035. 西国巡礼に倒れた病人遍路の足跡をたどる

背中からの未来

 

 

■035. 西国巡礼に倒れた病人遍路の足跡をたどる

 



  近鉄の岡寺駅へ行こうと思ったら乗り換えがわるい。しばらく前にも降り立った橿原神宮前駅で、反対の東口の改札を出てぶらぶらとあるいていった。すこし肌 寒い陽気だが、あるいているうちにぬくもってくる。廃墟になった「スーパー山勝」をぬけて、丸山古墳をまわりこんだ。飛鳥周遊のレンタ・サイクルがぽちぽ ちと増えてくる。新興住宅地のへりをぬけると、のどかな田舎の景色のなかから亀石の案内板、そして川原寺跡、橘寺などがあらわれる。明日香村へ入る道標を 見あげながらわたしは、菊池はるもこのあたりを通っただろうか。それとも順番どおり壷阪寺からであったら、高取の山を越えて奥飛鳥から岡の集落へたどり着 いたのだろうか、などと考えていた。

 菊池はるの死をさいしょに報じたのは、大正15年8月27日の大阪毎日の奈良版であった。「西国巡 礼の死 病気と餓とが原因」という見出しで、「頭部に軽微な縊紋の形跡があり他殺の疑いがあるとて」死体を解剖に附したが、「肋膜炎の上餓と酷暑とで死亡 したもの」と判断された。息絶えた彼女が発見されたのは「磯城郡香久山村大字吉備の里道路傍」、現在の桜井市吉備は香久山と桜井駅のちょうど中間あたりで ある。ところが二日後のおなじ大阪毎日は「巡礼女を遺棄した 氷よりも冷たい人情 役場吏員の残酷」という見出しで続報を伝えている。なにがあったのか。

 8 月25日に死体で見つかった菊池はるは、21日夜に明日香村岡の集落で倒れていたのを保護され、医師の診断投薬を受けて同集落の自警団事務所で二晩を過ご していた。23日朝に「好意を感謝して出発」したが、昼過ぎにさいしょの発見場所から1キロも満たない飛鳥寺付近の集落でふたたび倒れた。駐在の巡査が見 つけ、行旅病者として「同村収入役兼大字飛鳥総代」のAに身柄を引き渡したが、Aは「同村書記」のBと「相談の上医師にも診断をさせず」、日付けの変わっ た24日の深夜に同村Cに菊池はるを背負わせ「磯城郡安倍村大字山田」へ遺棄した。まだ息のあった彼女を通りがかりの子どもが見つけたのが24日夕刻。と ころがこの安倍村の収入役Dもまた「村で死なれては厄介だとて何等保護を加えず」、同村Eに「村外れまで運ぶように命じ」、Eは「附近の者二名の応援を求 め25日午前1時頃虫の息で呻いている瀕死の病女を残酷にも荷車に載せて同郡香久山村大字吉備の交通の最も不便な里道に遺棄した」のであった。菊池はるが その場所で死んでいるのを発見されたのは25日午前7時頃と記されている。この件によって病者遺棄罪として両村の収入役をはじめ「七、八名」の関係者が奈 良地方裁判所検事局へ記録送致される模様、と新聞は報じている。わたしは彼女の最後の足跡をたどってみたい、と思ったのだった。

 菊池は るについて新聞は年齢が38歳、住所地を「秋田県山本郡八森村大字花田」と記している。八森村は現在の八峰町。JR五能線に八森駅があるが、付近に花田と いう字は見つけられなかった。能代市の北の海沿いの集落で、むかしバイクの旅で日本海沿いの気持ちのいい道を走ったことがある。そんな東北の地からなぜ彼 女は西国巡礼にやってきたのか。新聞は菊池はるが「慢性梅毒患者」であったと伝えている。梅毒の抗菌薬であるペニシリンが普及したのは戦後で、菊池はるが 死んだ大正15年には治療薬はまだなかった。梅毒は梅毒トレポネーマと呼ばれる細菌に感染して起こる感染症で、感染部位にしこりや潰瘍、リンパ節の腫れな どが生じ、潜伏期を経て徐々に皮膚・筋肉・骨などにゴム状の腫瘍が発生し、かつては鼻が欠損することなどもあってハンセン病と同一視された時期もあった。 最終的には臓器までも腫瘍ができ、脳、脊髄、神経なども侵されて死に至る。肋膜炎が死亡原因と診断された彼女の梅毒は、それなりに進行していたものと思わ れる。であれば、外見的な異変を含む症状がどうにもおさまらなくなった頃に、彼女は故郷の村をあとにしたのかも知れない。

