017. 和歌山県下津町の砕石工場で働いていた朝鮮人労働者の姿を追う

背中からの未来

 

 

017. 和歌山県下津町の砕石工場で働いていた朝鮮人労働者の姿を追う

  今日は潮がうつくしいが、だれも釣りをしてる者もおらん。あんた、どこから来た? そうか。いまはこんなんだが、むかしはここも舟がぎょうさん泊まってて な。正月なんかは大漁旗がそりゃあ、鮮やかだったよ。そう、見たことがあるかね。わしもずっとタンカー船に乗っていたが、休みの日はじぶんの釣り船で魚を 捕りにいった。燃料はタンカー船から分けてもらうからタダだ。タンカー船の稼ぎより良いときもあったなあ。そうさな。淡路島や明石の方までいくんだ。あの へんの潮は栄養価が高いから魚が旨い。むかしは大阪湾はもっと汚れていたからだれも食わんかったが、海もきれいになってみんな食べるようになった。逆に潮 岬の黒潮は栄養がぬるい。舟でどれくらいかかるかって? 明石まで一時間半くらいかな。エンジンだから、近いもんだ。わしもずっと海で働いてきたよ。わか いときは紀ノ川の河口で採れる砂利を舟で大阪や神戸へ運んだ。生コンになるわけだ。あの頃はまだ木造船だった。九州の石炭を積んだこともあったな。発電所 へ持っていくんだよ。3年ほど、東京へ働きにいったこともあったなあ。東京湾へ入っていくあの入り口の左側あたり、自衛隊の基地があるあたりは何て言うん だ? 横須賀、だったかな。あのあたりの海の底を掘る仕事だ。岩盤が浅いんで、5メートルくらいの長い鉄の棒の、先が三つにわかれているようなやつを船か ら落として地面につきさす。そうして崩した岩をカッターレスでさらう。え。東京じゃ、どこに住んでたかったって? 船ん中んだよ。でっかい船だからな。寝 るところはいくらでもある。ときどき陸(おか)へ飲みにいったりもしたけど、ほとんど船ん中だったな。砂利の運搬船がすたれてきて、タンカー船に乗るよう になったんだ。あとは65歳の定年で引退するまでずっとタンカー船だ。いまはもう82歳だよ。タンカー船を降りてからも魚は捕りにいっていたけど、脊髄を やられてから手が思うように動かなくなって、魚を引き上げられなくなった(笑) それで舟も数年前に処分した。へえ、あんたの嫁さんの実家もタンカー船か い。うん、ヨコタは知ってるよ。わしんんとこはナカオだ。瀬戸内に潮待ちの良い港があってな。船がなかなか進まないときは潮の流れが変わるまで、そこで待 つんだ。そんなときは、おんなじ地の船があればその横につける。いや、旗なんかじゃなくて、船の形を見ればすぐ分かる。ヨコタの船ともそうやって何度か いっしょになったことがあったよ。食事は大きな船だったら賄いの人が乗っていて三食つくってくれる。3〜4人の小さな船だと、いちばん年下のものがつく る。甲板から釣り糸を垂らして釣るから、魚は不自由しなかったな。冷蔵庫にいつもたっぷり入ってた。小さな舟が陸からやってきていろいろ売りにくるんだ。 「野菜だけくれ」って言うと「何でだ?」と言うから、冷蔵庫の中を見せてやったら「うちよりたくさんある」って驚いていたよ(笑) だから買うのは野菜、 米、味噌かな。おちょろ舟も来た。他の船は若いもんがばらばら乗ってたから、わがらの船にあげていいことするわけだ。わしらは親子で乗ってたから、あげる わけにもいかないしなあ。朝になるとビーッと笛が鳴って、「さあ、ひきあげるぞ」って合図だな。迎えの舟が来てかえっていく。瀬戸内から北海道を回って、 いちばん遠いところは新潟あたりまでかな。あっちの冬は寒かった。デッキの手すりに波があたると、つららになって固まるんだ。それくらい寒かったな。 ちょっと腰がつらいから、あすこのベンチにすわらせてもらおうか。どれどれ。そう、うちは代々ここ、オオサキだよ。父親は戦争から帰ってきてから一時、八 百屋をしていた。でもいまじゃ米屋も閉め、魚屋も閉め、雑貨屋も閉め、もうオオサキには店はなんにもない。空き家も多いが、売れるわけでもないし、そのま まほったらかしにされている。瓦の何枚かでも落ちると、そこから雨が入るからもうダメだね。ちょっと前は更地にして駐車場にすれば多少のお金も入ったけれ ど、いまじゃ止める車もない(笑) そのうち人間より猫のほうが多くなるんじゃないかね。わしらもずっと船ばかりだったから、車の免許も持っていない。だ から買い物も不便だ。あすこの丸善のタンクも、もうすっかり油も抜いてしまったらしい。撤退するという噂だが、いまは別の会社になっているけどね。どうな ることか。あのトンネルのある小山の向こうに戦争中は朝鮮人たちが暮らしていた。石山ってみんな呼んでたけど、青石が採れて、それをあちこちに運んでい た。コンプレッサーをつかって岩を砕いていく仕事だから重労働だ。そこで朝鮮人たちが働いていた。そうさな、20家族くらいはいたんじゃないかな。わしは その時分、小学生だったかな。弁当を持って父親と行ったことがある。あの谷筋の低くなったところにむかしは道があったんだ。学校の同級生にも朝鮮人の子ど もがいたな。あの頃はみんな、わがとこで鶏を飼っていた。朝鮮人はその雄同士を闘わせたりして遊んでたな。お互いに仲良くやっていたよ。戦争の終わり頃 に、あの石油タンクがアメリカに爆弾を落とされてたくさんの人が死んだ。空襲だな。わしも母親と山を越えて反対側の海辺へ必死になって逃げたけどな。照明 弾っていうんか、夜中なのにずっと昼間のように明るいんだ。目の前の海の中にシュンッといって落ちた爆弾もあった。翌朝、爆弾で死んだ人の遺体を青石の採 掘場で働いていた朝鮮人と、それから旧制中学の生徒が片付けにいったらしい。戦争が終わって、朝鮮人たちはいつのまにかいなくなってしまった。どこへいっ たのか分からない。集落の跡かね。もう何にも残ってないんじゃないかな。さあ、何時になったい? そろそろ帰るとしようか。わしの家はあの先、廃業した米 屋の路地を入って、つきあたりを右に折れたところだよ。

