011. 奈良・六条にあった癩救済施設・西山光明院をさがしにゆく

背中からの未来

 

 

■011. 奈良・六条にあった癩救済施設・西山光明院をさがしにゆく


 

  奈良の東大寺から京都方面へむかう玄関口である奈良坂に北山十八間戸(きたやまじゅうはっけんこ)と呼ばれる癩病患者の収容施設が残っているのは有名だ。 コスモスで有名な般若寺、そして今年その役目を終えて閉鎖された少年刑務所を含むこの北山一帯にはかつて、興福寺や春日大社等の権力の支配のもとで町の警 護や葬送、死穢の処理(死刑執行から死牛馬の解体まで)などを担わされていたいわゆる「非人」とよばれて賤視された人々がいた。つまり奈良坂は境界であっ た。穢れを隔て、価値を隔て、人間を隔てる境界である。「清目」とはかれら自身もふくめて、清らかな都から境界の外へ、穢れを隔離し排除する役割のことを いう。癩病者もかつてその対象であった。市中で病者が発生すると、かれらはその家に行って身柄の引渡しを要求した。病者は親兄弟から引き離れ、かれらの管 理下のもとで乞食(こつじき)を行い、あがりを上納した。病者が死ぬと衣服・諸道具類をふくめ「骨・灰」に至るまでかれらのものとなった。これを乞場とい う。草場が死牛馬の権利であれば、乞場は癩病者の権利である。

  青空の下、唐招提寺や薬師寺などの荘厳華麗な伽藍が建ち並ぶのどかな西ノ京の西郊に、北山十八間戸とおなじような癩病患者の収容施設があったということを 知ったのは、たまたまWeb検索をしていてヒットしたふたつの論文(PDF)からだ。宮川量氏による「救癩史蹟 西山光明院に就いて」(1935(昭和 10)年 レプラ第6巻第2号)と、吉田栄次郎「薬師寺西郊の夙村と救癩施設・西山光明院」(2006(平成18)年 Regional4)である。岡山 県の長島愛生園などのハンセン病患者の収容施設にたずさわりながら日本の救らい史についての研究を残した宮川は1930年代に西山光明院の跡地を訪れてい る。すでに施設はなく、かつての本堂が物置代わりに使われていた。同和問題関係資料センターの当時所長であった吉田の論考はこの宮川論文をもとにその後の 研究史料などを補填したものである。

  近鉄「西ノ京駅」の線路をわたった西側、かつて添下郡六条村とよばれた地域の丘陵地に夙(シュク)村があったことはいくつかの古史料によって記されてい る。夙とは葬送や行刑の執行などを身にまとった賤視の別名であり、前述のように癩者もそこに収斂される。西山光明院の来歴について、吉田論文がその伝承を くだいて紹介しているのでここに引いておく。
光明皇后が「御当寺ノ御本尊」 、つまり薬師寺の本尊に帰依し、諸国の「貧窮ノ難病人」を救うため行基に命じて薬師寺に施薬院・悲田院などの救所を建立したが、今の西山と北村はもともと その場所にあったためである、その後「諸国ノ難病人」が「御本尊ヘ病気平癒ノ祈誓」のためそこに集まり住み、施薬院・悲田院から「薬料・食物」の下行を受 けて暮らしてきたが、「乱世」 、つまり戦国期になって下行米がなくなったので 「西山ノ病人共及渇命」 ようになったことから、「諸方勧進巡行致シ、其勧進銭ヲ以テ渡世ノ資糧ト仕候旨御利解」を頂くことになった、というものである。

  これはあくまで伝承であり、光明院に暮らす癩者の間に伝えられてきた由緒である。みずからの口で膿を吸った癩患者が光り輝く如来に姿を変えたという話は光 明皇后にまつわる伝説の最たるものだが、ともあれ西山光明院が薬師寺の悲田院として出発したことはわずかながら推測される。「現に光明院は薬師寺の末寺龍 蔵院のに加えられ、そその経営のために一町余の田が附けてあって、年々11石からの米が宛てられている他、大正の初年まで世話人をも寺によって附けてい た」と宮川はその「沿革」に記している。別の史料によれば明治維新の際には3人の患者が暮らしていたとされる光明院だが、大正5年に最後の患者:西山なか が死亡したことによりその役割を閉じた。

