003. 三重・紀和町の「英国軍兵士の墓」に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の姿を見つける

背中からの未来 

 

 

■003. 三重・紀和町の「英国軍兵士の墓」に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の姿を見つける


 

  一見どこぞのペンションのようなタッチの「英国人兵士墓地」の看板を見つけたのは、今回の“母の古里を訪ねる旅”の途中、北山村から瀞八丁を経て熊野市の 紀和町へ足を踏み入れた道の端だった。紀伊半島の山深いこんな山村と「英国人兵士墓地」という組み合わせに軽い興味を覚えて、わたしは思わず車をユーター ンさせた。低い白亜の囲みと赤煉瓦が敷き詰められたきれいな「墓」だった。戦争中に捕虜として近くの鉱山で働かされていた英国人300人のうち、ここで亡 くなった16人が葬られているという。

  ところが帰宅して Web でこの「英国人兵士墓地」を調べていくと、さまざまな疑惑がこの「英国人兵士墓地」にあることが分かってきた。英国人兵士はたしかにここで亡くなったが、 元々の埋葬地から戦後、横浜市の英連邦墓地に移設されたこと。同時に、300人の英国人以外に当時この紀州鉱山では「千人以上の朝鮮人が強制労働させら れ、32人の朝鮮人が亡くなったことが確認されている」こと。そして紀州鉱山での朝鮮人強制労働の実態を告発する人たち、またおなじ熊野市木本で、トンネ ル工事に従事させられていた二人の若い朝鮮人が住民たちによって虐殺された事件の碑の建立を目指す人々の活動があることなどを改めて知らされたのだった。

 瀟洒な「英国人兵士墓地」から見えてくるのは、相も変らぬ、この国の鵺(ぬえ)のような仄暗くとらえようのない闇だ。

▼現地の説明版
「  史跡  外人墓地 紀和町指定文化財
昭 和19年6月18日、軍務局からマレー方面で捕虜となった英兵300人が配置され、軍の監視のもとに現在地付近に収容、大半は坑内作業に、一部選鉱場や農 地の開墾などに従事しましたが、これらの人々は、イギリス人としての自尊心と教養を持っており、仕事ぶりも能率的であり、収容所内での生活も紳士的であり ました。
しかし、異国に囚われの身となった寂しさと不安、戦地においての罹病りびょうが原因となって、昭和20年8月終戦と同時に解散するまでに16人が死亡し、本国への帰還者は284人でありました。
墓誌にはつぎのように刻まれています。
「神のより偉大なる栄光のもとに、1941年から1945年の戦争中、板屋あるいはその付近にて逝去せる英国軍兵士を追憶して、」
昭和62年6月吉日
紀和町教育委員会  」

▼紀和町史
英国軍捕虜と紀和町
入 鹿(板屋)の山麓にある墓地、十字架の下に「偉大なる神の栄光と英国兵の記念のために 彼等は一九四一年〜一九四五年の戦争で日本国板屋付近で亡くなった英国軍隊の男たちの思い出を」と銅板に刻んだ墓碑があり、そこにはハント・ジェイムズ (Hunt James)通信兵団信号手外一五名の兵士が、はるかな異郷の地で永遠の眠りについている。

一九八九年一月三日、当時の捕虜 であったジョー・カミングス(Cummings)からマーフィー(Murphy日本在住)神父へのに便りによると、彼等は昭和十七年(一九四二)二月十五 日、シンガポール攻防戦で日本軍の捕虜となり、同年十一月下旬から十八年十月中旬まで、タイ領ノンプラドックからケオノイ川(別名クワイ川)に沿って、大 ジャングルを北西に進み、国境を越えてビルマ領(現・ミャンマー)に至る、全長四一六キロメートルの泰緬鉄道の建設に従事させられた。
この鉄道建 設に従事したのは、日本軍の鉄道連隊の将兵、一万四〇〇〇人、連合軍捕虜、五万五〇〇〇人、現地人労働者、六万人から九万人にものぼり、ジャングルを切り 開き、岩盤を破砕するなどの難工箏が休みく続けられた。そのため、日本兵一〇〇〇人。連合軍捕虜一万三〇〇〇人、現地労働者三万三〇〇〇人、計四万七〇〇 〇人もの犠牲老を出したため「死の鉄道」とも呼ばれ、戦後、国際法に違犯するものとして、捕虜虐待の責任が厳しく問われたところである(二河通夫氏『熊野 誌』三十七号)

