112. 神奈川県横浜 孤独死した伯父の死

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■112. 神奈川県横浜 孤独死した伯父の死 (2021.12.15)





  
 
  京都・二条城近く。安藤さんの京都場での個展を見ていたらスマホが鳴った。外へ出て電話を取ると妹からで、横浜に住む伯父が死んだという。生活保護を受け ていて、横浜の役所から妹である母のところへ連絡がきた。先週の9日に緊急搬送されて、15日の1時半頃に亡くなった。緊急入院をして容態が悪いので今後 の延命措置なども含めて相談をしたいので連絡が欲しいという11日消印の封書を母がポストに見つけたのが今日だった。電話をしたがすでにこの世の橋を渡り おえていた。伯父はかつては年上の細君がいたが別れて子どもはいない。自由奔放で少々癖のある性格故に親類とのつきあいをみずから断って、わたしの妹だけ が毎年の年賀状とわずかな手紙のやりとりだけを残していた。遺体は病院から葬儀屋の霊安室へ移されているという。火葬をするには手続きが必要だ。まだわた しの父が生きていて、父と仲が良かった伯父とわたしの三人で何度か丹沢へのぼった。いや、父が死んだあとも伯父と鳳凰三山を縦走したこともあった。そう か、ついにひとりで往ったか。そのままわたしは千本通を漫然と北へあるきつづけて、気がついたら閻魔堂の前であった。あの世とこの世の境のバス停で老婆が 三人、すわって話をしていた。あの世とこの世はそれほど離れてはいないのかも知れない。母と妹とわたしの三人で明日、横浜へ行くことになった。明日は病院 で医師の説明を聞き、葬儀屋で直葬(火葬)の段取りをし、役所で手続きをする。手続きが終われば翌日に火葬だそうだが、伯父が長年住んでいた借家の後片付 けがある。印刷屋をしていたので印刷の機械がそのまま残されている。その整理が厄介だ。病院と火葬場が鎌倉に近いので、とりあえず明日と明後日、鎌倉のホ テルを予約した。遺骨はいったん母が持ち帰って、49日が住んだら東京の伯父の兄(わたしといっしょにシベリアへ旅した伯父)の家の墓に入る予定だ。安藤 作品の磁場の話を書くつもりだったのだが、写真だけになってしまった。「すぐれた彫刻作品は内部にエネルギーのラインが見える」と安藤さんは書いていた。 ひともまた肉体は虚舟(うつろぶね)のようなもので内にエネルギーの束を有しているのだと思う。今夜はその束がさびしい霊安室でうつろな骸(がら)のまわ りをただよっているか。
2021.12.15

