033. 西門民江「峠の道 〜部落に生きて」を読んで百年の風景をさがしにゆく

背中からの未来

 

 

■033. 西門民江「峠の道 〜部落に生きて」を読んで百年の風景をさがしにゆく

 
  イベルメクチン効果で痛む胃をかかえた炬燵のなかで、西門民江「峠の道 〜部落に生きて」(草土文化)を読んだ。もともとは現在、県内の某同和地区で 1970年代に録音された「おばあ」たちの抵抗歌を収録したテープの所在を探している過程で、録音したのがどうも鈴木良氏(故人)という部落問題研究所理 事も兼ね ていた元立命館大学教授であるらしいと分かり、たまたま手元にあったその鈴木氏の著作をあらためて読み返していて、この著書のことを知ったのであった。西 門 民江さんは明治末に、わたしの住む大和郡山市内の某同和地区で生まれた。「峠の道」はその彼女の一代記である。そしてこの一冊には、じつにたくさんのこと が 詰まっている。

 ローカルなことでいえば、わたしにとってごく身近な場所の大正時代の風景が出てくる。小学4年生のときに部落差別によって学芸会に参加でき ず、練習 風景を窓ガラスに顔をこすりつけながら眺め、泣きながら渡った富雄橋の上から向こうの「どての上に棟長く建っている伝染病院」が見えた。また部落と一般集落の 境となるその橋のたもとには「よのみの木」という大きな樹が「天に向かって伸び、四方に翼をひろげ」、「長い長い間、苦しい部落の生活を見守ってきた」。 また病気になった母親の代わりに祖母と芋畑で汗を流しながら見下ろすと「瓦工場からたち昇る黒い煙のあいまから校舎の屋根が」見えた。そのどれも現在はな いが、瓦工場はたしかにその場所に工場の廃墟と煉瓦造りの高い煙突がつい数年前まで立っていたのをわたしは知っている。

 一方でもちろん被差別に関するとき にかなしく、ときにこころあたたまる描写も出てくる。耕す土地もなく産業からも排除されていた集落を支えた草履表の製造に関わる家内作業の風景。「窓一つ ない一間きりの」「腐った藁ぶきの屋根にペンペン草が長く伸びて」いた家で、ギーゴットン、ギーゴットンと草履表を薄く仕上げる道具が鳴り響く音。はじめ て郡山城跡へ家族でささやかな弁当をもって花見へ行った帰りに、民家の井戸水を借りて冷たい扱いを受けた記憶。目が悪いお父ったんと犬のジョンと三人で学 校へも行けずに草履表を駅(おそらく大和小泉)まで運んでいた同級生のおしずちゃんが病気で亡くなった日のこと。貧しさのなかで年頃の子どもたちが男女別 に共同生活をする宿元という制度のこと(東近江の同和地区にあった若屋制度に似ている)。実入りの少ない金魚の餌になるアカコを溜池ですくい取る仕事をし ていた「カガシのような、かわいそうなお父ったん」の姿。集落にトラホーム(眼病)対策のための洗顔所や無料の診療所が開設されて医療を受けられるよう になった日のこと。そして水平社運動の高まりと小作争議などのたたかい。

  そして奈良の片田舎の集落に生まれ育った本書の書き手は、差別に抗いながらも必死で成長していく途上で、じつにさまざまな歴史の教科書に出てくるような対 象とクロスし、貴重な証言を残してくれている。解放運動が高揚し組合が組織されるようになると共に、国家権力の監視がはじまり、追われた活動家たちが隠れ 処をもとめて同和地区へ流れ込んで来る。そんななかで、彼女の父と共に「弁士として同じ演だんに立って雄弁をふるってかんしゅうをわかせた」印象深い人物 として山本宣司の名が登場する。衆議院議員であり、生物学者でもあった山本は治安維持法にも反対し1929(昭4)年、右翼によって刺殺された。山本の死 を聞いた民江の父は「惜しい人を、立派な人を、とくりかえしながら、わが子を死なせた父親のように首をたれて泣いて」いたという。また17才になった民江 は父の紹介で大阪へ家事手伝いへ行くのだが、その家の主が当時、労働農民党の結成に加わった弁護士でもあった小岩井浄(きよし)であった。のちに天下茶屋 近くの喫茶店で女給として働いていた民江の店へ、この小岩井家に出入りしていた青年がかくまって欲しいと現れる場面もある。

