009. 米国領グアム島で日本軍の戦跡をたずねる

背中からの未来

 

 

■009. 米国領グアム島で日本軍の戦跡をたずねる


 

  グアムは1521年、ポルトガルの探検家マゼランによって「発見」された。マゼラン側の記録によれば船の装備品を盗まれたことに腹を立てたかれらは、島民 を殺害し多くの家屋を焼き払い、島を Islas de los Ladrones (泥棒諸島)と名づけたという(ザビエルが日本へ来る30年ほど前のことだ)。その後、島はスペインの植民地とされ、イエズス会の宣教師たちが島民たちの 伝統的な習慣や文化を禁じたために不満が噴き出して争いに発展し、反抗的な村々はことごとく焼き払われて10万人いたという島の人口が一時は5千人にまで 激減したとされる。1898年、アメリカ・スペイン戦争によってグアムはアメリカへ譲渡される。1941年12月、真珠湾攻撃から5時間後に開始された攻 撃によって日本軍が島を占領。「大宮島」と名づけて、日本人の兵士や行政官、民間人の他に、強制連行された朝鮮半島出身者、琉球出身の契約労働者、近在の 島の日本語を話す住民たちも移住し、島内には15の国民学校が建てられて島民の日本化教育を行い、神社や交番や料亭、慰安所等がつくられ、稲作水田が強制 された。1944年8月、再上陸したアメリカ軍によってグアムはふたたびアメリカ領となった。約2万人に及ぶ日本軍の兵士が死に、アメリカ軍側も2千人以 上の死者を出し、さらに日本側によって虐殺された島民も700人に及んだ(ちなみに上記約2万人の日本軍兵士の遺骨のほとんどは不明のままで、いまも島内 全域に眠っている)。

  戦後、アメリカの巨大な軍事基地が置かれたグアムは1960年代のなかば頃まで外国人はもちろん、一般の米国人でさえ入島が厳しく制限された「立入り禁 止」の孤島だった。しかし1962年にこの入島制限が解除されると、1964年の日本の海外渡航自由化とも重なり、日本人による慰霊団が少しづつ増え始め た。新設されたグアム政府観光局は1967年頃から日本のメディア取材を積極的に招致し、それに伴ってテレビ番組(兼高かおるの世界の旅)や水着のポス ター(東レの水着キャンペーン)、テレビドラマと挿入歌(ザ・ガードマン、藤巻潤「恋のグアム」)、若大将シリーズの映画(「ブラボー! 若大将」、「グ アム島珍道中」)などによって「青い海、白い砂」のあたらしいグアムのイメージが大量に日本に流れ始めた。そこへ1960年代には日本中の3組に1組は 「南国の楽園・宮崎県」を訪ねたという新婚旅行のカップルたちがグアムへ押し寄せた。それに呼応するかのように1968年のフジタを皮切りに日系ホテルが タモン湾沿いに次々と建設されていった。1970年に従来機の倍近い400人を運ぶことができるジャンボ・ジェット機が登場、さらに1972年のオイル・ ショックでこのジャンボの空席を埋めるために団体割引などができ、さらなる運賃の低廉化と海外旅行の大衆化がすすんだ。しかし若大将シリーズ「ブラボー!  若大将」がグアムで撮影された1969年には、ロケ地から数キロ先のジャングルでは、いまだ日本兵の横井庄一が必死に「大宮島」を生きていた。そして 1970年代のグアム新婚旅行のパッケージは主に有史以前の遺跡やスペイン統治時代の旧跡で構成され、すでに「「大宮島」時代の記憶も、ベトナムで凄惨な 戦闘を続けていた米軍の現状も、その島で生活しているグアムの人々の存在も、きれいに排除されていた」(山口誠「グアムと日本人」岩波新書)のだった。

  グアムには先住民のチャモロ人が住んでいる。彼らは数千年の歴史を持ち、高齢者がいる家庭では、英語と併用して固有のチャモロ語が日常的に使われている。

 島の総人口は約17万人(2006年)。そのうち約一割が米軍とその関係者、約四割がチャモロ人、残りの五割が米国本土やアジアなどから来た移住者で構成されている。住民の十人に一人という米軍関係者の多さと、半数を割り込んだ先住民の少なさが、際立っている。

  島の面積は約549平方キロで、日本の淡路島とはぼ同じ大きさだ。米軍基地が島の土地の約三割を占めている一方で、日本人が遊ぶタモン湾のホテル地区は、 島の一%にも満たない。それでもダモン湾には20を超える大型ホテルが建ち並び、米軍基地に負けないほど大量の水と電力を日々、消費している。

 そのグアムでは、断水が頻繁に起こる。給水施投の近代化が遅れている同島では、とくに日本人が多くやってくるお盆や正月になると、リゾート・ホテルでの水の需要が増えて水圧が下がるため、米軍基地とホテル地区の外に住む一般家庭では水が出にくくなるという。

 さらに数年に一度は大型台風が上陸し、島中の電線を破壊するため、その度に深刻な長期停電が起こる。停電すると水をくみ上げる電力ポンプも止まるため、断水も同時に発生する。

 摂氏35度を超える熱帯の島で、テレビやパソコンはもちろん、冷蔵庫やエアコンも使えず、水も出ない状態が、数週間も、ときに数か月も続く。停電が長引けば病気になる人が増え、死者さえも出るという。

 「そんな状態が続くと、ほんとうに頭がおかしくなりそうになるよ」とグアムに住む知人は、苦笑しながら筆者に教えてくれた。

 一方で、タモン湾のホテル地区には、停電も断水もない。島経済の約七割を稼ぎ出す同地区だけは優先的にインフラが塵傭されているうえに、自前の臨時発電施役を持つホテルや免税店も多いからだ。東京ディズニー・リゾートとはぼ同じサイズのホテル地区だけは、別世界である。

(山口誠「グアムと日本人」岩波新書)

 

  便はティー・ウェイ航空。韓国人のスチュワーデスたちはどうしてマッチ棒のように細くて、しかも美人ばかりなんだろう。昼前に関西空港を発ち、夕方のグア ム国際空港へ無事到着した。ちなみにこの空港は1941年の日米開戦後に日本海軍の飛行場として建設されたものだ。空港ではそれぞれ娘のために車椅子を借 りたので、チケットや検査などすべてにおいて優先してくれて待ち時間はとても少なかった。グアムでも日本人のスタッフが親切にホテルのタクシーまで手配し てくれた。まだ若い彼女は訊くと、奈良の橿原が実家だというのでびっくり。タクシーですんなりタモン湾沿いのアウトリガー・ホテルへ着いた。部屋は16階 のオーシャン・フロント。「オーシャン・ヴュー」はベランダに出て横を向くと海が見えるが、「オーシャン・フロント」は真正面、視界のほぼぜんぶが海だ。 もちろん値段もぐんと高くなるわけだが、「もし娘の体調が悪くて部屋で過ごすことになっても愉しめるように」という母の涙ぐましい配慮による。もともと海 外というのは、娘が中学のときに予定していてパスポートも取ったニュージーランドの修学旅行がもろもろのアクシデントで行けなくなり(そのためにわたしは 学校側と大喧嘩をした)、その修学旅行代わりに、というこれも母の涙ぐましい心遣いによる。しばらく部屋からの景色に歓声をあげて、旅装を解いてから、娘 のまず一番目のリクエストである「本物の銃を撃ってみたい」をやりにホテルを出た。ホテルに直結したショッピング・モールを抜けて、ひろい坂道の、いかに もアメリカンなストリートに立って、ああ、巨大なUSJやディズニー・ランドのような街だな、と理解した。空港からわずか10分程度。日本語の通じる高層 ホテル、ジュエリーやウォッチ、ブランド品が並ぶショッピング街や飲食店街。循環バスに乗って行く先もおなじような「つくられた消費のための街」だ。そし て目の前に広がる果てしなく青い海と遠浅の白いビーチ、ウォーター・スライダー付きのプール。このグアムの土地のわずか1%の「楽園」で数日を過ごして、 空港の免税店でお土産やブランド品をたっぷり買って帰国すれば、グアムはまさに巨大なUSJやディズニー・ランドとなんら変わらないだろう。あまりにもす べてが当てはまりすぎていて、逆にそのことに驚いているじぶんがいる。

