029. 奈良・天理の白川ダムに朝鮮人労働者の姿を追う

背中からの未来

 

 

■029. 奈良・天理の白川ダムに朝鮮人労働者の姿を追う

 
  名阪国道・天理インターの北東に位置する白川ダムは堤高30m、堤体長516m、総貯水容量1,560,000立法mは25mプールにすればおよそ5千杯 分の水となる。広々とした風景のなかに多目的のグラウンドや公園設備も併設され、釣り人も多く、ダムのぐるりをウォーキングやランニングする人もよく見か ける。このあたり古代は和爾氏の勢力範囲で、周辺には和邇下神社にはじまり櫟本高塚遺跡、東大寺山古墳、赤土山古墳などがならび、ダムによっていくつかの 遺跡が破壊・水没した。平成になってあらたに洪水調整のために堤体を嵩上げして改築しているが、元の白川溜池の築造がはじまったのは1926(昭和1)年 11月である。もともと降水量の少ない奈良盆地に於ては近世及び明治期に条里地割に規制された底の浅い「皿池」が数多くつくられていたが(伊藤寿和「奈良 盆地における灌漑用溜池の築造年代と築造主体」)、1924(大正13)年の旱魃が契機となり、「櫟本町及治道村面積約511町歩ノ被害ヲ救済スル為、一 大貯水池ヲ築造ス議」が起った。この白川溜池の築造史を、川瀬俊治「もうひとつの現代史序説 朝鮮人労働者と「大日本帝国」」(以下、注記のない無い引用 はすべて)などをテキストとして読み解いていくと、この国の忘れ去られたもうひとつの歴史が見えてくる。

 川瀬によれば、「一大貯水池」 の築造は当時の小作争議対策もあったという。1873(明治6)年に明治政府が定めた地租改正による高率な税収は富国強兵を推し進める後発資本主義国・日 本の国家財政の主たる柱であり、農家の多大な犠牲の上に成り立っていた。小作争議が多発し、1877(明治10)年に政府は地租率を3/100から 2.5/100に減ずる詔書を発して抗議を回避しようとしたが、「やがては「小作争議調停法」の制定などにより国権による小作争議の取り締まり、つまり地 主と国家権力とぼ結合がはかられることに」なった。白川溜池築造の4年前、社会運動の高揚が見られた1922(大正11)年は小作側の攻勢のピークであっ た。7月に日本共産党が創立され、東京や関西で朝鮮人労働協会が結成、ソウルでも朝鮮労働連盟会が結成され日朝労働者の共同前線が謳われた。また同年は全 国水平社が創立された年でもある。このような時代のなかで「地主側は旱魃に対処できる水源を確保し安定した収穫をえることが必要だった」。そして白川溜池 の築造がはじまる1926(昭和1)年頃は小作人側が守勢に回ることになったターニングポイントであった、と川瀬は言う。1925(大正14)年の「治安 維持法」施行などによる国家権力の弾圧がはじまり、地主側がこうした権力を背景にして法廷戦に入り、農民組合運動も分裂を強いられたからである。やがて 1937(昭和12)年以降は、「日中戦争に突入し、地主も小作人も挙国一致体制のもと」戦争へと突き進んでいく。

 時代をすこしだけ遡 ろう。1910(明治43)年は朝鮮併合である。その翌年の1911(明治44)年は大逆事件のでっち上げによって幸徳秋水、大石誠之助ら11名が死刑に されている。「併合」に於ける日本の金融・財政、鉄道、土地支配によって暮らしを奪われた朝鮮半島の人々が生きるために日本国内へと流れてくる。内務省警 保局「社会運動の状況」によれば1910(明治43)年には全国で2,246人しかいなかった在日朝鮮人は1920年代頃から増えはじめ、白川溜池築造の 1926(昭和1)年には148,011人となっている(奈良県内は1,479人)。多くは貧しい小作農たちであったから、「朝鮮人の(日本での)就労は 「低賃金」「長時間労働」「日本人の最も嫌がる仕事」という条件にもかかわらず、己れの労働力を売るという最も追いつめられたかたちで臨時雇い的な仕事」 とならざるを得なかった。現代のこの国の非正規労働者の担う雇用の調整弁ともいえるかも知れない。その底辺就労のなかでも当時の在日朝鮮人の人々が担って きた代表的な現場は土木工事、とくにダム、鉄道(トンネル)、溜池工事であった。大正から昭和初期の古い新聞紙面をめくると、ほぼ毎月のようにそうした土 木工事での事故が報じられていて、そこで死亡したり重傷になっているのはほとんどが朝鮮人である。奈良県内の主だった現場でいえば、山間部での電力会社の 工事(吉野町・下北山村)、大軌(現在の近鉄)による生駒沿線の宅地開発と奈良=大阪間の生駒トンネル工事、亀ノ瀬の地滑りによる大和側復旧工事などがあ り、そのどれも多数の朝鮮人死者が出ている。

