001. 群馬と栃木へ足尾鉱毒事件の谷中村と田中正造へ会いにゆく

背中からの未来

 

 

■ 001. 群馬と栃木へ足尾鉱毒事件の谷中村と田中正造へ会いにゆく


 

(9: 30) 新幹線の中で夢を見た。ぼくとジップは新幹線の座席が隣で知り合った男と、男の車に乗って古河へ向かっていた。ついでだから送ってくれるという。 男はぼくに男色的な好意を抱いている。それもいいだろうとぼくは思っていた。川が近いヨーロッパの田園地帯のような景色のところで、男が急にディランの歌 う that lucky old sun を歌い出した。続いてぼくもいっしょに歌い出した。歌いながら涙が溢れてきてとまらなくなった。 いま、品川にいる。これから宇都宮行きの電車で、さらにもう1時間ほど電車に揺られて古河へ向かう。

(11:56) 渡良瀬遊水地。 めちゃくちゃ馬鹿でかい。

(14: 49) JR古河駅から2時間半あるきつづけた。渡良瀬遊水地と銘打っているが、ナニ湖くらいの馬鹿でかさだ。行けども行けどもあてどない。「ラムサール 条約」「自然と人にやさしい」とは格別冗談でもない。この湖のような広大な大地を汚し、作物を枯らし、人や動物たちを殺し、暮らしも歴史も奪っておいて、 やつらは平気でそんなふうにうそぶく。フクシマは何もはじめてのことではない。百年前からこの国はおなじことを繰り返している。銅山の毒を貯めたこの遊水 地も、いまでは「みなさんの飲み水」だそうだから笑いも乾く。 「谷中人民、足尾銅山との戦いなり。 官憲これに加わりて銅山を助く。 人民死をもって守る。 何を守る。 憲法を守り、 自治の権を守り、 祖先を守り、 ここに死をもって守る。」 渡良瀬遊水地はいまでは呆けた人々の憩いの場だ。釣り糸を垂れる人、ランニングに汗を流す人、木陰のベンチで語り合う恋人たち。そんな人たちの周遊コース からはなれて、水没をまぬがれたかつての谷中村の一部がひっそりと村人のいない春をむかえている。 いまは何もない、村をぐるりと見守る雷電神社跡地のつましい高台と、そのはたのなだらかな斜面の木陰になかば草に埋もれかけた古びた墓石が点在している。 その一体一体に挨拶をする。とくに石仏が彫られたこどもの墓が愛おしい。水の雁の童子、妙なる鼓の童女、と読んで思わず微笑む。こどもの戒名は子を思う親 の心根が託されていていつも心が寄りそう。 かつての村の風景を思い浮かべる。暮らしは楽ではなかったろうが、ここはユートピアのような場所だったに違いない、と思う。だが、無人になったいまでもこ こはなおユートピアだ。かつての礎石らしき石ころが転がっているだけで何もない雷電神社の跡地も、立派な社殿を構えた全国のどんな社よりもさらに立派だ。 まさに「死をもって守る」ために抗いつづけ、闘いぬいたが故に。 土と草に埋もれかけ佇んでいる墓石たちにかこまれて大きなブナの木の根元に腰をおろしている。ここはほんとうに居心地がよい。いつまでも苔むした墓石のよ うに一人すわっていたい。 「ああ、記憶せよ 万邦(万国)の民、明治40年6月29日は、これ日本政府が谷中村を滅ぼせし日なるを。 正義と人道との光り地に堕ちて、悪魔の凱歌は、南・・・より北・・・までわたる・・・」 荒畑寒村「谷中村滅亡史」 (谷中村強制破壊直後に20歳の荒畑寒村が執筆。即発禁)

(16:43) 遊水地を囲む土手の外側、幹線道路沿いにある旧谷中村合同慰霊碑。水没した村の各所から集められた墓石や供養碑がコンクリートの壁に塗り込まれている。 わたしにはあのチェルノブイリの原発を抱えた石棺のように見える。

(21: 58) 渡良瀬遊水地の旧谷中村をあてどなくあるきまわった夜、佐野市内を見下ろす高台のちょっとくたびれた旅館の一室で、栃木の地酒のワンカップ(純米 原酒)をなめながら聞いている。 歴史の実時間における谷中村強制破壊はまさに「現在(いま)」である。 フクシマで辺古野でそしてあろゆる日常の隙間で、わたしたちはたしかに目撃している。 何を捨て、何を守るのか。 クリックひとつじゃ何も変わらないだろう。斬ったら、相手の血しぶきを浴びるような場所で。 音楽は実時間の跳躍である。ときに華麗な。

