷惣墓は、いまは ない。明治の末に町の東側の丘陵地に移されて東山墓地となり、ここにはわずかな五輪塔と石仏だけが残されている。水路をたどって西へ向かうと、やがて高い 煙突が見えてくる。市営の共同浴場「いずみ湯」だ。「昔はここに長福寺といふ寺があったさうで、楊谷地蔵と称する石仏の北西に現在風呂屋があるが、その風 呂屋のところが、その長福寺の観音堂にあたるさうである」(古老の伝) 長福寺は「墓寺」であった。「墓寺」とは本寺もなく住職もなく檀家もなく、ただ墓 と葬祭のためだけの施設で、かつては観音堂のほかに「十王堂・龕前堂・辻堂・火屋・焼場を備えて」おり、長福寺の僧のほか「埋葬に携わる「煙亡」と俗称さ れる三昧聖や、「番人」「非人」と呼ばれて、死者の監視にあたるひとたち」も居住していた。しかも宿場町であった木津には巡礼や旅の途中での行き倒れ人な ども多く、それらの弔いも併せて木津郷の人々が村として管理をしてきた。木津郷の庄屋であった岡田家には「大割諸入用割賦帳」なる郷全体の運営に関わる費 用の支出状況の記録が残っており、そのなかで「観音堂」関連の記事として行き倒れの者の葬儀や病人の看護などが事こまかく書かれている。「二月十二日 一 七匁五分 千源四郎 右ハ旅人行倒レ者取片付之時、寺送リ引導札、煙亡・番人ヘ遣ス、入用附出ス」  いずみ湯の敷地の南側の角には巨大な「木津惣墓五輪 塔」が、住宅地のなかでかつての惣墓の名残りをつたえている。説明版によれば、いちばん古い東面の刻銘には正応5(1292)年が刻まれ、伝承では木津川 の氾濫で死んだ人々の供養のために建立されたものだという。わたしが見たかったのはその背後にならんだうちの一体、素朴な室町時代後期の十一面観音石仏で ほとけの腰あたりに「観阿弥」の銘が刻まれている。つまり阿弥号を名のる念仏聖が居住していた証しで、あるいはこの十一面観音石仏が観音堂の本尊ではな かったかとも推測されている。わたしは石仏の前にひざをついて、その「観阿弥」の文字をなつかしく指でなぞる。しばらくあたりをうろついて古い家と今風の 明るい色合いの新築の家々が建ち並ぶ閑静な住宅地にかつての惣墓のまぼろしを探した。井関川の堤から惣墓の南側をなぞるように東進して、最後に木津城址公 園の麓の丘陵地の東山墓地へ向かった。公園と住宅地にはさまれた坂道をのぼっていくといきなり、無数の苔むした無縁墓が壁のようにそそりたっていた。もの すごい数で、これらはみな木津惣墓から移設されたものだ。七百年もの時間に横たわる死者たちの記憶。かつて木津惣墓で使われていたのだろう、棺台を前にし て立つ明応3(1494)年銘の地蔵石仏がなんともいえない未知の力でわたしの臓腑をわしづかみにする。それから時代は450年くだり、これもまた無数の 不条理な死を強制された死者たちの軍人墓の数々。木津の町並みを見下ろすひと気のない墓地に立ってわたしはなかなか駅へ至る坂道をくだっていこうとはしな かった。いまはこの世でまったくの無価値であるじぶんにもし行く場所があるとしたらそれは墓地くらいであろうというものだ。
2022.1.8



  おそろしいほどの沈黙に凍りついた深夜の無縁墓地の地中で百年前の腐爛屍体が語るのを耳にするやうだ。国家によってあらゆるこの世の股の間からひりだされ た悪意によってわずか22年6カ月のいのちみずからを縊らねばならなかった金子文子が獄中で記した大部の自伝的独白「何が私をこうさせたか」を読みながら わたしはそう感じて仕方ない。遺骨は朝鮮半島へと運ばれたが刑務所担当官によって地下4尺の湿地土中に埋められた彼女の腐爛屍体はこの国の大地の薄暗 い地下茎に在って水でぶよぶよにふくれあがった唇を突き出していまも物語っているのだその涅槃経のようなつぶやきが聞こえるか。彼女が語る幼年期からのじ つに微に入り細に入りの豊かな回想はわたしに百年の歳月を忘れさせまた彼女が百年前に縊れて死んだことすらも忘れさせる。2022年のしみったれた冬を生 きるわたしの耳元で彼女は髑髏(しゃれこうべ)になったりさみしい瞳を持った少女になったりまた土中の腐爛屍体になったりとさまざまに変化するのだ実際そ れが不思議でならない。時がひとを隔てるというのはまやかしであってわたしは百年前に死んだ彼女と実際会話しているのではないか互いにきれいな白装束で背 と背をあわせ腰をおろした三途の河原のような異界で。わたしたちはあれからずっと別れたきりだった遠い世紀を。「無籍のものとはな、いいかい。無籍者とは 生れていて生まれていないことなんだよ」 つめたい股の間からひりだされた悪意にそう言われてわずか10歳の彼女は抗うのだこの世のすべての悪意に生れて いて生まれないことだと言ってもわたしは生れて生きていたのだと。彼女がいまも腐爛屍体としてこの国の土中にいるのならわたしも腐爛屍体となって物語ろ うと思ふ。彼女が百年前を生れて生きているのだとすればわたしは百年後を死んで死にゆきながら語るのだきれいな骨にもならずきっとそうしてやる。たれかそ れを聞け死者であっても生者であっても生首であっても良い。
2022.1.14