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  世の中には継いではいけないものもあるのだ。相続放棄を家庭裁判所に申し立てることになった。印刷機器の残された死んだ伯父の借家を片づけるのにどれだけ の費用がかかるか分からないし、長い年月に音沙汰なしだったかれがその他にどんな負債を抱えているのかも分からない状況で、遺品を整理したり、挙句は葬儀 をつかさどることすらも、相続人を名乗り出るものだという。途中駅で予定していた病院をキャンセルし、葬儀屋をキャンセルし、新幹線のなかから知り合いの 元市議さんに相談及び弁護士依頼を頼みつつ、夕方にやっと役所の生活支援課の若くてまじめそうな女性の担当者と話をして葬祭扶助申請を、それでも伯父が病 院費用を清算して残った59,874円をいったん受け取って葬儀会社へ移管する代理委任状に母がサインをすることは伯父の財産に触れることになるからと、 その残りの金と葬祭扶助で役所から出る補填分が無事履行されましたという履行確認証明という書類に変えてもらった。59,874円。それが86年間精一杯 に生きた伯父がこの世に残した最後の財産だった。しかしそれすらもみずからの火葬費用には足りない。火葬は土曜日の朝。枯れ果てた伯父の姿は見るのがつら い、元気だった頃の顔を記憶に残したいからと母と妹の希望で結局火葬の見送りもせず、遺骨は郵便で後日に送ってもらうこととなった。あとは50年以上も隣 人としてつきあってくれた家主との話だが、埒の明かない母の電話を途中からわたしが引き継いで、残った荷物をだれかしかるべき人が整理をしてくれないと困 るという家主にそれでも相続放棄が確定するまでは動けないのだと言い続けて、なにも終わったわけではないのだけれど、とりあえず慌ただしい一日が暮れた。 あれこれの支払いが滞り、体が動かなくなってときに家主が金を下ろしに行き、最後は電気を止められて寒い冬を越すのは厳しいだろうと思っていた矢先だった という。印刷の機械以外はきれい好きだったこともあって、大したものは残っていない。ただ本がたくさん。それとクラシック音楽が好きだったから、と家主は 懐かしそうに言うのだ。そして、仕方がないけど、その相続放棄が確定したらせめてこちらに教えてほしいと諦めた声でつぶやいた。最後に救急車を呼んでくれ たのもこの50年来、気難しい伯父とつきあってくれた家主だった。そんなふうに一日が過ぎた。とくになにをしたわけでもないが、妙に重く疲れた一日だっ た。役所の帰りしなに入った本郷台駅前の蕎麦屋で夕食を食べた。いままで食べたなかでいちばんおいしい鴨なんばだった、と妹が言った。宿に帰ってあちこち に電話をかけてから、わたしは一人で夜の鶴岡八幡宮をさまよいあるいた。どこかの路地でひょいと見上げると、偶然にも伯父が担ぎ込まれた病院の看板が夜目 にくっきりと浮かび上がっていた。ここが伯父が生を閉じた最後の場所。この世に59,874円を残して往った場所。そう思ったらなんだか口惜しいような悲 しいような気持になって立ち尽くす。
2021.12.16