Kogan Plays Paganini Moses Variations  https://www.youtube.com/watch?v=z4ny6m5u0sg 

2016.4.25

 

*

 

(6: 36) ちなみに昨夜の夕飯、佐野ラーメン。 佐野駅から東へ歩いて10分少々、幹線道路沿いにある「かめよし」のチャーシュー麺。 19時の開店と同時に車で乗り込んできた客がわたしを入れて8名。 シンプルにうまかった。こころやすまる、家庭的ラーメン。 昼メシを食べそこねて、朝7時頃に新幹線で家から持ってきたおにぎり一個を食べて以来の食事だった。 五臓六腑に沁みわたりました。 s.tabelog.com/tochigi/A0902/A090202/9000121 

(7: 54) ちなみに今朝の朝食。この本メニュー以外にバイキング形式のサラダや飲物など。わたしはご飯を二膳食べ、サラダを二皿、コーヒーゼリーとアイス コーヒーを頂いて、満足。 このあづま荘は中心部からやや離れた高台にあって、市内が一望できる。懐かしいむかしの旅館風情で居心地がいい。これで一泊(朝食付き)で5800円。 azumasou-sano.com 

(11: 49) 佐野市郷土博物館の田中正造資料室にて  「財用を乱し、民を殺し、法を蔑ろにして滅びない国はない。政府は、これだけ滅びているものを、滅びないと思っているのであるか」 明治33年 第14回帝国議会質問演説 「さる35年入獄中、聖書を通読して世界海陸軍全廃を確信す。翌年2月の静岡県掛川をはじめ、東京、栃木において5回におよんで、軍備全廃を述べたり」 明治36年および同45年の日記より要約 「古来の文明を野蛮二回回らす。今文明ハ虚偽虚飾なり、私慾なり、露骨的強盗なり」 明治45年 日記 「日本人の気風は、下より起こらず、上よりす。民権も官よりす。日本の民権は、民人より発揚せるにはあらざるなり。憲法すら上よりす。ああ、一種不思議の 気風なり」 明治44年 日記より要約 「大勢、見舞いに来ているそうだが、うれしくも何ともない。みんな正造の病気に同情するだけで、正造の問題に同情しているのではない。問題からいえば此処 も敵地だ。おれは、うれしくも何ともない。行ってみんなにそう言え。」 大正2年 いまわの病床で

(18: 22) 神田のホテルにチェックインし、神保町へ。小諸蕎麦でざる二枚盛320円を食い、しばらく古本漁り。南海堂書店で「通史 足尾鉱毒事件」を 2000円で買う。ここは足尾事件および田中正造関連の本がいちばん揃っている。木下尚江編集の「田中正造の生涯」もあったが、18000円はちと考え る。

2016.4.26

 

*

 

(13: 48) 上野の都美術館の伊藤若冲展でもみくちゃになってから、昨夜のディランライブを同行した友人のオススメ、ガード下近くの立ち飲みカドクラの日替わ り定食450円でお昼。店内は昼間から天国の人ばかりだが、わたしは食事だけ。でもやっぱり渋谷なんぞより上野は落ち着くなあ。梅田より西成みたいなもん か。 大昔、このすぐわきのマルイの中の本屋で一時働いていたことがあった。後方休憩室で口紅だらけの吸い殻の山を見つめて、拳銃を抱いた永山則夫のような目を していた(たぶん)。 そうそう。都美術館では、若冲の図録と、それからつれあいへのプレゼントに桜の材の江戸木彫のルーペを買った。

(14:38) 都内山手線。扉の広告が目線の高さに近くなったのはいつからなんだろ。うざいわ。

(22:26) 今回の旅の、つれあいへのプレゼント。 都美術館のミュージアム・ショップで見つけた、江戸木彫刻のルーペ。 わたしにしたらちょっと奮発。 http://www.tobi-museumshop.com/item/recommend/arabesque-loupe.html

2016.4.27

 

*

 

 旅の補遺 1 (谷中村)

