080. 奈良・橿原 映画「新聞記者」を見て一人称について考える

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■080. 奈良・橿原 映画「新聞記者」を見て一人称について考える (2019.7.20)

 




 

  明日は投票所の立会人をするため、はじめて期日前投票を役所で済ませた。選挙区は野党統一候補の西田一美氏、比例区はもちろん山本太郎氏のれいわ新選組。 ところで今日は朝から話題の映画「新聞記者」をユナイテッドシネマ橿原へ見に行ってきた。雨模様だったので車で行こうかと思っていたら娘の歯医者とかち あって車が使えず、電車で行くことにした。ちょうど一年前のこんな暑い日に高校1年生の少女がスマホで生中継をしながら特急列車に飛び込んだ近鉄のホーム から乗っていく。映画「新聞記者」は、それなりに愉しんだけれど、ひとことで言えばわりと平凡だった。スターウォーズの帝国軍との戦いのようで、骨が軋ん だり、小さな無数の縫い針が全身に差し込んでくるような痛みはなかった。それよりもわたしは前日の仕事帰りの電車内でやっと読み終えた「満州暴走 隠され た構造」(角川新書)で安富さんが「私たちは今、満州国に住んでいる」と書いていた方がずっと刺激的だった。また「日本立場主義人民共和国」の方が、映画 の安っぽい内閣調査室の描写よりもリアルな薄気味悪さを感じる。



『 その日本立場主義人民共和国の憲法、これが私が「立場主義三原則」と呼んでいるものです。

前文、「役」を果たせば「立場」が守られる。
第一条、「役」を果たすためには何でもしなければならない。
第二条、「立場」を守るためなら、何をしてもよい。
第三条、他人の「立場」を脅かしてはならない。

 この三つさえ守れば、日本では平和に生きていけます。

 かくして日本の陸軍・海軍は、特に陸軍は、暴走し始めました。この暴走システムを止めるには、だれかの立場を脅かさなければなりません。自分の立場も危うくしなければなりません。それは日本立場主義人民共和国では不可能なことなのです。できません。
 その結果、暴走は止まらず、
「いやあ、私は止めたいんだけど、走っちゃうんですよ」
 などと他人事のように言う。止まりませんから中国大陸奥深くへのめり込んでいきます。どんどん人が死にます、人を殺します。それも仕方ないのです。
 こうなるとさらに死んだ人の手前、止められません。「あいつは犬死した」などと口が裂けても言いたくないのです。なので、もう止めましょうとだれも言い出しません。本当はだれかが言ってくれるのを待っているのですが、だれも言わないのです。

 結局このようにして、日本国民全体が戦争に引きずり込まれて、そのツケはすべてごく普通の人々が払わされました。親・子・兄弟を戦地で喪う。国内にいても空襲で原爆で沖縄戦で殺される。家を焼かれ職や商売を失う。
 ところが原因をつくった暴走エリートたちは、(いくらかは戦犯などとして処罰されましたが)戦後ものうのうと生き残っていきます。皆で互いの立場を守ったのです。たとえば開拓団を推進した加藤完治は戦後も大活躍しました。勲章をもらって、園遊会に招かれています。
 こうした「立場上、あるいは自分の立場を守るために暴走した」連中は、実は結構生き残っているのです。そしてそれに引きずり込まれて酷い目に遭わされた人々が、保証も何もしてもらえないのです。


 人々は己の立場を守るためになんでもしました。その行動にどういう意味があるのか、効果があるのかよりも、「その行動によって自分の立場がどうなるか」 を優先して動いたのです。その結果、他人の土地を蹂躙して傀儡政権を作り、そこにまるで無駄な資金と資材と、そして人間をせっせと突っ込んですべて失う、 そういうシステムができあがり、それが暴走し続けました。 』