  わたしが日本を出国したのはじつに二十数年ぶりのことだ。はじめて外国へ行ったのは20代の頃、友人と二人で出かけていったインドだったが、空港からおん ぼろのタクシーに乗ってたどり着いたデリーの町は、のっけからものすごいインパクトだった。土ぼこりと熱気と人いきれと、そして強烈なニンゲンの存在感が 足をすくませた。あの人混みの中へはとても入っていけない、と思った。それから一週間はインドという町に人に揉みに揉まれた。毎日へろへろになったが、余 計な虚飾の皮をばりばりとひん剥かれていくような爽快さもあって、やがて少しづつ慣れてきた頃には怪しげなクルタに身を包み、サラベーション・アーミーの パイプ・ベッドの安宿が似合うようないっぱしのバック・パッカーになっていた。肢体不自由のものもらいも見た。日本へ連れて帰りたいくらいに可愛い顔をし た路上生活の子どももいた。川岸に流れ着いた赤ん坊の死体も見た。こちらの心の奥まで射抜くような目をした行者にも会った。一ヵ月後に日本へ戻ってきたと き、なんてこの国の空気は風景は薄っぺらなんだろうと思った。あのときの感覚はいまもはっきり覚えている。あれがあったから、おれはこの国のレールに乗る ことが耐えがたくなっちまったんだな。閑話休題。つまりわたしにとって、旅行会社のカウンターにひろげられたようなパンフレットに乗っているグアムとは、 率直に言って、糞のようなものだ。もともと反りが合わない。で、わたしはわたしの見たいグアムを見ることにした。かれらが見せてくれるグアムではなく。

  ウエスタン フロンティア ヴィレッジはホテル前のストリートをほんの数百メートルのぼったあたりにある、日本人経営者による実弾射撃場だ。ちなみにアウトリガー・ホテルを選んだの は立地が良いからで、「立地が良い」というのは「娘の足でも何とか歩ける範囲内にたいていのものが揃っている」という意味である。ホテルでも車椅子を貸し てもらって、滞在中はホテル外にも自由に持ち出して使ってくれて構わないということだったが、車椅子自体がやはり白人向けなのかがっちりした重いもので、 加えてホテル前の道が坂道の途中でアップダウンもきつかったので結局、外ではほとんど使わなかった。ふだん使っているモンベル購入のトレッキング・ス ティックが活躍した。実弾射撃は娘に言わせると「銃を撃つシーンを書くときの参考に、実際に体験してみたかった」というもの。予約なしで、夜遅くまでやっ ている。当初は娘だけと思っていたが、実際に目の前にしてみたら、こんな機会もそうそうないだろうからとわたしもちょっと欲が出てきた。娘は反動の少ない 22口径のセミ・オート・ピストル24発。わたしは38口径 (回転式) 12発 + 44口径 (回転式) 12発 + 45口径(セミオートピストル) 6 発。二人で85ドルは高いのか安いのか、比較するものがないので分からん。じっさいに本物の殺傷能力のある銃を撃ってみて、まあ、こんなものか、という程 度の感想しかない。銃でなくとも釜でもロープでも何でも人を殺すことはできる。ひとつ分かったのは、よくアメリカ映画の中で主人公が片手で何発も連射する シーンがあるが、あれはどうも嘘くさいというものだ。反動でとても狙えたものではない。わたしたちが終わる頃にかなり酔っ払った赤ら顔のおやじが来て、 「酒を飲んでいる人は危ないから駄目だ」と断られていた。「おれが撃つんじゃねえ。おれは金を払うだけ」とその日本人の男は連れてきたこちらはシラフのお ばちゃん連中の支払いだけ済ませて、一人ふらふらと帰っていった。夕飯はほんとうは翌朝食べに来る予定だった射撃場の並びにある Eggs'n Things。もともとハワイで有名なパン・ケーキ店らしい。早朝7時の開店から列が並ぶらしいが、このときは比較的空いていた。わたしはチャモロ風ロコ モコ、つれあいはほうれん草のオムレツ、娘はエッグ&ソーセージ。そして食後に待望のストロベリー・パン・ケーキ。だいたい一品13〜15ドルするが、こ ういうときはいちいち日本円に換算してはいけないと思う。料理は全般的においしかった。店員の愛想もいい。この店は見た目だけれど、働いている店員はほと んどがフィリピン人のようだ。前述の「日本人とグアム」によれば、2007年のデータで約17万人のグアムの人口のうち、1割が米軍の将兵とその家族。残 り9割の内訳は、先住民のチャモロ人35%、フィリピン人30%、米国系白人とグアム周辺の島からの移民が各10%、その他(日本、中国、韓国などアジア 系が多い)が合計15%だという。

 グアム経済の二本柱の一つである米軍基地産業がチャモロ人の独断場であるのに対して、もう一つのタモン湾の観光産業は、少数の東アジア系および米国白人系従業員と多数のフィリピン人によって占められている、

  既述のようにグアムの観光産業は、半径1キロほどの小さなタモン湾に集中している。その多くはグアム住民ではなく、日本や香港などの島外資本が設立した企 業によって所有され、経営されている。そのため、経営に関わる高賃金のホワイト・カラーの仕事は経営母体の企業に雇われた日本人や中国人や白人系米国人な どが占め、低い賃金しか与えられない客室清掃や調理などのブルー・カラーの仕事はフィリピン人が占めている。

  観光産業に従事するチャモロ人の数は、決して多くない。彼らはフロントや館内の店舗など目立つ場所に、まるで現地住民に対する言い訳のように雇われてい る。チャモロ人の観光産業の雇用者に占める割合はグアム人口比率の35%よりも格段に低い。ある日系ホテルでは、チャモロ人従業員は全体の1割にも満たな いという。

  米国市民権を持つため、法で定められた最低賃金を保証せねばならないチャモロ人を雇用するよりも、米国市民権を持たない「もぐり」のフィリピン人や他の島 からの移民を法定の最低賃金よりさらに厳しい条件で大量に雇うことで、ホテルをはじめとする観光産業は経営コストを圧縮している。そうした「企業努力」の 結果、日本人観光者に「3泊4日で2万9800円」などの国内旅行よりも格安な海外旅行商品を提供しているのである。

