056. 大阪・在日韓国基督教会館(KCC会館) 「青丘文庫研究会―第6回 映像を通して視る― まだ視ぬアーカイブを可視化する!」

背中からの未来

 

 

■056. 大阪・在日韓国基督教会館(KCC会館) 「青丘文庫研究会―第6回 映像を通して視る― まだ視ぬアーカイブを可視化する!」 (2022.7.12)

 





 日曜。参院選投票日だが、期日前で済ませていたので朝から大阪へ出かける。久宝寺でおおさか東線に乗り換えて長瀬へ。河内七墓のひとつとさ れる長瀬墓地は併設する斎場の炉の工事とかの最中だったが、おそらくむかしから火屋をもつ郷墓なのだろう。広い敷地の中央に死者の名前が刻まれた六角柱の 「戦没者の墓」がそびえ、六地蔵のある東の入口から大型の軍人墓が林立する。その数、60基以上はあるだろうか。ここの軍人墓の特徴は「時刻」である。 「昭和20年6月18日午前11時25分」 「昭和19年7月30日午后7時0分」 多くの墓が正確な時刻を刻んでいる。まさに「その時」なのだ。死者が 亡くなったその日・その時。「病ヲ得テ仆ル為ニ一柱ヲ立ツ」というのもある。「戦死」ではなく「一柱ヲ立ツ」が珍しい。「壮烈無比ナル戦死」 どんな戦死 であれ、 他と比べられる死などあろうはずもない。時刻だけではない。「昭和19年7月16日 北緯19度17分 東経120度15分 方面ニテ戦死ス」 正確な場 所を刻んだものもある。「北緯19度17分 東経120度15分」を度分秒(DMS)のフォーマットに変換して(19°17’N 120°15’E)グーグルマップで検索すると、台湾とフィリピンとの間の、ルソン島沖100キロほどの海域だと分かった。「北緯19度17分  東経120度15分」はおそらく遺骨ももどらなかったろう死者の唯一のよすがであり、呪文のような言葉なのだ。「北緯19度17分 東経120度15分」 とつぶやいてみる。軍人墓の一群からはなれた場所に「大東亜戦 北鮮日本人 同胞殉難死没霊」と刻まれた供養碑があった。建立は昭和37年10月20日、 裏面に施主として小松三次郎、末尾に「東3冷凍従業員一同」が刻まれている。Web検索すると「東3冷凍機株式会社」という会社がヒットし現在の社長が小 松姓であるから、関連があるかも知れない。社歴を見ると1945(昭和20)年に「小松製作所」として創業、5年後に社名を「東3冷凍機」に変更している から、戦前には「小松製作所」の前身で朝鮮半島に足がかりがあったのかも知れない。行基にまつわる碑は見つけられなかったが、北側には巨大な「無縁塔」の 足もとに数多くの苔生した無縁墓や石仏が集積していて、この墓地の歴史の古さを物語っている。「融通念仏宗中興の祖 法名上人有馬御廟」なるものもあっ た。いちばんこころに残ったのは昭和47年に再建された、新しい近衛歩兵の墓である。かれは1869(明治2年)にこの長瀬村に生まれ、兄・虎次郎と共に 暮らしていたところを明治22年12月、近衛師団歩兵第四連隊に入隊し、三年後に満期除隊し故郷へ帰り、兄と共に農業に従事していたが明治27年10月 「征清軍之興蒙之為メ」、ふたたび兵役に就き、翌年明治28年8月14日、27歳で戦病死した。「其兄虎次郎使余撰其文誼」、兄が親しみをもってこの文を 記したという意だろうか。わたしはいまよりももっと長閑(のどか)であったろうこの長瀬村で、兄と農作業にいそしむかれの姿を空想してみるのだ。最近、あ るひとがわたしの粗末な文について「彼らにとって未だ訪れぬ未来から現在を撃つ行為に連なっているかも」と記してくれた。まさにそのとおりで、わたしは 「かれらが持ち得なかった未来」によって現在を撃ちたい。かれはもういちど帰郷して、ふたたび兄といっしょに畑を開墾し、汗を流し、水を飲み干し、空を仰 ぎたかった。その「持ち得なかった未来」が腹に溜まって、いつか弾丸となる。

