042. 東京下町を慰霊する

背中からの未来

 

 

■042. 東京下町を慰霊する

 


竹久夢二「東京災難畫信」より中秋名月


  東京に生まれ育ちながら、東京をそんな目であるきまわったことがない。もとより幼い頃も、20代になってからも、関東大震災も東京大空襲も紡績工場も、ほ とんど頭のなかに存在しなかった。しかしいまはあるきたいところ、見てまわりたいところがたくさんある。東京もまた無数の「言われなき死者たち」がいまも 眠れぬ町 である。湯島のホテル前の坂道をくだり、御徒町から地下鉄で両国へ出た。国技館や江戸東京博物館、ホテルなどが建ち並ぶ一画にある横網町公園は、かつて陸 軍の被服廠(軍服などの製造・貯蔵・調達などを担った施設)があった。1923(大正12)年、関東大震災が発生したとき、被服廠の移転に伴い東京市が跡 地を買収して公園の造成を進めている最中であった。多くの人びとが家財道具と共にその「空き地」へ避難してきたところへ飛び火し、四方からの強風にあおら れて一面はたちまちにして逃げ場のない火焔の坩堝となった。じつはわたしの父方の祖母は、この横網町公園から東へ徒歩20分ほどの大平町が実家であった。 左官職人を大勢抱えた棟梁の家だったらしい。1906(明治39)年生まれの祖母「たま」は、このとき16歳。生前、墨田川へ飛び込んで助かったという話 を本人から聞いたことがある。もし祖母がこの横網公園へ逃げていたら、わたしはこの世に生まれてこなかったことになる。ようやく火が収まった後の被服廠後 には黒焦 げの死体が累々と重なり、鬼哭啾々たる景色であったという。遺体を火葬するために88名の人夫が集められたが「酸鼻に堪えず」その日の午後まで残ったのは わずか4人だった。処理された遺体は3万8千体。灰の山がうずたかく積まれた場所に建てられたのが現在の慰霊堂である。最終的にこの慰霊塔には、5万8千 人の関東大震災の遭難死者の遺骨、そして1945年3月10日の東京大空襲による死者10万5千体の遺骨が安置されている。公園内には1931(昭和6) 年に開館した二階建ての震災復興記念館(現在は東京都復興記念館)がある。ひとつの建物に関東大震災と東京大空襲の資料や遺品、当時の写真パネルなどがひ しめいていて、ひたすら重い。ここで慰霊堂と復興記念館の由来を記した冊子(東京公園文庫48)と、竹久夢二が震災翌日の東京の町をスケッチして歩き新聞 に連載した「東京災難畫信」を購入した。夢二はそのなかで、「萬ちゃんを敵にしようよ」「いやだあ僕、だって竹槍で突くんだろう」と会話して自警団ごっこ をする子どもたちの姿を描いている。展示パネルには「流言飛語による治安の悪化」と題して自警団による朝鮮人虐殺の説明はあったが、併設の写真は流言飛語 を罰するという警視庁のビラで、軍隊や警察が虐殺に関わっていた事実は伏せられている。大杉栄と伊藤野枝の虐殺、亀戸事件なども展示するべきではないか。 展示をじっくり見て、帰り際に受付のおばちゃんとしばし雑談をする。東京大空襲の写真が現在のウクライナと見紛うという話におばちゃんは、「日本人もすっ かり平和呆けしてしまって、徴兵制があった方がいいと知人が言っていました」なぞと言う。記念館を辞して、慰霊堂へ入る。東京築地本願寺の設計で有名な伊 東忠太 による建物内部はカトリック教会の聖堂のようである。祭壇の前で恒例なのだろう、数名のお年寄りたちがパイプ椅子にすわって読経をあげていた。慰霊堂の横 には「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼の碑」がある。「誤った策動と流言蜚語のために奪われた6千余名の尊い命」を追悼する碑である。花はないが、手元のお茶 を碑に注いで手を合わせた。公園には犬を連れたりした近所の人が三々五々通り抜けていく。約百年前、ここに累々と黒焦げの遺体が積み重なった凄絶な光景を 思い 描いてみようとするが、現実とあまりにかけ離れすぎていてうまくいかない。高層ビルに囲まれた慰霊堂はまるで巨神兵の白骨のようだ。どちらかがまぼろしな のだ。北斎通りを東へと向かう。すみだ北斎美術館は賑わっているようで、ちらと覗き込んで通りすぎた。どのみち今日は北斎を味わう気分でない。公園と化し た大横川を越えて、祖母の実家があった大平町2丁目あたりの路地をあるきまわった。「関口」というのが祖母の旧姓で、表札をさがすが見当たらない。