028. 和歌山・北山村に海軍コバルト鉱山跡と朝鮮人労働者の姿を追う

背中からの未来

 

 

■028. 和歌山・北山村に海軍コバルト鉱山跡と朝鮮人労働者の姿を追う

 
 北山村史によると、山深い北山村には「相当古い時代から多くの木地師が住みついた」という。山 窩、木地師、炭焼き、竹細工、蓑直し、山から山へと移り住む一所不在のかれら山民はアンチ平地人の憧憬である。北山村史4章5節「木地師の里」に村内の木 地師の遺跡を落とした地図がある。そのほとんどは人が容易に立ち入り難い深山の谷間で、そこに住居の痕跡や、焼畑農耕の跡、墓石などが残されていると伝え る。いまではもう獣の他は参ることのないその墓石を訪ねたいと思って、山岳地図をひらいてみた。幸い大峰奥駆道の南端といえる北山村周辺は「玉置山・瀞八 丁」(昭文社)にかろうじて含まれる。

  わたしもかつて縦走したことがある弥山(1895m)、八経ヶ岳(1915m)、釈迦ヶ岳(1799m)などの重畳たる峰々を経て、地蔵岳(1462m) から笠捨山(1076m)まで下りくれば、やがて北山村内の谷筋に至る。169号線から出合川を遡上すれば蛇崩山(1172m)と笠捨山に抱かれるような 源流に元禄6年の墓石が残るという八丁河原である。「ここは、北に笠捨山、東に茶臼山、南に蛇崩(だぐえ)など千二、三百メートルの高峰が三方を囲み、さ らに出合川は、西の峯と蛇 崩の山間を蛇行南流して、人も通れぬ嶮しい渓谷となっている」(北山村史)。またおなじ169号線から四ノ川を遡上すれば、やはり峰々に閉ざされた渓流の 奥に、元禄・享保などの氏子駆帳に「紀州室郡四ノ川山」と記された多数の木地屋が生活していた痕跡を残す細谷へ至る。

 惟喬(これたか)親王を祖とする由 緒書を持つ木地師には四つの戒律があったという。「一、木地師は尊い身分であるから他の職業に転業してはならない。 二、この戒律を守るため他の業種の者 と婚姻してはならない。 三、一定の場所に長く停留してはならない。 四、家は掘立小屋とし、礎石、台木の類は使用しない」 人跡絶えた深山で木を伐り、 轆轤を回し、つくった椀を里で売り、山の木が減れば他の山へと移っていく。墓はいわばもどることのない捨て墓である。

 FBで知り合った地元の平野さんから、出 合川にいまも残る渓流沿いの小路は朝鮮人の徴用工を使ってできたもので、トロッコの軌道跡もあるとある日、おしえられた。竹内康人氏がまとめた「戦時朝鮮 人強制労働調査資料集」(神戸学生青年センター出版部)を見ると、これまで見過ごしていたが「大勝鉱山」の名が北山村付近の地図上にぽつんと落ちている。 これは四ノ川の方で、Webで検索をするといまでも坑道内で採取した鉱石(コバルト華)がネット・オークションなどで取引されているらしい。拡大鏡を手に山岳地図をたどれば、たしかに四ノ川沿いに「コバルト廃坑」「銅廃坑」の記載がある。「戦 時朝鮮人強制労働調査資料集」の「勝山鉱山」の参考文献として「百萬人の身世打鈴 : 朝鮮人強制連行・強制労働の「恨」」(東方出版)があげられていた。手元にあって、まだ拾い読み程度しかしていなかった、たくさんの強制連行された朝鮮人 の人々の証言が盛り込まれた大部(650頁)の本だ。

 丹念にページをめくっていくと、該当者が二人ほどいた。金文善(キム・ムンソン・1926年生まれ・忠清北道出身)の部分を長いがそのまま引用する。前後の文脈から1944(昭和19)年頃のことと思われる。

 ・・ 父はわたしを捜しに大阪方面に出立していました。隣の山さんはわたしにここで働きながら待つように忠告しました。もっともなことと、わたしは父の友人が いる鉱山で働くことにしました。そこは和歌山県にある鉱山で、500メートル程の隣村が奈良県になり、北山川を挟んで三重県になる山奥の、そのまた山奥に ありました。5月の終わり頃でしたが、午前に出発した木炭バスを終点で降り、そこから北山村にたどり着いたとき、日はとっぷりと暮れ、夕闇が迫っていまし た。鉱山事務所を訪ねて、働く意思を伝えると、すぐに了承してくれました。

