095. 舞踏家・映画監督 岩名雅記氏の死を悼む

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■095. 舞踏家・映画監督 岩名雅記氏の死を悼む (2020.11.12)

 




  
 
 フランス在住の舞踏家であり映画監督である岩名雅記さんが体調を崩し、検査の結果、胸膜の悪性腫瘍であることを告白したのが2020年の9月初旬だっ た。今日11月12日、その岩名監督が亡くなったという友人たちのメッセージをタイムラインで読んだ。わたしが監督と知り合ったのはSNS上、2018年 6月に facebook のメッセージで監督みずからの友人申請を頂いた。それからお互いのタイムライン上でときおり、コメントをやりとりしていたと思う。2019年1月、やはり メッセージ添付でワードで打たれた監督の手紙が送られてきた。次回の映画作品として準備している、孤独なテロリストの物語のシナリオについて参考意見を訊 きたいという内容であった。それから何度か、メッセージで手紙のやりとりをした。暴力について、テロリズムについて、深淵について。そして奇しくもこの国 のあたらしい元号とやらが「事前公表」された2019年4月1日、松島新地にちかい大阪・九条のシネ・ヌーヴォでわたしは監督の「シャルロット すさび」 を見たのだった。きな臭い時代の幕開けのその当日に、わたしは叛乱する岩名作品とまさに添い寝をしたように思った。おのれとよく似た魂の形状をしていると 感じたのだった。上映終了後に狭いチケット売り場で監督の旧作のDVD三枚を買い、「シャルロット すさび」のパンフを記念に求め、そのままそそくさと表 へ出ようと思ったら売場の女性から「監督のサインももらえますよ」とかたわらに控えていた岩名監督の方へ押し出されてしまった。パンフレットの表紙にサイ ンをしてもらいながら「この映画をどこで知って頂けましたか?」みたいなことを監督に訊かれて、わたしは観念して名前を名乗った。すると監督から映画館の 向かいの喫茶店に誘われて約一時間ほど、二人きりで膝をつきあわせて話をしたのだった。監督から「あなたの思想形成についておしえて欲しい」と言われて、 わたしは閉口した。結局、わたしはその日、じぶんのことばかりをしゃべって、あとで後悔をした。監督に直接会ったのはそれっきりだ。あの、あたらしい「元 号」が発表され、鵺のような有象無象の手が押し合いへし合いそれを伝える新聞の号外に手を伸ばした空虚な祭のようなあの日、わたしはシネ・ヌーヴォの向か いの水出しコーヒーがおいしい喫茶店で孤独なテロリストの次回作を企てる映画監督にわたし自身のどうにも格好のつかない過去について語っていた。それだけ なのに、なぜかわたしは、歴史の実時間としての分岐点とわたし自身の人生のある部分がホチキスか何かでパチリと嵌められたような、そんな気がした。帰って 記した映画についての駄文を監督はいたく気に入ってくれて、あちこちに貼りつけてくれた。あっという間だ。人は彗星のように過ぎ去っていく。わたしは家に 帰って娘に「人の一生は短い。好きなことだけを、やれ」と言ったのだった。岩名監督がたった一本の映画と喫茶店での一時間によってわたしに残していったも のは案外と大きいのかも知れない。孤独なテロリストの次作を見て、ふたたびどこかの喫茶店で一時間、もういちど監督と話をしたかった。ひとはいつも間に合 わない。いまごろ彗星のようにこの惑星の外を内を地中を水面を雑木林を尾根を深い霧に閉ざされた沼地を飛び交っているだろう。本来であれば私信なのだろう けれど、忘れがたい記念に監督との手紙のやりとりをここに再掲しておく。さようなら、さようなら。またどこぞの銀河の果てで、心地よい草葉の陰で。


Aida Yosuke 様。

まずは明けましておめでとうございます。
FBではいつも貴重な投稿を拝見しております。

さて新年早々おさわがせします。
実は次回の映画作品のシナリオを準備しています。
孤独なテロリストの物語です。
私はどちらかと言うと<物語>が好きで<思想>に疎い人間です。特に哲学領域が超えられません。て言うことは才能がないということになってしまいますが^^。

この二ヶ月、以下の5つの文章(この2年間くらいで注目した文章)を何度も見返して
ドラマの思想部分を耕しているのですが、情けなやーー出来ません。
そこでもし幸いにもお力添えくださるなら、以下の設問にお答えくださいませんか。

