026. 伊賀山中で旧青山トンネル慰霊碑をたずね、津で高橋アキ・リサイタルを聴く

背中からの未来

 

 

■026. 伊賀山中で旧青山トンネル慰霊碑をたずね、津で高橋アキ・リサイタルを聴く


 
 神戸・塩屋の古い洋館に井波さんのピアノと歌、熊澤さんのヴァイオリンを聴きに行ったときは、演奏の前に裏山へ平家の落人たちの苔むした五輪塔をたず ね、ひだまりのなかで数百年前の死がころころと音符のようにころがり撥ねた。あのときは欠伸が出そうなまったりとした青い水平線が見えたものだが、今回、 高橋アキさんの公演をコロナ禍で10ヶ月延びた三重県津市の会場で聴く前に立ち寄った伊賀山中の「旧青山トンネル工事」犠牲者の供養碑は昼なお薄暗く、青 ざめた石と土くれ、荒れた樹木の世界だった。1928(昭和3)年から1930(昭和5)年にかけて、現在の近鉄の前身にあたる参宮急行電鉄が大林組に委 託して行った青山隧道(トンネル)の工事で16人の作業者が作業中に命を落とし、そのうちの8人が17歳から38歳までの朝鮮半島出身者であった。こうし た 話はこの国で、じつは無数にあるのだが、たいていは息をひそめて忘却のうちにしずんでいる。17歳で異国で死んだ少年の魂はどこへ昇っていくのか? 巨大 な自 然石の供養碑は昭和5年に大林組が建てた。刻銘された「大林義雄」は1916(大正5)年に創業者を継いだ二代目。台座には死んだ犠牲者の名一人びとりが 刻まれる。大林組に限らない。戦後、繁栄して現在に至るこの国の企業の多くは贖うことのないこれらの血を吸って巨大なビルを築いた。原発が放射能を撒き散 らす以前に、すでにこの国の国土は大量の異国の血を蛭のように吸っている。「日帝」に抗った孤独な狼たちが思われる。わたしは犠牲者の刻銘をひとりづつ指 でなぞり、供養碑の上から保温ポットのお茶をかけ、そして石と土くれのあいだの声なき声に耳をすませ、「南無大師遍照金剛」の旗がばたばたと風にさわぐの を聞いた。前方の過去を見失ったまま、わたしたちは背中から未来へ入っていく。そんな心持ちをかかえたままコンサート会場の座席(最前列ど真ん中)にす わったものだから冒頭、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」は幾重にも折重なった歴史の実時間のらせん階段をのぼったりおりたりするような心地であった。 つづいて「4つの即興曲 Op90 D899」はシューベルトの晩年、「冬の旅」と同じ頃の作品で通奏低音も似ている。戦場で回想する夢のなかの出来事のように美しい。石と土くれに沁みわた る。後半は演奏者みずからの解説を含むサティだ。20代の頃、この風変わりな作曲家は音楽から生きざままで、あらゆるエッセンスを投げかけた。純粋な魂が この世のすきまを諧謔を武器に駆け抜けてゆく。それがわたしのサティだった。かれの音楽がもてはやされ、CMにまで使われるようになってしばらく離れてい たけれど、ジムノペディ、グノシェンヌ、手を伸ばせばとどきそうなほどの距離でアキさんが奏でる音は、原初のサティを思い起こさせてくれた。生身のサティ がそこにいた、蝙蝠傘を持って。彼が生まれた2年後に日本では戊辰戦争が始まり、かれが死んだ年にこの国では治安維持法が成立した。「かくれて生きよ」  兄である高橋悠治氏の青土社『ロベルト・シューマン』に爆弾のように収められた小文は若きわたしの軍事マニュアルでもあった。どこか、サティにも似てい る。プログラム最後のジュ・トゥ・ヴー(Je te veux)は天上の音楽だった。この音楽はこの世の塵芥をまとっても華麗におどる。毅然とした娼婦のように。かれがモンマルトルのカフェ・コンセール『黒 猫』でこの曲を書いた1900年、中国(清)では義和団の乱が起こり、やがて日露戦争が始まる。わたしの暮らす大和郡山では綿花の暴騰や経済不況によって 紡績工場の操業が短縮され、虐待を受けた女工が逃げ出すケースが相次いだ。サティのジュ・トゥ・ヴーはそのような歴史の実時間の上にも響きわたる。偏屈 で、皮肉屋で、孤独な、古代の魂の卵! アキさんのサティを聴きながらわたしはなぜかそんな言葉を繰り返していた。アンコール一曲目はバレンタインにちな んでサティのユニークな「アーモンドナッツ入りチョコレートのワルツ」。二曲目は武満徹の「死んだ男の残したものは」。谷川俊太郎の詩に武満が曲をつけた ものでベトナム戦争さなかの1965年、「ベトナムの平和を願う市民の集会」のためにつくられたものだが、歌のないピアノ演奏だけのバージョン。これが、 響いた。「旧青山トンネル工事」犠牲者の供養碑をかかえてやってきたわたしは、この一曲で“片づけられてしまった”のであった。演奏が終わっても、わたし は拍手も忘れてただ瞑目していた。17歳で異国で死んだ少年の魂は昇っていっただろうか? 薄暗い伊賀の山中で命を落としたかれが残したものは、現在に生 きるわたしたち一人びとりであった。アンコール最後は「わたしこの曲、好きなので」と始まった意外なビル・エヴァンスの Walts for Debby。音の豊穣。ゲームはつづく。先週末、古代縄文の八つ岩から見下ろした夜の名阪国道を時速120キロで駆け抜けて帰ったよ。

