036. 多くの犠牲者を出した生駒トンネルの現場をめぐる

背中からの未来

 

 

■036. 多くの犠牲者を出した生駒トンネルの現場をめぐる

 



  先の朝鮮半島の南北首脳会談に接してささやかながらわたしも、賛意というかアクションというか、謝罪というか弔いというか、報告もしくは巡礼といおうか、 気持ち的にはそれらをごった混ぜにした何かを行為で示したくなった。奈良(生駒)=大阪(東大阪)間をつなげる生駒トンネルの工事がはじまったのは 1911年(明治44年)、大日本帝国が韓国を併合した翌年である。1913年(大正2年)1月26日、トンネル内で大規模な落盤事故が発生して152名 が生き埋めとなり、20名の犠牲者が出た。この工事には朝鮮半島からの出稼ぎ労働者も多数、従事していた。施工主は大阪軌道株式会社(現・近畿日本鉄 道)、工事を請け負ったのは大林組、下請けに西尾組。トンネル西口の大阪側には朝鮮人飯場があって、トンネル内の事故で家族が亡くなった朝鮮人がアイ ゴー、アイゴーと泣く姿を日下の古老が語っている。つまり1914年(大正3年)の開通まで、どれだけの朝鮮人を含む労働者が亡くなったのか、正式な記録 は残されていない。奈良に暮らすわたしは、残されたわずかな手がかりをたどってみることにした。資料は「旧生駒トンネルと朝鮮人労働者」(国際印刷出版研 究所)を著した田中ェ治氏がネット上で書かれているポイントを、印刷したグーグルマップに手書きした地図が二枚(石切駅周辺、生駒駅周辺)。

 近鉄・石切駅はこれまで降りたことがない。降り立って実感したのは生駒山の中腹にへばりついた土地だということだ。駅西口前から道はいきなり急勾配で住 宅地の間をころげおちる。ひらけた眺望の彼方に大阪中心部の高層ビルが蜃気楼のように林立している。明るい戸建て住宅の間を数百メートルもだらだらと上れ ば、旧生駒トンネルの閉鎖された大阪側(西口)が山の谷筋にひっそりと口をあけている。平屋の古びた炭鉱住宅のような家がそのはたに軒を連ねている。コン クリートのプラットホームがいまも残されているかつて存在した孔舎衛坂駅(くさえざかえき)の名は、神武天皇が生駒山の豪族・長髄彦と刃を交えた峠「孔舎 衛坂」から由来する。そのような時代、ということだ。プラットホームを含む周辺の敷地ぐるりにはフェンスが張り巡らされ、「侵入者は警察に通報する」の近 鉄に拠る警告文が物々しい。むかしはトンネル数十メートルあたりまで自由に入れたそうだが、ネット上では有名な心霊スポットと書かれてもいるため、心ない 者のいたずらなどもあるのだろう。フェンスの外から背伸びをして写真を撮っていたら、近所の人らしい初老の男性が鍵のかかっていないフェンスの扉を開け て、プラットホームの向こう側にある神社へ参っている。戻ってきたところを「あの神社は、何を祀ってるんですか?」と声をかけると、「ミーサンだ」と言 う。「ミーサン?」 「蛇の神様だよ」  ああ、蛇(み)−さんか。近鉄敷地内に残された氏神のために地元の人は立ち入りが黙認されているらしい。 「ちょっとだけお参りさせてもらってもいいですかね?」 訊くと老人は「ああ、構わんよ」と応えて、そのまま立ち去った。背後の斜面の上に祀られた「白瀧 大神」の石段をのぼるり、本殿のうしろへ回ると足元にトンネルの入口がまじかに見えた。当時、多くの作業者たちが頻繁にここを往来したのだろう。そして何 人かはそのまま生きて戻らなかった。しばらく樹の間に佇んで、在りし日の人の息遣いに耳をすませた。