  その鉱山は大勝コバルト鉱山(注――この鉱山は確認できない)と呼ばれ、海軍省の管理鉱山でした。コバルトは日本では産出されていなかった貴重な鉱物で、 戦時中ここが唯一発見された鉱山でした。コバルトが海軍の高度な兵器生産に欠かせない希少金属だからこそ、海軍省は狂喜して多大な期待を寄せていたのです が、それにしては施設があまりにもお粗末でした。鉱石運搬はリヤカーだし、杣道、吊り橋もそのままで、とても大量生産に対応できるとは思えませんでした。 わたしが入坑した頃は食料を含め、配給物資は潤沢でした。何しろ飯場では、一人に対して5,6人分の配給登録をしていたのです。だから、一人の配給米を二 合とすれば、一升になる。いくらなんでも一日一升飯は食えません。あまった分は各自の飯場でドブロクにしました。この幽霊登録を後に鉱山長が独占したた め、鉱山長糾弾のストライキが敢行されました。

  わたしが手首をなくしたのは、1944年の盛夏、7月20日のことです。作業は山道拡幅工事でした。先輩二人とわたしの三人の仕事で、わたしはまだ発破に 慣れていませんでした。三発仕掛けた発破は二発が鳴り、残りの一発が鳴りません。先輩二人はのんびりと構え、座り込んでダベッてました。

 経験豊かな先輩は三発目は、導火線の具合で即発しないけれど、今少しすれば発破するか、あるいは不発になるか、時間を計っていたのです。慣れないわたしはそれとは知らず様子を見に行き、不発のダイナマイトを手にして、目を近づけたその瞬間、爆発。

  見えない目であたりを見ると、血のように真っ赤に見える。近視の眼鏡が飛び散り、目がやられていたのです。左手が激しく震えているのに気づきました。手首 がないのです。途端に全身の力が抜けてその場に座り込みました。二人の先輩はすぐ異変に気づいたのですが、動転してなすすべを知らない。そのとき手ぬぐい がわたしの首にぶら下がっていたので、それで腕を縛るように頼みました。本能的に出血死を怖れたのです。

  現場から村まで5キロ程ありました。二人はわたしを中に両手を肩にかけさせて山道を降りはじめました。二人は親方とその子方で、わたしが未成年だったため に、事故の責任はその二人にかかります。村に降りる途中、その親方は、「おまえの面倒は一生見るから、おれの名前は絶対に口外しないでくれ」と哀願しまし た。子方は親方の責任を被って、その日のうちに姿をくらましてしまいました。

  ようやく村に着いたところ、村医者の所在が分からず、鉱山事務所からせしめた酒を駐在と飲んでいるところを捕まえて、応急の手術になりました。翌朝、出発 前に麻酔を打たれ、十時間かけて新宮に出ました。入院先は専門違いの産婦人科病院でした。この病院長が鉱山の株主で、警察への事故報告をなしにするためで した。村の駐在も本署に報告しませんでした。わたしの労働災害は闇から闇に葬られたのです。

  入院すると、院長は左の上膊部から切断するというので、わたしは断固拒否しました。この拒否のお陰で後年大いに助かったのです。東京山谷の日雇い仕事のと き、セメントの手練りや片付けの仕事になくてはならぬ腕となりました。とかく、ヤブ医者程切りたがるものです。十日程は苦痛の連続でした。幸いだったのは 眼鏡のレンズの破片が、目に入っていないことでした。

 もう一人は金圭洙(キムギュズ・1924年生まれ・慶尚南道釜山市出身)。こちらは部分抜粋で、これも1944(昭和19)年頃のことと思われる。

  親父は時分の知っている北山村というところに石原という人がいて、その人が東牟婁郡北山村で飯場を持っているから、そこへ行けというのです。北山村は三重 県と奈良県と和歌山県の県境にあるんです。その奥にコバルトを掘る鉱山(注――住友宝鉱山)があったんです。そこは海軍省指定の鉱山ですから、「そこへ入 れば、徴用も学徒動員もないんだから、そこへ行け」と、勧められたんです。
 それで二十歳のときに、そこへ行ったってわけですヨ。そこには飯場が十何ヵ所もあるんです。でも、そこにいた人はほとんどが朝鮮人でした。徴用とか、募集とか、いろいろの人たちでした。ところが監督する人々、つまり要所々々を締める人たちは皆日本人ですよ。
  わたしは旧制中学校を出ているし、石原さんの紹介ということもあるので、一つの飯場の責任を持つ役割、つまり主任じゃないけど、主任みたいな立場で働くよ うになったんです。わたしの下には三人の女性事務員がいました。ですから、強制連行された人々よりも少々身分が高かったんです。わたしは「天皇の赤子な り」という、コチコチに凝り固まった人間になっていったんですね

 この金 圭洙氏は鉱山の現場で、徴用工向けの物資を割り当てる「産業報国会」が新宮で配給品をピンハネしているようだという話に頭にきて、朝鮮人全員によるストラ イキを盾に鉱山長と直談判したことによって後日に、亡くなった父親の仏壇を買いに行った勝浦の旅館から警察に連行され、三日目に新宮署へ移送された。

