055. 奈良豆比古(ならつひこ)神社 翁舞

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■055. 奈良豆比古(ならつひこ)神社 翁舞 (2017.10.9)

 




 奈良豆比古(ならつひこ)神社の翁舞は念願、であった。ずっと見たかったのだけれど、いつもたいてい仕事とかぶっているか、気がつけば終わっていたりし て見る機会を逃していた。神社は以前にいちどだけ、訪ねたことがある。本殿裏のまるで古代井氷鹿一族の奥宮のような冥いすり鉢上の窪地に樹高30メートル もの枝葉をひろげた巨大な楠の木を見上げて身震いをした。愛車のクロス・バイクで夕暮れの郡山を発して、北山十八間戸、少年刑務所、般若寺などを通り過ぎ て一時間前に着いた頃には日はとっぷりと暮れている。やがて薪に火がくべられ、まばらだった人の姿もかなりふくれあがってきた。おりしも帰り道にお邪魔し た寮さんのならまちの事務所で、オーストラリアのアボリジニたちの八百万精霊ダンスやアイヌの歌のアニメーションを見せて頂いてから、八ヶ岳のふもとで発 見された縄文土偶(仮面の女神)や諏訪地方の御柱信仰のルーツについて深夜まで語り合ったが、この国の芸能の始原のかたちともいわれる翁舞を目の当たりに してわたしが感じたことは、じつはそうしたものに近い。ときにコミカルな、ときに深遠な所作をまとった舞をわたしは実際、宇宙的、と感じたのであった。エ イリアン(alien)を仮に異郷者とでも訳したらいいか。それは縄文期にこの国のそちこちの高所で巨大な御柱を大地につき刺し、おおいなる存在と交信を こころみたその心性と重なる。翁舞とはなにか。

施基皇子の子で光仁天皇の兄弟にあたる春日王が「癩」に罹患して奈良北山の地に身を隠した。父を慕う春日王の二人の皇子、 浄人王と安貴王が同道し、浄人王は祖父の施基皇子から伝えられた、神功皇后に由来する大弓作りの技術を生かして弓を作り、安貴王は草木花を育て、ともに奈 良市中に売って生計を立てて父王を養った。春日王の死後これを知った桓武天皇は二人の孝心を愛で、弟の安貴王は都に召し出して官位を与え、兄の浄人王はこ の地に留め、弓削の姓を与えて春日王を祀る春日社(明治初年以降は奈良豆比古神社)の神官をつとめさせた。

 はじめに奈良豆比古神社にまつわる上のような伝承がある。かつて代表的な非人集落であった奈良坂についてはこれまでも折々に触れてきた。この奈良豆比古 神社を「サカの神=奈良坂に坐す神」と解いたのは柳田國男であるが、かれは「サカ(坂・境)・サク(避・裂・避)・サケ(同左)・サキ(崎・尖・岬)・ソ コ(底・塞)などはいずれも同根の語で、“隔絶”を意味」し、それは「民俗学でいう“境界”と同意」であるという。一方、非人集落を示す夙(シュク)につ いて「シュク(宿)の元の音はおそらくスクで都邑の境または端れを意味し、具体には村はずれ・河辺・坂・峠などを指し、そこは人の住むには適しない辺境 で、神や精霊といった霊的なもの(宿神・夙神)が往来し居付く聖なる場所とされていた」 「また、そのような辺境には、一般社会から阻害・排斥された人々 (不治の病、特に癩病を罹病した人・旅の芸能者・一般放浪者など)が集まり集落をつくり生活していたが、集落を宿(シュク、後に夙の字を充てた)、住民を 宿人・夙人(シュクウド)と呼んだ」と記している。春日王の伝承は、そのような人々がみずからの出自を貴種流離譚に仮託した矜持の物語であった。翁舞はか れらの内より生まれた。

 神にして人語を発する者あるは、海のあなたより時を定めて来り臨む常世神トコヨガミにはじまる(「まれびとととこよと」参照)。此神は元々人間と緻密な 感情関係にあるものと考へてゐた為に、邑落生活を「さきはへ」に来る好意を持つと信ぜられてゐたのであつた。事実に於いて、常世神の来訪は、ある程度の文 化を持ち、国家意識が行き亘つて後までも行はれてゐたのである。神々が神言を発する能力を持つてゐると考へる様になつたのは、当然である。

