044. 京都・宇治市にできたウトロ平和祈念館で見えない未来をさがす

背中からの未来

 

 

■044. 京都・宇治市にできたウトロ平和祈念館で見えない未来をさがす

 


劇団タルオルムによるマダン劇「ウトロ」



   先日、大阪天王寺・統国寺で行われた「在日本済州四・三 74周年犠牲者慰霊祭」(YouTube配信)に参加した崔相敦(チェ・サンドン 최고상돈)さんの歌が気に入って、あとでYouTubeでかれが済州島 事件の虐殺現場で演奏する姿などを見たりしていたのだが、たまたま日本語訳の付いたCD「崔相敦の4・3巡礼音楽 歳月」を販売しているという東京の出版 社のブログを見つけた。これはぜひ欲しいとメールをしたもののリターンでもどってきてしまう。よく見ればそのブログも2017年を最後に更新が途絶えてい るのだった。そのあともあれこれ探してみたが、崔相敦さんのCDに関する情報はどこにも見当たらない。仕方なくダメもとでと、先に郡山紡績めぐりに参加し て下さった大阪のカンさんに「もし何か情報があればいつでもいいので・・」と依頼したところ、あーた。カンさんは慰霊祭で弔辞を述べていた遺族会代表の方 の連絡先を探し出してくれて、そしてあーた。とうとう崔相敦さんご本人に電話をして、「あなたのCDを欲しがっているヘンな日本人がいるのだが」と伝えて くれたのであった。しかもさらにあーた。崔相敦さんは現在、子どもが生まれたばかりの奥さんの実家がある日本(大阪)へ来ていて、明日のウトロ平和記念館 のイベント、劇団タルオルムによるマダン劇のためにウトロへやって来て何曲か歌う予定であるという。もしよければCDはそのときに持って来て、直接渡して くれるという。そんな段取りがすでに出来上がっていて、「どうしますか?」と電話口でカンさんは言うのだが、行かないわけにはいかんだろ。それでもともと は5月4日の安聖民さんのパンソリを見に行くつもりにしていたのだけれど急遽、明日5月1日に予定を変更して、Web上で観劇の事前予約もあわてて済ませ たのであった。というわけでつれあいと予定していた奈良駅前のメーデーには行かれなくなってしまったが仕方ない。明日は雨模様だし、つれあいも数日前から 関節が痛いと言っているので、ちょうどよかったかも知れない。というわけで明日はウトロへ行ってくるぜ。
2022.4.30

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   「ウトロが放火されたって、ニュースで見たけど、ホンマか!」  うなだれる役者が指さす方を観客が仰ぎ見ると、半焼して無残な姿をさらしたほんものの 住宅が、雨がやみ陽がさしてきた空にうきあがっている。昨年8月、奈良に住む22歳の男性に放火され、倉庫や住宅7棟が全半焼した一帯はまさに今日、マダ ン劇「ウトロ」が開催されている広場――かつて朝鮮人学校があり、その後はウトロ住民の交流の場になった――のすぐ隣だった。「韓国が嫌いだった。日本人 に注目してほしかった」 逮捕後に、男性はそう供述したと伝わる。過去と現在が交錯する。現実とフィクションの境界が溶解する。まさにこのウトロという土 地に沁みついた歴史が立ち上がる。
 