 旧生駒トンネル跡地から北西の方向へ、水路沿いの斜面の道を蛇行しながらくだっていく。江戸時代の領主であった曽我丹波守を祀った丹波神社や、素朴な氏 神・日下神社などを覗き、「ほたるの里」と案内のあるさらに小さな緑の小路を曲がる。家の前の踏み石の下で子どもが三人ほど、小さなバケツを手に水遊びを していた。こんな光景はひさしぶりに見たような気がするな。道沿いの地蔵尊あたりで道を誤ったらしく、日新高校のグランドから狭い路地をぬけて、たまたま たどりついたのが旧河澄家だ。日下村の庄屋を務めた旧家で、第15代当主・常之は国文学者 上田秋成 と親交があり、一月ほど滞在したことが秋成の随筆『山霧記』に書かれているとか。折りしも巨大な鯉幟が舞台の垂れ幕のように軒でゆらいでいる。ひんやりと した座敷に腰を下ろし、枯山水の石庭と樹齢500年ともいうカヤの大樹を眺めていると、ときおり心地よい風が通り抜けていく。普請に来ているらしい職人風 情のおっちゃんが通りかかり、「そこは涼しくて気持ちいいでしょ。まあ、ゆっくりしてってください」と、訪問客はだれもいなくてほんとうに居心地がいいの だ。旧生駒トンネルの西口側工事関係者の傷病没者「招魂碑」がある称揚寺は、旧河澄家からものの1分ほどだ。水路沿いの小さな敷地の真宗大谷派のお寺で、 かつての境内の西側にもうひとつ西本願寺に属する寺がつくられたという。地元の人は「ひがっさん」「にっさん」と呼んで区別している。ここの「招魂碑」が 貴重なのは犠牲者24名の氏名が碑の裏面に刻まれていて、その中に朝鮮人らしい3名の名前も見られることだ。碑の前で手を合わせていると、わたしよりやや 若そうな住職氏が寺で用意した解説文を手に話しかけてくれた。もうむかしの話なので詳しいことは知らないが、碑が設置されたのは古くからある寺だったから ではないかということと、寺の過去帳には碑に刻まれた犠牲者は見当たらないので碑が設置されただけ、といったことを教えてくれた。

 さて、旧河澄家前の観光案内版で見つけて驚いたのは、往路で通り過ぎてきたあたりにある「孔舎衛健康道場跡」。これが太宰の「パンドラの函」の小説の舞 台であったというから、マサカ石切で太宰に会うとは、と思わず声が漏れそうになった。すたすたと下ってきたもと来た道を、こんどはふうふう言いながらの ぼっていく。のぼりきったあたりで別の道をすすむと、大きなため池のはたの公園のような斜面の棚地に案内板があった。旧生駒トンネルが開通し営業がはじ まった翌年の1915年(大正4年)、鉄道の開通に合わせる形でここに「日下遊園地」が開設された。保養所を兼ねた温泉施設、料理旅館、少女歌劇団、ミニ 動物園、そして貸しボートなどがあり、夏の避暑地としても賑わったという。ところが後にあやめ池遊園地、生駒山上遊園地ができると経営トラブルなども重 なって衰退し、1937年(昭和12年)、その跡地にできたのが「吉田式健康法」を謳った結核療養施設「孔舎衛健康道場」であった。京都府綴喜郡青谷村 (現・城陽市)在住の結核を病む青年・木村庄助が1941年(昭和16年)8月から道場に入院し、年末には病態が軽快して退院したが、その後再発して、最 後は京都保養院入院中にカルモチンを服毒して22歳の生涯を閉じた。その(大の大宰ファンであった)木村青年が残した日記をもとに太宰が執筆したのが「パ ンドラの函」だったというわけだ。結核を病んで入所した主人公の「雲雀(ひばり」とかれをとりまく「竹さん」や「マア坊」といった看護婦たちとの恋愛感情 など、「パンドラの函」は太宰の多くの作品の中でもひときわ明るく、屈託ない希望にあふれている。異論はあるだろうが、わたしは太宰の作品の中で「パンド ラの函」をもっとも愛読した。それは昭和20年発表という、焼け野原ですべてのしがらみが消滅したところから発した不思議な明るさのような作品だ。太宰は この「孔舎衛健康道場跡」を訪ねたことがあるのだろうか。草むらの陰のあちこちに残っている古い石積みだけが、当時の名残を伝えている。

 石切駅へもどり、各駅電車で生駒駅へ移動した。昼時になって空腹を覚えるが、持参した素焼きのアーモンドを数粒頬張りながらあるき続ける。駅の南口から 宝山寺へ至る参道をのぼっていく。しばらくのぼって生駒大師堂の手前、森田スプリング製作所の横の、一見工場の敷地のような路地を奥へ入っていくとそこが 宝徳寺である。宝徳寺についてはまず勺 禰子女史の一文を引く。

  宝徳寺には旧生駒トンネルにまつわる慰霊碑がある。現在の韓国、済州道から渡ってきた先代の住職が昭和26年に大阪市生野区で開山した同寺は、外国の宗教 団体として一番早く宗教法人格を取得した後、昭和30年代半ばに谷田町(現在地・生駒市本町)に移転してきた。生駒を移転地に選んだ理由は手狭になったこ と以外不明だが、旧生駒トンネルをつくる際の石切り場でもあったらしい現在地は、それまで地域の人々が先祖や死者の霊を供養するために踊る盆踊りの場でも あった。

