024. 篠原無然の古里、兵庫県・諸寄をたずねる

背中からの未来

 

 

■024. 篠原無然の古里、兵庫県・諸寄をたずねる


 
 家族と夕食を済ませて夜の7時。奈良から大阪、宝塚、三田をすぎて、山影も見えない暗闇をひたすら走りつづけて日本海へたどりついたのは11時に近かっ た。浜坂の手前のローソンで缶ビール二本とつまみのローストビーフを買った。海水浴は混んでますか? と40代くらいの店員に訊くと、コロナでぜんぜんダ メですよ、と答えが返ってきた。そのまま浜坂の市内をぬけて諸寄(もろよせ)へ。海沿いの漁村センターに隣接する無料の駐車場へ車を止めた。きれいな公衆 トイレもあ る。防波堤で囲まれた漁港の桟橋へ折り畳みの椅子を出してすわり、缶ビールのタップを開けた。4時間は長かったけれど暗闇のなかをぬけてきたのでぽいと、 この見知らぬ夜ふけの漁村に見えない手で置かれたような心地がする。停泊している舟が見えない波にゆられて係留のロープがときおりぎいっと声をあげる。そ れ以外は音もない。篠原無然が生まれ育った風待ちの港の集落は心地の良い海風にふかれてしずかな眠りのなかにあった。その晩は車のなかで寝た。後部座席を 倒して、折り畳みのマットと藺草の枕。エンジンは停めて、窓をすこしだけ開ける。漁村センターへ勤める人か釣り人か、ときおりひとの声がする。女性の声が 夢うつつで長々とつづく。いちおう身体は伸ばせるが、家のベッドのようにはいかない。身体が寝心地の良いポジションを無意識にさがして、さがしあてて深い 眠りに入ると間もなく外がしらばみ始めた。海上に朝日をさがしかけて、ここは日本海だと気がつく。トイレでいちど用を済ませ、こんどは運転席を倒してもう 一時間ほど眠った。朝だ。小さな漁村はすっかり動き出している。周囲に停まっている他府県ナンバーは釣り客だろうか。うしろで地元の人が若い釣り客と話を している。公衆トイレで着替えをして歯を磨いた。朝食はない。早朝のうちに諸寄の集落を見てまわろうとあるきだす。まずは港を見下ろす高台の為世永(いよ なが)神社へ。急な石段から降りてきた女性から挨拶をされて、高いですねえ、と返す。諸寄は北前船の潮待ち港として古くから栄えた。為世永神社の狛犬が尻 をあげていまにも飛びかかりそうな姿勢をしているのは出雲狛犬といい、島根県宍道町来待地区で産出された来待石(出雲石)が使われているのも船の往来に拠 る。玉垣には遠く陸奥や越前など各地の廻船問屋たちの寄進名が刻まれている。神輿のような色褪せた本殿もなにやら潮の気配がする。諸寄の海と船を見守るに はここより適した場所はない。西行の「見渡せば 沖に絹巻 千歳松 波諸寄に雪の白浜」の歌碑があった。雪浜橋をもどり集落へ入る。かつての役場跡だとい う公園を過ぎて、無然の顕彰碑のひとつがある旧小学校跡へ行こうとして道を失ったところへ通りがかりの老女が「わたしもそっちへ行くからいっしょに」と 誘ってくれた。かつての諸寄小学校だった場所は建物もグランドもそのまま残し、建物は郷土資料室を含む集落センターとして使われている。建物側に地元出身 の但馬の啄木ともいわれた歌人・前田純孝(翠溪)と与謝野寛の歌碑があり(鶏のこ恵朗に比久春の日に光のとけき桃の一村)、グランドの向こうの山陰線の線 路沿いに無然の生誕百年記念碑(有限の我を献げて限りなき生命の栄えいのらるゝかな)が立っている。裏手の線路を越えて八坂神社にも立ち寄ってみた。いま は参道に蜘蛛の巣も張り神さびているが、かつては周辺の力士を招いて地元の力士と対戦する相撲大会も開催されて賑わったともいう。