046. 沖浦和光『幻の漂泊民・サンカ』を読み日本唯一の『サンカ民俗資料館』を探す

背中からの未来

 

 

■046. 沖浦和光『幻の漂泊民・サンカ』を読み日本唯一の『サンカ民俗資料館』を探す (2007.9.23)

 


月刊「部落解放」2001年11月493号



 沖浦和光氏の「幻の漂泊民・サンカ」(文春文庫)を読了する。

 定住する家を持たず、河原で「瀬ぶり」---天幕を張り、山野を漂泊するサンカについて、この国ではじめて(おおやけの研究対象として)言及した のは民俗学者の柳田國男であった(『「イタカ」及び「サンカ」』1911年)。柳田はかれらの存在を「古代ヤマト王朝が制定した律令制に基づく農本主義的 同化政策を忌避して、山中に入って隠れ住むようになった」この国の先住民の末裔でははないか、と考えた。大正天皇の大嘗祭に大礼使事務官として参列した 日、京都の山手から一筋二筋の白い煙があがるのを見て「ははあサンカが話しをしているな」と思った柳田の心の内奥には、いわば「王化に浴することを拒んだ 化外の民」の悲哀と矜持に対する羨望と夢想がひっそりと、だがある種の狂おしさを湛えて沈殿していたのではないか。

 その柳田の秘め事の如き仄かな情欲を原色の絵筆で塗り増しし、さながら江戸川乱歩が描いた帝都の闇に蠢く怪人二十面相の如きあやかしを加えて人々 の前に投げ出して見せたのが三角寛であった。1930年代、新聞記者から転身した三角は猟奇的な山窩(サンカに"山の盗賊"の字義を当てはめた)小説を毎 月のように雑誌に発表し、「昭和前期では屈指の売れっ子作家になった」。それによって「ましらのように山野を疾走する異能生活者、食に窮すれば何をやるか 分からぬ無産無宿---そういうサンカ像が市民社会に広く流布されていった」のであった。現在のサンカ像には、この柳田の「秘め事の如き情欲」と、三角の 「原色のあやかし」の二種が、複雑にからみ合い共存しているようにも見える。

 沖浦氏の「幻の漂泊民・サンカ」は、あたかも廃船に付着した貝殻や海草のようなこの柳田と三角のそれぞれのサンカ像を、いったんきれいに洗い落とす。そして(おそらく)生(き)のままのサンカたちの姿にしずかに寄り添う。私的なロマンも、大仰な身振りもなしで。

 サンカは果たしてこの国の古層から由来する<山人>の末裔であろうか。沖浦氏は、幕末より以前に遡るサンカを示すような記録が一切見 当たらないことを皮切りに、文献を丹念に読み直し、歴史的考証を加え、その発生を18世紀末、天保・天明期の悲惨な大飢饉を経て食うや食わずで村を捨て- --いわば「帳外れ」となり「さまよいありく徒」となった大量の窮民たちの一部が、わずかな自然の糧を求めて山に入り、山野河川で小屋掛けして「しのぎ」 の生活を過ごし、「元手がほとんどいらず努力次第で技術の習得も可能だった川魚漁と竹細工」で暮らすようになったのではないかと推測する。そして三角寛が サンカ自身より入手したと書いている独自のサンカ文字も、厳格な縦割りの全国的組織もその掟も、あるいはかれらの神代からの出自を語る伝承も、その多くは 三角の創作であったろうと喝破する。

 「サンカの主たる生業は、春から夏場にかけては川魚漁だった。そして冬場は、蓑作りなどの竹細工や棕櫚箒作りがおもな仕事だった。都会へ出て、 「世間師」として働くこともあった。正月のハレの日には、春駒などの門付け芸に出ることもあった。その地方のサンカが、何を主として生計を立てるかは、こ の地方の環境と季節によって異なっていたのである。」 一所不住のかれらはときに「サンカホイト」などと呼ばれて差別された(ホイトは乞食の意)。そんな 中にあって、かれらをいちばん許容していたのは同じ差別の苦しみを受けていた被差別部落の人々であったろう、とも沖浦氏は記している。