 「ウトロ51番地」は京都府宇治市伊勢田町内の正式な行政上の番地である。元は「宇土口(うとぐ ち)」という地名だったが「ウト口(ぐち)」を「うとろ」と誤読されたのが現在のウトロの始まりだともいう。近鉄・伊勢田駅から西へあるいて10分ほど、 南に陸上自衛隊大久保駐屯地が隣接する。この駐屯地に地元の反対を押しきって国策の京都飛行場建設が始まったのが1940(昭和15)年頃。現在のウトロ 地区に飯場がつくられ、多くの朝鮮人労働者が集められて従事した。日本の敗戦により1,300人もの労働者は失業し、捨て置かれた。朝鮮半島へ帰る術がな い者、帰る家がない人々は捨て置かれたその地で生きていかなくてはならなかった。飛行場を接収した米軍の立ち退き指示に抗い守った土地は、知らぬ間に国か ら払い下げられた企業間で転売され1989年、西日本殖産による「建物住居土地明け渡し」訴訟。2000年、最高裁が控訴棄却を決定してウトロ住民の敗訴 確定。そこから闘いは始まり、翌年に国連社会権規約委員会がウトロ問題に対する懸念と差別是正を勧告したのを皮切りに日韓によるさまざまな支援活動や運動 を経て、ウトロ民間基金財団および韓国政府財団によって地区内の一部土地を買い取り、市営住宅も建設された。日本の侵略戦争とその後の無責任な捨て置きに 対する人々の抗いの歴史がウトロにはぎっしりと詰まっている。それはそのまま、日本人であるわたしたち自身を合わせ鏡のように照射する。

  「ウトロ51番地」は長いこと、「民間企業の土地を不法占拠している」扱いだったために、上水道・下水道などの基本的な行政サービスからも排除されてき た。もともとの飯場は6畳一間(板の間)と3畳ほどの土間の一戸が、南北背中合わせの形で1棟12〜18戸が東西に十数棟並んだ長屋であった。廃材を組み 合わせたものだったために隙間風もひどく、冬は板の間に敷いた筵の上で寒さに耐え、夏は窓もないために暑さで眠れず、夜中まで戸外で涼んでから寝にもどっ たという。屋根は杉皮を乗せただけで雨漏りもひどかった。トイレは数軒でひとつを共有し、井戸の水は濁っていて砂などでろ過しなければ飲めず、雨が降れば 排泄物と混じって使えなくなった。また飛行場建設で土砂を運んだために周囲より低くなった地区内は台風などがあれば水が集まり、床上まで浸水した。そのよ うな状況下で必死に生きてきた人々を、国も府も市も、じぶんたちの管轄外だと捨て置きし続けたのであった。ちなみに土地の一部買い取りがなり、新たにつく られた市営団地や平和祈念館のような建物には現在、「ウトロ51番地」以下の数字(号)が振られるが、以前はウトロ地区内すべてが「ウトロ51番地」のみ であったために、宅配便やデリバリーサービスなどが各家の場所が分からず、配達を断られることも多かったという。

 そんなウトロの「記憶 と思いを伝えて未来へとつないでいくため」のウトロ平和祈念館が開館し、ウトロウィークと題したGW中のオープン記念企画のひとつ、劇団タルオルムによる マダン劇「ウトロ」を5月1日、先に郡山紡績ツアーへ参加してくれた大阪のカンさんホさんらといっしょに見に行った。ちなみにこの日はもうひとつ、スペ シャル企画。先の大阪・統国寺
で行なわれた「在日本済州四・三74周年犠牲者慰霊祭」(YouTube配信)で演奏をしていた崔相敦(チェ・サン ドン)さんの歌に感じるものがあったわたしは、それからYouTubeの検索でかれが済州島の虐殺現場で慰霊の曲を歌い続けているのを知って、さらに興味 を持った。Webで見つけたかれのCD「崔相敦の4・3巡礼音楽 歳月」(日本語訳歌詞付)は取扱いしていた東京の出版社もすでに連絡がつかず、もともと 韓国を拠点に活動しているらしいチェ・サンドンさんは日本ではあまり知られていないようである。ところが諦めかけていたわたしの相談を受けたカンさんが、 前述の慰霊祭での遺族代表経由でなんとチェ・サンドンさんご本人に連絡をとってくれて、ちょうど今回のウトロでのマダン劇でかれが劇中歌を歌う予定だった こともあって、会場でご本人からCDを頂ける手筈になったのであった。人生はときどき、すばらしい。

