008. 大阪・堺へザビエルの時代のらい病院をさがしにゆく

背中からの未来 

 

 

■008. 大阪・堺へザビエルの時代のらい病院をさがしにゆく

 

 午後から難波経由で南海本線へ乗り込んだ。堺の手前、七道という小さな駅で降りて、そこから主に紀州街道を、主にキリシタン遺跡をたどりながら堺まであるいていった。沖 浦先生の遺作「宣教師ザビエルと被差別民」(筑摩選書)の終盤、ザビエルによってキリシタンになった大阪・堺の豪商、小西立佐(洗礼名・ジョウチン 小西 行長の父)が当時「世間から見捨てられた窮民の救済に奔走し」て建てた癩病院が「七道ヶ浜」にあったというさりげない記述を見つけて、堺、七道といったら もしや南海本線の「七道」駅に関連があるのかとあれこれ調べ出したのが、このちいさな旅の出発点だ。わたしの問いにやっとひとつの答えをくれたのがその後 Webで探し当てた、かつてわたしが感銘を受けて絶版のため一時は図書館から盗み出そうかとも思った「宿神思想と被差別部落」(明石書店)の著者・水本正 人氏による「非人にとっての救いと宗教」という論考だった。少々長いが関連部分を以下に引く。

 

 癩者にとって信じられない出来事が起こった。キリスト教が日本に入ってきたのである。

  天文18年(1549)、イエズス会(カトリック)のザビエルが渡来して、伝道を始めた。イエズス会は、伝道しながら医療活動も行った。特に、弘治元年 (1555)に来日したアルメイダは、外科医でもあったから、病院を建てて、病人を治療した。病気を治してもらった者が、キリシタンになっていく。アルメ イダは癩者に対して手厚く治療した。

 文禄元年(1592)、癩者救済に格別熱心であったフランシスコ会(カトリックの修道会)が来日したから、癩者にとって、まさに朗報であった。

 癩者が、非人村の者がキリシタンになるのは自然な流れであった。

 非人村の者がキリシタンになった例を挙げる。和歌山城下の場合である。

 

+++++++++++++++++始まり+++++++++++++++++++++++++++

   慶長5年(1600)9月の関ヶ原の戦いで、東軍に付いた浅野幸長が(浅野長政の長子)は加増されて、翌月に甲府府中から紀伊に入り37万石を与えられた。

  幸長は疥癬を患っていた。日本の医者には手に負えなかったようで、フランシスコ会の修道士アンドレスがこれを治した。幸長は修道士に感謝し、彼らのために教会や病院を造らせた。

   幸長は慶長18年(1613)8月に亡くなる。この年の12月に、幕府は全国に向けてキリスト教を禁ずる「禁教令」を出す。幸長の跡を継いだ弟の長晟は、幕府の方針に従って、教会を閉鎖し、キリシタンを弾圧した。

   和歌山城下の(吹上)非人村はキリシタンになっていた。彼等は転ばなかったから、御仕置がなされた。80人余の者が御仕置され、非人村が消滅した。

+++++++++++++++++終わり+++++++++++++++++++++++++++

 

 和歌山の病院は、慶長13年(1608)に建てられ、癩者を治療する癩病院である。癩病院は、豊後の府内・臼杵、京、大坂、堺、広島、長崎、浅草、九州の有馬や五島などにもあった。

 もう一つ例を挙げる。大坂の天王寺垣外である。

 

+++++++++++++++++始まり+++++++++++++++++++++++++++

    四天王寺は、聖徳太子が創建した寺と言われている古い寺である。忍性が療病院と悲田院を復興したことはすでに述べたが、南北朝期には「太子信仰」の拠点と して、信仰を集めた。説教「さんせう太夫」「しんとく丸」では、「つし王」「しんとく丸」も四天王寺で再生の契機を得ている。癩者をはじめ乞丐人たちが、 再生を求めて四天王寺に集まって来る。自ずと非人(乞食)集落が出来、悲田院の長吏が非人を支配する村となり、それが、文禄3年(1594)に片桐且元が 検地を行った際に除地として認められ、天王寺垣外が成立したものと思う。この年、フランシスコ会は大坂に癩病院を建てた。慶長12年(1607)には、大 坂に四ヶ所の癩病院があった。フランシスコ会の病人(癩者)救済を契機に、天王寺垣外の非人はキリシタンになったものと思われる。慶長10年(1605) に、大坂では、4000回以上の説教をして来た四天王寺の仏僧がキリスト教に改宗し、260名の者が洗礼を受けている。慶長19年(1614)以降、禁教 令の嵐のもとで、「転び」を余儀なくされ、天王寺垣外の長吏をはじめ非人たちが転ぶ。転んだ者と、その類族に対して、その後、厳しい宗門改が行われた。