 111 年前の今日、午前8時6分の幸徳秋水を手始めに、新美卯一郎、奥宮健之、成石平四郎、内山愚童、宮下太吉、森近運平、大石誠之助、新村忠雄、松尾卯一太と 続いて、最後の古河力作が東京・市ヶ谷の東京監獄の刑台で午後3時58分に縊られた。明日は管野須賀子が午前8時28分。国家権力がその絶対の暴力で輝け る個を抹殺することをゆめゆめわすれるな。年末、わたしはその場所に立っていた。わたしたちはあれからずっと別れたきりだった。いまも、これからも立って いる。
2022.1.24
 


  菅野須賀子が縊られた冬の朝に、二冊とどけられた。「女工哀史を超えた紡績女工 飯島喜美の不屈の青春」(玉川寛治・2019)は密林中古、送料込みで 947円。飯島喜美は共産党の地下活動で検挙、投獄されて、金子文子とおなじ栃木刑務所で獄死した。遺体はなかば強制的に千葉医科大で研究のための解剖に 附された。「ある弁護士の生涯 布施辰治」(布施柑治・1963)は密林古書で一万円の値が付いているものがヤフオクにて100円+送料で落札、すこぶる 美品。布施辰治は栃木刑務所の合戦場墓地に埋葬された金子文子の遺体を母親や友人らと共に掘り起こした弁護士で、治安維持法下で精力的に社会主義者や朝鮮 人のために尽力したひと。

◆埋もれた婦人運動家(2)飯島喜美(PDF)
http://www.kamamat.org/.../p-pdf/fujin-kouron/iijima001.pdf

◆布施辰治(ふせ・たつじ)―弱者に寄り添った弁護士(石巻市)―正義掲げて共闘と連帯
https://kahoku.news/articles/20200619kho000000050000c.html
2022.1.25


  夕食後。手製の郡山紡績MAPを片手に、百年前の夜をさまよってきた。無縁墓の宮本イサや、18歳で死んだ慶尚南道出身の金占順(김점순、キム ジョンスン)たちが寝起きをしていた寄宿舎、亡くなった女工たちの位牌が置かれていたという講堂、息を引き取ったかも知れない病室や、故郷からやって来た 両親に会っただろう面会室、食堂や一日の疲れを癒した浴場など。やはり日中よりも夜の方がいい。いまはURの団地になっている建物のすみや角や植栽のむこ うから、彼女たちの気配や息遣いが沁み出してくる気がする。工場の高圧電線に触れてまともな治療も受けられずに死に、工場側の誠意ない対応に抗って一週間 遺体が放置され腐臭を放ったという徐錫縦(서석종、ソ・ソクチョン)もかつてこの木の影、石の上にすわっていたことだろう。故郷から遠く離れた高い煉瓦塀 と有刺鉄線で閉ざされた世界で彼ら彼女たちは懸命に生きて、そしてここで死んだ。ときに小雪がちらつくような冬の夜なのに、こころなしか空気がねっとりと 重たく感じるのはなぜだろう。闇はわたしたち自身の内にあるのか。その闇の向こう側から彼ら彼女たちの影がゆらゆらとたちあがってくる。語られなければ、 彼ら彼女たちはずっとここを離れることはできない。百年経ったいまも、ここにいる。この場所に。
2022.1.29