病弱だった無然は果たし て見に行っただろうか。参道のはたの叢(くさむら)に大正11年建立の忠魂碑があり、日露戦争の戦没者を記した銅板に「陸軍伍長 篠原正雄」の名を見つけ た。無然の縁者だろう。小学校跡へもどり、集落センター前の階段に小学生の女の子が一人すわっていたので「ここは学校なの?」と訊くと、ちがうと首をふ る。「ここは何時から開くのかなあ」と訊くと「9時からです」と答える。まだ一時間ある。ありがとうと少女にお礼を言って、ふたたび集落の中心部へ。じき に三差路の真ん中の花壇に建つ「篠原無然先生生誕之地碑」の前に出た。郵便局があり、小さな喫茶店があり、無然の生家は郵便局の道向かいのいまはユースホ ステルを兼ねた民宿になっている。海からも駅からも等距離で、このあたりはさしずめ諸寄のメインストリートだろうか。花壇のふちに腰をおろしてボトルの ハーブティーを呑む。篠原無然、本名・禄次は1889(明治22)年、零落した諸寄の廻船問屋の家に生まれた。父は若い頃は教員をしていたがその後、村の 発展を願った社会事業などに飛び回り、「無名の文人墨客がいつも家に一人や二人は逗留していた」。1894(明治27)年、全国的に猛威をふるった赤痢で 母と妹を失くし翌年、赤痢から回復した無然自身もリウマチスと腹膜炎で生死をさまよった。与謝野寛と「明星」に寄稿し、病のために帰郷して最後はこの諸寄 で没した前田純孝と反対に、無然は小学校卒業後に家人のすすめで神戸の貿易商社に勤めて以降はほとんど古里には帰っていない。そのあたり、無然と諸寄の微 妙な距離感を考える。村内に三か所ある顕彰碑も、なにやら地の気配が幾分薄いようにも感じてしまう。かつて無然の伝記小説を著した江夏美好氏は昭和40年 代頃か、この諸寄に取材したときに村民の一人から言われた言葉を記している、「見てごらんなさい。純孝のこの清純そのものの顔と、無然のこの行いすました 顔を。人間的な魅力は無然にはありませんな。私は故郷をすててことなせりとした篠原無然よりも、故郷で血へどを吐きながら死んだ前田純孝の方を、はるかに 人間的だと思いますが」(「雪の碑」江夏美好)。赤煉瓦の高架をくぐり、龍満寺。代々禅の学僧を輩出した曹洞宗の古い寺だが、境内が工事中で、かつ境内に ある幼稚園への送りが ピークを迎えていたので中には入らなかった。龍満寺前をすすんだ行き止まりが諸寄の無人駅で、この駅前にも無然の顕彰碑がひっそり立っているが、無然が諸 寄にいた時代には山陰鉄道はまだ開通していない。資料室の開館にはあと30分ばかり。昨夜、来る途中に車のライトで浮かびあがった共同墓地がもうすこし先 にあったと思い出してあるきだしたところ、集落の東の家並みが途切れるあたりで自転車をついてあるく老女に会って道を尋ねた。見れば前カゴに草取り鎌があ り、お墓の草取りにいくところと言う。86歳の彼女はもう20年ひとり暮らしで、息子二人が出石と姫路で所帯を持っているという。共同墓地は何十年か 前にバイパスを通す工事の際に現在の場所に移転した。「その前はね、あのツルダさんの家の上の高いところにあった」  諸寄が一望できる城山地展 望台にも行きたいと言うと、「いままではなかったことだけれど、三か月前くらいにあのあたりで熊が出たそうだから」と教えてくれた。そんなふうに話好きな 老女と立ち話をしていたらそろそろ郷土資料室の開館時間も過ぎて、共同墓地とその先の高台の城山地展望台はあとで車で移動することにして、老女に別れ を告げて元来た道をもどり、雪の白浜といわれる海と岩礁が美しい海岸を寄り道してから、ふたたび集落へともどった。