 本堂を過ぎて右手奥へ70段ほどの階段を上りきると、視界が開けた広場の奥に、韓国人犠牲者無縁仏慰霊碑と極楽地蔵尊が建立されている。かつて同胞がこ の地でトンネル工事に携わり、過酷な労働条件の中で病死、あるいは事故死したことを知った先代の住職が各方面に働きかけ、1977(昭和52)年に落成し た。

 慰霊碑に向かう階段の途中には、百名近い寄贈者の札が今も飾られており、姜住職は朝晩の祈祷を欠かさないのは勿論のこと、毎年社会見学にやってくる小学生たちに、旧生駒トンネルでの出来事を語り伝えている。


(ディープ大阪・ディープ奈良・ディープ和歌山 「生駒あるくみるきく【4】 隧道をつくった人々」)

 宝徳寺はややくたびれていた。あるいは、日本というこの国に くたびれてしまったのだろうか。開けっ放しの本堂も含めて、寺全体に人の気配がなく、階段をのぼっていった慰霊碑のまわりは雑草がいたるところ伸び放題で あった。「韓国人犠牲者無縁佛慰霊碑」と刻まれた碑の足元に、寄り添うように置かれた二片の石くれ。ひとつはかろうじて石仏のなごりをとどめているが、も うひとつはすりきれたのっぺらぼうの石ころだ。前述の田中氏のサイトによれば、それは「トンネル工事中に内部で亡くなった労働者の霊を慰めようと仲問の人 たちが造った。二体の石仏は朝鮮人と日本人や、それ以後幽霊は出なくなったんだ」と住職が語ったものである。花束のひとつも用意してこなかったわたしは、 水筒の冷たい水を喉が渇いているだろうとその二体の石仏に注いだ。宝徳寺は鮮やかな青に金文字の扁額がいかにも朝鮮系の独特の雰囲気を醸し出しているが、 それだけではない。いまでは商店街や参道に近い住宅街に囲まれているが、ここはまるで大地の女陰(ほと)のような場所なのだ。かつては「旧生駒トンネルを つくる際の石切り場」であり、古くは「地域の人々が先祖や死者の霊を供養するために踊る盆踊りの場でもあった」と言うのは得心する。生駒山から伝い、流れ 滴る水が、深い山中の渓流のように岩盤を濡らしている。

 人気のない宝徳寺を辞し、駅前までもどったわたしは線路の北側へまわって、最後の探し物をすることにした。「トンネル東口を左手に見ながら急坂を登りつ めたところに地元の墓地がある。そこには、1913年1月26日午後に起こったトンネル大崩落の際犠牲になった人たちの墓石と慰霊碑「無縁法界霊」があ る」 手がかりはこれだけである。生駒駅を大阪方面へ発した電車は、すぐに高架の橋とそれにつづくレンタカー会社の駐車場の下をくぐる形で地下へ入る。そ の高架の形状の駐車場が途切れるすき間からかろうじて、生駒トンネルの東口(奈良側)が覗ける。その通りに「トンネル東口を左手に見ながら」地下の線路に 沿うようにあるいていった。しばらくすすむと広い道が急にせまくなり、急坂があり、山の斜面をくずした宅地用の造成地があり、しばらくその周辺をなかば諦 めかけながらうろうろとしていたのだが、視線の先の山の上の樹の間にちらと墓石のようなものが見えた。それを目指してあえぎあえぎ登っていくと、小高い林 の中に古い墓石が並んでいた。目的のものはすぐに見つかった。「無縁法界霊」と刻まれた自然石の碑。裏に刻まれた文字はかろうじて「大正七年生駒トンネル 遭難者七周年追悼」云々と読み取れた。その慰霊碑の背後にいくつかの小さな墓石や石仏が寄り添うように並び、「石川縣工夫」 「兵庫県住民」 「富山県住 民」といった文字と共に「大正二年一月」などの日付も見つけた。日本のあちこちから出稼ぎでトンネル作業に従事していて命を落とした人たちだろうか。墓地 内の掲示に「西教寺」の名前があり、生駒駅北側にある西教寺の墓地だと知った。前掲の田中氏の記述によれば「生駒駅の北側にある浄土真宗西教寺では工事関 係者の葬儀や法要が営まれたことから当時の追悼式の文書や工事期間中の過去帳が残されている」 わたしはここでも水筒の水を慰霊碑や墓石にかけて、手を合 わせた。緑の濃い樹木の間から、生駒の町が一望に見渡せる。ここはほぼ、生駒トンネルの真上にあたる。わたしはかれらと共に水筒の冷たい水を飲んだ。そし て堀田善衛の次の言葉について、ふたたび考えた。「過去は我々の眼前にあり、未来は背後に広がっている。だから、我々は、どこで落とし穴に落ちるかわから ないまま、後ろ向きになって、未来へ進んでいくのだ」