(質問1)Aida さんが引用された宮内氏の「受け皿がない」と、4)辺見庸さんのハイデガーの引用「根底が見出せない」は同じことを言っているのでしょうか?
(質問2)辺見さんの文は時折わかったようでわからない。『以来、この根底のない時代はずっといっかんして「深淵に懸かっている」。世界の夜の時代には、世界の深淵がいくども経験され、耐えられねばならない。』とは何を言おうとしているのか。
もしお時間があり、ご助言いただけたら深く感謝です。その限りではないということでしたら
決して<逆恨み>はしませんのでご遠慮なく「NO」とおっしゃってください。
どうぞ、この一年、良い年となりますよう、ノルマンディの寓居より祈っております。
                                  岩名雅記

1)  暴力を外へ向ける者も、内に向ける者も、世界を否定するという意味ではおなじではないか。そのなだれのような崩壊は、いつものっぴきならぬ始原の場所か ら発生する。かつて作家の宮内勝典はオウムの事件を評して「意識や精神の営みに、なんらかの意味をあらしめようとしても、この社会には受け皿がない」と記 した。わたしにはもう、それだけで充分だ。「この国には金と快楽以外に何があるんだ?」と叫んだというかれらは、たしかに道を踏み誤った。だが「一歩」を 踏み出すことすらしない者たちが、果たしてかれらを嗤い、断罪できるだろうか。世界に対してノーと叫んだかれらは、麻原という巨大なカオスに呑み込まれ た。何を言われたっていいんだよ。どうせ一度しかない人生だ。おれはこの世界に何の違和感も感じないで飄々と生きている多数の人畜無害の「善人」たちより も、トコロテンのように押し出されたとりかえしのつかないおまえたちのこころの闇を 愛するよ。(Aida Yosuke)

2)今も右翼はテロを容認するのだろうか。
事務所で向かい合った榎本さんは「正当化できるかできないかで言うと、(テロは)正当化できない」と言った後、「ただし必要だと思う」と続けた。
「そ れがなかったら誰も議員さんを止められなくなるでしょう? 悪政に対する抑止力として、僕らはいなきゃいけない。必要悪。(そういうものが無いと政治家 は)言いっぱなし、やりっぱなし。思い付きで政治をやっていると、苦しむ人がいっぱい出てくる」大日本愛国党/榎本隆生氏(45歳)
2016/11/9(水) 10:41 配信

3)中村敦夫氏『私は忖度なしに言うことにプライドを持っている。プライドとは自身の宝である。勝ち負けはあくまで結果であり、大切な事は己のポジションを貫くこと。一匹狼には忖度はない。忖度するということは「いじましい」ことであり、自分を軽蔑することである。』
『社 会で生きるということは一種の枷(かせ)や取り決めを持つということである。その枷や取り決めとは「いつくしみや悲しみの共感、同情」を生きることで ある。これらを持つということは<暫定的>人間として至上のものである。その取り決めを破壊しようとする力には「怒り」をもって対峙する』

4)◎ トランプの脳天にMOABを投下せよ!
――誤爆ではなく、正確に直撃せよ
世 界にとっては基礎づけるものとしての「根底」がみいだされなくなっている。と、ハイデガーがかたったのは1950年あたりだったか。以来、この根底のない 時代はずっといっかんして「深淵に懸かっている」。世界の夜の時代には、世界の深淵がいくども経験され、耐えられねばならない。そのためには、まずもって 「深淵にまで到達する人びと」を要する。
世界の夜――乏しい時代は長い。「…そして乏しき時代にあって、なんのための詩人か」。あるいは、なんの ためのテロリストか。乏しき時代にあっては、暴力 はなるたけただしく行使されなければならない。トランプの頭にMOAB(Mother of all bombs)を投下せよ!誤爆ではなく、正確に、目的意識的に、直撃せよ。クソのつまったあのおぞましい金髪頭を吹き飛ばせ。
Yo Hemmi weblog 14/04/2017
http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2017/06/201703170617-ed.html

5) 自身の両眼の奥に逆に社会/宇宙を捕獲、射止めること、すなわち「誰がやる?お前か俺か?」などという戦略戦術としてのテロではなく、まさしく<自分>が 行うことによってあらゆる世間的良識や道/非道や善悪を乗り超えてしまう(自己の両眼の奥に世界を封印する)という実存的意思またはその存在を描く。目取 間 俊(主旨)