昭和十九年一一九四四一五月初旬にタイを後にして、三〇〇人単位の部隊に編成されたイギリス兵は、輸送船で、シンガポール を出港、途中マニラ(フィリピン)、台湾に立ちより、奇跡的に、米軍潜水艦の攻撃を避けながら門司を経て下関に到着した。上陸後は鉄道で大阪.名古屋.板 屋へとたどり着いた。
同年六月十八日、度重なる移送で、疲労困憊の極に足した捕虜たちが、板屋選鑛場の西側に建てられた所山収容所に紀州鉱山の労働不足解消と、生産増強のために、軍監督下の基で配置されてきたのである。

当 時、住民は捕虜に対する複雑な信条の中にありながら、温情をもってよく世話し、極度の食糧不足にもかかわらず、主食は最低割あて量を確保し、野菜等の供出 にも積極的に協力した、という多くの美談が残されている。元捕虜、スタンリー・キィリック(S.R.J.Killick英国南部サザンプトン在住)から久 保幸一教育長に届いた便りによると、「昭和十九年七月九日より鉱山での仕事が始まり、大半は坑内作業に、ごく一部は近辺の開墾に従事した。スケジュール は、朝七時には収容所を出て、昼食は十一時から十二時まで、三時ごろに仕事を終えて、五時十五分に収容所に戻ってきた。しかし九月一日からは、昼勤と夜勤 の二交替制となり、夜勤組は午後四時ごろ、収容所を出て、真夜中に戻ってきた。休日は二週間ごとにあった。休日とはいえ外に出て運動することもなく、もっ ぼら読書やトランプ遊び、おしゃべりがささやかな楽しみであった」という。
彼らはこの静かな異郷の地に捕らわれの身であるとはいえ、その行動は常 にイギリス紳士として誇り高く、住民にとっても学ぶべきものが多かったと伝えられている。昭和二十年(一九四五)八月十五目、正午、日本国の降伏、連合軍 の勝利を知るとともに収容所内外に歓喜が満ち溢れ、彼等が村内を闇歩する姿を住民は戸を閉じて、そのすき間から眺め、不安の時を過ごした、という。
紀和町史 下巻409〜411頁より 」
http://www.kumadoco.net/dictionary/report.php?no=206 

▼「英国人墓地」というものはなにか
 「英国人墓地」についての質問にたいする熊野市の回答文をみますと、何点かの疑問点が浮かんできます。

■疑問点1.「英国人墓地に灰を埋めた」と言われている灰について
  紀州鉱山の真実を明らかにする会が、2009年9月11日付で熊野市にたいして質問した「『史跡 英国人墓地』にイギリス兵の遺骨は埋葬されていますか」 について、2009年10月16日付の熊野市の回答は、「第2次世界大戦中に旧紀和町で亡くなられた16名の英国人捕虜の方を埋葬していた場所にあったイ ギリス兵の遺骨は、戦後、横浜市の英連邦墓地に移設されており、現在の英国人墓地には埋葬されておりません。また、1981年(原文「元号」使用)頃に現 在地に移設する際に、元の場所を重機で掘り起こしたところ壺が発見され、中に灰が入っていたため、壺を割って現在の英国人墓地に灰を埋めたと聞いておりま す」となっています。
 この回答では、「現在の英国人墓地には埋葬されておりません」と断定しながら、「壺を割って現在の英国人墓地に灰を埋めた と聞いております」と伝言形式で記述されているため、私たちは再度、2010年2月1日付で、「現在の英国人墓地“に埋められているという灰”は、イ ギリス兵の遺骨の灰ですか」と質問しましたが、今になっても熊野市はこの質問に答えようとしません。
 1965年に文化財指定し、1981年に移 設され、1987年に所有者が変更されているのですから、熊野市文化財保護条例にもとづき、「移設」と「所有者の変更」にともなう適切な措置が講じられな ければなりません。この灰“が、なぜイギリス兵の遺骨の灰”であると答えることができないのか、この点について、熊野市に明らかにしてほしいと思いま す。

