037. 和歌山・新宮で「第4回 大逆事件サミット」に参加しアンモナイトについて思案する

背中からの未来

 

 

■037. 和歌山・新宮で「第4回 大逆事件サミット」に参加しアンモナイトについて思案する

 



 大塔の山中の夜道で立派な角をもった雄鹿を思わず轢きかけた。道を横断しかけていたその鹿は、道路の中央で立ち止まり一瞬、不敵にもこちらをすっくと見 据えた。その視線に射抜かれて、わたしはかれに負けていた。カミ(異形のもの)に出逢うとはこういうことだろうか、と思った。雄鹿は石くれでも見たかのよ うに向きを変え、そのまま暗い斜面を駆け上っていった。台風の影響で土砂降りの夜の山中を走り続けて、仕事から帰って家で夕飯を済ませてから出発したもの だから流石に疲れ、その晩は足湯のある十津川の道の駅で車中泊。雨が車の屋根をまるでシンバルのように激しく連打する音をうつらに感じながら眠った。翌朝 は6時に目が覚めて、小雨の中を新宮へ。速玉大社の参詣者用駐車場に車を入れて、佐藤春夫記念館で大石誠之助に関する小さな展示を見る。それからガソリン を満タンにしておこうと走り出した途中で偶然、目についた大逆事件に関する臨時資料館に立ち寄り、かつて高木顕明が布教のために訪ねたろう熊野川沿いの炭 鉱跡地へ行く道を訊ねたりした。ガソリンを入れ、スーパーで中上健次が愛した「太平洋」(地酒)を二本買い、三個入りのサバ寿司を買ってふたたび激しく降 り始めた雨の中、市役所の駐車場に停めた車の運転席で食べてお昼とした。そうしてちょっと、うとうとしていたら、そろそろ時間だ。名古屋からの南紀3号は 台風の影響で15分遅れて新宮駅へ到着した。はじめてお会いする嶽本さんと連れの方々を車に乗せて、本日の「大逆事件サミット」の会場である新宮福祉セン ターへ。前回、2年前は大阪市内の、菅野スガが通っていた古い教会だった。わたしは後日に、そこに集まった人々をアンモナイトと評した。それは残念なが ら、今回も変わらない。国際啄木学会・伊藤和則氏による基調講演「石川啄木と大逆事件」。佐藤春夫記念館館長の辻本氏と新宮市議会議員による「大石誠之助 の名誉市民に関して」。日本全国の大逆事件にまつわる活動をしている代表者の挨拶と報告。赤ら顔の市長。サミットに続いての懇親会では、わたしは警護役の 騎士(ナイト)の如く嶽本さんの隣にぴったりはりついていた。左隣は丸山眞男を専門とする都内の私立高校の社会科の先生だった。継いで最近「国権と民権」 (集英社新書)を出した元朝日新聞記者の早野透氏。嶽本さんと同じFB友で、真宗大谷派の解放運動推進本部の山内さんの姿もあったので挨拶をした。山内さ んがそばにいた「大逆事件 死と生の群像」などの著者である作家の田中伸尚氏に「前回の大阪サミットのときに長い感想を書いてくれた」とわたしを紹介して くれ、田中氏は「ああ、あのアンモナイトのやつだね。あれは面白かったから出版社の連中にも回したんだよ」と笑った。アンモナイトは如何にして形成される か。懇親会の最後の方で嶽本さんにも指名がかかりマイクを持って話をした。「アンモナイトたちが現実にコミットする言葉を持たない」という内容で、塩梅よ く酒宴がすすんでいた会場の空気からは少々浮いていた。「5分の2くらいは聞いてましたね」とさいごのラウンドを戦って判定待ちのボクサーのように席に 戻ってきた嶽本さんにわたしは言い、胸の内でなお「伝わったのはせいぜい10分の1くらいだろうけれど」とひとりごちた。「だめですよ、“アンモナイトた ちよ、目覚めよ!”で締めないと」  アンモナイトたちもかつてはこの惑星の王者のように俊敏に動き回っていた。大逆事件という国家権力によって強殺され た理想家たちに思いを馳せたとき、重苦しいボール&チェインと、ひりひりするような驚愕と危機感を感じていたはずだ。