 沖浦氏が直接聞き取りをしたあるサンカの老女は、その生活を次のように回顧する。

 

「この辺りのもんは、明治の始め頃からかのう、川魚漁に行ったもんじゃ。わしゃあ十五、六ん頃からやりようた。秋に亥の子がすんだら、春駒の稽古がはじまるんよのう、これが辛うてのう。ええかげんにやりようりゃ、四つ竹がとんでくるけえ、しかたなぁけえやりょうた。」

「おまえが何回も話をせえ言うけえ、思い出しとうもなぁものを思い出したぁ。わしが根まけしたぁ。ほいでも思い出すと、楽しいことはなんにもなかったなぁ、辛ぁとばかりじゃったなあ。」

「一つ所でそう売るところがないでしょうが。毎日まいにちは買うちゃあくれんけえ、遠くまで売りに行くようになるんよの。川魚売りん行くときにゃ あ、モモヒキをはいて、尻からげしての、ここらへんまで(とふくらはぎを指さして)こう靴下はいて、地下足袋をはいてのう、四角いカゴへいっぱい魚をつめ て、孟宗や檜の葉でおそうての、抱えて行ったもんで。暑いし、荷は重たいし、えらかったのう。毎日じゃけえのう。町じゃお金じゃけえど、田舎へ行きゃあお 米とかえたりの、物々交換よの。わしらが来るんを、夏が来たけえ来るじゃろういうての、心待ちしてくれとる家もあったけえど、むずかしい家が多かったの う。田舎の人は余計むずかしかったのう。塩を撒く家もあった・・・」

 

 維新後の明治政府が打ち出した「入籍定住」政策により、ゆるやかな速度ではあるが、山からサンカの人々の姿は徐々に減少していった。ある家族は都 市の貧民窟へと流れ込み、またある家族は地味の悪い村はずれや被差別部落の周辺にぽつぽつと住み着いたのだろう、と沖浦氏は述べている。そしてまた著者は かれらの民俗が「農山村の民衆生活と深い関わり」があった点を指摘し、そのために「1960年代からの高度成長の波がやってくると、大自然の生態系に拠っ たその職業は、もはや成り立たなくなった」と記している。サンカに限らず、諸国をさすらいながら特定の生業で生活した人々の姿は1950年頃を境にしだい に消えていき、1970年代に入る頃には「この列島からすっかり消えた」。

 20代の半ば、じぶんの居場所を見出すことのできずに実家に閉じこもっていたわたしの最愛の書はC.W.ニコルさんの「ティキシィ」だった。極北 の地で、己を動物とも人間とも分からなくなった孤独な青年は不慮の事故で命を落とす。魂はワタリガラスに移り飛翔する。そんな頃、わたしは毎日のようにバ イクで近くの山懐まで走り、人気のない河原によくぽつねんと佇んでいた。茂みの向こうからサンカの少女が現れて、わたしをかれらの国へ連れて行ってくれる ことをしばしば夢想した。それこそ疲れ果てた、狂おしいほどの想いの中で。山野を漂泊するサンカの姿には、そんな、この地上で破れた者の夢想を受け入れ慰 撫する“あやかし”がある。

 ではこの“あやかし”は間違いであるのか。かつて柳田国男は『遠野物語』の序文において「国内の山村にして遠野より更に物深き所には、又無数の山 神山人の伝説あるべし。願はくば之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と記した。困窮によって在所を失い、河原で「瀬ぶり」を張り、山野を漂泊するサンカの人 々の姿を通じて、わたしたちはいまなお「豚は馬である、少女は少年である、戦争は平和である」というこの世を呪い、アウトサイダーたる決意をあらたに胸に する。それは差別され、辱められ、石もて追われた者にしか分からぬ“恨み節”である。店先で差し出した銭を一度として素手で受け取ってもらえなかったかれ らは、わたし自身でもある。それが古代山岳ゲリラたちの末裔へ残された檄文だ。「願はくば之を語りて平地人を戦慄せしめよ!」 

