021. 東近江で伝病焼屍場跡をさがす

背中からの未来

 

 

■021. 東近江で伝病焼屍場跡をさがす


 
  東近江、蒲生岡本。さいしょにこの土地を訪ねたのは画家の福山さんが連れて行ってくれた梵釈寺だった。苔生した墓石がこの世から遊離して会話している場所。 そのときに寺の近くに「伝病焼屍場跡」(明治10年ごろから発生したコレラ患者の死体を焼いた山中の火葬場)の案内板を見て、二人で薄暗い共同墓地の裏手 を探したのだけれど道が分からなかった。そうだ、あの場所をもういちど探してみよう、と思ったのは菩提寺SAで、急遽ナビを設定しなおした。休日をとった 金曜日。ほんとうは娘と二人で、事前に調べていた八日市の洋食屋・ABC食堂でランチを食べて、瓦屋寺と太郎坊宮に寄り道して、それから五個荘の福山さん の個展を見に行く予定だったのだが、娘が体調不良でキャンセルとなり、白紙になった。人気のない梵釈寺の前に車を停めて、前回は見れなかった周辺の史跡を たどった。田の神、山の神、また天智天皇の皇子が宮を造営したという碑があり、裏山には行基にまつわる壺焼き・水晶磨きの渡来系工人たちの伝承があり、壺 焼谷・鋳物師などの地名も残る。わずかなエリアに民俗、伝承、歴史がコンパクトに寄り添い、重なり合っている。そこがひとつのちいさな宇宙のように。寺の 奥の落ち葉が美しく積もったしずかな道をたどって溜池の端にあたりをつけたのだが、その場所は見当違いだった。高御産巣日神(たかみむすびのかみ)を祀る高木神社を経て、八日市の路地に見つけた萬膳食堂で昼食に焼きそ ばを食べた。くたびれたカウンターやテーブル席にすわっているのはみんな常連客ばかりで、だれもがどこかで会ったような懐かしい顔に見える。やっぱりこう いう店が落ち着くよ。近くの市立図書館で少しばかり資料を漁ろうかと思ったら、ずいぶんと長居してしまった。三人の女性の司書さんが熱心につきあってくれ た。見つけたのは明治の伝染病の流行と「火葬兼汚穢物焼却場」設置について書かれた町史の記事と、八日市にかつてあった遊郭に関する詳細の資料(新参の遊 女の客取りから葬儀に至るまで)。五個荘の福山さんの個展会場へ向かったのはそろそろ日も暮れ始めようかという頃だ。古民家の壁や濡れ縁や床の間に配置さ れた風景に人の姿はない。川や道や草原や鉄路や井戸や住宅すらもあるのだけれど、人の姿はまったく見えないし気配すらもない。まるですべての人間が風景の 中に融け交じってしまったかのようだ。そして風景はけして特別なものでもなくて、ついこの間にじぶんも通りかかったかも知れないような何げない場所ばか り。ならんだ二枚の作品に湿度があって、くぐもった体温のようなものを感じた。画家はその二枚がいちばんあたらしい作品で、なにも下処理をしていない和紙 に、ほとんど現地で仕上げたものだとおしえてくれた。その二枚はやっぱりだれもいないのだけれど、目に見えないたくさんの人があるいているのだった。わた しは画家にいつかお墓を描いて欲しいとこのごろ言っている。わたしの訪ねあるく墓地は、このくぐもった体温のある絵のようなのだった。その晩は画家と、木 工作家である智子さんご夫婦の家に図々しくも泊めて頂いた。親しげに膝の上に乗ってくる猫の額を撫でながら、地元の酒と近くの被差別部落の精肉屋で求めたもつ 肉のおいしい鍋をつつき、八日市の旧遊郭地内にある手強い大衆食堂の話から、大正時代の遊郭地図に載っている延命湯がいまも営業しているというので福山さ んと二人で、智子さんが手洗い桶に用意してくれた手拭いと石鹸をもって車に乗り込んだ。延命湯は残念ながら休業日だったのだが、もうひとつのこれも古めか しい福助湯の湯に浸って、それから夜の太郎坊宮に行って参道の石段をのぼり、巨岩の磐座から八風街道がよこぎる眼下の夜景をしばらく愉しんだ。天狗に律せ られた山域は清浄で邪気もなく、暗闇が肺に気持ちよく流れ込む。20代の頃、台風一過の弥山からの山道をハイになって駆け下った、あんな感覚だな。翌朝は見晴らしのいい平地に坐す御澤神社の湧水を汲んでから、福山さんが個展会場へ行くま での時間をぬって、二人で「伝病焼屍場跡」をあらためて探した。梵釈寺からすぐ南の砂利道をイノシシ除けのフェンスを開けて進むと大きな溜池に出て、道の端に「壺焼 谷」に関する案内板が立っている。そこから道をさがして斜面をのぼると池を見下ろす高台に「史跡行基菩薩壺焼谷」の石碑が立っている(昭和49年建立)。 