 近鉄・伊勢田駅でカンさんと合流し て、ウトロ地区まであるいた。カンさんは再訪らしいが、わたしははじめてのウトロだ。ずっと以前から訪ねてみたいと思い続けてはいたが、機が熟していな かった。有限会社伊勢田工業の資材置き場の敷地に「ウトロ51番地」を謳ったブルーの立派な案内板が立っている。そこをすぎれば間もなく左手に、再開発の 広大な空き地とまだ残されているウトロ地区の旧家屋が見えてくる。市営住宅が完成してほとんどの住民は浸水の心配がない団地へ引っ越したのだが、やっぱり もとの家がいいともどった人も何人かいるそうだ。カンさんの先導で地区内へ足をすすめる。さいしょに見えてきたブロック塀の奥の雑草が生い茂った小屋の廃 墟。ここは豚を飼っていたところですよ、とカンさんがおしえてくれた。そこから路地へひょいと入り込むと、黒焦げのまま直立する柱、ねじまがった鉄材やト タン、足もとのもろもろの残骸たち。そこが昨年8月に22歳の心ない男性によって火をつけられ、焼け落ちた倉庫や住宅7棟が全半焼した一帯であった。「国 家」という暴力によって翻弄され、それでも負けるまいと必死に抗ってしがみついて生きてきたささやかな家が、いまだ続く理不尽な悪意によって燃やされる。 京都の朝鮮人学校の生徒や先生たちに罵詈雑言を浴びせ、移転を余儀なくさせたのもおなじ炎であった。わたしたち日本人の内に宿る理不尽な炎だ。

  それから東に位置するウトロ平和祈念館へ向かった。東に市立西宇治中学校、南に陸上自衛隊駐屯地が隣接している。駐車場と緑の芝生を前庭にして、そこに一 部を移築再現したかつての飯場の建物が立っている。祈念館はシンプルな3階建て。1階はカフェスペースを兼ねた交流場所で、2階と3階が展示室である。朝 鮮人労働者の飯場はかつて全国あまたにあり、現在まで存続しているいわゆる朝鮮人集落もまだ多く残っているが、その「残りつづけた歴史」が記念館になった のはこのウトロだけだ。その理由は強制執行に抗いながら住民たちがつくったスローガンによく表れている。「ウトロは在日のふるさと / ウトロは反戦の記 念碑 / ウトロをなくすことは在日の歴史をなくすこと / ウトロをなくすことは日本の戦後をなくすこと / ウトロをなくすことは日本人の良心をなく すこと」  賢明な抗いによって、朝鮮人の人びとのためだけでない、わたしたち日本人を映し出す鏡ともなった。

 ウトロ地区の歴史を語る さまざまな展示パネルは見ごたえがある。途中まで要所要所を写真に撮っていたのだが、スタッフの若い女性に撮影は禁止ですと止められてしまった。個人の肖 像やアルバムなどもあり、心ない人たちが悪用することもあるのかも知れない。2014年に亡くなった在日1世の金君子(キムグンジャ)さんの居間を再現し たという展示があり、そこに腰かけている白髪の老婦人もパネルなのかと思ったら、カンさんがそのパネル女性と話し始めて、その人がこの平和祈念館の田川館 長さんだと知った。むかしのウトロでの生活をいろいろとおしえてくださって、それはパネル展示よりもいっそう興味深い。わたしは斎藤 正樹氏の「ウトロ・強制立ち退きとの闘い」 (居住福祉新ブックレット)に写真が載っていた、地区の入口にあるというお地蔵さんの場所が知りたくて質問したところ、わたしたちが見てきた豚小屋の横に かつてあったのが開発のために、記念館の裏手の公園へ移設されたと教えてくれた。いつからあるお地蔵さんかと訊けば、戦争中にだれかが風水で集落の位置が よくないのでここにお地蔵さんを祀ったらいいと言い出して設置されたものらしい。あとで見に行ったけれど、まるいふたつの顔を白いペンキで塗り、そこに男 女の目鼻口などを描いた素朴なお地蔵さんで、どことなく半島の風情がある。展示パネルにはお葬式の写真などもあったので、もうひとつ訊いてみたのは、ウト ロの人たちのお墓の場所であった。じつはグーグルマップでウトロ地区の北に伊勢田の共同墓地があるのを見つけたので、ひょっとしたらそこかも知れないとも 思ったのだが、田川館長さんの話では特に決まった場所はなくて、個人個人で京都・東山の霊園に墓をこしらえたりといったものだそうだ。ひょっとしたら伊勢 田の墓地は使わせてもらえなかったのかも知れない。

