052. 上野英信「天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序説」を読む

背中からの未来

 

 

■052. 上野英信「天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序説」を読む (2020.6.4)

 






 
  生まれてはじめて、かぎりなく深い死の淵から、<天皇>が、まごうかたもないみずからの絶対者として、たちあらわれたということです。「天皇 のために」死すべき存在としての日本兵士にとって、それはきわめて自然なことです。彼らの<死>は<天皇>と結びつかぬかぎり、 実体をもちえません。<天皇>もまた、兵士の<死>と結びつかぬかぎり、実体をもちえません。両者がひとつに結びつくことによっ て、<天皇>と<死>とは、はじめて共に実体を獲得したのです。そうでないかぎり、しょせん、<死>は<いわ れのない死>にすぎず、<天皇>は<いわれのない神>にすぎません。 (上野英信「天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序説」)

  兵士の死はそもそも、いわれのない死であった。天皇はそもそも、いわれのない神であった。だれもそれを言いださないはっきりと啖呵のようにきってやらない から、わたしたちは爆弾とともに四肢四散したむごたらしい死を昇華させ言祝いであげ句のはては劇やら芝居やら饅頭やらになるおれたち愚昧どもよ。死んだ兵 士はまずしい木挽きや炭鉱夫や沖仲仕であったのだがどこからかそのうちの一人か二人かが“四つ”だといううわさがまことしやかに流れてその魑魅魍魎は被差 別の同和化に利用され他方では「四つのくせに軍神など畏れ多い」と遺影を砕かれた。上野は記している「彼ら三勇士にまつわる「部落民」説も、一つには恥知 らずの美化に対する、恥知らずの反動であったと私は見る」 恥知らずの国民どもがもちあげ叩き落す。あっちにもこっちにもと勇士の骨を所望された遺族は爆 弾で四肢四散した上に骨までも四散させられるかと悲しんだ。いわれのない、ただむごたらしくただむなしいだけの兵士の死はきらびやかにかざられ、おなじ悪 意でふみにじられる。忘れられない。戦争法案反対国会前デモに参加した翌日、生まれてはじめて訪ねた靖国神社遊就館で物言わずこちらを凝視する無数の「神 (命)」たちの視線とともに見た花嫁人形が帯びたそのすさまじいまでの<いわれのない死>への願掛けを前にこいつにはとても勝てそうもないと絶望し 立ち尽くした。あの世の花嫁だよ。爆弾三勇士はおれたち愚昧どもの息の臭え臓腑からすえた死臭とともにたちあがってくるおぞましいげっぷだあらゆるすべて を内蔵しているグリコのオマケどころでない。おれたちはまだいちどもその呪縛から解き放たれたことがない。おれたちが橿原神宮や靖国神社の森で古来固有の居住まいでいのりをささげる そのかたちは江戸時代すら容易にさかのぼらない。巻末解説に阿部謹也が書いている「しかしその国において死がどのようなものとしてとらえられているのか、 人びとが死者をどのように位置づけているのかをみるとき、その国がみえてくるものである」  いわれのない死は天皇のものではなかった。靖国神社遊就館を 出てからのおれは兵士の死をとりもどさなければいけないと思い続けてそれで軍人墓をめぐるようになった。おれはそれほどかしこいわけでもないからなー   考えるよりも肉体にきざむ方が性に合っている。いわれのない死のひとつひとつを名前を歳を死んだ場所を墓石にきざまれた文字をたどっているうちに何かが見 えてくるかも知れない。「何故このような社会の構造が出来上っているのか。ここには明治以来のこの国の共同体的特質と国家権力とのなれ合いの構造が露呈さ れている」 「個人が自分の死を死ぬことができず、自らの死を何らかの別のもので意味づけねばならない構造がいつから生まれたのか」(阿部謹也)  個人 がじぶんの死を死ぬことができない国、おれはそれを断固拒否する。兵士の死をいわれのない死に返せ。天皇をいわれのない神に返せ。おれはおれの死を死にた い。
2020.6.4
 


 

 



 

 

 

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