以下の千坂恭二さんの投稿も思考の根拠になっております。
Chisaka kyouji  アナキストを称する人は、まず、アナキズムが主張する自由とはどのようなものなのか考えるべきだ。それは資本主義の、自由主義のいう自由とどのように違 うのか。単に、より自由なだけなら、アナキズムは過激な自由主義にすぎない。アナキズムの自由は、自由主義の自由とは敵対することを考えるべきだ。  たとえば、バクーニンは、自由の全体性をいう。バクーニンによれば、アナキズムの自由は部分的なものではなく、また、自由は全体的なものであるため、そ の一部が否定されたならば、自由そのものが否定されたことになる。このようなアナキズムの自由は、思想・言論の自由のようなものとは異質だろう。  もう一つ、バクーニンは、アナキズム的な自由の神話的な先駆として、人間に神への反抗を説いた悪魔を名指し、悪魔を自由の先駆として肯定するが、この場 合の悪魔とは何か。いうまでもなく、それは神の外部だが、神の外部とは何なのか。そこには存在論的な問題があるといえる。

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Masaki Iwana さま


お 返事、おそくなりました。さて、最近の新聞紙面でわたしのこころにひっかかったのはノーム・チョムスキーが引用していたグラムシの、ヨーロッパにファシズ ムが台頭した1930年代の獄中での次のような言葉です――「古い体制が崩壊し、新しい体制がまだ形づくられていない。その空白期に多くの病的な兆候が表 れる」。わたしは高卒の無学な徒にすぎないので、「哲学」についてご質問をされたMasaki Iwanaさんの人選は甚だ間違いであったと思わざるを得ないのですが、ハイデッガーが愛したヘルダーリンはなぜかむかしから好きです。辺見庸がブログに 記した文章については「根底」「深淵」「乏しき時代」といった独特の語句に於いてハイデッガー哲学の読み込みが必要であるように思います。けれども何とな く感覚はわかるような気がします。たとえばハイデッガーがリルケについて書いた「●「乏しい時代の詩人たち」の特徴は、自分たちにとって言われるべきもの への痕跡を、彼らが詩人として辿っているがゆえに、詩の本質が問われるという点にある。●もしリルケが「乏しい時代の詩人たち」であるなら、何のために彼 は詩人であるのか、彼の歌はどこに向かって途上にあるのか、という問いに答えてくれるのは、やはり彼の詩だけである。」というような言葉。わたしの認識で はハイデッガーは「神は死んだ」と宣言したニーチェ後の哲学者であり、Ab-grund(底無しの深淵)に於いていまや、神はとおざかり、「残された者た ちは、徹頭徹尾「神去り」の後に佇む広大な「底無しの深淵」に対峙すること」しかない。「神の死後、残されているのは、「大いなる火の突然の消滅」という アポカリプス的な出来事を看過して、静寂に世界を俯瞰することである。」 無根底(根底が見出せない)とは、そのような寄る辺ないわたしたちのこの世界 ――まさにグラムシのいう「多くの病的な兆候が表れる」空白期のことではないでしょうか。「絶望の底を抜く」という言葉をわたしはまたFB友の塩崎さんか ら聞きました。その言葉について最近ずっと考え続けています。そのような意味に於いてご質問の、わたしが引用した宮内氏の「この社会には受け皿がない」と 辺見が引用したハイデッガーの「根底が見出せない」は、あるいはつながっているのかも知れません。「絶望の底を抜く」ためには、絶望の底にみずから降り 立って地面を叩き続ける者が必要なのかも知れません。そしてわたしは、先のリルケについてのハイデッガーの思考を考えます。「詩人たちは、救いなきものを 救いなきものとして経験しているがゆえに、聖なるものの跡をたどる途上にある。彼らの歌唱は、有ることの球という無傷のもの、無垢のものを寿ぐ。」 ある いはその「途上」にあって暴力、持たざるものの最後の抵抗としての暴力の噴出があってもいいのではないかとわたしは夢想します。聖も穢れもある古の都より 今後一層のご活躍を祈念しております。