 祈念館の展示を見終えた頃に、カンさんの携帯にチェ・サンドンさんの奥さんからウト ロ到着の連絡が入り、カンさんと二人でマダン劇が行なわれる広場へ向かった。先程の放火事件の現場のすぐ横で、「エルファ」という名称の生活総合センター やデイサービスなどが入っている二階建ての建物が向かい合っている。むかしから屋外での焼肉などで地区の住民たちの交流の場所であった。チェ・サンドンさ んご夫婦は今日の楽屋である「エルファ」のなかから出てきてくれ、まずはお願いしていたCDをプリントアウトした日本語訳詞と共に手渡してくれた。それか らわたしたちは劇団タルオルムの人たちが最後の練習をしている広場のすみに立って、すこしばかり話をした。13も年下という奥さんは生後3カ月の赤ちゃん を抱いている。奥さんはもともと大阪生まれの在日で、小学校の先生をしており、たまたま済州島で長期滞在をした折に知り合って結婚することになったとい う。「でも、かれの歌に惹かれたわけじゃないんですけど。歌はべつに良いと思ってなくて・・」なぞと言う。チェ・サンドンさん自身はわたしより3つ下、一 見すると精悍な兵士のような面持ちだけれど、物静かで、少々はにかみ屋のようなナイス・ガイであった。チェさんは日本語はあまり得意ではないようで、奥さ んやカンさんが通訳に入ってくれた。かれの音楽を知ることになった経緯、そしてじぶんも日本国内での不合理な朝鮮人の人々の死の現場を巡っているので、あ なたが済州島の虐殺現場で歌を歌い続けていることにとても共感するといったようなことを伝えてもらった。虐殺現場などではどういう気持ちで歌っているの か? とわたしに問われ、チェ・サンドンさんは、死者に向かって歌っている、と答える。なにかリアクションはあるか?と訊くと、そのような場所で歌ってい ると、またつぎのインスピレーションが思い浮かぶ、と言う。チェ・サンドンさんご夫婦は日本の朝鮮人殉難の場所も訪ねていて、生駒トンネルや屯鶴峯のこと も知っていたし、最近は金沢陸軍墓地の尹奉吉(ユンボンギル)の暗葬の地も訪ねたという。劇中歌を歌うチェさんは劇団の練習を見始めたので、あとは日本語 の達者な奥さんから「どうして朝鮮人のことに興味を持つようになったのか?」と訊かれて、熊野山中の紀和鉱山で見つけた「英国人兵士の墓」(じつは炭坑で 死んだ朝鮮人 労働者の埋葬地だった)の看板の話などをしたのだった。