  ホテルの階下にあるABCストアで缶ビールと明日の朝食用のパンなどを買って部屋へもどった。缶ビールは350ml缶が2ドルくらい。日本とほとんど変わ らない。サンドイッチなどは、あまりおいしそうにも見えないのが6ドル近くもして買う気にならない。やはり観光客向けか、全体的に値段が高いように思う。 つれあいと娘が順番にシャワーを浴びたりしている間に、わたしはふと思いついて、夜のビーチを散歩してくることにした。フロント階の下のP階で降りると、 そのままコインランドリー、フィットネスなどを横目に狭い廊下を抜けて、ホテル内のプールからその先のビーチへそのまま出れる。すでに夜の22時を越えて いたろうか、ビーチにはわずかなカップルと家族たちがちらばっているだけだった。しばらくパウダー・サンドとよばれるきめの細やかな砂浜を足裏に感じなが ら歩いていくと、ちょうどハイアット・リージェンシー・ホテルの前あたり、結婚式場の教会のような建物の正面に出来損ないのコンクリートの基礎のような トーチカを見つけた。迫り来る米軍の上陸に備えて日本軍が構築したものの残骸だ。トーチカがあるということは必死の形相でここに籠もっていた兵士がいたの だろう。あるいはその兵士はここで死んだのかも知れない。そのとき、青い水平線には無数の黒い艦影がぎっしりと並んでいたことだろう。わたしはトーチカの 中へ入ってみた。そして銃座からしばらくしずかなタモン湾を眺めた。一瞬、空間が大きく揺らいだような気がした。もうひとつの異なる空間がここにあって、 恰も地層がずれてべつの地層とつながりかけたような、そんな揺らぎだ。グアムはすごいところだ、と思った。ここは島まるごとが巨大な御霊神社なのだ。そし てだれもがそれを(少なくとも日本人のわたしたちはみな)嘘と無関心で塗り固めて済まし顔でいる。

 

  翌日は朝からレンタカーを借りて島内をめぐった。日本であらかじめネット予約とクレジット決済を済ませていて、当日は通路でつながった隣のデュシタニホテ ルのロビーまで迎えが来て、いっしょに事務所まで行って車をもらう。車は当初、娘の車椅子が積めたらと思ってやや大きめのRVクラスを頼んでいた(結局、 車椅子は積まなかったが)。確かマツダの CX-5だったと思う。24時間で65ドル。じっさいはこれに任意保険や保証金、カーナビ代などがかかる。ところで初めての左ハンドル、右側通行だ。方向 指示器と間違えてワイパーを動かす。右折は赤信号でも行ける。右左折するときはつい癖で左側へ入ろうとしてしまう。中央のイエローベルトは両車線の緩衝地 帯のようなもので、左折インのときにはここへ入って待つ。何もないところでは35マイル規制。ブルーゾーンに停めると罰金500ドル。黄色のスクールバス は追い越し禁止。戸惑いながらも20〜30分もしたらどうにか慣れてきた。問題はナビゲーションだ。レンタカー屋でくれたドライビング・マップはアバウト であまり役に立たない。さいしょは島の北部にある戦没者慰霊公苑を目指してタモンから東寄りの1号線をすすもうとしたのに、どこで道を間違えたか西よりの 3号線を走っている。あわてて路肩に停めて、別料金で付けてもらったGPS(カーナビ)で目的地設定をしようとするのだけれど施設名がヒットしない。諦め てマップ上のだいたいこのあたり・・ の設定で走ってみたら、どんどん幹線道路をはずれてひなびた田舎道になり、やがて舗装も切れて、山賊でも出てきそう なさみしい砂利道にひっぱられ、挙句は道のないところが道だ、行けと言う。ノーリードの犬が二匹、車の横をうろつき、林の奥のやや荒れた感じの家の前で黒 い顔をした男が怪しそうにこちらを見ている。別の道を行っても何度もおなじような繰り返しで、最後に無理やりぐるりと回り込んで別の幹線道路に出て、それ からはじきだった。

   正式には南太平洋戦没者慰霊公苑(South Pacific Memorial Park ※ドライブ・マップには平和慰霊公苑 Peace Memorial Park とある)設立は、もともと1965年、植木光教参議院議員(自民党)を団長とする日本人慰霊団がグアムを訪ねた際に、後述する日本軍によって斬首された デュエナス神父の同僚であったチャモロ人のカルボ神父に面会し、侵略者であった日本人と被侵略側であったグアム住民とが協力して双方の戦没者を慰霊するた めの記念碑を共同で建設することを計画したことに端を発している。ところがその後、米国本土の退役軍人たちの反対運動などによって計画は一時中断を余儀な くされ、名称を平和記念塔( Peace Memorial )に変更して世界平和を祈念するという漠然とした内容となり、当初予定されていた慰霊観光の中心となるような公苑内の噴水や日本庭園、売店などの建設もな くなり、慰霊塔のみの簡素な形になった。確かにジャングルに囲まれた小高い丘の上に簡素なフェンスで囲まれた慰霊公苑は、ひっそりとして、忘れ去られたよ うな静けさに満ちていた。妙にすべてが明るく、静謐だ。平和寺と書かれたコンクリート造りのお堂があって、その前で年輩のチャモロ人と日本人の男性が立ち 話をしていた。わたしたち家族を見て、「ふだんは閉まっているんだけれど」と堂内に招いてくれた。堂内はまさに戦死した日本軍兵士たちの弔いの場所であっ た。すっきりしたタイル張りのフロアの正面に仏像が三体ほど並び、右手の壁面には無数の折鶴が長いハンガースタンドに吊るされてならび、左手にはおそらく 島内で収集されたのだろう日本軍のさまざまな錆付いた遺留品が硝子のショーケースに陳列されていた。その痛々しい遺留品の上には「英霊が栄光を賭けて得た 尊い平和に 感謝を捧げましょう」との文字が躍っている。栄光を賭けて得た平和? ほんとうにそうか?  「どちらから来られたんですか?」 60歳前後 くらいだろう、日本人の男性が訊いてきたので「奈良からです」と答えると、「ああ、奈良から。 高市さんにはよく来てもらっています」とその男性は言うの だ。「ああ、高市さんねえ」とわたしは曖昧に笑う。そうそう、日本側の南太平洋戦没者慰霊協会を名乗る Web Site には名誉会長として元首相の森喜朗、顧問として現首相の安倍晋三の名が紹介されているのだった。そろそろ「英霊」たちをこういう連中の手から解放してやる べき時なんじゃないのか。男性は25年前に日本から移住してきて、もともとは飲食業などで働いていたらしいが、いつの間にかここの施設の世話役も務めてい るという話だった。そしてレンタカーで来たわたしたちに「よくここまで来れましたね〜 結構みなさん、道を迷われるんですよ」と言った。男性と話している つれあいを残して、平和を祈念する合掌がモチーフだという慰霊塔を見に外へ出た。