 日韓併合から約百年、旧生駒トンネル崩落事故から約百年のわたしの小さな旅がおわった。これが先の南北首脳会談に接したわたしのささやかなアクション。百年前のかれらに、わたしは何を語れただろうか。



 このトンネルには有名な幽霊話がある。郷土史家・尹敬沫氏は『生駒トンネルでたくさんの同胞が殺された。その悔しさ、執念の幽霊が夜更けてトンネル内に 出る。絶対にトンネルエ事に行ってはならぬ。それは工事で最も危険な最前線に追いやられ、結果は殺されていくのと同じ』(1992年1月26日、旧生駒ト ンネル事故80年シンポジウムでの尹敬洙氏の発言)と言う。この言葉はトンネル工事の過酷な労働を語り伝える同胞たちの思いを代弁したものであろう。
  旧生駒トンネルエ事が開始されたのは1911年6月のことである。当初は県境に立ちはだかる生駒山(642m)を避けた山越え案やケーブル案もあったが経 費や時間はかかるものの、未来のために最終的にトンネル掘削の決断がなされた。現在このトンネルのある近鉄奈良線が、大阪・奈良間の大動脈として、その役 割を果たすことになったのは万人の認めるところである。

  ところで、過去に類を見ないほどの難工事といわれた旧生駒トンネルエ事に朝鮮人労働者が働いていた事実は、作家の住井すゑさんが自ら生駒市で取材し長編小 説『橋のない川』の第1巻で扱ったことでも知られている。 「韓国併合」からわずか10ヶ月後に開始された旧生駒トンネルエ事の現場に朝鮮人労働者が海峡 を越えて働きにこざるを得なかった背景のひとつに「韓国併合」以前の朝鮮での鉄道工事があげられる。

  旧生駒トンネルの工事を請け負った大林組は当時のゼネコンとでもいうべきほかの土木請負会社と共に、日露戦争(1904-1905)を契機として朝鮮での 鉄道工事に参入している。京釜鉄道(ソウル〜釜山)の一部と臨時軍用鉄道の一部、さらにソウル〜義州間の停車場や機関庫の工事などを請け負い、以後の日本 国内の請負工事に実績をあげていくのである。大林組と朝鮮人労働者との関係はこの時期から密接になり、旧生駒トンネル工事に朝鮮人労働者が就労することに なったといえる。また、大林組は「韓国併合」後の日本国内の請負工事で、朝鮮人の労働力を最大限に利用し、利益を上げていくのである。


 1913年1月26日午後、トンネル内部で大落盤事故が発生。労働者150人前後が閉じこめられ、20人(西教寺過去帳による)が犠牲になった。生埋め になった労働者救出のために救援隊が組織されたが、第2次救援隊の中に朝鮮人李申伊がいたことを1913年1月29日付の「大阪新報」が報じている。

 1913年8月19日付のr大阪朝日新聞」には、トンネル工事の労働者と村民とが池の魚をめぐって大喧嘩をした記事がある。死者1名、負傷者の中には 22歳の朝鮮人もいた。続報で「生駒隧道の坑夫と村民との大争闘の際殺傷したる嫌疑者取調べのため、19日も同地に於いて125名(内朝鮮人10名)を引 致…」。この記事から「坑夫125人中10人の朝鮮人」がいたことに注目したい(労働者の8%)。

 また、完成後の1917年12月9日付『中國新聞』には次のような興味深い記事がある。「往年大軌の生駒隧道の掘削工事に千人ばかりの鮮人が居たが、團結して辞めたかと思ふと又ゾロゾロ帰って来る。殆ど勤怠常なしで為に工事に大錯誤を生じたことがある…」
記事中にある「千人ばかりの鮮人」がいたことが事実ならば、地域史を書きかえねばならない。(「鮮人」=朝鮮人に対する蔑称)

