054. 8月15日に

背中からの未来

 

 

■054. 8月15日に (2021.8.15)

 


「笹の墓標 朱鞠内・ダム工事掘りおこし」(1986)より


  まず、「終戦」ではない。敗戦だ。かの戦争を終わらせたのではなく、人間も大地も焼き尽くされて無条件降伏したのだ。それをこの国は、ずっと「終戦」だと 言い続けてきた。ここに欺瞞の一が在る。敗戦の半年後に発表された「堕落論」の最後を、坂口安吾はこう結んでいる。「人は正しく堕ちる道を堕ちきることが 必要なのだ。そして人のごとくに日本もまた堕ちきることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」 は たしてこの国は正しく堕ちる道を堕ちきったのだろうか。ここに欺瞞の二が在る。広島の原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬ から」と刻まれている。過ちを行ったのはだれなのか? だれが責任を負ったのか? そして過ちを繰り返さないのはだれなのか? ここに欺瞞の三が在る。 2021年8月15日の毎日新聞朝刊をめくってみる。戦災孤児のつらい戦後があり、大阪・京橋大空襲の慰霊祭があり、池上彰と吉永小百合の対談「朗読に込 める平和」の特集記事があり、平和を祈る戦争体験者の投稿があり、「人命を最優先させる社会に」と題した社説が載っている。奈良版では靖国の遊就館に収め られているという吉野町の特攻隊員15名が寄せ書きをした飛行マフラーについての記事があり、「平和祭」と称した大和郡山市での戦争に関する展示パネルに ついての記事があり、東大寺の坊主どもが「天災・人災犠牲者」のための慰霊法要を行ったという記事がある。展示パネルの主催者は言う。「戦争を繰り返さな いためには、思いを継承していくことが何よりも大事」と。思いは、継承されてきたのだろうか。戦争の悲惨さと平和を謳うことによって失って来たもの。ここ に欺瞞の四が在る。つまり、2021年8月15日の毎日新聞朝刊には、被害の記憶はあまた語られているが、加害の記憶は一行たりとも存在しない。中国前線 で連行させられていた中国人女性の抱いていた赤ん坊を日本兵が谷底へ投げ落とすと絶望した女性もみずから谷へ身を投げた、などという話は8月15日には語 られない。これがあのアウシュビッツ収容所などのナチス・ドイツによる人種絶滅計画を経験したユダヤ国家が現在、パレスチナの人々に同じような残虐無道の 行いを繰り返していることの歴史的回答である。つまり、かつて堀田善衛が、古代ギリシャでは過去と現在が(可視化される)前方にあり、見ることのできい未 来は背後にあると考えられていたと前置きをしてから記した「われわれはすべて背中から未来へ入って行く」ことの回答、「可視的過去と現在の実相」(辺見 庸)を見ぬくこともなく盲目のまま背中から未来へ入って行くわたしたちの「平和がたり」の欺瞞である。いまだにこの国の主要寺社の坊主どもは英霊散華の経 なんぞを唱えては済ました顔をしている。仏教的世界に於いて「英霊」はありうるのか。これもまたあまたある欺瞞の一、要するにこの国の戦後は欺瞞の巣窟であったわけ だ。みなでそれを許容してきた。 「・・犠牲者の記録などを残す場を「笹の墓標展示館」と名前をつけたのは、まさに死者たちはね、まったく追悼されること もないまま熊笹の下に眠り続けてきたという、そういう意味をぼくらは込めて、そういう名前をつけた、と」 北海道山中の熊笹から掘り起こされた多数の朝鮮 半島の強制徴用・強制労働の犠牲者たちを弔う日本人僧侶の男性のことばこそが、この国の8月15日にふさわしい。戦後80年。いまだに熊笹の下に眠る無数 の死者たちを忘却し、理不尽なむごいだけの死者を「英霊」と賛美し、盲目のまま、なにひとつ未来のイメージを持てぬままで背中から未来へ入って行く日本人 よ。わたしたちの肺腑は、いまだ欺瞞だらけだ。息を吸っても吐いても、白骨がからからとむなしくふるえる音がする。

2021.8.15
 


 

 



 

 

 

背中からの未来