 安富さんは上記の本で日本と満州国が交わした「日満議定書」と戦後に岸信介がアメリカと結んだ新安保条約を重ね合わせて、「ガンディーが自分を含めたイ ンド民衆に感じた心性、「植民地化された魂」」について記しているのだけれど、映画「新聞記者」は残念ながらその深みには達していない。つまりこんな映画 などは「かれら」にとってはおそらく痛くも何ともない、市井でばらまかれる世情を面白おかしく書いただけの瓦版に過ぎない。本気で敵を撃つのなら最深部か ら、そしてわたしたち自身の暗闇の鏡像にむかってこそ矢を放たねばならない。映画館を後にしてまたぞろ電車に乗って高田へ出て、駅前のダイソーでアイルラ ンドのお守り用に皮ひもを買って、例の善正寺さんへお借りしていた「島村先生」関連の資料をお返しした。帰りのさびれた商店街で見つけた地元のスーパーの 入口に「キムチ・チヂミ 韓国の総菜」の看板を見つけて入ってみたら肉の棚にはさいぼしや油かすなども売っていて、さいぼし(バラ)、煮こごり、鶏皮湯引 き(ポン酢)、そしてきゅうりと大根の自家製キムチを買って昼も食べずに帰ってきた。前の晩に値切り品の豚ブロックと鯛のあらを買っていたのでそれから休 む間もなく台所に立って豚トロの大根煮と鯛のあらとごぼうの甘辛煮をつくって、ジップの散歩に行き、はじめに書いた期日前投票のために自転車で市役所へ行 き、娘と二人で夕飯を食べたそんな一日。さすがに疲れていてソファーで寝転がって新聞を見ていた寝入ってしまい、目が覚めてからユーチューブで森達也監督 のれいわ応援演説を見たらかれは「集団化」ということを話していた。みんなおんなじなんだよな、感じていることは。「集団の中では主語である一人称を失 う。でもれいわ新選組は一人ひとりがその一人称を持っている。わたしたちは一人称を取り戻さなくてはいけない」 そんなことを森監督はしゃべっていた。 「一人称」ならまかせてくれよ、そいつを手放したくないためにオイラはずっとキヨシローの歌のように笑われて、はじかれて、干されて、こぼれてきたんだか ら、オイラの「一人称」は筋金入りだよ。たとえこの先、れいわ新選組の全員が逮捕されて監禁されてナチスのような世の中が来たとしてもぜったいに手放しは しないさ。

2019.7.20

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  ふだん家ではテレビってほぼ皆無に近いくらい見ないんだけど、今朝はコーヒーを淹れてベーコンエッグをつくりながらリビングのポータブル・テレビをかけて いたら、NHKが今日が参院選の投票日であることをさらっと伝えていた。でもさ、「最終日まで各党、激しい論戦が交わされました」とか「改正の発議に必要 な3分の2の議席を維持できるかどうかが焦点です」とか、ことばがすでに死んでるんだよね。だから面白くもなんともないし、若者も聞く気が起きない。こと ばが臓腑に着地しない。逆に定型を食い破ってことばが生き生きとしてやたら面白いのが、今回の山本太郎と仲間たちだ。SNSやユーチューブ、そして各地の 街宣会場であれだけ盛り上がりを見せているのも、かれらが生きたことばを発しているからだ。映画監督の森達也氏がメディアに噛みついたのも爽快だったな。 塩崎さんの「名翻訳」では「おい、そこでカメラまわしてる奴、この映像いつ放映するんだよ。終わってからか?あ〜ん?終わったあとの選挙特番か?ここに集 まったみんなを悔しがらせるために撮りだめしてるんか?おい、黙ってカメラむけてんじゃあねえよ、こらぁ、答えろよ、このぼけ。お前らなにもんだよ、 ジャーナリスト?サラリーマンか?おまんまくえないから困るのぉって、家族と子供の前で言ってるんか。報道と、サラリーマンとどっちが大切なんだよ。お前 の子供が、このざまあみて、お父さん、お母さん、尊敬しますって、口がひんまがっても言わねえよな。この野郎、お前らみたいなのをペン乞食っていうんだ よ!」とそんなことを喋ったらしいが、その塩崎さんが「言葉は革命なんだ」と言うのもよく分かる。ミヒャエル・エンデさんが「あたらしい価値観、世界を言 い当てる呪文を見つける」と言っていたこともおなじ。言い当てれば、呪いは嘘のように氷解してしまう。それが、ほんとうのことば。いわば新聞もテレビも職 場も学校も役場もぼくらのまわりは嘘のことばばかりだったんだな。死んでることばが珊瑚のように積み重なってなんだか立派な形だけ見せていたわけだ。でも それも崩れ去ろうとしている。安富さんの現在のこの国の教育現場についての話を聞いていたら、学校に行けないままのうちの娘はじつにナイスな選択をみずか ら選んで手に入れて東大や京大に行くよりも正しい最先端の道をまさに歩いているんだと確信するよ。そしてそれはたぶん、間違っていない。氷に閉ざされてい たナルニア国に希望がもたらされた途端、氷が解け、川が流れ、植物が一斉に芽吹き、どこからともなく森の動物たちが現れ、鳥たちがあつまってくる。世界は 色を取り戻す。希望は生きたことばによって語られる。「なんでこれを報道しないんですか? ここにいるあなたたち、社にもどってプロデューサーと喧嘩して くださいよ」と森監督は言っていたけど、それはじつはわたしたちひとり一人のこと。作曲家の高橋悠治氏はかつて「かくれて生きよ」という文章のなかでこん なふうに書いた。「自立の道をえらんだとしたら、きみに起こるのはせいぜい、イノチがなくなるか、牢屋にはいるか、離婚されるか、コジキになるかでしかな いだろう。大きなくるしみはながくつづかず、ながくつづく苦しみはたいしたことはない。では、出発だ。」  生きたことばをとりもどそう。生きたことばを 話す人を信じよう。イノチをなくして、残るのはなにか。希望、だよ。

2019.7.21

 

 

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