023. 奈良市の山あいに満州天理村「生流里」の記憶をさがしにゆく

背中からの未来

 

 

■ 023. 奈良市の山あいに満州天理村「生流里」の記憶をさがしにゆく


    風のない、おだやかな連休の初日。生流里(ふるさと)村もまた、ねむりのなかにまどろんでいるような集落だった。東大寺転害門前をぬけ、般若寺の手前あた りから柳生街道へと曲がる。手つかずの原生林が残る奥山ドライブウェイの、さらに東方の奥といったらいいだろうか。満州開拓の夢潰えていのちからがら帰国 した人々がたどりついた第二の開拓地がここだ。村内をぬける標高四百メートルの等高線は、若草山の山頂よりさらに百メートル高い。平地の少ない山あいに ぽつりぽつりと距離をおいて点在する家々はさながら「開拓民の村」といった風景だが、その広さに比べて村を周回する道路が車一台が精いっぱいの狭い道なの は集落がけっして裕福でなかったことを物語っているのかも知れない。「険しい山道を、荷車を押しながら数々の資材を運んだ。ようやく家族が安心して食べて いけるようになったのは、世間が“もはや戦後ではない”と騒いでから十年以上経った、1970年前後のことだ」(エイミー・ツジモト「満州天理村「生流 里」の記憶」えにし書房より)  

  教祖:中山みきの存命中にいくたびの弾圧を受けてきた天理教は、天皇を頂点とする国家神道を掲げる「大日本帝国」の下での生き残りをはかり、本願寺をはじ めとする仏教各宗派やキリスト教団とともに国家への忠誠の姿勢を明確にしていく。日清戦争の際には軍資金1万円(現在の数千万円相当か)を国に献上し、 「東・西本願寺合して一万円を戦費に献上ぜしに、天理教会は独力一万金を献ず、迷信の勢力亦驚くべし」と新聞(東京日日新聞)に報じられもした。 「1940(昭和15)年には、信者組織「一宇会」を発足させ、中国大陸侵略の一大スローガンとなる「東亜新秩序建設」に応えるかのように「天理教興亜 局」を設置している」(前掲書)。天理教団が満州移民、満州天理村の建設といった国策に教団をあげていち早く乗じたのも、これら一連の戦争協力の流れにつ らなっている。1934(昭和9)年、関東軍の全面的なバックアップのもとで、教団は最初の開拓団を満州・ハルピン郊外の土地へと送り込む。そこは武力を 背景に 地元民から安い値段で収奪した土地であり、教会や学校のある村の境界は城壁のようなゲートで囲まれ、各角にトーチカ(陣地)が設置され、鉄条網には五百 ボルトの電流が流れていた。新天地で汗を流しながら教祖の教えを伝道しようと夢見ていた人びとはやがて隣接する731部隊の施設建設にもたずさわり、敗戦 のソ連侵攻時にはマルタと呼ばれた人体実験の犠牲者たちの遺体を焼却する作業をさせられた。「自分たちは、人間を救うために満州に行ったのではなかったの だ。広い土地をもらいたいばかりに、先祖から託されたわずかな土地を売って天理教に入信した。満州人をこき使い、人間扱いしなかった。それでも都合のいい ときには、“天理教の親神様”よ・・・」

  山あいの猫の額ほどの休耕田のはたに車をとめて、集落の墓地へ向かう道をのぼっていった。やがて「満州天理村 一宇・大和 開拓団 拓友の碑」と刻まれた 赤錆色の石碑がなにやらものさびく、ひっそりと屹立している。昭和53年の建立だ。すでに時代から忘れ去られたか、しかし花台には真新しい色花が飾られ、 無数の魂魄はいまだここにとどまっている。その端に数百名の合祀者名が刻まれた銅板がコンクリートの台座にはめられ鎮座している。すべてみな、家族単位 だ。何十という家族の名前。ソ連参戦後、731部隊をはじめとする軍人たちだけが用意された軍用列車で内地へ帰国し、軍からも国家からも見捨てられた開拓 団の逃避行は筆舌に尽くしがたい。さながらそれまで日本人が中国やアジアの人びとにしてきたあらゆる悪が揺り戻されたように、殺し尽くし、焼き尽くし、奪 い尽くされたのだった。

  天理村民の逃避行は《涙無くして語ることをえない》という言葉に値するほど、どの開拓団より凄惨をきわめたといえる。ソ連の開戦と侵攻は、近隣の満州人を 暴徒化させ、これまでの憤怒を晴らすかのように各開拓団を襲撃させた。先に述べたように、天理村は相次ぐ襲撃や戦闘によって、殺戮、略奪、暴行の修羅場と 化した。
  そして、帰国のめども立たないまま、天理村ではこうした悪夢の日々が続き、諦めて満州人の妻となった女性たちや、満州人の家庭にもらわれていく子どもたち もいた。天理村に隣接する福昌号(村)には匪賊が住み着き、危険極まりない状況のもと、人々は息を潜めて日常に耐えていた。