  マダン劇の始まりまで一時間半ほどあり、それにわたしたちはまだお昼を食べてい なかった。カンさんが、遅れてきて祈念館の展示を見ているホさんを館内に探しに行っている間、わたしは受付の女性スタッフにランチの場所などを訊いたが 「この辺はなにもないんですよねえ」と困ったように苦笑する。カンさんは大久保駅まであるいていこうと言うのだが時間がぎりぎりになりそうだ。グーグル マップではウトロ地区の近傍、西へ10分ほど歩いていくと地元のうどん屋さんなどが数軒あるようだから、そこへ行ってみようということになった。あえて店 名は書かない。昼時もとうに過ぎて、店内は若い男の子が二人いるだけだった。老夫婦で営んでいるらしい住宅街のその小さな店で、わたしたちはうどんやそ ば、そして丼ものなどを頂いた。ところが給仕役のおばちゃんの接客態度がひどかった。なんというか、表面は便宜上ていねいな物言いだが、すべてに面倒くさ げなリアクションで、腹の底で軽い嘲りを抱いているような、そんな感じなのだ。たとえばわたしがカンさんたちにメニューを説明している間にわたしの手元に 湯呑を置いていったものだから知らず倒してしまい、あたりを濡らしてしまった。そのときの如何にも迷惑そうなリアクション。そのあと長いこと空っぽの湯呑 が放置されていたので、わたしがじぶんで薬缶のお茶を入れにいったところ、「コロナだから、やめてくださいね。そーいうの」というにべもない警告。その他 にもいろいろあるが、まあ、やめておく。わたしはこれまで、そんな店にほとんど出会ったことがない。わたし一人だったらおそらく怒って店を出たはずだが、 カンさんたちの手前もあり我慢した。そしてひょっとしたらだけど、このおばちゃんは「ウトロ地区に対してあまり良い感情を持ち合わせていない」類の人なの かも知れないと、わたしは思ったのだった。そうかも知れないし、わたしの考えすぎで、おばちゃんはたんにそういう性格なだけなのかも知れない。ウトロ 地区の周辺でウトロ(朝鮮人)をこころよく思っていない人がいるのは悲しいが当然だろう。もしおばちゃんがそうだったのだとしたら、カンさんたちのような 日本にいる朝鮮人の人たちは、少なからずそういう目に会っていて、日本人であるわたしたちにはそれらは大抵気がつかない。一見ていねいな物言いの裏の悪意 は言語化しにくいのだ。そんなことを一人、考えていたのだった。

  近場で昼を済ませたお陰で、劇の始まりまでまだ30分以上もあったが、早めに席に着いていてよかった。120席限定の予定が、当初の雨予報にも関わらず 130人もの観客が集まり、立見のお客さんも出るくらいの盛況だったからだ。昨日までは100%雨予想だったが、昼からは止み、いまは青空も見えかけてい る。マダン劇というのは広場(マダン)で行なわれる劇のことで、舞台とは異なり円形の広場をおなじ平面で観客が取り囲みながら、ときに演者が客を巻き込ん で共に演じてもらったり、観客がやじをとばしたり、全体が混然一体となって進行するのが持ち味という。わたしも後半、女性の役者さんからリボンとサインペ ンを渡されて中央に置かれた鉢の枝に祈りの言葉を記したリボンを結びにいったのだった。劇はウトロで生まれ育った少年が母や祖母に見守られながらウトロの 歴史と共に成長していく様を描いたものだ。シンプルといえばシンプルなストーリーだが、祈念館で見た展示や田川館長さんに聞いたむかし語り、そして実際に 見てきたいまも残るかつての建物の廃墟や無残な焼け跡などが、かれらの演技に肉づけされて共に躍動し、まるでこのウトロの大地からたちのぼる歴史の渦のよ うにも感じられる。わたしは、ここへきてよかったと思った。今日このウトロの地で、この狂おしい歴史の渦を共有できることが心地よかった。劇中歌で登場し たチェ・サンドンさんは「ここはわれわれが生きて、生きて守る場所」と歌った。まさにウトロはそのような場所であった。日本人のわたしたちが生きるために も、守らなければならない。見えない未来を見るために、過去と共に生きてゆく場所がウトロであった。