 一処不住のかれらは、やはりこの国の深き古層より立ち現れた幻影をまとっている。それは鏡に映ったわたしたち自身の「もうひとつの」顔でもあるのかも知れない。

2007.9.19

 

*

 

 

 研究会場の小さな集会所の二階は畳の間になっていて、川魚漁に用いるさまざまな漁具が展示されている。棕櫚箒作りもその製作工程が理解できるように工夫されていて、いろんな種類の箒の実物が並べられている。

 二階への階段と廊下には、小学生の感想文がズラリと張り出されている。地元の小学校の先生が、先祖 たちの苦労が理解できるように、この地区に伝わる川魚漁と棕櫚箒作りを授業に取り入れて実習させたのである。子どもたちの作文を読んでいくと、懸命にそれ に応えようとしていることがよく分かる。

 先にみたパンフに記載されていた1998年度の解放文化祭の展示物がそのまま残されているのだった。たった一部屋の小さなものだが、今日では、日本唯一の「サンカ民俗資料館」である。

沖浦和光「幻の漂泊民・サンカ」(文春文庫)

  

 奇しくもメールで注文していた月刊「部落解放」2001年11月493号が 届いたその日の朝、広島の府中市役所(商工観光課)へ電話を入れた。役所の人はどこの馬の骨とも分からぬ者の依頼に、とても熱心に動いてくれたというべき だろう。いくどかのやりとりの後、集会所の場所が分かりました、これから見に行ってきます、またこの件にくわしい地元のSさんという人にもお話が聞けるか あたってみます、という返事が来たのは昼頃だった。ずいぶん行動派の人だなと半ば苦笑しながら、ほのかな期待にときめきながら、わたしは受話器を置いたの だった。

 電話を待っている間、わたしは「部落解放」に掲載されたSさんの手記「漂泊民からの逆照射 古老たちのアイデンティティ」を読んだ。それは沖浦氏 の言葉を借りれば「自らサンカと呼ばれた小集団の末裔であることを正面から名乗る宣言、すなわち、サンカとしてのカミングアウトであり、歴史の闇の中に沈 められてきた山の漂泊民のアイデンティティを求めての思想的宣言」である。沖浦氏がはじめて目にした小冊子の中でSさんは次のように記している。

 

 「私のルーツをさかのぼっていけば、『サンカ』にたどりつくのではないか」 これが私の脳裡にうごめいていた疑問であった。それは同時に得体の知れない不安と、漠然とした畏れの感情を育て上げていった。

 私は、川魚漁と棕櫚箒づくりを生業としている父母の姿に、尊敬の念をもちつつも、また一方では恥かしく感じるという矛盾性を抱き続けてきた。

 「いったい自分は何者なのか、なぜ差別を受けるのか」という問いは、私を解放運動に向かわせ、「差別の根源を問う」という手放せぬテーマを、自らの課題とした。

 父母とともに同じ生業をしていた人々は、どのような歴史の位相の中で現在にたどり着いてきたのか・・・

沖浦和光「幻の漂泊民・サンカ」(文春文庫)より孫引

 

 村々でときに塩をまかれ石もて追われたサンカの人々を比較的、寛容に受け入れてくれたのが、同じ苦しみを受けていた被差別部落の人々であったこと は前述した。しかしその部落内にあっても差別は存在した。被差別部落の人々からすれば「かれらは血筋が違う」のである。そして「サンカ」という名称が現在 でもなお陰湿な「差別語」として生き続けていることは、2チャンネルなどのWeb上の書き込みを見れば容易に分かる。「サンカ」とは主に川魚漁や竹細工な どの生業をもち里山を経巡った回遊型の非定住民の総称であるが、かれら自身が自らを「サンカ」と名乗っていたわけではない。「エスキモー」や「ジプシー」 と同じく、与えられた蔑称なのだ。

