101. 奈良市ギャラリー勇齋 安藤榮作彫刻展 Left behaind heart

体感する

 

 

■101. 奈良市ギャラリー勇齋 安藤榮作彫刻展 Left behaind heart (2021.3.20)

 




  
 
 生がつねに死を孕んでいるように死もまた生とたわむれている。茫々とした墓地にひとり佇めば地面の下で瞑目しているかれらと地上でまなこを見ひらいてい るわたしのどちらが生に近くどちらが死に近いのか、もう分からない。生とたわむれている死はときに生き生きとしているように見える。死を孕んでいる生もま た死に負けじと急いてときどき転げ落ちそうになる。桜のつぼみが内なる生のリズムでふくらみかけている小春日和、かつて奈良のみやこと異界とを隔てる奈良 坂の古い共同墓地の墓石と墓石のはざまにしゃがみこんで線香の束に火をつけていた老人がこうべをあげてわたしに、ようお詣り、と声をかけた。老人は生とたわむ れる死であったかあるいは桜のつぼみをふくらませている何ものかであったか。猿沢の池にほどちかいギャラリーにならんだ Left behind heart (置き去りのままの心)と題された安藤さんの作品たちも生き生きとさんざめいているように見えるがじつは死者たちの世界なのだった。作家は津波で流された 愛犬の「感触を思い、瓦礫をどけながら見つけ出すように彫った」という。そこから生とたわむれる死者たちが生き生きとたちあがった。かつて作家が暮らしてい た福島県いわきにもほど近い北関東の田舎にいっとき住んでいたわたしはいわきの海も山もそこに吹いていた風もながれていた雲も知っている。死はときおり生 によって置き去りにされる。わたしは慄然とする。やわらかな陽の射し込む居心地の良い空間(ギャラリー)が突如津波がひいたあとの黒々としたはてしない瓦 礫の原に変化(へんげ)する。作品はその瓦礫の原からふいと幽体だけがぬけ出たかのようにうきあがりゆれている。まるで剥がれ摩耗し苔むした石のほとけの ようにあたたかい。 かつて作家の堀田善衛は、古代ギリシアでは過去と現在が前方にあるものであり、したがって見ることができるものであり、見ることのできない未来は、背後に あるものである、と考えられていた―――という、ホメロスの『オディッセイ』の訳注をみつけて、「これをもう少し敷衍すれば、われわれはすべて背中から未 来へ入って行く、ということになるであろう」(『未来からの挨拶』)と記した。そうであるならわたしがいま夢幻している黒々とした瓦礫の原は前方にあるも のであり、幽体のようにやわらかにただよう作品たちは未来の生とたわむれる死者たちの姿なのかも知れない。かれらのほんとうの姿をわたしたちはまだ、この ような作品というかたちでしか見ることができないというわけだ。だからわたしたちはこれらの作品がどうしようもなくいとおしく、切ない。
2021.3.20

 

 

体感する