會田陽介

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會田陽介さま。


いただいたお手紙、何度か読ませていただきました。
大変不埒な私の質問に誠実なお答えをいただき、先ずはそのご厚情に深く感謝します。
はじめに感じたことは安易に「答え」を求めようとした私自身に恥ずかしさを覚えたということです。こうした事柄には答えがないということ、その上で、さらには答えがないことに安住しないこと、自分自身で探すことだということです。

そ の上でやはり底無しの深淵/無根底(根底が見出せない)/絶望の底を抜く、といった言葉使いにはある程度の哲学的な思考方法がすでに込められていて、その 上で初めて考えなければならないということのようです。辺見さんの言葉使いも明らかにハイデガーやニーチェが前提になっていて、それを読破していないとわ からない、けれどそれを読者に説明する責務はとりあえず彼にはないというところから始まっているように感じました。

僕の一番大きな誤解も しくは無知はこうした「底なし/無根底」は、明らかにキリスト教以前/以後(神は去った/神を追放した)が関わっていることを理解できていなかったことの ようです。それを抜きにして言葉としての「世界」や「世界の根底」を理解しようとしても無理だということでしょう。無論どこかでこれらの言葉は個人の生活 意識や社会的な認識とも関連してくるのでしょうが、やはりクリスチャニズムの只中にはいない自分にとって、なぜニーチェやハイデガーがあえて著作をものに しなければならなかったのかを理解しなければならないのだろうと思います。
幸い僕もリルケの詩集が好きで彼の汎神論的な思考を弄んだりしたことも ありますが、もう一度読み返してみます。ともかくスクリプトを書くために<にわか勉強>をしても追いつかないということがよくわかりました。スクリプトの 内容を改めるか、もっとじっくりと時間をかけてみます。
塩崎さんのお名前も會田さんの投稿でよくお見かけしています。できれば友人申請させていただきます。
取り急ぎの御礼となってしまいましたが今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

                            感謝。
                            岩名雅記  1月18日

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岩名さま

頂 いたお返事をまだ咀嚼し続けています。「自分と同じ生命を保ち、いのちが終わるまでは永遠に呼気吸気して息づく者を殺すためには、全身全霊で「他者を愛す る」のと同様に「他者を殺す」ことの意味を自身に問わなければ」ならない、にはどこか戦慄を覚えました。「にもかかわらず他者を殺さなければならないとい う想い/決意に至るのは、愛してやまない対象が突然、あるいは次第にその存在を断ち切られていく場合の巨大な「忿怒/理不尽」に限られると思うのです」と いう件でわたしが思い出したのは、かつて愛読していた勝目梓の小説でした。足抜けをした元ヤクザが恋人を殺されて組織に復讐するのですが、死んだ女のすで に硬直して乾燥した陰部にいとおしく口づけする場面は、どんな文学作品よりわたしの臓腑に染み付いています。テロリストとは異なりますが、「無明の穴ぼ こ」というわたしの中に巣食う仄暗い風景のひとつとして、岩名さんにぜひ読んで頂きたい拙文があります。これは1997年に奈良県の月ヶ瀬村で起きた少女 殺人事件に関する小さなレポートで、わたしはひょんなことから東京の雑誌編集をやっている知人よりこれに関する地元記事のコピーを依頼されて興味を持ち、 現地を訪ねてみました。この拙文はこれまでわたしがWeb上で書いた中でいちばん読まれているものだと思います。この殺人犯・丘崎誠人の「無明の穴ぼこ」 も、わたしがいまだ拭い切れないもののひとつです。なんとなく岩名さんに読んで頂きたいとふと思ったもので、失礼ながら。
http://marebit.sakura.ne.jp/oni.html