 私の敬愛する父母は「サンカ」という蔑称で呼ばれた者たちである。私の自己は否定すべき「サンカ」と敬愛する父母の二つに切り裂かれている。「サ ンカ」と呼ばれた父母は、なぜそのような蔑称で呼ばれなければならなかったのか。そしてその父母の血を継ぐ私はいったい何者なのか。そのような激しい葛藤 と自問のなかでSさんは、「『サンカ』という言葉は賤称語であると定義すべきだ」と宣言した上で、一説にいう「困窮極まった末に村を捨てて山に逃げ込ん だ」というネガティブな姿だけではない、まつろう諸々の先入観を拭い去った上での、いわば敬愛する父母の生きようの「光」の部分を紡ぎ出そうとする。

 

 時折、私が川に出かけ、スッポンをとって帰ってきても、一目見ただけで 「あの辺にゃあ、まだまだおるじゃろうが」と、古老たちは啖呵を切る。父にとってその生業は、単に生活の糧にするためだけではなくて、期待と落胆、工夫と 挑戦、喜びと自負といった、人間の精神を高揚させてくれる何ものにも代えがたい「なにか」であった。自然が父に与えてくれたくれる恵み、それを手にした時 の興奮を常に手応えとして受け取ることのできる、生き生きとした世界であったのだ。

 そうしてゴクリと酒を喉にし、「川はええどぉ」と頬をゆるめて語る姿には、「非定住」「無所有」なるがゆえに厳しく苛酷な差別を受けてもなお、手放さなかった人間としての意地が感じられる。

 権力の支配・締めつけを拒否し、搾取と収奪から自由になるということは、とりもなおさず被差別者と しての烙印をその身に受けることである。そのような烙印を焼きつけられても、しょせんは権力のつくったシバリに過ぎぬと歯牙にもかけず、ただ悠然として川 底に立ち、そこから見える風景とともに世間の人間絵巻を望遠していたのである。

 人間が到底太刀打ちできぬ自然界の荘厳さと常に対峙しながら生きてきた。それはすなわち、すべてを手中に収めきろうとした権力への無言の抗いであったのである。

 その高らかな誇りにつながる自然体を、わが父の身体と精神は今でも記憶している。

月刊「部落解放」2001年11月493号>作田清「漂泊民からの逆照射 古老たちのアイデンティティ」

 

 ついでSさんは「かつての漂泊生活にまつわる苦い思い出を疎ましく感じて、多くを語ることはしなかった」叔父が、その死に際に「川へ行きたい」という言葉をつぶやき、死んでいったことを記している。

 

 その葬儀には私の父も参列している。しばしすれ違った時を経ての、真実のそして最後の再会は、「川へ行きたい」という末期の言葉の中にあった。故あって故あって島に生きる道を選び、川のない地に生きた弟の亡骸の前で、座して崩れる父を見た。

 その生を全うさせぬ差別のシバリが、若き日の叔父の躍動を、定住の枷(かせ)に封じ込めたのだ。しかし、川から離れ、一切を語らぬ沈黙の時間の果てにあっても、自分がもどれる場所は、最後まで手放していなかったのである。

 「川へ行きたい」。実に険しき遺言をみる。

 

 Sさんの文章はわたしをぎりぎりと締め上げる。それは「サンカ」に勝手な夢想を寄せ自己陶酔していたわたしに対する呪詛である。と同時に、もっと やわらかな、どこか霧でぼうっと霞んだような広い川面の風景へわたしを押し出していく。それは故なき差別に苦しみながらも、いまやわたしたちの多くが失っ てしまったしずかな喜びをその胸にとどめながら、寡黙に、律儀に、自然に日々の暮らしを続けてきた、どんな「名称」からも逃れた人々のいる仄かな「光の風 景」である。

 

「サンカ」と呼ばれた位置から、この社会を眺めてみることは、とりもなおさず「定住・所有」の軛(くびき)に沈められ、結果として近代天皇制国家にからめとられてしまった私たちの精神性とその現在を、逆照射することになるであろう。