彼女は西山光明院最後の居住癩者である。

彼 女は大和高市郡一流の富豪の愛娘と生れ、非常な美人であった由、大阪へ縁入をしてゐて発病し、西山に入つたが、可成の動産不動産を持つてゐたので、西山居 住の病者の弗箱 となつた様で、ただに病者間に金 を貸してゐたのみならず、地方の農家に対しても貸金があつた。京山の名義で龍藏院に土地を寄附したことが文書に残つてゐるが、これも京山でなく彼女の資産 であつたらしい。「なか」は西山京山の内縁の妻となり、京山は光明院を切り廻してゐたことが伺はれる。

 なかの死後、光明院は取り壊されたらしい。昭和初年頃に光明院跡を調査のために訪ねた宮川はそのあたりのことを次のように書き残している。

現 在僅かに一宇の坊舎(本堂1.5間×2間)を残すのみである。其の前に1本の柿の木が茂り、其の藪蔭に井戸が埋もれてゐる。この地域内には別 図に示す様な浴室を囲み、3棟の病舎、1棟の納屋があつたもので、本堂と各棟には細い渡廊下を以つて連絡されて居た。其の内2棟は早く壊され、西側に残つ た病舎も、最後の病者「西山なか」が大正5年に死亡した後は破壊焼却され、現存するのは本堂のみである。この本堂も民家の薪置場となり、朽つるにまかせた 有様である。最近之を薬師寺に移転せしめんとの話も出てゐるが、願はくばかかる由緒ある建物は猥りに移転改築等しないで保存されたいものである。本堂付仏 像什器の一部は薬師寺に保管せられ、一部のものは病棟焼却の際焼却せられた。

 さらに宮川は別の箇所で、この西山なか及び西山光明院の終焉と、薬師寺の管長であった橋本凝胤(はしもと ぎょういん)との深いかかわりについても記している。

何 しろ薬師寺は今迄に13回も*融に災せられた爲殆ど史料が傅はつてゐない。 幸に西山なか死亡の後棄却をまぬがれた文箱が藥師寺に保存せられてゐたので、それを捜して得た古文書類及び、少年時代から光明院を知り、壮年時代には龍藏 院住職として光明院に關係し、最後の患者西山なか死亡の時には立會つて遺言書まで作製してやられたといふ實見者橋本管長の話によつて大體の輪郭を掴み得 た。

 では、この西山光明院はいったいどこにあったのか。この問いから、わたしの三日間のお盆休みのちいさな旅がはじまった。


【 8月17日 】 

  6月に展示替えがあったと知って、久しぶりに奈良県同和問題関係史料センターへ行く。ついでに西山光明院のことも教えてもらおうという算段である。ところ が所長さんが昼まで現地調査へ行っていて、詳しい話のできる者がいないとのこと。4月に配属されたばかりという係長氏と展示の変わったところを教えてもら い、いっしょに話をしているうちにその係長氏のお祖父さんがグアムで戦死していたと聞いて驚いた。平群の地の方で、生駒の山すそに「グァムにて戦死」と刻 まれたお爺さんの軍人墓があったのだが、お祖母さんが墓参りするのが大変になってきたのでたたんで、家の近くに新しい先祖代々の墓を建てたばかりと言う。 毎月、月命日に護国神社から案内がきて「神となって祀られている」お祖父さんに会いに行くととの由。係長氏は異動でここへ来て、前は高校の教員をしていた という。グアムにはまだ行ったことがないが、いつか行ってみたいと思っていると言うので、いろいろグアム話で盛り上がる。