  マダン劇が終わった。ウトロでの一日が過ぎた。わたしは何だか、一人になりたくなった。それで「エルファ」の前の方で劇団の人たちと話し込んでいるカンさ んを遠目に、ホさんに「ちょっと見てきたいものがあるので、今日はここで」と挨拶をしてウトロ地区を後にした。向かったのは来るときに伊勢田駅の改札前の 案内マップで見た伊勢田の共同墓地と伊勢田神社だった。伊勢田墓地は棺台の前の古びた六地蔵と南無阿弥陀仏の名号碑がよかった。墓地の奥に整列した軍人 墓のエリアがあった。そのなかに「海軍軍属 〇〇智恵子」と、一人だけ女性の名前が刻まれている墓を見つけた。彼女はこの伊勢田から女子挺身隊として 1944(昭和19)年5月1日に呉の海軍工廠へ赴き、そこで翌年の6月22日の空襲で亡くなったのだった。享年20歳だった。彼女の墓前には真っ赤な名 前の知らない花が添えられていた。わたしは手を合わせ、しばらくその墓前に佇んでいた。叢(くさむら)のなかの石ころだけの墓もいくつかあった。それから 伊勢田神社を見て、長い参道を通り抜け、電車に乗って帰宅した。犬の散歩をして、夕飯の支度をして、食べて、風呂に入ったら、なにやらひどく疲れていた。 ふだんより早めにベッドに入り、チェ・サンドンさんに頂いた「崔相敦の4・3巡礼音楽 歳月」をiPhoneに入れて日本語詞を読みながらイアホンで聴い た。死者たちが語る声を聴きながら、身体をふるわせながら、知らず眠った。受けとったものは重い。「黒いアスファルトの滑走路の下に / 50年前 理由 もわからないまま生き埋 めにされて一度死に / 土地を掘り返され バラバラにされて二度死に / 滑走路に覆われて三度死に / その上を恐竜の始祖鳥が爪で引っ掻き飛び上が るたびに また死に / 重い機体で踏まれるたびに また死に / そのたびに粉々に砕けた骨の音が聞こえる」(ジョントゥル飛行場・金秀烈詩)
2022.5.2

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   マダン劇がマダン(広場)に於いて観客と交感する芝居であるように、パンソリとは「パン(場所)」に於ける「ソリ(歌=この世のあらゆる音)」を意味す る。安聖民(アンソンミン)さんはそれを「おおぜいの人が、おなじ目的のために、必要な過程を経て、ひとつになる場所」と説明する。そして、まさにウトロ はそのような「パン(場所)」にふさわしい、と。ウトロ平和祈念館、UTORO WEEK。今日の演目は以前、大阪・靭公園近くで聴いたものとほぼ同じであったが、観客のノリが違う。アンコールのアリラン。オモニたちが舞い乱れる。中 上健次の路地のオバたちのように。

(ふたたびのウトロ平和祈念館、ウトロウィーク企画で安聖民(アンソンミン)さんのパンソリを聴く)
2022.5.4

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  昨日、自転車で近場を散策して物産店で焼魚弁当を買って帰る道すがらのことだ。奈良盆地の南北の大動脈である国道24号線だが、たいていの部分は歩道は それほど広くはない。帰り道を北上していると、向こうから自転車に乗ったじいさんがやってきた。すれちがうのにちょっと窮屈かな、と思っていたら、じいさ んはわざわざ車道の方へ一時的に出てくれたので、こちらも「すみません」の意ですれ違いざまにぺこり一礼した。ところがすり違ったと思ったら背中から、 「ばかたれ! 気い使わすな!!」とじいさんの罵声が。一瞬、何を言われたのか分からず、3秒後くらいに理解して、5秒後くらいに腹が立ってきた。振り向 けばじいさんはすでに数十メートルは先だ。追っかけて行って文句を言ってやろうかとも思ったが、どうせそんなじいさんじゃ、まともな話にもならないだろう し、それに背中の焼魚弁当も気になったので、釈然としない気持ちを抱えたまま帰途についた。

 あとで、ヘイトクライムってのはこういうこ とに近いのかな、と思ったんだな。一方的に言われる理不尽な暴言、反論のしようのない状況。わたしが昨日、正体不明のじいさんに出合い頭に吐かれた思いも かけない暴言や罵倒に、たとえば在日の人たちなどは常にさらされ、怯えながら日常を送らなければならないような状況なのだろうと思った。出会い頭に投げつ けられる暴言は、その場でこらえてぐっと飲み込むしかない。追いかけて行って是非を質しても、さらに噛みつかれるだろうし、警察もそんなことにはいちいち 構ってはくれないだろう。世間は、ああ、チョーセン人がなんか騒いでるわ、とせせら笑って眺めているだけだろう。Web上の無責任なヘイトにも似ている な。薄笑いを浮かべた鵺のような不特定多数からの襲撃。そしてこの国は、ちょうど百年前に大災害でゆらいだ日常のなかで多くの朝鮮人をじっさいに嬲り殺し にしたんだからね。やられた方は忘れていないよ。