 それは権力支配によってつくられた価値観を、根底から覆すことである。真実を覆い隠していた虚像を、あばくことである。被差別民衆の暮らしの中には、このような逆照射の視点が必ずや内在化されている。解放思想の源泉は枯れず湧き出でている。

 

 父もまた、八十を超えた今なお、春暖かくなれば川へ行く。父を育て、ともにその時をすごした生命た ちが、そこには生きている。父の行く先には、私が定住生活を常態として受け入れることで見失ってしまった精神の気骨が、そこで待ってくれているのだ。その ことに私は今、痛恨の念をもち、父の後ろ姿を見つめる。

 これまでの歴史の中で、蔑視し沈黙したはずの「漂泊者」の側には、帰る場所がある。揺るぎないアイデンティティーがそこにはある。

 私は疑う。定住者には住む場所こそあるが、そこは確かに自分の帰る場所なのか------。さらに問う。「サンカ」と呼ばれた人々はいかにして、自分の精神の拠り所となる場所を、築きあげてきたのか。

 私が求心すべき場所は、漂泊者として生きた父たちの、遺産の内奥にある。

月刊「部落解放」2001年11月493号>作田清「漂泊民からの逆照射 古老たちのアイデンティティ」

 

 夕方に、電話が鳴った。府中市役所の返答は、教育委員会の人が集会所を見に行ったがすでに展示はされていなかった。Sさんにも電話で訊ねたが「棕 櫚箒も何もかも、どこへいったか分からない」という。そして(展示についてのお話を伺えたら・・という申し出については)「話をしても、誤解をされないよ うに上手に話せる自信がないので、いまはそうしたお申し出はすべてお断りしています」というものであった。

 沖浦氏が「日本唯一の『サンカ民俗資料館』」と評した展示は取り払われ、多数の貴重な展示品もどこへいったか分からぬという。もともと「1998 年度の解放文化祭の展示物がそのまま残されている」ものであったそうだから、あるいは一定の期間を過ぎて予定どおりに撤去されたのかも知れない。しかし ひょっとしたら、「サンカ」であった印の品をわざわざじぶんたちの集会所に展示することはないと一部の者たちから声が上がったか、あるいは展示に対する無 理解や嫌がらせ行為があったのではないだろうかと、わたしは疑ってもみたりする。そして何より、Sさんが答えたという言葉に含まれた微妙な言い回しに、わ たしはとまどったのだ。どこの馬の骨か分からぬ者の申し出をたんに断るだけなら想定内だ。だが、Sさんの物言いにはそれ以上の影がある。それは「話しても 理解してもらえない。もうたくさんだ」という深い絶望である。

 しょせんはわたしも鈍感な烏合の衆ではなかったか。手前勝手な空想を抱き、興味本位で嗅ぎ回る犬畜生ではなかったか。川魚漁や棕櫚箒つくりの展示 を見、話を聞き、Sさんのいう「逆照射」の何たるかを己の目と耳と頭で考えたいと欲求し、呑気に広島への汽車賃の勘定さえしていたが、いまわたしは、じぶ んがひどく軽率で、嫌らしい人間であったような気がしてならない。固く苦いしこりのように、残っている。

