048. 高橋源一郎「ぼくらの民主主義なんだぜ」を読み埴谷雄高を想う

背中からの未来

 

 

■048. 高橋源一郎「ぼくらの民主主義なんだぜ」を読み埴谷雄高を想う (2015.6.29)

 


Radiolarian fossils



 震災と原発事故のニュースを、カリフォルニアで聞いた加藤典洋は「これまでに経験したことのない、未知の」「自責の気持ちも混じった」「悲哀の感情」を 抱いた。その理由は「大鎌を肩にかけた死に神がお前は関係ない、退け、とばかり私を突きのけ、若い人々、生まれたばかりの幼児、これから生まれ出る人々を 追いかけ、走り去っていく。その姿を、もう先の長くない人間個体として、呆然と見送る思いがあった」からだ。

高橋源一郎「ぼくらの民主主義なんだぜ」(朝日新書

 これに続いて著者の高橋は、加藤の「すべて自分の頭で考える。アマチュアの、下手の横好きに似たやり方だが、いわゆる正規の思想、専門家のやり方を チェックするには、こうしたアマチュアの関心、非正規の思考態度以外にはない」という“決意”を引いた上で、原発の廃棄物の処分についての論議に触れ、そ れを問うのは「経済的合理性の問題」ではなく「文明論に近い問題」だという自民党議員の河野太郎の発言を引いてから、以下のように記す。

「ずっと先の世代」とは、加藤のいう「これから生まれ出る人々」のことだ。わたしたちが議論の外に置いてきた、まだ存在せぬ人びとを、この問題の大切な関係者として召還すること。これもまた、「正規の思想」にはなかったことだ、とわたしは感じるのである。(前掲書)

 

 作家の故埴谷雄高はその生涯的大著「死霊」の後半において、イエスによって食われたガリラヤ湖の魚がイエスを、仏陀によって食われたチーナカ豆が仏陀を、それぞれ弾劾する時空を超えた裁判の場面を描いた。

おお、ここまでいえば、お前もやっと憶いだせるかな。つまり、その大漁の魚を朝食として炭火の上にのせて焼き、パンとともにお前達が食べつくしたとき、お前が最後に食べたその最も大きな一匹こそがほかならぬこの俺だったのだ。
おお、イエス、その顔をあげてみよ、お前の「ガリラヤ湖の魚の魂」にまで思い及ばぬその魂が偉大なる憂愁につつまれて震撼すれば、俺達の生と死と存在の謎の歴史はなおまだまだ救われるのだ。
おお、イエス、イエスよ。自覚してくれ。過誤の人類史を正してくれ。

サッカよ、すべての草木が、お前に食べられるのを喜んでいるなどと思ってはならない。お前は憶えていまいが、苦行によって鍛えられたお前の鋼鉄ほどにも堅 い歯と歯のあいだで俺自身ついに数えきれぬほど幾度も繰り返して強く噛まれた生の俺、すなわち、チーナカ豆こそは、お前を決して許しはしないのだ。

埴輪雄高『死霊』 第七章「最後の審判」

 わたしはここに著者の壮大な宇宙論的道徳を見ると同時に、その水底に流れる大いなるユーモアのセンスも感じるわけだけれど、冒頭にあげた「新たな召還者 たち」を巡る状況については、ユーモアのかけらも感じることはできない。つまり原発事故、そしていま大きな曲がり角を迎えている「戦争(安保)法制」につ いてのこの国の行く末である。

 「わたしたちが議論の外に置いてきた、まだ存在せぬ人びと」の中には、当然ながら「かつて存在した人びと」もまた必要だろう。沖縄のガマの中でみずから の母親の手にかかってころされなければならなかった赤ん坊。イラクの都市でアメリカ軍の空爆により脳みそが飛散してしんでいったあどけない少女。ヒロシマ の石段に影となってきえていった人。南の島で「東条うらむぞ、東条うらむぞ」とつぶやき、母の名を叫んで自爆して果てた兵士。できることならわたしはかれ らのすべてを「召還」し、それこそ下北半島のイタコの口も借りて、一人一人の「いま」の思いを語らせたい。かれらこそ、語る権利がだれよりもあるはずだか ら。

 いま、たまたま生存しているわずかな人間たちだけで決めるには、事が大きすぎる。欠席裁判もはなはだしい。「まだ存在せぬ人びと」、そして「かつて存在した人びと」をもすべて加えよ。かれらにもなべて発言権と一票を与えよ。

 わたしは(適わぬことだと思いながら)夢想してみるのだ。底なしに哀しい眼をした無数の死者たちが、そして不安におびえ怒りに満ちたやがて現れる命たち が、ガリラヤ湖の魚やチーナカ豆のようにこの国の現在を弾劾し、それが大きな波のうねりのような唱和となって山川草木のすべてを覆い尽くしていくさまを。

2015.6.29

 


 

 



 

 

 

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