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  鎌倉行の初日。横浜栄区役所で生活支援課のEさんの説明を聞いてから、いったんキャンセルをした斎場へ電話を入れて翌日の昼、火葬手続きの書類にサインを しに行くことを伝えた。母と妹が、おそらく変わり果てただろう故人の顔は見たくない、元気な頃の記憶のままでいたいと言うので、対面はせずに、見送りもし ないことにした。けれどホテルの部屋にもどって一人になって、せめてだれか一人くらいは死に顔を見てあげようと思いなおし、翌朝の朝食の席でそれを伝えると二人 とも、じつはわたしたちもそうするつもりだった、と言う。昨日はあれこればたばたしていて何だか疲れてたもんだから、と母が付け足す。斎場は鎌倉駅からタ クシーで10分ほど、鎌倉市と逗子市をはさんだ丘陵の逗子市側に位置する。片交の信号が取り付けられた昔ながらの狭いぐねぐねとした坂道が唯一の入口で、 あとで聞いた話だが百数十年前の野焼きの時代からの民間経営の斎場だという。しばらく部屋で待たされて、冷蔵室から出してくれたのは廊下のすみを臨時的に カーテンで囲ったようなスペースで、おそるおそる覗き込んだ伯父の顔は数年前に先に死んだ長兄の晩年の顔にそっくりだった。目元は伯父の面影があって、 兄よりも端正だ。想像していたのとはちがって、自然の摂理のままに枯死して大地に還っていく老樹のような、そんなおだやかな表情だった。額に触れると、硬 く、つめたかった。やっぱり会ってよかったねと三人で言い合った。翌日の土曜日は朝一番の火葬だった。手続きはもうぜんぶ済んでいるので大丈夫ですよと斎 場の担当者に言われて、母の支払いの別料金で顔の周りを囲う色花を注文した。それから最後は電気も止められて寒かっただろうからと、前日にホテルの下の無 印良品で母と妹が選んだマフラーと毛糸の帽子、そして出がけにコンビニで買ってきた菓子をいくつか、棺に入れてあげた。棺が炉室へ運ばれ、扉がしまると、 妹が泣き出した。一時間もしないで、伯父は真っ白な骨になってもどってきた。年齢にしては丈夫な骨だという。骨壺のいちばん最後に下あごをこちらに向け、 頭蓋骨のかけらを二枚程のせて、手慣れた斎場の係は故人がみなさんの方を向いています、と言った。わたしは何やら、戦場の兵士の遺体のことを考えていた。 埋葬をする余裕がない戦闘中や行軍中であれば首や手首や指先を切り落として親しい戦友が持ち運んだのだが、それすらもない場合は海岸の砂を留魂砂(るこん さ)と呼んで持ち帰った。伯父は頭蓋骨から足の骨までぜんぶ揃っているが、なんだか兵士のような気がしたのだ。86年の人生を伯父らしく戦って、往った。 伯父としてのかたちはこの世から消失し、燃え残った骨はさながら留魂砂、海岸にあまた広がる無数の砂粒のようなものだ。すべて自然へ還った。潔い。これ で明治40年の北山筏組合長であった中瀬古為三郎の血を継ぐ母の兄弟(三人の兄)はすべていなくなり、母だけになった。ムガル帝国の皇帝によって建設され わずか14年で放棄された北インドの都市ファテープル・シークリー(Fatehpur Sikri)の城門には、つぎのような碑文が刻まれているという。「イエスが言った。“この世は橋である、わたっていきなさい。しかしそこに棲家を建てて はならない”」  まさにかれは、たった一人でわたっていったのだ。
2021.12.20
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  亡くなった伯父の相続放棄を相続対象となるわたしの母(妹)、関東に住む従兄二人(長兄の息子)の三人でいっしょに申し立てることになって昨日、あらため て奈良の合同弁護士事務所のS弁護士へ正式に依頼のメールを入れた。料金は書類費等を含めて一人65,000円、三人合わせて20万円ほどになる。遺産を 相続するのではなく、相続を放棄するためにこれだけの費用が必要なわけで、なんとも複雑な気分だ。Web上では独力で書類を集めてみずから家庭裁判所へ提 出する人もいるようで、わたしだったらそうしたかも知れないが、母はともあれ、大手企業の重役をしている従兄も、銀行勤めのその弟も懐は豊かでその料金で まったく構わないと言うので、もちろんわたしも異論はない。それに万が一、(ないとは思うが)伯父がややこしい筋から借金などをしていたとしても、弁護士 に任せることができるから安心な面はある。二人の従兄には弁護士事務所から委任状用紙と料金の振込先が郵送され、それぞれじぶんたちの戸籍謄本と共に返送 する。母の分の委任状はわたしが先に預かってきたし、戸籍謄本もすでに取得済みだが、問題はS弁護士から言われた死んだ伯父の住民票(除票)と戸籍謄本 (除籍)の取得である。これについては当然ながら伯父の住所と本籍地が必要なわけだが、住所はともかく、長年音信不通であった伯父の本籍地はだれも知らな い。そこで生活保護でお世話になって先般も役所でお会いした生活支援課のEさんに電話を入れて本籍地を教えてもらえないかと訊いたのだが、それは教えられ ないとの返答であった。