(連休初日。つれあいと二人で和歌山の義父母の家へ、古くなった煙感知器を交換したり、不用品を二階へ上げたり、もろもろ日常の手伝いに行った。昼飯の前に散歩へ出た港で、海を見ていた老人と一時間ほど話をした。)

2017.11.4

和歌山。つれあいの実家近く。戦時中に石切場の発破仕事で働かせられていたという朝鮮人の飯場跡を探して山ひとつ越えてきた。里山で猪に遭遇した万が一のために腰にぶら下げていた鉈のケースのベルトがちぎれてしまった。(1月6日 FB)

 

朝鮮人飯場跡と思われる場所で拾ってきた飯茶碗。形状からして茶碗とその蓋かも知れない。それなりに古いように見えるが、絵柄で年代が特定できるような手段はないものか。

  國
愛   用
  産

「國 産」 「◆◆セヨ」 「◆本(日本?)」

などの文字が見える。(1月7日 FB)

 

敗 戦前後に海辺の採石場で働いていた朝鮮人家族の子どもたちが町の小学校へ通学していたという。数年前に残念ながら廃校になったその小学校の明治からの卒業 名簿をまとめた冊子があるという情報をつれあいの幼馴染から頂いて、さらに調べてもらったらつれあいの実家にも置いてあるそうで、明日はそれを取りに行き がてら、せっかくだから和歌山市内の県立図書館で何か関連資料(特に採石場に関する)がないかを調べて、併せて海南市の歴史民俗資料館とやらがあるみたい なのでそこにも寄ってこようかと企んでいる。昼はこの「げんき大崎館かざまち」の二階で海を見ながらサゴシの塩焼きやおからスティックを食べてもいいしな とか。というわけで図書館の9時開館に到着したいので、今日は早めに寝ます。(1月12日 FB)