   ・・父の死後、生活をどうするか。わたしの飯場近くに引っ越すことから考えました。母親と二人の妹の四人で、北山村の近くにある大沼の町役場へ行き、交 渉して北山村近くの下笈村に一軒家を借りました。そこに三人を住まわせて、わたし自身はまた北山のコバルト鉱山現場へ帰ったのでした。

 ・・わたしは毎日拷問にかけられました。その理由はコバルト鉱山で事件の首謀者だと見なされたわけなんです。「他にも首謀者がいるだろう?」 「それは誰だ?」というわけです。「一緒にはかりごとをしたメンバーの名前を全部言え!」
 それが1945年8月2日だったんです。わたしは誰一人の名前も出さなかった ・・・ところが、真夜中に叩き起こされて、竹刀でバンバン殴られるんですよ。8月2日まで十日間も殴りつけられたんですね。
 おれは天皇陛下の赤子として働きその命令に従って来たのに、このおれをこんなにまで無茶苦茶にするのか、よし、分かった。と、そのとき初めて日本のことがよく認識できたんです。
 ソ連が参戦したのはその頃でしたかね。特高警察の人が教えてくれたんです、「ロシアが参戦した」って。そして、「おまえはこんなところでボソボソしてたらあかん。ここを出ろ!」と、釈放してくれたんです。それは8月14日のことでした。
 私は下笈村の母の家へ帰ったんです。そしたら村人たちは「ここは国賊の家や」といって、うちは村八分にされてね。妹らがワンワン泣くんですね。その時初めて「おれの人生って、一体なんだったんだろう」と思い、「やはり宋君の言ったことが正しかったな」と確信したんです。
  その翌日、つまり8月15日に召集令状が来ました。「新潟の何部隊に8月16日に入隊しろ」というものでした。わたしは「計られたな」と、直感しました。 ほんで8月15日に新潟に行く準備をしているとき、ラジオで重要な発表があるというんですね。 ・・・ところが山奥のラジオはガアガアいうだけで、天皇が 何をしゃべっているか全然聞き取れないんですよ。でも、戦争が終わったということは分かったんです。
 それでここにいたら日本人に何をされるか分かんあいと、一刻も早く荷物を包んで逃げようと、一家全員で山を下りたんです。それで勝浦へ行きました。叔父さんは一人して下関へ行き、祖国に向かいました。下関は祖国へ帰る人々でごった返していたそうです。
 ちょうどそんな頃、宋君から連絡が入りました。「今、下関に来るなよ、しばらく和歌山で待っておれ」とね。それで和歌山におることにしたんです。そのまま和歌山にずっとおるんです。(現在、金圭洙氏は和歌山県田辺市で大きな焼き肉店を経営している)


 当然のことながら、こうした歴史はこの国の公式な記録としては何も残されていない。北山村史には朝鮮人の徴用工に関する記述はなにひとつない。かつて金 文善がみずからの手首とひきかえに拡幅した鉱山へ至る山道は、いまは「木馬道」とか「トロッコ道」とか言われて、ときどき懐古的に語られるだけだ。いや、 それすらも忘れられつつある。戦時中、兵器製造に必要な希少鉱物であるコバルトを採取するために、平家の落ち武者の村とも、木地師の里とも呼ばれる山深い 村の山中の谷筋に、多くの飯場が軒をつらね、たくさんの朝鮮人の労働者たちが危険な作業に従事させられていた。金 文善は手首だけで済んだが、命を失くした者もいたのではないか。その者はどこへ葬られたのだろうか。わずかな骨片だけが無縁の骨壇の暗がりに放り込まれた か。昭和19年前後といえば、わたしの母が祖母と共に東京の空襲を逃れて疎開してきたその頃だ。それほど遠い話でもない。けれども歴史の波に翻弄されつつ も、必死に生きたかれらの記憶はこの村では抹殺されている。

 ふと思いついて、村史にあった木地師の遺跡と、コバルト鉱山の場所をグーグ ルの地形図に落としてみた。人里から隔たった深い山中で貴種譚の由緒を伝えた山の民と、異国の地で歴史の波に翻弄されてやがて忘れ去られた労働者のため息 と、両者の場所は奇妙に重なる。わたしはその場所、いつかをひっそりと訪ねてみたいと思った。そこで、かれらの吐いた息を呼吸してみたい。

◆下尾井大勝鉱山
http://blog.livedoor.jp/hami_orz/archives/52369504.html

◆春の巡検 大勝鉱山を探せ
http://c58224.livedoor.blog/archives/1834418.html

◆立合川大滝(吉野 熊野)
https://taki-sawa-unexplored.com/%E8%BF%91%E7%95%BF%E3%81%AE%E6%BB%9D/%E7%AB%8B%E4%BC%9A%E5%B7%9D%E5%A4%A7%E6%BB%9D%EF%BD%9E%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%BB%9D/
2021.9.20





 

 



 

 

 

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