025. 東京・高円寺で嶽本あゆ美「太平洋食堂」を観る

背中からの未来

 

 

■025. 東京・高円寺で嶽本あゆ美「太平洋食堂」を観る


 
 生まれてはじめて靖国神社を訪ねたのは2015年8月の戦争法案反対の国会前デモに参加した翌日だった。物言わぬ戦死者たちの無数の視線に見つめられ慄 然とした。5年後の2020年のコロナ禍中、大逆事件を舞台にした嶽本あゆ美氏の「太平洋食堂」並びに「彼の僧の娘 −高代覚書」を東京・高円寺の座で見 た翌日にふたたび靖国神社を訪ねたのも、だから奇縁である。幸徳秋水事件ともいわれる大逆事件が(時の権力者たちによって)謀られたのが1910(明治 43)年。まさに後ろ向きに、見えない未来に向かってあとずさりをするようにすすんで行くじぶんを感じる。百年前の明治の「大逆」の風景がおのれの眼には しっかりと映っているか。見えない背中には何を感じているか。靖国の「英霊」たちは深夜の招魂斎庭で名を呼ばれその霊璽簿と共に御羽車(おはぐるま)に乗 せられ本殿へすすむ。「あの白い御輿が、靖国神社へ入りなはった晩な、ありがとうて、ありがとうてたまりませなんだ」と感涙する母たちの言葉を、かつて政 治思想史家の橋川文三は「なにか古代原始の妖気をさえたたえた表現」と記した。高円寺・座の舞台でわたしがその日目撃したのは、「逆徒」とされた大石誠之 助や高木顕明たちのためのいわば「招魂斎庭」であった。わたしは最愛の子どもを失った母親のように感涙し、だが怒りに顫えている。まさに歴史の実時間であ る現在 において大石が、高木がたちあがる。縊られようとしているのはわたしであり、わたしの愛する者たちだ。2013年にはじめて「太平洋食堂」が、そして 2016年に「彼の僧の娘 −高代覚書」が上演されてからそれぞれ幾回の舞台を経て、嶽本氏の脚本もまた誠之助や高代を演じ続けた間宮啓行さんや明樹由佳 さんといった俳優陣たちの演技も肉付けが加わりさらに影が濃くなっていったのではないか。新宮は若い頃からの縁深き土地であり、大石や高木たちの墓も何度 か訪ねた。2016年に新宮市内の老舗旅館の二階座敷で演じられた三人だけの「彼の僧の娘 −高代覚書」を観劇したとき、あの哀しいどんぐり眼の高木顕明 の霊魂がまさにいまここに来て浮遊していると思わず天井を仰いだものだが、今回の高円寺・座でも、それはもっと明瞭に感じられた。「この明治42年が此の 世の終わ りでない限り、この先も失敗、敗北が繰り返される。だが負けて、負け続けて、いつかは正義が来る。勝てなくても前に進まなくては! ただ、声を上げる、そ の 瞬間、瞬間にだけは、我々は刹那の勝利を手に入れる、それだけは誇れるはずや。」  仄かな灯りのなかで誠之助演じる間宮啓行さんが刑場の階段をしずかに のぼっていくとき、わたしはまさに110年前にそうして縊られるために歩みをすすめた大石誠之助その人を目の当たりにしていた。胸がちぎれそうだった。 110年前も、多くの人々にとっては「大逆事件」など無縁のものだったろう。それからわずか30数年の間に幾百万といういのちが予期せぬ無残な死を強要さ れた。愛する者を奪われてありがたいと思う者などほんとうはひとりもいないはずだ。あれからわたしは「英霊」たちをとり戻すためにあちこちの墓地にのこる 軍人墓を巡りつづけている。死んだ兵士の名前を読み、死んだ場所と年齢を読み、ときに遺族が石に刻んだ来歴を読む。もっと生きたかった者の無念がわたしの うつろな臓腑に無数に溜まって、いつかおのれが邪鬼のような存在に変じることをじつはこころの奥底で願っているのかも知れない。「太平洋食堂」の最後で大 石は、もしイエスが死なずに生きのびたら鰹節の出がらしのようなものだったかも知れない、と笑う。大石自身はみずからを鰹節の出がらしではないと分かって いた。わたしたちはじぶんが鰹節の出がらしではないと果たして言い切れるか。110年前に自由や平等の社会を夢見て、戦争や遊郭や差別に異を唱えたものた ちが捕らえられて「逆徒」とされた。自由や平等の社会を夢見ることは抗うことである、暴力や差別や貧困やその他もろもろの不条理を容認している者たちに対 しては。大石たちが縊られた1911(明治44)年は、まさに「現在(いま)」ではないのか。わたしたちは、抗いつづける。声を上げる、その瞬間、 瞬間にだけ刹那の勝利を手に入れ、負け続けながらも。おのれが出がらしでないことを証明するために。24人の死刑判決後、弁護人の平出修は次のように記した。「彼等は国家の権力行使の機関として判決を下 し、事実を確定した。けれどもそれは彼等の認定した事実に過ぎないのである、之が為に絶対の真実は或は誤り伝へられて、世間に発表せられずに了るとして も。其為に真実は決して存在を失ふものではないのである、余は此点に於て真実の発見者である、此発見は千古不磨である」(「大逆事件意見書」後に書す)   つまり今回の舞台は、演劇による真実の発見の試み、ということになる。幕があがる。わたしたち一人びとりが真実の発見者となる。
2020.12.7


 

 

 

 

 

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