  いったん家へ帰って食事の支度をし、娘と二人で昼食を済ませてから、ふたたび自転車で史料センターへ向かう。奥本所長。3Fの研究室へ招いてくれ、名刺を 頂き、冷えたお茶も頂き、一時間近く話をさせて頂いた。「薬師寺西郊の夙村と救癩施設・西山光明院」を記した吉田栄次郎氏は前任の所長さんである。奥本所 長さんは20年以上むかしに、この吉田氏に連れられて西山光明院跡を訪ねたことがあるという。ただし、すでに周辺は宅地再開発が始まっていて、「この辺に あった」と案内された場所もその住宅地の間のとくに目印もないようなところで、「いまあなたといっしょに現地へ行ったとしても、もうどこだか分からな い」、その程度の記憶しかないという。そしてわたしが昨夜、別にNPO なら人権情報センターで発行している「人権なら」のフィールドワークの記事に見つけた、いまは無縁仏になっている西山なかの墓石の写真をプリントして呉 れ、龍蔵院という薬師寺の墓地を管理している末寺の境内にそれがあることを教えてくれた。いろいろな話を聞かせて頂いたが、北山十八間戸で有名な光明皇后 の伝説は明治の時代の天皇制賛美の宣伝として使われた面が大きい。北山十八間戸が残されたのもそのためだったと思われるという話や、北山十八間戸のような 癩病者の収容施設はじつは現代でいう何千万円を払って入る介護施設のようなもので、財産のある者でなければ入れなかった。二畳ほどの狭い刑務所のような部 屋も、雨露が凌げる個室というのはそれだけで当時は贅沢な環境だた。しかも北山十八間戸は奈良盆地を見下ろす高台にあって、風通しもよかったろう。低湿地 のじめじめした場所とは違う。そんな、これまでの既成概念を裏返してくれるような話がさらっと出てくるところが、専門家のすごいところだ。

  「じゃあ、これから現地を見てきます。何か新しい発見があったらお伝えします」と高らかに宣言して、自転車でそのまま大安寺旧境内を抜けて、奈良盆地北部 をほぼ真横に東から西へ。西ノ京へは案外とあっという間の距離だ。西ノ京駅を越え、池越しの薬師寺三重塔の写真で有名な撮影スポット大池を目指し、その北 側にある野々宮天神社へ着いた。天神社、天満宮がこのあたりに多いのはここから北の阪奈道路沿いにある菅原神社がそもそも、「菅原の地を本貫(本拠地)と する土師氏支族(のちの菅原氏)がその祖神を祀った」であることからとも言われる。大池からちょうど丘陵地へとのぼっていく斜面のとば口にあって、社殿の 裏へ回ればこんもりと茂った古墳のような雑木林を背後に抱いている。丘陵地の住宅街を北へのぼって、龍蔵院に着く。丘をのぼって、また下ってきたあたり だ。ここから東へ2〜300mも下れば、「墨の資料館」「がんこ一徹長屋」などを経て、すぐ西ノ京駅だ。境内に入って、本堂に向かって右側に無線仏の墓石 を積み上げた小山がふたつあり、西山なかの墓石はその小さい方の南面にあった。梵字が頭に一字、そして「中山ナ」までははっきり見え、最後の「カ」の字は 手前の墓石ではんぶんほど隠れてしまっている。もちろん左右と後ろは何が書かれているか見ることはできない。そこから北西に向かって広々とした墓域が伸び ている。区画整備されたばかりのようで、墓石もみなあたらしい。ちなみに、ここからほんの100mほど北にあるのが、以前わたしが大宮島(グアム)で戦死 した軍人墓をやっと見つけた六条山の共同墓地である。お盆明けでお墓参りに来る人もわずかだ。休憩所の吾妻屋で硝子の風鈴が連打している。汗をぬぐうわた しの前方に西山ナカの墓石を抱いた無線墓の小山がひっそりと、夏の光にさらされている。光明院ははたしてどこにあったのか? 80年前の宮川レポートを確 認しよう。