そして、火葬のときに発行した埋火葬許可証に故人の住所も本籍地も記してある、と言う。ああ、失態。火葬場で斎場のSさんが「これ は納骨のときに必要ですから、ここに貼っておきますね。墓地の石屋さんに当日渡してください」と言われて骨壺を入れた箱の蓋の上にぺたっと貼りつけたのだ が、あれを写しておけばよかった。遺骨は当初、母の家へ郵送してもらう手筈だったのだが、奈良へ帰ってきた母が一人暮らしの家に兄弟とはいえ疎遠になって いた者の遺骨を置いておくのが不安になって、勝手に斎場へ電話を入れて納骨までしばらく斎場で預かって欲しいと依頼し、それをあとで聞いた妹が母と衝突し て現在断絶状態。そんなごたごたがあったので斎場のSさんにはこれ以上依頼ごとをするわけにもいかず、又たとえお願いしたとしても個人情報を伝えることは できないだろう。最悪の場合は東京に住む従兄に鎌倉の斎場まで行ってもらって埋火葬許可書をコピーしてきてもらうしかないわけだが、もうひとつ、伯父の住 民票請求の際に本籍地を記載してもらうという手もある。そこで横浜市の栄区役所の戸籍課と住民票係の窓口にそれぞれ電話をして、事情を伝えて郵送請求でど んな書類が必要かと訊いてみた。どちらの担当者も、請求者である母と故人の伯父との関係が確認できる書類が必要だが、それはすでに手元にある母の戸籍謄本 に母の両親の名前が記載されているので、それと伯父の両親がおなじであれば確認が可能なので母の戸籍謄本の写し、身分証明の写し(保険証)、役所のHPか らDLできる請求書類、返信用封筒と切手、手数料(小為替)で大丈夫だという。それで試しにDLした「住民票の写し等請求書(郵送)」をプリントアウトし て記入の仕方で若干不明な部分があったので問い合わせ先の横浜市郵送請求事務センターに電話をしたところ、電話口の担当のTさんが「相続放棄を理由とする 請求では本籍地は入れられないことになっている」と言う。「でも栄区役所の戸籍課の方は出せると言ってましたよ」と言うと、こんどは母と伯父との関係確認 について「伯父の本籍地がもしも横浜市外であった場合には、伯父の両親の名前が横浜市では確認できないので、お母さまの戸籍謄本だけでは不充分だ」と言 う。ではその場合、他にどんな書類が必要なのかと問えば、母の両親を軸とした除籍謄本を入手したらそれで母と伯父が兄妹であることが証明できる。そのため には母の本籍を奈良=茨城=東京の複数個所と遡って請求していって、母が婚姻によって親の戸籍から抜けた時点での実家の本籍地を突き止め、その実家の本籍 地にいまは亡き両親の除籍謄本を請求しなければならないというわけだ。すべてを郵送依頼するとして、いったいどれだけの時間がかかるだろう。ちなみに相続 放棄の申し立ては伯父が死んだ日から三か月以内に提出しなければならない。「分かりました。では伯父の本籍地が横浜市内であるかどうかを教えてもらえませ んか?」と言うと、それは教えられないと言う。わたしがもし母の戸籍謄本だけで請求するというのであれば請求してもらって、書類が届いてからこちらで出せ るかどうか判断すると言う。このあたりから、わたしはそろそろキレかけ始めていた。「そもそも栄区役所の戸籍課の人はそれで大丈夫だと言っていたのに、そ れは伯父の本籍が横浜市内であるという前提での話でその前提が漏れていたわけですね」 「はい、そういうことになりますね」 「伯父の本籍が横浜市内か否 かで準備する書類が異なるというのであれば、こちらもどういう書類を用意したらいいのか分からないので請求することも出来ない。そちらでは伯父の本籍地を 情報として所有しているわけだから、せめて横浜市内か市外かだけでも教えてもらえないのですか?」 「それは個人情報になるのでお教えできません」 「本 籍地をぜんぶ教えてくれって言ってるわけじゃないですよ。横浜市内か否かを伝えることは別に個人情報でも何でもないでしょ」 Tさんはそんな会話の間、最 初は上司と相談しますと言って電話を折り返し、次に返答に窮した際は市役所の方へ確認してみますと言って電話を切った。小一時間待ってかかってきたのは横 浜市郵送請求事務センターのTさんではなく、横浜市役所市民局のEさんであった。「わたしどもの説明不足でいろいろご迷惑をおかけしたので、今回は特別に お母さまの戸籍謄本だけで住民票を出させていただきます」ということであった。「特例なんですね?」と訊くと、「はい、そうです」と言う。「伯父のように 身寄りがない孤独死で、おなじように長いこと連絡不通で、おなじように親類が相続放棄をするのに本籍地が分からない場合もあると思うんですが?」と訊く と、そのときはやはり戸籍をたどっていってもらうしかないし、実際に多くの人はそうしてもらっていると言う。そんな次第で今日はほとんど半日がこれらのや りとりと書類作成でつぶれた。以前からそうだったけれど今回あらためて思ったのは、わたしは役所的思考には馴染めないということ。いつもたいてい、喧嘩に なる。そしてもうひとつ、今回はじめてつくづく思い知ったこと。戸籍制度、いらねー