  自転車で県立図書館へ行くときに佐保川の堤の向こう側に頭が見えていた墓地がずっと気になっていて、ときおり向こう側へ渡る橋でもないかと寄り道をしても 見つからない。JRの電車に乗って奈良へ向かうときも車窓から見えた。「三ヶ町共同霊園」は佐保川が秋篠川と分岐し、さらに蛇行しながら岩井川とも分れる その半円をJRの線路が斜めに寸断した川沿いに位置している。一見して水が氾濫しやすい場所だと分かる。しかもわが家の方角からだと、わざわざ遠回りをし て国道のバイパスの高架下へ入り、そこからもどるように工場や物流倉庫や産廃処理業者の保管ヤードが立ち並ぶおよそ生活空間から離れたエリアをぬけて、不 法に棄てられたゴミの堆積する線路下をくぐっていく“どんつき”のような場所だからそもそも墓地へ行く者しか通らない。三ヶ町は「路地」である。東に向い た正面の入口から入ると、おそらくかつては焼場であったろう高い煙突とつながった堅固な建物があって、緑色の鉄の扉はふたつとも錆びついている。その扉の 前に小祠があって「釋尼妙夢」と刻まれた石の台座の上にマリア様のような石仏がぽつりと立っている。その小祠のうしろに棺台がある。焼場の南側には一般の 墓が密集して立ち並び、北側には軍人墓と古い時代の無縁墓が向き合っている。そのかたわらに、昭和40年9月の水害によって墓地を移転した旨を伝える背の 低い紀念碑が手入れのされていない植栽に隠れるようにして立っていた。軍人墓は日中戦争の頃の大きな墓標が三基、その横に「戦死者之墓」として小ぶりな方 錘型がおよそ50基ほど、整然とならんでいる。墓地の前の道は荒れた地道で、向かいはトタンの塀で囲まれたひと気のない産廃業者の敷地、そびえ立った軍人 墓の裏手の堤には落葉した黒い枝が曇り空にその手を伸ばしている。いつものようにひとりびとりの名前と死んだ場所と死んだ年齢を読み上げていく。石の材に よっては風化が早く読み取れない文字も多い。一基に三人の息子たちが並び刻まれた墓標もある。向かいの無縁墓のなかには天明四年と刻まれた尖頂方形の墓が あった。天明4年は1784年。前年には浅間山が大噴火を起し、天明の大飢饉があり、江戸城内で若年寄・田沼意知が殺害され、天明の打ちこわしがあり、京 都の大半を焼失する大火がありと、動乱の時代であった。大和郡山でも凶作、大飢饉、大雨洪水などが起り、城下の米屋五軒が破壊された、郡山藩500人に救 米を出したなどの記録が残る。墓地の裏手のさびしい堤にのぼってみる。かさかさと音のする落葉の下にやわらかな地面があって足をとられる。いつの間に小雪 がちらちらと舞っていてそれが桜の花のようにも死者のため息のようにも見える。見知らぬ死者たちに摩耗した石仏にわたしは手を合わせるが、いっただれに向 かってわたしは合掌するのかなにを弔っているのか分からない。ただこうして物言わぬ死者たちの前にいる方がわたしは、生きている者たちの世界にいるより ずっとこころが休まるのだ。ひょっとしたらわたしは、わたし自身を弔っているのかも知れない。わたしは時を超えてここにいる。百年も、二百年も、三百年 も、わたしは生きつづけて死につづけてきた。前頭部擦過胸部左側肩一部貫通左上膞部ヲ貫通シテ戦死したのはわたしだ。二十八歳だった。不合理な死をずっと この堤の下で雨に打たれ風に吹かれ日照りに焼かれて考えつづけてきた。生者は眠るが、死者は目覚めつづけている。だからわたしはここへ来た。堤の斜面に腰 をおろす。こんな心地の良い場所にひとりすわり、そのまま夜になったら、ヘインツ(幽霊)が現れてブルースの弾き方をおしえてくれるだろうか。
2022.2.21



  ときどきこの世界の一切合切は、墓場の向こうから聞こえてくるまぼろしではないかと思えるときがあるんだよ。苔生した墓石のむこうにはいちめんの菜の花畑 がひろがっている。とてもうつくしい風景なんだ。なぜなら、かれらはもうだれも死ぬことはないからだ。苦痛にうめくことも、かなしみでことばを失うこと も、だれかをもとめてむせび泣くこともない。そうしたすべてが、もう済んでしまった世界だ。世界の一切合切が、そうであった方がまだいっそましだと、そう 思えるときがあるんだよ。

2022.3.6



 「戦争産業戦士」という表現は墓石でははじめて見た。軍人墓の方錘形でなく、ふつうの墓石だったのでいままで気がつかなかったが、無 縁墓の入 口に並んでいた。呉の工廠造船部だったらこの頃、ガダルカナルから生還して江田島の海軍兵学校にいた祖父も近くで生きていたかも知れない。いろんな生があ り、いろんな死があり、不思議なめぐり合わせでからまった糸のようにそれらが交錯する。夕方のジップ散歩。今日はひさしぶりに紡績工女・宮本イサちゃんの 墓に挨拶をしてきた。シロツメグサの花束を彼女の黒い髪に挿してあげた。「すべてのものは、わたしたちが巡礼者であることを示し、すべてのものはわたした ちが異境の地にいることを語らなければならなかった」 西日が土を植物を墓石をあらゆるこの世のものを燃え上がらせている。わたしたちはその高揚のなかに いる。主よ、あなたのさだめはわたしの旅の仮屋でわたしの歌となりました。

※来世墓にて「昭和19年3月8日 / 大東亜戦争産業戦士トシテ / 呉工廠造船部ニテ病死」
2022.5.6




  墓地にほとけたちがいるというのはかんがえたら不思議じゃないか。ほとけは生死を超えた涅槃に死者たちと共にいるはずなのだから、ここにほ とけがいるということは死者たちもまだここにいるということか。極楽浄土をいう彼岸の原語はパーラミター(Pāramitā)で、これの音写が波羅蜜・波 羅蜜多であるが、中村元によれば、もともとはいっさいのとらわれのこころのない(無住)状態になったことであるという。日本では墓も意味する三昧もサ ンスクリットのサマーディ(samādhi)――心 を一ヵ所にまとめて置く、つまり「対象のみがありありとあらわれ心をむなしくして能動的な作用がまったくなくなった状態」を意味した。墓地にひとりたたずんで いると、50年前100年前の死者たちがありありとあらわれ、わたしという作用が融けてかれらに同化していくような感覚が好きだ。
2022.5.25

 