 これら「産業予備軍的な雇用調整をまともに受ける朝鮮人労働者」は小作争議対策にも雇われ た。たとえば先の旱魃被害の救済として名が上がっている治道村(現大和郡山市)ではまさに1924(大正13)年の旱魃を背景に小作争議が起こり、最終的 に地主側は80余人の小作人に代わって朝鮮人労働者を使って収穫作業に入ったため、小作人側は従来通りの条件を泣く泣く呑んでいる。白川溜池では当初地元 の連合会が「人夫ノ徴傭ニハ出来得ル限リ灌漑区域農民中ヨリ採用スベキ方針」(白川溜池耕地整理組合連合会「白川溜池築造史」)として、1927(昭和 2)年1月に応募した朝鮮人労働者15人に対して関係町村でないと雇用を拒否したものの、その後「所要ノ人夫徴達困難ナル事情アリ」という事態に直面し、 朝鮮人人夫50名を常雇いすることで解決を図った。森元文子「1920年代における地主小作関係の一考察 奈良県旧添上郡治道村の事例」は、「農民救済と いう名目で人夫1円30銭という、当時の奈良県平均賃金より二割低い賃金で徴用された小作人たち」から改善要求や何らかの反抗的姿勢があったためではない かと推測し、最終的に「このような朝鮮人人夫の雇入れは、小作争議における地主側の対応策と同じであるということに注目しておきたい」と記している。

  そうして進められた白川溜池の築造工事は1933(昭和8)年に完成する。ちなみに大阪の和泉市にある光明池の築造工事は白川溜池が完成する2年前の 1931(昭和6)年よりはじまった(1936(昭和11)年に完成)。この広大な人工池も現在は雑木林に囲まれた風光明媚な散策路として人々の憩いの場 所になっているが、「和泉市における在日朝鮮人の歴史を知る会」の調査などによって工事中、トロッコに撥ねられたり、山を崩す発破作業で暴発したり土砂の 下敷きになったりして少なくない朝鮮人労働者が亡くなっていることが分かって来た。現在、池の西側に慰霊碑がひっそりと建っているが、白川溜池ではそうし た事故はなかったのだろうかと、わたしは不審に思っている。現在の白川ダムにはダム管理センターのさらに奥に位置する連合会事務所の敷地内に溜池築造を顕 彰する祈念碑が建っているが、慰霊碑の類はどこにもない。そして前掲の208頁にわたる立派な装丁の「白川溜池築造史」や、「ふるさとの水がめ白川溜池  通水50周年記念誌」の小冊子なども図書館で見つけてすべて目を通したが、地元の人々も加わり、賃金等の労働条件も改善され、みんなで誇らしく作業に従事 した等々の記述はあるものの、大勢が従事した在日朝鮮人の労働者のことは一文字も書かれていない。「白川溜池築造史」の装丁が立派であればあるほど、その 沈黙は冷酷に思える。

 一人で、ときには飼犬を連れて、池のぐるりをあるく。ゆっくりと一周して40分くらいだろうか。いまごろの季節は 池のはたに堆積した落葉の色彩が美しい。空が広く、空気が澄んでいて、まわりの樹木の呼吸さえ見えるようだ。けれども90年ほど前にここで、日本の侵略に よって古里を追われ生きるために流れ着いた異郷の地で過酷な条件のもと、汗水を流しあるいは命さえ落としたかも知れない人々がいた。かれらがここをつくっ た、日本中のあちこちで。溜池を、ダムを、鉄道のトンネルを、国道を、水力発電所を、山を崩した宅地を。そのことを記憶するかどうかは、わたしたちひとり ひとりの手の内にある。わたしは、忘れない。
2021.11.13






 

 



 

 

 

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