043. 靖国神社祭儀課に祖母の弟たちの祭神調査を依頼する

背中からの未来

 

 

■043. 靖国神社祭儀課に祖母の弟たちの祭神調査を依頼する

 


「北山村史」の戦没者一覧より


 
  ここにおいて戦争の聖なる力は、その十全な輝きをもって現れる。(略) このような感情は、文明がその基礎としている諸々の価値、戦争の前夜まで最高のものと思われていた諸々の価値を、粗暴な瀆聖的な仕方で否定するところにお いて、その最高の強みをみせる。平和が必要と偽善にかられて聖なるものとしてきたもの、すなわち節度、真実、正義、生命といったものを誇らかにあざ笑うこ と、これこそが、戦争のもつ聖なる威光の最高の明証である。(略) 祭りのなかに現れる<聖なる違犯>というものの役割を、 戦争が果たしてい るのである。
ロジェ・カイヨワ「戦争論」



 かねてより靖国神社祭儀課に依頼していた件の返答が届いた のは、折しもこの国の地上に於いて桜が満開の時節であった。「さて、御申し出の有りました 久保 守命・久保 廉平命 につきまして調査しましたところ合 祀されて おりましたので、別紙の通り回答申し上げます」  久保廉平と守はわたしの母方の祖母の弟たちである。廉平は1914(大正3)年、守は1921(大正 10) 年に和歌山県の北山村で、筏師「久保組」支配人であり第十一代村長も務めた久保八十次郎のそれぞれ三男と四男として生まれた。北山村史の戦没者リストによ れ ば、二人は共に「海軍」の所属として、戦争末期のニューギニアのサルミで戦死したとある。守は1944(昭和19)年9月29日、享年24歳。廉平は同年 10月15日、享年31歳であった。わたしの手元には、おそらく村のどこかの屋敷だろう石垣の前で、16歳の娘盛りの祖母といっしょに写っているセピア色 の写真がある。幼い二人の瞳はまっすぐにこちらを見つめている。

 今回、靖国神社の祭神調査によってあらたに判明したのは、二人は兵士で はなく海軍「嘱託」であったという事実だ。所属部隊は「第八海軍建設部」である。調べたところ、奈良の県立図書館に「第八海軍建設部始末記 (東部ニュー ギニアに於ける海軍軍属部隊の記録)」(1986、今井祐之介(元第八海軍建設部付 元海軍書記) なる50頁弱の冊子があり、また国立国会図書館関西館 のデジタル文書「濠北を征く:思い出の記椰子の実は流れる」(1956、濠北方面遺骨引揚促進会)の中に「第八海軍建設部の面影 / 遠山親文」なる一節 を見つけて、それぞれコピーをしてきた。「海軍建設部」とは基地施設建築や陣地築城を任務とした部隊で、もとは設営班とも呼ばれたが、編成の外郭団体とし て民間会社が所属していた。前述の「第八海軍建設部始末記」で著者の今井は八建(第八海軍建設部の略称)の使命として「原住民の宣撫ならびに治安維持。現 地軍の自給自足。産業の開発。病院の建設」をあげている。これに参加した進出企業は農業(南洋興発、三井農林、南洋食品)、漁業(南興水産、東北水産)、 林業(林業開発組合(挺身企業体三菱主体))、土建(矢島組)、海運(南貿汽船、日本郵便)などとあり、久保廉平と守はこのいずれかに所属していたと思わ れ る。

  「第八海軍建設部始末記」によれば1943(昭和18)年1月11日、横浜港に集合した八健関係者は輸送船・白山丸に乗船して出港、二隻の水雷艇に護衛さ れて途中、横須賀で別部隊を乗せ、三池で石炭を積み、パラオなどに立ち寄り、西部ニューギニアのマノクワリに到着して民政府の要員や貨物を陸揚げした。映 画「南の島に雪が降る」の舞台になった演芸分隊のマノクワリ歌舞伎座があった町である。目的地である東ニューギニアのウエワクに着いたのは2月11日、 「横浜を出港してから満一ヶ月かかっている。船上から見たウェアワクは、見わたすかぎり鮮やかな緑におおわれ、朝日に輝いて南海にうかぶパラダイスかと思 われた」(「第八海軍建設部始末記」)  上陸してしばらくは平穏で、荷揚げをしてテント張りの宿舎を設け、農業適地の調査をしたり、山中での伐木・製材 作業に着手、土建隊は建物や道路、橋の竣工にあたり、漁業隊がマグロの漁場を見つけて水揚げしたが脂気が少なくあまりおいしくなかったともいう。「日中屋 外は焼けつくように暑いが、屋内はさほどではなく、ワイシャツに長ズボンでも快適にすごせる。夜は涼しく、草むらには内地の秋を思わせる虫の声がしげく、 毛布を一枚かけて寝る位の気候である」