 なかでもわ たしが思わずアッと声をあげたのは、両親の助力もあって1931(昭6)年に看護婦の資格をとった彼女が、たまたま大阪市内で見かけた「報国看護婦会」の 看板を見かけて働くようになったのが大阪市立桃山病院の分院津守病院だったことであった。わたしが以前に、1937(昭12)年に創立50周年の記念式典 と併せて建立された現在はマンションの谷間に残された「殉職者慰霊碑」を見に行った鶴橋近くの伝染病専門病院だ。西 門 民江はここでコレラやペスト、赤痢、腸チフスなどの病が流行するひと夏の期間だけ、一昼夜交代勤務の看護婦として働いた。碑面より一部を引く。「その当時 を回顧すれば、勤務者は悪戦苦闘に終始し、安らかなはなく、ことに、明治35年及び大正5年にコレラが大流行し、明治40年にペストが容赦なく荒れ狂い、 明治41年及び大正6年には天然痘が重ねて猛威を呈するに際しては、全職員が防疫療病に身を挺し全力で尽くしました。この様な凄惨を極め、勤務者の感染者 が360有余名を数え、院長1名、医長1名、医師4名、看護師23名、技能職6名の合計35名の殉職者を出すことになり、悲痛な思いは耐えれるものではな い。」  「「看護婦さん、また汚しました。ほんとうにすみません。許してください」 骨ばかりの肩を支えながら、コッテリ着いたおしりの便をていねいに ふいて寝巻きを着せかえ、新しいシーツの上に寝かせてあげる」  そんなふうに過酷な現場で働きながら、しかし彼女の描写はどことなく明るい。きっとここ では本籍地を問われることなく精一杯働けたからだろう。

  やがて中国で戦争がはじまり、古里では進歩的な活動家たちが「共産党のけんぎをかけられ、郡山署に連行」される。釈放の日には警察の門の前に村人たちが陣 取って、「フラフラとおぼつかない足どりで出てきた痛ましい闘士」を迎え、「おぼえてよえー、人殺し、けいさつの犬め」と叫んだ。結婚をし、子どもが生 れ、夫に赤紙がくる。6日目に奈良38連隊に入隊。「「天皇陛下のため、祖国日本のために、大和魂の本分をぞんぶんに発揮しほしい。あとのことは心配な く」 父の訓示は清水神社の森をふるわせ、部落日本人の若い血をたぎらせました」  肉弾三勇士の会話も出てくる。「「ちょっと、ちょっと。あれ、こっち (部落)の人やて。ばくだん抱いてな、敵の城へのりこんで、われもばくだんといっしょにこなごなにふっとんだんやて」  聞く者、語る者、みんな三勇士の 心を思いやって、ホロホロと涙を流していました。戦争はますますはげしくなるばかりで、肉弾三勇士のあとにつづく勇士がひっきりなしに村からでて行きまし た」 