  巨大な白い慰霊塔の横には、ここで全滅した各部隊ごとの遺族らが建立した供養碑が並んでいる。大きさも添えられた文言もそれぞれだが、思いの目方はどれも 耐えようもなく重い。そんなものをひとつひとつ眺めていると、アメリカ軍の戦闘機が頭上の真っ青な空を引き裂くように飛んでいく。慰霊塔を正面に見た右端 に、黄色い手すりのついた、広場からジャングルの冥府へと下っていくようなコンクリートの急な階段がある。それを降りると、そこが当時叉木山と呼ばれた、 この山中に追い詰められた将校と残りのわずかな兵士たちが自害した、日本軍の最後の司令部跡とされる洞窟が残る場所である。熱帯の植物に囲まれたジャング ルにぽっかりと空いた広場のような棚地で、そこから四箇所ほどに入口をコンクリートで固めた洞窟の暗やみが口をあけている。変な言い方だが、負けて、追い つめられた者たちにふさわしい凡庸な場所だなあと思った。何だか、ふだんは子どもたちが隠れん坊でもして遊んでいるかのような間延びした空間で、案外と人 はそんな凡庸な場所で死なねばならないのかも知れない。階段を下りてくるときはやけに太った油色の蛙や、たくさんのトカゲが足元から逃げていったが、ここ は無数の蚊がすぐにまとわりついてくる。広場へもどると、先ほどのチャモロ人の男性が車に乗ってどうやら待っていてくれたらしい。娘のために、ゲートの入 口まで車で送る、どうぞ乗ってくれ、遠慮をするな、と言う。車内での短い会話だったが、かれの奥さんが日本人で、おじいさんも日本人だという。チャモロ人 側でこの施設の管理にたずさわっている人らしい。これからどこへ行く? と訊かれて「イナラハンの聖ヨセフ教会に」と言うと、「ここから30〜40分ほど だ」と教えてくれた。

  相変わらず施設名検索がヒットしないおバカGPSだが(聖ヨセフ教会 Saint Joseph Church すら出ない)、こちらも少しづつ勝手が分かってきた。南部の歴史保護区でもあるイナラハンのだいたい中心部に目的地設定して走り出せば、南下した車はじき に気持ちのいい片道1車線の田舎道、そして気がつけば美しい海岸線沿いのワインディング・ロードを走っていた。何だか日本の南紀の海岸線にも雰囲気が似て いて、「もうじき串本か? 下津か?」なぞとみなで笑い合った。タロフォフォ湾手前の Jeff's Pirate's Cove で昼食。白人系米国人が経営する海賊をテーマにした海辺のレストラン兼みやげ物屋で、店員はみなドクロマークのTシャツを着ている。わたしは厚さ十数セン チはあるだろうボリュームたっぷりの定番チーズバーガー。つれあいと娘は日替わりの、ピタパンに特性ソースがかかったラム肉のセットを二人でも食べきれな いと言いながら分け合った。この後、娘は暑さに参ったか旅の疲れか、少々体調が悪くなって後部座席で横になることしばし。

  車でグアムを回ると、タモン湾周辺のいわゆる観光客相手のホテルや免税店が立ち並ぶエリアがグアムの中でいかに特殊な地域かということがよく分かる。その 他の町は、まあ村といっても差し支えないくらいのどかで、行政府が置かれているハガニアにしても町としての規模は知れている。古代からのチャモロ文化やス ペイン統治時代の遺跡が残るイナラハンも、車で走ればあっという間に通り過ぎてしまうような質素な佇まいだ。幸い目指す聖ヨセフ教会は幹線道路沿いに、ま るで造られたばかりのような綺麗なベージュ色の堂々とした趣きで立っているので否が応でも目にとまる。1944年7月、アメリカ軍による再上陸作戦が目前 に差し迫った頃、この聖ヨセフ教会のイエズス・バザ・デュエナス神父は、日本軍の占領からジャングルに逃げ隠れていたアメリカ軍通信兵の潜伏場所を追求さ れ、衆人環視のもとで行われた四日間の拷問の末にかれの甥と共に日本軍によって斬首されたのだった。

 それは7月12日、米軍の再上陸作戦(同月21日)まで、あと9日のことだった。しかも処刑の2日前にあたる7月10日、トウィード通信兵は米海軍の掃海艇によって発見され、すでに「大宮島」から救出されていた。

  住民から慕われていたデュエナス神父の亡骸は、戦後に収容され、彼がいた聖ヨセフ教会の祭壇の下に安置された。その教会は、いまもイナラハンの村のシンボ ルとして建っている。また神父が処刑された場所には、1948年、「デュエナス神父記念学校(Father Duenas Memorial School)」が建設された。同校は神学校兼グアム唯一の男子校として、いまも存続している。

  教会の前の空き地に車を停めて、教会へ入ってみた。扉はどこも開け放たれていて、なかには誰もいなかった。広く立派な聖堂は豪奢というのとは違う、風格は あるのだけれど、きれいに整頓された魂の安息所という感じだ。ステンドグラスから差し込む日の光がやわらかだった。奥へすすむと白い花々で飾られた清楚な 祭壇があり、さいしょは分からなかったが、よく見ると磨かれた大理石の足元(祭壇の裏手)にさりげなく埋め込まれたプレートがあった。"In pace et honore hic jacet Rev. Dns. Jesus B. Dueñas tempore bello occisus die 12 a Julii 1944 hic inter suos sepulturam invenit die 21 a Martii 1945."  (表記はラテン語のようで、あとでネット検索で英語訳を入手した。"In peace and honor here lies the Reverend Sir Jesus B. Dueñas, slain in time of war on July 12, 1944; his grave was discovered on March 21, 1945. " http://paleric.blogspot.jp/2011/03/interesting-things-about-inarajans.html )  写真で見るデュエナス神父は端正な面立ちで、はにかんだように笑っている写真もあって、村の人々に慕われていたその人柄が偲ばれる。それでいて芯の強い 面もあったのだろう。前掲の「グアムと日本人」の中で筆者の山口は「(デュエナス神父は)新しい占領者に対して不服従の姿勢をとるチャモロ人神父として現 地住民の支持を集めていた。それだけに彼は、日本軍の注意を引く重要人物だった」と記している。1911年の生まれとあるから、殺害当時は33歳だったこ とになる。わたしはじぶんの足元に眠っている見知らぬ異国の神父にしばらく思いを馳せた。ひっそりとした教会を出ると、芝生の緑がやけにまぶしかった。教 会には、かつて日本人がかれらの敬愛する神父にどんなことしたのか、何一つ記されていない。日本語はおろか、英語のガイド板もない。なにもないが、チャモ ロの人々の心の中にはしっかりと刻まれているのだ。日曜のミサに教会へ行けば、祭壇の下にかれは眠っている。一方で日本の旅行者たちが手にするグアムのガ イドブックには、イナラハンもこの聖ヨセフ教会もスペイン統治時代の文化の名残とさらっと触れているだけで(まったく出てこないガイド本もある)、もちろ んデュエナス神父に関する既述などは皆無だ。そしてそれを手にグアムへやってくるほとんどの日本人の心の中にも、当然ながらデュエナス神父は不在だ。この 落差はいったいどれほどだろうかとわたしは思い、愕然とする。