 京都の朝鮮人学校が「在特会」のメンバーらに取り囲まれ、ありとあらゆる罵詈雑言をハ ンドスピーカーでがなり立てられ、校内で子どもたちが怯えていた事件のルポを読んだとき、怒りと無力感でふるえたよ、おれは。じぶんがもしこの子どもたち の親や教師だったら、なにをしただろうか、なにができただろうか、と考えたらやるせなさで臓腑が千切れそうだった。「(住民が)日本に滞在することに対し て批判、非難を受けて当然ですよ、という意味を含めた。恐怖を与える意味といっても間違いない」 逮捕後にウトロ地区を放火したこの大和高田の22歳の青 年は云ったそうだが、やるんだったらいっそ米軍基地くらい狙えよ、この腐れチンコ野郎が。偉そうなことを言っても、てめえの弱さの裏返しのただの弱いもの いじめじゃねえか。

 すれ違いざまに「ばかたれ! 気い使わすな!!」と怒鳴って自転車で走り去ったじいさんはある意味、その場限りの 酔っ払いか狂犬に噛まれたみたいなもんだが、在日朝鮮人や被差別部落や障害者といった人々に対するヘイトは、それらの人々の「属性」に対して吐かれるもの だから、対象は見知らぬすべての「属性」を有する人たちだし、一回性ではなく連続する。先日、ウトロ平和祈念館へ安聖民(アンソンミン)さんのパンソリを 聞きに行ったとき、挨拶をした下記の記事にも登場する副館長の金秀煥(キムスファン)さんが「パンソリも素晴らしかったけど、それを見に来て下さったみな さんこそが、このウトロ平和祈念館のいちばんの宝です」みたいなことを言ったけど、おれはほんとうにその言葉にしびれたよ。同時に、かれらにそんなことを 言わせる、日本人であるじぶんの不甲斐なさが恥ずかしかった。

 京都の民団(在日本大韓民国民団)左京支部会館へ前田憲二監督の「神々の 履歴書」を見に行ったときも、集まったなかで唯一の日本人だったわたしはこちらが恐縮するくらい歓迎されたし、先日、郡山紡績で亡くなった二人の朝鮮人の 話を聞きに来てくれた宣教師のホさんはわたしに「朝鮮人のことを調べてくれてありがとう」とお礼を言ってくれた。おれたち不甲斐ない日本人には、かれらの あたたかい気持ちを受け取る資格なんか微塵もないわけで、そんな態度を示されるとほんとうに恥ずかしくて仕方がないのだけれど、結局のところ、言われなき 差別をなくすのはこうした一人びとりの顔の見える交流、ふれあい、人間関係を築いていくことしか、やっぱり始まらないんだろうな。かつてナチス・ドイツで は政権に抗う者たちが屠られ、障害者が屠られ、ジプシーたちが屠られ、そして大量のユダヤ人たちが屠られていった。言われなきヘイトは、確実にその一歩 だ。

 京都の朝鮮人学校でキチガイどものヘイトに怯える子どもたちを前に、いったいじぶんになにができるのか。臓腑を千切るような怒りと羞恥を感じながら、お れはいつも考えているし、答えはまだ見つかっていない。


京都ウトロ放火/上
ヘイトクライム認定を 16日初公判へ被害者側訴え
https://mainichi.jp/articles/20220510/ddn/041/040/002000c

京都ウトロ放火/下
私の体、燃やされたよう 地元出身弁護士「差別は人ごと」誤り
https://mainichi.jp/articles/20220511/ddn/041/040/022000c

「在日コリアンに恐怖を」男が語った動機と半生 ウトロ放火
https://mainichi.jp/articles/20220509/k00/00m/040/111000c
2022.5.11

 

 



 

 

 

背中からの未来