だが年月と地層がかれらをゆるりと包 み始める。大逆事件は自己目的化し、閉ざされた同窓会の案内状に変わる。同時に人は長く生きれば生きるほど複数の膜を張るようになる。組織の膜だ。政治の 膜だ。交友関係の膜だ。膜が何重にも重なり、さいしょの核心がぼやけて霞む。半世紀に及ぶ地道で根気のいるかれらの活動をわたしは素晴らしいと思うし、貴 重だと思う。だからこそ逆に勿体ないとも思う。同窓会に集う愛しきアンモナイトたちよ。あなた方の費やした貴重な時間、労苦、調べ上げたもの、つくりあげ たもの、記録した言葉はどこへ消えていくのか。かつて「歴史としての実時間」と辺見庸は言ったが、この国の「実時間」のどこへあなた方の活動は突き刺さる のか、継承されるのか。5年間不登校を続けているわたしの一人娘にあなた方の言葉は届くだろうか。処刑された哀れなオウム信徒たちの魂にあなた方の熱は届 くだろうか。この国の入国管理局に無期限に拘束されて家族とも引き離されたまま絶望するクルド難民にいま、あなた方の想いは届くだろうか。「知らない間に 戦争が始まっていた」と多数の人々がうそぶく歴史の実時間においてわたしが熱望するのは、ひりひりするようなのっぴきならない場所で大逆事件によって縊ら れたかれらの首の骨がへし折られる音、そのときに無辺の空間に弾け飛んだかれらの最後の想念を、かなうことならわが身に写実し、幾度でも繰り返し、わが身 自身の臓腑の危険な毒として呑み込み、内なる国家に悲鳴をあげ、抗いながら、いまを生きる歴史の実時間のなかにまざまざと蘇らせることだ。追憶の記念碑で も「太平洋」にたゆとう赤ら顔の同窓会でもない。同窓会が終わって、若干の居心地の悪さを奥歯で噛みしめながらふたたび山中の闇に沈むもののけたちの世界 へ戻っていく。鬼ノ城を抜けてしばらく行ってから山間のルートに入り、下北山村のいつものスポーツ公園で疲れ果てて二泊目の車中泊。しずかな暗がりに沈 み、寝袋にくるまって眠りに落ちた。翌朝も6時に起きて走り出したら途中の道で村の職員らしい男性に止められ、奈良へ向かうこの先の国道が深夜に土砂崩れ が起きて通行止めだと言う。訊けばわたしが眠っていた深夜の2時ころに崩れたらしいから、巻き添えにならなかったことを感謝すべきか。最短ルートの下北山 村から十津川村へ抜ける車一台がぎりぎりの狭い425号線は路面に砂利や木の枝が堆積し、崩れた路肩に危険防止のカラーコーンが並び、湧き水がときに川の ようにあふれているような、まさに山の尾根にしがみつくような心細い道だった。途中から「8キロ先、大雨のために通行止め」を繰り返していたカーナビもそ のうちに何も言わなくなった。このあたりは修験のルートも近いだろう。小刻みな暗いカーブを繰り返していた道が、ふと視界を開けた。車をとめて、外へ出て 立ちつくした。墨絵のような幾重もの重畳たる山並みの襞から蒸発した水分が雲海のように湧き出し、それを朝日が照射している。いや、まるでこの惑星自身の 熱がマグマのように地表から沁み出し、みずからの細胞の襞をしずかに明滅させているようにも見える。昨夜見た、あの大鹿の世界のものたちだ。人間はこの単 純さ・荘厳さからだいぶ離れてしまった。「幸福(happiess)とは、あらゆる事物の中に単純さ(simplicity)を見つけだすことなのだと気 がつくに違いない」と、かつて愛読した「遊歩大全」のなかで“なぜ歩くのか?”と題してコリン・フレッチャーはそう書いた。みずからの足であるいて世界を とりもどす。嫌らしい人間の膜を脱ぎ捨てて、もっともっと軽身になりたい。目の前の圧倒的な大地の単純さ(simplicity)を凝視しながら、これで よし、とわたしは一人じぶんに言った。どうせまた下界に戻れば元の木阿弥なのだろうが、とりあえずいまはこれでよし。