「位 置」 大軌畝傍線を西の京にて下車せば、東方の木の茂みの中に有名な薬師寺の塔の九輪が光つて見える。眼を転じて西を見れば、一望の平原が連る。駅からの 約2町余りの所に1臺の高地、木の茂みがある。これ即ち孝謙天皇の往在所、瑠璃宮と稱せられる地域である。西山光明院は其の東北隅の藪蔭にあつて、東西約 7間、南北約18間。古文書には宅地4畝8歩とあるが即ち之である。その地に附属の畑及田ありしことは所有地明細書に分明なり。その南に神社野々宮があ る。

  龍蔵院を出て、院の南に面したところに昔なつかしい砂利の道が先へ伸びていたので、自転車でそこを進んでみた。道は光明会館と名づけられた龍蔵院の施設の 裏手を回ってから北へゆるやかにカーブする。右手にさきほどの広々とした墓域、左手は深い緑色の池で、その対岸はうっそうとした竹薮だった。道はさらに左 へカーブして、池の北側で終わっていた。墓地のゴミが集められ、壊した墓石のかけらがその竹薮につづく暗がりのはたに積まれていた。西山光明院はこのあた りではなかったか、とふと思った。宮川が残した敷地図では野々宮神社を上にして、左手(たぶん東側)に「池」の文字がある。それにも合致する。だが確証は 何もない。瑠璃宮はどうだろう? あまり聞いたことがない名前だが、スマホで検索をすると住宅街の中にあるという「瑠璃宮跡」の石碑と解説版の写真が載っ ていた。これを探すのがけっこう骨が折れた。斜面の住宅街を行ったりきたりでなかなか見つからない。家と家との間のほんのわずかなスーペースにやっと見つ けたのは、ちょうど先ほど佇んでいた竹薮の南側に位置する住宅街の道沿いで、丘陵地の高台にあたるあたりだ。ただし解説を読むと、「昭和30年代の宅地開 発によってこのあたりも造成されてしまったため、町の有志による希望でこの場所に石碑を建てて残すことにした」とあるから、宮川が写真に収めた平らな雑木 林のような「瑠璃宮跡」は別の場所であった可能性もある。もうすこし南側であったら「其の東北隅の藪蔭」も当てはまるかも知れない。そろそろ日も傾いてき た。


【 8月18日 】 

  今日は県立図書情報館で資料固めだ。西山光明院の名前が載った古地図を探したい。今日も朝から愛車GIOSで走る。九条公園前から佐保川の土手道を走れ ば、ほぼノン・ストップで到着。2階のカウンターへ行って、趣旨を説明する。古地図はなかなか見つからない。奈良市の奈良町や、わが家のような郡山の城下 町であれば詳細な町割り図がけっこう各年代で残っている。わが家も江戸時代から敷地が変わっておらず、町割り図を所蔵している柳澤文庫にお願いしてデジタ ル画像として頂いたが、当時住んでいた人の名前が記してあって面白い。けれど西ノ京は平城京の時代であっても都の西のいちばんはずれの、当時はさらにひな びた田舎だったろう。村の名前が載っている絵地図はあるが、それ以上の詳細図は作成の必要がなかったのかも知れない。宮川論文にはじつは西山なかと夫で あった京山の住所地として「添下郡大字六條字西波654番の甲」というのが載っている。西山なかが死亡した際のものと思われる建物明細書である。「法務局 に行けば住所はたどれますよ」と昼休憩で交替した若い女性の司書さんが提案する。「でもそれは数字としての住所であって、それが現在のどこに当たるという のはわからないんですよね」 「まあ、そうですね」  昭和20年代の寺院台帳というのも出してくれた。「貴重書・古文書閲覧場所」という特別のテーブル の上で、大きな和紙を敷いた上で広げる。龍蔵院はあるが、光明院についての特別な記載はない。そして光明院単独の台帳というものもない。わたしはわたしで 手元の宮川及び吉田論文をなめ回し、彼女は彼女でパソコンを打って検索を続ける。「この吉田さんの論文に「また、享保二十年(一七三五)四月に作成された 六条村の「柳村氏神社替地之図」には、薬師寺西方の丘陵上に「字夙之谷」 「夙村持氏神山」が描かれ、その西北方には「六条村之内夙村」と記した一画がある。」とあるんですけど、この「柳村氏神社替地之図」ってのはないんですか ね」 「ちょっと見せてくれますか」 彼女は文末の注に「同和問題関係史料センター架蔵デジタル画像」とあるのを見つけてくれた。「史料センターにあるの かも知れませんね。ちょっと訊いてみます」 昼もだいぶ過ぎてしまったので、いったん辞することにした。