  「親鸞、閉眼せば、賀茂河にいれて魚に与うべし」  死んだら遺骸は鴨川に捨てて魚の餌にでもしてくれ。そう言った親鸞の言葉を弟子は聞か ず、いまでは立派な大伽藍の奥に鎮座している。自転車で天理の里山ちかくを徘徊していたら「天理教教祖墓地」という道標を見つけて、はじめて立ち寄ってみ た。小高い丘の頂上部にまるで天皇陵かと見紛えるような教祖・中山みきの改葬された立派な陵が整備され、その周囲を真柱といわれる彼女の血統者や高位の者 たちの墓が取り囲み、一般の者たちの墓になるに従って段差が下がってくるさまは、死後も階級が厳然と存在する陸軍墓地のようだ。1887年(明治20年)に 中山みきが身罷った当時、 「魂は屋敷にとどまり、体は捨てた衣服のようなもの」との「おさしづ」があったにも関わらず、残された人々は親鸞とおなじく立派な伽藍をこしらえた。その 豊田山墓地の入り口に近い「旧墓地」には生い茂った草木になかば埋もれるようにして、明治から大正に至る頃の古い信者たちの墓が林立している。苔生した墓 石にきざまれた「帰幽」という表現が好きだ。神道用語だそうだが、御霊(みたま)は幽世(かくりよ)に帰する、と云う。草に分け入り、そんな幽世(かくり よ)をさまようていると、ここではめずらしい軍人墓を見つけた。「明治37年11月28日 二百三高地戦」で斃れた柳沢八十松は、第一師団の右翼隊に増援 された後備歩兵第38連隊であったのだろう。御魂は幽世(かくりよ)へ帰ったか、あるいは鬼となったか。鬼は幽世(かくりよ)で安住できただろうか。魂魄 はいまだここにとどまり、叢(くさむら)をわたしのように徘徊しているか。帰り道、西名阪の高架をくぐり、横田の集落へ抜ける道沿いに、まっしろな風景の なかに木の墓標が大地に直立した土饅頭が密集する墓地を見つけた。わたしには湖畔の避暑地のように見える。墓地の入り口に六地蔵と並んで古い時代の五輪塔や宝篋印 塔が立ち、奥の東屋には棺台と黒ずんだ迎え仏が暗がりにひっそりと坐している。わたしはそんな処に居ることが心地よい。幽世(かくりよ)に帰する前にわた しはすでに「帰幽」してしまったかのようだ。幽世(かくりよ)はまた隠世でもあるが、常世(とこよ)である補陀落を目指して熊野を発ったものたちのニライ カナイ(理想郷)でもあった。この世にニライカナイ(理想郷)をさがす。棺台の上に寝そべってみる。すると、風景が逆転する。
2022.5.29

 行基は魅かれる。京終駅ちかくに、行基が亡き母の弔いに建てた「まぼろしの寺院」があったという記事をWebで読んで自転車でそのまぼろし を徘徊した。かつての平城京の東を東大寺、興福寺、元興寺と南下して、五条大路をこえた都のはずれにあったとされる福寺(服寺)は、行基の母を祀った尼影 堂があり、弁財天で名高く、また勧進舞がたびたび催されたと云うが、1503(文亀3)年の土一揆で蜂起した馬借たちに悉く焼き尽くされた。その推定地は 1960年代まで福寺池として名を残し、1970年に近鉄油阪駅の廃止による残骸をつかって埋め立てられ、現在は住宅地がひろがっている。その福寺池の あった南東角、能登川のはたに無数の古い石仏が集められているのを以前に見つけたが、それらはその埋め立て工事の際に、池底から浚いあげられたほとけたち であった。池跡の北西角に「福寺の跡」の碑があり、裏に「京終福寺池改廃記念」の文字を刻む。そこから京終駅にちかい踏切をわたって北京終の路地へすすむ と、古くは「京終阿弥陀」ともよばれた京終地蔵院がある。板塀の奥に大きな石造りの阿弥陀三尊像が立ち、その両脇に無数の石仏たちがつどっている。霊験あ らたかとの阿弥陀三尊像はかつて、福寺池の南西にあった「辻堂」にあったものだと云う。足もとのおびただしい石仏たちはやはり、福寺池の池底から浚いあげ られたのかも知れない。奥にはこじんまりとした墓地があり、敷地は広くはないが端に積み上げられた無縁墓はものすごい数で、どれも相当に古い。「奈良市史  社寺編」に拠れば「桃山時代から江戸初期の背光五輪碑(※光背形墓石)がある」。おそらくこれらの墓石を移して現在の墓域を整理したのだろう。軍人墓が 数基、マリアナ諸島が多い。古い石組の井戸が残っている。入口前で人の声がしたので見ると、自転車で通りかかった年配の女性が、白髪の男性に声をかけてい た。その男性が地蔵院の堂庫裏に向き合って建つ住宅に住んでいる人のようであった。ここの本尊の大日如来台座に像が福寺に祀られていたという陰刻銘があっ たという話を向けると、その像はたしかにこの庫裏にあるが、もう長いこと閉めたままだと云う。毎年7月に石造の阿弥陀三尊像の祭りをやっていたが、それも コロナ禍で三年ほど途絶えていると。わたしも地の者ではないんだけれどと言いながら、墓地も案内してくれ、元興寺で無縁墓の調査が行われたことなどもおし えてくれた。男性が出てきた住宅にかつては堂守りの僧侶が住んでいたが、檀家が少なく暮らしていけないので廃れ、いまは近隣の自治会で管理しているそう だ。地蔵院を後にして、ここまで出てきたのだからと、東大寺へ走った。修学旅行の団体が次々と南大門をくぐっていき、かつての賑わいがすこしづつもどって きているようだ。大仏殿の東の回廊横をぬけて奥へすすむと、北のはずれに寺の案内板では名前も書かれていない龍松院がある。ここはかつて、三昧聖たちの総 本山であった。かつて葬送儀礼にかかわる特権を一手にしていた畿内の聖集団たちは、時代を経るにしたがってみずからの地位の保全のために東大寺の権威にす がったのだった。龍松院の周辺をぐるりとまわってみたが、しかしそんな歴史の残滓は何ひとつ残されていない。大仏や行基の威光は残るが、名もない三昧聖た ちは歴史の果てに消えていった。もともとわたしは残滓もないまぼろしを追い求めているのだった。けれど行基を慕い、かれの名をいにしえの墓地に刻みつづけ 後世につたえたのはかれらだったのだ。