グランド前の路地で出くわした男性が暑 いですな〜と声をかけてきて、別れて郷土資料室の玄関でスリッパを履いていたら、先の男性が「あれ。誰もいませんか。管理人がいるんだけど」と言いながら 入ってきて、二階の資料室へ案内してくれて冷房も付けてくれた。玄関には「前田純孝資料室」と掲げられた学校の教室ほどの部屋は、しかし期待を裏切って無 然の資料も(複写が多いが)ショーケースにたっぷりと並んでいて目を瞠った。おそらく教え子たちの間で自費出版されたような見たことのない冊子もたくさん あって驚く。部屋の前のスチール棚には無然のパネル写真が無造作に立てかけてあって、これもはじめて見る学生時代の無然や、工女救済に駆け回っていた頃の 天竜川での写真などもあって、喜びの声を上げるわたしにあとからやってきた管理人の男性は「どこへでも明るいところへ持っていって、写真を撮ってくれたら いいよ」と言う。肺結核で31歳の若さで亡くなった前田純孝の病中日誌や自筆原稿なども多数あって、いくつかの歌にひかれて復刻版の歌集と「前田純孝のこ と」なる冊子を購入したのだった。予想外の収穫に胸をふくらませて駐車場にもどり、車であらためて共同墓地へ移動。同世代くらいの石屋さんが一人、入口近 くで新しい墓石を組み上げていた。墓地は、かつて浜坂への旧道だったという山の谷筋に沿ってほそながく伸びている。朝方は奈良に比べてだいぶ涼しいと思っ ていた気温も、昼近くになって変わらないじりじりと灼けるような日差しが強烈だ。墓標をひとつひとつ見て行ったが、「篠原」の墓はなかった。前述の江夏美 好氏が諸寄を訪問した際には「墓所は山のなかの盆地にあり、草を踏みわけてたずねあてた」と記しているが、これはおそらく移転前の墓地だろうと思われる。 唯一、無縁墓を積み上げた端で「篠原家之墓」と刻まれた質素な墓石を見つけた。 ちょっとごめんなさいよと声をかけてずらした側面には大正時代に亡くなった「清治」と「くに」 の名前が刻まれていたから、あるいは無然の親類(分家)の墓かも知れない(無然の父は六一、母はつる)。無然の墓は諸寄にはない。墓地から車で5分ほど、 うねうねと曲がった山道をあがりきった城山地展望台から見下ろす青い大海原に抱かれたような諸寄の集落はまるで桃源郷のようだった。墓地の手前で語り合っ た一人暮らしの老女も、若い人はみんなここを出て行く、と言っていた。人はどうしてこのような美しい場所で暮らしていけないのだろうかと、そんなことを考 えた。「孤独のグルメ」ではないが、そろそろ腹がペコちゃんだ。何しろ朝めしも喰わずに歩きまわっていたのだから。時間は11時半頃。昼の行き先は先の郷 土資料室の管理人が教えてくれた浜坂のわたなべや、「マル海渡辺水産 」の二階のレストランだ。陶板焼きに刺身、鯛の煮付、茶碗蒸し、小鉢三点、味噌汁、ご飯に食後のコーヒーまで付いて900円とはすばらしい。12時前に 入って、食べ終えて出る頃にはこの数量限定ランチは完売になっていた。そこから市内の浜坂先人記念館・以命亭へ移動。図書館前の駐車場へ車を止めて、年代 ものの赤煉瓦の塀が見えたので回り道をしてみたら案内板があり、1911年(明治44)に開通した山陰線桃観トンネル工事で犠牲になった人びとの供養をこ の西光寺の住職が民族の分け隔てなく弔ったために、工事完成後に朝鮮人労働者や工事関係者が余った煉瓦を寄付してつくられたものだという。その西光寺の裏 手にあるのが江戸時代の造り酒屋、森家・七釜屋屋敷を利用した以命亭で、森家にまつわる資料や民具、酒造りの道具などの他に、郷土出身の著名人たちがパネ ルで紹介されている。