 

小 学校の昭和17年度卒業生の名簿にあった、おそらく採石場で働いていた朝鮮人家族の子どもの一人だろうと思われる氏名。なんという読みになるのか、分かる 方がいたらおしえてください。かれも異国のこの港の風景のなかで生きた歴史の実時間があったわけだ。日本人のたいていは忘れてしまっているけれど。

県 立図書館で、運輸省がまとめた和歌山港工事事務所の「50年のあゆみ」を見つけた。そこに「大崎採石工場の思い出」と題して手記を投稿している当時内務省 の係長がなんとつれあいの幼馴染の伯母の義理の父にあたる人だった。そしてその採石を船で和歌山港へ運搬する作業を受注していた株式会社淺川組の社史 「70年のあゆみ」も見つけて一部をコピーしてきた。(1月12日 FB)

2018.1.13

 午後から娘のMRI検査があるので午前中だけ、届いたばかりの上下のサイクル・ジャージに身を包み、自 転車で県立図書館へ。さすがにジーパンに比べて足回りが動きやすいし、何より袖口や首周りなど、風をほぼ完璧に遮断してくれるので実に温かい。見かけだけ はいっぱしの自転車野郎だ。戦時中の朝鮮人強制労働の、とくに具体的な場所や、できれば名簿などの記載があるものが欲しい。おとといは頼んでいた海南市教 育委員会のT氏から電話で、めぼしい資料は何も残っていない、という返答が返ってきた。当初はもう少し親身に話を聞いてくれたと思ったが、心なしかやけに 素っ気ない。田舎町のことだ。大方、そんな面倒な話にはあまり関わるなと、どこからか一言下ったのかも知れないな。地元の役場関係の望みが絶たれたので、 あとはじぶんでお年寄りたちの話を聞いて回るしか手段は残っていないが、その前にもうすこしだけ資料を固めておきたい。このクソったれの国に残っている強 制労働の記録だ。林えいだい氏らがまとめ明石書店から出版された大部の「戦時外国人強制連行関係資料集」は九州の炭鉱関係がメインか、全7冊の内の3冊が 当館では欠いている。ネットでよく見る竹内康人氏が編纂し、神戸学生青年センター出版部から出ている「戦時朝鮮人強制労働調査資料 連行先一覧・全国地 図・志望者名簿」(2007年)は「名簿・未払い金・動員数・遺骨・過去清算」のサブタイトルを持つ補足資料と併せて、2015年の最新版が出ていると知 り、帰宅後に早速Webで注文した。いまのところ、目当ての砕石場の記録は出てこない。戦争末期に各地で多くの地下軍需施設が建設され、そこに大量の朝鮮 人や中国人が投入されたが、戦後になってそれらに関わった多くの企業が国に対して「国家補償金」を求める際に添付した記録もあるらしい。(「極秘・華鮮労 務対策委員会、活動記録」(日本建設工業会 1947) 田中宏「在日外国人」(岩波新書)に拠る) 最終的には京都・奈良の県境にある国立図書館・関西 館にて確かめようと思っているが、今日は午前中だけなので時間が足りない。ここに至るまで親身に資料をいっしょに探してくれた文書調査カウンターの女性 に、声をひそめて訊いてみた。「あすこの“戦争体験文庫”って、かなりのスペースですね」 「旧の県立図書館の頃から、みなさんから寄贈された本を集めて いるそうです」 「行軍記録とかね。おなじ本が何冊も並んでいる」 「ええ。だいたいみなさん複数冊、寄贈されるようで」 「ひとつの棚が見たところ5 段、それが8並んでいるんで40。13列が背中合わせにあるから26列。26列かける40で、えーっと1040。1040のほとんどは日本人の戦没者や従 軍の記録で、わたしたちの国が他国の人々に犯した記録は、わずか1040のうちの2〜3段です。あまりにも不公平じゃないかと思っちゃうんですよね」  「まあ、あの、スペースは限りがありますし、同じ本でも貸出用と閲覧用とにも分かれていますので」 「そうですね。おなじ“皇軍記録”が何冊もあって、で もこんな、わたしがお願いした朝鮮人の強制労働に関する記録のほとんどは表には出さずに閉架にしまってあるわけですよね。これはだれの意思によるもんなん でしょうか」 ここまで来ると、もうわたしは要注意人物だ。ちょっぴりあった親密な雰囲気はたちまち搔き消えて、「まあ、とにかくご希望の書籍を出してき ますので。こちらの資料は向こうの閲覧用の席でゆっくりご覧下さい」 カウンターの女性はごく事務的に言って、カウンターの奥に消えてしまった。こうなっ てはもう仕方がない。わたしは「片付けられて」しまったのだろう。残りものの野菜スープやベーコン巻き、それに最近十八番のオリーブ油の野菜蒸しなどで昼 食を済ませてから、娘よりもいまでは父親の方がすっかり気に入ってしまった Superfly のデビュー・アルバムを聞きながら車で大阪の病院まで。頭部のMRI検査を終えて、前回ランチを食べた関西外国語大学のカフェ・レストラン Hamac de Paradis ICC でケーキセットなどを楽しみ、日が暮れる頃に帰宅した。