其為に時としては却かへつて逆に、古い世にこそ、庶物の精霊が神言をなしたものとすら考へる様になつた。「磐イハね」「木キねだち」「草のかき葉」も神言 を表する能力があつたとする考へが是である。我が古代の言語伝承に従へば、之をことゝふ或はことゝひすると称へてゐた。併しながら「ことゝふ」なる語の原 義に近いものは、唯発言する事ではなかつた。「言ひかける」と言ふ原義から出て、対話或は問答を交へると言ふ義も持つてゐたらしい。「しゞま」を守るべき 庶物の精霊が「ことゝふ」時は、常に此等の上にあるべき神の力が及ばぬ様になつてゐる事を示してゐる。即すなはち神の留守と言つた時である。其時に当り、 庶物皆大いなる神の如くふるまふ状態を表すのである。だから、巌石・樹木・草木の神語を発するのは第二次の考へ方で、此等皆緘黙するものとしたのが、古い 信仰だつたのである。

(折口信夫・「しゞま」から「ことゝひ」へ)

 わたしはひそかに翁舞とはこのような始原の場所から生まれ出でたのではないか、と考えてみる。奈良坂などの非人集落シュクの重要な役割である「清目」か ら、観阿弥・世阿弥の本名「清次・元清」に着目したのは水本正人である(「宿神思想と被差別部落」)。結崎(現在の奈良県磯城郡川西町)を拠点とした観世 座は春日大社や多武峰の神事に猿楽を奉納していた。「猿楽は、生きものである国家の嘆きを清めたのである。しかし、世阿弥の時代になると、猿楽は民衆の中 に浸透しており、鎮護国家のための猿楽ではなく、民衆一人ひとりの嘆きを清めるための猿楽になっている」 ついで水本は金春禅竹が記した『明宿集』、「翁 を宿神と申し奉る事」の条の「日月星宿ノ儀ヲ以テ宿神ト号シタテマツル」を引き、宿神とは星宿神すなわち北極星であり、易にいう天地未分化の混沌たる状態 の太極であり、陰と陽が派生する混沌とした根源であると記す。水本はさらに云う。

一つの面の中に、すべての感情が入っている。それが能面なのである。したがって、能面は、それをつけて演じる者の演じ方によって、怒りの面にも、喜びの面 にも、悲しみの面にもなる。私は、ある写真と出会うことによって、能面のすごさに気づいた。1992年にフランスの旅客機の墜落事故があり、多くに人が亡 くなった。その事故で、九死に一生を得た人の写真が新聞に載っていた。その人の表情が、まさに能面なのである。地獄を見た悲しみ、助かった喜び、こんな目 に会った誰にもぶつけることができない怒り、などの感情が、その顔にあった。まさに極限状態の顔だ。能面の作者は、この極限状態の顔を知っている。そし て、その顔を再表現する技量があった。すごいことではないか。

千秋萬歳はもともとは笑いを誘う芸である。ただし、「人間が笑う」というのではなく、「神が笑う」のである。千秋萬歳の核心は、人間が神来迎のまねをする ことにある。そもそも人間は神を知らない。その人間が神のまねをする。神から見れば、滑稽このうえもないことだろう。しかし、神そのものを知ることはでき なくても、神と人間の関係に触れることはできるのではないだろうか。人間は、神と人間の関係を人間と猿の関係で推し量ったのである。人間は、神を笑わすこ とによって、神の心を開けたい。そして、人間の願いを神に伝えたいのである。千秋萬歳は、神を笑わすことによって、「稲穂の稔り」を神に伝えたのである。

(水本正人・宿神思想と被差別部落)

 奈良坂北山宿の濃い闇にうかびあがった舞台の上で、しずしずとかしこみ、おごそかに舞い、またユーモラスに跳ねる翁面は、わたしのような不信心な者に あってもなにかおおきな宇宙的存在の前で交信をこころみている異郷者のように見えた。宇宙的な合一を夢見ている原初の祈りのかたちとでもいおうか。それは とてもスリルに満ちた経験だった。かつて癩者の世話をし、死んだ牛馬の皮をそぎ、罪人の首を撥ね、葬送の一切に従事し、人間以下と賎視され差別され続けた 人々のかたわれが根源たる翁の面をつけ、神を笑わせるために舞ったのだ。すばらしいではないか。

 

▼奈良町北郊夙村の由緒の物語 pdf
http://www.pref.nara.jp/secure/14191/r51.pdf

▼奈良豆比古神社(奈良市・奈良坂町・奥垣内) エナガ先生の講義メモ
http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/47322300.html

▼奈良豆比古神社 難波能面クラブ
http://www.y-tohara.com/nara-naraduhiko.html

▼折口信夫 神事舞踏の解説としての能/「しゞま」と「ことゝひ」の中のシテとワキ
http://uedanobutaka.info/official/2013/08/21/%E6%8A%98%E5%8F%A3%E4%BF%A1%E5%A4%AB%E3%80%80%E7%A5%9E%E4%BA%8B%E8%88%9E%E8%B8%8F%E3%81%AE%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E8%83%BD%EF%BC%8F%E3%80%8C%E3%81%97%E3%82%9E%E3%81%BE/

2017.10.9

 



 

 

 

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