041. 東大寺念仏堂の裏にある「英霊」納骨堂で死者の声をきく

背中からの未来

 

 

■041. 東大寺念仏堂の裏にある「英霊」納骨堂で死者の声をきく

 



 台風一過の蒸し暑い一日だが家で料理をつくってばかりでも豚になるばかりなので、豚は減量と自由を目指して自転車で走 り出た。行き先は東大寺念仏堂の裏にある英霊納骨堂。奈良の「英霊三万柱」を祀るというが、仏教に於いて、また仏陀の教えに於いて「英霊」とは何ぞやと、 巨大組織にあぐらをかいてすでに腐臭を放っている坊主どもに訊いてみたい。

追記)
 鐘堂に向き合う念仏堂には「毎年8月11日に 戦没者慰霊法要営まれる」と書いているが、背後にある納骨堂についての記載はない。ちょうどすぐ横の寺務所のようなところから若い女性が出てきたので「こ の納骨堂の由来を知りたい」と訊くと、奥からその母親ほどの年齢の女性が代わり、さらに裏手から祖母ほどの年齢の女性を連れてきて、念仏堂の内陣へと招い てくれた。東大寺が戦没者の分骨を置くようになったのはその人の記憶では昭和12年頃という。経緯は分からないが、とにかく彼女の曽祖父が念仏堂の管理を していて、当初は遺骨は念仏堂の内陣の地蔵菩薩を取り囲むように遺骨が置かれていて、まだ幼かった彼女はよくその蓋をあけたりして遊んでいたとか(!)。 引き出しから昭和23年頃と書かれた古びた「分骨名簿」を幾冊か出してくれて、後ろの納骨堂ができたのは昭和30年代、遺族の人たちがお金を出し合って建 てたという。数は減ったが、いまでも遺族の人がここにお参りに来る。護国神社に寄ってからここへ来るのが定番のコースらしい。この念仏堂で個々に法要を し、人によっては納骨堂へ入って分骨にもお参りする。「納骨堂は見られますか?」と訊かれて、一瞬ひるんだが、口は「ぜひ」と応えていた。錠前の鍵を開 け、二重の扉を開くと、一階の間は小ぶりの地蔵菩薩像を中心にさまざまな供養碑や位牌、そして名簿を収めた棚や、小さな分骨を収めた木箱がまるでパズルの ように収められた木枠が足元に広がっている。空母瑞鶴の額縁に入った絵、ニューギニア部隊の慰霊碑、そして昭和16年4月の金沢第四高等学校ボート部の 11名が亡くなった琵琶湖遭難事故の位牌などもある。コンクリートの階段を下りた地下1階と2階は名前順に並んだ引き出しに収められた小さな手の平大の遺 骨の入った棚が図書館の収蔵庫のように並んでいる。昭和16年頃の木箱は中に陶器の骨壺が入っているという。昭和20年頃の木箱は箱をふっても何も音がし ない。氏名が書かれた紙切れが一枚、入っているだけだ。「ほら、こんなふうに」と幼いころに蓋を開けて遊んでいたという老婆がじっさいに開けて見せてくれ る。そうして一時間ほどを納骨堂の中で過ごした。8月11日の法要は朝10時から。一般者でも参列できると言う。仕事の都合がついたら来たいですと言っ て、納骨堂を出た。そしてお礼を言って、二月堂も大仏殿もなにも見ずに、海外からの観光客も多い境内の賑わいをあとに自転車を走らせた。