  以前に読んだ田中正造の伝記で、田中が東京の弁護士を古河駅に迎えに行く場面が何度かあったので今回、何となく古河から谷中村まで歩いてみようと思った。 (Wikiで調べたら東武日光線の開業は1929年(昭和4年) なので、田中正造の時代にはまだなかった) わたしはあまり頭脳明晰ではないので、こうして肉体に実感させる方が向いている。土方作業を描いた中上健次の きらきら光る文章のように。 古河はなかなか見所のある町らしい。市内では篆刻美術館や永井路子旧宅なども見かけたが、すべて蹴飛ばしてひたすら歩いた。茨城・埼玉・栃木・群馬の4県 境をまたぐ形で、古河駅(JR東北本線 10:40着)から最終到着駅の藤岡駅(東武日光線 17:30着)まで、直線でおよそ十数キロ。じっさいは遊水 地内をあちこちとだいぶ徘徊したから、延べ20キロ近くは歩いたのではないか。じきに店もなくなり、昼飯を食い損ねたままひたすらあるきつづけた。 家屋を強制破壊されてそのほとんどの土地を渡良瀬遊水池として水没された旧谷中村のその「広さ」は、行ってみて、じっさいにあるいてみたら腹にこたえる。 遊水「池」とあるが、じっさいの感覚は「湖」。とてつもなく広い(外周距離は約30キロ、ほぼ山手線一周に匹敵する)。古河側から向かって整備された河川 敷のゴルフ場を眺めながら三国橋をわたると、やがてこの遊水池の喉もとをおさえている巨大な第一水門が、拳や竹槍ではびくともしない無情な権力の象徴とし て聳え立っている。唾を吐いたり、蹴飛ばしたくらいではこの頑強な構造物にとって屁でもない。 遊水池がゆがんだハート形をしているのは旧谷中村の役場などがあった中心部が押し出しているためだ。ほんらいはここも水没させる計画だったが、掘り下げ作 業のブルドーザーの前に元村民たちが体をはって座り込み、結果として残された。遊水池内をあるいていると「貴重な湿地帯などの自然が守られた市民の憩いの 場」としての掲示物や「子ども広場」といった標識は適所に見かけるが、旧谷中村の案内は皆無に近いと言っていい。国としては、ほぼ「無視」という露骨な姿 勢を感じる。代わりに、ここに旧谷中村の史跡があることを表明しているのは「保存会」の人々が自力で建てたわずかな標識や説明板だが、こちらは経年劣化の ために字もかすれ、全体的にかなりくたびれているのは否めない。これも国という巨大な権力と、わずかな手段しか持たない一市民との力の差を、皮肉だが如実 に物語っている。 つましい古墳の土盛りのような雷電神社跡は旧谷中村のヘソである。田中正造もきっとそう思っていただろう。村から15キロほど離れた館林で倒れ臥せってい たとき、かれの魂魄はこの社地を憧れ訪ねたに違いない。その雷電神社跡地前には、水没した神社の当時の写真と共に「ああ、記憶せよ 万邦(万国)の民、明 治40年6月29日は、これ日本政府が谷中村を滅ぼせし日なるを。正義と人道との光り地に堕ちて、悪魔の凱歌は、南・・・より北・・・までわる・・・」と 記した荒畑寒村「谷中村滅亡史」の一節が、まるで無数の死者や村を追われた人々の暗い想念を代弁した檄文のように貼られているが、それ自体がこの真実を骨 抜きされ、「自然にやさしい」なぞといった糖衣で包まれ弛緩したこの国ののどかな「憩いの地」では一種異様に見え、浮いている。浮いてしまっていることが すでにこの国の絶望的な距離であり同時に罪である。 一時間ほど、草に埋もれた墓石たちに囲まれた子持ちのいい大樹の根元に坐っている間、遊水池のメインルートからはずれてここへやってきたのは、サイクリン グ車にまたがった男性が二人と、散歩姿の老夫婦が一組だけだった。ポストのように立っている連絡箱の中にあった「谷中村たより」に、去年の台風(18号) でこの連絡箱が水没したために新しいノートを設置した旨が書かれており、ここはいまもそうなのか、と驚かずにいられなかった。 わたしは、朽ちた墓石に刻まれた文字を膝をついてひとつづつ読んでまわった。廃村になるとは、この土地に生きてきた人々の根が断ち切られるということであ る。祖先を大切に祀ってきた人々も、ちりぢりばらばらとなり、もはやこの墓石たちを参るものはもう誰も残っていない。わたしは周囲をなんども見回す。新緑 が目にまぶしい草々と、ときおり涼やかな風と、見渡す限りの広い湿地帯と、そのおぼろのような向こうにかつてここで暮らしていた人々の姿が思わず立ち上 がってくるような錯覚を覚えて立ち尽くす。だが誰もいない。誰もこたえない。墓石と語り合うしかない。そしてこの国の隠蔽されたヘソのような雷電神社跡に て田中正造と村人たちの魂魄がいまも「政府におきましては、是れだけ亡びて居るものを、亡びないと思つて居るのであるか」と叫んでいるまぼろしを聞く。

