006. 岐阜県飛騨、雪の安房峠に消えた篠原無然の足跡をたずねる

背中からの未来

 

 

■006. 岐阜県飛騨、雪の安房峠に消えた篠原無然の足跡をたずねる


 

  篠原無然の名前をはじめて見たのは、同僚のS君がもう読み了えたからと呉れた井上理津子「さいごの色街 飛田」(新潮文庫)の中でだった。現在も変わらず 「営業」している大阪・飛田遊郭の歴史をたどった一節で大正時代、「飛田を含む大阪一円の娼妓たち」が性感染症が発覚すると強制入院させられた難波病院 (住吉区帝塚山)に於いて二年間、大阪府保健課の嘱託として娼妓たちのカウンセラーにあたったとして無然の名前が登場する。そこでは無然が「大阪の貸座敷 をつぶさに回って娼妓らの聞き取り調査をし」、「病院で娼妓たちと寝食を共にし、彼女らの心のケアをした」として、かれが入院中の娼妓たちに向けて書いた 「心得」や、また無然から書くことを教えられた娼妓たちが残した「娼婦の作りし哀歌」と題した巻紙などについて触れられている。

  この篠原無然なる人物についてもっと知りたいと思ったが、かれに関する書籍などは現在、ほとんど出版されていない。 唯一、江夏美好という無然が活躍した 飛騨出身の作家が1980年に「雪の碑」という無然の伝記小説を書いていることを知り、在庫のあったよその図書館から取り寄せてもらって読んだ(後に中古 で入手した)。この作品について著者があとがきで「これはあくまでも小説です。けれど記録、もしくは伝記、あるいは紀行のたぐいと読んでいただくのもよ く」と書いているとおり、丹念な取材と無然を知る古老たちへの聞き取りを元に10年近くの歳月をかけて上梓されたこの作品は、唯一無二の貴重な篠原無然ガ イド本といえる。著者が山深い平湯温泉を訪ねたとき、無然の遺品や遺稿は観音開きの古ぼけた本棚に入った状態で、鍵もかかっていない廃校となった小学校の 旧職員室の片隅にひっそりと眠っていたのだった。

 無然の簡略な生涯について、ここではかれの古里である兵庫県新温泉町のホームページの記述より引く。

  篠原無然(本名・禄次)は、明治22年(1889)浜坂町諸寄に生まれた。明治37年(1904)神戸商業学校に入学したが、学費を苦学によって賄ってい たため、体調を崩し明治41年(1908)退学して諸寄に帰ってきた。諸寄での病気療養中、美方町小代小学校の代用教員として従事するかたわら青年会を組 織するなど社会教育活動を精力的に実践した。

 明 治44年(1911)早稲田大学文学部哲学科に入学し、勉学のかたわら日本力行会、さらに修養団に入団、幹事となって全国を講演行脚し社会教化に努めた。 やがて、世の中に失望し「人界に師なし」として深山に修養の場を求め、大自然を師とするため、大正3年(1914)飛騨に入山した。

  飛騨平湯では、村人たちが無然の住居と教育の場として青年会館を建て、無然はそれを「やはらぎのその」と名付けた。無然は平湯村に青年会・処女会・戸主会 をつくり、社会教育の実践と村の経営についての指導を行ない、村人とともに“飛騨楽園”の建設をめざした。 また、当時は生糸産業が隆盛を極めていた時代 であり、信州の製糸工場の工女たちが劣悪な条件で働いていることに憤りを感じた無然は、各工場を訪問して工女を励まし、事業主に改善を求め、実態を新聞に 連載し、世の中に大きな衝撃を与えた。大正12年(1923)には、大阪府の嘱託として難波病院に勤務し、入院している娼婦たちの相談相手や生活指導も 行った。

  大正13年(1924)平湯の人々のたび重なる懇請もあって、無然は平湯へ帰ることにするが、安房峠(岐阜県)で猛吹雪に遭い、村の光が見える安房平で力 尽き、平湯の村を見守りながら永い眠りについた。 無然の36年の短い生涯は、人を愛し、道を求め、その思想を実践し、社会教育に身を呈した壮絶な人生で あった。  

           