2019.6.29


 郡山へ来る前に住んでい た河合町の介護施設へ、昼から母と、母のいとこにあたるおばさんを訪ねた。おばさんは当年84歳。もともとは十津川村の出身で、おばさんの母親がわたしの 母の父親の妹になる。若い頃からずっと小学校の先生をしてきて十津川村で6年、結婚をして河合町へ嫁いできてからも54歳まで教師を続けた。おばさんの嫁 ぎ先が地主であちこちに土地とアパートを持っていた。和歌山のつれあいを追って関東から単車に乗ってやってきたわたしは、とりあえずそのおばさんのアパー トに転がり込んだわけだ。さいしょに入った線路沿いのアパートは木造の古い二階建てで、草だらけの空き地を耕してトマトや胡瓜や茄子を植えたりした。つれ あいと正式に籍を入れて次に高台のハイツに移って、そこで娘が生まれた。つまりおばさんはわたしたち家族の恩人といえる。そのおばさんも15年ほど前に脳 溢血で右半身が不自由になってしまった。ホームを訪ねると、おばさんは車椅子に乗ったまま廊下で他のお年寄りたちと簡単な体操をしている最中だった。終わ るのを待って、母と三人でおばさんの入っている四人部屋へ移動した。ひとしきり四方山話をしてから、じつはねおばさん、と先日の東大寺念仏堂で見せても らった分骨名簿の一部のコピーを唯一動く左手に手渡した。そこに記された「昭和19年1月13日に亡くなった歩兵79連隊伍長・十津川村の切畑屋彦九郎」 はおばさんの父親の末の弟だった。「父・虎彦」と書かれた人はおばさんの祖父である。おばさんの記憶では「切畑屋彦九郎」はニューギニアで餓死したと。も ちろん遺骨も還ってこなかった。戦争へ行く前は本宮あたりで学校の先生をしていたという。もう一人、おばさんの父親のキンペイと彦九郎の間にヘイゾウとい う兄弟がいた。ヘイゾウは医者として朝鮮半島に渡っていたが、腸チフスで昭和15年頃に現地で亡くなった。還ってきた遺骨を引き取りに、当時5歳くらい だったおばさんは父親に連れられて新宮へ行ったことを覚えているという。おばさんの母親が、仲の良かった義弟の死に泣き暮れた。彦九郎もヘイゾウも、やん ちゃで村でも優秀な人間だったそうだ。「そんな人間ほど先に死ぬ」とおばさんはさみしく微笑んだ。独身だった二人の墓は十津川の山間にある。20代のわた しはいちど単車でそこに泊めてもらい、静かな山道を歩いてシキビを供えてきたのを覚えている。けれどおばさんは「切畑屋彦九郎」が東大寺の念仏堂に分骨さ れていたことは知らなかった。よくそんなものを見つけたものだ、と笑った。わたしは寺の堂守のおばあさんが引き出しから出してくれた分骨名簿のすべてをめ くったわけではない。そのうちの一冊を何気なくぺらぺらとめくっていて偶然、「切畑屋彦九郎」の名前が目に飛び込んだのだった。それからおばさんの十津川 村での教員生活についてすこし話を聞いた。おばさんが小学校の先生になったのは20歳。6年間で村内の三つの小学校を異動したそうだ。どの学校も家から遠 かったのでそれぞれ学校の近くの教員用宿舎に泊まって、週末に自転車で実家に帰った。「おばさんの青春時代だね」と言うと、そう、とても楽しい6年間だっ たと、おばさんはうなづいた。ところで、昭和31年の消印があるからおばさんが教員生活をスタートしたばかりの頃だ。十津川村のおばさんが東京にいるわた しの母の二番目の兄(省くん)に書いた手紙を最近、死んだ叔父さん(わたしとシベリアを旅行した叔父さんだ)の遺品の中に見つけた。母によれば、おばさん はこの省くんのことが好きだったという。そう言われてみれば便箋二枚に記された当たり障りのない文面の中にほのかな好意の若芽が感じられないでもない。手 紙を見つけたときに「おばさんに見せてあげようか」と言ったわたしに母も、わたしのつれあいも、「そんな手紙ならなおさら、もういまさら見せない方がい い」と断言した。「省くん」はその頃、結核で療養中だった。戦争中、和歌山の北山村の母の実家に疎開をしていたときに母親から感染したという。わたしの見 知らぬ母方の祖母は祖父を戦争にとられ、女手一つで生活を支えるために馴れない土方や運搬などの重労働をして体を壊し、やがて結核の病に臥せって、わたし の母が幼いうちに亡くなったのだった。「省くん」もその後、後を追うようにして亡くなった。叔父さんの遺品の中には、「省くん」が通っていた治療所のカー ドや、家計簿のように当時の買い物をこまごまと記した手帳や手紙などが遺っている。そのおばさんが「省くん」に送った手紙を、わたしはこっそりリュックの 中に忍ばせてきたのだった。そしておばさんの四人部屋を辞してエレベーターの前まで戻り、母がトイレに行った隙に、廊下で車椅子にすわってまだわたしたち を見送っていたおばさんのところへ走った。「あれ、どうした?」といぶかしむおばさんの左手に、わたしは封筒を握らせて「おばさんが書いた、むかしの手 紙。あとで見て」と目で合図を送ってまた走って戻り、ちょうどトイレから出てきた母とそのままエレベーターに乗り込んだ。今夜、おばさんのベッドの上では 64年前の馥郁とした風が舞っているかも知れない。

2019.7.6

  ひさしぶりに皿を割った。詰まらぬ言い合いから激高して、食卓の菜を庭に叩きつけたのだ。白い食器が夜目に砕けた。世界が安定している姿は嘘だと思う。 ジャニスは言ったものだ。わたしたちは醜いけど、音楽があるわ。神は汚物の地下の黄金だ(ひょっとしたら汚物自身かもしれない)。わたしはわたし自身の荒 ぶる神をどうすることもできない。荒ぶる神をたたえよう。わたしは部屋の揺り椅子に身を沈めてヘッドホンのボリュームを最大にする。そして待つ。静脈に 打った薬が全身にまわってくるのを。だれかがこの身を十字架に打ちつけてくれないかと思いながら。昼間は東大寺の念仏堂の前で催された盂蘭盆(英霊供養) を見てきた。世俗にまみれた坊主どもが高揚するひちりきの響きとともに「散華」と題された声明を唱える。低く高くそのうねりのような波が背後の英霊殿の冷 たいコンクリートに囲まれた地下の遺骨やそれすらもない小石や紙切れだけのかれらに押し寄せるのを感じながらおれたちはこれに勝てないと思った。いくらし たり顔で「英霊」を否定してもおれたちは勝てない。死者は嘘でも慰謝されることを望んでいる。いや生き残ったものたちがそれをいちばん必要としている。わ たしはじぶんが冷たいコンクリートの地下室に置かれて忘れられた小さな木箱のなかの喉仏のような気がする。坊主どもの声明がかわいたこころを浸す。木箱の なかでまるで父や母の声のようにがらんどうのように反響する。気にすることはない、醜くてもおれたちには音楽(声明)がある。おれは木箱のなかの英霊なの かも知れない。ずっとこんなふうにだれかがやってくるのをまっていたのかもしれない。荒ぶる神をたたえよう。 おれたちはどうせだれもが朽ちていく。

2019.8.12

 

 



 

 

 

背中からの未来