無然はそのパネルのひとつで、とくに目新しい内容でもないが、平成6年の企画展「浜坂の先人たち 太和を求めた社会教育者 篠原無然 展」の冊子があったので購入した。それよりもここで興味深かったのは先の赤煉瓦にまつわるもので、 以命亭の展示解説に拠れば久谷八幡神社境内 にその亡くなった朝鮮人労働者7名を含む名前が刻まれた慰霊碑があるという。隣の図書館にうつって何か資料がないか調べてもらった。すると浜坂から余部方 面に一駅先の久谷駅に近いその神社境内にあるのは正式には「鉄道工事中職斃病没者招魂碑」で、1911(明治44)年に鉄道工業合資会社の有志によって建 立された。またその前年の1910(明治43)年には当時の逓信大臣兼鉄道院総裁だった後藤新平が余部鉄橋及び桃観トンネル工事の視察に来ており、久谷側 (西口)トンネルの上部に設置された題額「萬方惟慶」(みながこれを喜ぶ)は後藤みずからの揮毫であるということなどが分かった。それよりも数年前、無然 は神戸のホテルに滞在していた後藤新平を訪ねて知遇を受けている。ここまで順調に予定が進んでいたので、図書館のカウンターの女性も勧めてくれた西光寺の 向かいにある町営の温泉施設でひと風呂浴びようかとも思っていたのだけれど、ここは訪ねないわけにはいかない。温泉は捨てて、久谷へ走った。車 で10分ほど、久谷は諸寄よりさびしい山あいの集落だ。香住へぬける車の往来もすくない幹線道路沿いに久谷八幡神社があり、その参道の手前に「招魂碑」は あった。供花は茶色く枯れ果てていたが、中央にハングル語の印刷されたお酒のボトルが置かれていた。壇を含めれば3メートルは優に超える立派なものだ。背 面には全国各地から来た日本人労働者20名につづいて、7名の朝鮮人名が刻まれている(そのうちの1名の墓が後年、余部鉄橋近くの墓地で発見された)。並 べて刻まれた漢文の和訳は以下。「山陰西線の第22工区から23工区までと余部鉄橋工事は、明治41年より起工し、明治44年に至って竣工の間、従業者及 びその家族等の中、作業中の事故死者、或いは病死者の総数は20余人にものぼった。ここに発起者が相談して、互いにわずかの資金を出し合い、石碑一つを造 立して合祀、別に百金を積み立て、その利子をもって毎年4月の時を期し、追薦式(霊が福を得られるための儀式)を挙げる費用に充て、死者の氏名を刻むこと に依り永久に残ることを計り、永く英霊(公の為に無くなった人の霊)を慰めようとするものである」(「浜坂駅開業100周年記念事業」)  明治44年は まだ名前が朝鮮名で刻まれ供養をされる程度の人間扱いは残っていたか、と思う。昭和になると、もはやひと扱いではない。名前もうばわれ、墓もうばわれ、供 養もされず、どこで死んだかも残されない。花を持ってくればよかったのだろうが気がつかず、手元のボトルのお茶を碑にそそいで手を合わせた。碑からもほど 近い桃観トンネ ルの西口も見に行ったが、鉄路がのびていくアーチ型の暗闇はなみだも枯れた眼窩のようにも見える。この国の至るところにその昏い眼窩は穿って在る。さて、 今回の旅の最後に残った目的はやっぱり無然で、無然が約2年間、代用教員として働いた小代小学校の近くに残るという教え子による顕彰碑である。これは江夏 氏が昭和40年代頃に現地を訪ね「小学校の近く、観音堂境内のそばに建っている無然記念碑」で、「平湯の薬師堂境内にあるものと、大差のない自然石であ る」と記しているものが唯一の手がかりで、Web上の資料にも何も載っていない。