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Yosuke Aida様。 今、大阪に来ております。以下、ちょっと埋め草的な駄文で失礼ですが、お許しください。 『幼い頃には無邪気にかれの車に乗り込んできた少女が、ある時から「世間」という得体の知れぬ皮をかぶり、他の大人たちと同様にかれに冷淡に背を向け る。』 頂いた貴文の中のこの部分が一番自分にはこころ響いてきました。無垢な少女がやがて「世間」という衣装を纏っていく過程、それが良い衣であれば良いが、ま さに「世間」という暗黙のお仕着せ衣装を着込まされていくーー。 私はごく中流のサラリーマン家庭で育ち、父親は新発田から出てきて横浜の夜間中学に通いながら中級製薬会社の三等重役を全うして、今の私と同じ年齢で身ま かりました。私は父も母も敬愛していますが、こと社会的な意識については我が家庭についてものごころつくうちに次第に違和感を感じ始めました。 例えば母は何の疑いもなく「あの人は朝鮮だからねえ」「朝鮮人と結婚するなんてねえ」とか「最近は黒ンボも見かけるようになった」みたいな言動をごく普通 に吐くのです。兄弟たちは全くそれに違和感を感じていないようでしたし、今でもそうでしょう。 こんな中で育った自分が社会意識を陶冶していくことは出来ず、親や兄弟の意識の荒波の中で自分の純な?意識をかろうじて守り抜く程度のことしか出来なかっ たのです。なぜ自分だけが我が家庭の中で異質な意識を持ったのか?時折不可思議も感じながら反芻しております^^。 今回、来阪前は練馬の兄の家に二泊しました。歓待はしてくれるのですが既に兄の言動の端々に「こいつだけはおかしい」と私に対して注視の視線を解くことは ありません。私にとっては驚くべきことですが、朝鮮や中国への明らかな(差別意識と言ったら言い過ぎでしょうが)区別意識があり、それはあらゆる議論の根 底にあるのです。こうした意識が日本人の大勢を占めると仮定するならば、この日本の社会がどう動くのか、どの方向へと進みゆくか暗澹たる思いです。 駄文で失礼しました。 岩名雅記

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長 堀橋は災難でした(^^) わたしは会社が中之島なので、あのあたりも取引先があってよくうろうろします。今日は別件で京都に来ていますが。。 辺見庸が件の障害者施設大量殺人事件をベースにした小説を出したようですが、わたしはまだそれを読み込むだけの覚悟がありません。あの事件が起きた時、い までも覚えていますが何かじぶんでもよく分からない感情の波に呑まれて、わたしは夜中に車を出して紀伊半島の山中を夜通し走り続けていました。意味もな く。オウムやら何やらあったけれど、この国の意識はついに喫水線を超えてしまったのだ、という気持ちでした。あの事件についていつか書いてみたいと思いな がら時間が流れ、ですから辺見がそんな小説を出すと知ったときはさもありなんといったところでした。うちの現在不登校中の一人娘は生まれつき脊髄の神経の 不具合で軽い障害があります。そのことによって彼女が社会から受けている空気のような差別というものも、わたしはヒフ感覚で感じます。そのヌエのような 「善意の人々のある種のおそろしさ」が、この国の朝鮮人やハンセン病者や被差別部落といった人々への目線に拡大していきます。辺見がいうようにそこに世界 を見る中心を据えるならば、思考は戦闘化せずにいられない。やまゆり園で解き放たれたものは、じつは一見ふつうのこの国の人々の総体であるように思いま す。この国のテロリストはそうしたのっぴきならぬ裂け目から生まれ出でるような気がします。仕事の合間にこっそり急ぎ足で書きました。拙文をお許し下さ い。