 1944(昭19)年、民江は「村全体が力をあわせて建てた」無料診療所に看護婦として勤務する。この診療所はいまも「民主診療 所」として存続している。敗戦前には「カツギ屋」の仲間入りもする。一番列車で小泉駅からリアカーに積んだサツマイモを乗せて大阪の今宮まで売りに行く。 また三重県の尾鷲まで片道6時間、持っていった米を魚やイカと交換してもどってくる。「奈良にはばくだんめったに落とさへん」 誰が言うともなくそんな噂 が語られていた集落にも艦載機による機銃乱射があり、子どもが二人殺された。どこからか盲目の青年浮浪者がやってきて共同浴場の前で「父よあなたは強かっ た 兜もこがす炎熱に」と哀調を帯びた歌声を披露し、誘われてあちこちの家を泊まりあるき、またどこかへ去っていったこともあった。そして敗戦。1947 (昭22)年春にやっと便りが届いた夫の差し出し先は「伏見の陸軍病院」だった。おそらく現在の「独立行政法人 国立病院機構 京都医療センター」、当時は伏見区深草にあった陸軍衛戍病院であったかと思われる。「アメーバ赤痢にかかり、重度の栄養失調になった夫は全身浮腫。目もふ さがり、みる目も痛ましい姿に変わり果てていました」  ぶとう糖の注射液と注射器を持って奈良から日参で看護し、「下駄がはけるように足の浮腫も」引い た夫を家にひきとった。

 戦後に軍から流れて蔓延したヒロポンの話も登場する。「どこからどうしてはいってきたのか、私の村にもヒロポン という麻薬が流れ、ヒロポンのとりことなって身をほろぼす若者が日に日にふえてきました。子どものヒロポン代にせびられて、おかゆもすすれなくなった親一 人子一人のあわれな母親は、ある朝、かまどの前で首をくくって自分の命をたちました。この悲劇が起きてから、まるで伝染病のように同じ悲劇が流行していき ました。国自体が病んで、政治の手は伸びはしません。まして部落のなかのできごとなどはみてみぬふりで、政治はソッポをむいていました。こんな社会のなか で、必死に守りとおした私の子どもたちもどうやら成長して、一番上の娘は中学生となり、次の娘は小学四年生、長男は一年生に、それぞれ学業にはげむ年頃に なっていました」  二番目の娘がやがて高校を卒業し、就職先の役所で「一般の人」との恋に悩む。母の民江は娘の日記帳に記された「四本指」の文字を見つ ける。そして1964(昭39)年春、「部落民と一般のあまり例のないカップルができあがりました」  夫となった男性の両親は息子を勘当し、結婚式は新 婦側だけの出席だった。のちに子どもが生まれると夫の両親は多少態度を軟化させたが、それでもしばらくは家に出入りを許したのは息子と孫だけ、しかも夜間 限定であった。二人の結婚から13年の年月が流れ、夫の父親は親類縁者の断交が続いていることを打ち明け、民江にこう伝える。「古い親せきより新しい親せ きの方が大事だとわしは思うてます。この家を建てる時も、親類からはただ一人の手つだいにもきてくれしまへんけど、わしはきてほしいとも思いまへん。その かわり、わしもなにごとがあっても行きまへん。今はもうこれでよかったと思うとります」

 二百二十頁ほどのちいさな一冊に、奈良の被差別 部落で生まれ育った一人の女性のささやかな一代記に、ほんとうにたくさんのものが詰まっている。この本のおかげでわたしはこの国の百年、歴史の教科書や記 録からはこぼれ落ちてしまった、けれどもしっかりと歴史の実時間に根をおろしていまも豊かな地下水を吸い上げてゆるぎない百年をわが身のように体験するこ とができる。著者の西門民江さんは1988(昭63)年に78才で亡くなった。近いうちにきっと彼女の墓前の前で、この気持ちをつたえたいと思う。そして 彼女のあるいた道をあるいてみたい。

◆宇治山宣会
https://ha2.seikyou.ne.jp/home/yamashiro/yamasen/

◆桃山病院と殉職者慰霊碑
https://blog.goo.ne.jp/fureailand/e/96d99166f61cec9fb6380cd8ec8e038a?fbclid=IwAR0tVxieDEFa0diigd_aQjEQ34ZHvjzP6C1xoGt_LFtMpp3ez4PqFTTfwC4

