034. 畝傍山麓に「負の近代化遺産」を見にゆく

背中からの未来

 

 

■034. 畝傍山麓に「負の近代化遺産」を見にゆく

 
  「古都とは、天皇がいなくなった旧都(もとのみやこ)である」と高木博志は「近代天皇制と古都」(岩波書店)ののっけから記す。「明治維新から1889年 の大日本帝国憲法の発布までに、近代天皇制の核心となる「万世一系」の「国体」(天皇をいただくくにがら・国家体制)が定置され、それをうけて、奈良・京 都の古都も、日本の「歴史」「伝統」「文化」を具現するものとして、近現代を通じて創りだされる」  「古都」ということばが定着したのは戦後、とくに 1966年の古都保存法(古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法)以降のことだと高木は記すが、まさに明治の鵺のような亡霊が広告代理店のつく る気の利いたキャッチコピーとともにとめどなく再生産される。橿原神宮の大鳥居の前に現れる結婚式殿の巨大な広告看板の文句「日本のはじまりで 新たな家 族のはじまりを」のように。高木はまた「天皇制の装置としての古都の創出にかかわって重要な要素に、陵墓と御物があるだろう」とも記しているが、2019 年、被葬者が定かでない大山古墳が「仁徳天皇陵古墳」として世界遺産登録されたことの意味を、わたしたちはあらためて考えるべきかも知れない。

  「畝傍山山麓(橿原市)における神武陵の創造は、「神武創業」という明治維新の理念、すなわち神話的古代を視覚化するものであった」  陵墓が「天皇制の 装置としての古都の創出にかかわ」る重要な要素のひとつであるとすれば、神武陵や橿原神宮を含めた畝傍山山麓の一帯は、まさに明治の鵺のような亡霊を発信 つづけている巨大で空虚な空間である。神武によって建国されたとする紀元前660年は考古学的にいえば縄文晩期〜弥生前期の時代である。その後、1200 年を経た672年に「日本書紀」は大海人皇子(のちの桓武)が壬申の乱のさなかに戦勝を祈願したと記すが、これが神武陵の1回目の創造である。つづいてさ らに1200年後、1863(文久3)年に2回目の創造がされて、その後たび重なる増築・改修を経て現在の神武陵がつくられていった。いくつかの候補地 (伝承地)のなかから比定されたかつてミサンザイと云われたその場所は「ここは直径10mくらいの小塚が2つ並んでいて、もともと地元では糞田(くそだ) と呼んでいた。ひょっとすると牛馬の処理場で、掘ると牛や馬の骨が出るかも」と旧洞村の古老が伝えるように、草場権を有していた洞による斃牛馬の解体場所 であった可能性が高い。その場所をわたしたちは遠い神話時代のこの国の創始者の墓として拝み、頭を垂れている。

  奈良には数多くの歴史的な寺社や遺跡があるので、毎年たくさんの人々がそれらを目当てに訪れる。法隆寺、東大寺、唐招提寺、春日大社、平城京跡、唐古・鍵 遺跡、三輪神社、そして飛鳥等々。けれどわたしはこの国の「真の歴史」を学ぶ場所として、この畝傍山麓ほどふさわしいところはないと思っている。ここには 前述したように、「負の近代化遺産」(高木)である「神武陵」と「橿原神宮」があり、その創出によって移転を余儀なくされた被差別部落の旧跡が「神武陵」 のすぐはたの森のなかに眠っている。つまり、高木のいう「民主主義の課題である天皇制」がじつに象徴的に詰まっている場所なのだ。徳川三百年に代わって明 治の新政府は天皇制という「非合理な血統」をつくりあげた。まさに「日本のはじまり、ニセモノのはじまり」である。幕末まで京都の泉涌寺でせいぜい二代三 代前の位牌を弔う仏教徒であった天皇が明治以降、突如として120代の皇祖を背中に負う存在となった。死んだ先帝と添い寝をする大嘗祭はアマテラス としての生れ変りの儀式である。「そして敗戦後の1946年正月元旦の「人間宣言」のGHQ案に対して、裕仁天皇がクレームをつけ、最後まで守り抜いたの は、「神の裔」として自らが位置づく神学であった。すなわち近代天皇制には、始原のパワーを持つ天照大神の「天孫」として、新たに生れいづる身体をもって 自ら天皇として即位するという神学が存在した。間違いなく昭和天皇裕仁は、その神学を信じた。かくして近代の一人ひとりの天皇は、百二十代こえる「皇祖皇 宗」の天皇たちを背負う器(いれもの)となったのである」

