031. チッソの町 滋賀県守山市で相思社・永野三智さんの講演を聞く

背中からの未来

 

 

■031. チッソの町 滋賀県守山市で相思社・永野三智さんの講演を聞く

 
  浮かんできたのは「棄民」という言葉だ。一般財団法人水俣病センター相思社の永野三智さんの講演を滋賀の守山市で聴いた。守山市には水俣病の原因企業であ るチッソ(現JNC)の守山工場をはじめとした関連企業がある。この講演会の実現に至る経緯が面白い。永野さんが水俣病に関する講演会をチッソの工場があ る守山市で開催したいと思い、彼女の相思社での活動をまとめた著書「みな、やっとの思いで坂をのぼる」を出版した「ころから」のKさんに相談した。Kさん はその段取りを同郷の同級生である近江八幡に住む画家の福山さんに振った。福山さんは忠実な営業マンよろしく会場のセッティングから人集めまで駆けずり 回ったわけだが、会場となった守山市の図書館で偶然見つけたのがチッソ守山工場で労働運動を立ち上げた細谷卓爾さんを描いた「細谷卓爾の軌跡 〜水俣から琵琶湖へ」(関根 英爾・サンライズ出版)であった。水俣病の問題を知った細谷は「労働者を生きた人間としてみないで、資本制生産の歯車としてみるならば、公害は資本家のせ いで労働者のせいではないといえるかもしれない。しかし、労働者が生きた人間として自分をとらえれば、たちまち住民に対して加害者となっている自分自身が 浮かび上がってくるのである。労働者は企業の従属物としての自己を独立した人間に変革することなしに、自らを加害者としてとらえることはできず、逆にま た、加害者として自分をとらえることができない限り、労働者は企業の従属物にすぎず、人間として自己を解放することはできない」と記し、「今まで水俣病と 斗い得なかったことは、正に人間として、労働者として恥ずかしいことである」とする「恥宣言」をチッソ第一組合の大会で宣言した。この細谷さんの本を福山 さんが永野さんへつたえ、永野さんは草津に住む細谷さんへ会いに行き、講演の題も「水俣から琵琶湖へ」となったのである。人は人をつないでいく。福山さん の縁でわたしも些少ながら当日は会場の設営・片づけを手伝い、入場時には受付で相思社の機関誌「ごんずい」や琵琶湖の「せっけん運動」を引き継ぐ「特定非 営利活動法人 碧いびわ湖」の会報などを配布した。再版されたユージーン・スミスの写真集MINAMATAを9月に購入したときにいっしょに送られてきた 「ごんずい」を、こんどはじぶん自身が配っているというめぐり合わせが面白い。「ころから」のKさんと永野さんの対談というかたちで行われた講演会から受 け取ったものは限りないが、やはりいちばん衝撃的だったのは、水俣病の問題は現在も終わっておらず、しかも忘れ去られようとしていることであった。水俣の なかで水俣病がタブーとなっていく。水俣の支配企業であるチッソは企業寄りの市長を擁し、水俣市のホームページから「水俣病」が消えていく。水俣には映画 館がない。車で百キロ走らなければ映画館がないそうだ。ジョニー・デップが主演した映画「ミナマタ」の上映会が現地でおこなわれたとき、市から横やりが入 り、市長から「忘れてしまいたい人たちもいる」と言われたそうだ。そのことによって永野さんはより一層、水俣病を記憶する「場」が必要なことを思い知らさ れた、と語った。水俣のなかにあって、水俣病を繰り返さない、水俣病を忘れないために、考えつづけていく永野さんたちのような場所がせばめられていく。存 在が認められない。講演会の後で夕食&慰労会が持たれたのだが、そこで聞いた話でいちばん面白かったのは「ころから」のKさんの奥さんが言われた、水俣病 があるからチッソは水俣を離れない、というものだった。どういうことか。チッソが水俣を離れれば、チッソに対する批判が噴き出す。だからこそチッソは水俣 に居座り続け、水俣病の患者の子どもが就職適齢期になると積極的にリクルートをかけ取り込んでいく。水俣駅の改札を抜ければ目の前に広大なチッソの敷地が 広がっている。いまも水俣に暮らす人々にとってチッソとその関連企業に就職することは憧れなのだ。水俣病の認定申請を行った人は9万人を超えるという。だ がそのなかで認定された人はわずか2千人にすぎない。日本各地へ散らばった水俣病に苦しむ人々のなかには申請を行わない人たちもいる。「おれたちは水俣の 魚を(行商で)売った側だから、申請を出すわけにはいかない」と、ある東海地方に住む患者は永野さんに語ったそうだ。そうして水俣病は水俣のなかにあって さえ、消えていく。人々も口をつぐむ。外国人が制作した映画「ミナマタ」にも背を向ける。2018年には水俣病犠牲者の慰霊式でチッソの社長が「異論はあ るかもしれないが、私としては救済は終わっている」と発言した。いまも海底に水銀他の有毒物質を湛えた湾は埋め立てられてエコパーク水俣という憩いの公園 となり、海岸には「恋人の聖地 恋路島を望む親水公園」が出来ている。まるで「多様な生き物の憩いの場」を謳い、釣り人やジョギングなど多くの人々で賑わ うかつての谷中村を抹殺した渡良瀬遊水地のようだ。足尾銅山鉱毒事件、水俣病、そして原発事故。終わっていないものが終わったとされ、なし崩しに消去され ていく。数年来、わたしが調べ続けている近所の紡績工場の名もない女工たちもそうだ。明治期の華やかな近代産業のもとで歯車のように悲鳴をあげながら使い 捨てられ消えていった彼女たちを思い出す者は、この国にはもうだれもいない。戦争で不条理な死を強要された兵士たち、アジアの各地でこの国が残した深い傷 跡、従軍慰安婦、徴用工、在日朝鮮人、なべておなじだ。すべてなかったことにされて、暗渠に捨てられる。この国は棄民の国なのだ。それはいまもつづいてい る。そしてこれからもつづくだろう。永野さんが講演のなかで言ったいちばん忘れられない言葉。「当事者でない人が動くことによって、水俣病が思い出され る。当事者でない者だからこそ、できることがある」  棄民の国でみずからを棄民として語れ。
2021.12.12







 

 



 

 

 

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