  修養とか社会教化、というと鼻白まないでもない。けれどわたしが無然に共感するのは、社会的な弱者に寄り添おうとするその姿勢と、功利を求めない素朴な心 持ち、そしてつねに大自然におのれを回帰させようとするその魂の在り方にある。魂の置きかた、とでもいったらいいか。かれは生前、刊行されることはなかっ たけれど「山の愛」「山上浄土」「日本アルプス物語」といった大自然への賛歌とでもいった膨大な原稿を書き残しているが、幼児のように無邪気に自然のうち にいる喜びを語り続ける無然の筆を追えば追うほどに、ああ、この人は結局、魑魅魍魎のうごめく人間世界には染まれ切れなかった人だろうなと改めて思う。こ ういう見方はあるいは間違っているやも知れないが、無然の中にわたしは、やはりおなじような無邪気さと朴訥さと根気強さで“太陽の兄弟、月の姉妹”を讃えたフランチェスコの姿を重ねてみたりもする。フランチェスコもまたときに俗世をはなれた大自然のふところに籠もり、内なる神を夢想したのだった。

  その後、Webであれこれと調べているうちに、平湯温泉に無然の遺稿などを展示した小さな資料館があるらしいことが分かって、いつか訪ねてみたいと思って いた。その機会は意外とはやくやってきた。Facebook で知り合ったNさんがわたしの篠原無然について書いた文章に興味を持ってくれ、しかも平湯温泉も近い奥飛騨の槍・穂高の頂を望む笠ケ岳の麓に、Nさんが所 属する神戸商科大学山岳部OB会の管理する山小屋があるので、無然の資料館を訪ねるときにはぜひ利用してくれと仰るのだった。そして9月になって、毎年山 岳会OBの方々が家族や友人も誘って山小屋に集う「アニュアルキャンプ」に誘って頂き、わたしも偶然連休が取れたこともあって、ご厚意に甘えてはじめて奥 飛騨の地を踏んだのだった。百年前に自由な魂を飛騨の山塊に遊ばせた求道者の足跡をたずねて。

  二泊三日の山小屋での日々は手打ちの蕎麦あり、岩魚の骨酒あり、鮎の塩焼き、昆布締めの刺身、とれたてのキノコなどなど、じつに贅沢三昧であった。集まっ てこられた方はみなわたしより年輩で、しかもわたし一人だけが山岳部とも神戸商科大ともまったく無縁の輩(やから)でひそかに心配したが、どこの馬の骨か 分からぬ若造をみなさんあたたかく受け入れてくれた。とくに最長老格と思しきFさんなどは、考えてみればわたしの死んだ父親とおなじような世代ではなかっ たかと思う。わたしの父親も山好きで、東京育ちのわたしは小さい頃からよく父に連れられて丹沢あたりをよく歩かされた。そのFさんたちと、かつて無然の山 荘があった福地山(1671m)へ登ったのも愉しい思い出である。

  無然はよく山にこもった。村から見上げるとちょうど灯りが見えるような中腹あたりに、村の青年たちが材を運んで組み上げた山小屋で、水やわずかな食料も持 ち回りで麓からあげた。無然は絶食をして精神修養を行いながら、孤独な山中で原稿や手紙を書いた。一日が終わるころに眼下の村に向かってラッパを吹くと、 村の人々は無然の無事を知って安堵するのだった。そんな山荘が村に三ヶ所、あった。平湯温泉に近い輝山(てるやま)、焼岳の登山道に近い中尾の謳慈(おう じ)、そしてこの福地山だ。ほんとうはいちばん無然が頻繁に使っていたらしい輝山に登りたかったのだが、整備された登山道がなく、しかも熊の出没が多いと のことで断念をした。麓の福知温泉郷から一時間ほど、途中までは後年にブルドーザーで開いたという道を登り続けるとやがて猫の額ほどの棚地に出て、小さな 無然の像がちょこんとすわっている。ここが無然平。尾根道と谷筋の道、そして福知山山頂へ向かう道の三叉路になっていて、ひょいと出た尾根道からは眼下に 平湯温泉、そして彼方には焼岳、穂高、槍ヶ岳の連峰が一望できる。いい場所だなあ、と思った。無然がここでひとり、谷底から響く風の音や野ウサギがはねる 足音などを聴き、また天上の御簾のような峨峨たる稜線の残雪に茜が差すさまを凝視していたのだと思うと、なにやら感慨深い思いがした。そのかつての存在の 記憶をたどろうと地に瞑目する。