 

日本での朝鮮人強制連行調査の現状と課題 http://www.pacohama.sakura.ne.jp/no13/1303rekisi.html

◆神戸学生青年センター出版部 http://ksyc.jp/publish/

◆浜松の竹内康人さん、『調査・朝鮮人強制労働』(社会評論社)
http://blog.goo.ne.jp/maxikon2006/e/1b55ed345315c890311879cd17495db2

◆強制動員真相究明ネットワーク http://www.ksyc.jp/sinsou-net/

◆奈良県立図書情報館 http://www.library.pref.nara.jp/ 

2018.1.21

 

  代休の平日、奈良=京都県境にある国立国会図書館関西館へ行く。わが家からは車でわずか20〜30分ほど。むかし奈良支社に勤務していたときに仕事の関係 で一度だけ訪ねたことはあるが、利用者として入るのははじめてだ。これまで県立図書館止まりで事足りていたし、またちょっと敷居が高いイメージもあって縁 がなかったけれど、言ってみたらあなた、寝袋持って一週間くらいそのまま泊まりたい気分でしたわ。最初に登録カードをつくって、あとは入退館もそのカー ド、貸し出し・返却、そしてPC利用も、閲覧や複写の申し込みもそのカードをリーダーに読ませる。デジタル文書などはPC上でトリミングや画質調整などを して、ページを選択してPDF化し、それがカウンターに送信されて印刷してくれ、あとはコピー代を払うだけ。閲覧申し込みもどこぞのショッピング・サイト のように該当の目録をカートに入れてクリックすれば、他の検索作業をしながら、上のバーに「処理中」とか「到着済み」などが表示され、都合のいい時にカウ ンターに取りに行くだけ。便利になりましたな〜

  相談を受けてくれたスタッフ(司書)の方々も有能で、正直言って県立図書館との差を感じてしまった。わたしより(たぶん一回りは)年下だろう男性スタッフ は「強制労働の詳しい歴史について勉強させてもらいました」と言いながらも、じぶんでもいろいろ調べられて、当時、日本へ入国した朝鮮人や中国人の労働者 を管理していたのが内務省の警保局という機関であることをつきとめて、その「警保局」をキーワードに資料検索をしてくれたし、またアジア・スタッフなどの 他の人たちも3名ほどの即席チームでそれぞれ目ぼしい資料がないかあたってくれた。

  そうした絞込みをしていって、わたしが主に力を注いだのが「在日朝鮮人関係資料集成」(朴慶植編・三一書房)全5巻で、それこそ一巻あたりの厚さが13セ ンチほどある資料の中に、昭和初期から敗戦前後までの、内務省で調べ上げた在日朝鮮人に関する渡航人数、人口割合、世帯数、共産主義・社会主義等の思想や 活動状況、治安維持法違反、労働者の状況、労働争議、特高警察の月報、果ては子どもたちの進学状況や成績の傾向に至るまでのあらゆる報告が記されている。 但し範囲が全国に及ぶため、統計は県単位であるし、あとは記事として載っている報告の中に和歌山県に関するものを目を皿のようにして追いかけていくしかな い。結局、開館の9時30分から閉館近くの5時半頃まで終日を、この資料検索に費やしたのだが、はっきり言って仕事をしている方が楽かも知れない。資料漁 りはほんとうに疲れる。