 

旅の補遺 2 (佐野市郷土博物館 田中正造展示室)

  旅の二日目。宿から佐野駅を越え、町のメインロードを抜けて、およそ40分ほどあるいてちょうど開館の朝9時に辿りついた。中庭をはさんで佐野市の古代か ら近代を俯瞰する常設歴史展示、また奥に企画展示室があり、郷土の実業家であり朝鮮独立運動を支援した須永元をめぐる朝鮮人亡命者の金玉均・朴泳孝らにつ いての展示をしていてこれも興味深かったが、目的の田中正造の資料や遺品を収めた展示室は入館をしてほぼ正面、学校の教室半分くらいのスペースである。 小規模な展示室だろうから一時間くらいで済ませ、前日の藤岡町にもどってこちらのさらにつましい町立資料と谷中村から移した田中霊祠(分骨)あたりをまわ ろうと考えていたら、いい意味で裏切られた。田中正造の生涯をめぐる展示、日記や手紙などの実物、遺品などを丹念にさらい、ビデオ映像やヘッドホンのガイ ドも借り、さらに他の展示を覗いたりしたら、あっという間に昼になってしまった。 とくに惹かれたのは、やはり幸徳秋水が書いて正造が一部修正・加筆をした明治天皇への直訴状。そして死の病に臥したときに身に着けていたもの。信玄袋に 入っていた河川調査の草稿、当時の小学校のノートに書かれた日記、新約聖書、マタイ伝と帝国憲法のミニ本、小石3個(ほかに鼻紙数枚と採取した川海苔が あったという)―――これらがかれの全財産であった。これらをいくどもいくども、舐めるように文字を追い、また凝視した。いくつかの言葉を(撮影が禁止 だったので)スマホのメモ帳アプリに打ち込んだ。 この午前の三時間の間、展示室を訪れる者はだれもなく、館内はひんやりとした静寂に満ちていた。いつしか展示室の手前のボードに掲示していた、2014年 5月に天皇夫妻がこの佐野市郷土博物館と渡良瀬遊水池を訪れたときの記事の話を、当日じっさいに説明を担当した館長氏から訊いていた。おそらく東日本大震 災と原発事故がきっかけと思われるが、公害地の自然が百年後にどこまで回復したか知りたかったらしいこと。博物館には休憩をはさんで一時間滞在し、田中正 造展示室には20分費やしたが、いちばん熱心に見ていたのは例の直訴状であったこと、などを教えてくれた。直訴状はふだんは複製を展示しているが、この日 は実物を用意して、天皇は一字一句を丁寧にたどりながら読んでいたという。また幸徳秋水や、最期を看取った木下尚江について、どういう人なのかという質問 をしたらしい。 「最近はここを訪ねてくる人は増えているんですか?」と訊くと、やはりあの東日本大震災以来、入館者は多くなって、とくに東北地方から来る人が格段に増え たとの由。そしていまでは有名な「真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし」が書かれた日記を見たいという要望が多く寄せられるようになって、何だろうといろいろ調べたらどうも音楽家の坂本龍一さんが広めたのが きっかけらしいと分かった、と館長氏。それからその日記の該当の頁も展示するようになったのだが、それは小さなメモ帳の端におまけのように書き足されてい るもので、こんな走り書きのものだったのか、と驚かれる人が多いらしい。 もともと館長氏と話が始まったのは、この新聞記事の中に紹介されていた木下尚江が田中正造の今際の言葉を書き取った巻紙のことについての質問からだった。 その内容が大勢の見舞客に対して穏当でない発言であったために、木下尚江が当時田中正造に付き添っていた正造のよき理解者であった島田宗三に「人に見せな いように」と託し、島田はその後それを仏壇の隅に仕舞いこんだ。その巻紙がはじめて公開されたという記事であった。その正確な文章を知りたくて、全集の別 巻に収録されているというその頁をカメラに撮らせてもらえるようお願いしたのだった。以下にその全文を引く。