 1862 (文久2)年に戸田忠至らによる山陵補修がはじまり翌年、塚山・丸山・ミサンザイといった三ヵ所の伝承地から現在地が比定された神武陵に1万5,062両 (1両20万円換算で約30億円。ひとつの天皇陵の修復予算の平均が555両=約1億円だった)という膨大な費用がかけられて円墳が造成され、鳥居や拝所 が建設された。そして1867(慶応3)年の王政復古の大号令、1873(明治6)年の紀元節の施行を経て、畝傍山・神武陵・橿原神宮の三位一体による 「近代における神話的古代の創造」が構想される。そこで奈良県が模範としたのが、先行する1886(明治19)年から3年をかけて五十鈴川の橋の向こうに 「茶屋や民家が立ち並び、「不潔ヲ極」めていたのが、一斉に排除され」「あらまほしき近代の神苑の理念型である」清浄な空間が創出された伊勢神宮であっ た。「概して、前近代の神社の空間は、仏教や土俗的宗教が混在し、芸能者や賤民もつどう、もっとも活気があり「猥雑」なものであった。これに対し、樹種が 厳選され、玉砂利がしかれ、水で清められ、神経症的なまでに潔癖な神苑の空間は、近代の属性である。この伊勢神宮の神苑がモデルとなり、奈良県では 1890年代から大正期にかけて、橿原神宮神苑整備事業がはじまる。そして1917(大正6)年には神苑内にあった被差別部落の洞村が強制移転させられ る。国家は、清浄な神苑づくりにあたり、被差別部落に「穢」の烙印を再び押したのである。こうして伊勢神宮にはじまった近代の神苑=「天皇制の清浄な空 間」は、橿原神宮、熱田神宮、そしてヨーロッパの造園学の影響を受けた内務官僚主導の明治神宮神苑(内苑・外苑)造営ののち、札幌神社、そして村々の神社 へと全国に広がってゆく」

  先日の天皇徳仁の誕生日である2月23日、橿原神宮見物と洒落てみた。20年以上、奈良に暮らすが当地に足を踏み入れるのは生涯ではじめてのことだ。近 鉄・橿原神宮前駅に降り立ち、正面のまっすぐな道をすすむとやがて巨大な第一の鳥居が現れる。道も町も神宮を向いている。この畝傍山・神武陵・ 橿原神宮を三位一体とする、いわば「畝傍山神苑」の形成に於いては、被差別部落の洞村の他にも、久米・畝傍・大久保・四条といった村も移転を余儀なくされ た。久米村は深田池の東、神宮の社務所から文華殿、養正殿にかけての一帯、畝傍村は神宮と競技場にはさまれた森林遊苑のあたり、大久保村は神武陵に隣接す る東、四条村はその北のやはり現在の神武陵敷地に含まれるあたりである。何か当時の村のよすがでもないかと探したが、80年もむかしの大規模造成のあとで はすべては大地の下である。「紀元二千六百八十二年」と大書された南神門をくぐると、警備員に拝殿へは休憩所の方を迂回するように身振りで示された。折しも 天皇徳仁を祝う天長祭の儀式が終わった頃で、神官たちがぞろぞろと儀式殿から引き上げてくるのだった。拝殿の前に立ったが、とくに祈ることもない。とりあ えずぐるりと周辺をあるいてから、深田池のはたにある休憩所のトイレで小便をした。

