062. 東近江 太郎坊宮に登る

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■062. 東近江 太郎坊宮に登る (2018.4.21)

 




  「修祠場」と記された黒塗りの素朴な説明版が、竹林の陽だまりにぽつねんと建っている。ひそやかな逢瀬の場所のようだ。古代の神々の集う秘所だ。こんなと ころを訪ねてみたい、と思った。そんな一枚の写真から旅は始まった。土曜の早朝、京都から米原行き。近江八幡で降りて、ローカルな近江鉄道にゆられて無人 の太郎坊宮前駅でおりる。そこから石の鳥居をくぐって、参道はまっすぐに岩窟を抱いたすり鉢山へと続いている。明るい田畑に囲まれた人っ子一人いない静か な並木道だ。これは何かの謀略ではないか。どこまでも続く急な石段を鎖でつながれたチェインギャングのようにあえぎ、のぼる。汗が身体の中の毒素を吐き出 す。大方ちんけな虫けらのような毒だ。阿賀神社(太郎坊宮)を抱いた赤神山は古くから修験の山であった。この山の魅力は天狗でなくても分かる。わたしなら 世を捨てて山にあそぶだろう。約7千年前の盛大な火祭りの痕跡だ。山中の道をまちがえて気がついたら宮の背後の、地上よりも天に近い神体岩の背後にへばり ついていた。空と岩しかない。あとは跳ぶしかない。跳ぶことによって失うもの、得るものについて考えた。しばらく大地と格闘し、命からがらふるえる足で地 面におりたって、次に向かったのは聖徳太子創建の伝もある瓦屋寺だ。箕作山山中の、ジャングルに埋もれたアンコールワットのような忘却の寺だ。広い境内に は苔が照り返し、寂れた路傍の仏が不在の影のように佇んでいた。開け放たれた地蔵堂の前にすわって、己が無住の寺の僧になったような錯覚を覚えた。日溜ま りにごろりと仰臥した。石に変じた。風に成った。瓦屋寺からふたたび山中の道にもどり、あとはひたすら眺望の少ない、林の中のあかるい尾根道を黙々と縦走 する。行き交う者はほとんどいない。わたしはいつしかじぶんが土の中のミミズや落ち葉の下に眠る幼虫のような心地になり、あるいは樹幹を駆け上る水のよう に思えたりする。葉脈から飛び出した目に飛び込んできた樹の間の光りに酩酊する。悪い予感のかけらもない。箕作山、小脇山、岩戸山と経巡り、十三仏をぬけ て下っていくごつごつとした石段の両側には、いつしか四国霊場を模した石仏たちが迎えている。あちこちの岩や木に紅白の布をまきつけ、岩室の下には巨大な 塩のかたまりが据えてある。ここは近江の恐山だ、死者の国だ、と坂道を下りながら思った。すると霊場入口の竹薮で出くわした近在の老夫婦が、あの石仏たち はもともと日清日露の戦死者を祀ったのが始まりだ、と教えてくれた。そして、あの竹林の奥へしばらく行けば7つの家の祖先を祀っている場所がある、と指を さした。その入口には「山の神」と書かれた石に男女二体のこけしのような木偶(でく)が寄り添っていた。箕作山にやはり竹林はあった。円墳のような紅粕山 のぐるりを巻き、金柱宮跡を見に行った。梁塵秘抄に「新羅が建てたりし持仏堂の金柱」とある。このあたりに残る狛長者伝説の狛(こま)は朝鮮半島・高麗の 国の人だという。湖東のこんなのどかな里にも渡来の匂いが濃い。冒頭に書いた「修祠場」はこの金柱宮の大祭のときに「各字から持ち寄った神器を一同に集め て神儀を行なった場所」である。そこは竹林の中の小路が三方から交差する広場で、落ち葉と中央に石ころがごろごろしている、それだけの空間だ。それだけの 空間なのになぜか妙になつかしい。死んだ父や会ってもいない祖父がここにいたような気がする。くたびれた足をひきずって舟岡山から市辺の無人駅にたどりつ くと30分に一本の電車が行ったばかりだったので、駅の向こうに見えた共同墓地へ移動して時間をつぶした。駅にもどりベンチでじきに来る電車を待っている と声をかけられた。近所に住む画家のFさんだった。もうじき農地の区画整理で消えてしまう田んぼの中の野神さんを見にいきませんか、とFさんは云うのだ。 やってきた電車を捨てて、二人でFさんの仕事用の軽ワゴンに乗り込んだ。太郎坊宮の赤神山をのぞむ平地の真ん中にモチノキが数本、ひょろひょろと林立して いる。風が四方からあつまってきて、わたしはなぜか賢治の「風の又三郎」の源流にもなったといわれる八ヶ岳にある「風の三郎社」を想起していた。ああ、こ こでこの場所でFさんと二人で立っていた日のことをわたしはきっといつまでも忘れないだろう。今里の野神さんはそんなどこにでもある場所だ。むかしはこん な気持ちのいい風の通い路がどこの集落にもあった。 八風街道を西へ抜ければ琵琶湖の手前で朝鮮人街道へ合流する。かつてその道を通った朝鮮通信使の行列に一頭の象が花を添えたそうだ。

2018.4.21

 

 

 

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