087. 岐阜・県立美術館 「第10回 円空大賞展」

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■087. 岐阜・県立美術館 「第10回 円空大賞展」 (2020.3.8)

 




  
 
  たしかガンジス川での沐浴のシーンだったと思うが、藤原新也が「かれはいま、自然をわが身に写実している」という文章を添えた写真集があった。それに倣っ ていえば、道をたどるということはわたしにとってその土地を、その土地の記憶をわが身に写実することである。歩きでも、自転車でも、車でも、たどれば知ら ず、何かが肉体に映(はえ)る。細胞に記憶が転写される。道もまた、自然を写実しているのだ。自転車で奈良盆地を走っていると、心地の良い道というものが ある。知らず、その道をたどっている。川によりそい、集落をゆるやかにぬけて、丘陵地をまく。そうした道のはたには古い道祖神や神社や墓地などが点在して いる。行き倒れになって葬られた行商人を祀ったちいさな石仏もあるだろう。たとえ人知れぬ山中であっても、道はふみしだかれ、土地の記憶を蓄積していく。 かつて四国の山中には“かったい道”といわれる、ハンセン病者だけが通る道があったという。柳田國男は汽車よりも早い、山の民がつかう山中のハイウェイに ついて記している。それらは多彩な道のゆたかさでもある。山道をあるいていて詰まらないのは、いかにも重機で穿ったという味気ない林道だ。町中のバイパス や高速道路もおなじで、便利で早いけれど、何も写実できない。たしかに効率はいいだろう。けれどそんな道ばかりをたどっていると、ひとはいつか狂うのでは ないかと思うのだ。わずか50年か100年のうちに、ひとは写実することをしなくなった。ほんとうの豊かさが、きっとうしなわれた。

 岐 阜の県美術館で開催されている、安藤さんの作品と円空仏が添い寝した「第10回 円空大賞展」を、ずっと足踏みしていた。コロナ・ウィルス騒ぎもあるし、 それに岐阜はやはり遠い。役員をしている町内会のばたばたも重なった。前の晩にベッドで寝つくときもまだ迷っていて、けれど翌朝に目が覚めたとき、「この 国がそしてわたしたち自身があやういヘアピンカーブを抜けようとしているいま、安藤作品と円空仏の夢の共演に会いに行く以上に大事なものがあるだろうか」 と天啓が降(くだ)って、朝の7時に車を走らせたのだった。名阪国道をぬけて、長良川の堤を北上し、10時の開館直後には抜けるような青空の下の岐阜県美 術館の前庭にわたしは立っていた。

 「死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人ではない。一人一人が死んだのだ。一人一人の 死が、何万にのぼったのだ。」  「何万人、何十万人の不幸には、堪える方法がない。だから結局は堪えることが出来るということになる。小さな不幸には堪 えることが出来ず、大きな不幸には堪える法がない。人間は幸福か。」  南京での虐殺を一人の中国人の独白によって描いた堀田善衛の小説「時間」の、もう 何度も頭のなかを経巡らせている一節を思い起こしながら、足元の波のような「人型」を見つめる。「何万人ではない。一人一人が死んだのだ」  それは見知 らぬ他人ではない、わたしの妻であり子でありそのほか親しい人たちだ。無数の人型のなかから親しいものの姿をさがし始める。津波で流されたわが子を冷たい 遺体安置所の床に必死にはいつくばってさがす父親のように。福島の原発事故を描いた横何メートルもの大きなドローイングを背景に、飛騨高山・素玄寺の不動 明王(円空作)が立ち、その足元から川のように無数の「人型」があふれだし、「鳳凰」や「空気のはざま」と題された背の高い安藤作品がそのそちこちに屹立 している。わたしはなにも考えずにただ、「小さな不幸」と「大きな不幸」が折り重なるように、小さくも感じ、果てしなく大きくも感じるその空間を、ひたす らあるきまわり、たちどまり、手斧の刻みの一筋一筋をわが身に写実しようと思った。一時間以上もそんなことを繰り返していたら、あるときふと、足元に“な がれ”を感じたのだ。円空の不動明王から発した「人型」の波がこちらへあふれ出てくる先端の二箇所ほどに立つと、それをはっきりと感じた。それは前へ向 かって引きずり込まれるようでいながら、同時に後ろへ押し流されるような運動だった(あとで、津波の引き潮と上げ潮かも知れない、と思った)。その不思議 な矛盾する流れのなかにいると、「鳳凰」や「空気のはざま」と題された背の高い安藤作品は、渓流釣りでいう淵やトロ場といった場を磁力のように形成してい るのが分かる。流れのなかのエアスポットであり、空間に於いてはなにかを断ち切り、見えないシグナルを発信する塔のようにも思われた。また、こんな思いも 浮かんできた。前向きに引きずり込まれるのは過去だろうか。後ろ向きに押し流されるのは未来だろうか。ここでもやはりわたしは堀田の「時間」のあとがきで 辺見庸が記したことばに足元をすくわれている。「言うなれば、未来は背後(過去)にあるのだから、可視的過去と現在の実相をみぬいてこそ、不可視の未来の イメージをつかむことができる、というわけだ。 あったものがなかったと改ざんされた時間では、背中からおずおずと未来に入っていっても、なにもみえない はずである」