  イナラハンからメリッソまではほんのわずかだ。グアムのちょうど南端部の海岸沿いを走っているうちに、ネットで調べて見ておいた Memorial Catholic Cemetery(カトリック墓地) が右手に見えてあわててハンドルを切った。海岸部からのなだらかな斜面の青い芝生のエリアにまっしろな墓がたくさん並んでいる。その墓地の左手の進入路を のぼっていくと行き止まりが車数台が停められる空き地になっている。日本軍によるチャモロ人虐殺の地である「ファハの受難碑」までは、その空き地の裏のあ るかなきかのかそけき山道を奥へのぼっていく。やがて見晴らしのいい尾根道に出て、道は東へまわりこむ。10分ほどもあるいたろうか、墓地から東に見える なだらかな山のちょうど裏側の棚地が林になっていて、木陰ができている。中央にプレートを掲げた慰霊碑と、白い十字架が地面に突き刺さり、丸太を模したコ ンクリート製の柵がぐるりと囲んだそのあたりだけが奇妙にえぐれている。ここは記録ではファハ洞窟(Faha caves)と記されていて、やはり米軍の再上陸が目前に迫った1944年7月16日に、村から集められた屈強なチャモロ人の男性ばかり30名がここで殺 され埋められたのだった。一説には、米軍との戦いが始まった後に日本軍に対して抵抗するだろうと思われる村人を選別したとも、あるいは陣地構築に使役した 男たちを陣地の場所を知られたくないために口封じで殺したとも言われている。このメリッソ村では前日にも、別のやはり選別された30名の村人たちが Tinta という洞窟に押し込められて手榴弾を放り込まれる虐殺があった。この Tinta では14人が奇跡的にも生き延びて村へ帰り事件を伝えた。これらの事件を知った住民たちは同月20日、日本軍の施設を襲って日本兵と軍属の十数名を殺害し たという。柵の外向きにに立つプレートには、ここで何が起きたのかを伝える説明が英語で書かれている。柵の中の中央に造花の花々が足元に添えられたプレー トには、殺害された30名一人ひとりの名前が記されている。わたしは窪みに座り込み、何も言えなかった。何を言ったらいいか分からなかったので、この地面 が、草木が、ひそませている記憶を、必死にわが身に招ぎ寄せようとした。それに耐えることしかできない、と思った。確かに堀田善衛がかれの小説『時間』の 中でつぶやいたように「われわれのあらゆる行為がとりかえしのつかぬものであるからこそ、われわれは歴史をもちうるのであろう」 で、わたしたちは歴史を もっていると言えるのか? 山を下りてから、わたしは記憶の公園のようなカトリック墓地のなかをしばらくあるいた。母親の思い出をつづった墓石、仲のよさ そうな夫婦の新婚の古い写真が飾られた墓石、ひとつひとつの墓を見てあるきながら、あの山中で殺された男たち一人ひとりの家族も、掘り起こした亡骸をうつ してこんなやさしい墓石をつくったのだろうかと考えた。

  翌日は早朝からセスナ操縦体験の予約を入れていたので、レンタカー屋のオフィスの営業が終了する今日18時までに車を返さなくてはならなかった。メリッソ を発ってすぐ、ウマタック湾近くの、スペイン統治時代に貿易船を守るためにつくられたというソレダット砦跡を見学していたら、そろそろいい時間になってき た。もうひとつ予定していた太平洋戦争国立歴史博物館(War in the National Historical Museum)は残念ながら見送ることにした(前を通ったときにはすでに閉館時間に近かった)。帰り道の途中で、アガットの道沿いに見つけた小さなスー パーマーケットに立ち寄った。観光客相手でない、地元の人が利用している店で買い物がしたかったのだ。娘の体調がすぐれないので、夕食はホテルの部屋で食 べることにして、わたしは惣菜コーナーのハンバーガーやフライドチキンとレッドライスのお弁当などを買った。ほかにも飲み物やビール、パン、アップルパ イ、シスコーン、牛乳、缶詰などなど。全体的にホテル周辺の店よりは安くていいが、果物はやっぱり高めで買わなかった。レンタカー屋の手前で給油。コンビ ニを兼ねた事務所へ行くと「何リッター入れたいんだ?」と訊かれ、「満タンにしたい」と言うと、外にいた店員が入れてくれて給油量を中のおばちゃんに伝え てくれる。ついでに買ったライチ味のグリーン・ティーがおいしかった。GPSをつけてもらうときにレンタカー屋のオフィスをホームに設定してくれと頼んで いたのだが、どうやらじぶんたちの滞在先のホテルに設定してあるらしいと気がついて、当て推量で何とかレンタカー屋までもどった。日本語の通じる「ミド リ」さんという名札をつけた初老の女性に戦没者慰霊公苑を例におバカなGPSの話をしたら、GPS代8ドルはチャラにしてくれた。レンタカー屋の車でホテ ルまで送ってもらい、部屋でつましい夕食。その後、元気になってきた娘と二人で夜のビーチでしばらく遊んだ。そういえば、グアムに来てこれがはじめての海 だ。「やっと海に入れた」と喜ぶ娘から、頭上のオリオン座にまつわるギリシャ神話の話を波間にただよいながら聞いた。グアムの海水はあたたかい。そしてグ アムの夜の海は異界のようなベールをまとっている。

 

  グアム三日目は早朝7時の迎えでセスナ機の操縦体験。レンタカーとおなじく隣のデュシタニホテルのロビーまで迎えが来てくれて、グアム国際空港まで運んで くれる。今回は初日の実弾射撃場を除いてはすべて日本からWeb上にて事前予約、支払いはクレジット・カード決済。便利な時代になったものだ。このセスナ 体験にしろ、ほかのオプション・ツアーにしろ、基本的には滞在先のホテルまでの送迎付きのスタイルである。体験先のマイクロネシアン・エアは空港をぐるっ とホテル街とは反対側へまわった端にある。コンクリ製平屋の小さなオフィスでコーヒーを飲みながら操縦要領のビデオを15分ほど見て、さあ、飛行場へと連 れ出された先のちょっとオンボロなプロペラ機を見て、これはほんとうに飛ぶのか、大丈夫か、と不安になった。堕ちたら一家全滅だ。狭い操縦席の右手に娘が 坐り、その左隣に車の教習場の教官のように、初老の日本人パイロットが座る。わたしとつれあいは後部座席だ。娘とパイロットはマイクとヘッドホンで会話を して、こちらには聞こえない。加速がはじまり、娘が操縦桿をひきあげる。あとのことはよく覚えていない。「もういいです」とか言ったような気がする。つれ あいは隣で手足の三点をしがみつきながら悲鳴を上げていた。セスナ機はちゃんと飛んでいた。ホテル街とタモン湾の青い海面がどんどん小さくなっていった。 娘は水平を保つのに必死だ。ときどきパイロットにそそのかされて、左旋回をしたり、急上昇をしたりする。「予告をしてからやってくれ」とわたしが叫ぶ。わ たしは高所恐怖症なので鳥に生まれなくてよかったと改めて思った。ジャングルの油色の蛙のように地面にはいつくばって生きていきたい。フライト時間はおよ そ10分間。初心者コースなので空港の周辺をぐるりとまわって帰ってくるだけだが、わたし的にはこれで充分。離陸は娘が教えられながらやったそうだが、着 陸は操縦桿に手を添えているだけだったそうだ。オフィスにもどって、用意してくれていた冷たいグレープフルーツ・ジュースを飲んで、フライト証明をもらっ て終了。行きはスタッフらしい若い現地の男性の運転だったが、帰りは代表者兼パイロットの宮治さん自身の運転でホテルまで送ってくれた。神奈川県藤沢市の 出身で、パイロット・ライセンスを取ってから30年前にグアムへ来たそうだ。どこか飄々とした、死んだ伯父に似た感じで親近感を感じる。ゼロ戦のキャブレ ターの能力と高度の関係や、ブルー・インパルスの曲芸飛行でのホワイトアウト、そして昔グアムで入手した絶品のマグロの刺身の話などを聞きながら帰ってき た。

