066. 東京・亀有 小学校の同級生の葬儀に参列する

体感する

 

 

■066. 東京・亀有 小学校の同級生の葬儀に参列する (2018.6.10)

 




  はりついた顔。死はさいごのパフォーマンスではないか。新幹線代往復3万円を費やすだけの価値は充分にある。そんなふうに言うのは不謹慎か。ぼくらは死者 の一世一代のパフォーマンスを見に行く。そしてだれにも終わりはきて、いつかは灰になるのだ、と知る。わたしたちはみな「この世界を通りすぎるだけの寄留 者」なのだ、と。Yは幼稚園から高校の途中までいっしょだった。高校の途中というのは、わたしが高一のときに家が東京から茨城へ引っ越して、転校したから だ。その茨城北部の海岸沿いの家へ高校のときAと二人で遊びに来たと、Aは言うのだが記憶がない。電車好きな二人が常磐線の車両を愉しんだらしいのだが。 そしてそれが、わたしがYに会ったおそらく最後だ。母親同士が“親友”だったのでわたしはその後、母からYの話(かれの家族の話)をときおり聞いた。Yと 二歳下の弟が学校を出て働き出してから、「ずっと我慢をしてきた」Yの母は夫と離婚し、息子二人といっしょに綾瀬の公営団地へ移り住んだ。父親はその後、 病気で亡くなった。Yの母は、母親たちのなかでいちばんの別嬪さんだった。わたしに大量の北杜夫の蔵書を呉れたのもYの母親だ(それはいま、わたしの娘が 大事に読んでいる)。千葉の八柱にある都営霊園がいっしょだったので夫の墓参がてら、事故で死んだわたしの父の墓参を毎年二回、欠かさずに立ち寄って掃除 をしてくれた。その彼女ももう何年もむかし、癌で亡くなった。それからは兄弟二人きりだ。今回のYの訃報は、母親つながりでYの弟からわたしの母へ知らさ れた。始発で郡山を出て、亀有に着いたのが9時過ぎ。告別式の会場は駅の南口からむかしながらの商店街を抜けた先、かつてヨーカドーがあった付近の葬祭 ホールだった。式場でAと合流した。すでに40年以来で互いに顔の識別すら困難な弟が、兄の病状の経緯をまとめた紙を呉れた。2016年夏にめまいと手の しびれで受診し、右脳に悪性の腫瘍が発見された。すぐに頭開手術を受けるが、「腫瘍部が運動機能をつかさどる部分と干渉、腫瘍はほとんど切除できず」。そ の後、放射線治療や投薬、リハビリ等で転院をくりかえし、いったんは本人の希望で一人暮らしの自宅(千葉県松戸市)へもどり外来通院に切り替えるが、手の しびれ、「認知症患者のような異常行動」によって再入院。2017年7月に要支援1の認定、8月に介護付き有料老人ホームへ入居。11月に賃貸契約の自宅 を解約して弟の家に住民票を移し、12月に有給休暇取得、休職の規定期間満了によって勤務先を自主退職。2018年5月21日、白血球数値低下による「状 態不良」により緊急入院。23日、「比較的良い状態での最後の見舞い」。31日、「最後の会話。※寝ているが起こす。父親の命日前日の墓参の帰りであり、 写真を見せると感謝の言葉。寒気がするとのこと」。6月5日、状態が悪化し医師から、「腫瘍の浸潤によるものか脳幹にむくみがみられる」説明があり、人工 呼吸などの延命措置はとらない旨を希望、「翌朝まではもたない見込みであると示唆される」。そして6月6日、午前4時臨終。弟はこれらの経緯を親類縁者に も一切つたえず、最後まで兄弟二人だけの生活とした。最後にかれは記している。「ご多忙中にもかかわらずご列席してくださいまして、誠にありがとうござい ます。事前に罹患したことの連絡もせず、突然の報告となりましたことにつきまして、まず初めに深くお詫び申しあげます。臨終の際には、自分の目からは顕著 な苦しみを感じているようには見えませんでした。病気の特性として、内臓系の癌にあるような痛みはなく、この点では不幸中の幸いであると考えております。 入院先・通院先や生活の場としたホームにおきましても、スタッフの皆様へ面倒をおかけすることもなく、心中は不安だらけであったと察しますが、最後まで今 まで通りの兄らしかったと思い、闘病生活を通じて、よく頑張ったと言ってやりたい心境です」  前の晩、つれあいが喪服一式を用意してポケットに数珠もい れてくれていたが、朝になって「喪服など着るものか」と思った。