小代付近で観音堂を検索もしたが分からず、当の小代小学校も統合等で二度 ほど移転・建て替えをしているらしい。以命亭や図書館で訊いても分からず、グーグルマップにあった現地の観光案内所で訊くしかないと、久谷から浜坂へもど り、高速の乗り口にある「道の駅 山陰海岸ジオパーク浜坂の郷」で家への手土産を仕入れてから、内陸へと向かった。浜坂から小代へは車で30分ほどの距離だが、かつてはこの道のりを無然 もあるいたのだと思いながら走った。海辺に育ったかれは、故郷を出てからは山ばかりで最期も山で斃れたのだったな、とか。「夢千代日記」で有名になった湯 村温泉をすぎ、9号線から482号線へ分かれる。グーグルマップで香美町小代観光協会と表示された場所は鄙びた物産展とレストランが併設された建物で、一 人しかいない60歳代の男性はわたしの説明を訊いて、そんな面倒なことをおれに訊くなよなあ、といった態度がありありだった。「わたしも60年、ずっとこ こに住んでいるけど、そんな話は聞いたこともない。何なら小代小学校に併設されている地域センターに訊いみたらどうか?」  もうすでに夕方の4時半も過 ぎており、時間的にもぎりぎりだから電話で訊いてもらうわけにはいかないか? 番号を教えてくれたらじぶんでかけるので、と言っても、「とにかく行って直 接話した方がいい。ぎりぎりだから早く行かないとあなたも間に合わなくなるよ」と埒が明かない。どこが観光案内所なんだとぼやきながら車にもどって 小代小学校へ走った。小学校の建物の一画に「小代地域連携センター」なる看板がかかっていて、どうも役所の出向機関も兼ねているようだ。奥の部屋から出て きた女性に来意を説明すると、別の若い男性に代わってくれて、篠原無然と書かれたファイルを持ってきてくれた。以前に調べに来られた人がいて、奥飛騨の平 湯からの手紙なども入っていた。それらの資料をめくりながら照合していくと男性が「めちゃくちゃ、ぼくの家の前ですわ」と笑った。小代の中心部らしい。 グーグルマップでいうと大谷稲荷神社に隣接する。車を止められる場所なども親切におしえてくれた。小高い稲荷神社の下が棚地のようになっていて、能舞台の ような奥に引っ込んだ観音堂とその横手に小さな大師堂があり、その間に古い墓石などとならんで「篠原無然先生碑」が、まるで道祖神のように。丸みを帯びた 自 然石の裏面には建立した井上富太郎の名前だけがかろうじて読み取れたが、あとは苔で埋め尽くされてほとんど文字が見えない。でも、それでいいのだと思っ た。すでに夏江氏が記している。「こんな穏やかな日がつづけば、野山の雪も解けるであろう。この碑周辺の雪も消えてゆく。だが、中年の公務員さえ、碑のい われを知ってはいないのだ。花を供える人もいない春よりも、白い清浄な雪に埋もれている方が、この碑にふさわしいと私は思い、いま一度、掌でそっと碑を撫 でた」  50年後のいま、おなじ場所でわたしもおなじ気持ちでいる。無然がこの地を去ってから、もう優に百年が経ったのだ。稲荷神社の石段をのぼって、 この国のどこにでもあるのだろう山あいの集落の風景を眺めた。ここで二年間の代用教員を送るなかで無然は青年会や婦人会を 組織するなどしつつ近郷集落を巡回講演し、その後「青年会の組織及び事業」を著し、上京して早稲田大学に入学した。五時のお寺の鐘が鳴った。わたしの無然 の古里をめぐる旅もおわった。
2020.8.30


 

 

 

 

 

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