  予定通り9時にホテルへもどり、次は10時半の迎えのバスでこんどはパラセーリング。パラシュートを付けた鉄製のベンチシートを海上でボートに引っ張って もらうというもの。このアルパンビーチクラブ はホテル街から南へ車で10分ほど行ったアガニア湾の専用ビーチで、パラセーリングやジェットスキー、イルカウォッチングなどのメイン・メニューを選び、 セット価格でそれにバイキング形式食べ放題のランチ、カヤックや足こぎボートなどの遊具が自由に使えるというものだ。送迎の大型バスはあちこちのホテルを 回って客を乗せてくる。パラセーリングはビーチクラブからまたバスで先へ行った船着場まで移動して、そこからモーターボートに乗って沖へ出る。ちなみにわ たしは船酔いもするのだ(予め酔い止めの薬を飲んだ)。乗客はわたしたち家族と、日本人女性の二人組、そしてアジア系のカップル。ベンチシートは二人乗り なので、わが家は二回に分けて、娘は計二回乗れることになった。朝は「飛ぶ」だけだったけれど、こんどは「船」と「飛ぶ」の両方あるので性質が悪い。しか し昨日はほぼ一日、わたしのわがままに付き合ってもらったので、今日は忍び難きを忍びます。どんな感じかはサイトにある動画などを見てもらったらいいと思 うが、まあ、USJのアトラクション水着版、といったところでしょうか。ロケーションが爽快なので、気持ちいいことは気持ちいい。ふたたびバスでビーチク ラブへもどり昼食。カレー、チキン、ライス、サラダ、ビーフン、スープなどを紙皿にとって、屋根つきの休憩場で食べる。ウクレレを持ったチャモロ人のス タッフが「涙そうそう」やユーミンの「卒業写真」などを歌っている。歌手は仮の姿で、このスタッフの真の姿は椰子の実ジュース売りなのだった。五ドルを払 うと、椰子の実を鉈で切り開き、そこにストローを二つ挿してくれる。飲み終わった実を再度持って行けば、内壁のココナッツ部分をスプーンで剥がして醤油と わさびを添えて渡してくれる。食後はビーチでカヤックや足漕ぎボートなど。ちなみにタモン湾のビーチは膝下ほどの浅瀬が続いてしかもごつごつした珊瑚の死 骸がけっこう痛かったりしたが、ここアガニア湾のビーチは適度な深さの遠浅で珊瑚もなく、海水浴としてはこちらの方が環境がいい。それにしても朝6時起き のお父さんはそろそろ疲れてきたぞ。バスに乗ってホテルに戻り、水着のままこんどはホテルのプールを楽しもうとなったので、わたしはほとんどビーチベッド で昼寝をしていた。娘はしばらく母親とホテル前の海へ行ったり、プールのウォータースライダーで遊んだりしていたのだが、疲れと、体が冷えたのもあるかも 知れない。お腹の調子が悪くなって、部屋に戻ってそのままベッドの住民となった。旅行中とあって便が硬くなる貧血の薬を控えたり、また下痢をしないように 便を出しやすくする薬も控えて逆に出にくくなって苦しんだりと、やっぱり調整が色々と難しい。娘がベッドから起きられないというので、仕方なく夫婦水入ら ずでグアム最後の夕飯を食べに出た。レンタカー屋の兄ちゃんが教えてくれた海老料理のBEACHIN' SHRIMP (ビーチンシュリンプ)も良さそうだったのだが満席で、ホテル前をあちこちさまよった挙句、アウトリガーの斜め向かいにあるアメリカンな TGI Friday's に入った。あまりお腹が減っていないというつれあいはグラタンのコロッケのようなものとチキンのサラダ、わたしは店員おすすめのビール(GOOSE IPA(グース アイピーエー)と、奮発してジャックダニエルズ・ニューヨーク・ストリップ&シュリンプなる34ドルもするステーキ・セットを頼んだらこれがものすごいボ リュームで、撃沈したわたしはそのままホテルのベッドに倒れこんで朝まで昏睡状態となった。(娘はホテルのロビーで買ったマフィンを食べ、その後「ホット ドッグが食べたい」と言うのでつれあいが買いに行った) 

  そんなわけで最終日の(残された)午前中は三人で向かいのマクドナルドへ朝食を買いに行って、三人とも泳ぎに行くような体力もなく、部屋でマックを食べな がらごろごろしているうちにチェックアウトの時間となり、オーシャン・フロントの部屋に別れを告げてタクシーに乗り込んだのだった。ドライバーは日本語が 達者な韓国人女性で30年前、姉妹がグアムで結婚をして母親を呼び寄せ、母親が子どもたちを呼び寄せてみんなでグアムへ移住したのだという。さいしょは英 語も日本語も出来なかったので職につくも大変だったと。「韓国もいいですよ〜 韓国にも今度ぜひきてください」 はい、わたしはきっと近いうちに訪ねると 思います。何だか親戚のおばさんみたいな、気さくなおばちゃんであった。空港には早く行き過ぎたかひと気も少なく、航空会社のカウンター待ちでしばらくベ ンチでぼんやりしていた。車椅子を借り、手続きを済ませ、免税店でお決まりのお土産などを買い、混雑したフードコートでまたしてもハンバーガーのランチを 食べた(手続き前の食堂で空港スタッフたちも食べていたワンプレートの定食みたいのが安くておいしそうだったが、失敗した)。空港内の小さな本屋で、わた しは The Pictorial History of Guam: Liberation 1944 なるタイトルの太平洋戦争期のグアムの写真をメインにした大型本を見つけて購入し、娘はなぜかハリ・ポッターの洋書を母親に買ってもらっていた。トイレの 個室で日本人名のJALの航空チケット(1時間後)を拾い、現地の警備員に届ける。たぶんわたしと入れ替わりにウンコをしていったアロハ姿の若者だと思う が、あいつは無事飛行機に乗れたんだろうか。夜7時頃に関西空港着。ほんとうはここで夕食を食べていく予定だったのだが娘のお腹の調子が相変わらずなの で、そのままリムジン・バスに乗って奈良へ。駅前のセブンでお弁当を買って、久しぶりのわが家にもどったのであった。玄関を開けると、ゲージの中の猫(グ アム滞在中はわたしの母と妹が世話をしにきた)が頭を低くして警戒モードでこちらを見上げた。

 ところで、これまで何度か引用してきた山口誠の「グアムと日本人」は、その最後を次のようにしめくくっている。

  グアムを見ずに「グアム」を観光する日本人が、あまりに多い。忘却と無関心の「楽園」に囲まれて、見えているのに見えていないものが、あまりに多い。忘れ たことさえ忘れるまえに、埋立てた記憶を掘り返し、記憶の回路をつないで他者たちと対話を続ければ、きっと忘却が支配する「楽園」では見えなかったものが 見えてくるだろう。それは現地の住民から見える日本人の姿が変化することにもつながるはずだ。

  タモン湾でショッピングと海水浴を楽しむことが、必ずしも「大宮島」の記憶を知ることと本質的に対立するとは考えられない。過去を知り記憶を取り戻す行為 と現在の生を楽しむ行為は、決して矛盾しないだろう。そして楽しむことのすべてが間違ったことではないように、慰霊と謝罪だけが唯一の正しい観光のあり方 とも考えられない。