  神宮の南に接する広大な深田池は奈良時代にはすでに 築造されていたという溜池だ。この池の北側の遊歩道を西へすすむと西の鳥居の手前に神饌田がある。神宮での儀式に神前に供される米をつくる田圃である。奥 に古びた石碑があったので見たいと思ったが立ち入り禁止であった。そのまま西池尻の集落へ出て第4代懿徳(いとく)天皇、第3代安寧(あんねい)天皇と いった神話時代の「天皇陵」を眺めながら畝火山口神社へ着いた。畝傍山を軸にぐるりと1/3周ほどまわったことになる。もともと山頂に坐していた社殿は 「昭和 15年皇紀2600年祭で橿原神宮・神武陵を見下し神威をけがすということで当局よの命により山頂から遷座した皇国史観全盛期の時勢を映した下山遷座で あった」と神社の説明版にも心なしか恨み節がきこえる。この神社の鳥居の手前から畝傍山への登山道がはじまる。畝傍山は標高199メートル、道は整備され て標識も多い。祝日ともあって家族連れや、また近在の人がウォーキングに利用している姿も多かった。道はなだらかだが、途中から少々傾斜がきつく息があが る。山頂付近には一万数千年前の火山噴火でできた流紋岩質溶岩の塊が散見される。山頂は広場になっていて、かつての畝火山口神社の社殿の石垣が残ってお り、二上・葛城山方面の眺望は良い。東側の旧洞村跡地を見下ろしたかったのだが、神武陵を見下ろすことになるからか樹木が邪魔をしてほとんど見えなかっ た。

 畝傍山の山頂からは東へ、橿原神宮の北側にある「瑞鶴の碑」などがある怪しげなゾーンへ下りようと思っていたのだが、途中で分 岐を間違えてさらに北に位置する旧洞村跡地へ下りてきてしまい、そのまま跡地巡りをすることにした。山を下ってくるとやがて前方に神武陵の玉砂利を敷き詰めた立派な参道が カーブをするあたりが見えてきた。参道から旧洞村の本村であった山本村へ抜ける道をすぐに左に分岐すると旧洞村跡地へ出るのだが、そこは参道側へ向けて 「陸墓地につき許可無く立ち入らぬこと 宮内庁」の看板が立ち、簡易な竹の柵が設置してある。しかし畝傍山から下山してくるとその看板の背後に出るので 「なにも見えない」のである。洞村跡地については別で詳細を記したので、そちらを参照して頂きたい(おおくぼまちづくり館と洞村跡地 http: //marebit.sakura.ne.jp/horamura.html)。洞村の全村移転は1917(大正6)年のことである。ここでは後藤秀穂 「皇陵史稿」(1913・大正2年)に於ける当時の文章をだけ引いておく。「... 驚くべし。神地、聖蹟、この畝傍山は無上極点の汚辱を受けている。知るや、知らずや、政府も、人民も、平気な顔で澄ましている。事実はこうである。畝傍山 の一角、しかも神武御陵に面した山脚に、御陵に面して新平民の墓がある。それが古いのではない、今現に埋葬しつつある。しかもそれが土葬で、新平民の醜骸 はそのままこの神山に埋められ、霊山の中に爛れ、腐れ、そして千万世に白骨を残すのである。どだい、神山と、御陵の間に、新平民の一団を住まわせるのが、 不都合この上なきに、これを許して神山の一部を埋葬地となすは、ことここに至りて言語道断なり。聖蹟図志には、この穢多村、戸数百二十と記す。五十余年に して今やほとんど倍数に達す。こんな速度で進行したら、今に霊山と、御陵の間は、穢多の家で充填され、そして醜骸は、おいおい霊山の全部を浸蝕する」