■疑問点2.「史跡 外人墓地 紀和町指定文化財」の碑の建立に、熊野市(旧紀和町)はまったく関与しなかったのでしょうか。
 「史跡 外人墓地 紀和町指定文化財」と題された碑の最後の行に、「1987年6月(原文「元号」使用)吉日 紀和町教育委員会」と刻まれています。
 熊野市が答えるように「1981年に紀和町の住民の方が個人で作ったもの」であったとしても、1987年6月の碑の建立に熊野市(旧紀和町)が、まったく関与していないということは考えにくいことです。
  この碑を見るかぎり紀和町がかかわったと判断されることから、このことについても、私たちは2010年2月1日付で、再度、熊野市に「この碑文に『紀和町 教育委員会』と署名されていますが、この碑の建立には、紀和町教育委員会は、まった関与していなかったのですか」という質問をしましたが、熊野市は答えよ うとしません。
 関与したことが明らかになると「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑」の建立は公共性を有しないと主張する熊野市みずからの基盤が維持できないからなのでしょうか。 
 ぜひ、熊野市にこの質問にも答えてもらいたいと思います。
                                     竹本 昇

■補記 
「  熊野市指定文化財「英国人墓地」についての紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会が、2009年9月11に熊野市市長と教育長におこなった 9項目の質問全文と、それにたいする10月16日付けの熊野市濱口幸治熊野市教育委員会社会教育課長からの回答の全文は、『会報』第52号・第7号 (2009年11月4日発行)に掲載してあります。
 「英国人墓地」の碑文版には、「神のより偉大な栄光のもとに、1941年から1945年の戦 争中、ここ板屋、あるいはその附近で逝去した英国兵士を追想して」という意味の追悼文がイングランド語で記されています。この碑文は、この「英国兵墓地」 が、「墓地」ではないことを示しています。
 それにもかかわらず、『紀和町史』下巻(1993年3月、紀和町発行)には、「英国人16名の霊が眠 る墓地(所山)」という写真が掲載されており、「16名は、異郷で故郷の空を慕いながら寂しく病没した。現在所山の英国兵墓地に葬られ十字架の墓標の下に 眠っている」と書かれています。
 熊野市は、「英国人墓地」を「1981年に紀和町の住民の方が個人で作ったもの」と言っていますが、すでに1965年に文化財指定されているのであって、「個人で作った」という説明はなりたちません。「英国人墓地」問題には、さまざまな虚偽が内包されています。」
http://blog.goo.ne.jp/ki…/e/1b930c47c6a40404f8866320b1d813b8 

▼追悼碑除幕 来年3月 紀州鉱山(asahi.com)
「  「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」の集会が6日、津市桜橋2丁目の県教育文化会館であった。県内外から45人が参加。熊野 市で来年3月に追悼碑の除幕式をすることが報告され、史跡「英国人墓地」に朝鮮人の遺骨が埋葬されている可能性があることについても話し合った。
 同会によると、熊野市紀和町板屋にあった紀州鉱山では40〜45年、千人以上の朝鮮人が強制労働させられ、32人の朝鮮人が亡くなったことが確認されているという。
  同会は08年8月、「在日本大韓民国民団県地方本部」「在日本朝鮮人総連合会県本部」「紀州鉱山の真実を明らかにする会」の3団体で発足。同市に紀州鉱 山跡地の提供を求めたが拒否されて今年7月、熊野市紀和町鉱山資料館近くの土地約200平方メートルを買い上げた。来年3月28日に除幕式を開く予定で、 集会では碑文の内容を検討した。
 また、市指定文化財「史跡英国人墓地」についても議論。熊野市と紀和町が05年に合併した際、史跡の名前を「外 人墓地」から「英国人墓 地」に変更したことや、集会に招かれた「戦争捕虜研究会」のメンバーの女性が、紀州鉱山で働いていた男性から「外人墓地の近くに朝鮮人を埋葬した」との証 言を得たことが報告された。建立する会の竹本昇さんは「仮に朝鮮人の骨があるのなら、(強制労働で朝鮮人が亡くなったという)歴史の事実が隠されているこ とになる」と憤った。熊野市に公開質問状を送ることも検討している。 」
http://www.linelabo.com/han/hanhan/asahi20090907news.htm 