 もうひとつ、「第10回 円空大賞展」でわたしを魅了したのは、映像作家の羽田澄子さんが1977年に、岐阜の山あいの集 落に守られてきた樹齢千数百年の桜の老木を中心に、それをとりまく村人たちの生活を描いた42分の詩的映像作品「薄墨の桜」であった。会場内の片隅に暗幕 を垂らした小さな上映スペースでわたしはその作品をはじめて見た。きらめき流れる川の水、そのはたで山川草木南無阿弥陀仏のようにゆれている墓石、草いき れ、おそなえの飯と薬缶の水を手に観音堂の石段をのぼる村人、板敷きの吊り橋、桜の根元から掘り出された古い人骨、百年は生きる人もいるだろうが千年はも うだれも分からない、雨は生者の上にも死者の上にもひとしく降る。逼塞した息が吹き返すような思いであった。桜はまだ咲いていないだろうが、この集落の風 景のなかをあるいてみたいと思った。そうして、さらに一時間の道のりを車で走ってたどりついたロケ地の風景に唖然とした。あのつつましく風情のある集落の 景色はすっかり破壊され、大型バスが幾台も止まれるほどの広大な駐車場が村の傾斜地にいくつも造成され、桜とその一枝から彫ったという観音像を祀った堂を 囲んだ周囲は巨大な花見公園と化していた。コンクリートで固められた野外劇場があり、桜の資料館があり、「薄墨桜」を小説に書いた宇野千代の関連グッズの 売店があり、みやげ物や食事を売る店が並び、屋根付きのベンチや公衆トイレが立ち並んでいる。ある人がそれについて解説してくれた。「歴史を手触りとして 認識するには“読む”という媒介が不可欠だが、歴史を遺物というモノにしか見れない人には「消費」の対象でしかない。媒介的な思考がなければ歴史は存在し ないのと同じで、消費的な日常に回収されてあらゆる風景が荒廃していく」(塩崎春彦・文章は編集した)  別の撮影で岐阜県根尾川の上流の村を訪ねた羽田 が偶然、「人気のない山麓で絢爛たる花をつけている巨木の姿を」見つけたのは1960年代の終わりころで、撮影を始めたのはその3年後と書いている。わた しはじぶんのなかで何かがぼろぼろと落剝していくのを感じながら、空虚な桜のテーマパークと成り果てた集落を後にした。わたしが魅了され、訪ねもとめた風 景は、永遠にフィルムのなかに閉ざされてしまった。わたしがまだ幼少の時期であった1970年代の頃からきっと、この国はすこしづつこわれはじめていった のだろう。四季のうつろい、ひとびとの暮らし、つましい信仰、生と死、そうしたもののつながり(円環)のなかに数千年の桜の老樹は立って花を咲かせていた のだが、円環は断ち切られ、桜は大型バスで乗りつけて村を潤す観光客相手のあわれな見世物に成り下がった。そこには、写実するものはなにもない。

  桜の花の時期しか開いていないらしい、さびれた「桜資料館」のうすぐらい玄関先を覗き込んで見えた周辺の観光マップに「人形浄瑠璃の芝居小屋」という文字 を見つけて、帰りがけに立ち寄ることにした。山ぶかい根尾からもと来た道をひきかえし、並行する樽見鉄道がひらけた平野部にたどりついたあたりの集落の物 部神社の境内にあった。大きな倉庫ぐらいの建物で、親子がキャッチボールをしていた手前の敷地には興行日にはテントが張られ桟敷席になるのだろう。あいに く今年はコロナ・ウィルスの影響で中止になってしまったようだが、毎年、春分の日のあたりに地元の小中学生や保存会の人たちにより上演されているらしい。 鳥居近くには小さな公民館を兼ねた建物があり、そこで子どもたちが練習をするのだろう、スケジュールを書いたホワイトボードが据えられていた。すこしだ け、すくわれる思いがする。閉じられた芝居小屋をあれこれと覗いているうちに5時になって、子どもたちの帰宅をうながす放送が流れた。わたしは車に乗って 走り出す。大垣の市内を抜けて、揖斐川をさらに南へ。じきに夜になった。桑名からは行きかう車もすくない、山裾の丘陵地の暗いバイパスを無言で走っている と、まるでこのじぶんが円環を断ち切られ見世物にされたあの桜の老樹になったような心地がしてくる。路地をはなれた新宮のおばあたちは巨大なトレーラーに 乗って都市をさすらう。あの円空と安藤作品の展示会場で足元をすくわれそうになった流れについて考えてみる。数千年の根を断ち切られた老樹はいまさらどこ へさすらうのか。こうして闇夜のなかを走っているこの道ですらもわたしたちは、わずかな土地の記憶を写実することがもはやできない。根を断ち切られた人間 は、狂うだろう。暴力的に過去に引きずり込まれたわたしたちは、手足をもがれ、目や耳や鼻や口に砂をたっぷり詰め込まれた状態で、こんどは不可視の未来へ 向かって背中から押し出され奔流に流される。そのときに、古い呪文を解き放つあたらしいことばが必要だ。

2020.3.8

 

 

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