2021.12.27

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  横浜の伯父の孤独死にともなう相続放棄の手続きが完了し、横浜家庭裁判所からの「申述受理通知書」なるものが弁護士経由で母宛てに送られてきた(東京と千 葉に住む長兄の二人の息子(わたしの従兄)にもおなじものが届いた)。これを受けて先日、亡き伯父の借家の大家さんへ電話で連絡をして、来月4月2日 (土)に長兄の長男とわたしの二人で晴れて大家さん宅へ挨拶へ伺うことに決まった。大家さんは昨年末からずっと伯父の残した家財には手をつけずに待ってい てくれたのだった。代表して母が署名する「残存家財等処分同意書」も用意したし、大家さんには伝えていないが処分費用の足しになればと些少の金額(相続放 棄の三者で出し合った)を包んで持参する予定。大家さんから伯父の最後の様子を聞いて、何か形見の品があればすこしだけ、それと娘がジョバンニがアルバイ トをしていたときのような活版が欲しいと言うので印刷屋を営んでいた叔父の仕事場から(たぶん大量に残っているので)いくつか貰ってこようかと思ってい る。当日は都内の安宿を予約したので、夜は亀有の腐れ縁の友人とまた新橋か神田あたりで呑むつもりだ。伯父の遺骨はすでに千葉にある都の霊園の長兄の墓に 入れてもらっている。伯父も、病人遍路よりはしあわせだったろうよ。

2022.3.25

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  横浜の伯父の孤独死にともなう相続放棄の手続きが完了し、横浜家庭裁判所からの「申述受理通知書」なるものが弁護士経由で母宛てに送られてきた(東京と千 葉に住む長兄の二人の息子(わたしの従兄)にもおなじものが届いた)。これを受けて先日、亡き伯父の借家の大家さんへ電話で連絡をして、来月4月2日 (土)に長兄の長男とわたしの二人で晴れて大家さん宅へ挨拶へ伺うことに決まった。大家さんは昨年末からずっと伯父の残した家財には手をつけずに待ってい てくれたのだった。代表して母が署名する「残存家財等処分同意書」も用意したし、大家さんには伝えていないが処分費用の足しになればと些少の金額(相続放 棄の三者で出し合った)を包んで持参する予定。大家さんから伯父の最後の様子を聞いて、何か形見の品があればすこしだけ、それと娘がジョバンニがアルバイ トをしていたときのような活版が欲しいと言うので印刷屋を営んでいた叔父の仕事場から(たぶん大量に残っているので)いくつか貰ってこようかと思ってい る。当日は都内の安宿を予約したので、夜は亀有の腐れ縁の友人とまた新橋か神田あたりで呑むつもりだ。伯父の遺骨はすでに千葉にある都の霊園の長兄の墓に 入れてもらっている。伯父も、病人遍路よりはしあわせだったろうよ。

2022.3.25

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  孤独死した伯父の借家の整理。と言っても、相続放棄の申し立てが受理されたのに併せて、残置家財の処分同意書と世話になった志の金額を家主に手渡して最後 の様子を聞き、あとは電気も切れた暗い部屋、伯父が最後の独居を過ごした布団も敷きっぱなしの生々しい部屋のなかを懐中電灯で照らしながら、何か残してお くべきものはないかと抽斗を開け、扉をひらき、棚を漁っただけだ。終着点を見据えて身辺整理をしていたかのように、生活必需品以外はとくにめぼしいものは 何もなかった。たくさんの仏教書、登山の本やマップ、そしてクラッシックのレコードが少し。わたしはいったい何をさがしていたのか、それはあるべきもの だったのか、はじめからそんなものはなかったのか。そもそも人は死んで、この世に残すものなどなにもないのかも知れない。そのひとが死んだあとは、すべて ガラクタだ。すっかり疲れ果てていたけれど、夕方に友人のA、そしてFB友のインド在住エイリアンのとしべえさん、ボイラー文士の姉歯さんと神田で合流 し、創業明治38年という東京最古のみますやで牛煮込みやどぜうをつまみながら、あれこれと語り合ったのだった。さんざ語り合ってから、そうだ、この二人 とは今日はじめて会ったのだったとあとで思い出した。
2022.4.2

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