 グアムへ行くならば、小さな「グアム」だけでなく、もっと広くて多様なグアムにも行くことができる。われわれはクモン湾に開発された半径一キロ程度の「日本人の楽園」だけでなく、さまざまな記憶が残された、多様な人々が生活しているグアムも、見ることができる。

  忘却と無関心の「楽園」から抜け出て、記憶の回路を取り戻したとき、われわれはもっと広く、多様な可能性を持つ世界へと向かうことができる。その眼をもっ て、われわれ自身の歴史と現状を見るならば、より複眼的に自らの姿をとらえることもできるだろう。見えないことさえ見えなくなるまえに。

  「見えないことさえ、見えなくなる前に」  グアムでわたしが見てきたものは、じつはグアムではなくて、グアムを通した日本の現在(いま)であったような 気がする。グアムへ行く前、わたしは仕事のため北陸で一月半ほどを過ごした。その間、南京虐殺を被害者である中国人の視点から描いた堀田善衛の小説『時間』を毎晩、宿に帰ってから少しづつ、苦しみながら頁をめくっていったことは貴重な体験であった。その巻末の解説に、辺見庸が記していた一節がわたしには忘れられない。

  古代ギリシアでは、過去と現在が前方にあるものであり、したがって見ることができるものであり、見ることのできない未来は、背後にあるものである、と考え られていたーーーという、ホメロスの『オディッセイ』の訳注をみつけて、作家は言ったものだ。「これをもう少し敷衍すれば、われわれはすべて背中から未来 へ入って行く、ということになるであろう」(『未来からの挨拶』)。言うなれば、未来は背後(過去)にあるのだから、可視的過去と現在の実相をみぬいてこ そ、不可視の未来のイメージをつかむことができる、というわけだ。あったものがなかったと改ざんされた時間では、背中からおずおずと未来に入っていって も、なにもみえないはずである。戦慄せざるをえない。

  封印された「見えない」グアムの過去をひもとけばひもとくほど、不様なこの国の現在(いま)が立ち現れてくる。わたしたちが、もし未来のイメージをつかま えたいと思うのなら、見ることのできない未来は背後にあることを思い出さなくてはいけない。わたしはこれからも拙いながら、背中の旅をし続けたいと思う。 茫洋として見えない未来のイメージを少しでもつかみたいから。

 

▼山口誠「グアムと日本人 戦争を埋立てた楽園」岩波新書 https://www.iwanami.co.jp/book/b225871.html 

▼ウエスタン フロンティア ヴィレッジ(実弾射撃場) http://www.hyperdouraku.com/guam_guide/wfv.html 

▼Eggs'n Things Guam http://guam-navi.jp/eggsnthings-guam/ 

▼南太平洋戦没者慰霊公苑教会 http://www.spmaguam.org/index.html 

▼グアム島で慰霊祭 http://www.geocities.jp/bane2161/guam7.htm 

▼イエズス・バザ・デュエナス神父 http://gwave.blog49.fc2.com/blog-entry-733.html

▼Jeff's Pirate's Cove https://guam.200per.net/about-jeffs-pirates-cove/

▼Tinta and Faha Cave Massacres http://www.guampedia.com/war-atrocities-tinta-and-faha-cave-massacres/#

▼ケン芳賀のグアム体験ブログ http://blog.livedoor.jp/cpiblog01241/archives/50991386.html

▼グアム ウマタック メリッツォ ファハの受難碑 イナラハン タロフォフォ ジーゴ https://blogs.yahoo.co.jp/yuuutunarutouha/34185053.html

▼太平洋戦争国立歴史博物館 http://guam-navi.jp/visitor-center/

▼マイクロネシアン・エア(セスナ操縦体験) http://www.micronesian-aviation.com/

▼アルパンビーチクラブ  https://www.abcguam.jp/ 

▼アウトリガーのプールの様子 http://guam10.com/hotel/outriggerpool.html

▼ TGI Friday's http://guam-bu.com/tgi-fridays/

▼The Pictorial History of Guam: Liberation 1944 https://www.amazon.com/Pictorial-History-Guam-Liberation-1944/dp/B000RUGX04 

堀田善衛『時間』岩波現代文庫 https://www.amazon.co.jp/%E6%99%82%E9%96%93-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%A0%80%E7%94%B0-%E5%96%84%E8%A1%9E/dp/4006022719 

  先日はからずも訪ねたグアムに配備された日本軍に奈良の部隊があることをおしえてくれたのはFB友の中平さんである。歩兵第38連隊は明治29年に大津に て創設、翌年に京都深草に移駐して日露戦争、満州派遣などを経て、大正14年に奈良へ転営した。春日大社の南、現在の奈良教育大学の敷地に兵舎があり、隣 接する法務局(奈良第二地方合同庁舎)に「奈良聯隊跡記念碑」がいまも残っている。その後、満州へ駐屯した連隊は昭和12年、上海派遣軍に編入されて、か の南京攻略戦に参加している。師団長の中島今朝吾は南京占領後に西欧からの猛烈な抗議を受けた軍司令部の調べに対して「略奪、強姦は軍の常だよ」と平然と 答えているように、上海派遣軍(第16師団)は南京に於ける日本軍による虐殺事件で最も代表的な部隊だったと言ってもいい。歩兵第38連隊は津の歩兵第 33連隊と共に、降伏後の南京市内外の「掃討作戦」に従事した。「捕虜ヲ受付クルヲ許サズ」の命令を受けて捕虜や「疑わしき」住民を殺戮し尽くした証言は 多く残っている。その後、中国各地を転戦した歩兵第38連隊は昭和19年3月にグアムへ配備され、7月のアメリカ軍上陸により全滅した。ちなみに昭和47 年に「発見」された横井庄一さんもこの38連隊の陸軍伍長であった。

  南京虐殺を描いた堀田善衛の小説「時間」を臓腑に釘を一本一本打ち込むような思いですこしづつ読み進めていったのは年明け、出張で滞在していた北陸のレオ パレスであった。続いて中公新書の「南京事件 「虐殺」の構造」(秦郁彦)で全体像を追った。そしてはからずも、のグアム。南京とグアムとわたしが住む奈 良が「戦争」というキーワードで貫木のように嵌った。それからわたしは休日になると歩兵第38連隊の影を追うようになった。奈良教育大からさらに南、古市 の集落ちかくの丘陵地のしずかな林の中には奈良の陸軍墓地がある。いまでは訪れる人も滅多にないだろうこの墓地(グアムの慰霊塔公苑とおなじような時の彼 方に置き去りにされた空虚な静寂に満ちている)には「満州事変戦没者合同墓碑」(昭和31年5月30日建立)と「歩兵第三十八連隊将兵英霊合祀之碑」(昭 和9年3月建立)の二つの塔、そして寛城子事件(※大正8年、当時の満州の長春で日本人暴行事件に端を発した日中両軍の衝突事件)で亡くなった34人の兵 士たちの墓がある。そのうち将校の墓は巨大な慰霊塔の両脇に立派な台座と共に建ち、下級兵士たちの墓はそこから一段下がった場所に素朴な墓石が並んでい た。印象的だったのはなぜかこの下級兵士たちの墓だけ、墓石のまわりにたくさんの石が積まれていたことだ。故郷の石を遺族が運んだのだろうかと空想した。 はじめてだったが陸軍墓地よりわずかに北方、奈良佐保短大に隣接する広大な敷地の奈良県護国神社も覗いてみた。「奈良県出身の英霊3万柱を祀る」とうたっ たこの社の背後の峰で点火される、奈良の夏の風物行事でもあるこの高円山の送り火が、じつは「奈良県出身の29,243柱の英霊を供養するため」の慰霊祭 であり、護国神社をはじめとして大安寺、東大寺ら近在の30ヶ寺が参集して「県出身の戦没者29,243柱のお名前が奉読」されることを知ったのもおなじ 頃だ。また薬師寺や唐招提寺が建ち並ぶ西ノ京の秋篠川沿いにやはり英霊を合祀した奈良市慰霊塔公苑があるのを知り、自転車で見にいったのはつい数日前。 「英霊」や「散華」といった戦前の化け物が何気ない日常の風景の裏に粘菌のように滲みついているように感じた。そしてこの国では、「戦前」と「戦後」は けっして断絶ではなく「連続」なのだという思いをいっそう強くした。