2022.6.4

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  奈良は(というか全国は)本日も6月にして酷暑。ほとんど雨知らずの梅雨も早々と明けて、やっぱりこの惑星は急速に変化しつつある。戦争だ とか経済制裁だとか核配備だとかほんとうに、やっている場合じゃないだろ。今日届いた内田樹編『撤退論』(晶文社)じゃないけど、撤退だ、撤退だ、既成の あらゆるものから撤退だ。じぶんといっしょに落ちていく岩にしがみついても助からないぜ。午後。冷房の効いた安全地帯から飛び出して、自転車でまず県立図 書館へ。総務企画課のOさんへ、メールで追加要請のあった「出版掲載-放映許可願」を提出してきた。それから何となく東を目ざして、前にもいちど訪ねた大 安寺の通称・墓山古墳(大安寺共同墓地)へ移動して、ひさしぶりに墓守気分を堪能した。やっぱり墓地は落ち着くね。「海中に突入自爆戦死」二十七才の軍人 墓。熱波が音もなくふりそそぐ明確な青空の下でおれも成仏できない幽鬼となって立ち尽くすこの感覚がいい。最後は墓山古墳からも近い奈良県立同和問題関係 史料センターにひさしぶりに立ち寄って、かれこれ二時間ほど研究員の方とお喋りをした。まだ配属されて間もないような感じの女性で、「墓地めぐりが好きで して」とわたしが云うと、驚いたことに「わたしもじつはそういうの好きで」という返事が返ってきて、いちど行ってみたいという天理の中山念仏墓地(これも 前方後円墳を利用した墓地)の話などで盛り上がって、「国立歴史民俗博物館の分厚い研究報告に、この中山念仏墓地のですね、なんとひとつひとつの墓の配置 図から石塔の形、文字までの全データが載っているんですよ〜」とこの男はじつにうれしそうに話し、「よかったら、こんどいっしょに行きますか」とさりげな く誘ったものの、「まだわたしたちが見たことがないというので、じつは明日、センターで連れていってもらうことになっているんです」とさりげなくかわされ てしまったのだった。まあ、そんな話はどうでもよい。入れ替わった常設展示のなかでとくに興味深かったのは、まず中世から朝廷へ献上されていた梅戸村(現 川西町)の細工たちによる緒根太(おねぶと)草履。古くから予祝や厄を祓う呪力があると信じられてきた草履だが、これは形状も特殊で実用のものではない。 この草履の献上には生駒山の十三峠の塚に伝わる姫物語がからんでいることも面白い。ついで1714(正徳4)年の台風による凶作で、近畿で普請や仏事・婚 礼が簡略化され、「村外から訪れる勧進者、芸能者や乞食の立入禁止を申し合わせ、祭礼・仏事の際の出店や、相撲や芝居の興行の際に穢多や非人番が受け取る 芝銭・櫓銭について、「横道」で「新規不届」のものである」と禁止されたことなどを記した文書。これらは「江戸時代後半は、被差別民衆の活動が中世以来 持っていた呪術的・宗教的な意味が忘れ去られ、被差別村落への違和感、忌避意識が大きくなっていく時代」のあらわれであったと説明する。その他は、水平社 と平行する「大和同志会」などの活動。現在の紀の川市(和歌山県)の地主に生まれ自宅の私塾・奚疑(けいぎ)塾で「大和同志会」で活躍する若者を輩出した 中尾靖軒(1836-1915)の存在や、いわゆる穢多寺への差別と闘った前述の梅戸村の西本願寺末寺であった西光寺住職の中村諦信やその長男で「大和同 志会」の主要メンバーでもあった中村諦梁などについては、これから勉強したい。最後に、これまでセンターのホームページ上で公開されていた紀要などに掲載 された貴重な論考のPDFがしばらく前に急に消えてしまったのは何か理由があるのかと訊いてみたところ、論考のなかには現在地が判明するものもあり、それ らがWeb上で悪用されるケースが増えてきたためにやむを得ず公開を中止したとの返答であった。今後、公開が復活することはないだろうとの由。啓発と乱 用。じっさいにYouTubeなどでは「学術研究」の態を取りながら、じっさいの同和地区や在日集落などを動画で撮影してアップする確信犯や、おそらく歴 史的な知識は浅いまま面白半分の「悪所めぐり」的なノリで動画を撮る若いユーチューバーなどが多い。ただわたしなどは公開されていたPDFをよく活用して いたので残念としか言いようがない。いったんは紀要として配布され、図書館などにも収められ、それらはだれでも閲覧・コピーできるのに、Web上では非公 開というのは、しかしどうなんだろうか。貴重な資料が求めている人にひろく届かないことは返す返す残念で仕方ない。そんなわけで酷暑のなかを自転車で走り まわって真っ黒になって夕方、帰ってきたよ。