2007.9.23


*

 沖浦和光氏の著作を貪るように読んでいた頃、記述されていた“日本唯一の「サンカ民俗資料館」”が見たくて広島の府中市役所に電話をして調べてもらった 作田晃さんの名前を昨夜、別の調べ物で立ち寄った図書館で何げなく手に取った『部落解放』のバックナンバー(2022/819号)で見つけて、ひさしぶり の「再会」を一人よろこんだ。15年前、わたしの依頼で走りまわってくれた府中市役所の教育委員会の人に対して、作田さんは集会所の一室に展示してあった 川魚漁につかった「棕 櫚箒も何もかも、どこへいったか分からない」と言い、そして(展示についてのお話を伺えたら・・という申し出については)「話をしても、誤解をされないよ うに上手に話せる自信がないので、いまはそうしたお申し出はすべてお断りしています」と答えた。当時わたしが読んだ、作田さんの手記が載っている月刊「部 落解放」2001年11月493号には、父の面影を慕いながら川中に立つ若い作田さんの姿が写っている。わたしは無謀にも、「「かつての漂泊生活にまつわ る苦い思い出を疎ましく感じて、多くを語ることはしなかった」叔父が、その死に際に「川へ行きたい」という言葉をつぶやき、死んでいった」と記したその人 に会いたいと思って、広島までの汽車賃すら計算していたのだった。記事は8頁ほどの短いものだが、川魚漁がまだ盛んだった頃の村の人々の様子を語ってい る。

「そ ういう人らが泊まるとこ言うたら、『橋下旅館』。橋の下が旅館じゃ言うて。山の下は『山下旅館』、八幡さんなんかの軒下を借りるときは『神下旅館』。だれ がどこに泊まっておるかも、どこそこの橋下旅館とか山下旅館とか言えばすぐわかる。ときには人の家の灰屋や農小屋を借りて寝泊りもした。毎年そこに行くと きは米や魚を持っていくから、だいたいそこの家の人は、『今年もきたんかのう』という感じで迎えてくれる。塩分というものが貴重だったから、魚を塩漬けに したものが喜ばれた。逆に、長いことそこで生活せなあかんから、悪さといういうものはなかなかできんわけ。毎年、小屋を借りたりして、その人のところでお 世話になっているわけでしょう。だから、自分が漁をする場所で悪いことはしたらいかんという厳しい掟があった」

 作田さん自身が川魚漁を はじめたのは小学校五、六年生のころだ。すでにお父さんが亡くなっていたので、隣のおじさんに連れていってもらった。中学生になってからはしょっちゅう 行ったという。餌の黒ヒル(血を吸わないヒル)がたくさんとれた時などは、学校をサボって(山で生活する非定住者だとされた「サンカ」の名をとって)「サ ンカ道」と言われた山道を猿か鹿のように駆け抜け、川に向かった。「大人が自転車を漕いでいくときに、わしら子どもが山を駆けて越えていったら、わしらの ほうが大人たちより早く着いた」というから、よっぽど速かったのだろう。

『部落解放』2022年819号「部落の文化を生きる 作田晃さんをたずねて」

  かつては差別から「組」に入り、抜けるために小指もつめ、「差別裁判打ち砕こう」の曲をつくり、地元の門付け芸「春駒」を掘り起こした作田さんは、いまは 田舎のおじいさんといった風情だ。20年前から、三次市三良坂で竹細工職人をしていた石田源さんが開いた竹細工工房「みらさか竹工房はなかご」に通いつ め、竹細工をライフワークにしているという。昨年9月に亡くなった石田氏も「世間から賤視される竹細工と、それを生業としてきた父を、長い期間、自分の誇 りと思うこと」ができなかった。「源(けいげん)」は作家の野間宏から贈られた。作田さんが最初に竹でつくったのは、川魚漁で釣った魚を入れる魚籠(び く)だった。

 いつか三次をたずねる機会があったら、もう悲しい被差別の話など訊かなくてもいい。「みらさか竹工房はなかご」にふらりと立ち寄って、三良坂のグルメに舌鼓を打ち、そして作田さんらがつくった竹細工に触れてみたい。

◆月刊「部落解放」2022年3月号 819号
https://www.kaihou-s.com/book/b601634.html

◆差別裁判うちくだこう
http://wwwd.pikara.ne.jp/masah/symuta.htm

◆竹細工師・石田勁源さん
https://plaza.rakuten.co.jp/liberty2019/diary/202007120000/

◆【三次市三良坂町】見てよし、体験してよし、買ってよしの竹工房
https://www.miyoshi-dmo.jp/hanakago/
2022.7.2

 

 



 

 

 

背中からの未来