さあ、それから暗い藪と熊笹に囲まれた杣道をあちこちとたどり、地図上ではどうもこのへんだろうと思われる場所に出たのだが何もない。ひょろひょろと細い 雑木と薮にすっかり埋もれてしまっていた。少しばかりの棚地のあたりにそっと手を合わせた。座棺に入れた病死者をここまでかついできて、木を組み、火をつ けた。そのとき暗がりに赤々と照らし出された人びとの顔はどんなふうだったろうか。忘れてしまいたい悲しい記憶だろうけれど、これはこれで貴重な歴史の記 録だと思うのだ。梵釈寺の前で福山さんと別れて、わたしは近くの蒲生町の図書館へ寄ってみた。そこでも若い司書の方が三人、嫌な顔も見せず親切に付き合ってく れたけれど、出てきた資料は少ない。壺焼谷に関する古老の言い伝えと、それから江戸時代の小脇で火炙りにされた彦左衛門に関する当時の覚書。梵釈寺前の案 内板は、平成17年のまだ蒲生町が東近江市に合併する直前に町の補助金で各地で企画された「夢プラン」のひとつだと判った。岡本のその企画の責任者はオカ ダさんという岡本の人だった。八日市の図書館で見つけた伝染病に関する資料にあった市子殿の共同墓地にやはり設置された「火葬兼汚穢物焼却場」、あるいは ここだろうかという佐久良川沿いの墓地が図書館に近い中学校の北側だったのでそれを覗いて帰ろうかと思ったのだが、先に司書の女の子が教えてくれたスー パーの店内で食べられる海鮮丼のお昼を食べに行った。店の奥の鮮魚売場で注文をしてレジでお金を払うと、イートインコーナーに持ってきてくれる。500円 で海鮮丼、焼き魚、フライなどの定食などなど。猿田彦神社のすぐ近くの川沿いの墓地は、昭和初期の軍人墓もいくつか建っているが、明治から続いているわり には数が少ないようだ。河川敷は十分に広くて、あるいは他の墓地は別の場所へ移動したのかも知れない。「火葬兼汚穢物焼却場」があったかも知れないあたり はスポーツ公園のようなグランドになっている。そんな河原の景色を眺めていたら福山さんから、「夢プラン」のオカダさんが今日、岡本のガリ版伝承館前で催 されているマルシェに出店しているから話が聞けるかも知れないとメッセージで伝えてきた。ガリ版伝承館はガリ版刷り印刷機を私財を投げ打って発明した、岡 本出身の堀井新治郎父子の明治期の本家を利用した資料館だ。せっかくなので伝承館を見学してから隣の敷地のマルシェに行ってみると、オカダさんはテントの 下で自家製の豆菓子と甘酒の元を売っていた。午前中、福山さんと二人で「伝病焼屍場跡」を探して薮の中を歩きまわっていた話をすると、そうか、それはうれ しいなあ、と喜んでくれた。溜め池からの道も「よく見つけたなあ」とうれしそうだった。「伝病焼屍場跡」はオカダさんより20歳年長の人が伝え聞いていた話 で、二人でその場所をじっさいに見に行った。だから案内板の地図に記した場所は等高線など、まさにぴったりの位置に丸印をつけているという。「3〜4メー トル四方の地面が一段低く掘り下げられていた。でもいまではもう草に覆われて見つけにくいだろう」  そこで焼かれた伝染病者の人は、そのあとはみんなと 同じ墓地に葬られたんでしょうか? 「いやあ、どうだろうなあ。それは分からんなあ」  そしてあれこれ話を伺って「夢プラン」のことになり、案内板の元 資料のようなものはないのですか? と訊くと、まとめて町内の希望者だけに配ったと云う。見たいなあと云うと、その資料をあるいて30秒ほどの自宅から持ってきてくれて「いつ でもいいから」とあっさり貸してくれた。A4のファイルで項目別に仕分けられた大部のものだ。「伝病焼屍場跡」を示した古い絵図や、オカダさんが調査したときの写 真などもある。思わぬプレゼントに小躍りしそうな気持をおさえてお礼を言い、ガリ版伝承館の駐車場に停めた車の中でしばらくページをめくった。それから福 山さんちの近くの精肉屋へカッパ(さいぼし)を買いに立ち寄り、カッパとゆぎりを手に入れて、暮れてきた8号線を南下した。帰りは節約のため高速は使わず に下道を走ろう。行きも帰りも車内のBGMは中国のアーティスト、趙雷と房东的猫だ。岡本の山間に暮らした渡来系の人びともあの大陸からやってきたんだか らね。宇宙を内包したちいさな山里をあとにして夕暮れの道を行基に従う渡来人のように紫香楽へ。

2019.12.15


 

 

 

 

 

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