  九月四日の朝、田中翁自ら臨終の近きを知り、岩崎佐十氏を枕辺に呼び寄せ、特に左の如く名言せり。 「同情と云ふ事にも二つある。此の田中正造への同情と正造の問題への同情とハ分けて見なければならぬ。皆さんのは正造への同情で、問題への同情でハ無い。 問題から言ふ時にハ此処も敵地だ。問題への同情で来て居て下さるのハ島田宗三さん一人だ。谷中問題でも然うだ。問題の本当の所ハ谷中の人達にも解つて居な い。」 尚ほ此日の早朝、予、翁の枕頭へ行きしに翁眼を開きて見て曰く、 「病気問題ハ片付きましたが、ドウも此の日本の打ち壊しと云ふものはヒドいもので、国が四つあつても五つあつても足りる事で無い」 斯うして苦しき呼吸の間に長大息を漏らせり。 右は君の親しく聴かざりし翁の最後の語なるが故に、今ま此の記憶の新しき時に於て記して呈す。妄りに他へ示すことなかれ。 大正二年九月五日朝 翁の霊骸の隣室にて 於下羽田の里 木下尚江 島田宗三様

「問 題から言ふ時にハ此処も敵地だ。」と語ったという田中正造の激しい憤怒。これが晩年をこの鉱毒問題に賭した男の今際のことばであったのなら、その絶望はど れほど深く、冥かったか。晩年を鉱毒問題に賭した孤立無援のその闘いはここに始まり、そして現在も、ここから何ひとつ変わっていないのではないか。わたし にはそんなふうに思えてならない。後に春日山岡惣宗寺で行われた本葬にはかつての政友であった大隈重信が参列して弔辞を読み、数万人が連なったといわれて いるが、正造の魂魄はすでに谷中村のあの雷電神社跡地、いや、ひょっとしたらこの国すらも越えた遠い果てに飛び去っていたかも知れない。

2016.4.28

 荒畑寒村「谷中村滅亡史」(岩波文庫) を読了する。

  巻末の解説で鎌田慧はこの書をいわく「政府と県とによる暴虐をひろく世間につたえようとする情熱が、土から引き剥がされ、放逐された農民への深い思いにさ さえられていて、この漢文調の古風でやや悲壮な文体とよく合致している。いわば、天が書かせたドキュメントといえる」と評している。

   しかし、それを悪政暴虐と呼ぶなら、たとえばついこの間の、なんら大義名分をもたない「諫早干拓」の蛮勇や「長良川河口堰建設」の強行は、閨閥に関係の ない近代国家で行われたことをなんと呼ぶべきだろうか。さらには、砂川米軍基地の建設や成田空港建設に使われた強制代執行と谷中村との間に、どのような民 主主義の発達があるといえるのだろうか。さらにいえば、「国家的な事業」といって農民の土地を低額で買収し、核燃料サイクル基地を建設している青森県六ヶ 所村にたいする欺瞞と恫喝が、かつての強権明治政府に従属した県の姿勢と、どのようなちがいがあるといえるのか。政府当局はどう答えるであろうか。

  あるいは、学者の曲学阿世ぶりについていえば、水俣病や三井三池の炭塵爆発にたいする荒唐無稽な言説が、被害の防止と被害の解決とをどれだけ遅らせたこと か、それらの非合理の証明として、あるいは幾多の住民や労働者を鉱毒によって斃死させたモニュメントとして、いまなお足尾銅山の山容は荒廃のままだ。「公 害の原点」といわれる所以である。

 

  昨月、縁あって旧谷中村跡を有する渡良瀬遊水池をあてどなく歩き回ったとき、国の設置した表示のことごとくが旧谷中村跡を黙殺していることに唖然とした。谷中村はいまも「滅亡」の対象である。

  「谷中村」とは単なる「公害の原点」というだけではない。鎌田氏が上記の解説を書いたときはまだあの巨大地震もそれにつづく破滅的な原発事故も起きてはい なかった。なにが変わっただろうか。なにが起きただろうか。いや、いままさに、なにが行われているのか。人々のつましい生活も生命も省みず、豊かな自然も 国土も破滅の淵にさらし、生まれ来る子どもたちの未来を抹殺し、言説を封じ適当な楽観論を垂れ流し、「厚顔無恥・冷血無情・横暴不義・残忍酷薄・邪計奸 策・悪逆・暴戻・怪物・虐待・酷遇・詐瞞」あらゆる手腕をふるって、まともな措置のひとつすらとらずにひたすら国益と企業の利益のみを庇護する日本国家。 「谷中村」は、いままた繰り返されている。百年前からずっと繰り返され続けている。汚辱され、死姦され続けている。「谷中村」とは文明の問題だとわたしは 思う。