◆京都伏見の戦跡散策
https://senseki-kikou.net/?p=1138&fbclid=IwAR3WsVlM9BhJRN6JmWXIn0QlEfjyYRB9-1tSHebQ6c9267IgOV-TSZb5sx0
2022.2.7

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  午前中は昨日半額で買ったウィンナーでたっぷりのポトフをつくって、昼から自転車で「峠の道」の著者、西門民江さんが暮らした村を訊ねた。学校が好きな彼 女が通った片桐小学校。昭和45年の道路拡張で護岸工事が施された道向かいの九頭上池。彼女が通った頃はもっと自然の鄙びた風情だったろう。道はじきに富 雄川に架かる富雄橋へと出る。この橋の東側に、母の病気のために学校を休んでいたときに高台の自宅から見下ろした学校との間にそびえていた煉瓦造りの煙突 の描写がある瓦工場があったが、数年前にその廃墟が解体されて土が盛られ、いまは広い駐車場を持つコンビニができている。橋の西側にはさびれた堂宇の不動 院と、隣接する敷地に西南戦争から太平洋戦争までの多くの名を刻んだ戦没者慰霊碑が三種類建っている。「峠の道」はこの西側に、部落の人々が「よのみの 木」と呼んでいた「一本の大きな木が天にむかって伸び、四方に翼をひろげて」いたと記す。ちょうど不動院の松の木を剪定している老夫婦がいたのでおばあさ んの方に訊いてみると、大きなクスノキがちょうどこのあたり(と、不動院の入口の角を指して)にあったが、昭和40年代の道路の拡張工事の際に邪魔になる からと切られてしまった、とおしえてくれた。「この木は部落と一般の境いにあって、区別をつける境界線の役目を果たしていました。よのみの木から北は部 落、南は一般と、だれが見てもそれと一目でわかる一本の道路がとおっていました」  現在「奈良大和郡山斑鳩線」とよばれる道は、おばあさんの話ではかつ て田圃の畦道のような地道で「リヤカー道」と言われていたという。「北に通じる部落の道は細くて、こうばいのきついゴロゴロ道で、息の切れる急な坂があ り、この坂を登りつめて北の方を眺めると、ずうっと低いところに私たちの住んでいる村がみえます」  ふと思いつき近くのスーパーで仏花を一束求めてか ら、借景の庭園で有名な慈光院を回り込むようなその坂道を自転車でのぼっていく。集落の中心手前から左へ折れて、背中のリュックに入れた花が気がかりだっ たので先に村の共同墓地へ向かった。1988(昭63)年に亡くなられた西門民江さんの墓、1969(昭44)年、1972(昭47)年に亡くなった彼女 の両親の墓、そして1944(昭19)年の艦載機による機銃掃射で亡くなった民江さんの子どもの同級生、当時小学3年生だった少女(苗字は分かっている) の墓も見つけられたらと思っていた。それほど広い墓地ではないのだが、正面が戒名だけの竿石も多く、密集した墓のあいだを長いこと目を凝らしてあるきま わった。やっと見つけた「西門タミエ」の名は、彼女が夫と共に建立したおそらく夫の両親たちの墓だった。西門の名はそれ以外には見当たらない。じぶんたち の名は刻まずに、おなじ墓に入ったか。あるいは真宗本願寺派のわたしのつれあいの両親のように「本願寺さん」の納骨スペースを利用して墓を成さなかった か。村で熱心な活動家だった父親とその妻の墓も見つけられなかった。仕方がないのでその「西門タミエ」さんが建てた墓を代表として、持ってきた仏花を供え て、水場で汲んできた水を竿石にかけてお参りをした。貴重な記録を残してくれてありがとうございますとお礼を言ったのだ。水場の裏には十を超える骨壺が叢 に棄てられていた。なかには壺の蓋が開いて雨水がたまっているものもあった。村の中央にある清水神社に移動した。祀神は番能邇邇芸命(ホノニニギノミコ ト)。