▼木本虐殺(熊野虐殺)80年後
「関東大虐殺の2年4か月後、1926年1月3日に、熊野地域に住む日本人が、集団で朝鮮人労働者を襲撃し、李基允さんと相度さんを、銃剣や鳶口[トビクチ]などを使って惨殺した。
 それから80年。いまなお、熊野市(当時、木本町とその周辺の村落)と熊野市教育委員会は、この虐殺を「まことに素朴な愛町心の発露」としている。それが、いまの日本。
 木本トンネルの道をたどって、日本の他国他地域侵略の歴史を、さらに追及していきたい。

■“大逆事件”の時代
 追悼碑を建立する会(準備会)が発足したのは、1988年9月11日だった。そして、1994年11月20日に、追悼碑除幕。
 1997年9月25日に、李基允さんと相度さんを追悼する碑から20キロほど南にある新宮市南谷墓地に「高木顕明師顕彰碑」が建てられた。
 2003年7月20日、新宮市内に、紀州・熊野地域に関係が深い“大逆事件”犠牲者6人、大石誠之助さん、成石平四郎さん、成石勘三郎さん、高木顕明さん、峯尾節堂さん、久保誓一さんの「顕彰碑」が建てられた。
  大石誠之助さんと成石平四郎さんは1911年1月24日に絞首され、高木顕明さんは1914年6月24日に秋田監獄で自殺し、峯尾節堂さんは1919年3 月6日に千葉監獄で獄死し、成石勘三郎さんは1929年5月に長崎刑務所から仮出獄し1931年1月に病死し、久保誓一さんは1929年4月に秋田刑務 所から仮出獄し1955年10月に病死した。

 60年前、1946年11月3日、「明治天皇」の誕生日に、ヒロヒトの名で、「日本国憲法」が公布され、その半年後に施行された。その時から、戦犯ヒロヒトが、「日本国」と「日本国民統合」の象徴となった。
 「大逆罪」は、1947年になくなったが、天皇制は廃絶されていない。
 「大逆罪」は日本刑法から削除されたが、“大逆事件”の時代は終わっていない。
 “大逆事件”の再審請求を最高裁は、1967年に最終的棄却し、いまも、国民国家日本は、26人を「有罪」としたままである。

■「素朴な愛町心の発露」
 1983年に熊野市が発行した『熊野市史』中巻には、住民が朝鮮人を襲撃・虐殺したことが、「木本町民としてはまことに素朴な愛町心の発露であった」と書かれている。
 追悼碑を建立する会は、1989年6月4日の創立集会の翌日、熊野市に『熊野市史』の書きかえを求め、それ以後、これまで17年間、求めつづけてきた。
 だが、熊野市も熊野市教育委員会も、拒否しつづけている。

  木本トンネルは、地域住民の生活を便利にするためのものであった。そのトンネルを遠い朝鮮から来て掘っていた朝鮮人労働者を、地域の住民が集団で襲撃し、 ふたりを虐殺した。在郷軍人、消防組員らを中心とする住民集団は、2人の朝鮮人を虐殺したあと、警察官らとともに、襲撃を逃れようとした朝鮮人を捕まえよ うとして、徹夜で山狩りした。
 その事実を、「まことに素朴な愛町心の発露」とする『熊野市史』の書きかえを求めようとする熊野市民は、少ない。
  『熊野市史』中巻には、「南京占領の報道が伝わると、国民は一入〔ひとしお〕感激し、町や村で祝賀会が続いた」と書かれているが、南京大虐殺については、 なにも書かれていない。『熊野市史』上巻には、「熊野の古代史を見るとき、神武天皇を除いて考えることはできない」と書かれている。『熊野市史』は、天皇 制を肯定し、他国他地域侵略を肯定する立場で書かれている。
 これは、『熊野市史』だけの問題ではない。