  8月18日、大本営の軍使として満州や朝鮮駐在の軍、開拓者の引揚げなどを善処するためにハルビンにもどった朝枝繁春中佐はその「関東軍方面停戦状況に関 する実施報告」に「内地ニ於ケル食糧事情及ビ思想経済事情ヨリ考フルニ、規定方針通リ、大陸方面ニ於テハ在留法人及武装解除後ノ軍人ハ蘇聯「ソ」ノ庇護下 ニ満鮮ニ土着セシメテ生活ヲ営ム如ク「ソ」聯側ニ依頼スルヲ可トス」と記した。かれらは国によって遺棄されたわけだ。

 銅板の合祀者名簿 の最後に寄せられた文言。「天理教青年会事業にて大東亜戦争の最中 昭和18年3月より大天理村の建設を夢に渡満 昭和20年8月終戦となるや ソ連兵や 匪賊の犠牲 飢と病気に倒れ母国を夢にみつゝ大陸に眠る拓友の霊を鎮め永遠に祀る」  もとよりここには「大天理村」建設の夢と侵略戦争の一端を担わされ た、冥府のような裂け目から立ち上がる声は記されていない。しかし記されていなくとも声は空間に、かれらが生きて二度と帰れなかった山川草木に満ち満ちて いる。

  何百人という人が死んでいる―――しかし何という無意味な言葉だろう。数は観念を消してしまうのかも知れない。この事実を、黒い眼差しで見てはならない。 また、これほどの人間の死を必要とし不可逆的な手段となしうべき目的が存在しうると考えてはならぬ。死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人 ではない。一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にのぼったのだ。何万と一人一人。この二つの数え方のあいだには、戦争と平和ほどの差異が、新聞記 事と文学ほどの差がある…

 何万人、何十万人の不幸には、堪える方法がない。だから結局は堪えることが出来るということになる。小さな不幸には堪えることが出来ず、大きな不幸には堪える法がない。人間は幸福か。

堀田善衛「時間」(岩波現代文庫)

  ねむりのなかにまどろんでいるような山あいの集落の、子どものお椀のような谷筋のひと気のない墓地に立っているわたしにいったい何ができるだろう。石田伊 勢吉、初枝、小夜子、利信、秋子。銅板に刻まれたひとりひとりの名前をわたしはゆっくりと読んでいった。かつて笑い、泣き、食べ、眠ったひとりひとりとそ の家族の姿を、山川草木に満ち満ちた声なき声からわが身に転写するように読み上げていく。上符初治、捨子、君子、アキヱ、富子。ひとりひとりの名を読み上 げて いくと、会ったこともないかれらの姿がぼんやりと立ち現れて、動き出すようなかすかな気配がする。渡辺政吉、ハルミ、政幸、房子、清江、賢一。岸本政次 郎、ミヨ、加代子、満、浩三。春のおだやかな日の光がまるでどこかにある大樹の花びらのように音もなくふりつもる。かなしみともおえつともていねんともわ からぬような思念がゆらゆらとかげろうのように地面のうえでゆらいでいる。西条知男、たつ、一男、美代子、貞男、悟、公夫。布施猪之吉、イソ、あや子、和 子。何万人ではない、一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にのぼったのだ。交わされた会話、着物の袖、指先、肌におちる月の光。くたびれた騾馬の ような徒手空拳のわたしにできることは、せめて、かれ らを一人一人にもどしてやることだ。ひとりひとりの名前を生きていたときに呼ばれていたその名前を、もういちど読み上げて一人一人をよみがえらせること だ。 そしてひとりひとりのことを想う。この花びらのようにふりそそぐおだやかな春の日の光のなかでわたしは立つ。井上小太郎、たつ、節子、昭子。鈴木壮平、仙蔵、すえ、幸 一、昭司。中野一三、門二、ヨウ、武夫、清江。吉田庄吉、ヤヱ子、スゞ子、敏一、義輝。高橋イネ、一男、ヒロ子、フミ子。たちつくす。

◆『満州天理村「生琉里」の記憶』書評 証言が問いかける、宗教と個人
https://book.asahi.com/article/11585549

◆満州天理村拓友の碑
〒630-1123 奈良県奈良市生琉里町195

◆満州「天理村」異聞(池田士郎) PDF
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3744/JNK001503.pdf2020.3.28

2020.3.28







 

 

 

 

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