◆出版掲載、放映について(奈良県立図書情報館)
https://www.library.pref.nara.jp/guide/permission

◆奈良市・大安寺墓山古墳
https://blog.goo.ne.jp/noda2601/e/e044dd6abc78233bd8c70aa1c9b37748

◆奈良県立同和問題関係史料センター
https://www.pref.nara.jp/6507.htm

◆地元で禁忌の感覚強く /奈良
https://mainichi.jp/articles/20210804/ddl/k29/070/353000c

◆大和同志会とは
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%90%8C%E5%BF%97%E4%BC%9A-1360090

◆漢学者・中尾靖軒の企画展 紀の川
https://www.wakayamashimpo.co.jp/2014/11/20141120_44316.html

◆部落差別撤廃運動の歴史的環境(PDF)
http://khrri.or.jp/publication/docs/201707022002%281%2C934KB%29.pdf

2022.6.29

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  奈良に住んで二十数年が経つが、いわゆる観光地らしい社寺仏閣の類いは、ますます興味が薄れていく。斑鳩へ行って法隆寺を見ず、奈良市へ 行って東大寺を見ず、薬師寺は娘のアルバイトの送迎で東西の塔を眺めるだけ。このごろはそれらの伽藍に鎮座したすぐれた仏像なども、とくに見たいと思わな くなった。見たいもの、触れたいものは、ほかにある。台風が九州で消えてなくなった翌日、ひさしぶりに朝から自転車に乗って出かけた。湿度は高いが、風も 少々ある。まずさいしょに行ったのは東大寺の北方、佐保川沿いの五劫院だった。ここは鎌倉時代に重源上人が宋から請来した、アフロヘア―のような頭が独特 の五劫思惟阿弥陀仏坐像が有名な寺だがわたしが会いに来たのはほとけではない。山門をくぐり、コの字に並んだ境内の軍人墓を横目に裏手の墓地へ入ってい く、その手前に古い五輪塔や供養塔がならんでいる。そのなかに台座からやや傾(かし)いだ形で1858(慶応4)年建立の阿閦(あしゅく)寺供養塔が、 ひっそりと立っている。阿閦寺とは、光明皇后が奈良市法華寺町辺に建てたと伝わる寺で、伝説によれば皇后は「浴室を設けて自ら千人の身体を洗う願を立て、 これを行なったところ、最後に癩者に化した阿閦如来が現われた」と云う。つまり、癩者の救済施設である。正面に「光明山 阿閦寺 歴代之塔」とある竿石の 側面に刻まれた23名の男女は癩者であったと思われる。1858(慶応4)年に建立されてからも、名は刻み続けられたのだろう。最後の日付けは明治7年 12月に「定〆」、明治11年10月に「安心尼」の名がある。薬師寺の末寺である龍蔵院には、おなじ救済施設であった西山光明院で大正5年に亡くなった最 後の患者:西山なかの無縁墓が残っているが、これだけ大勢の癩者の名を刻んだ供養塔は珍しいのではないか。暑い日差しに晒されてしゃがみ込み、一人びとり の名を読みながら、かなわぬことではあるのだけれどその生涯に思いを馳せようとする。寺の裏手の佐保川沿いの墓地の一角にあつめられた夥しいほどの黒ずみ 摩耗した無縁墓も圧巻だった。中央の、もはや顔もこすれて定かでない背の高い石仏の前にすわり、夥しい数の無縁墓に両側からはさまれるように囲まれている と、かつて存在した無数のいのちたちがせまってくるようで不思議な心持になった。しばらくその場所に佇んで、そのしずかな波のような心地に身を晒してい た。ついで向かったのは奈良公園の南方、格式高い奈良ホテルに隣接する旧大乗院庭園だった。いままで覗いたことすらもなかったが、室町時代に銀閣寺の庭園 も手がけ、8代将軍足利義政にも重用された善阿弥による作庭と知って立ち寄った。善阿弥はもちろん、被差別民である山水河原者である。かれらは熟練した高 い技術を持った職人集団であったが、歴史の表舞台に出ることはない伏流水のような存在だ。名勝大乗院庭園文化館という無料の施設には戦後に発掘・復元され た庭園に関する資料も展示されているが、善阿弥に関する記述はお愛想程度しかない。入園料200円をケチって文化館からの眺めで満足した。そのまま南進し て天理をめざす。途中、名阪道の高架下にひっそりと佇む、能の筒井筒で有名な在原寺跡に立ち寄った。