(高橋アキの世界・三重県文化会館大ホール)
2021.2.15

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 何だっておまえは百年も遠いむかしの、しかも見知らぬ朝鮮人の人夫や女工たちの死をそれほど気にかけるのか。そんなふうに訊くやつがいたら、いや、かれ らの死はいまだ死ですらない。踏みつぶされ、ほうり出され、見棄てられ、穿った昏い深い穴に死んだ馬や木材やごみ屑と共に投げ捨てられいまなおこの地上に 腐臭を放ち続けて地表には墓標代わりの石くれひとつもない野花のひと差しも供えられない。どこのだれだか分からず、いったいいつどこでどんなふうに死んで いったかも分からない。それは死ですらもなく汚辱に満ちた生ですらもなくただの一点の地面のシミだシミと分かればまだましだがすでに遠い忘却滅却抹殺の彼 方の南無阿弥陀仏すらもはや届かぬ。1932(昭和7)年に発行された「工事実例青山隧道編」(西畑常・大正商工社)という小冊子を国立国会図書館関西館 に見つけた。ここにそのシミのような死の記録がわずかに記録されている。わたしがたずねた伊賀上野の山中の道路からさらにくだり降りたさみしい穴倉のよう な空間にひっそりと立つ供養碑では分からなかった一人びとりの死に様がおぼろに見える。わずか17歳だった朝鮮慶尚南道蔚山郡斗西面仁甫里出身の洪海龍は 当日の朝体調がすぐれず休んでいたところを人員不足で駆り出されモルタルを練るミキサーにあやまって足を踏み外し歯車に右胸を挟まり大林組員と下請けの森 崎亀太郎に付き添われて車で近くの尾上医師宅へ向かう途中に死亡した。事故報告書は事故の原因を「本人の過失」とし加えて「本事故は洪海龍の不注意により 起りたるも本人とても予期せざる過失にて誠に同情す」と記す。シミがようやく死と成る。17歳の洪海龍の当日の死がおぼろな影となってわたしの肉に煙のよ うに沁み込みわたしは知らず胸に手をあてて慟哭する洪海龍の顔になっている。ふざけるなと言いたいような「同情」だが、1930(昭和5)年には日本人と 朝鮮人労働者を並列して曲がりなりにもその死を供養したそんな「同情」ですら、この国では1940(昭和15)年にはすでに影も形もなかった。かれらの死 はもはや数ですらなく、そしてシミですらなかった。シミにされる前にひとはまず尊厳を奪われる。わたしはささやかながらもかれらの尊厳をとり戻すためにい までは失われかけているかれら一人びとりの死の記録をここに起こし直しておく。


第十節    青山隧道事故 死亡者

第一項    死亡者

青山隧道工事中事故として記載すべきは第一に人事自己なり、故に其の大要を表示すれば次の如し。

青山隧道工事殉難者一覧

東口・号令 佐藤久次郎(42歳 大分県大分郡日岡村大字原)
昭和3年9月9日 3:30 隧道580尺の箇所に於て擔取外し作業中岩石落下即死。


西口・人夫 洪 海龍(17歳 朝鮮慶尚南道蔚山郡斗西面仁甫里)
昭和3年12月18日 16:00 ミキサー歯車に巻き込まれ応急手当を施したるも遂に死亡(明り工事)


東口・土工 金 元植(36歳 朝鮮平安南道江西郡浅松面三府里) 
昭和4年1月17日 9:15 隧道100尺の箇所に於て碿トロ脱線し後トロの下敷きとなり死亡


東口・坑夫 高野 政雄(28歳 三重県阿山郡府中村大字佐那具) 
昭和4年5月18日 14:40 隧道2,200尺の箇所に於て支保工修繕中材料墜落の為め即死


東口・工夫 李 珍和(31歳 朝鮮慶尚北道迎日郡延日面槐亭洞) 
昭和4年7月12日 8:40 隧道2,600尺の箇所に於てハンドポンプ修理中大立と鍋トロとに挟まれ負傷遂に死亡


東口・運転手 瀬川信太朗(27歳 岐阜県揖斐郡小島村大字廣樫) 
昭和4年10月1日 7:30 機関車脱線下敷きとなり即死


東口・坑夫 曹 一龍(31歳 朝鮮慶尚北道慶尚郡西面毛良里) 
昭和4年12月9日 21:40 隧道内に於て爆破装填点火して避難せるも岩石破片飛来足首負傷に基因し死亡


西口・号令 高橋 傳四郎(44歳 愛媛県新居郡橘村禎瑞) 
昭和5年2月5日 4:30 隧道4,500尺附近に於て発破にて支保工倒壊の為め即死


西口・人夫 金 京賢(25歳 朝鮮全羅南道須天郡海龍面狐頭里) その他 同上

西口・人夫 朴 三伊(22歳 朝鮮慶尚南道普州郡美川面美谷里) その他 同上

西口・人夫 李 徳順(34歳 朝鮮慶尚北道具東郡江北面起在洞) その他 同上

西口・人夫 全 岩伊(19歳 朝鮮慶尚北道高美郡茶山面平里洞) その他 同上


以 上12名の尊き犠牲者に対しては、参宮急行電鉄株式会社主任技師西畑常・主任技師補山口義夫・株式会社大林組監査役安井豊・主任多賀保・久野二男・大林組 配下上村圓治・岩田文八の7氏発起人となり、青山隧道工事殉職者の弔魂碑を青山隧道西坑門上部附近の青山地蔵尊(通称青山大師)の傍に建立し、永久に其の 霊を祭ることとなし、上津村の善福寺に永代供養基金を納め依頼せり、其の弔魂碑は写真第三参照。尚昭和5年3月21日には除幕式を兼ね殉難者追悼会を催 し、其の英霊の永へに冥福することを祈願せり。


「工事実例青山隧道編」西畑常(大正商工社・昭和7年)
2021.2.27

 

 

 

 

 

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