ふだんのグレーのスーツで、黒ネクタイも持たず、ただYにさよならを言いにいきたかった。 弟が書いた闘病の経緯を、わたしは亀有をはなれる直前にひとり、親子連れで賑わう亀有公園のベンチに座って読んだ。わたしの知らない濃密な時間。最後の時 間。もとい、高校以降の30年近いYの生き様もわたしはほとんど知らない。それでもYはYだ。小学校の全校集会で、優等生のAは東海道本線の駅名をすべて 言ってのけてみなを驚嘆させた。続いてお立ち台にのぼったYは「電車の走り出す音をやります。ガッタン、ガッタン、ガッタン・・」と言い出してみなを ちょっとだけ笑わせた。つまり、Yはそういうやつだった。中学になって陸上部に入ったけど、誰かに誘われて断れなかったんだと思う。グランドで「おい、 Y。何々を買って来い」と使われているYを何度か見た。それでもやめずに練習に励んでいたのもかれらしい。中学になって、ぼくはビートルズやディランの音 楽を聴き始めていたから、Yとは別のグループだった。でもみんな、Yのことを愛していた。愛されるキャラクターだったのだ。高校になって、なぜかもう一人 のクラスメイトと三人で横須賀に戦艦三笠を見に行ったことがあったっけな。わたしがよく学校をさぼって、不忍池で太宰などを読んでいた頃だ。告別式の途中 で入ってきて焼香だけ済ませてすぐに出て行った男がいた。「アサダ・ユウジだよ」とAがわたしに囁いた。「アサダ・ユウジって、あの陸上部の?」 「そ う」 「ただの禿げ頭のくたびれたオッサンじゃないか!」  「みんなそうなるんだよ!」  小さな式場はぜんぶで20人ほど。ほとんどは福島から来たら しいYの両親の親戚関係で、友人はわたしとAだけだ。シンプルでじつにいい。祭壇に飾られたYの遺影も、やはりくたびれたオッサンだ。わたしの記憶の中の Yとは異なる。ただ The Band のリチャード・マニュエルのようにニヤリと曲がった口元はむかしのYだった。病院で着るパジャマのような服を着て、右手が前に伸びているようにも見えるの で、もしかしたら入院中に自撮りしたスマホ画像かも知れない。悪性の腫瘍であることは告知していなかったそうだが、薄々は分かっていただろう。どんな気持 ちで撮ったのだろうかと、カメラを見つめるYの顔を見ているとつらくなってくる。出棺の前に、花を入れた。さよならを言いながら額に指を当てたが、硬く、 冷たかった。もうここにはYはいないのだろう。ここにあるのはただの抜け殻だ。それでもこの抜け殻は、わたしの知っている小中学生の頃のY、わたしの知ら ないその後のYの人生を蓄積している。たくさんの時間を溜め込んでいるはずなのに、やけにちいさく縮んで見える。花屋が色花を切っている間、待っていた控 えのスペースの窓際にはYが撮ったらしい電車や客船の写真、箱入の「旧国鉄色」などと書かれたゲージモデルがいくつか置いてあって、ずっと好きだったんだ なあと言いながらAと二人で眺めていた。それから出棺を見送って、亀有駅の方へもどり、老舗の蕎麦屋でAと昼食を済ませてから、ケーキを買ってAの家へ 寄った。3歳の腕白小僧と遊んでいたらけっこう疲れてしまい、ひさしぶりの東京だけれど、どこにも寄らずにそのまま東京駅から夕方の新幹線に乗って帰途に ついた。なんせ、今朝は4時起きだ。そうして夜9時頃に帰って、元紡績工場跡地の母親の団地に寄って香典返しなどを渡し、家に帰って遅い夕飯を食べていた ら東京発大阪行きの新幹線車内で刃物を持った男の無差別殺人のニュースだ。滅多刺しにされて亡くなったのは30代の大阪の会社員とも聞くが、わずかな偶然 でわたしであったとしてもおかしくはなかった。だれにも終わりが来て、みないつかは灰になる。考えてみたら、これまで死に顔を見てきたのはじぶんの親の代 以上の年寄りばかりだったよ。同級生の死は、Yがはじめてだ。だれもがみな、いつか灰になることをかれが思い出させてくれた。それがYがぼくに見せてくれ た最後のパフォーマンスだ。はりついた顔は二度と剥がれない。いまごろはもう灰になってしまったYよ、この世界ではさようなら、だ。

2018.6.10

 

 

 

体感する