ひょっ としたらと思って太田道灌開基という近くの法恩寺へもどり、墓石の間をさまよっているときに、そういえば墓は日暮里あたりの山手線の電車から見えるとむか し聞いたことを思い出した。黒ずんだ古い墓石がならぶその向こうにそびえ立つ東京スカイツリーがまるで巨大な卒塔婆のように見える。あるいは神にくずさ れ、ひとのことばが狂わされたバベルの塔か。亀戸天神の前を抜け、用水路のような北十間川へ出た。このあたり、飯島喜美が東京モスリンの紡績工場へ就職し た1927(昭和2)年の頃は、紡績工場のほかにも花王石鹸、日立製作所などの大工場、中小工場が立ち並ぶ一大工業地帯であった。喜美とおなじ亀戸工場で 働いた伊藤憲一は「牢獄の青春」(1948)のなかで次のように回想している、「上野駅から市電で柳島終点に来て、十間川沿いに東に向かって歩くのだが、 右側は昔遊園地といい、後に三丁目といわれた有名な亀戸の魔窟である。すなわち吾嬬町側に伊藤染工場、東京モスリン吾嬬工場などの大工場が並び、境橋から 福神橋の間を花王石鹸工場が占めていた。広告の写真によるときれいなところだと思っていた花王石鹸は、十間川のどす黒い水に、鼻をつく薬品のにおいを流す きたないところであった」  花王石鹸は現在も境橋の向こうに大きな敷地を構えている。東京モスリンの紡績工場跡地にはいま、URの団地が立ち並ぶ。花王 をはさんで西側の文花団地が吾嬬工場、東側が飯島喜美や「女工哀史」の著者・細井和喜蔵が働いていた亀戸工場跡地になる立花1丁目団地である。千葉の提灯 職人の家の長女として生まれた飯島はこの亀戸工場での賃上げ争議に活躍し、日本共産党入党後にモスクワで開かれた労働組合国際連合の大会に紡績工場の女工 として演説をした。帰国後に検挙、特高の拷問を経て金子文子とおなじ栃木刑務所で獄死したのが24歳であった。金子文子が朴烈と出会って「個」を獲得した ように、この亀戸には10代で労働者階級の闘いに邁進していた伸びやかな飯島喜美の足跡があちこちに残されている。吾嬬工場のあった文花団地には紡績工場 の説明板があるというので先にそちらを探して広い団地内を歩きまわったのだが、なかなか見つからない。歩いていたおばあさんに訪ねてみるが「わたしはそん なもの、よく分からないんで」と手を振られてしまう。途方に暮れかけた頃、集会所で作業をしているおばあさんがいたので「集会所に出入りしている人なら」 と訊いたところ、やっと場所が判明した。団地の中央にあるいちばん大きな文花公園の東側、道路側に向けてその説明板は立っていた。公園のなかを突き抜けて きたので気づかなかったのだ。かなり古びてきているが、「産業発展の背景に過酷な労働」があったこと、「結核などの重い感染病にかかる」女工たちのことな ども書かれ、1898(明治29)年の創業頃の工場の写真も載せられている。つづいて亀戸工場のあった立花1丁目団地へ向かうが、こちらは何も残されてい ない。大きな団地の棟と広い公園、テニスコートなどがあるばかりだ。飯島喜美がここで働きはじめた1927(昭和2)年、あるいて30分ほどの距離にある 太平町に住む祖母「たま」は21歳だった。祖母は翌年、22歳で祖父「清」と結婚する。福島県から出てきた祖父は祖母の家で働く職人だったそうだから、祖 父も飯島喜美と同時代にごく近くに暮らしていたことになる。ちなみに金子文子が栃木刑務所で縊死するのは1926(昭和元)年である。23歳だった。こう いう歴史の物差しは、わたしにはとても身近で分かりやすい。そろそろ14時をまわっている。ホテルを出たのが9時前だったから、いい加減お腹が減ってき た。飯島喜美や細井和喜蔵を思いながら、この東京モスリン亀戸工場跡地の団地内に見つけた中華屋でお昼を済ませた。ニラレバ定食、680円。「チャイナ・ ドール」という店名からして中国系なのだろうか、少々たどたどしい日本語のおばちゃんが、昼間からビールを飲んでご機嫌の常連のじいさんばあさんたち相手 に負けずに盛り上がっているステキな店だ。勘定を済ますとおばちゃんは先に立って扉を開け、雨がやんでよかったね、と送り出してくれた。ここから荒川の、 関東大震災のときに多数の朝鮮人が殺されて埋められた河川敷を目指す。東武線の東あずま駅をわたり、広い明治通りを北上して、途中から八広中央通りに入 る。荒川の堤防の手前から、何気に狭い階段を下りたところが偶然にも八広日枝神社の、こじんまりとした社殿のちょうど裏手だった。ここに逃げ込んだ一人の 朝鮮人が竹槍で刺されて殺された。住宅にはさまれた、ちいさな三角のスペース。思わず濡れた地面や石畳に血のりの跡をさがしているじぶんがいる。