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●「シャルロット すさび」再掲

  たとえばわたしの頭部を切り開いて指をつっこみ、ひっかかった端くれをひっぱり出したとしよう。ずるずるずるとさまざまなものが糸をひいて飛び出し、なら べてみれば、それはそれでひとつの物語を構成するかも知れない。わたしの場合であれば、たとえば障害者施設で殺された子どもや、鳶口を眉間に受けて倒れて いる朝鮮人工夫や、劣悪な環境のもと15歳で死亡した紡績女工や、不登校児や、動画中継をしながらホームに飛び込んだ高校生や、あるいは癩者となった小栗 判官を乗せた土車や、石もて追われる春駒や鉢叩き、処刑されたキリシタンや、公園の樹で首をくくった原発事故避難民の母親などが、未分化な細胞が集散をく りかえしながら徐々にかたちをなしていくように、奇妙な物語の糸を織る。そこでは時間も、空間も、感覚すらも独特なものだ。わたしたちが夢のなかで不思議 を不思議とも思わないで受け入れるように。奇しくもあたらしい「元号」が発表されるその日その時間に、大阪・九条のシネ・ヌーヴォで岩名雅記監督の「シャ ルロット すさび」を見たことは、わたしにとってひとつの抗いとなった。世間が新「元号」の発表にむなしく騒いでいる頃、わたしは岩名雅記という「昭和」 の最後の年に日本を飛び出したまま「平成」日本を知らない一人の男の頭の中を経巡っていたのである。それは心地のいい幻想であり、もうひとつの現実であっ た。フクシマの帰宅困難エリアの廃墟の建物で、水の入ったグラスに支えられた厚さ6ミリの硝子板の上ですべてを棄ててまぐわう男女。跳ね上がった男の精液 が硝子の上の蝿を浸し、獄中死した大道寺将司の句「実存を賭して手を擦る冬の蝿」がオーバーラップする。激しい交わりの果てに硝子は砕け、女の手に喰い込 み血がながれる。「まだ生きているのね、あなたも私も」 「ああ、充分生きてる。ガラスは僕たちの外にあっただけさ」 「私のからだも私のものじゃないの ね」  二人の交わりを自主避難エリアに取り残された被差別者が覗き込む。そしてもう一人。人狩りの果てに下半身をなくして据えつけられた台座の上で物乞 いをさせられているシャルロットだ。蝿は実存を賭して手をする。だがわたしたちには、すでに賭すべき実存すらもないのではないか。あるとすれば実存のひり ひりとした呻きのみ。崖っぷちの実存が呻き、疾走し、慟哭する。「私は砕かれたカケラ、小さくされたイノチ」 岩名監督はパンフレットのなかで、じぶんは この作品を「是非とも多くの方々に」観ていただくのではなく、「観る人を選ぶ」特権的な映画として売っていきたいと思っている、と語っている。要するに、 分かる人には分かるし、分からない人には永遠に分からない。「シャルロット すさび」は確実にそんな作品だ。まるでロベスピエールのように不遜で、ダント ンのように挑発的だ。どうせ夢の中だ。流れに乗っていけばいい。美しい風景と残酷ななみだに細胞の管という管を全開放して存分に味わえばいい。すると笑い もあり、随所にあそび心が隠されていることにも気づく。延々とくりかえされる二人の肉の交わり。それは気味の悪い明るさに占拠された現代日本への反逆でも ある。わたしたちはそれぞれの思想夢に於いて世界に抗う。たとえその思想夢を他人に覗かれたらギロチン台送りになるとしても。恍惚な三時間はあっという間 に過ぎた。テロリストは現世に帰還した。だがのっぴきならない現実は残る。おのれの思想夢のごとく生きよ。いわばこの作品は「正しい思想夢の見方と世界の 抗い方」とでもいったものだ。まるで梶井のすがすがしい檸檬のように、九条駅のどこかに爆弾を仕込んできた。(2019.4.1  大阪・九条シネ・ヌーヴォ)


2020.11.12

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 岩名監督のたましいがこの地上を去ってから、何やら世界がひとり分だけさみしい。昨日までいた人が、今日はいない。世界がひとり分、足りない。埋め合わせるものがない。今夜、わたしは庭で、ひいらぎの花の匂いをはじめて嗅いだ。
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 Director Iwana's soul has left the ground, and the world is lonely. No one was there until yesterday. The world is not enough for one person. There is nothing to make up for. Tonight, I smelled the holly flower for the first time in the garden.

2020.11.15

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 夜の枝にしがみついた枯葉に鼻を近づけるとほのかに死の匂いがする。だがそれは地に落ちてふたたび豊穣をなす甘美な死の芳香だ。一方でひとの死はただの 孤独な腐臭だ。豊かさは天にもたくわえず地にも落ちず資本に蓄積される。いつからそのようになったのか? ひとは一葉の落ち葉の豊かさにもとどかない。収 奪者は権力をもっている。

 
 When I bring my nose close to the dead leaves clinging to the branches at night, there is a faint smell of death. However, it is a sweet fragrance of death that falls to the ground and regains fertility. On the other hand, human death is just a lonely rotten odor. Abundance is accumulated in capital without falling into the heavens or the earth. When did that happen? A person does not reach the richness of one fallen leaf. The robber has power.
2020.11.17

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 かつて全き孤独のうちにいたとき、世界から脱落していたわたしは、ただ神という存在と語るよりほかにすべがなかった。思えばそれはもっとも甘美な季節であった。


When I was in total loneliness, I had fallen out of the world, and I had no choice but to say that I was a god. If you think about it, it was the sweetest season.
2020.11.19

 

 

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