  しかし当時、大本営はすでにガダルカナル島を放棄し、ついでブナも玉砕、東ニューギニアは最前線 となりつつあり、4月9日、ついに連合軍の本格的な攻撃が始まったのであった。「その後、ウエワク地区における敵空襲は連日におよび、来襲する機数もだん だん増加し、飛行場、ウエワク台上、洋展台、周辺のジャングル、入港中の船舶等に猛烈な爆撃を加え、緑に覆われたジャングルは赤土の原野に変わってしまっ た」 このような状況なので「開発作業は現状維持が精一杯で、前進などは思いもよらなくなった。労働力の原住民は逃げて中々寄りつかず、反対に、防空壕掘 りや、空襲被害の復旧に人手をとられる有様となり、山から出す木材は身を守るためにのみに使用される。農産物は野菜類が自給自足にようやくで、米は軍需部 から受ける有様、漁船の水揚げも段々と遠のくという状況になった。このような状況では、八健進出の意味がなく、かえって戦力のマイナスでしかない」  戦 局の悪化のため「タイピストとして配属されていた女子職員十数名を」「また看護婦十数名も内地から交代要員が到着したのに伴い帰還がきまり」、11月に帰 国。12月後半には「百機以上の空襲を連日うけるようになり」、年が明けた1944(昭和19)年2月頃から「敵機の来襲は熾烈の度を加え、次々と施設が 破壊され、ついにウエワクにおいての業務遂行が不可能となった」。

  このような第八海軍建設部の状況について、今井は次のように総括する。 「八健が進出しようとした時期は、敵が反攻企図を示し、ガダルカナル方面に侵攻し てきた頃であった。そして戦況は我に不利な徴候を示していた。このような時期に、作戦部隊でない開発部隊が敵飛行機の行動範囲内で、速成し得ない生産物を 出そうというのは無理である。開発というような地についた仕事は、安定した状態で、資材も充分あって初めて成果を期待し得るものである。事実は全く逆で あった」  その後は敗走につぐ敗走である。敵に追いかけられながら、まだ戦況が幾分かマシであった西ニューギニアのサルミを陸路によって目指したが、ほ とんど食糧も持たず、着のみ着のままの悲惨な逃避行であった。「ホーランジアの西方には、二千三百米を超す山を主峰とする山岳地帯があり、人跡未踏の地で ある。多くの者は、これを越えて西に向かってサルミを目ざしたが、道はもとよりなく、ジャングルの中を山を越えて行かなければならない。太陽によって方向 を定めて進むが雨の日が多く、方向を失って山中をさまよう形となった。地形は極めて峻険であり、昼なお暗いジャングルには、巨大な倒木が行く手をさえぎ る。一つの山を越えると、その先にまた山がある。赤道に近い熱帯の地であるが、高い山の中では夜は寒くて耐えがたい。この山岳地帯を越えるまで、食糧とな るものは全く得られない。転進の際身一つで出発したため、食糧、医療品の携帯はなく、その補給ももとより全くないので、大部分の者は山中で餓死してしまっ た」