+++++++++++++++++終わり+++++++++++++++++++++++++++

 

 さらにもう一つ、堺四ヶ所(七堂浜・悲田寺・北十方・湊村)の七堂浜非人村を挙げる。

 

+++++++++++++++++始まり+++++++++++++++++++++++++++

   七堂浜非人村は七道の宗宅寺の境内にあった。七道を古くは、七堂・七度といった。

   その由来は「高渚院の七堂伽藍のあった地、住吉社の神輿を担ぐ人々が七度の垢離をとった地」からきている。

    『耶蘇宗門制禁大全』に「七度ヶ浜癩村の吉利支丹130余人を南蛮に追放す」とある。これは寛永7年(1630)ころのことである。七堂浜非人村の前身は 癩村であった。130余人を追放したのだから、癩村はほぼ壊滅したのではないだろうか。新しい七堂浜非人村は癩者が殆どいない非人村になったものと思われ る。

   「 1607年のムニョス報告書」によれば、浅野幸長は、帰国の際、大坂や堺の市を通って、両市にある癩患者の「収容所」に寄り、彼等は殆どがキリシタン、彼 等を呼んで輿の中から彼等と話し、施物を与えている 。「収容所」は「非人村(癩村)」のことで、七道は紀州街道と熊野街道が交差するところだから、幸長は七度ヶ浜癩村に立ち寄ったものと思う。

+++++++++++++++++終わり+++++++++++++++++++++++++++

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  癩者に対して、宣教師はどのような接し方をしたのか。キリスト教を批判する立場から書かれた『南蛮寺興廃記』に、「南蛮寺(教会)では、洛中・洛外へ人を 出し、山野の辻堂、橋の下等至まで尋ね捜し、非人・乞食等の大病・難病等の者を連れて来らせ、風呂に入れて五体を清め、衣服を与えて身体を暖め、療養させ る。昨日の乞食が、今日は唐織の衣服を身に纏う。病も自ら心よく回復する者が多い。就中、癩瘡等の難病は南蛮流の外科治療を受け、数ヶ月へずして全快す る。『誠の仏・菩薩が、今世に出現して救済し給う』と、近国・他国の風説である」(要約)とある。批判者すら、宣教師の取組を認めざるを得なかったよう だ。癩病が治ったと書かれているが、癩病に似た疥癬であろう。

 このような手厚い治療をしてもらった癩者は、まさに宣教師に仏を見たであろう。

 しかし、幕府の禁教令は、癩者の希望を打ち砕いた。多くの癩者が捕まり、転ぶことを拒否して、処刑された。

*************「非人にとっての救いと宗教」引用終了*************

http://www.blhrri.org/old/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0197-01_mizumoto.pdf 

 

  マボロシの七道ヶ浜を探したのだ。七道駅の前には「鉄砲鍛冶射的場跡」の碑が建っている。その解説に、この堺七道浜にかつて鉄砲の試射場がつくられ、それ が昭和のはじめまで「鉄砲塚」として残っていたという記述があった。七道駅の西側で見つけたシャッターを下ろしたスナック「七堂濱」の看板が唯一、ここが かつて海であったことを語っている。水本氏の論考で境内に七堂浜非人村があったとされている「宗宅寺」はいまも駅の東側にあ る。真新しい新築のいでたちでひと気もなく、こっそり裏手の墓地も覗いてみたが古そうな墓石もほとんどない。「宗宅寺」の道向かいには行基が開いたと伝わ る千日井という井戸があった。そのままかつての紀州街道に入り、鉄砲鍛冶の屋敷を見て、道は阪堺線の路面電車が走る大通りに変わった。関ヶ原で石田三成と 共に戦い敗れて京都の六条河原で斬首されたキリシタン大名の小西行長の屋敷跡、朱印船貿易商であった西ルイスの邸宅跡と墓のある本受寺、堺の豪商でザビエ ルと会って洗礼を受けた日比屋了慶の屋敷跡と伝わるザビエル公園、クルス(十字架)紋の入った手水鉢がある開口(あぐち)神社などを訪ね、FB友で堺が実 家の勺 禰子さんから急遽メッセージで教えてもらった「ちく満」でめずらしいせいろ蕎麦の遅い昼飯を食い、千利休の屋敷跡でボランティアさんの解説を聞き、教えら れて向かいにある利晶の杜(利休と与謝野晶子に関する展示施設)に入ったのが3時半頃だ。二階建ての展示室をじっくりと見て、小さな図書スペースのお姉さ んにむかしの堺の海岸線が分かる絵図なんかないですかねと訊いて微笑みでかわされ、下りてきたロビーのところで先ほどのボランティア氏に再会し、じつは七 道ヶ浜の具体的な場所を知りたいのだと話しながらふと足元を見たら、足元の床一面に複写された文久3年(1863年)の絵地図のすみにあのスナックの看板 とおなじ「七堂濱」の文字を見つけて、これだこれだと思わず大きな声をあげた。