  今回、この資料から見つけ出したのは、昭和9年ごろから和歌山の朝鮮人活動表の中に「大崎村共進會」という組織があったことと、それから昨年訪れた紀州鉱 山の現場で病人に対する扱いをめぐって騒ぎがあり7名の朝鮮人労働者が拘束・処罰されたという報告があったくらい。その他は昭和十年代の各都道府県に於け る世帯割合の表をコピーしたり、それから全国を巡業していた朝鮮の楽劇団の動向について「民族的意識の機微を窺い居るものの如く注意を要する」ような報告 に興味を惹かれたりもした。朝鮮人を労働者として使うにあたってのかれらの長所と短所とか、半島へ帰郷した際の言動など、まあ勝手なことを書きつらね、若 しくはこんなところまで調べていたのかと思う部分もあり、これからのこの国の行き先を考えると過去のものばかりとも思えず、なにやら古臭いこれらの資料が 急に現実味を増してきたりして恐ろしい。なべてこれらのリポートは形式的・内容は幼稚なくせに、妙に緻密で冷たく残忍だ。

  上記以外に奈良県立図書館では欠巻があった、林えいだい氏がまとめた「戦時外国人強制連行関係史料集」全4巻 (明石書店)も見たがこれはほとんどが九州の炭鉱現場の資料。また水野直樹編「戦時植民地統治資料」全7巻(柏書房)もスタッフの人が持ってきてくれた が、タイトルの通り日本国内以外の植民地での資料であるため除外。もうひとつ田村紀之「内務省警保局調査による朝鮮人人口」(経済と経済学)は東京本館の みの資料のため、後日に郵送複写を依頼するか検討する。要するに戦後、主に大手企業側が国に対して損害補償を起こした際に添付された労働記録や、あるいは 労働争議、共産主義活動等の何らかの事案が起きたところは記録に残るわけだが、そうした大きな騒ぎのなかった(差別や小さな騒ぎは常にあったろうが)小規 模の労働現場については、いまのところ文字として残された記録を見つけるのは困難なことなのかも知れない。

 そんななかで今回、大ヒットだったのはスタッフの方が見つけ出してくれた「在日朝鮮人史研究 14号」(在日朝鮮人運動史研究会・緑蔭書房)に収録された金静美氏の「和歌山・在日朝鮮人の歴史」という50ページほどの論考である。これは「著 作権の確認が済んでいない資料のため」現在、国立図書館のデータベース上でしか閲覧できないデジタルコレクション(スキャン画像)であるため必要部分を複 写してきたのだが、わたしが探している砕石場については直接触れられていないものの、ここにはおなじ下津市内に戦時中に住み、トンネル工事や道路工事など の土木作業に従事してきた朝鮮人の方への著者みずからの聞き取り記録が記されている。(「内務省の紹介で淺川組の土木仕事にありついて、朝鮮人飯場に住ん だ」という証言も出てくる) 著者の金静美氏はじつはかの「紀州鉱山の真実を明らかにする会」の主催者でもあり、わたしの調査では現在でも海南市に在住し ている。やはり、この人にはいちどお会いしなくてはならないかも知れない。この論考では戦前、下津駅の北側に大きな朝鮮人飯場が存在していたようだ。野上 や紀ノ川、下津港、由良。いまではそんな影など微塵もないのどかな田舎町だが、昭和の初期から敗戦前後まで、たくさんの朝鮮人が危険な仕事に従事し、その 家族が暮らしていた。わたしが追っているのはそのうちの小さな点である。小さな点ではあるけれど、このままでは消えうせてしまう記憶の断片を取り戻してお きたい。