 郷里を遠く離 れて長旅をする遍路は物見遊山も多かったろうが、なかにはそれが二度ともどらぬ旅路である者たちもいた。村でトラブルを起こしていられなくなったり、経済 的に脱落したり、不義の子を宿したり、わずらわしい病のために村の持て余しものになり、あるいは貧しさ故の「口減らし」のためなどで、やむを得ず「巡礼」 に出た者たちである。かつて北陸地方では「お四国へ行く」という言葉が「夜逃げする」と同義語であったという。じっさいに旅の途上でみずから命を絶つ遍路 もいて、霊場のある寺には首を吊った遍路の過去帳も散見され、四国第39番の霊場ある足摺岬などはむかしから多くの遍路が身を投げたことで有名であった。 民俗学者の宮本常一は、四国の山深い原生林のなかで出会った一人の癩病の老婆について記している(「土佐寺川夜話」)。「顔はまるでコブコブになってお り、髪はあるか無いか、手には指らしいものが無い老婆が「こうゆう業病で、人の歩くまともな道は歩けず、人里も通ることが出来ないので、こうした山道ばか り歩いて来たのだ」と聞き取りにくいカスレ声で言う。老婆の話では、自分のような業病にとりつかれた者が四国には多くて、そういう者のみ通る山道があると のこと、私は胸の痛む思いがした」  その老婆ほどの過酷な状況ではなかったにしろ、乞食遍路・病人遍路といった者たちの旅はやはりつらいものだったろ う。

 かつて四国遍路へ旅立つ者は、巡礼者の氏名、目的、所属宗旨、非常時の連絡先、発行者、宛先などが書かれた「往来手形」を各国の代 表寺院などで発行してもらい携行していた。だが二度と故郷へもどれぬ遍路の手形は「捨て往来の手形」といわれ、文中に「万一、病死した場合には、生家へは お知らせ下さるには及ばす、死亡したところの「土地の風習」に従って埋葬して下さればよい」云々といった一文が記されていた。こうした「捨て往来の手形」 をたずさえて旅する乞食遍路・病人遍路といった者たちは、いのちが尽きるまで永遠に旅を続けなければならなかった。ほとけにすがるしかない身でありなが ら、日々絶望の連続であったろう。そして帰る場所は永遠にないのだ。死が家路だった。わたしは、菊池はるもこうした病人遍路の一人であったと思う。故郷に は両親や夫や子どもたちもいたかも知れない。けっして健康ではなかった身体をひきずって、彼女はどんな気持ちで西国巡礼の道をあるいていたのか。眼窩の奥 にはどんな感情が宿っていたのか。

 岡の交差点をすぎて明日香村の役場の手前に村の「消防防災施設」の建物があった。あるいはここが、菊 池はるが二晩を過ごした自警団事務所だったかも知れない。門前町の古い趣きをのこす岡の集落をぬけて、岡寺の参道をのぼっていく。菊池はるは岡寺には参っ ていたはずだ。なぜなら自警団事務所で二晩を過ごしたあと、彼女はそこから桜井方面への道をすすんでいるからだ。岡寺につづく札所は長谷寺である。彼女は 岡寺の参詣を終えて岡の集落へ下ってきたところで倒れたのだろう。日がすこし照り出して、のぼり坂でうっすらと汗をかいた。道端の斜面にならんだ軍人墓に 家族連れが鮮やかな花を供えていた。大正15年に菊池はるがこの道をすぎたときには、この二十数人の兵士たちはまだ死んでいなかった。きっとみんな、母の 背に抱かれていた頃だったろう。岡寺は娘がまだ生れる前につれあいと二人で一度だけ訪ねたかも知れないが、ほとんど記憶がない。境内のどこかに菊池はるの 痕跡を見つけたいと思ったが、そんなものがあるはずがない。古びた本堂のあちこちに貼られた参り札も、病人遍路の彼女にはそんなものを持つ余裕もなかった ろう。しかし96年前の夏に、菊池はるは確実にこの本堂の前で手を合わせたはずだった。彼女にとって、衆生を救うとされる観世音菩薩の最後の変化だった。 あまりふだんはしないのだが、鐘楼の鐘を、菊池はるのためについた。