  近鉄大阪線で長瀬から今里へ移動して、そこから徒歩で今里筋にある在日韓国基督教会館(KCC会館)を目指した。生野コリアンタウンで有名な御幸通商店街 も近い。先に公園をはさんだ向かいのスーパー玉手でおにぎりと総菜を買って、公園で簡単な昼を済ませた。「青丘文庫研究会―第6回 映像を通して視る―  まだ視ぬアーカイブを可視化する!」と題された企画はじつにてんこ盛りだ。プロローグ『古代からの歴史に見る−日本列島と朝鮮半島』と題した30分ほどの 映像を皮切りに、第一部は、鶴橋本通りに1913(大正2)年から1934(昭和9)年まであった旧鶴橋警察署の跡地に戦後建てられ多くの在日朝鮮人が住 んだアパート、通称「キョンチャル・アパート」のたたずまいを写した貴重なフィルム『鶴橋本通り「キョンチャルアパート」』(2022/10分/撮影:高 仁鳳 金稔万 編集:金稔万)と、軍事史を専門に関西大と立命館大で非常勤講師を務める塚崎昌之さんの説明。경찰(キョンチャル)とは韓国語で「警察」の 意。1913年は韓国併合から3年後、1911年には大逆事件で大石誠之助ら11名に死刑が執行された。1920年頃から付近に朝鮮人集落が形成され、 1925年には鶴橋警察署長の斡旋で有名無実な「鮮人自治会」が結成され、1928年には東成区の朝鮮人人口が一万人近くに増え、その後かれらの多くが働 くゴム工場などで労働争議が頻出した。旧鶴橋警察署はその朝鮮人弾圧のための拠点であった。検挙された朝鮮人たちが鉄棒で殴られるなどの拷問を受けた。旧 鶴橋警察署跡地は朝鮮人の人々にとってそんな忘れられない場所である。1934(昭和9)年に警察署が勝山通りに移転してから大阪盲人会が買収し「青十字 会館」ができる。アパートは二階建ての55室、厨房・食堂や浴場まである施設であった。戦争末期に軍がこれを一時接収し、敗戦後は民間のアパートとして主 に戦災による生活困窮者たちが住み、やがて在日やニューカマーの韓国人たちの居住が増えていく。アパートは2006年まで使われ、2011年に解体され た。フィルムはその解体前の様子を撮影したものである。

  第二部は舞台が奈良に移り、『どんづる峯と柳本飛行場』(2022/30分/撮 影・編集:金稔万)の上映。元奈良新聞の記者で『奈良・在日朝鮮人史』(奈良・ 在日朝鮮教育を考える会)などの著作もある川瀬俊治さんを聞き手に、元教員で『幻の天理「御座所」と柳本飛行場』(奈良県での朝鮮人強制連行等に関わる資 料を発掘する会)などの著書がある高野眞幸さん、やはり小学校の教員で「NPO法人 屯鶴峯地下壕を考える会」の代表・田中正志さんのトーク。これは地元でもあり、わたしも現地をよく知っているだけに頗る興味深いものだった。まずは「奈良 からの報告」と題した配布資料の一部をここに引きたい。「なぜ在日朝鮮人の歴史を追及するのか。強制連行の隠蔽に抵抗するのか。朝鮮人であることで、日本 人では決してありえない労苦、あるいは被害を受けねばならないのか、その根源に日本の植民地支配の未精算にあるとみるからです。植民地支配は1910年の 「韓国併合」が歴史的な始点ですが、もっとさかのぼり、近代以降の朝鮮(人)認識と植民地支配意識を問わねばなりません。(中略) ・・強制連行の追及は 戦争動員のために生じた朝鮮人への徹底した民族性の否定を知悉するからです。戦争は差別を極限化します。平和を求めることが犯罪(治安維持法違反)でし た。決して繰り返してはなりません。日本軍「慰安婦」を強いられた女性たちの歴史は1991年の金学順さんの証言で重い扉を開きました。日本軍「慰安婦」 の歴史が刻まれた天理・柳本飛行場跡で生じた天理市長による説明板撤去は、戦争での差別を真っ向から否定する蛮行です。平和の追求の挑戦です」  戦争末 期に海軍によって建設が進められた柳本飛行場の遺構は、以前に自転車で訪ねた。高野さんが記した手書きの地図を頼りに慰安所跡と思われるあたりも見当をつ け、撤去された説明板の代わりに有志の人びとが田圃の畝に立てた再設置板もなんとか探し当てた。戦争末期、本土決戦の準備として陸軍がつくったのがどんづ る峯の地下壕であり、海軍がつくったのが柳本飛行場の北方に位置する一本松山の地下壕であり、前者には一時、朝鮮最後の皇太子・李垠(イ・ウン)が滞在し ていたとの証言があり、また後者は天皇の「御座所」にするためのものであった。どちらも本土決戦の特攻隊員を天皇や皇族に準ずる李垠に見送らせるための 「御座所」であったという。しかしこれらの地下にいまも眠る「大本営」跡については、長野の松代大本営跡ほどには知られていない。上映されたフィルムで は、柳本町の専行院の過去帳に残されていた父親の名前を確認するために韓国からやってきた長女の女性が号泣する場面があった。父親は古里の土地を奪われ、 軍属として日本へ連れていかれたという。その場面がいちばんこころに残ったため、上映会の終了後にわたしは高野さんの姿をさがして、お寺の名前をもういち ど確認した。専行院は過去帳だけだが、山の辺の道のルートでもある長岳寺横の山辺霊園には、そのまま奈良の地に住み着いた朝鮮人の人々の墓がいくつかあ り、当時の墓碑には朝鮮半島の出身地が刻まれているものもあるという。また第三部へ移る前の休憩時間には「NPO法人 屯鶴峯地下壕を考える会」の代表・田中正志さんと、どんづる峯地下壕の見学についてお話をさせていただいた。8月中旬に橿原の朝鮮人学校で『平壌の人び と』と題した写真展があり、そのときに地下壕の見学会も行う予定だとのこと。