2018.10.7

  全国各地で大逆事件の犠牲者を顕彰・研究してこられた活動家の方々へ。わたしは何の肩書きも持たない平凡な一市民ですが、みなさんに提言をしたい。二年 前、わたしはひょんなことからみなさんの活動を知り、大阪・天満でのサミットにはじめて参加させていただきました。そして大いなる刺激と共に、大いなる失 望と苛立ちをもまた感じたものです。刺激はみなさんが半世紀に及ぶ長きにわたって地道に、粘り強く、そしてきっと何ものかに抗いながら継続してきたものに 対して。そして失望と苛立ちはその旅路の果てにみなさんがいま充足して立っておられる枯山水の庭園に対して。わたしはこの国の「歴史における実時間」に生 きる平凡な一市民として、いまから百年前に冷たい処刑場で縊られ、あるいは暗い独房でみずからを縊った者たちのさびしい、頚椎のまさに折れる音、その瞬間 に無数の小さな泡のように無辺へ弾けとんだかれらひとりびとりの想念に思いを馳せ、それはいま此処なのだ、まさにこの時間なのだと感じながら、うめきたい 気持ちで、それらをわが身に呑み込もうとしてもだえます。みなさんもかつては、そうだったに違いない。そういうのっぴきならない、ひりひりとした皮膚感覚 と共に始められたのだろうと、わたしは思います。けれども二年前の大阪と今回の新宮と、二度のサミットの末席に座らせていただいてわたしが見たものは、熱 い蒸気をもうもうとあげていた薬缶の中身がすでにぬるま湯となり、「やあ、お元気でしたか」「なんとおひさしぶりで」と言った会話がもてなしの酒で赤らん だ顔と顔の間でのどかに行きかう年に一度の同窓会の風情でした。怒りが、足りない。縊られ、へし折られる音が聞こえない。そう語ることは不遜でしょうか。 今回のサミットに参加するために、わたしは前の晩に仕事を終えてから、暗い熊野の山道を延々と車を奈良から走らせてきました。そうまでして得たいものが あったわけですが、それは残念ながらあまり満たされることはありませんでした。形ばかりの講演と、形骸化した報告と、みなさんの和やかな同窓会をはたから 眺めていただけです。大逆事件サミットと平行してここ数年、わたしは戦前の朝鮮人に対するこの国の残虐な行為を糾弾する在日の人々の集まりにも幾度か出席 してきましたが、まだかれらにはもう少しひりひりする怒りがありました。それはいまもかれらが「在日」という容易にぬぐえぬくびきを負っているからなのか も知れません。甲府で宮下太吉の墓が無縁仏として整理対象になっている、という報告がありました。わたしもいま地元の大和郡山でやはり百年前に死んだ紡績 工場の女工たちの名が記された過去帳と、かつて河口慧海とも親交があった地元の名物教師の無縁墓を後世に残したいと、役所の教育委員会などに話を持って いっていますが、人間としての愛と知識に欠けるかれらには一片の興味さえ湧いてこないようです。百年という歳月に思いを馳せるとき、ひとつの象徴的なサイ クルとして墓場の整理というものも回ってきているのだろうと思われます。そして失礼ながら、半世紀を絶え間なく歩んできたみなさん自身がいま、 宮下太吉の墓石と同じなのだと思うのです。墓石を保存するか整理するかは、墓石自身であるみなさんには決められない。奈良盆地ではかつて海軍の飛行場建設 の地に強制的に連れてこられた朝鮮人女性の慰安婦たちがいたと記された案内板が近年になって市の判断で撤去されました。みなさんが懸命の思いで全国各地に 建てた顕彰碑も将来、どうなるかは分からない。みなさんは次の世代へ継いでいかなくてはいけない。みなさんが積み上げてきたものをある意味、手放していか なければいけない。すこしづつ、「かれら」へ。みなさんという無縁墓をどうするかは、「かれら」でなければ決められない。だからみなさんは、みずからの手 で積み上げてきたあらゆるものを手放していかなければいけない。