  駅前のスーパーに立ち寄り買い物をして、帰って冷やし中華をつくって娘と二人で食べた。食べ終えてから史料センターに電話をしてみた。昨日の係長さんがう れしそうに出て、すぐに奥本所長さんに代わってくれた。まず、昨日の現地調査の話をした。瑠璃宮との位置関係もだいたい合うし、龍蔵院の西側の池の反対側 の竹薮が西山光明院のあった場所ではないかと考えていると伝えると、「だいたいあなたの言うその場所で合っているんだろうとわたしも思います。ただ何にし ろむかしの話で、正直に言うと、連れられたそのときはわたしはじつはあんまり興味がなかったんですなあ。だから、ああ、そうか、程度で見ていたんだと思い ます」  ついで「柳村氏神社替地之図」について訊いてみた。するとデジタル画像があるかどうかは探して見なければすぐには分からないが、その「史料セン ター架蔵デジタル画像」という書き方からすると、資料によってはナイーブな問題もあるので収録した本人が当事者から「これは公開しないでくれ」という約束 で見せてもらったものもある。けれど論文で書くときには出典を明示しなければならないので、これは学問としてはほんとうはフェアではないのだけれどやむを 得ない状況で、「史料センター架蔵デジタル画像」という書き方にして済ませる場合がある。だからこの「柳村氏神社替地之図」については吉田がどんな話をし ているのか、確認をする必要がある。その上で、お見せできる場合もあるし、見るのはいいが複写はできないと言うかも知れないし、閲覧自体が許可できない場 合もあるということをご理解頂きたい、と仰るのであった。それから所長さんは図書情報館でのわたしのやりとりを聞いて「「大和国条里復原図」という 1980年に出版された地図がありますよ。県内のむかしの小字がすべて載っていて、その境界も線が引かれている。奈良女子大のHPにはそれをデーターベー スにしたものもあります」と教えてくれた。電話の最後にわたしは所長さんに「もうこうなったら龍蔵院さんに直接訊いてこようかと思っている」と伝えた。 「なにか支障はありますか?」 「ないですよ。全然、訊いてくれて構わないと思います」

  ふたたび愛車GISOにまたがって県立図書情報館へ。20分後にはボックス・セットの巨大な「大和国条里復原図」を前にしていた。県内を百以上ものエリア に分けて、それぞれがA3二枚よりやや大きいサイズの地図になって折りたたまれている。六条村のあたりをカラー・コピーした。龍蔵院のあたりは「西山」 だ。その南から大池までの丘陵地は「柳」。そして丘陵地の東面、近鉄電車へ下る斜面の集落が「西波」となっている。龍蔵院の西側の池の対岸説はゆらいでき た。