「かれ」 が最後に見たのは、こんな見捨てられたような狭い空間だった。最後に漏らした声は、思いは、まだこのあたりをさまよっているだろうか。その隅には「皇太子 殿下御誕生記念」などと刻まれた小さな石碑が数本ならんでいるが、もちろん、ここで殺された一人の朝鮮人の供養碑などはない。裏から入った神社を表から出 て、堤防下のせまい道を高架下をくぐれば、住宅にはさまれたつましい庭ほどのスペースの奥に「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難追悼之碑」がある。周辺に置 かれた異形の石仏は沖縄の彫刻家・金城実さんの作品で、在日3世の辛淑玉さんが寄贈したものだと後日、ある人がおしえてくれた。隣の平屋が追悼事業をされ ている一般社団法人「ほうせんか」の事務所で、毎週土曜日の午後には小さな資料館として開放しているそうだ。小学校の机の下に置かれていた日本語のパンフ レットを一部、頂いた。そのまま京成電車の高架をくぐり、堤防へあがる。この線路際のあたりでもサーベルで斬殺した、日本刀や竹槍で殺した、3〜4人、 20人くらいの死体があった等々の証言が残されているが、いまは集合住宅が建ち並んでいる。河川敷に出て、木根川橋の下をくぐる。川の向こうの四ツ木あた りは小学生の頃、自転車で走った。大阪のコリアンタウンの商店街が果てるあたり、「つるはし交流広場 ぱだん」で多民族共生人権センター主催による関東大 震災に於ける朝鮮人虐殺のドキュメンタリー・フィルムを見たのは、もう5年もまえになるか。1983年の「隠された爪痕」(58分)、1986年の「払い 下げられた朝鮮人〜関東大震災と習志野収容所」(53分)。そして若い頃にこれらの貴重な作品を撮影したいまは茨城県に住む呉充功監督が30年後の続編と して現在製作している「2013 ジェノダイド 93年の沈黙」(仮題)のパイロット版(18分)などを見た。やってきたのはみな在日の人で、日本人はわ たし一人だけだった。そのとき書いた文章を一部引く、「・・・「隠された爪痕」はのっけから、なつかしい荒川の河川敷が現れる。中川が綾瀬川と併走する荒 川と合流する手前、京成押上線が四つ木駅をすぎて橋をわたっていくあたりだ。パワー・ショベルが穴を掘り、古老たちの記憶をたよりに虐殺された朝鮮人の遺 骨をさがしている。骨はみつからなかった。けれど兄を殺された大井町でホルモン店を営む83歳のアボジは土手の上で日本人証言者のAさんの手をにぎり「く やしかったよ、ほんとうに」と思わず落涙する」  その場所に、わたしはいま立っている。掘り返したが、遺骨は出てこなかった。いまもどこかに眠ってい る。暗い地中のふかくで、目をみひらいたままよこたわっている。わたしたちはその地中の目に耐えられるか。このちいさな旅の最中、ほとんど雨が降り続いて いた。手にした自動開閉の折りたたみ傘はたっぷりの湿気にやられたのかどうも調子が悪い。雨に煙るひとけのない河川敷にしばらく立ち続けた。「魂はいずく ぞに行きたりしか / 来たりて逝かば 人知れず逝くべきを / 逝ける者は忘るるとも / 忘れて棺に身を横たえるとも / 残れるわが身は忘れまじ」 (安宇植編「アリラン峠の旅人たち」)  多少へばってきたので休憩を兼ねて八広駅から京成電車に乗り、浅草まで出た。墨田川沿いの公園は桜が満開で、小 雨のなか、カメラマンに引率されたウェディング姿のカップルなどもいる。川の向こうには相変わらず、巨大な卒塔婆(東京スカイツリー)がそびえたってい る。考えたら今日は終日、いつもどこかにこの巨大な卒塔婆が見えていた。言問橋の橋のたもとに「東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」がある。いまは花見客でにぎ わうこの川沿いのあちこちにも、かつてアメリカの無差別虐殺によって焼け焦げた無数の言われなき死者たちが埋められたのだ。手を合わせ、これでわたしの小 さな旅も終わった。浅草寺から花やしき、ひさご通りの商店街などをとくに見るともなくあるき、日曜でほとんどは閉まっているかっぱ橋の道具屋街をあるいて いる頃にぼちぼち日が暮れてきた。死んだ浅川マキがこの世にのこしていった「灯ともし頃」というアルバムを思い出す。あのアルバムのざらついて沁み入るよ うな薄明のなかの声が好きだ。暮れかけた上野の路地をわたしはあるいているが、あるいているのはわたしではないのかも知れない。わたしをここへつれてきた のは、わたしでないかも知れない。