 東ニューギニアのウエワクから西ニューギニアのサルミまで、ためしにグーグル・マップ上でルートを設定しても道がないので計測出来 ない。目安、直線距離で600キロ以上はあるだろう。その道なき道をすすみ、祖母の二人の弟たちは、かろうじてサルミまではやってこられたが、そこですら もはや安全な場所ではなかった。4月後半から5月にかけて「逐次」サルミに到着した八健の転進者は5月20日の段階で830名となり、陸軍の第三十六師団 の指揮下に入った。「その内、485名は、師団現地自活挺身隊としてトル河上流ブファレに農場を開発することになり、5月7日夜出発、矢島組の中72名は 木場構築作業に従事し、患者192名はサルミに残留することとなった」  ところがじきに「敵が上陸してサルミ地区が戦闘地域となったため、海軍軍属はす べて同地区外に退去を命ぜられ、5月20日マノクワリ方面へ向けて再度転進を開始した。八健関係者約800名の内一部は極度の衰弱マラリア等のため、フエ ルカム河以西マテワル付近に留まり、その他はマンベラモ河方面に陸攻転進を続けた。この間には、すでに食糧、医薬品とも全く無くなっており、そのため餓死 する者、病死する者が多数出た。 マンベラモ河に到着できた者は約500名であったが、その内約200名はさらに前進することを断念し、再びサルミ方面に 引き返した。約300名は、6月4日、6日、10日の三回にわたって陸軍の大発で渡河しマノクワリに向かって転進をつづけた。しかしながら、マンベラモ河 以西は、人跡未踏ともいうべき大湿地帯であり、海岸線は、いたる所に巨木が横倒しになっていて、踏破するには大変困難であり、あまつさえ食糧は全くなく、 疲労困憊その極に達して先行者がバマイ付近に到着したのは18日頃であった。当時その付近一帯は敵工作班の活動が著しくなっており原住民が頻々ととして我 々を襲い、そのために犠牲者が続出した。さらにマラリア、アメーバ赤痢などの疾病と餓えのため斃れ殆ど全滅の状態となった」 

 祖母の二 人の弟たちがサルミで亡くなったのは、残された記録によれば9月末と10月中旬であるから、二人はすでにサルミ到着時点で「患者」として残留した192名 の内であったか、あるいはマノクワリを目ざして断念し引き返してきた200名の内であったかも知れない。もうひとつの資料「第八海軍建設部の面影」(遠山 親文)も、このあたりはほぼ同じような記述だが、こちらは敗戦後まだ間もない時期(1956年)に出版されたもののせいか次のような哀切な一節も伺える。 「・・この間において、糧食、医薬品皆無のため、餓死者が、続出したが、我が身一つを持ち運ぶことが精一杯というのが当時の実情であったので、僚友の死体 を埋葬することができず、心を残しながら遺体を踏み越え踏み越え、物につかれたようにひたすら前進を続けるという状態であった」  最後の瞬間を、二人は どのように迎えたのかと思うのだ。弟の守が24歳で9月29日に先に逝き、兄の廉平は10月15日に31歳で後を追った。廉平は弟の最後を看取ることがで きたのだろうか。二人は死にゆく際に、熊野の豊かな山と川の風景、そこで待つ母や姉たちの姿を思い出しただろうか。1,641名の第八海軍建設部関係者の 内、戦没者は1,104名、行方不明者は264名、帰還者はわずか273名であった。  「第八海軍建設部始末記」の最後を今井は次のように締めくくっている。「・・これらの人々の遺骨の大部分は、人跡未踏のジャングルの山奥に眠っており、そ の場所には、おそらく、今後数千年に亘って、再び人類が足を踏み入れることは無いであろう。如何にも悲惨な結末であった」

  カイヨワはその「戦争論」において、祝祭のような戦争がその高揚の頂点に於いて人間を呑み込み消費し、そのなかでひとの個の独立性は一時棚上げされ、「個 人は画一的に組織された大衆のなかに溶けこんでしまい、肉体的、感情的また知的自律性は消え去ってしまう」と記す。遠い南の島のジャングルで惨めに死んで いかねばならなかった久保廉平と守は、「国家」によって消費される非人間的なパーツであった。本来、人が生きるためのかりそめの集合体にすぎない「国家」 が、徴兵という血の儀式によって人間に「国家」への奉仕を強制する。かりそめの「国家」は人間を超える「至上の存在」として立ち上がる。その抗い難い至上 の存在を前にして、二人は「それを自分の運命として受け入れ、泥の中を這い、虫のように死んでいかざるを得ない」(西谷修「ロジェ・カイヨワ 戦争論」 100分e名著)  「平和が必要と偽善にかられて聖なるものとしてきたもの、すなわち節度、真実、正義、生命といったものを誇らかにあざ笑」った戦争の 顔をした「国家」が国を守るためにいのちを賭せと言い、「英霊」になることを強要する。廉平と守の墓は筏師の里ともいわれる熊野の山中の集落を見下ろす高 台にあって、長兄によって二人の名が刻まれているが、おそらく二人とも遺骨はなかっただろう。今井が記したように「今後数千年に亘って、再び人類が足を踏 み入れることは無いであろう」人跡未踏のジャングルにいまも眠っているのかも知れない。二人は「消費」され、「国家」は永続する。かれらの死に、わたしは 抗いたい。

2022.4.21

 

 



 

 

 

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