  24号線をまたいで、ふたたび西ノ京へ走る。目指すは龍蔵院。すでに夕方の5時近くだったろうか。参拝者用駐車場のフェンスにGIOSを地球ロックして境 内へ。西山なかの無縁仏の前で手を合わせて過ぎる。本堂はほとんど人気がなかったので、その横の住宅にまわって玄関のインターホンを押した。「はい、なん でしょう?」 「あの、ちょっと伺いたいことがありまして」 「はい、なんでしょう?」 「あの、西山光明院について調べているんですが、どなたかご存知 の方はいらっしゃいますでしょうか」 「・・・・」  ちょっと間が空いて、玄関が開いて同年代くらいの女性の方が出てこられた。住職さんの娘さんらし い。趣旨を説明すると、わたしたち(父親を含む)も戦後になってここへ移って来たので、それ以前のことはまったくわからないんです、とのこと。「人がまっ たく変わってしまったんで、断絶しているんです」という言われ方をされる。15分ほどの立ち話だったろうか。光明院の場所や、残された資材についても何も ほんとうに分からないが、「あくまでうちうちの話として、お父さんなんかと“あそこじゃないか”と話しているところはありますけど」と言うので、口をつぐ みかけたところを何とかねばって、地図を取り出したりして話を続けていたら、やっと、「うちの前の道を南に下りて十字路があるでしょ。その角の草地」だと 地図を示して教えてくれた。住宅地の中で一箇所だけ草むらになっているから、すぐに分かりますよ」 

  自転車を押して十字路まで歩いていった。四辻を過ぎてハイツのような建物の裏にひときわ高く藪が茂っている場所がすぐに見えた。しばらく通り過ぎて、南側 から回り込む細い路地を下りて行くと解体業者の資材置き場のような敷地に面して地図には載っていない小さな鳥居と祠があって、その奥が先ほど見えていた小 さな古墳ほどの雑木林だった。そこから斜面は西ノ京方向へゆるくくだっていて、資材置き場の向こう(東側)と雑木林の向こうには畑がひろがっていた。あ あ、ここだここだ、とわたしは思わず声に出した。80年前に訪ねたような心持ちになった。ここで西山なかは半生を過ごし、畑を耕し、ここにかつてあった八 畳間で息をひきとった。ああ、ここだここだ、ここに間違いない。「大和国条里復原図」によればここは「西波」のエリアだった。畑の中には金魚池のような四 角いため池がある。あれがかつての池の名残であれば、宮川の敷地図とも符合する。畑の向こう側に見えている道をたどってみた。ひどく狭い道で人ですら対向 できない。だから余計、この道は古いものだろうと思った。それでもちょこちょこと老若男女が通行している。これを下っていって右手に折れれば野々宮天神社 だ。ひとつだけ、あの地図にも載っていないお宮が気になる。あとで調べてみたい。


【 8月19日 】 

  朝一の歯医者は寝坊をして時間がぎりぎりだったので、車で行った。郡山城の北側のアップダウンがちと厳しいのだ。10時半頃に帰って、それから愛車 GIOSに乗り換えて出かけた。西波天神社は大池のすぐはたにある。龍蔵院からまっすぐ南に下ってくれば大池の手前でぶつかるのがこの神社だ。その南北に 伸びたエリアがかつての「西波」の小字である。おなじ西波であるから光明院の名残でもないかと訪ねてみたくなったのである。神社の手前に並ぶように観音堂 があって、奈良市指定文化財とされた木造十一面観音立像が安置されているらしい。残念ながら鍵がかかっていて見れなかった。堂のはたに寂れた無縁仏や五輪 等がたくさん並んでいた。宅地開発でかつての西波の地域から運ばれてきたのだろうか。あるいは光明院の敷地から移されたものも混じっているやも知れない。 その野仏のすぐ横を西波天神社の参道が通っている。昼間なのに灯篭の電気が点いている。拝殿に閂がかかり、紐が縛ってあって先は見れない。雰囲気のある、 いい感じの神社であった。