2022.4.3

◆東京都復興記念館
https://tokyoireikyoukai.or.jp/museum/history.html

◆叛逆する平面―知られざる東京都慰霊堂
https://jun-jun.hateblo.jp/entry/20171123/1511434957

◆関東大震災朝鮮人犠牲者追悼の碑
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/kantoujisin_ishibumi/tokyo_sumida/sumida1_5.htm

◆【墨田区B】『女工哀史』と社会事業から見る下町
https://www.homes.co.jp/cont/press/rent/rent_00658/

◆9/24スカイツリーと東京モスリン吾嬬工場跡
https://ameblo.jp/skytree-sightseeing/entry-11363372536.html

◆治安維持法に負けなかった、輝かしい生涯描く、玉川寛治著『飯島喜美の不屈の青春』
http://ianhu.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-1366c2.html

◆“女工哀史”の著者「細井和喜蔵」とその妻
https://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/e/b8278d91fb64653e270b1da87a4f79ee

◆『隅田川怒涛』「女の子たち 紡ぐと織る」/"Girls, Spinning and Weaving"
https://www.youtube.com/watch?v=kb_UKVbi7m0&t=577s

◆荒川堤防下「関東大震災朝鮮人追悼碑」の庭に石仏が仲間入り
https://www.mindan.org/news/mindan_news_view.php?cate=&page=114&number=26356&keyfield=&keyfield1=&key=

◆一般社団法人「ほうせんか」
https://moon.ap.teacup.com/housenka/

◆「隠された爪痕」「払い下げられた朝鮮人」〜朝鮮人虐殺事件記録映画をみた!
https://inmylifeao.exblog.jp/28221670/

◆東京大空襲・慰霊
https://senseki-kikou.net/?p=7127

 

 



 

 

 

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