創建は1876(明9)年で、「当村に神社が無かったから創建された」と伝わるという話もある。「「天皇陛下のため、祖国日本のため、大和魂の本分 をぞんぶんに発揮してほしい。あとのことは心配なく」 父の訓示は清水神社の森をふるわせ、部落日本人の若い血をたぎらせました。(中略) 日の丸の小旗 を手に手にもってうちふるなかを、この歌に送られて勇士はいさましく村をあとにしました」  斜面に建てられたような神社のぐるりを囲む玉垣に刻まれた寄 進者の名前を見ていくと、民江さんの夫(西門増吉)のものと、それから彼女の両親(松本米三・コイノ)が仲良く並んだ玉垣を見つけた。墓は見つけられな かったが、ここにその生きた証があった。「苦しい生活のなかで、長い間運動や村政に頭を使ってきた父は、六十歳なかばになると急に体力の衰えがめだちはじ め、老人ぼけの徴候があらわれてきて、もうすでに人手にわたっている田んぼに、日に三回も四回も鍬をかついでフラフラと見張りに行く、あわれな父になって しまいました」  やがて「八十歳をすぎるとすっかりこうこつの人となり、この世のことはなんにもわからなくなって」しまった父の頭から最後まで消えな かった炎。「それは昔、解放運動や農民運動に参加して、宇治の山本宣治様たちとともに演だんにたって、火のでるような熱弁をふるっていた時の記憶なので しょう。うす暗い四畳半の部屋が父にあてられた部屋で、空っぽになった頭をかかえて寝起きするようになった父は、毎朝九時をすぎるときまって東のほうに正 座して、なにやらしゃべりだしました。なにをいっているのか意味はわかりません。しばらくすると「私は松本米三、当年とって十六歳」 これだけははっきり と聞きとれました。(中略) なぜ十六歳がでてくるのか。それは私の子どもや孫が差別の壁にぶつかる時が同じ年頃、父も十六歳の頃、部落の悲しさを知った のではないかと私には思えてならないのです。父は解放の日を見ることもなく、思いを残してこの世を去りました。めくら縞のきものをきた父の方の肉は落ち て、小さくなった後姿に、そしてわけのわからぬ演説を聞くたびに、母と私はいくども涙を流したものでした」  その松本米三の名が刻まれた玉垣をわたしは 見る。そろそろ夕方になってきて、最後に民江さんが敗戦直前から看護婦として働きはじめた村の無料診療所、現在の片桐民主診療所に寄って帰ることにした。 清水神社からほとんどペダルをこぐこともなくゆるやかな坂をくだっていけばじきだ。二階建ての立派な建物はおそらく当時のものではないだろう。どこかにむ かしの名残りはないかとぐるりを回ってみたけれど何も見つけられなかった。記憶というものは個人にのみ宿るのだろうかと思うのだ。きっと、そうではないだ ろう。個人の記憶など、言ってみればたかが知れている。必死で生きた者の記憶は土地や建物や樹木などの植物にも宿るのではないか。求めている者がその場所に立つと、記憶が 流れ込んで来る。そういう記憶のことをわたしは最近、よく考えたりする。さっき、風呂のなかで読んだ「火星の青い花」で日野啓三は、「私と基本的に同じ脳 の構造と脳神経細胞の回路をそなえた人間」が50年後百年後にかれの夢見る火星に降り立って「岩の破片だらけの鉱物的風景の荒々しさ」を愛でるとしたら 「それは私でない私だ」と記していたその日が来ることをわたしは確信している、と。。そのような記憶。もう道はひろく拡張されたのっぺらぼうのような味気ないバイパスに変わってしまった。その道を川の 流れのように自転車でくだっていく。

※引用はすべて「峠の道 部落に生きて」(西門民江・草土文化)
2022.2.12






 

 



 

 

 

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