 荒畑寒村は文中で「豈啻(あにただ)に谷中村一個に止(とど)まらんや」と記す。

  而してかくの如きもの、豈啻(あにただ)に谷中村一個に止(とど)まらんや、現代社会における凡ての貧乏弱者は、これ実に谷中村民と運命を同じうせるもの にあらずや。彼らが終日孜々営々労働して、以て算出するところの富は、これ悉く資本家の掠奪する所となるにあらずや。かつ政府や、議会や、憲法や、法律 や、これ悉く資本家の手足たり、奴隷たるに過ぎざるが故に、彼らの画策する所や、常に資本にのみ益ありて、平民、貧者、弱者に対しては、一毫の益する所あ らざるなり。而して谷中村は、即ち這個黄金万能の力と、資本家政治との害毒と、悲惨と、残忍とを、尤もよく顕現し、表明せるものにほかならざるなり。

 

 4 月の新緑になかば埋もれかけ、風に吹かれていた旧谷中村のかつての墓地で、ひとつだけ真新しい板に名前を書いただけの墓がひっそりと立っていたのをわたし は思い出す。「水野彦市之墓」とあったその名前を、この「谷中村滅亡史」の中に見つけたときのふるえるような、百年前の記録と目の前で手を合わせたつまし い墳墓とがつながった、あの生々しい驚きの手触りは忘れ難い。最終章の「第二十六 谷中村の滅亡」。栃木県庁の命令のもと「植松第四部長の率ふる破壊隊二 百余名」が最後まで村にとどまり抵抗を続けた16戸に襲い掛かった二日目の記述。

  二日は更に人夫数十名を増し、島田政五郎、水野彦市、染宮三郎等の居宅を破壊す。彦市の女(むすめ)リウは、「父上在(いま)さざれば、一指たりともふれ しむべからず」と、凛乎として拒絶し、与三郎の老母某は、祖先の家を去るに忍びず、「殺せ々々」と泣き叫びたりき。この夜大(おおい)に雨降る。

 こうして七日間に及ぶ破壊の完了したのちの「彼ら」の姿を、寒村は次のようにつづる。

  而してこれがために家を失いたる者は、竹を柱とし、芦を屋根とし、麦わらを板敷となし、その上に筵を覆ひて、蚊帳うち釣れるもあり。小舟を沼田に浮かべ、 竹もてこれに蚊帳を張りかけ、寂しき夢を結べるもあり。あるひは雨戸を寄せ、筵を張りなどして、僅かに雨露を凌げるもあり。中には蚊帳なくして、終夜藪蚊 に攻められつつ、苦しみ明かす者もあり。見るも憐れ深き寒村の荒涼たる沼田の水に、夜半の月影清く映りて、凄愴の景、坐(そぞ)ろに人をして泣かしむ。

 

  この中に、水野彦市とその家族もいたのだろう。その10年後には最後に残った18名の残留民が合併された藤岡町へ移住して谷中村はついに無人となったか ら、水野彦市はその間にこの谷中村で死んだか、あるいは移住先で死んだがこの墳墓の地へ葬られたのかも知れない。あるいは貧しくて墓石さえも買えずに、い まも残された子孫の人々が墓の場所だけは忘れまいと手書きの板を添えているのかも知れない。

  わたしのなかで、水野彦市はたしかに「肉化」した。かつて生きて、妻子とつましい生活を愉しみ、理不尽にもそれらを奪われ、最後まで国という怪物のような 力に抗い、闘いつづけた無名の男として蘇った。かまぼこ板のような墓がそれを示してくれた。わたしはぜったいに忘れまい。忘れてはいけない。

 繰り返すが、谷中村はいまもなお「滅亡」の対象である。そして理不尽な「強制破壊」も、いまだ続いている。そして寒村はいまもこう叫び続けている。きみには、聴こえないか。

あゝ、日本国今や憲法なく、法律なし、あるものはただ暴力と、悪政と、鉄鎖のみ。

 

 2016.5.10


 

 

 

 

 

背中からの未来