  神武陵の西側、畝傍山麓の森のなかにはいまも旧洞村の人々の当時の暮らしのかけらがちらばっている。小路のわきに棕櫚が生えているのはかつての住居跡で、 下駄表の材料としたのである。奥へ進むと煉瓦造りの立派な共同井戸がいまも水をたたえている。現在の大久保町に移転した生国魂神社跡には礎石が残っている そうだが、わたしはその参道と思われる石段が崩れ落ちたような斜面を見つけたが神社跡はたどりつけなかった。その下の水が流れる谷筋には当時のものと思わ れる陶器のかけらが散在している。共同井戸からさらにのぼると。「宮」と刻まれた石柱が何本か、暗い傾斜地の草むらを囲うようにさびれて立っている。有力 な神武陵の候補地であった「丸山」のエリアで(本居宣長はこちらを推していた)、1863(文久3)年に勅裁により神武陵は現在地のミサンザイ(神武田) に決まったが「尤(もっとも)丸山之方モ粗末ニ不相成様被仰出候事」と達せられたのであった。けれど石柱のいくつかは倒壊し、管理されている様子はない。 かつてここには共同風呂もあり、大きな寺もあり、墓地もあり、人々がみずから造成した溜池もあり、こしらえものの神武陵よりも古くからの暮らしがあっ た。1912(大正元)年の奈良県知事宛ての建白書では、旧洞村の戸数208戸、人口1,054人、宅地坪数七千百余坪。ひとしきりあるきまわっ てからもどりかけたところで、ハイキング姿の中年男性と遭遇した。こんなところで珍しいので「洞村ですか?」と声をかけると、わたしと同じく畝傍山から間 違って下りてきたらしい。被差別部落は言わず、神武陵の造成で移転された村の跡地だと説明してあげると、「それは勉強になりました。ありがとうございま す。ちょっと見てきます」と共同井戸の方とへあるいていった。

 そろそろ昼もとうに過ぎて腹も減ってきたので、神武陵の参道から大久保町 へ出た。当初は神宮前駅に近い津田食堂なる老舗の大衆食堂を狙っていたのだけれど、もどるには時間がかかる。ひさしぶりに「おおくぼまちづくり館」も寄りた かったのでこの近辺でと思い、見つけたのが「お好み焼き きみちゃん」である。住宅地のなかにある、いかにも常連客相手の店といった感じで、表には看板やメ ニューなどもなく、店内からは賑やかな笑い声が間断なく響いている。時間はすでに一時に近い。一見さんには入りにくい感満載で、しばし店の前で迷っていた が、思い切って店の引き戸を開けた。センターテーブルのような鉄板を囲んでいた客4人と店のおばちゃんの全員の会話がぴたりと止まり、みなが一斉に振り向いた。「いらっ しゃいませ」ではなく「何か御用?」という空気なのである。立ち尽くしているわたしにおばちゃんがやっと「ん? なにか・・」と声を向ける。「・・いえ。 あの、お腹が減ってきたんで、なにか食べたいなあと思って。焼きそばとか、いけますか?」 飲食店へ入ってこれだけ控えめな言葉を発したのははじめてであ る。それを聞いてやっとわたしがお客だと気がついたらしいおばちゃん、にっこりほほ笑んで「予約席」の札を置いていた端っこの座敷席を案内してくれた。注 文はてっちゃん入り焼きそば、550円。量はわたしには少なめだが、おいしかった。男三人、女性一人の常連さんは会話も盛り上がっていて、そのうちのいち ばん若い兄ちゃんが一人でしずかに食べているわたしをやたら気遣って、「おにーさん、おにーさん」と声をかけてきて、寒くないかとストーブを向けてくれよ うとしたりする。お勘定の際に「すごく、おいしかったです」と伝えるとおばちゃんはびっくりしたような顔でとても喜んでくれた。いつか再訪する機会があれ ば、こんどは複数でビールでも飲みながら鉄板に向かいたい。