  薬師寺へ移動した。予め調べておいた本坊西側の参拝者用駐輪場に自転車を止める。薬師寺はいつも三重塔は眺めているけれど、拝観料を払って境内へ入るのは じつははじめてかも知れない。受付でお金を払ってから、じつはこういうことを調べているのだけど、どなたか詳しい方はいらっしゃいませんか、と訊いてみる と、「ああ、それならキタガワ参与がいいですわ、いちばん古い人ですから」と内線を取って連絡を入れてくれた。「この先の僧坊にいるのでどうぞ奥へ」と言 われて、お礼を言って僧坊へ入ると、土産物売り場のようなカウンターの中で当の参与さんは観光客の老夫婦相手に滔々とガイドをしていて一向に途切れそうに ないのであった。待つことおよそ20分。やっと老夫婦が立ち去って、こちらを向いてくれた。西山光明院について調べているんですがと訊いたところ、まず開 口一番に、ああ、それは龍蔵院に訊いてもらうのがいちばんですわ。いや、龍蔵院さんは昨日、もう行って訊いてきたんですけどね、代が変わって昔のことは何 も分からないと言われました。それで光明院の来歴と薬師寺との関係、西山なかが死んでから一部の仏像などを薬師寺が保管したと記されていること、そして先 代の橋本管長が光明院とかかわりが深く、西山なかの死去の際には遺言を書くなどの世話をしてあげたことなどを説明すると、すべてはじめて聞いたという顔を している。そしてすぐに「いやあ、もう何十年か前に来てくれたら、覚えている人もいたかも知れんが、いまはもうだれもしっている人はおらんでしょう。龍蔵 院が知らないというんであれば、それ以上は私どもも」なぞと言うので、わたしもちょっと向きになって、でも知っている人はいなくてもですね、こんな大きい なお寺さんなんだから、資材帳だとか、何らかの記録が残っていないんですか」と食い下がれば、「それは、もうちょっと上の方の人たちに訊かなければ」と言 うので、「上の人ってだれですか? どこに行ったらその人たちはいらっしゃるんですか?」 結局、キタガワ参与さんが言われるには、あなたのその質問はお そらくすぐには答えられないだろうし、いまたとえ本坊へ行って訊いたとしても大抵の坊さんたちはわたしと同じように「始めて聞いた」という感想をいうだけ でしょう。だからいちばんいいのは、文書でもっていまあなたがわたしに話してくれたことを書いて、薬師寺宛に送ってくれるのが答えが返ってくる可能性が高 いと思う、ということであった。わかりました、そうしてみます、と答えて、お礼を言って境内へ入っていった。それから観光客にまじって30分間お笑い法話 ショーも聞き、金堂や東院堂、西塔、講堂、あたらし再建した食堂などを見てまわったのだけれど、わたしが追い求めている西山なかが暮らした光明院と、目の 前の華麗壮大できらびやかな薬師寺との間がひらきが大きすぎて、国宝とかいう製銅の仏像などを見ても、いまいち身が入らないのだった。そうして昨日とは 違って、何となく物悲しいような、もやもやとした気持ちを抱えて帰宅したのだった。まあ、予想はしていたけれどね。貴重な収入源である結婚式やお得意さん の修学旅行生や伽藍の再建も大事なんだろうけどさ、1300年前の建築を再建のために調べたり、いま流行の刀剣を公開することにはやたら力を注いでいるの に、わずか数十年前の癩病施設についてだれも知らない・知ろうともしないなんていうのはどうなんだろうね。「わたしはね、思うんですよ。かれらが必死に生 きた証しをね、ほんの少しだけでも誰かが残してやらなければ、と思ってこうして調べているんです」 伝わったかどうか分からないけれど、キタガワ参与さん にわたしは最後にそう、思いを込めて言ったのだった。「そりゃあ、大事なことだ。いまからすぐに調べましょう」と言ってくれるヘンな坊主の一人くらい、ど こかにいないものか。

 

▼宮川量「救癩史蹟 西山光明院に就いて」 https://www.jstage.jst.go.jp/article/hansen1930/6/3/6_3_355/_pdf

▼吉田栄次郎「薬師寺西郊の夙村と救癩施設・西山光明院」 http://www.pref.nara.jp/secure/14191/r41.pdf

▼奈良県同和問題関係史料センター http://www.pref.nara.jp/6507.htm

▼人権なら 西ノ京をフィールドワーク file:///C:/Users/francisco/Downloads/201612161009189841%20(3).pdf

▼水本正人「非人にとっての救いと宗教」 http://www.blhrri.org/old/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0197-01_mizumoto.pdf