  帰宅して「堺 絵図」で検索をしたところ、「堺市立図書館 地域資料デジタルアーカイブ」のサイトで堺市の年代の異なる何種類かの絵図を拡大して見れるのを知った。そのひとつひとつを舐めるように見ていって、つい に宝永1年(1704年)―――関ヶ原の100年後だ―――の絵図に、七堂濱の海岸近くの「乞食」と描かれた場所を見つけた。わたしが利晶の杜のロビーで 見た文久3年(1863年)の絵地図では「ソウケン(宗見寺)」「ソウタク(宗宅寺)」と現在と同じ並びで記されている場所が、宝永1年の絵図では「泉見 寺」「千日寺」とあり、その「千日寺(後の宗宅寺)」の敷地と重なるように海岸寄りに「乞食」と記されたエリアがある。これが水本氏が書かれ ていた宗宅寺の境内にあった「七堂浜非人村」の痕跡と思ってほぼ間違いないだろう。その場所が後に「鉄砲鍛冶射的場」となり、海も埋め立てられて海岸線も ずっと後退した。現在のちょうど七道駅あたりに小西立佐らキリシタンたちが建てた癩病院があったのではないか。

 

  堺の癩病院は七道ヶ浜にあったと推定されている。アルメイダも堺に来ているから、その病院を訪れて、医者としていろいろアドバイスを与えたであろう。この 病院は迫害が始まってからも存続したようだが、詳しいことはわからない。小西立佐は死際の遺言で、癩病院の経営を長男の如清に依頼したが、その如清もしば らくして死んだので、堺の信徒たちが組織した信心会が病人たちの面倒をみた。

  堺を訪れたフロイスは、「この病院では設立以来、すでに50名以上が改宗し、キリシタンとして死んでいった。仏教徒はこの種の病人を相手にしないのが常で あったから、懸命に世話をするキリシタンの姿を見て、彼らは驚きかつ感心した」と書いている(フロイス「日本史3」1976年・中央公論社)。

沖浦和光「宣教師ザビエルと被差別部落」(筑摩選書)

 

  宗宅寺から七道駅側、スーパー万代・七道店の前の整備された水路のはしにわたしは立っている。駅が、鉄路が、町並みがまぼろしのように消えていって、波の 音が聞こえる。潮の匂いもする。素朴な茅葺の堂が建つそのむこうに海がゆったりと広がり、きらきらと輝いている。その光のなかに、必死に生きようとし、他 人を救おうとしてみずからも救われる、そんな人々の交歓が立ち現れる。

 

▼「非人にとっての救いと宗教」水本正人(部落解放研究 No.197 2013.3)
http://www.blhrri.org/old/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0197-01_mizumoto.pdf

▼水本 正人「宿神(しゅくじん)思想と被差別部落  被差別民がなぜ祭礼・門付にかかわるのか」(明石書店)
http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784750308487

▼堺市立図書館 地域資料デジタルアーカイブ>絵図
https://www.lib-sakai.jp/kyoudo/archive/06_ezu/ezu.html

▼大阪の隠れキリシタン
http://tenjounoao.waterblue.ws/travel/osaka1.html

▼たぶん、日本で最もユニークな老舗蕎麦屋 ちく満(ちくま)@大阪府堺市
http://tetsuwanco.exblog.jp/12190809/

▼七道さんぽ
http://toursakai.jp/machi/2011/02/24_57.html

▼堺・七道の歴史〜柳原吉兵衛と在日朝鮮人
http://blog.canpan.info/key-j/archive/139

▼キリシタンゆかりの地をたずねて
http://www.pauline.or.jp/kirishitanland/kirishitan_List.php

▼かん袋のくるみ餅
http://macaro-ni.jp/30002

▼さかい利晶の杜
www.sakai-rishonomori.com/ 

2017.2.27



 

 

 

 

 

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