■追悼碑は一つの根拠地
 12年まえ、碑文のおわりに、わたしたちは、こう書いた。「わたしたちは、ふたたび故郷にかえることのことのできなかった無念の心をわずかでもなぐさめ、二人の虐殺の歴史的原因と責任をあきらかにするための一歩として、この碑を建立しました」。
 紀州・熊野地域の人たち、おおくの人たちとともに、つぎの一歩を!
                                           佐藤正人記 」
http://blog.goo.ne.jp/ki…/e/46c0bb134cad7b80c23224069a570703 

▼紀州鉱山の真実を明らかにする会
「 抗議・要請

2015年11月8日

熊野市長河上敢二さま
熊野市教育長倉本勝也さま

紀州鉱山の真実を明らかにする会
第8回追悼集会参加者一同

わ たしたちは、1997年2月の会の結成以来、朝鮮から紀州鉱山に連行され過酷な労働を強いられた1000人以上に及ぶ朝鮮人労働者の歴史について調査を進 めてきました。そして2010年3月に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立し、それ以降毎年追悼集会を開催して、本日、8回目の追悼集会を迎え ました。
今回の追悼集会には、紀州鉱山で働かされた朝鮮人の出身地のひとつである慶尚北道の道議会のみなさんが参加されました。紀州鉱山に連行さ れ労働を強いられ犠牲となった朝鮮人の韓国の遺族のかたがた、そしてその出身地の地域や議会がこの追悼集会に強い関心のまなざしを向けています。
当会が独自に調査を進めた結果、これまでのところ、少なくても朝鮮人労働者とその家族35名が紀州鉱山で亡くなったことが明らかになっています。しかし、この35名の方の遺骨の所在も、死亡の状況や原因についてもほとんどわかっていません。
わたしたちは旧紀和町、そして熊野市がこれらの朝鮮人の追悼碑の建立に取り組むよう働きかけてきましたが、貴職らは誠実に応答しませんでした。
わたしたちはやむなく、会で独自に土地を確保し、追悼碑を建立して、2010年3月28日に除幕集会を開催しました。ところが、この土地に対して、熊野市長は固定資産税を求めてきました。
熊 野市への朝鮮人強制連行、熊野市での朝鮮人強制労働という歴史について、熊野市が責任をもってその事実を究明し、犠牲者を追悼することは当然のことである にもかかわらず、貴職はその責務をはたさないばかりか、市民団体が心ある多くの人びとの寄金によって入手した追悼碑の土地に課税をするという、無恥で理不 尽なことをしました。」
http://www.kisyukouzansinjitu.org/index.html 