▼人間の尊厳を回復する闘いから学ぶ―ハンセン病政策 100 年の節目の年に、過去から学び未来につなぐ― http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/310308/files/2012032800181/2012032800181_www_pref_kochi_lg_jp_uploaded_attachment_1609.pdf

2017.8.19


 今日は殆どを県立図書館で過ごした。

 午前中はつれあいと二人で行って、わたしは予てよりの六条村の救癩施設・西山光明院の手がかりを追って、推定地にひっそりと建っている名も分からぬ小さ な社に焦点を当てて資料を漁ったが、奈良市史の神社一覧にもそれらしい記述は見えず、また昭和33年のまだ人家も少ない頃のゼンリン住宅地図にも社地の記 号はなかった。(昭和33年、41年、そして最近のゼンリン地図をコピーして帰った)

 昼を済ませて、午後からも一人で出かけた。昭和の初期にじっさいに西山光明院跡地(まだ建物の一部が残っていた)を調査した宮川量の遺稿集「飛騨に生ま れて」に何か書かれていないかと思ったのだが、Web上でも見れる「救らい史蹟西山光明院」のほか「鎌倉時代におけるらい救済者忍性律師の研究」等の論考 も収録されていたが、西山光明院についての目新しい記述は見当たらなかった。それにしてもこの宮川量は現在では忘れ去られてしまった人物なのか、ネット古 書も流通しているものはほぼ皆無に近い。

 不明神社の線がいったん行き詰ったので、せっかく来たのだからと薬師寺関連の書籍等をしばらく漁ってみた。薬師寺が定期的に出している会報のような冊子 が昭和40年くらいから揃っていたので、目次をなぞるように見ていった。そのなかで昭和42年から管主を務めた高田好胤が毎年のように太平洋戦争の戦場を 慰霊の旅と称して冒頭に登場するが、これがすごいね。英霊の御霊だとか、靖国を否定するのは言語道断だが靖国神社の方こそ英霊の御霊を迎えに来いとか、戦 場で玉砕した将兵や遺族を誉めそやしたり、だいたい坊主がなぜ「英霊」などという言葉を平気で使うのかおれはまったく理解できないのだが、あらためて調べ てみれば生前は話術が巧みでユーモアにも富んだ「究極の語りのエンタテイナー」と評されていたようだけれどこのおっさん、日本会議の前身である「日本を守 る国民会議」の代表委員も務めていたとか。この時点で薬師寺は、もう見切った。

 ついでに言わせてもらえば、これまでカウンターばかりでゆっくり書棚を見ていなかった県立図書館だが、3階の一角のかなりのエリアを占める「戦争体験文 庫」のコーナー、これもすごいね。十数列の裏表の書架及びその並びの壁面一面は戦史、従軍記、ゼロ戦や戦艦の軍事本、英霊を称える書、それに軍人老後会の 各種会報がずらりと並び、いやいや県立図書館よ、これほんとうにいいの、こんなんで? と思わず誰かつかまえて言いたくなるくらいの有様。要するにほんと うの意味での悲惨さや加害者としての立場を指摘する書物が千分の一くらいしか置いていない。戦争を知らない世代に当時の生活を知ってもらうためにうんたら かんたら書いていたけれど、あれをあのまま並べておくのはどうかと思うよ。そういうわけで奈良県立図書館はすでに日本会議状態だ。われわれは一歩づつ着実 に理想世界へ近づいている。

 まあ、そんなこんなで愉しい一日だったが、メモしてきた入手したい本をいくつか。

▼宮川量「飛騨に生まれて 宮川量遺稿集」(名和千嘉 1977)

▼田中寛治ほか共著「旧生駒トンネルと朝鮮人労働者」(国際印刷出版研究所出版部 1993)

▼田中寛治「朝鮮人強制連行・強制労働ガイドブック 奈良編」(奈良県での朝鮮人強制連行等に関わる資料を発掘する会 2004)

▼川瀬俊治「奈良・在日朝鮮人史」(奈良・ 在日朝鮮教育を考える会 1985)

2017.10.17



 

 

背中からの未来