  第三部は『ウトロ 家族の街』(2002/58分/監督:武田倫和/総指揮:原一男)の上映と、今回の上映会の主催者である青丘文庫研究会の飛田雄一さん を聞き手に、あの原一男監督の弟子である武田倫和監督、そして『ウトロ・強制立ち退きとの闘い』(居住福祉新ブックレット)の著者である斉藤正樹さんの トーク。武田監督がまだ20代のときに、原一男監督主催のOSAKA「CINEMA」塾の塾生として撮影したという『ウトロ 家族の街』は、5月のウトロ 平和祈念館オープン記念のイベント中に二度もウトロを訪ねて、マダン劇やパンソリを堪能したばかりだったので、身近に沁みた。とくにウトロ平和祈念館では 見えてこなかったウトロの若い世代の姿が印象的だったが、いまではかれらも外へ出てしまい、ウトロもわたしの住む町内のように高齢化を迎えているはずだ。 いわば三世代が集うウトロの最後の風景であったのかも知れない。そして上映後のトークで監督も言っていたが、建設会社の社長であるTさんを主人公にすえた はずだった作品は、いつの間にか監督たち撮影チームが来るたびにさまざまな料理をこしらえてもてなしてくれた女性たちの色で染まっていったのだった。中上 健次の小説のなかのオバアたちのように、女たちが勁(つよ)い文化は、間違いない。13時から始まった上映会は17時をとうに過ぎている。じつに内容たっ ぷりで、わたしとしてはいままで、数少ないよすがとして頼ってきた貴重な資料の著者である高野さんや川瀬さんや田中さんたちの話を直接に聞き、ことばを交 わせただけでも実りのある時間であった。川瀬さんはジャーナリスト、高野さんと田中さんは元教師として、それぞれの立場で地道な研究と活動を長年つづけて きた。国家権力が揉み消そうとする歴史のあえかな息遣いを、こうした人たちがこつこつと守り続けてきたのだ。W.H.オーデンが、世界が呆然と横たわって いる無防備な夜に、それでもそこかしこで、光のアイロニックな粒がメッセージを取り交わす、と記した者たちのように。

 わたしにこの上映 会をおしえてくれたカンさんとは会場で合流した。カンさんの紹介で、朝鮮半島の経済史などを専門としている立命館大学の石川亮太教授と名刺を交わしたが、 石川教授もわたしとおなじようにカンさんに騙されて先月末に、件の韓国チームにインタビューされながら撮影されてしまった口であったそうだ。上本町まで帰 る自転車をついたカンさんと、いまも一部が残っている鶴橋署当時の煉瓦塀を見に行った。先日、韓国チームの監督にサムギョプサルをご馳走になった「ナップ ンナムジャ」のすぐ近くだった。いまは介護施設やマンションになっている敷地の南と西のL字に、朝鮮人の人々が連行されて拷問を受けた時代の警察署の煉瓦 塀がそのまま残っている。しかも大勢の若者や観光客たちで賑わっている本通り商店街のすぐわきに。それは、ちょっとした驚きだった。なぜ解体を逃れて残さ れたのかは分からないが、過去の実時間はこんなふうに、何気ない日常のすみに佇んでいたりする。けれど、こちらが見ようと思わなければ、視界に入ってこな い。ディランが歌っていた――ここで見たものは、かれらが見せてくれたものだけ。

◆七墓参りで極楽往生(マイプレ東大阪)
https://higashiosaka.mypl.net/mp/rekishi_higashiosaka/?sid=36678

◆青丘文庫研究会
https://ksyc.jp/sb/

◆キョンチャル(鶴橋警察)アパート
https://www.inbong.com/2011/ikaino/0419kyong/

◆NPO法人 屯鶴峯地下壕を考える会
http://dondurubou.web.fc2.com/

◆柳本飛行場跡
http://voiceofnara.jp/20200720-news678.html

◆天理・御座所地下壕
http://web1.kcn.jp/sizinkyo/wn/genchi_r.html

◆写真展「平壌の人々」
https://mainichi.jp/articles/20220209/k00/00m/040/166000c

◆「ウトロ 家族の街」
https://www.asahi.com/articles/ASQ627F2XQ54PLZB008.html

◆奈良・柳本の元海軍飛行場跡に慰安所を探す
http://marebit.sakura.ne.jp/D018.html

2022.7.12
 


 

 



 

 

 

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