 参道をもどり、岡の集落をぬけてそのまま道を飛鳥寺の方向へ北上す る。やがて天理教の岡大教会が見えてきたそのあたりの路上が、菊池はるがさいしょに倒れているのを発見され、保護された場所だった。当時はまだ土の道だっ たかも知れない。近在の杉原医師により診断投薬を受け、自警団事務所で二晩をすごした彼女は、ふたたびこの道へもどってくる。菊池はるがこの世で最後にあ るいた道のりだった。新聞は「大字飛鳥杉本勝蔵方前」でふたたび倒れていたと記す。つぎの札所である長谷寺へ向かうとしたら、飛鳥寺の前を過ぎ、つきあた りを飛鳥坐神社の方向へ迂回していったと思うが、道沿いには「杉本」の門標は見当たらなかった。ただ、この飛鳥寺から飛鳥坐神社へ至るどこかで力尽きたの は間違いないと思う。岡の中心部からわずか1キロ少々、通常であれば徒歩15分程度の距離しかない。紙面では「23日朝好意を感謝して出発」と書かれてい るが、朝9時頃に出発したとしても午後1時頃に倒れるまで、4時間をかけて徒歩15分の道をすすんだことになる。果たして出発が可能であるほど回復してい たのか。

 すでに虫の息であっただろう菊池はるは日付けが変わった24日の午前3時、ひそかに「磯城郡安倍村大字山田」へ運ばれて遺棄さ れた。有名な山田寺跡のある現在の桜井市山田と思われる。このあたりはいまも丘陵地が迫るしずかな風景だ。24日の午後6時頃に発見された菊池はるはふた たび日付けの変わった25日午前1時、荷車に載せられて彼女の「極楽浄土」である最後の地へまたしてもひっそりと運ばれて遺棄される。8月28日付の大阪 朝日ではそれを「香久山村大字池尻の飛鳥川附近」と報じているが、香久山近くの飛鳥川沿いに「池尻」という字は見当たらないし、翌日の29日付記事では 「香久山村大字吉備」と訂正しているので、おそらくこちらが正しいだろうと思われる。吉備で「交通の最も不便な里道」というと、古代の吉備池廃寺跡が現在 も忘れ去られたような寂しい堤に残る吉備池を中心とした周辺ではないかと思う。そこで近在の者が午前7時に発見したときには、菊池はるはすでに息絶えてい た。雑草の生い茂る堤には「水死惣法界」と刻まれた明治三年の石仏と、大伯皇女が弟の亡き大津皇子をうたった「うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む」の歌碑が立っている。その歌碑のうしろにじっさい、妙麗な二上山が遠望できるが、菊池はるにはすでにそんな余裕はなかっただろう。せめて朝 焼けの美しい空を一瞬、垣間見たか。その光のなかで家路をたどっていけたか。

 菊池はるの亡骸についてその後、新聞は何も伝えていない が、「奈良県警察史 明治・大正編」はこの事件を半ページで小さく取り上げたあと、末尾に「なお、巡礼女については、国元に身寄りもないところから香久山 村吉備の蓮台寺において追善供養を営み、懇ろに葬った」と記している。桜井市史によれば蓮台寺は「浄土宗。山号は宝林山。寺伝によると、もと法相宗で、開 祖は僧行基。持統天皇の勅願によって.玉体を火葬にした。飛鳥岡の遺跡をここに移して天平年間に創建した霊場という。当時、この地の地主の吉備真備がいた く帰依して、一宇の浄刹を建立し、心楽寺と名付け、大日如来と地蔵菩薩を安置した」云々とある。奇しくも「飛鳥岡」で行き倒れた菊池はるは、めぐりめぐっ てここに葬られたのであった。蓮台と聞くと、京都のあの世とこの世の境である上品蓮台寺を想起するが、行基開基で古い歴史を有する池田墓地と隣接している ことから、このあたりも古代から葬送の地であったのかも知れない。池田墓地には無縁供養の仏と古い無縁墓が並び、また蓮台寺の墓域にも無数の無縁墓がうず たかく積まれ、また入口近くの納骨堂内にはたくさんの位牌や骨壺が安置されていた。行旅死亡人である菊池はるにわざわざ墓石が刻まれたとは思えないので、 おそらく池田墓地の無縁供の仏の下の納骨スペースか、境内納骨堂に彼女の遺骨は納められたのだろうと思われたので、どちらにも手を合わせて菊池はるの魂安 らかなれと祈った。今日は半日、わたしはずっとこの見知らぬ病人遍路とともにあるいてきたのだった。寄る辺なき魂に幾許かでも寄り添うことができただろう か。
2022.3.22





 

 



 

 

 

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