○過去帳
生駒駅の北側にある浄土真宗西教寺では工事関係者の葬儀や法要が営まれたことから当時の追悼式の文書や工事期間中の過去帳が残されている。
張振王は法名「幼学」、釜山出身で「朝鮮飯場」であった「松山飯場」に所属したことが記されている。また大正2年9月2日死亡の黄澤斤の名も見えるが詳細は記されていない。
暗越え奈良街道沿いに、芭蕉の句碑が建つことで知られる勧成院(日蓮宗)がある。旧過去帳に63柱におよぶトンネルエ事の犠牲者氏名が記されている。
うち朝鮮人は3柱。氏名は稱揚寺の「招魂碑」と同じである。筆者の推測ではあるが、当時の住職が犠牲者の追悼のため、情報を集めて記した二次的なものではないか。(詳しくは拙著『旧生駒トンネルと朝鮮人労働者』1992.8)

○慰霊碑
トンネル東口を左手に見ながら急坂を登りつめたところに地元の墓地がある。そこには、1913年1月26日午後に起こったトンネル大崩落の際犠牲になった人たちの墓石と慰霊碑「無縁法界霊」がある。
「トンネル内部に女性は入れなかった」(日下町の90歳の女性の話)という差別意識があったにもかかわらず、「煉瓦工手伝い」の4人の女性が犠牲になった。彼女らの墓石もこの場所に建てられている。
大喧嘩があった「空浄池」(現在は幼稚園)を左に見ながら、トンネル西口から河内平野を見おろす急坂を1キロほど下ると、稱揚寺(浄土真宗・東大阪市日下 町)がある。境内には大阪軌道株式會社と大林組が建立した「招魂碑」がそびえている。裏面には24名の傷病没者名が刻まれ、その中に朝鮮人労働者の名があ る。死亡原因などの詳細は不明だが、生駒トンネル工事に関連する朝鮮人犠牲者の名をいつでも見ることができるのはこの「招魂碑」だけである。

生駒駅から門前町の風情が残る宝山寺への参道を登ると、右側にハングルのルビがふられた「宝徳寺」の看板が目に入る。宝徳寺は戦後外国人に対して認められ た宗教法人の第1号だという。住職の趨南錫(故人)は生駒トンネルで酷使された同胞の話を知り、トンネルエ事にゆかりのある地に寺を建てた。また1977 年11月、地元の有志と近鉄の協力により、本堂より一段高い敷地に韓国人犠牲者無縁佛慰霊碑」を建立した。
この慰霊碑の前に小さな石仏がある。住職の説明は実に明快であった.
「トンネル工事中に内部で亡くなった労働者の霊を慰めようと仲問の人たちが造った。二体の石仏は朝鮮人と日本人や.それ以後幽霊は出なくなったんだ」。

「朝鮮人がようけ(大勢)トンネルの入口に来てな。朝鮮から来たいっきやよって(問もなくなので)、頭の毛にまげ結うてまんね。日本に来てから頭の毛を切りまんね」.
「朝鮮人は集団で。朝鮮飯場が2カ所ありました。あそこは朝鮮飯場やいうて。朝鮮人は村へは入られへん。捷別がありましたしな」。
「トロッコが弾んで、朝鮮人が亡くなりましたんや。家族がアイゴー、アイゴーと泣いてました」
以上の証言は、1991年ごろに筆者が日下町(トンネル西口)に住む古老から聞いた話である。旧生駒トンネル工事は1911年から1914年のことであり、まもなく90年が経過しようとしている。当然、当時の証言を得ることのできる人はほとんど生存していない。

 旧生駒トンネル工事は、規模の大きさや大崩落事故があったからという理曲で知られているのではない。「韓国併合」直後に、土地調査事業をはじめとする日 本の植民地政策によって、ふるさとを離れて、日本に出稼ぎにこざるを得なかった人たちの想いが凝縮しているからである。また旧生駒トンネル工事が語る歴史 は、単に奈良と大阪の地方史ではない。これ以後に続く「強制連行・強制労働」の起点であり序章である。
旧生駒トンネルは、黒い闇を抱きながら、静かにその姿を誇っている。

(奈良県での朝鮮人強制連行遺跡・生駒トンネル)



◆奈良県での朝鮮人強制連行遺跡 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Hanamizuki/3836/ikoma/ikoma.htm

◆「太宰治『パンドラの匣』の舞台は、 孔舎衙健康道場だった!」 http://yukochappy.seesaa.net/article/133164001.html

◆大正時代の日下遊園地(東大阪市) http://binmin.tea-nifty.com/blog/2011/09/post-c5ce.html

◆生駒あるくみるきく【4】 隧道をつくった人 http://chipoo.blog84.fc2.com/blog-entry-763.html

2018.5.1






 

 



 

 

 

背中からの未来