 「お好み焼き きみちゃん」から数分も閑静な住宅地を抜ければ、旧洞村から の移転の歴史を伝える「おおくぼまちづくり館」である。洞村から移築した丸谷家住宅を利用したもので、一階は旧洞村の暮らしや強制移転の歴史をジオラ マやパネル展示、ビデオ映像などで伝え、二階には戦前・戦後を通じて部落の主産業であった下駄表づくりや革靴づくりの製造工程や当時の道具などを陳列して いる。はじめての人はここで予習をしてから、じっさいの旧洞村跡地を見に行くといいだろう。入館料は100円。ところがわたしは「きみちゃん」でちょうど最後の 小銭を使い切ってあとは50円玉ひとつしか財布に残っていなかった。恐縮しながら一万円札を出すと、近所の人と立ち話をしていた館のおっちゃんは「いやあ、お釣 りはないなあ」と困った声を出して、「なら、もういいですわ」とわたしに言って、「・・これ、書類に書かなきゃいけないよね。面倒だから、もうわしが立て 替えとくわ」と内輪で話しながらじぶんの財布から百円玉を出す。申しわけないので、せめてこの50円だけでも受け取ってください、と無理やり受付の棚に置 いたのだった。おそらく60代も後半と思われるその男性は、父親が旧洞村の出身者で、移転を機に一家は大阪へ引っ越したのだが、結局この移転先の大久保町 へもどってきたのだという。なので当人は洞村のことはあまり知らないのだが、大久保町にかつて映画館や芝居小屋があった日々のことや、また戦後になって下駄表から 変わった革靴づくりの話などをしてくれ、かれが就職をしたときに村でつくってもらっていまも充分に履けるという革靴を見せてくれたりした。また郡山高校に 通っていて、近鉄郡山駅近くの映画館で東京オリンピックのフィルムを見たことなども懐かしそうに話してくれた。だいぶ長居をして、古い石碑が残っていると 教えられた移転した生国魂神社に立ち寄った。社殿の横にひっそりと自然石の碑が立っている。1895(明治28)年、旱魃を憂いてあらたに池を造成したと きの記念碑で、いまでは洞村のよすがを伝える貴重な記録である。

 大久保町を辞して、「おおくぼまちづくり館」でおしえてもらったもうひ とつの記憶、かつての本村であった山本町にある共同墓地を見に行った。前述の造成した池の南側にあった旧洞村の共同墓地は大正の村の移転時に、警官らの監 視の元「一片の骨も残さず」という厳命の元にすべて掘り返させられ、しかも移転先であった大久保町の近隣から「村の移転は認めるが、墓は一切持って来てはならな い」と約束させられ、山本町の西にあらたな墓地をつくったのであった。161号線から神武陵の北の境界をなめるように西へ回り込んだあたりが山本町である。北 側の広大な敷地ではいま、奈良県立医科大学の新キャンパスの建設工事がすすんでいる。墓地はその平地のどんつきの畝傍山を見あげるような田圃のはたにある。墓地の西の端に「戦 没勇士之碑」と共に40近い軍人墓が一列に並んでいる。19歳の満州開拓青年義勇軍の墓もあった。一般の墓地は入口の六地蔵もふくめて比較的あたらしいも ののように見える。おまけ程度に隅にならべられた路傍の石仏がいくつか。おそらく旧洞村の墓地にあった墓石の多くは持つ運ぶのも困難で、そのまま現地に埋 められたのではなかったろうか。山本町からこんどは神武陵の南側をまわって参道へ出るかつての旧道をあるいてもどってきた。

 そろそろ日も暮 れかけてきた。最後に立ち寄ったのは森林遊苑の北、イトクの森古墳(古墳時代前期の前方後円墳)の西側にある「若桜友苑」である。解説板によれば「学業半ばに して海軍飛行機搭乗員を志願して若い命を国に捧げ海に消えた第13期海軍甲種飛行予科練習生出身の1000有余名の御霊を祀る「甲飛13期殉国の碑」が建 てられ、慰霊公苑として昭和48年11月に」開園し、「さらに昭和19年10月フィリピン、レイテ湾作戦に参加し、エンガノ岬沖で沈没した航空母艦「瑞 鶴」の戦没者を祀る碑が生存者や遺族その他の方々の手によって「殉国の碑」と並び昭和53年に建てられ」たという。苑内にはその他、学徒たちが特攻機とし て乗って行った練習機や特殊兵器などのパネル、福島縣西白河郡の記銘がある「皇軍祈武運長久」の石碑、「絆の錨」と題された旧軍艦艇の錨などが、寒々と配 置されている。目立たないが、ここはいわば橿原神宮の招魂社(靖国)であり、八紘一宇はこの畝傍山・神武陵・橿原神宮の三位一体による 「近代における神話的古代の創造」テーマパークでは現在も自明のものとして受け継がれている。かつて「英霊」というものはこの国の思想には存在しなかった。日清・日露の対外戦争 と共に天皇制が村や町といった地域社会に浸透して、「英霊」という特別の死者も出現した。個人の死が国家の担保となった。いみじくも上野英信は「天皇陛下 萬歳 爆弾三勇士序説」のなかで次のように記している。「 ・・生まれてはじめて、かぎりなく深い死の淵から、<天皇>が、まごうかたもないみずからの絶対者として、たちあらわれたということです。 「天皇のために」死すべき存在としての日本兵士にとって、それはきわめて自然なことです。彼らの<死>は<天皇>と結びつかぬか ぎり、 実体をもちえません。<天皇>もまた、兵士の<死>と結びつかぬかぎり、実体をもちえません。両者がひとつに結びつくことによっ て、<天皇>と<死>とは、はじめて共に実体を獲得したのです。そうでないかぎり、しょせん、<死>は<いわ れのない死>にすぎず、<天皇>は<いわれのない神>にすぎません」