  「軍人墓」というものがある。頭部を方錐形にしてたいてい一般の墓石より高くそびえて建っているから遠目でもよく分かる。1874年(明治7年)、陸軍省 が「陸軍埋葬地ニ葬ルノ法則」により階級により墓碑の規格を統一。以降、軍隊入営中に戦死した者は国や軍隊からの指導により、先祖代々の墓とは別にこの規 格に沿った墓に葬られたという。グアムで全滅したのが奈良の連隊であったと知ってから時折、時間を見つけて自転車で近所の墓地を回るようになった。正面に 軍隊での階級と氏名があり、側面には戒名と「○○○ニ於イテ戦死 二十二才」などの文字があり、裏面は建立者というパターンが多い。簡単に戦死した場所と 年齢だけの場合が多いが、ときに入隊してからの経緯をくわしく刻んだ墓石もあれば、年齢だけで場所を記していない墓もある。ニューギニア、比島、中華民 国、ラバウル、ビルマ、朝鮮沖、蒙古、バシー海峡、マリヤナ群島、南京、沖縄本島など、さまざまな場所で戦死した兵士たちの墓をいくつも眺め、刻まれかす んだ文字を読み、黙祷をしてから次の軍人墓へあるきだす。沁み入るような青空の下でそんなふうに一時間も二時間も広大な墓石の間をさまよっていると、おれ はいったい何をしているのだろう、とも思う。まだじっさいにはお会いしたことはないがFB友で彫刻家の安藤栄作さんはパレスチナのガザで殺された子どもた ちの像を一体一体刻み続けていつの間にか千体を越えた。それに似たものかも知れない。わたしはアーティストではないので、こうしてひとつひとつの墓石を訪 ね、墓石と対峙し、「どこで」「何歳で」死んだくらいしか分からないが、それだけでも重い魂を測りにかけるかのように、戦場における死者をこの不器用な精 神と身体に肉化していく。真昼のひと気のない墓場をあるきまわっているとどんどん体が重くなっていく。そのままずぶずぶと沈んでいきそうな気がする。それ でもわたしは何かに引かれるように墓場をあるきまわる。

  戦争が激化した終戦間際の戦死だったとして、1945年(昭和20年)に25歳で死んだ青年の母親はもう50歳近いだろうか。2017年の現在では122 歳となる計算だから、これらの墓石の前で知れず嗚咽をした母はもうとっくにこの世にはいない。子孫がおなじ墓域で建ててくれている墓はいい。参る者もいな くなり、無線仏の石くれの山に積み上げられて、もう名前すら読めない軍人墓もたくさん見た。わたしたちはかれらを「英霊」と讃える連中に預けっぱなしで済 ませていたんじゃないだろうか。ひとつの大きな墓石の左右側面に二人づつ、計4人の兄弟たちの名前が刻まれた墓石を見つけたときは呆然とした。昭和19年 9月、中国湖南省。昭和20年5月、レイテ島。同年6月、レイテ島。同年8月、モンゴル。21歳、22歳、25歳、27歳の兄弟の墓である。終戦の混乱期 を耐え抜いて、昭和32年にようやく母親はこの兄弟の合同墓を建立した。父親の名前でないのは、このときすでに夫は他界していたのかも知れない。縁もゆか りもない見知らぬ家庭ではあるが、わたしはこの兄弟たちと母親がまだ生きていた実時間での歴史の風景が脳髄の奥の方から知れずあふれ出して来て、ことばを 失う。その母も、もういまはこの世にいない。そびえ立つ墓石の先の青空をわたしはじっと凝視する。グアムでの戦死者の墓を見つけたのも、おなじこの共同墓 地だ。25歳の若き軍曹は昭和19年9月30日に大宮島(グアム島)にて戦死していた。かれが歩兵第38連隊だったのであれば、アメリカ軍の上陸が開始さ れた7月には「かれ」はアガット湾に配置されていたはずだ。ちょうどわたしたち家族がレンタカーで島を回った日の夕方に、地元のスーパーマーケットで買い 物をしたあたりの美しい海岸だ。けれども米軍の猛烈な艦砲射撃と空爆により部隊はたちまちに壊滅し、生き残った兵士はジャングルの奥の残存部隊に吸収され た。戦史によれば8月11日に叉木山の最後の司令部の将校たちも自決し、最後の日本兵が降伏して戦闘がほぼ終了したのは9月4日というから、9月30日戦 死の「かれ」はその後のジャングルでの日本軍兵士狩りで殺されたか、あるいは戦死した場所も日にちももはや定かでないから9月の末となったのか不明だが、 後者であるのかも知れない。おそらく遺骨もなかったろう。わたしは「大宮島」と刻まれた文字をそっと指先でなぞった。もうたくさんだ、と思った。奈良から 出征し、南京での悪夢を経て、遠く南方の小島のグアムで散った命が、いま、わたしの手にもどってきた。へんな言い方だが、もどってきたような気がした。

▼歩兵第38連隊 (Wiki) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A9%E5%85%B5%E7%AC%AC38%E9%80%A3%E9%9A%8A

▼歩兵第38連隊 http://www.geocities.jp/bane2161/hohei38rentai.html 

▼奈良歩兵第38連隊の帰還 https://ameblo.jp/fugo0330/entry-10618461112.html

▼「虐殺」命令(歩兵第38連隊兵士の証言) http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/gyakusatu.html#yamadad

▼奈良陸軍墓地 http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-2nara.htm

▼奈良縣護國神社 http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/gokoku-nara.htm

▼大文字送り火行を創始する(鍵田忠三郎) http://www4.kcn.ne.jp/~hozoin/kagitadaimonji.htm

▼奈良市慰霊塔公苑 http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1147087494791/

▼軍隊と戦争の記憶 日本における軍用墓地を素材として(PDF) http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/0007/SK00070L115.pdf 

▼「万骨枯る」空間の形成 陸軍墓地の制度と実態を中心に(PDF) http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0082/BO00820L019.pdf

▼軍人さんのお墓(PDF) http://www.tennoji-h.oku.ed.jp/j-tennoji/jiyukenkyu/DaikyoFTenJH_JiyuuKenkyu_(26)_2001/DaikyoFTenJH_JiyuuKenkyu_(2001)_26_13-18_gunjinsannoohaka.pdf 

▼安藤栄作彫刻展 http://www.tamaky.com/mt/archives/2015/11/andou-eisaku.html

▼グアムの戦い(Wiki) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

2017.5.20


 

 

 

 

背中からの未来