▼「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者
     (イギユン・ペサンド)の追悼碑を建立する会」
「 1926年1月3日、イ・ギユン氏とペ・サンド氏は三重県木本(現熊野市)の住民に集団で襲われ、殺されました。イギユン氏は25歳、ペ・サンド氏は29歳でした。2人は朝鮮独立の日を生きて迎えることなく、虐殺されたのです。
  当時木本では三重県の県道改修30ヶ年計画の最初の事業としてトンネル建設工事が行われ、遠く朝鮮から数十人の朝鮮人が家族とともに働きに来ていました。 1月2日夜、ささいなことをきっかけとして、一人の日本人が朝鮮人労働者に日本刀で切りつけ、重傷を負わせたのが事件の発端です。翌3日、木本の住民の間 には朝鮮人が復讐のために襲ってくるというデマが流れ、このデマに乗って消防組を中心とした木本の住民は朝鮮人労働者を襲撃し、彼らの飯場を破壊しつくし ました。
 イ・ギユン氏は、それらの日本人に立ち向かっていき、虐殺されたのです。その後、在郷軍人らを中心とする日本人住民は、銃剣や日本刀を 持って、山側に避難した労働者をさらに追撃しようとしたのです。これに対し、朝鮮人労働者はダイナマイトなどを投げ、防戦しました。このとき同じ工事現場 で働いていた日本人労働者(林林一、高橋万次郎、杉浦新吉ら)も日本人住民の集団暴行に対して、朝鮮人労働者とともに闘いました。
 ダイナマイト による反撃を受けた日本人住民は、イギユン氏を虐殺した地点のすぐ近くで、ペサンドを虐殺しました。当時、調査のために木本に入った三重県水平委員長の上 田音市は、二人について、「後より鳶口(トビクチ)で突き立てられ、ナブリ殺しによって3日も路上に捨て置かれたという」と報告しています。(『水平新 聞』1926年3月15日)。二人の朝鮮人のいのちを断ち切った日本人住民は、遺体までもきわめて粗末に扱ったのです。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/index.html 

▼前英兵極東捕虜達に随行して | ホームズ恵子 (アガペ財団)
「多 くの困難を乗り越えて、また祈りつづけることによって、26人のFEPOWsと2人の奥さんを紀和町にお連れすることが出来ました。多くのFEPOWs は飛行機の中でも自分たちのしていることに自信がありませんでした。彼らの友が彼らを「裏切り者」と呼んだのです。彼らの心は日本人にたいするいろんな感 情でいっぱいでした。

それでも私たちが熊野市の駅に降り立ったとき、町じゅうが皆を待っていました。人々はユニオンジャックの旗を振り、 花束を手にしていました。ひとりの女の子が着物を着ていました。まるで家族が再会したように、2つの国民がお互いの腕の中にひとつに溶け合ってゆきまし た。日本の人たちは非常に喜び興奮してい ました。墓地で私たちは感動的な追悼式を行いました。300人ほどが集まりました。

追悼式の前 の日は土砂降りでしたが、式典の日はすばらしい秋晴れでした。数人のFEPOWsが式典の後で私に言いました。「恵子、昨日の雨は私たちの涙 だったんだよ。雨が私たちの恐ろしい記憶を、憎しみを、そして痛みを、洗い流してくれたんだよ。重荷が取り去られて今は喜びが溢れているよ。日本人に対し て愛さえ感じ始めているよ」と。

英国に帰ったFEPOWsは、もう悪夢にうなされなくなりました。そしてどんなにアガペの活動に感謝しているか知れないと言うのでした。また彼らは私にこの活動を続けるようにと、特にタイやその他の東南アジアの国々で辛苦を嘗め尽くした人たちのために、と頼むのでした。

1992 年からアガペは多くの人々や団体の協力を得て、「心の癒しと和解の旅」を続けてきました。これまでに約300人ほどの家族を交えたFEPOWsが 日本を訪問しました。彼らは戦友の墓を訪れたり、日本人に会ったり、また日本人の家に泊まり、お互いの経験話をしたり、日本の学校や大学を訪れます。人々 は彼らの戦争経験を熱心に知りたがります。旧日本兵が追悼式に参列し過去を詫びることもしばしばで、これがFEPOWsにとって一番心が癒されることなの です。

1998年に私は英国女王からウインザー城で、OBE(英国第四級勲功章)をさずかりました。女王はアガペの活動に非常に興味を示 され、息子や私と15分 お話されました。彼女はたいへん親切で、アガペの活動を非常に喜んでくださり、この活動が末永く成功するよう、とお言葉をくださいました。 」
https://sites.google.com/s…/dlgnji4jp/programmas/conf03/6hol 

▼紀和町のLITTLE BRITAIN(元捕虜たちの墓地)がきれいによみがえりました!!
http://www.agapeworldjp.org/news/pdfs/2014-06.pdf 

2016.10.02


 

 

 

 

 

 

背中からの未来