  仄かに薄暗くなってきた森林遊苑の林を抜けてふたたび第一の鳥居、あの巨大な「日本のはじまりで 新たな家 族のはじまりを」の看板が立つ養正殿前にもどってきた。すこしばかり疲れた足をひきずって駅までのささやかな商店街をあるく。昼だけの営業なのか、津田食 堂はすでにシャッターを下ろしていた。「橿原神宮の駅前商店街も、みんな車で来るようになったからすっかりさびれてしまって」と「おおくぼまちづくり館」 の男性は言っていた。駅前のロータリーの緑地にはやはり大きな立て看板が「令和二十二年は 紀元二千七百年を迎えます。 ようこそ、日本のはじまりへ」と 謳っている。作家の辺見庸は「過去は現在によって救われなくてはいけない」と記した。であるならば、百年のニセモノによって見事に積み上げられたこの国の 過去を救う現在など、どこにもありえないと言うほかはない。

※特に注記のない引用はすべてと高木博志「近代天皇制と古都」(岩波書店)より。

※以下、追記
偉 大なるFBより24時間制限を課せられていて、本日の21時30分頃に解除された。その間、投稿やコメント、「いいね!」も一切できなかった(メッセージ は使えたので、数人の親しい人に愚痴っていた)。対象は3月8日に投稿した橿原神宮「参拝」の記事で、これが「ヘイトスピーチ・侮辱に該当し、FBのコ ミュニティ規則に違反する」というものである。すでに3月2日、冗談のつもりで載せた東スポの紙面画像「マドンナ、痔だった」が「ポルノに該当する」とい う理由で削除及び警告を受けていたため、二度目は有無を言わさず制限ということなのだろう。すぐに異議申し立てを行ったが、マドンナの痔のときもそうだっ たが異議申し立ては「新型コロナの影響などで人手が足りないので必ずしも審査されるかどうかは分からない」ということだったので(マドンナの痔は審査され なかった)、FBのフィードバック(改善依頼)からも文句を二回ほど送ったところ、翌日に「審査をしたが、やはりヘイトであると判断された」と通知が来た ので、ついで案内のあった「専門家によって構成された外部の監査委員会」へ異議申し立てを行った。しかしこれも数週間かかる上に「委員会が審査委対象とし て選定するのはごく少数で、FBのポリシーを改善するのに役立つ異議申し立てに着目して選定している」と云う。結局のところ、投稿のどの部分のどんな表現 が違反なのか指摘もせずに違反だと一方的に告げて、FBの判断は間違うこともあるからフォローアップもありますと言いながら「やるかどうかは分からないけ どね」といったもので、ひとの投稿を勝手に削除しておいて馬鹿にしているとしか言いようがない。マドンナの痔と違って画像があほAIにひっかかったわけで もないだろうから、おそらく違反報告などでちくった奴が複数いたのだろう。そしてFB側はこの国の天皇制が抱えている問題点などという微妙なケースを判断 できる能力など鼻から持ち合わせていないのだろう。結局はこれがFBの限界である。便利なツールではあるが、いざとなればぷーちんロシアの情報統制と何ら 変わりはしない。最近はFBへの不信感から #deletefacebook のハッシュタグを付けて「Facebookを削除しよう」と呼びかける向きもあるらしいが、こういうものはやはり壊していった方がいいのかも知れない。少 なくとも理想的なツールではないということがよく分かったよ。
2022.3.8





 

 



 

 

 

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