1952 奈良R・Rセンター(奈良・奈良市)

背中からの未来

 

 

016. 戦後の古都に出現した米軍慰安施設「奈良R・Rセンター」


 

先 日の雛人形めぐりでも立ち寄った地元の遊郭の歴史を調べていて、奈良県が1995年に発行した「ならの女性生活史 花ひらく」という本を実物も見ないで ネット古書で注文したら、大判の500頁にも及ぶ大著が届いてびっくりした。しかしこれがなかなかに興味深い。わが町にあった紡績工場の女工の話や遊郭の 楼主の思い出話、娘が通っていたクソ学校の前身である女学校が公娼廃止運動をしていたこととか、奈良の女性にまつわるあらゆる歴史をていねいに拾いあつめ た良書だ。その中で戦後、朝鮮戦争の米兵たちのためのRRセンター(Rest and Recuperation Center)が現在の平城京址のすぐ 南、三条通のあたりにあって、センター周辺に米兵相手のバーやキャバレーなどがひしめき、一大歓楽街を成していたという記事が初耳で驚いた。しかも当時、 米兵による日本人女性のレイプ事件が頻出しており、「良家の子女を守るために」婦人会の指導者などが米軍にかけあって営業許可を取り、このRRセンターの 周辺に慰安所を設置したというのも、こうした問題の根深さを物語っている。場所は平城京の南にライトアップされている朱雀門のすぐ南、ジョーシンや彩華 ラーメン の東側、セキスイの一連の工場群のあたりだという。

 こうした「見捨てられた歴史」がたくさんあるんだなあ、じぶんたちの足元にも。

◆RAAと「奈良R・Rセンター」
http://ianhu.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/raa-1fda.html

◆沖縄の戦後と女性のくらし―古都奈良の記憶から祈りをこめて
https://akopon2002jp.wordpress.com/…/%E6%B2%96%E7%B8%84%E3…/

◆狂宴 Movie Walker
https://movie.walkerplus.com/mv23805/

◆朝鮮戦争と奈良RRセンターを歩く
https://shikuru.exblog.jp/20006047/

http://9jo.e-nara.info/index.php?mn=ssk&id=7

◆ならの女性生活史 花ひらく
https://www.amazon.co.jp/%E8%8A%B1%E3%81%B2%E3…/…/4810704130

http://ianhu.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/raa-1fda.html

2018.3.6


 奈良にも現在、観光客でにぎわう平城京跡の南、朱雀門広場の南の旧セキスイ工場あたりに戦後、奈良R・Rセンターが設けられ、国営慰安所に雇われた多くの日本人女性がアメリカ兵の相手をしたが、そんな歴史はたいていの人は知らない。いつか奈良のダークツアーをやりたい。

「「R・ Rセンター」とは1952(昭和27)年、5月1日、朝鮮戦争に際して国連軍(米軍)兵士のための「休養と元気回復」の施設である「R・Rセンター」 (Rest and Recuperation Center)が、大阪市内から奈良市横領町(平城宮跡正面)のセキスイ工場に移転してきた。
1月後には近辺にカフェーバー34戸、ギフトショップ12戸、飲食店7戸、キャバレー4戸、ストリップショウ3戸などが立ち並んだ。売春婦は3千人いたと言われ、周辺の風紀の乱れは著しかった。

「このセンターは朝鮮戦争から5日間だけ帰休する兵士の休息・元気回復を目的とした宿泊施設で、日米安保条約に基づく両国の行政協定によって1952年5月1日に奈良県旧横領町に設置された。
「R・Rセンター」自体は性的慰安施設ではなかったが、設置されるや否や周辺にはカフェ―、キャバレー、バー、土産物店、洋品店などの店舗ができ、まるで西部劇映画に出てくるような独特の景観が出現し、夜も眠らない不夜城のようだったという」
「帰休兵を相手に仕事をしよう」と歓楽街に全国から1000人とも2,000人ともいわれる女性が集まって来た。女性達と米兵を仲介するポン引きも集まり、平城宮跡の南に位置した「R・Rセンター」一帯は性売買の基地と化していった。」 

2021.8.29

  最近は週末に出かけてばかりいたので、今日は家でのんびりしようかと思っていたのに、気がついたら自転車で県立図書館へ走って紡績工場の資料を漁ってい た。昭和18年に皇后が奈良県を視察したときの分厚い資料の綴りはじっくり見たら興味深いかも知れない。大日本紡績の50年史でははじめて見る工場の門の 写真があった。奈良歴史研究会なる冊子の21頁に及ぶ「郡山紡績の設立と経営動向」(北井直樹)は冊子自体が30ページしかなかったので、規定どおり半分 の15頁のコピーを見せて、残りはリュックに隠した。「職工事情」と題した全三巻からは明治34年に郡山紡績から逃げ出して保護された2名の女工や、5人 の大阪の男たちに誘拐され強姦された紡績工女の警察資料などを写した。誓得寺の境内のすみの墓石「島村先生」の写真も「郡山高校百年史」の中に見つけた。 優秀な数学の教師だったが仏教にも造詣が深く、 大阪の寺院などに招かれて仏教や哲学に関する講演をたびたび持ったそうだ。紡績工場ではないが、「古都の 弔旗」と題された奈良R.Rセンター(戦後の数年だけ奈良三条通りに設置された米軍向けの慰安施設で、多くの日本人女性が「占領軍向け慰安婦」として「提 供」された)の「調査報告書」なる一冊も貴重な収穫だった。これは状態が良くなかったので、はじめて遠隔コピー機で複写した。

2018.5.27

「昭和25年朝鮮戦争が始まると、この古郡奈良に米軍の慰安施設が作られたのである。
NARA Rest And Recuperation Centerは奈良R・R・センターと呼ばれた。
日米協定に基づく施設である。
現セキスイ奈良工場のすべての広さに、ピー・エックスや劇場や社交クラブバーで「元気回復」の嬌艶が繰り広げられた。
センターの付近の三条通出屋敷から尼ケ辻にかけて、カフエやバーや土産物など80余りの西部劇まがい店が軒をならべ、パン パンと呼ばれる私娼が群がり、まさに「元気回復の慰安施設の狂宴」の街となった。
暴力団が支配するボン引きが群がり、パンパン宿が林立し、伴うその基地被害は、西大寺付近から、JR 奈良駅付近にも及んだ。」

◆あやめ池学園南 九条の会
http://9jo.e-nara.info/index.php?mn=hm

 

 

 

 

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