  そんなわけで朝から晩まで一日中、館内に閉じこもっていたので、お昼も当然ながら4Fにあるカフェ・テリアでランチである。大事なことなので事前に調査は 済ませている。(食事は11時から13時半までの営業なのでご注意あれ)  とにかく、安い。カレーライスの350円を皮切りに、丼やハンバーグなどの定 食・セットものでも400円〜500円。但し味は期待してはいけない。社員食堂のようにお盆をとって注文し、お金を払い、移動しながら味噌汁やご飯を受け 取っていく。漬物は取り放題。紙コップはお茶ではなく、お水かお湯。わたしは日替わり丼セット、400円を頼んだ。窓の外にはちらちらと小雪が舞ってい る。

◆国立国会図書館 関西館 http://www.ndl.go.jp/jp/service/kansai/index.html 

2018.1.26

  春分の日の休日。義父の85歳の誕生祝で、家族三人と犬一匹にて和歌山へ行く。わが家からは柿の葉寿司を買って行き、つれあいの妹さん宅でケーキと唐揚げ などを、それぞれ持ち寄って昼食とした。義父は85歳、義母は81歳。わが家の娘がまだ小さかったとき、「この子の成人式までは生きてられないだろうよ」 と義母は言っていたが、じきにもう目の前だ、とわらった。

  食後はわたし一人で親類のT家へいそいそと出かけて行き、90歳のおじさんに朝鮮人飯場についての聞き取りを夕方まで。「あんたはいったい、なにを調べた いんだい」 「本でも書くのかね。変わった人だね」とおじさん、おばさんに笑われながら。わたしが見つけ出した資料のなかの古びた写真の顔や記された名前 の幾人かをおじさんはよく知っていると云う。「こいつはわしの盆栽仲間だよ。もう何年か前に死んでしまったが」  戦時中、この小さな漁村の山の上の朝鮮 人飯場に家族で住み、危険な砕石作業に従事していた人々がたしかにここで日々を送っていた頃、おじさんは小学生で、現場監督などでもっとくわしく直接に現 場のかれらを知っていただろう村の人たちはみな彼岸へいってしまった。あと10年、いや5年早く訊いていれば、と思う。遅きに失した感は否めない。こうし てわたしたちは、みずからの歴史を失ってきたのだ。

  帰り道。8割方開通した京奈和道の、御所のあたらしいサービスエリアでポン柑を買った。新宮の八百屋の店先ではじめて食べたときのことを忘れない。帰宅し て食後に食べようと思ったら、9個中の半分近くが白い黴が生えたり黒ずんで腐っていたりした。あんまりひどいのですぐに電話をした。支配人の名刺を持った 年配の男性が御所から走ってきて丁寧に謝罪してくれ、返金の上、桜の葛餅の包みを置いていった。おそらく見られていたのだろう、店先で二人で「おいしそう だね〜」と言っていたおなじ葛餅だった。うれしい〜 とつれあいは破顔して、ついで「籐で編んだバッグも素敵だなあってわたし、言ってたんだけど」って、 こらこら。

2018.3.21

  集落で最長老だった和歌山・大崎のTのおじさんが亡くなったと連絡が入った。昭和元 年の生まれ、享年95才。つれあいの母親の姉の夫になる。ちょうど3年半前、大崎の裏山にあったという戦時中の砕石場とそこで働いていた朝鮮人家族の飯場 のことなどを聞きに行った。「あんたはこんなこと聞いて、いったい何にするんだ?」と笑いながら話してくれたが、いまとなっては貴重な証言だ。大崎の砕石 場については、まだきちっとまとめていないけれど、おじさんの冥福を祈りつつ、当日のメモをいったんここにあげておこう。家族にはいろいろ迷惑をかけたら しいけれど、好きなことをやって人生を駆け抜けた、我が道を行くという風の何となく親しみを感じるおじさんだったな。R.I.P

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「50年のあゆみ」
大爆破は荒崎。みんな家で雨戸を閉じてじっとしていたが、たいしたことはなかった。

「和歌山・在日朝鮮人の歴史」
「下津しらくら山の石山」→ケイセキという貴重な石が取れた。下津駅山側の沓掛にある白倉山のこと。いまはもう何も残っていないだろう。

浅 川組はもともと樺太やシベリアから材木を運び、当時は和歌山湾が整備されていなかったので下津で筏に組んで船で引いて和歌山へ運ぶ仕事をしていた。なかば 暴力団のようなもので、その仕事を巡って(大阪の組と)争いもあり、下津の旅館で浅川組がよその暴力団員を射殺する事件も起きた。

