027. 金沢で尹奉吉「暗葬」の地をたずね、大阪衛戍監獄跡地で尹奉吉と鶴彬を思う

背中からの未来

 

 

■027. 金沢で尹奉吉「暗葬」の地をたずね、大阪衛戍監獄跡地で尹奉吉と鶴彬を思う

 
  日本の朝鮮侵略に抗して手りゅう弾を投擲し上海派遣軍司令官他を殺傷した尹 奉吉(ユン・ボンギル)の処刑された遺体は長いあいだ、金沢・野田山墓地の陸軍墓地から一般墓地へ下る階段下の通路上の地面に秘密裏に暗葬された。「暗 葬」とは尊厳をうばい、生きた証をはぎ取り、人々に永久に踏みつけさせることだ。戦後になってようやっと掘り出された地面からは穴の開いた頭蓋骨と血のつ いた衣服と木の十字架が出てきた。いまのこの鵺のような国にあって、尹 奉吉(ユン・ボンギル)のように死んで人々に踏みつけられる者になりたいとわたしはこころから渇望するよ。
2021.7.28

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  歯医者の後、府立中之島図書館で、かつて大阪城二ノ丸にあった陸軍大阪衛戍監獄の資料調査。3階の大阪資料・古典籍室カウンターのお二人、長時間をよくつ きあってくれました。感謝。そもそもは軍法会議で判決を受けた軍人が服役した衛戍監獄であるが、1932(昭和7)年の11月から12月にかけて、金沢で の処刑前に尹奉吉は約一か月をこの衛戍監獄で過ごした。同じ頃、反戦川柳作家の鶴彬もまたこの衛戍監獄に収監されていた。折しも昭和の天守復興と謳われた 大阪城天守閣の竣工は1931(昭和6)年。尹奉吉と鶴彬が監獄内でことばを交わすことがあったかは不明だが、二人は夜空にそびえる真新しい天守閣をきっ と見あげたに違いない。
2021.8.16

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   大阪の歯医者のついでに、今日は尹奉吉と鶴彬が時をおなじくして収容されていた、大阪城二ノ丸の陸軍大阪衛戍監獄跡地をあらためて見に行ってきた。二人を 偲ぶために。図書館などで調べた図面などから、衛戍監獄の敷地は現在の豊国神社の本殿がすっぽり入るエリアだったことが分かる。もともと明治維新を経て大 阪の中之島に建てられた豊国神社が現在地に移転したのは1961(昭和36)年、ずいぶん最近の話だ。明治の年号を刻む鳥居も敷地内の古めかしい石碑も併 せて移転したものだが、歴史を知らぬ若者などは古くからここに鎮座していると思うだろう。神社や天皇陵の権威など、どうせその程度のものだ。鶴彬の句碑の あたりに建物がならび、豊国神社本殿は前庭のようなスペースだった。しばらくそのあたりを散策して、堀に近い草むらのなかで当時のものと思われる瓦と赤煉 瓦のかけらを拾ってリュックに入れた。これらは生々しい「現在」なんだと、写真を送った画家の福山さんが返してきた。そのとおり。いまから90年前、日本 の侵略に抗い爆弾で陸軍の現地司令官など数名を殺傷して捕らえられた尹奉吉と、「手と足をもいだ丸太にしてかへし」などの反戦川柳を遺した鶴彬が1932 (昭和7)年の年末、偶然この同じ場所で生を共有した。そして二人とも短く凄烈な死を迎えた。尹奉吉がいわゆる上海爆弾事件を起こしたのが4月29日だ。 大阪の衛戍監獄から金沢へ移送されて三小牛山で処刑されたのが12月19日。その8か月をかれはどんなことを感じ、考え、祈ったのだろうかと思う。平穏な 弛緩しきった日々を送っているわたしたちの何倍も圧縮された密度の濃い8か月だったろうと思うのだ。そこへ、わが身を置いてみたいという願望は、ある。大 阪城の現在の天守閣が再建されたのが二人が収容される前年の1931(昭和6)年。かれらはこの衛戍監獄から夜目にも白い再建されたばかりの天守閣を見あ げたことだろうと想像していたが、じっさいに現地に立つと、小さく見える天守閣をさえぎるように第四師団司令部の煉瓦造りの建物がその前面にそびえ立って いた。かれらが見あげたのは帝国日本の巨大な国家権力の姿だった。
2021.8.23

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