835(承和2)年に本光明山補陀落院在原寺と称した 寺は明治維新の頃までは本堂、庫裡、楼門などがあったがのちに廃れ、いまでは井戸とさびれた社があるばかりだ。「本堂跡」と記されたあたりで土木工事の最 中であったが、ちょうど昼休みで弁当を広げていた職人さんに訊けば、ここに防災施設の倉庫を建てるのだという。在原寺跡に来たかったのはある人から「筒井 筒」と題された、足立 真実さんという染織家の紬織着物(第56回日本伝統工芸染織展(令和4年) 文部科学大臣賞)を知らされたからであった。少しばかり引く。「「井筒」がモ チーフとなった今回の作品は、素朴さの中にある力強さ、簡潔さ、美しさ、が特徴であるが、能の物語の持つ独特の陰影や侘びた佇まいとは違うものを感じた。 「水は八方の器に従う」というが、井戸の水は筒井筒の囲みの中で、昔を映す鏡となっている。のぞき込む姿の肩越しに冴え冴えとした月明かりも差し込んでい るだろう。水は記憶を映し、追憶はその深みに沈み込むように人の心の襞を揺らす。青が象徴する命の層は幾重にも折り重なりながら人の業を昇華していく。」 (青山 敏夫) 旧跡にふさわしいさびれた在原寺跡で「冴え冴えとした月明かり」を想った。169号線をつかず離れずしながら、ひさしぶりの愛するさかえ食堂に到 着して昼食、大学生らしい若者グループが先に三組ほど。カツ丼並み、580円。世間は値上の嵐だが、ここはそんな気配すらない。老齢の亭主がぱんぱんと肉 を叩く小気味の良い音が厨房で響く。腹ごしらえをして、最後の目的地は食堂からほど近い、天理市役所裏のいまでは何の変哲もない集落だ。その「神子村」で は、文化年間(1804〜18)に「口寄せ」なる特別な業(秘事)の存廃をめぐって村を二分する争いが起きた(「梓女巫并陰陽方尋一件」1805)。「口 寄せ」とは、亡者の呼び出しであった。「まず依頼者から受け取った諸々の施物を桶に入れ、桶のまわりに御幣を立て、なかに幣を人形に切って入れる。桶の前 に梓の木で作った弓を置いて「口寄せ」をはじめるが、最初に「遠近之大社、不動、観音」を集め、次に三尺余りの竹弓に数珠をかけ、棒で弦を叩いて死者を呼 び出して言葉を聞く。縁者の希望があれば以前に亡くなった者の霊魂も呼び出してもらえるが、別に一人あたり10文の銭がかかる。死者の様々に語る言葉を聞 き終わると、集めた神仏を送り出して儀式は終了するが、依頼があれば数珠占いという儀式も行う、というものである」(吉田栄治郎「神子村と「口寄 せ」」)。争いは、この秘事である業によって村が「筋目違い」という差別を受けているからこれを廃業すべきだという者たちと、「口寄せ」は先祖相伝の稼業 でありこれをなくしたところでどうせ差別はなくならないという者たちとの間の論争であった。どちらも生きるに必死で、生きるに悲しい。文化年間はある意 味、目に見えるものと見えないものが徐々に分化され、後者から聖なる意義が剥がされていった時期なのかも知れない。神子村の人びとはその悲しい時代の境目 にいた。169号線から入っていくと、集落は低い丘陵地のそちこちに家々が身を寄せ合っているような場所であることが分かる。その斜面をめぐるように水路 が流れている。古い面影といえばそれらの地形と観音堂、そして道端にならべられた石仏群くらいだ。この石仏たちは、かつて賤視にさらされながら必死に生き ていた村の様子を知っていることだろう。わたしたちはかれらのその秘事を所望し、その所望したものによってかれらを断罪する。にんげんの皮を剥ぐ。剥がさ れた皮は、じつはそれを剥がしたもの自身の皮ではなかったか。帰り道、そろそろ暑さにもへばってきて、大きな溜池に寄り添うように立ち並んだ墓地を遠目に 眺めて「今日はこのまま帰ろう」と思っていたのに、道はぐねぐねと曲がってそこへたどり着いてしまった。互いに向き合うように並んだ軍人墓が20基ほど。 いちばん手前は「義勇軍」と刻まれた墓であった。昭和17年に満州国漱江県の開拓村訓練所にやってきた16歳の少年は、昭和21年8月ハルビンの収容所に て20歳の生涯を閉じた。「白玉楼中ノ人トナル」(「中国中唐の詩人李賀が、夢の中で天使に「天帝が白玉楼を完成させ、あなたを招いてその記きを書かせる ことになった」と告げられ、まもなく死んだという故事から、文人が死後行くところといわれる」)とは、文才に富んでいたのだろうか。また昭和20年8月 14日、敗戦のじつに前日の空襲で「大阪衛戍病院ニテ爆死ス」の兵士の死もいたたまれない。水を満々とたたえた田圃に囲まれた墓地でステンレス製の卒塔婆 が風が吹くたびにがちゃがちゃと響く。あまりにも明確な青い空を見あげる。