淺川組はもともと現在和歌山石油タンクがあるあたり、松の鼻と呼ばれるあたりの砕石をしていた。一方、内務省の砕石工場はそれとは別で、浅川組はかかわっていないと思う。

砕石工場の大崎の事務所で働いていたのは5〜6人くらい。あとは現場の監督などで、全体の2/3くらいは大崎の人間だった。だから知り合いがたくさんいる。

海 側の飯場の下にコンクリ製のダイナマイトなどを入れた倉庫があって、番人小屋もあった。朝鮮人の仕事はハッパ作業で、細長いモリのようなものを一人が支え ていて、もう一人がハンマーで叩いて穴を開け、そこにダイナマイトを仕掛けて石を砕く。モリの刃先がすぐになまるので鍛冶屋とその機械小屋のようなところ も荒崎の浜にあった。

砕石場からはトロッコのレールが敷かれ、砕いた石を運んでクレーンで船に乗せた。


山の中の朝鮮人飯場は15人づつくらいの二箇所で計30人くらいいたんじゃないか。

立てた柱にワイヤーなどで板を貼っただけのバラック。屋根も板で石を瓦代わりに置いていた。細長い長屋で、建物の両側に出入り口があり、中を世帯ごとに仕切っていた。中央に通路があって、両サイドにカーテンがぶら下がって部屋があるような感じ。

バラックの横の地面に壺をたくさん埋めて、そこにキムチを漬けていた。

風呂は五右衛門風呂だったのではないか。水場はあった。土のかまどもつくっていた。

Tの家は米屋をしていたので、米や醤油や酒などの注文を受けて子どものわしが配達に行った。山からでも行けたが、たいてい舟で荒崎に付けてそこから行った。嫌ではなかった。興味本位で持っていった。代金はいつもきちんと払ってくれた。

じぶんは配達もあったのでときどきかれらの飯場へ行ったが、他の人はあまり接触はなかったのではないか。

ただときどき朝鮮の人が山から降りてきて、外でいっしょに酒を飲むこともあった。

朝鮮の字を教えてくれたこともある。

いまでも向こうの言葉をいくつか覚えている。「ピョング、カチャコチャ」「ポコペン」

昭和の始め頃に、最初から家族で来ていた。男は砕石、女は炊事場で働いていた。

同級生にキム・コンジュンという女の子がいて、よく勉強ができた。他にサコ・テイジという子の名前も覚えている。当時は給食などなかったので、みんな昼は家に帰って食べた。かれらも山の飯場に帰っていた。

大人も子どもも訛りはあったが日本語は達者だった。どこから大崎へ来たのかは知らないが、長いこと日本に住んでいたのだろうと思う。

蔑んだ言い方だったが、当時は「チョーセン」と呼んでいた。

産卵の時期に赤い小さな蟹で大崎の浜が真っ赤になる。それをつかまえてキムチに漬けていた。

盆と正月の頃に、大崎の浜でかれらが鐘をたたくかして精霊流しのようなことをやっていたのを覚えている。

砕 石場で事故もあったろうが、大崎の寺や墓地に死んだ朝鮮人を弔ったという話は聞いたことがない。明治の初期まで北前船で途中で亡くなった者を大崎の荒崎か ら海へ流していた。そういうこともあったから、あるいは朝鮮人が死んでもあの時分のことだし、もしかしたらこっそり海へ流したりしたのかも知れない。

下津町方にも朝鮮人の家が数軒あった。前を通るときニンニクの匂いがして「臭い臭い」と言いながら通った。

(昭和25年の)ジェーン台風で飯場が倒れたとき、「宮本」という日本人名の朝鮮人の共産党員が飯場にまぎれていて、警察が捕まえに来ていた。どうなったかは知らない。

飯場の材などはその後、焚き付けにして燃やしてしまったのだろう。その後、その飯場跡に誰かが住んだということはない。

2018年3月21日 T宅で聞き取り

 


 

 

 

 

 

背中からの未来