引き渡していかなければならない。みなさんの長い旅路の果てがちいさな閉じられた円として 完結してしまう前に、全方向に開放して明け渡していかなければいけない。なぜなら、みなさんが顕彰・研究してきたその成果は、みなさんのものではないから です。それは次の世代を担っていくこの国の見知らぬ「かれら」のものです。そこで何の肩書きも持たない平凡な一市民のわたしは、今後のサミットについてみ なさんに勝手な提言をしたい。まずは、若い年齢層をもっと取り込む必要があります。40代、50代でもまだ駄目だ。20代、ことによっては中学生や高校生 たちを招いたっていい。みなさんの言葉はいじめやスクール・カーストなどのシビアな世界で生き抜いている中高生たちに果たして届くだろうか。どんな対話が 成り立つだろうか。上から下へおろすのではない、相互の対話として。中高生のかれらから新しい視点を授かることもたくさんあるに違いない。そもそもサミッ トのスケジュールすらネット上で見つけることが難しい。ろくなホームページすらない。これで若い世代の目にとまるわけがない。SNSでもなんでも利用して もっと積極的に若い世代に発信するべきではないか。基調講演についていえば、40〜50分の枠を三つくらい。ひとつは大逆事件に関する内容の濃い発表。あ とのふたつは大逆事件そのものではないが現在につらなる発表。嶽本さんが触れていた横浜事件でもいいし、かつてのオウム信徒たちの話だっていい。大石誠之 助や高木顕明たちが大逆事件で有罪となったとき、残された遺族はこの新宮の町でどのような扱いを受けたのか。そのときの新宮の町といまの新宮の町はまった く違うのかおなじなのか。大逆事件はそんなふうに粘菌のように、いまもわたしたちのふつうの日常にひろがり増殖しているはずです。それがいまの「歴史にお ける実時間」のなかでかれらを思うとき、百年後のわたしがひりひりと火傷のように皮膚が痛む理由です。基調講演の三つの枠はそのように、お互いがそれぞれ の菌糸を伸ばし、暗がりを食い合うようなものであった方がよい。活動報告は特筆すべきものだけとする。どうせこれからお悔やみの報告が多くなる。そしてそ んな時間よりも、懇親会のときもいろいろな肩書きや経歴を持った方々が前に呼ばれて喋っていたけれど、それよりもこれからは例えばわたしのようなはじめて 顔を見る新参者、どこの誰か素性の分からぬ者、誰も知り合いがいないのにこのサミットにのこのこやってきた者、そうした者たちに前へ出て、ひとりづつ喋っ てもらった方がいい。なぜここへやってきたのか、どんな思いを抱いてきたのか、ここへ来てなにを感じたのか。みなさんは一歩も百歩もさがって見知らぬ「か れら」の話をだまって聞く。そうして懇親会の席はシャッフルする。おなじ匂いの者同士で群れない。80歳の爺さんは中学生と喋り、大学教授は自転車で日本 一周を目指している正体不明の若者と相席し、仏教者はクルド難民と語り、市長は浮浪者と抱き合い、脚本家はアイドルおたくと激論を交わし、政治学者は不登 校児と杯を交わす。もちろん、それぞれの大逆事件についての思いを語るのだ。政治や組織や団体や肩書きは持ち込まない。名刺などいらない。だれかの立場で なく、じぶんの孤独な言葉で喋ったらいい。絞首台の前の孤立無援のはだかの個として語り合うのだ。いやあ、いいサミットだなあ。そうしてみなさんはいつか 整理対象の墓石になる。あのとき熱く語り合ったアイドルおたくの息子があなたの墓石を保存してくれるかも知れない。あなたの残した研究や思いと共に。これ がわたしからの真面目な提言です。如何でしょうか。ぜひご検討ください。

2018.10.9






 

 



 

 

 

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