◆五劫院
https://nara-jisya.info/%E4%BA%94%E5%8A%AB%E9%99%A2/

◆西山光明院
https://marebit.sakura.ne.jp/D1916.html

◆旧大乗院庭園
https://oniwa.garden/kyu-daijo-in-garden-%E6%97%A7%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%99%A2%E5%BA%AD%E5%9C%92/

◆在原寺跡
https://www.city.tenri.nara.jp/kakuka/kyouikuiinkai/bunkazaika/bunkazai/1391413304063.html

◆紬織着物「筒井筒」
https://www.nihonkogeikai.or.jp/works/546/107835/?fbclid=IwAR1yORevtU44yGPNGIo9_JJptzLbQqwkuGINAeugrX_g-qkUfPF4faQcQxo

◆青山 敏夫 2022年7月2日
https://www.facebook.com/toshio.aoyama.5/posts/pfbid0q9UfkyM9qqrLLBZFXPYPCkwbVedWkWfujrdi19y48t1ijp4hHVyh77ox3pVWZcPml

◆中近世大和の被賤視民の歴史的諸相(PDF)
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2447/JNK000602.pdf

2022.7.6

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  日曜。参院選投票日だが、期日前で済ませていたので朝から大阪へ出かける。久宝寺でおおさか東線に乗り換えて長瀬へ。河内七墓のひとつとさ れる長瀬墓地は併設する斎場の炉の工事とかの最中だったが、おそらくむかしから火屋をもつ郷墓なのだろう。広い敷地の中央に死者の名前が刻まれた六角柱の 「戦没者の墓」がそびえ、六地蔵のある東の入口から大型の軍人墓が林立する。その数、60基以上はあるだろうか。ここの軍人墓の特徴は「時刻」である。 「昭和20年6月18日午前11時25分」 「昭和19年7月30日午后7時0分」 多くの墓が正確な時刻を刻んでいる。まさに「その時」なのだ。死者が 亡くなったその日・その時。「病ヲ得テ仆ル為ニ一柱ヲ立ツ」というのもある。「戦死」ではなく「一柱ヲ立ツ」が珍しい。「壮烈無比ナル戦死」 どんな戦死 であれ、 他と比べられる死などあろうはずもない。時刻だけではない。「昭和19年7月16日 北緯19度17分 東経120度15分 方面ニテ戦死ス」 正確な場 所を刻んだものもある。「北緯19度17分 東経120度15分」を度分秒(DMS)のフォーマットに変換して(19°17’N 120°15’E)グーグルマップで検索すると、台湾とフィリピンとの間の、ルソン島沖100キロほどの海域だと分かった。「北緯19度17分  東経120度15分」はおそらく遺骨ももどらなかったろう死者の唯一のよすがであり、呪文のような言葉なのだ。「北緯19度17分 東経120度15分」 とつぶやいてみる。軍人墓の一群からはなれた場所に「大東亜戦 北鮮日本人 同胞殉難死没霊」と刻まれた供養碑があった。建立は昭和37年10月20日、 裏面に施主として小松三次郎、末尾に「東3冷凍従業員一同」が刻まれている。Web検索すると「東3冷凍機株式会社」という会社がヒットし現在の社長が小 松姓であるから、関連があるかも知れない。社歴を見ると1945(昭和20)年に「小松製作所」として創業、5年後に社名を「東3冷凍機」に変更している から、戦前には「小松製作所」の前身で朝鮮半島に足がかりがあったのかも知れない。行基にまつわる碑は見つけられなかったが、北側には巨大な「無縁塔」の 足もとに数多くの苔生した無縁墓や石仏が集積していて、この墓地の歴史の古さを物語っている。「融通念仏宗中興の祖 法名上人有馬御廟」なるものもあっ た。いちばんこころに残ったのは昭和47年に再建された、新しい近衛歩兵の墓である。かれは1869(明治2年)にこの長瀬村に生まれ、兄・虎次郎と共に 暮らしていたところを明治22年12月、近衛師団歩兵第四連隊に入隊し、三年後に満期除隊し故郷へ帰り、兄と共に農業に従事していたが明治27年10月 「征清軍之興蒙之為メ」、ふたたび兵役に就き、翌年明治28年8月14日、27歳で戦病死した。「其兄虎次郎使余撰其文誼」、兄が親しみをもってこの文を 記したという意だろうか。わたしはいまよりももっと長閑(のどか)であったろうこの長瀬村で、兄と農作業にいそしむかれの姿を空想してみるのだ。最近、あ るひとがわたしの粗末な文について「彼らにとって未だ訪れぬ未来から現在を撃つ行為に連なっているかも」と記してくれた。まさにそのとおりで、わたしは 「かれらが持ち得なかった未来」によって現在を撃ちたい。かれはもういちど帰郷して、ふたたび兄といっしょに畑を開墾し、汗を流し、水を飲み干し、空を仰 ぎたかった。その「持ち得なかった未来」が腹に溜まって、いつか弾丸となる。

2.22.7.12

 




 

 

背 中からの未来