 一 方、平湯温泉の中央に位置する無然記念館はかつて平湯神社のわきに、無然の活動拠点として村人たちによって建てられた青年会館(別名“やわらぎのその”  二階の三部屋が無然の書斎、居間、寝室であった)の跡地に昭和49年(1974)、平湯篠原会の人々によって完成されたものだが、いまでは屋根も苔むし、 コンクリートの壁面も落剥が目立って、全体的にどこかものさびしい佇まいである。小さな会議室ほどの一部屋にぎっしりと無然のいまとなってはここにしかな い貴重な資料や遺稿、写真などが展示・収納されているのだが、照明は一部球切れしたままで薄暗く、展示品のひとつひとつが40年以上放置されたそのままと いったふうで、多くの人に見せようという意志よりは、とりあえずここに置いていますといった惰性しか感じられないのは否めない。すでに生前の無然を知る古 老たちも去り、過去の遺物と化しているのだろうか。じつに残念でならない。たとえば「大阪府立難波病院に関する書類」と題された綴りや、無然自身が病院で 用い、前述した娼妓たちの歌なども書き留められているという古びたノートも硝子の向こうに横たわっていたが、内容は一切分からない。娼妓や工女といった日 本の近代化の波にもまれていた者たちのこうした貴重な記録のほか、生原稿のまま製本された「山の愛」「山上浄土」「日本アルプス物語」の大部の著作にし ろ、少しづつでもデータ・ベース化をすすめていくとか、(たぶん)管理者である高山市教育委員会はもうすこしやる気を見せて欲しいものだが、いかがだろう か。あのままでは無然が残した、そしてきっと心血を注いで書き上げたものたちが何も生かされないまま、伝わらないまま朽ちていってしまう。(活用する気が ないなら、いっそわたしにください) とにかくやっとたどりつくことができた篠原無然記念館は、わたしにとっては宝の山のようなところだ。もし勝手に硝子 ケースを開けていいものなら、わたしは三日でも一週間でもここに寝泊りをして無然が書き残したさまざまなものに思いを馳せることだろう。

  最終日は雨の中、上宝町の道の駅でみやげものなどを買ってから、もういちど記念館に立ち寄り、そして安房峠を越える旧道を上高地方面へ上っていった。あた らしく有料のトンネル道ができたので、旧道をいく車はほとんどない。ひっそりとしたアスファルトの道をうねうねとあがっていく。やがてトンネルをまたいだ ろうあたり、ガードレールの途切れた道のはしに無然の遭難碑がぽつねんとあるのを見たときは、軽く胸が圧しふさがれるような心持ちがした。同時に、平湯ま ではもう目と鼻の先じゃないか、と小さな悲鳴のような声が出かかった。車を降りて、碑の前で立ち尽くした。

 彼はまったく一寸ずりに転げながら、ついに一五、六丁降って、絶壁のはるか下に平湯の灯の見えるとことにたどり着いた。渾身の力をふるってたどり着いたのである。なつかしい灯りだ。

「おーい、平湯の衆よお、おーい、鶴さ、亀さ、中沢の直さよお。税くーん、与茂さよお、私はいま帰ってきたぞよー」

 彼は朗々とした声をはりあげたはずであった。しかし声はかすれ、咽喉が痙攣するばかりであった。風の音がまた高くなり、梢がひゅうひゅう鳴る。粉雪が刷きつける。

  彼はここで一息の休憩をすれば、またぞろ転びつまろびつ、平湯まで降る自信がある。不思議と、先ほどまであんなに激しく痛みつづけた足の痛苦は忘れてい る。からだ全体から、痛苦のすべてが消え去った。残っているのは熊笹の葉で切った掌の、かすかな痛みだけである。彼は両手をオーバアのポケットにつっこん だ。

  平湯の灯が、はるか彼方の眼下に、ぼんやりにじんで見える。街燈らしいものはまるでなく、冬の夜は戸締りを厳重にするから、外部に灯りのもれるはずがな い。してみればあれは“やわらぎのその”であろう。里うちになにか集会があって、青年会館に里人が集まっているのではあるまいか。それともあす14日には 帰るかもしれぬと自分がいったため、白骨まで出迎えにゆく打合せをしているのかもしれない。

「みんな、ほんとうにありがとうよ」

 睡魔が無然を襲った。彼はもっとも自然なかたちで雪上に坐りこんだ。

江夏美好「雪の碑」(河出書房新社)

 

  発見されたとき、無然は「両手をポケットに差入れ少しの苦しむ状もなく仰臥して絶息して居た」という。地の記憶、場の記憶というものはあるのだ、とわたし は思う。その場に立たなければ分からないこと。植物だけでなく、鉱物や、水や、風や、もろもろの事象が記憶を持っていて、だれにともなく語り継ぎ、金剛遍 照、あまねく照らすほとけの慈悲のように偏在し、山川草木をきらきらと輝かせる。そのようなものに身をさらして、見えてくるものがある。聞こえてくる声が ある。あの居心地の良いぽっかりと開けた無然平で、平湯村のへその緒のような“やわらぎのその”の跡地で、そしていまは綿毛のようにとめどなく降り注ぐき らきらと輝く粒子を全身に浴びながら、わたしはいま、まさに雪の上にすわりこむ無然を見ている。

 

  ところで今回の篠原無然を巡るささやかな旅に於いて、わが無然平への山行に同行してくださったFさんから伺った山岳部、そして奥飛騨ヒュッテにまつわるも ろもろの物語が無然も愛した飛騨の山塊とともに深みを増してくれたことを最後に付け足しておきたい。特にわたしがいちばん印象的だったのは集まられたみな さんが夕餉を囲んだ席で順番に立って話をしているとき、みずから山で採ってきたキノコを提供してくれたあるOBの方が、昭和35年(1960)にこの ヒュッテにほど近い笠ヶ岳にて遭難した部員の遺骨と慰霊碑がこの山小屋の基礎に眠っている、かつては小屋に集まった者はみな必ずその碑に向かって黙祷をし たものだがこの頃は忘れられがちである、もっと後継の人たちに伝えていくべきじゃないか、と言ってとつぜん嗚咽をしたことだった。あとで座がばらけて外の デッキでその方を見つけたわたしは、遭難された人とは直接の知り合いだったのですか、と訊ねた。すると遭難事故のときはまだ入学をしておらず、ただ後年に 遭難場所に建立した慰霊碑が土砂崩れで流されそうになったときにハンマーでそれを砕いて遺骨を移しただけで、直接の知り合いではないとその人は教えてくれ た。ただじぶんも冬山のクレパスにはまって命を落としかけたことがあるから、山では死の危険はだれにもある、ということを真摯に話してくれた。わたしは事 故から50年以上も経ってなお、しかも直接の知り合いでなかった後輩がいまも時を瞬時にまたいでリアルに嗚咽をしてしまう、そのことの深さに驚き、心を打 たれたのだった。平地での日常を凌駕する山での特別な強いむすびつきのようなものを、ヒュッテに集まったみなさんから教えていただいた。それらはひとり旅 では得られなかった特別な贈り物である。お礼を申し上げたい。富山からおいしい昆布締めの刺身を持ってきてくださった方からおしえてもらった山の怪異譚を 物語った伊藤正一「黒部の山賊 アルプスの怪」(山と渓谷社)をわたしはまだ炭火が赤々と明滅しているデッキでさっそくスマホからネット注文したのだけれ ど、先に娘が読んでしまって「お父さん、すごく面白かったよ」と返ってきたこともその方にお伝えしたい。

 

※昨年夏の奥飛騨行きについてはずっと書きたいと思いながら機会を逸していた。今回、ヒュッテに誘ってくれたNさんより山岳部OBの「稜線会会報」に載せる原稿を依頼され、背中を押される形でやっと書くことができた。

 

▼娼婦の作りし哀歌 http://www.oct.zaq.ne.jp/afdzt309/public.html/code/syouhunoTukurisi_aika.html 

▼消えた遊郭・赤線跡をゆく 松島編その2 「松島新地」の章 (※難波病院について記述有り) http://parupuntenobu.blog17.fc2.com/blog-entry-835.html

▼兵庫県新温泉町>篠原無然 http://www.town.shinonsen.hyogo.jp/page/index.php?mode=detail&page_id=d4c4ccd6f13ffe94bb631d3c2d4fca74 

▼平湯民俗館・篠原無然記念館 https://yu-meguri.jp/index.php?ID=233

▼稜線山岳会HP http://www.ryosen.net/index.html

▼笠ヶ岳遭難(神戸商大新聞 PDF) http://www.ryosen.net/Archive_Original/Shodai_Shinbun_1961014.pdf

2017.1.9


 

 

 

 

 

 

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